第二節 文化行政と文化財保護

芸術文化の振興

 戦後間もない昭和二十年十二月、文部省社会教育局に初めて芸術課が設置され、次第に拡充されて、四十一年五月には、文化局が設置された。さらに四十三年六月には、その文化局が文化財保護委員会と統合されて文化庁に発展するなど、行政組織の上でも大きな進展を見せた。

 芸術祭は二十一年の秋に第一回が開催され、その後、国民生活の安定とともに、主催公演、参加公演とも年々規模が拡大し、内容も充実して年中行事として次第に芸能界及び国民の間に定着した。

 戦前からの帝国芸術院は、二十二年に日本芸術院と名称を改め、二十四年「日本芸術院令」が制定された。

 明治四十年以来の伝統を持つ文部省展覧会(文展)は戦後廃止され、昭和二十四年度から日本芸術院と日展運営会との共同主催の日本美術展覧会(日展)に代わり、さらに三十三年度からは「社団法人日展」の運営に切り替えられた。二十五年度に始められた芸術選奨(二十九年度までは芸能選奨)は、優れた業績によって芸術の各分野に新生面を開いたものを選奨する制度で、四十二年度からは新人賞も設けられた。このほか、芸術家在外研修制度、優秀美術作品の買上げ制度等が開始された。また、三十四年度に開始された芸術文化団体に対する国庫補助は、三十九年度からは芸術文化関係団体補助金として独立し、四十年度からは創作活動に対する助成も新たに設けられるようになった。また、地方の芸術文化活動の振興のための施策も種々講じられた。

 近代美術作品を展観する国立の美術館の新設が宿望され、二十七年十二月東京京橋に国立近代美術館が開館し、四十五年五月にはフィルムセンターが附設された。この間、三十八年三月には、国立近代美術館京都分館が発足し、四十二年六月京都国立近代美術館として独立した。また、三十四年六月に国立西洋美術館が開館した。

国語施策

 昭和十五年十一月、図書局国語課が設置され、その後幾多の変遷を経て、文化庁の文化部に所属するに至った。

 二十一年の米国教育使節団報告書は国語の改革を指摘し、ローマ字の採用を強く要望し、国語に関する総合的な計画を樹立するための委員会を設けることを勧告した。九年に設置された国語審議会は、戦後は二十年十月から漢字制限をめぐって機能を再開し、その後国語表記の改善にその調査・審議活動の重点を置いた。この審議会の建議や報告に基づき内閣訓令・告示として実施されたものは、「当用漢字表」(二十一年十一月)、「現代かなづかい」(二十一年十一月)、「当用漢字別表」(二十三年二月)、「当用漢字音訓表」(二十三年二月)、「当用漢字字体表」(二十四年四月)、「人名用漢字別表」(二十六年五月)、「ローマ字のつづり方」(二十九年十二月)及び「送りがなのつけ方」(三十四年七月)の八つであった。

 二十一年四月、次官会議で公用文の平易化に努める旨の決定を見、そして「公文用語の手びき」などが編集され、二十七年になって、国語審議会の建議「公用文作成の要領」を内閣から各省庁に通達した。このようにして、公用文の書式が用語、用字など、努めて日常普通の用い方に即したものとなり、また、左横書きが広く行われるようになり、国語の平明化に大きな足跡を残した。この国語表記の平明化は、新聞・雑誌、学校教育等を通して、次第に国民生活に浸透していった。

 二十一年九月、国語審議会から、国語国字問題の重要性にかんがみ、大規模の基礎的調査機関の設立が建議され、これを受けて二十三年、国立国語研究所設置法が制定され、国立国語研究所が発足した。

著作権制度の改善

 昭和二十二年五月、内務省の所管してきた著作権事務は、文部省に移管された。同年七月、社会教育局に著作権室が置かれ、間もなく管理局著作権課となったが、その後、四十三年六月、文化庁の設置に伴い、同庁文化部に所属した。

 戦後、外国著作権については占領軍当局によって直接その管理行政が行われたが、二十七年四月、平和条約の発効により、我が国は戦前どおりベルヌ同盟国の地位を回復し、国際著作権体制へ復帰した。また、三十一年一月には二十七年作成の「万国著作権条約」に加入した。

 一方、ベルヌ条約(明治十九年制定、明治三十二年日本加入)は、昭和二十三年ブラッセルにおいて改正されており、三十六年には「実演家、レコード製作者および放送機関の保護に関する条約」が作成され、また、四十二年には「世界知的所有権機関の設立に関する条約」が作成されるなど、国際著作権体制をめぐる状況にも大きな変化があった。また、技術革新に伴う著作物利用も高度の発達を見るなど、内外にわたって明治三十二年制定の著作権法について、改正の機運が熟してきたことから、昭和三十七年、「著作権制度審議会」が設置され、著作権法の改正作業が着手された。その結果、四十三年「著作権法案」の閣議決定を見、四十四年国会に同法案を提出したが、審議未了となり、翌四十五年国会に提案し可決された。この新しい著作権法は四十六年一月から施行され、ここに、明治三十二年以来、実に七十余年振りに著作権法制が全面改正を遂げることになった。

文化財保護の法的整備

 戦時中停止されていた重要美術品等の認定及び名勝天然記念物の指定に関する事務は、戦後いち早く昭和二十年十月から再開された。

 美術工芸品の中で、刀剣類については、総司令部から相次いで民間武器の回収命令が出され、その後美術刀剣類は審査の上、許可を得た場合には所持が認められることとなったが、国宝や重要美術品等認定物件の一部が没収され、海外に流出するという事態も見られた。

