一 教育の近代化の進展

第一次世界大戦後の教育課題

 第一次世界大戦後、現代に直接つながる社会国家体制の変動の波が国際的規模において高まった。これらは、児童中心主義の教育論や複線型学校制度体系の改革を求める統一学校運動などの「新教育」動向を生み出したのであった。第一次大戦に参戦しながらもその渦中にはなかった我が国も、その例外とはなり得なかった。世界の五大強国の一つに挙げられるようになった国力の発展と国際的地位の変化は、もはや孤立した「東洋の新興国」の域にとどまることを許さなくなっていた。

臨時教育会議等と教育改革

 既に述べたように、明治三十年高等教育会議の開設以来、文部省は文部大臣の諮問機関を設けて、学識経験者などの意見を集約することにより教育施策形成の有効化を図ってきた。しかし、高等教育と普通教育とを適切に関連付け学力水準を落とすことなく修業年限の短縮を実現しようとする学制改革問題は、容易に結論が得られなかった。大正二年高等教育会議に代わって教育調査会が設置され様々な構想が検討されたものの、やはり結論は得られなかった。そこで、内閣に直属した強い権限を持つ諮問機関を設け、永年の課題の打開が目指された。ここに設けられたのが、臨時教育会議である。

 六年十月から八年三月まで実質一年六か月間審議を続けたこの臨時教育会議の答申を受けて実施された施策のうち、特に重要な意義を持ったものは、七年の大学令、高等学校令(第二次)の公布と、その後の高等教育機関の大拡張による中等・高等教育機関の増設であった。中間層を中心とした国民の進学意欲の高まりを反映したこの拡大により、小学校から大学に至る学校制度が一つの体系として明確に構造付けられるようになった。それに応じて、初等教育から中等教育へ、中等教育から高等教育への進学に際しての入学試験競争の激化という新たな問題状況が生まれ始めた。

 大正十三年から昭和十年にかけて新たに文政審議会が内閣に設置された。これは、恒常的な教育政策審議機関であり、学校教練、幼稚園令、青年学校制度など多くの制度改革にかかわり、以後ほぼ常時に内閣又は文部省に教育政策審議機関が設置されていく先鞭(べん)を付けた。

「教学刷新」の登場

 大正七年新人会の結成に始まる学生運動は、昭和初期にかけて全国の大学、高等学校、専門学校などに波及した。政府は、大正十四年普通選挙の施行と併行して国家社会体制の基本を維持するために治安維持法を公布したが、それは翌十五年京都学連事件に対して最初に発動された。

 文部省は昭和三年学生課の創設以降、学生部(四年)、思想局(九年)、教学局(外局、十二年)をそれぞれ設置して、学生問題及び思想問題に対処することとした。七年国民精神文化研究所を設置して、思想問題の研究と研修とに当たらせ、さらに十年文部大臣の諮問機関として教学刷新評議会を設置し国体思想の明確化とその教化の方策を検討した。こうして、当時の国家体制にあって、文部省は「教学刷新」に努めることになったのである。

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