第三節 高等教育

初期の高等教育

 「学制」は、「大学ハ高尚ノ諸学ヲ教ル専門科ノ学校」と規定し、理学・化学・法学・医学・数理学などの学科を置き、全国各大学区に各一校の設置を予定していた。しかし、小学や中学とは異なり、規定どおりの大学を直ちに設立し得る現実条件はなかった。「学制」実施直後には幕末以来の南校が第一大学区第一番中学、東校が第一大学区医学校となったにとどまった。明治六年四月学制二編追加により、上記の大学のほかに「外国教師ニテ教授スル高尚ナル学校」としての「専門学校」に関する諸規定が制定され、同月その直前に、第一大学区第一番中学が専門学校として開成学校(七年五月以降は東京開成学校)に改組され、東京医学校とともに専門教育を担うこととなった。ところで、八年ごろから文部省はこの「外国語学ヲ以専門科ヲ修学スル」東京開成学校と東京医学校とは別に、将来の小学・中学の発展を見越してその上に位置付けられる、邦語をもって教授される「真ノ」「高等大学校」を、東京郊外の市川国府台に建設する計画に着手したが、この計画は、十三、四年ごろに至って停止されたものと推定される。その後は、既存の東京大学の充実によって、我が国大学制度を形成する方策が採用されることになった。十四年東京大学全体を一元的に管理する「総理」職を置き、翌年東京大学予備門(十年設立、医学部は別に予科を置いていた)の編制を統一するなどの改革が行われ、総合的な大学としての形成の道を歩むこととなった。

 当時は文部省所轄の大学や専門学校だけが高等教育を形作っていたのではなく、近代的制度や技術の導入に当たる他の諸官庁においてもそれぞれの必要に対応して、外国人教師を招いて専門教育機関を設立していた。四年設立の工部省工学寮に起源を持ち十年に改組された工部大学校、五年開拓使仮学校として東京に設立された後札幌に移転した札幌農学校などのほか、司法省の法学校、農商務省の駒場農学校と東京山林学校などがそれであり、十年代後半に入って、政府は財政支出の節減と人材養成制度の効率化との見地から、これらの官省立専門教育機関を文部省へ移管し、その多くは東京大学と合併して帝国大学の母体となった。

 他方、維新の改革動向に触発された青年たちの学習意欲の高まりに支えられて、数多くの公私立専門教育機関が設立された。公立の機関は、当初の外国語学校が程なく中学校に改組され、医学校は十年代後半から廃校されるものが多くなり、衰微して行ったが、私立専門教育機関は、東京・京都・大阪などの都市部に数多く誕生した。著名な洋学者の主宰する外国語教育機関としては、福沢論吉の慶応義塾、中村正直の同人社などがあり、医学校としては、済生学舎や慶応義塾医学所、新しい思想としてのキリスト教主義の学校としては、同志社、東京英和学校(後の青山学院)などがあった。また東京法学校・専修学校・明治法律学校など私立の法学校が多数設立された。大隈重信が十五年に創設した東京専門学校(後の早稲田大学)もこの系譜に属する。

海外留学生と外国人雇教師

 欧米文化の早急な導入を進めるためには、国内での高等教育制度の建設とともに、海外への留学生派遣が不可欠であった。既に幕末期から公費・私費を合わせてかなりの数の留学生が派遣されていたが、選抜基準が確定しなかったために十分な成果が得られなかった。