 国宝建造物については、戦時中に保護措置が講じられなかったために、その荒廃は甚だしいものがあった。文部省では、二十三年度を初年度とする国宝建造物の応急修理五か年計画を樹立した。

 二十四年一月の法隆寺金堂の炎上を機会に、我が国の伝統的文化財保存のために抜本的施策を講ずるよう世論が高まり、二十五年五月、文化財保護のための総合立法である「文化財保護法」が成立した。これは、それまでにあった国宝保存法、史跡名勝天然記念物保存法及び「重要美術品等ノ保存ニ、関スル法律」の三法律を一本に集大成した画期的な総合立法である。この法律によって、従来ばらばらに処理されていた建造物、美術工芸品及び史跡名勝天然記念物の保護が一体的に処理されることとなったほか、新たに無形文化財や民俗資料・埋蔵文化財も保護対象となり、その範囲が拡大された。その後文化財保護法は、二十九年五月、無形文化財や重要民俗資料等の指定を設けるなどの改正が行われた。

 文化財保護法によって、五人の委員をもって構成する行政委員会としての文化財保護委員会が文部省の外局として設置され、それまで文部省社会教育局の文化財保存課で処理されていた事務は同委員会事務局に移され、保護行政の体制は画期的に強化された。同時に、同委員会に文化財専門審議会が設置された。その後、文化財保護委員会は四十三年六月文化局とともに廃止され、両者を合して新たに文部省の外局として文化庁が設置されて、その事務は文化庁の文化財保護部に移され、現代文化の振興を目的とする文化部の仕事と一体的に推進していく体制が成立した。

国宝・重要文化財の保護

 文化財保護法の制定とそれに続く法改正により、国の文化財保護体制は着実な軌道を歩み出した。

 国宝・重要文化財は、旧国宝から移行したものと重要美術品の中から選ばれたもののほかに、その後、調査を進めるにつれて重要な物件が次々に判明し、逐年その指定件数は増加した。

 文化財の保存修理は特殊な専門的業務であって、技術者の養成確保が重要な課題となる。特に建造物の修理については、その技術者の身分の安定を図るとともに、後継者の養成確保が急務であることにかんがみ、昭和四十六年六月、財団法人文化財建造物保存技術協会が設立され、技術者の多くがこの法人の職員となって身分の安定を図る措置がとられ、同時に、この法人の主要事業の一つとして、技術者養成の事業が開始された。

 文化財の防災については、法隆寺金堂の炎上が大きな教訓となって、二十五年度に、国宝修理補助金のうちから約二、〇〇〇万円を緊急に流用して防災事業の補助を実施することになり、文化財の集中地域である京都、奈良に自動火災報知器を重点的に設置した。その後、四十一年には消防法施行令の改正により、文化財建造物の防火対象物に対して自動火災報知設備の設置が義務付けられた。

無形文化財及び民俗資料の保護

 昭和二十九年の文化財保護法の改正により重要無形文化財の指定制度が新設された。重要無形文化財の保持者に対しては、三十九年度以降特別助成金を支給し、その技の維持向上と伝承者養成を助成した。また、同じく二十九年の文化財保護法の改正によって新たに指定制度が設けられた重要民俗資料については、職業階層から見て、また地域的・時代的に見て、代表的・典型的なものや、それらの特色を示すに足る重要な系列を構成するものについて厳選して指定することとした。

 なお、我が国古来の伝統的な芸能の公開、伝承者の養成等を行う目的で特殊法人国立劇場が四十一年七月に設立され、その大小二つの劇場で 歌舞伎(き)・文楽・邦楽・その他の古典芸能を上演し、我が国無形文化財の保存と普及に大きな貢献を果たした。

史跡名勝天然記念物の保護

 史跡については、その大部分は旧史跡名勝天然記念物保存法に基づいて戦前に指定された物件であったが、土地開発の急激な振興による遺跡の破壊に対処してその保護を図る必要に迫られたことにより、年々二〇件程度の新しい指定が行われるようになった。天然記念物もその約八割は戦前の指定物件であったが、国土開発の急速な進展によって自然の様相が著しく変化し、環境条件が悪化しつつあったため、指定を急ぎ保護を加える必要のあるものも多く、また、自然の広域指定も必要となってきたことから、現存資源の全国的調査資料を得る目的で、昭和四十二年度以降五年計画で天然記念物緊急調査を実施し、調査の終わったものから逐次「全国植生図および主要動植物地図」を刊行した。

 個々の史跡の環境整備を促進する一方、史跡等が集中し、歴史的風土を形成している地域については、環境整備と合わせて資料館をも設置する「風土記の丘」の設置を促進することとし、四十一年度から国庫補助の処置を講じた。

 平城宮跡は、奈良時代七代七十五年間にわたる首都であった平城宮の大内裏の跡であり、大正十一年に史跡に指定されたが、昭和二十七年には特別史跡に指定された。同宮跡内の民有地を国で買い上げることとし、三十八年度から買収を進めた。また、三十年度から奈良国立文化財研究所でこの地の発掘調査を進め、学術上貴重な成果をあげた。

 飛鳥・藤原地域の保存については、四十五年十月、文化財保護審議会及び歴史的風土審議会からの答申が行われ、同年十二月、「飛鳥地方における歴史的風土及び文化財の保存等に関する方策について」の閣議決定が行われた。文化庁では、これらに基づいて同地域の発掘調査、土地買上げ、飛鳥寺跡の環境整備等の事業を推進した。

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