第一節 初等教育

新しい初等教育の発足

 終戦当時、我が国の学校教育は、国民学校初等科だけが辛うじて授業を継続している状態であった。そこで文部省は、昭和二十年八月国民学校高等科の動員体制を停止し、九月には平時の教育へ転換させることを指示し、加えて集団疎開児童の復帰を促すとともに、同月極端な戦時教材の応急的な除去を指示した。

 二十年十月に発せられた総司令部指令「日本教育制度ニ対スル管理政策」で、軍国主義及び極端な国家主義普及を目指していた従前の教科目や教材の削除とこれに代わる新しい科目と教材の準備が指示され、続いて同年十二月の指令で、教科書並びに教師用参考書から神道的教義に関する事項が削除されるとともに、修身・日本歴史及び地理の授業は停止されるに至った。文部省は、公民科の施行を計画してその教師用書を編集し、地理については、新たに編集した暫定教科書によって二十一年七月から、日本歴史についても同じく暫定教科書「くにのあゆみ」によって同年十月からそれぞれ授業を再開した。

 また文部省は、戦時教育の払拭(しょく)とともに新教育の普及・浸透のため、中央及び都道府県ごとに学校長等を対象に講習会を開催し、これらの講習会を契機に、個性を尊重し、人格の完成を目指す新教育の思想と新しい教授法など、新しい教育の動きが現れてきた。このような教育の新しい動向や要求に対して、総括的な方針や指導を与えたものは、米国教育使節団の勧告や文部省の「新教育指針」であった。また、二十二年三月に、「教育基本法」、「学校教育法」が公布されて、教育の基本原理と学校体系が決定され、同年四月の新学制発足に伴い国民学校は小学校と改称し、いわゆる六・三制の最初の六か年の課程を担う学校として構成された。さらに、従来の高等科を廃止して新しく三年課程の中学校が編制され、この前期中等教育を含む九か年の義務教育制度が確立された。

小学校学習指導要領の編集

 学校教育法施行規則において、小学校の教科の基準を定めるとともに、小学校の教科課程、教科内容及びその取扱いについては、学習指導要領の基準によることとされた。

 昭和二十二年春以降、文部省編集の学習指導要領一般編及び各教科編(試案)が配布され、これが新しい教育課程の基準として重要な役割を果たすことになった。

 小学校の教科は、国語、社会、算数、理科、音楽、図画工作、家庭、体育及び自由研究を基準とするとし、従来の修身、日本歴史、地理の三科目がなくなって新しく社会、家庭、自由研究が設けられたほか、体操が体育に、また図画と工作とが一つの教科に統合されるなどの改正が加えられた。

 社会科の誕生は、この新教育課程の最も大きな特色を示すもので、その目標とするところは、児童が社会に正しく適応でき、かつ望ましい人間関係を実現していくとともに、社会を進歩・向上させるような態度や能力を養うことにあった。

教育課程審議会と学習指導要領の改訂

 文部省では、新学制発足に備え早々の間にまとめた学習指導要領を刊行した直後から、本格的な教育課程の研究に当たった。さらに昭和二十四年、教育課程審議会が設置され、二十五年六月の同審議会の答申に基づいて文部省では改訂の作業に着手し、二十六年に学習指導要領一般編及び各教科編の全面的な改訂版(試案)を編集刊行した。

学習指導法の刷新

 教育課程の改善に伴って学習指導法もまた刷新された。学習指導要領においては、指導計画や指導方法について多くの資料を掲げているが、各種の教師用指導書、手引書も発行され、また教員、指導主事等を対象とする研究集会等を通じて、指導法の改善は各教科にわたって急速に進められ、単元学習・能力別グループ学習などが始められた。

 学習は地域の実情に即し、児童の必要と興味に応じて多種多様に展開することが求められ、教材も教科書だけではなく、学校生活や地域のあらゆる種類の経験が取り上げられるとした。学習活動には、読書、話合い(討議)、問答、見学、調査、実験観察などの諸活動、技能の反復練習、そのほか様々の形態が取り入れられるようになった。したがって、それに応ずる学校の設備にも考慮が払われ、視聴覚教材・教具の利用と学校図書館の整備が奨励された。

学習評価の改善と指導要録

 学習評価は、子供たちと教員にとっての学習に対する反省及び改善の資料となるべきであるととらえられ、その客観性が重視された。昭和二十四年文部省の示した「児童指導要録」の形式は、従来の学籍簿に代わって、児童の在籍状況のほか、身体の記録、標準検査の記録、行動の記録、学習の記録などについて、継続的に記録して指導上の資料とするものとし、進学・転学の際には、進学先、転学先の学校へ送付するよう定められた。

新しい幼稚園制度

 学校教育法によって幼稚園は、正規の学校体系の一環に位置付けられた。設置主体は原則として国、地方公共団体及び学校法人とされ、保姆(ぼ)の名称が教諭と改められるとともに、園長及び教諭の資格及び職務が明示された。

 また、幼稚園と相互補完的役割を果たしてきた保育所については、幼稚園が満三歳から小学校就学の始期に達するまでの幼児を対象とするのに対して、昭和二十二年十二月児童福祉法の制定によって、保育所は保育に欠ける満一歳に満たない乳児から小学校就学の始期に達するまでの幼児の保育を行うことを目的とする施設と位置付けられた。

幼稚園教育の内容

 新しい幼稚園制度の実施に伴って文部省は、昭和二十三年三月「保育要領」を刊行し、さらに二十六年三月幼児指導要録の様式を通達した。幼児指導要録は幼児の成長発達の過程を全体的、継続的に記録する表簿で、園長が編成し幼稚園に備えておかなければならないものであり、評価の観点を示すことにより、保育要領に十分示されなかった指導の目標を補完したものであった。また、新しい幼稚園の発足に当たり、幼稚園関係者からその編制・施設・設備などの基準設定が強く要望されたため、文部省は二十七年五月、「幼稚園基準」を通達した。

 教員の資格については、二十四年教育職員免許法により、幼稚園教諭の免許状は文部大臣から課程の認定を受けた大学等において所定の単位を修得した者、又は授与権者が行う教育職員検定に合格した者に授与されることとされた。

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