 明治六年十二月文部省は、いったんすべての留学生に帰国を命じた上で、留学生関係規則を整備して慎重な選抜と管理・監督の強化を図った。その上で、八年七月新たに東京開成学校生徒の中から第一回留学生として一一人を米国・フランス・ドイツに派遣した。この時に文部省は、別に最初の「師範学科取調」、教育研究留学生三人を米国へ派遣した。この整備された文部省留学生制度は留学生の質的向上にかなりの成果を収めた。文部省は、当時外国人教師中心であった大学の教職者を徐々に邦人教員主体に移行させる目途をもって、官費留学の計画化を進展させることとし、十五年新たに官費留学生規則を制定した。そこでは、本人の志望にゆだねた従来の留学計画を改め、東京大学卒業者を厳選して文部卿の指定した学科・在留国・年限に従って派遣し、帰国後は留学年限の二倍の期間文部卿の指定した職務に従事しなければならないこととした。十七年に東京大学教員を対象に加え、十八年には文部省直轄の専門学校・師範学校卒業者をも対象とした。二十五年には更に整備され、文部省外国留学生規程として公布された。こうして、後の在外研究員規程(大正七年)に連なる基盤が形成された。

 明治初期の高等教育は、外国人教師に依拠するところが多大であった。教授用語も外国語が主に使用されていた。文部省は、発足以来外国人の「御雇教師」の精選に努め、海外の優れた学者や教育者の招聘に努めた。明治九年には七八人を数え、東京開成学校・東京医学校・東京外国語学校など官立の学校において専門学科や外国語の指導に当たった。他の官省においてもその専門業務の習得に必要な多くの「御雇教師」を招致した。これらの教師の中には、明治期の教育・文化の近代化に多大な功績を残した人々が少なくない。モルレー、フルベッキ、スコット、ベルツ、モースをはじめ、工部大学校のダイアー、司法省のボアソナード、札幌農学校のクラークなどを挙げることができる。外国人教師は、十年代後半には海外留学生の帰国によって減少するが、二十年代後半からは高等教育機関の拡大増設に伴って再び増加するようになる。しかし、それは次第に邦人教員の教授活動への補充的な役割を果たすように変っていった。

帝国大学の成立

 明治十九年三月帝国大学令が公布され、既に他官省設立の高等教育機関を統合しつつあった東京大学が「帝国大学」に改編された。この帝国大学は、我が国における本格的な近代大学の範型を提示するものとなった。

 帝国大学は、「国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」と規定され、その国家的な意義が強調された。帝国大学は、大学院と分科大学とから構成され、大学院は学術研究機関、分科大学は学術技芸の教育機関であり、分科大学は当初法科・医科・工科・文科・理科の五校、二十三年に東京農林学校を改組した農科が加わり六校となった。分科大学の入学資格は高等中学校(二十七年から高等学校と改称)卒業を原則とし、修業年限は医科大学医学科のみ四年、他はすべて三年とした。帝国大学の管理運営は文部大臣の命を受けて総長が統括し、分科大学長・教頭・教授・助教授などを置き、文部大臣の選任する各分科大学教授二名から構成される評議会が総長の下学科課程や学内の諸問題を審議した。

 帝国大学令は、二十六年大幅に改正され、各分科大学に教授会を設置するとともに、各分科大学ごとに教授の互選により評議員を選出することとし、評議会の権限事項を限定化した。また、講座制が導入され、勅令により講座の種類と数が決定された。研究と教育の専門領域が明確化されたのである。

 帝国大学の法制が整備された後、その増設が必要とされた。三十年第二番目の帝国大学として設置された京都帝国大学に続いて、四十年仙台に東北帝国大学が設置され、文部省の管轄下に入った札幌農学校が東北帝国大学農科大学に改組された。さらに、京都帝国大学福岡医科大学を母体にして、四十三年福岡に九州帝国大学が設置され、明治後半期には北海道から九州までの各地に四帝国大学が分布するに至った。

高等学校の成立

 東京大学の設置に伴い東京英語学校を改編して東京大学予備門が設置され、専門学科への予備教育が行われた。明治十八年同予備門は文部省直轄となり、官立学校全体への予備教育機関としての性格を帯びた。

