四 教職員団体の動向

日教組の反対闘争

 日本教職員組合(日教組)は、昭和二十年代後半から、国の文教行政と対立し、新しい文教施策が採られるごとにストライキを含めた激しい反対闘争を展開してきた。三十年代には、勤務評定の実施阻止闘争(三十二年~三十四年)、道徳教育を含む学習指導要領の改正に対する反対闘争(三十三年~三十五年)、全国学力調査反対闘争(三十六年~三十七年)などの反対闘争がある。四十年代後半になって、日本労働組合総評議会(総評)、日教組等はスト権奪還を目標にストライキ等の実力行使を拡大し、また、裁判、公務員制度審議会及び国際労働機関(ILO)の場に持ち込んで闘争を展開した。

 四十九年四月十一日、日教組は、春闘の統一行動の一環として、スト権奪還、賃金引上げなどの目的を掲げて全国的規模で約三〇万人参加の全一日ストライキを行った。これに対し、検察・警察当局は、これらの違法行為をあおる等をした組合幹部の行為が地方公務員法第六十一条第四号に該当するとして、約二〇名を逮捕し、そのうち四名(当時の日教組委員長ら組合幹部)を起訴した(四名のうち三名は、平成元年及び二年の最高裁判決で有罪確定)。

 一方、裁判においては、公務員の争議行為をめぐる憲法上の解釈をめぐって最高裁判所の判例上の変遷があり、公務員の職務の公共性と争議行為の態様とを勘案して罰則を適用する必要があるとの限定解釈説を採る最高裁判決があって、勤務評定の実施阻止闘争をめぐる都教組事件の東京地裁判決(四十六年十月)で都教委側が敗訴するなど混乱した状況が見られた。これに対し、四十八年四月の全農林警職法改正反対闘争事件に関する最高裁大法廷判決は、公務員の争議行為の全面一律禁止を定めた現行法の規定は合憲との判断を示し、従来の限定解釈の考え方を変更した。五十一年の岩教組事件の最高裁判決もこの判断を踏襲し、これによって、裁判上の問題には事実上終止符が打たれた。公務員の争議権については、公務員制度審議会においても審議が行われ、四十八年九月の答申において、非現業公務員のスト権については三論併記という形になったが、同年四月の最高裁判決を踏まえ、争議権の問題について憲法解釈をめぐる論議を避けて、立法政策の問題として解決すべきことを基本認識として示している。

 また、ストライキによる懲戒処分をめぐっては、ILOへの提訴問題があり、四十六年の国鉄労働組合(国労)等の提訴に始まり、四十八年には日教組、日本高等学校教職員組合(日高教左派)等の大量提訴があった。四十八年から四十九年にかけて採択されたILO結社の自由委員会の報告では、政治ストは結社の自由の原則を逸脱するという指摘がなされるなど、基本的には日教組等の態度に厳しく反省を迫るものであった。なお、四十九年には、同年四月の統一ストによる当時の日教組委員長の逮捕をめぐってILOへの提訴が行われたが、五十三年に、結社の自由の侵害とは言えないとの報告が採択されている。

日教組の分裂

 昭和五十年代になっても、日教組のストライキ闘争は続けられ、五十年からの主任制度化・主任手当支給阻止闘争等により、ストライキを反復実施した。このような長期にわたるストライキ闘争により懲戒処分を受けた教職員は多数に上り、この支援のための組合費負担も高まり、労働運動に対する無関心層の増加とあいまって、日教組の加入状況は大きく低下してきた。三十年代には九〇%近くを占めていた日教組の組織率は、六十年には五〇%を下回り、特に新規採用教職員の加入率は三〇%程度で組合離れの傾向は著しくなった。

 他方、労働界全体が総評・全日本労働総同盟(同盟)などに分立している状況を再編統一する動き(労働戦線統一問題)が、五十七年ごろから民間労組先行で進行するに及び、この問題に対する日教組方針をめぐり、主流派と反主流派が激しく対立し、更に主流派内部からも執行部批判がなされるなど、複雑な内部対立を生むこととなった。このような動向の中で、六十一年度が委員長はじめ本部役員の改選期に当たっていたが、主流派内で委員長人事をめぐる対立が激化し、六十一年度の定期大会を開催できないという状況となった。その後も、委員長人事問題に労働界再編統一の動向に対する路線問題も絡み、定期大会が開催できないという混迷の状況(いわゆる「四〇〇日抗争」)が続いた。総評が調停に入ったことで、人事・路線問題に関する一定の合意が主流派内でなされ、六十三年二月に六十年七月大会以来、二年七か月振りに第六四回定期大会を開催し、役員人事・予算等を決定して麻痺していた本部機能を回復した。

 しかし、その後も、労働界再編統一に対する対処方針(「日本労働組合総連合会(連合)」への加盟問題)をめぐり、日教組の内部対立は混迷の度を深めた。平成元年九月の第六八回定期大会において、日教組は連合加盟を正式に決定したが、この大会は反主流派教組の大半のボイコットにより事実上の分裂大会となった。一方、反主流派教組は同年十一月、全日本教職員組合協議会(全教)を結成、日教組も同年十二月の第七〇回臨時大会で全教加盟の教組を事実上の除名処分とすることを決定し、これにより日教組の分裂が確定した。この日教組の分裂は、各都道府県(高)教組段階の分裂・新組織結成の動きに波及(現在までに二三県において分裂)すると同時に、日教組の組合員数は激減して約四二万人(組織率約三六%)となり、現在では非加入者の占める割合(約四〇%)を下回る状況となっている。

 日教組は平成二年六月、連合加盟後、組織分裂後初めての定期大会(第七二回定期大会)において、「参加・提言・改革」のスローガンを打ち出し、翌三年七月の第七三回定期大会では、対話と協調を基本としたよりソフトな表現の運動方針を決定するなど、従来の「反対・粉砕・阻止」の姿勢を現実路線に改める旨を標傍(ぼう)しているが、運動方針の各論部分では、依然として初任者研修、学習指導要領、国旗・国歌、主任制度などに基本的には反対の姿勢を示しており、国の教育政策に反対する姿勢自体に大きな変化は見られない。また、四年三月の第七四回臨時大会では、法人格取得のための規約改正(大会決定事項から「争議行為に関すること」を削除するなど)を行ったが、同大会で決定した春闘方針では、ストライキ闘争をやめるとはしていない。

その他の教職員団体の動向

 全日本教職員組合協議会(全教)は、連合の結成と同時期に結成された反連合の全国労働組合総連合(全労連)に加盟し、同じく全労連加盟の日高教左派との間で組織統一のための協議を進め、新組織の名称を「全日本教職員組合(全教)」として平成三年に発足した。全教の運動姿勢は、国の教育政策との対決姿勢を強く打ち出している。

 日本高等学校教職員組合(日高教右派)は政治的中立の立場に立ち、関係機関への要請など穏健な活動を展開している。

 日教組の闘争方針に批判的な教職員が、日教組から脱退し、教育の正常化等を目標に結成した団体に、日本教職員連盟(日教連)、日本新教職員組合連合(新教組)があったが、両組織間に統一の機運が持ち上がり、五十九年に全日本教職員連盟(全日教連)として統一された。全日教連は、四十九年に結成された全国教育管理職員団体協議会(全管協 校長・教頭が組織する職員団体)などの諸団体とともに、教育の正常な発展を目指した活動を行っている。

 教職員等によって組織される教育研究団体(職能団体)には、三十八年に結成された日本教師会と五十年に設立された社団法人の日本教育会がある。

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