第二節 中等教育

臨時教育会議等と中等教育の改革

 臨時教育会議の答申に基づき、大正八年二月から三月にかけて中学校令及び同令施行規則などの一部改正により中学校制度の改革が実施された。中学校では、尋常小学校第四学年修了を入学資格とする二年制の「予科」を設置し得るとし、また学業優秀で身体の発育十分な子供の場合は尋常小学校第五学年修了で中学校に入学し得るとした。修業年限短縮と英才教育とを配慮した改革であったが、実施に当たって文部省は、中学校予科の設置を私立校のみに限定し官公立校には認めなかった。また、尋常小学校第五学年修了での中学校入学もその実施はごく一部の学校に限られていた。

 文政審議会の答申に基づき、大正十四年四月陸軍現役将校学校配属令が制定され、大学を除く官公立の中等以上の学校には、必ず陸軍現役将校が配属されて学校教練の指導に当たることになった。大学と私立学校とは申出により配属されるとした。教練は必修科目の体操の中に位置付けられた。学校教練の有無は卒業者の徴兵猶予や兵役期間の短縮などの恩典の有無に結果したので、すべての大学及び中等以上の私立学校でも配属将校を受け入れることになった。

 昭和六年一月中学校令施行規則が全面改正され、中学校の課程に第一種・第二種が編成され、さらに「公民科」「作業科」「理科」の新設など学科目とその内容が改正されるなどの改革が加えられた。中学校の学科目を大別して基本科目(修身、公民科、国語漢文、歴史、地理、数学、理科、作業科、体操の八科目)及び増課科目とし、原則として第三学年まで場合により第二学年までは、共通に基本科目のみを履修し、第四学年又は第三学年以上では基本科目のほかに国語漢文、外国語、数学、理科、図画、音楽の中の数科目と実業とを増課する「第一種」と、上記諸科目中の数科目と外国語とを増課する「第二種」とを設け、生徒にそのいずれかを選択させることとした。第一種と第二種との併置を原則としたが、特別な事情のある場合はそのどちらか一つを単置し得るとした。これによって中学校を、国民的中等教育の中核的機関に改革しようとしたのであった。学科目のうち、「公民科」は「国民ノ政治生活、経済生活並ニ社会生活ヲ完ウスルニ足ルベキ知徳」「遵法ノ精神」「公共ノ為ニ奉仕シ協同シテ事ニ当ルノ気風」などを涵(かん)養して「立憲自治ノ民タルノ素地」を育成する学科目とされた。「作業科」は「作業ニ依り勤労ヲ尚ビ之ヲ愛好スルノ習慣ヲ養ヒ日常生活上有用ナル知能ヲ得シムル」科目で、「園芸、工作其ノ他ノ作業」を課するとした。このほか、従来の博物・物理・化学を「専門的学術ノ体系ニ泥ムコトナク実際生活上有用ナル理科的知能ヲ与フル」「理科」に統合し、また外国語に従来の英語・独語・仏語のほかに「支那語」を加えた。

 高等女学校については、臨時教育会議の答申に基づく大正九年高等女学校令及び同令施行規則の一部改正により、その目的規定中に「特ニ国民道徳ノ養成ニ力メ婦徳ノ涵養ニ留意スヘキモノトス」の一句が加えられ、修業年限は従前の四年制主体に対して五年制を本体とするように改め、さらに従来の専攻科に加えて高等科が設置できることとした。高等科・専攻科ともに修業年限は二年又は三年とされた。学科目には新たに「教育」「法制及経済」「手芸」「実業」などが加えられるとともに、理科・数学の教授時数を増加するなどの改正がなされた。昭和七年には中学校と同様に「公民科」が設置され、「法制及経済」は廃止された。

中等学校入学者選抜制度の改革動向

 大正後半期以降中等教育への進学希望者が増大の一途をたどる一方で中等学校の増設や規模拡大がこれに即応し得なかったことと、学校数の増加に伴う学校格差の発生とによって、入学試験競争が激しくなってきた。小学校児童の過度な受験勉強や小学校での補習授業の公然化などが社会問題化し、文部省は昭和初期からその是正方策に取り組むこととなった。

