一 生徒指導の充実

生徒指導施策の本格的展開

 生徒指導は、一人一人の生徒の人格の価値を尊重し、個性の伸長を図りながら、社会的資質や行動力を高めるように指導援助するものであり、学校の教育目標を達成するための重要な機能の一つである。このような生徒指導の役割は、戦後一貫して学校教育における任務として重視されてきたが、その体制が整備され、施策の充実が図られるようになったのは昭和三十八年ごろからである。

 二十年代後半の戦後の混乱期に青少年非行のピークがあったが、その後の復興の歩みとともに落ち着いてきた。しかし、三十年ごろから再び青少年非行が増加し、三十九年に第二のピークを記録するに至った。このため、非行等の問題行動に対する国の積極的対応が要請され、三十八年ごろから四十五年にかけて、都道府県の生徒指導担当指導主事の定数配置、生徒指導資料の作成・配布、大規模中学校に対する生徒指導担当教員の定数配置等の諸般の施策が実施され、教師の指導力の向上と生徒指導体制の強化が図られた。

 四十年代の中学校・高等学校学習指導要領の改訂において、総則に「教師と生徒および生徒相互の好ましい人間関係を育て、生徒指導の充実を図ること」が掲げられ、生徒指導の役割は学習指導要領においても明確に位置付けられた。また、五十年にはいわゆる「主任の制度化」に伴い生徒指導主事が学校教育法施行規則に位置付けられ、法令上も学校におけるその中核的役割が明確化された。

校内暴力・いじめ問題等への対応

 青少年非行は昭和四十年代初めいったん鎮静化の方向に向かったが、産業構造の変化や都市化の進行等の急速な社会変化の中で、四十年代後半から再び増加し、その後もおおむね減少することなく推移した。このような社会動向の中で生徒指導は新たな局面に立たされることとなる。特に五十年代後半から六十年代初めにかけて、校内暴力やいじめが多発し社会問題化した。

 校内暴力は、学校生活に起因する暴力行為、すなわち対教師暴力、生徒間暴力、器物破損を総称するものであるが、こうした事例が五十年代中ごろから五十七年をピークに急増し、いわゆる学校の荒廃現象として問題となった。特に中学校における多発状況が顕著で、東京都下の中学校で教師を襲った生徒を逆に教師がナイフで刺傷するという事件が発生し、大きな社会問題となった。文部省は有識者等による「最近の学校における問題行動に関する懇談会」を開催し、その検討結果に基づき、五十八年三月に、緊急に全国の中学校の総点検をするなど各種の対応策を各都道府県に通知した。

 行政当局や学校による懸命な努力により、校内暴力が下火になりかけたころ、今度は学校における「いじめ」の問題がクローズアップされてきた。いじめは自分より弱いものを継続的に攻撃し、相手に深刻な苦痛を感じさせる陰湿な行動であるが、六十年には小・中・高等学校全体の半数を超える学校で発生し、翌年には東京都下の中学校で、いじめにあった中学生が自殺するという事件も発生し、これも大きな社会問題となった。

 この問題について文部省は「児童生徒の問題行動に関する検討会議」において検討し、緊急提言としてまとめ、六十年六月、それに基づき、学校において校長を中心に全教師が一致協力して取り組む体制を整えるなどの対応策を各都道府県に通知した。また、いじめの問題は、当時開催していた臨時教育審議会でも取り上げられ、政府全体としての取組が求められた。

 このような問題行動の原因や背景には、過度の受験競争による心的抑圧、基本的なしつけや生活習慣の欠如、自然体験・生活体験の希薄さなど様々な要因が錯綜(そう)しており、単なる対症療法だけでなく、総合的な対策の必要性が指摘され、学校の教師をはじめとする関係者の一体となった取組が求められた。文部省は、従前からの取組に加え、生徒指導研究推進地域の指定、生徒指導推進会議の開催、カウンセリング技術指導講座の開催、巡回教育相談事業、夜間電話相談事業、自然教室事業、奉仕等体験学習研究指定校の指定など各種の施策を次々と実施し、これらの問題に積極的に取り組んだ。この間、校内暴力やいじめへの対応をはじめとして、小・中学校における出席停止の運用についてなど、各種の指導通知を発出して、都道府県や市町村の教育委員会に対し指導を行った。

学校不適応児童生徒の増加

 昭和五十年代後半から六十年代にかけて、登校拒否や高校中退など学校の集団生活や学習に適応できない児童生徒の増加が大きな教育問題となってきた。小・中学校の登校拒否の児童生徒の数は五十年代の中ごろから急増し、その後も増加の傾向が続いた。特に「学校ぎらい」を理由に年間五〇日以上欠席した児童生徒の数は平成二年度において四万八、〇〇〇人を超えた。登校拒否児は無気力型、情緒混乱型、あそび・非行型等その態様は様々であり、そのきっかけも友人や教師との関係など学校生活にかかわる場合、親子関係の問題など家庭生活にかかわる場合、本人にかかわる問題による場合など原因・背景は複合的である。一方、高等学校では進路変更、学校生活・学業不適応、学業不振等の理由による中退者の数が年々増加し、元年度にはその数は一二万人を超えた。

 こうした問題に対処するため元年度から、総合的取組として「学校不適応対策推進事業」を実施し、関係者による全国連絡協議会や地域連携事業の推進を図るとともに、二年度からは学校外で登校拒否児童生徒を指導する「適応指導教室事業」を実施した。また、四年三月に、文部省の「学校不適応対策調査研究協力者会議」のまとめが公表され、登校拒否は「どの子供にも起こりうるもの」という新しい視点を示すなど、その提言内容が広く注目された。

 なお、昭和六十年代には、瑣(さ)末にわたる校則や硬直的な規制が批判され、特に制服や髪型の規制にかかわる問題がいわゆる学校の管理主義として問題とされた。このため、文部省は、六十三年四月に各都道府県教育委員会に対して、各学校の校則の内容について、1)必ず守るべきもの、2)努力目標と言うべきもの、3)児童生徒の自主性に任せてよいもの、という観点から点検し見直すよう求めた。その結果、全国の約八割の中・高等学校で見直しが進められた。

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