第六節 特殊教育

特殊教育の創始

 「学制」では欧米の障害児学校の存在を模して、小学の種類として「其外廃人学校アルヘシ」と特殊教育について初めて規定したが、その実施は見なかった。

 我が国最初の特殊教育の学校は、明治十一年五月、京都府上京第十九番小学教員古河太四郎の指導により開設された盲唖(あ)院であり、次いで中村正直・山尾庸三らの組織した楽善会が十三年一月東京に訓盲院を設置した。京都の盲唖院は二十二年市立盲唖院に、東京の訓盲院は、十七年聾(ろう)唖児童をも対象にして訓盲唖院と改称し、十八年十一月文部省直轄学校となった後二十年十月東京盲唖学校に改組された。

 これらの官公立学校の設立に促されて、障害者事業関係者を中心として特殊教育学校の法制化を求める機運が高まってきた。これにこたえて文部省は、二十三年の第二次小学校令において幼稚園・図書館などとともに「盲唖学校」を小学校に準ずる学校としてその設置・廃止などに関して規定した。ここに盲唖教育の法制上の準則が与えられることになった。三十三年の第三次小学校令は義務就学規定を明確化したが、その際障害児には就学の義務を免除又は猶予すると規定した。これは、就学義務を免除・猶予された児童への教育をいかに保障するかという新しい課題を提起することになった。

特殊教育の整備

 明治四十二年四月文部省は直轄学校官制を改正して新たに東京盲学校を設立した後、翌年四月東京盲唖学校を東京聾唖学校に改め、盲教育と聾唖教育とを分離させ、それぞれの発展を期すこととした。特殊教育が主として民間篤志家の努力に依拠して設立運営されている状況は次第に社会的に問題視され、関係者の間から特殊教育の振興、その教育の義務化・公共化が求められた。大正デモクラシーの隆盛と第一次大戦後の好況などを背景にして、大正十二年八月小学校令中の関係条文を独立拡充させて特殊教育学校についての最初の独立勅令である「盲学校及聾唖学校令」が公布された。これは、盲学校と聾唖学校との分立を確認し、北海道及び府県にこれらの学校の設置を義務付け、市町村もそれらを設置し得るとした。盲学校・聾唖学校の編制は初等部と中等部とを本体とし、予科・研究科・別科を置き得るとした。そして公立校の初等部及び予科では授業料・入学料などの徴収を禁じた。同月公立私立盲学校及聾唖学校規程が制定され、盲学校の修業年限は初等部六年・中等部四年、聾唖学校の場合は初等部六年・中等部五年を常例とし、入学資格はともに初等部は満六歳以上・中等部は初等部修了程度と定め、そのほか学科・学科目、教員資格、施設設備などを詳細に規定した。こうして盲学校・聾唖学校に限られていたとは言え、我が国の特殊教育が従前の慈善事業への依存から公教育体制へと展開する画期が作られた。

 盲・聾唖教育以外の特殊教育についても明治後半期から次第に展開されるようになった。精神薄弱児教育については、初等教育の普及とともにまず一部の小学校において取り組まれ、大正期以降は個性尊重や人権思想の観点から小学校特別学級としてかなり設置されるようになったが、精神薄弱児への本格的な保護・教育施設の最初は石井亮一により明治三十九年東京府北豊島郡に開設された滝乃川学園であり、その後四十二年に京都の白川学園、大正五年に大阪の桃花塾など、戦前に主なものでも一〇余校設立された。肢体不自由児の療護施設としては大正十年柏倉松蔵が東京に設置した柏学園が最初である。当時は心身障害の概念について明確でない点があったので、肢体不自由児が虚弱児の学級で教育される場合も少なくなかった。肢体不自由児の学校として初めて独自に設立されたのは、小学校に類する各種学校として昭和七年に開設された東京市立光明学校である。戦前を通じて独立校としてはこの光明学校一校のみであったが、小学校の肢体不自由児特別学級は茨城・大阪など数府県に一四学級が設けられた。身体虚弱・病弱児の指導は、明治中期からの学校衛生の重視に伴い次第に課題視されてきたが、それが自覚的に取り上げられるのは大正中期以降であった。既に夏季休暇中の虚弱児保養施設としては明治三十八年東京の小児科医の提唱による神田精華小学校の妙義山麓(ろく)への休暇集落を嚆矢とするが、恒常的な養護・教育施設の最初は四十三年に千葉県勝山に開設された東京市養育院安房分院であり、養護学校としての最初は結核予防団体である社団法人白十字会が大正六年八月神奈川県茅ケ崎に設立した林間学校であった。これ以後大阪・千葉・静岡などにも類似の学校が設置されていった。栄養学級・養護学級などと呼ばれた虚弱病弱児のための特別学級は昭和十年には全国で二〇九学級に達した。

戦時下の特殊教育

 教育審議会は昭和十三年の国民学校等に関する答申において、心身障害児に特別の教育施設を設けること、及び盲・聾唖教育を速やかに義務教育とすることを提案した。文部省は国民学校令起草の当初、盲・聾唖教育の義務制化を構想したものの、財政上などの理由から実施できなかった。しかし、国民学校制度において盲学校と聾唖学校とは国民学校と同等以上の課程とされ、また「身体虚弱、精神薄弱其ノ他心身ニ異常アル児童ニシテ特別養護ノ必要アリト認ムルモノノ為ニ学級又ハ学校ヲ編制スルコトヲ得」と規定され、それらの施設は養護学級又は養護学校と呼ばれることになった。さらに、中学校や高等女学校においても養護学級を編制し得ることとした。このような特殊教育振興方策の前進と戦争による食糧不足から生じた体位の低下や栄養不良の増加とのために、国民学校の養護学級はいったんは激増したが、戦局の進行に伴い次第に閉鎖されることになってしまった。

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