概説

学術

 戦後直ちに我が国の科学者の間には、戦争遂行のために奉仕させられてきた学術体制を学問本来の平和的でヒューメインな体制に改革するとともに、昭和十二年前後からの長い孤立による世界の科学・技術水準からの立遅れを回復することに全力を注ぐ機運が起こった。しかし、戦後の社会経済の激変と極端な物資の窮乏は、研究の順調な遂行を著しく困難にしていた。このような状況を脱却して、我が学界が生色を取り戻したのは、二十七年の平和条約締結のころからであった。特に三十二年に始まる国際地球観測年を契機として、国際交流・国際協力が強い刺激となって、研究の高度化・高速化が進み、専門分化を著しくする一方、組織化・総合化も行われて、いわゆる巨大科学が出現した。

 基礎科学推進の責任官庁である文部省は、四十二年学術審議会を設けて、学術振興の基本方策の立案審議体制を整備し、時代の要請にこたえる各般の措置を講じた。また、国の施策と関連を持ちながら、流動的・弾力的な運営を必要とする学術振興事業を推進するため、四十二年、特殊法人日本学術振興会を発足させた。

 さらに戦後の著しい特徴として、研究者の派遣・交流、留学生の交流、国際共同研究などの国際交流が年とともに活発に行われるようになったことが挙げられる。

文化

 芸術文化の振興、文化財の保護、国語の改善、著作権制度の改正など、いわゆる文化に関する諸施策は、戦後それぞれ画期的な動きを見せた。

 芸術文化に関しては、明治以来、美術を除いてほとんど政策上は放任されていたと言ってよい状態であったのに対し、初めて積極的な助長政策が採られるに至った。戦後間もなく始められた芸術祭の開催をはじめとして、芸術家に対する優遇・顕彰、芸術文化施設の整備、地方芸術文化活動の促進、芸術の国際交流の促進などのための施策の展開がそれである。

 文化財の保護に関しては、昭和二十五年「文化財保護法」が制定され、それ以後、有形文化財、無形文化財、民俗資料、記念物及び埋蔵文化財が広く保護の対象となった。

 国語の施策は、戦後いち早く打ち出され、二十一年から三十四年までの間に、国語表記の基準が次々に定められた。

 著作権については、戦後、科学技術の発達に伴う著作物利用手段の開発や国際著作権制度の進展などもあって、明治三十二年制定の旧著作権法ではこれらの事態に対応し難くなり、昭和四十五年新著作権法が制定され著作権法制は七十余年振りに全面的に改められた。

 文化についての施策の進展に対応して、文化行政の機構も漸次整備され、四十一年文化局が誕生し、さらに四十三年には、文化財保護委員会と文化局とが統合されて文化庁が発足し、ここに文化行政は総合的・一元的に推進されることとなった。

 学術と芸術の分野における最高の栄誉は、十二年に始められた文化勲章であるが、二十六年、「文化功労者年金法」が制定され、文化功労者が毎年選考されて、年金が支給されることとなった。また戦前からの帝国学士院、帝国芸術院を二十二年に改称した日本学士院、日本芸術院は、功績顕著な科学者及び芸術家を優遇するための栄誉機関である。なお、褒章条例による紫綬(じゅ)褒章は「学術芸術上ノ発明改良創作ニ関シ事績著明ナル」者に与えられることとなっているが、漸次広範な分野から選考されるようになり、毎年多彩な受章者を見るようになった。

宗務行政

 宗務行政は戦後大きく転換した。戦前、いわゆる国家神道の立場から神社は行政上宗教として取り扱われず、その他の宗教は法人・非法人を問わず宗教団体法の認可主義の規制を受けていたが、戦後は、信教の自由の保障と政教分離の原則から、昭和二十年の宗教法人令、翌二十一年の同令改正及び二十六年の宗教法人法によって、すべての宗教を同等に取り扱うとともに、行政的には法人のみを対象とし、しかも所轄庁の裁量権を認めない認証主義に改められた。

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-- 登録:平成21年以前 --