 昭和二年十一月中学校令施行規則を一部改正して中学校における「試験」自体を廃止して「考査」とし、その一環として従前の入学試験を、小学校最終二学年分の学業成績などについての小学校長の報告書、口頭試問による人物考査、及び身体検査の三つから成る「入学考査」に改めた。この小学校長からの報告書は「内申書」と通称された。しかし入学試験の全廃を意味するこの改革は、必ずしも円滑に実施されなかった。四年十一月文部次官通牒(ちょう)により人物考査の際「必要アル場合ニ於テハ筆記試問ノ方法ヲ加フルヲ得ルコト」となり、事実上筆記試験による入学者選抜が復活した。その弊害が再び問題視されて、十年には難問奇問の横行を防ぐために次官通牒により地方長官が試験問題を事前に審査することを指示し、次いで十二年の次官通牒で筆記試験を一科目に限定することを求めたが、いずれも中学校関係者や府県学務当局の協力が得られず十分には実行されなかった。そこで文部省は十四年九月次官通牒をもって筆記試験の全廃を再度指示し、報告書の客観化を目指す委員会の設置や人物考査法の基準などを示して十五年度から厳密に実施することとした。十八年十二月学区制を新たに採用し、一学区内に複数の学校がある場合は総合考査制により入学者を配当することとした。ただし、人物考査について従来の「口間口答ヲ以テシ」から「口間口答ニヨルヲ本体トシ」に後退したので、かなり多くの府県で再び筆記試験が復活した。

中等学校令の公布

 昭和十四年の教育審議会の答申に基づいて、十八年一月中等学校令が公布された。これは、中等学校の目的・制度などを初めて包括的に規定した勅令で、中等学校は「皇国ノ道ニ則リテ高等普通教育又ハ実業教育ヲ施シ国民ノ錬成ヲ為スヲ以テ目的」とし、その高等普通教育を中学校と高等女学校とが、実業教育を実業学校が、それぞれ行うとした。中等学校の修業年限は戦時短縮措置として四年とし、土地の状況により高等女学校では二年、実業学校では男子三年・女子二年とすることができるとした。入学資格は、四年課程については従前どおり国民学校初等科修了程度、二年・三年課程では国民学校高等科修了程度とした。永年の懸案であった夜間中等学校(三年制)が初めて制度として公認され、また中等学校の教科書は初めて国定制となった。

 中等学校令に基づいて、十八年三月中学校規程と高等女学校規程とが制定され、それぞれの教育目標・教科目・編制などが規定された。中学校では第一種・第二種制や補習科・予科などを廃止し、代わって卒業者を対象に修業年限一年以内の実務科を設けた。高等女学校では、高等科・専攻科を存続させたが、実科高等女学校の制度と補習科を廃止した。中学校・高等女学校ともに、第三学年以下の学年において実業学校との相互転校を認めた。教科課程では国民学校と同様に教科の統合を行い、中学校では国民科・理数科・体錬科・芸能科・実業科・外国語科、高等女学校ではそれらに家政科を加えた。中学校では第三学年以上で実業科と外国語科のどちらか一つを選択し得ることとし、高等女学校では家政科・実業科・外国語科を増課教科としそのうちの一又は二を課さないことができるとした。家政科は基本教科中にも置かれていた。なお外国語には従来の英語・独語・仏語・支那語のほかにマライ語などを加え得るとした。

 このように、中等学校令の下、従来の中学校・高等女学校・実業学校が、「中等学校」として同格の学校となり、しかも低学年での相互転校も可能とするように統合化へと歩み出したことは、我が国中等教育史の上でも正に画期的な改革であった。

中等教育の拡大

 大正後半期と戦時期とは、中等教育が著しく量的に拡大した時期であった。中学校の場合、大正六年渡と昭和二十年度とでは、学校数において二倍以上、生徒数において実に四倍以上に増加した。高等女学校はもっと急激であって実科高等女学校を含まない高等女学校本科だけでも、学校数において約五倍、生徒数では一〇倍以上となった。こうして、我が国の中等教育は大正後半期以降急速な量的拡大を遂げ、第二次大戦後に国民的教育制度として展開する基盤を形作った。

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