 翌十九年中学校令により、高等中学校が帝国大学への予備教育と高度の実務教育とを行うこととされ、前者は本科が行い、後者は法科・医科・工科などの分科が担当するとし、国費及び設置区域内府県の分担金をもって、全国五地域に各一校設置されることとなった。修業年限は本科二年、分科としての医学部医学科は四年、法学部と医学部附設薬学科は三年とされたが、当時尋常中学校の学力と高等中学校の要求学力との格差が大きかったので、予科三年、予科補充科二年を置き得るとした。上述の東京大学予備門は第一高等中学校に改称され、第二(仙台)・第三(初め大阪、後に京都)・第四(金沢)・第五(熊本)・山口・鹿児島高等中学造士館の各高等中学校が相次いで設置された。第一から第五までの各校に本科・予科・医学部が、第三には別に法学部が置かれた。

 二十七年専門教育の充実を期して、帝国大学への予備教育主体だった高等中学校を、「分科」を本体とする「高等学校」へと改革するため、新たに高等学校令を公布した。高等学校は「専門学科ヲ教授スル所」とされ、帝国大学への予備教育のために大学予科を置き得るとされた。修業年限は専門学部四年、大学予科三年とした。第一・第二・第四・第五の各校に医学部と大学予科を、第三高等学校に法学部・医学部・工学部を設置した。

 しかし、高等学校を将来の地方大学にしようと意図したこの改革は、所期の効果をあげ得なかった。三十年京都帝国大学の設置に関連して第三高等学校に大学予科が設置され、三十四年には各校の医学部が独立の医学専門学校に改編されるとともに、第三高等学校の法学部・工学部が廃止され、三十九年第五高等学校工学部(三十年設置)が独立の熊本高等工業学校に改組されて、高等学校専門学部はすべて姿を消し、高等学校は大学予科のみをもって構成されることになった。この間、三十三年に第六(岡山)、翌三十四年に第七高等学校造士館、四十一年に第八(名古屋)の各校が増設された。高等学校の帝国大学予備教育機関化は法制と実態との矛盾を露呈させ、学校制度体系の整合性の不備により延長する修業年限の短縮問題とともに、高等学校制度のありようは学制改革論の中心的課題となった。高等学校を大学予科から高等普通教育学校へ転換させることにより学制改革の実現を図ろうとして、四十四年高等中学校令が公布されたが、内閣の交替によりその施行は中止され、次代への課題として見送られたのであった。

専門学校制度の確立

 明治の初期以来かなりの数の専門教育機関が設立されていたが、三十年代前半まで文部省はそれらに関する法制を示してこなかった。しかし中等教育及び私立専門教育機関の発達に対応して、専門教育機関の法制的基準を明確にすることとし、三十六年三月専門学校令が公布され、ここに大学ほどに高水準ではないが中等教育後に位置する「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校」としての「専門学校」が制度化された。

 専門学校令では「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校」は特別の規定がある場合を除いて、すべて同令によらなければならないとされた。そこで専門学校令の公布とともに実業学校令が改正され、実業学校で「高等ノ教育ヲ為スモノ」は、実業専門学校として専門学校令の規定を適用されることとなった。高等工業学校・高等商業学校・高等農林学校などがそれである。こうして、専門学校が医学・法学・文学・芸術・宗教・体育などの分野、実業専門学校が工業・農業・商業・水産・商船などの分野をそれぞれ担うことになった。専門学校の修業年限は三年以上で、入学資格は中学校・高等女学校の卒業程度を原則とした。文部省は一年半程度の予科を持つ専門学校に大学部を置き「大学」と称することを認めた。これを機に三十六年以降、慶応義塾・早稲田など有力な私立専門学校が法制上は専門学校でありながら、より高度の教育体制の形成を目指してそれぞれ大学と称するようになった。

 専門学校令の下で、専門学校・実業専門学校の増設が相次いだ。三十六年に四七校であったのが、十三年後の大正五年にはほぼ倍増した。その六割を私立校が占めたが、中でも注目されるのは、日本女子大学校・津田英学塾・東京女子医学専門学校などの女子の専門学校が設立され、女性に対し高等教育への道が開かれたことである。

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