第三節 高等教育

終戦直後の高等教育

 文部省は、終戦の翌日の昭和二十年八月十六日には、まず学徒勤労動員を解除し、以後復員学生の卒業・復学、軍学校出身者・在学者の受入れ、理科生の文科への転科などを進めた。翌二十一年二月には、高等学校令・大学令が改正され、二年に短縮されていた高等学校高等科及び大学予科の修業年限が三年に復元された。

 以上のような戦時非常教育体制解除の諸措置を進めるとともに、文部省は、女子に対する高等教育の開放に着手した。二十年十二月、「女子教育刷新要綱」が閣議了解され、女子大学の創設並びに大学における男女共学制を実施するとの方針が定められた。翌二十一年の米国教育使節団報告書においても女子への高等教育の開放が強く勧告された。このような動向の下で、女子専門学校の設立が活発となり、また、二十二年度には、東京帝国大学に初めて女子学生の入学が認められた。

新制大学の制度

 学校教育法は、旧制の高等教育諸機関をすべて単一な四年制の新制大学に改編して、学校体系の民主化、一元化の原則を貫いた。

 新制大学の特色は、旧制高等教育機関の多くが狭い専門教育と職業教育とに偏していた弊を是正し、一般的、人間的教養の基盤の上に、学問研究と職業人養成を一体化しようとするところにあった。また、学校教育法は、勤労青年に大学教育を広く開放するため、夜間に授業を行う学部を設置すること、及び通信による教育を行うことができることを法制化した。他方、大学には、新しい学校教育体系の最高段階に位するものとして、大学院を置くことができることとした。

 新しい大学制度を発足させるに当たっては、その設置を認可するための基準を新たに設定する必要があったので、文部省は、昭和二十一年十一月大学設立基準設定協議会を設けて基準の改正に着手した。その後、大学自体が相互に協定する自主的基準を設けるべきであるとして大学基準協会が設立され、同協会はさきに大学設立基準設定協議会が提案した案を基として、二十二年十二月大学基準を採択した。この大学基準は、以後三十一年に「大学設置基準」が新たに文部省令として制定されるまで、実質的には法令的基準の役割を果たした。

 次に、大学設置の認可に関しては、学校教育法の規定に従い二十三年一月大学設置委員会(二十四年に大学設置審議会と改称)が設けられ、文部大臣の諮問に応じて新制大学の設置認可に関する審査を行うこととなった。

新制大学の発足

 文部省は、新制大学を昭和二十四年度から発足させる方針であったが、二十三年に女子系とキリスト教系を主とする一二の公・私立大学が新制大学への認可を申請したので、占領下の特殊事情のため文部省はこれを同年三月認可した。

 新制国立大学の設置については、文部省が総合的な実施計画を立案することになったが、これに先立ち、CIEは、我が国の大学の大都市集中を避け、また教育の機会均等を実現するため、国立大学について一府県一大学の方針を貫くよう要請した。文部省は、これを受けて二十三年六月、新制国立大学の設置に関して十一原則を決定、発表した。

 設置に当たっては、各校からこの原則に抵触する様々な要望が提出されて調整は難航したが、二十四年五月国立学校設置法が制定され、翌六月、六九の新制国立大学が発足し、学年進行を経て二十七年に四年制大学として完成した。

 医学教育については、二十二年三月医学教育刷新改善要領が閣議決定され、医学教育は二十六年以降すべて大学で行うこと、及び医学専門学校について大学昇格の可能性を調査・判定することとされた。他の専門学校の多くが、学校教育法施行後二十三年度から順次新制大学に転換したのに対し、医学専門学校は、二十二年にまず旧制の医科大学ないし医学部に昇格し、次いで新制大学に転換したものが多かったが、中には大学に昇格できず廃止されたものもあった。

 新設された大学の大部分は、旧制の大学、高等学校、専門学校として長い伝統と個性に基づく自主性を持つ学部の集合体であったので、一体的な統一のある大学を形成するためには、なんらかの管理組織を通じて運営をするための法的根拠が必要とされた。国立大学については、文部省は、CIEの意向に基づき二十三年十月、大学法試案要綱を発表したが、米国大学の理事会による管理方式を導入しようとしたために大学関係者の反発を招いた。その後、二十四年九月新たに国立大学管理法案起草協議会を新設し、この協議会の立案になる「国立大学管理法案」及び「公立大学管理法案」の二つが二十六年国会に提案されたが、継続審議の後、ついに審議未了・廃案となった。

