一 高等教育計画の必要性

 戦後のいわゆる第一次ベビーブームの時代に生まれた世代が十八歳に達した昭和四十一年度をピークに、その後、十八歳人口は減少傾向をたどるが、折からの経済の高度成長を背景とした産業界の人材需要の拡大や国民の所得水準の上昇とそれに伴う高等学校進学率の上昇などにより、国民の大学等への進学意欲は高まり、高等教育は量的に拡大した。

 しかしながら、このような高等教育の規模の急速な拡大は、反面において大学における教育研究条件の低下や大学の大都市への過度の集中に伴う進学機会の地域間格差の拡大などの問題点をもたらした。

 国公私立の大学及び短期大学の入学定員超過率で見ると、四十年度には一・四四であったが、その後徐々に悪化し、五十年度には一・五九に達したことから、大学等は「マスプロ教育」などと批判される状況を招くこととなった。また、五十年度に三大都市圏(南関東、東海及び近畿)に所在する大学、短期大学の在学者数は約一五五万人に上り、その割合は全国の大学、短期大学の在学者数の七四%を占めるなど大都市への集中と進学機会の地域間格差が見られ、かつ、専門分野の構成にも不均衡を生じていた。

 ところで、関係者の間では、早くからこのような状況の進展を予期し、高等教育機関の全体的な規模や配置の計画的整備が必要であるとの認識が広まっており、既に、三十八年一月に中央教育審議会の答申は、高等教育機関の計画的な整備の必要性を提案していた。さらに、四十二年七月から審議が開始された中央教育審議会の「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」の答申では、高等教育機関の設置経営に国費の援助が不可欠であることを考慮するならば、一定の国の財源によって援助効果を最大限に発揮するために、高等教育の全体規模、教育機関の目的・性格による区別、専門分野別の収容力の割合、地域配置などについて長期の見通しに立った計画がなければならないとし、高等教育の整備充実に関する基本計画の策定の必要性を強調している。

 文部省はこれを受けて、翌四十七年四月、大学学術局に高等教育計画課を設置するとともに、六月に、大学人だけでなく広く各界の有識者の参加を得て高等教育懇談会を設け、高等教育計画の検討に着手した。

 高等教育懇談会は、五十一年に高等教育の計画的整備についての報告をまとめたが、この報告は、初めて大学の拡充の抑制を打ち出し、量から質への転換を提言した点で画期的な意味を持っている。しかも、ほぼ時期を同じくして五十年に私立学校の経常費助成に法的裏付けを与えるための私立学校振興助成法が制定されるが、経常費助成との関連からその附則により私立学校法の一部改正も行われ、私立大学の学部の学科及び収容定員に係る学則の変更が届出制から新たに文部大臣の認可事項とされ、安易な学生増に規制を加えるとともに、五十六年三月末までは原則として私立大学の設置、私立大学の学部又は学科の設置、収容定員の増加に係る学則の変更についての認可は行わないこととされ、量的拡大に対する一定の規制と私立大学の質的改善が図られた。

お問合せ先

学制百二十年史編集委員会

-- 登録:平成21年以前 --