 なお、両「大学管理法案」が不成立に終わった後、国立大学協会等の要望もあって、二十八年四月国立大学に評議会が置かれることとなった。評議会は、学長の諮問に応じて、学部ごとに置かれている教授会の意向を調整しつつ、全学的な立場から大学の運営に関する重要事項を審議することとされており、学内管理体制の整備に一歩の前進が見られた。公・私立大学においても、評議会あるいはこれに準ずる組織を設ける大学が多く見られた。

短期大学の発足

 旧制の専門学校のうち約五〇校は、教員組織、施設・設備等が不十分のため四年制大学への転換が認められなかった。しかし、これらの旧制の学校をそのまま存続させることはできなかったので、文部省は、教育刷新委員会等の建議を受けて、昭和二十四年五月学校教育法の一部を改正し、暫定措置として修業年限二年又は三年の大学を設け、これを短期大学と称することとした。短期大学は四年制大学より一年遅れ、二十五年度に発足した。

大学の通信制教育と夜間制教育

 勤労青年に広く大学教育を受ける機会を与えるため、学校教育法は大学における通信制教育の制度を史上初めて明文化した。

 昭和二十二年十月、法政大学に初めて開設された通信教育は社会教育として始められ、その後引き続いて同種の通信教育が私立五大学に開設されたが、二十五年三月に至り、これら六大学はすべて学校教育法に基づく大学通信教育として認可された。

 夜間制教育は、旧制の大学、専門学校において法令上の規定のないままその実施が認められていたが、学校教育法は、「大学には、夜間において授業を行う学部を置くことができる。」と規定した。

学生の厚生補導と奨学援護

 戦後、戦場や工場から学園に戻った学生は、戦後の社会的・経済的困窮の中で生活費を得るために街頭販売、行商から重労働まで行わざるを得ない状態となり、学校への出席状況も悪く、昭和二十年の暮れには臨時休校を行う学校が各地に続出した。このような学生生活の危機に際して、財団法人勤労学徒援護会(二十二年学徒援護会と改称)は、アルバイト斡(あっ)旋、学生寮の開設などの学生援護業務を行った。

 他方、十九年の「大日本育英会法」の制定により大日本育英会を通じて実施されてきた我が国の国家的育英奨学事業は、従前の少数の英才を対象とする性格から、戦後の社会状況に即応して多数の学徒への緊急な救済へと転換されなければならなくなり、奨学生採用数を大幅に増員するとともに奨学費の額についても、奨学生数の増加とインフレーションに対応して、生活費の一部を援助する程度の額に変更せざるを得なくなった。

 また学園における民主的自治活動として組織された学生自治会の動きも次第に活発になり、二十三年九月には全国的組織としての全国学生自治会総連合(全学連)が結成されるに至った。全学連は、二十七年秋には、学園の日常闘争を加味した学内での学園民主化闘争と学外での過激な街頭闘争という二面的傾向を取るに至った。このような学生運動の状況の中にあって、二十六年の教育指導者講習会(IFEL)においては、新しい学生補導の在り方として「厚生(Welfare)」と「補導(Guidance)」の両面が説かれた。

新制大学における入学者選抜制度

 昭和二十四年には、新制高等学校の初めての卒業者が新制大学に進学することになったが、入学者の選抜方法は、二十三年に採用された進学適性検査と各大学の学力検査との二つに分けて実施された。

 高等教育機関進学希望者のすべてが受験しなければならないこととされていた進学適性検査は、従来の学力検査偏重の選抜に基づく弊害を除去することを目的としていたのであるが、その出題及び結果の妥当性について十分な信頼が得られなかったことと、受験生にとって学力検査との二重負担となったことなどの理由により、三十年度から、実施は各大学の任意となった。

 なお二十六年度から「大学入学資格検定規程」に基づく大学入学資格検定試験を文部省が実施することになった。これは、中学校を卒業した者又はこれと同等以上の学力があると認められた者を対象として、大学入学に関し、高等学校を卒業した者と同等以上の学力があるかどうかを認定することを目的とする国の検定であり、毎年一回実施された。

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