第一節 初等教育

初等教育の創設

 文部省は近代教育制度創設に当たり、国民全般の資質向上にかかわる初等教育に特に政策上の力点を置いた。「学制」原案とともに文部省が太政官に上申した学制の着手順序の第一項には「厚ク力ヲ小学校ニ可用事」が挙げられていた。

 「学制」の規定では、小学校は人口六〇〇人を標準とする小学区に各一校設立するとし、それには下等小学(四年)上等小学(四年)から成る尋常小学のほか、女児小学・村落小学・貧人小学・小学私塾・幼稚小学など多様なタイプを用意していたが、実際には標準的な尋常小学が大多数を占めることになった。小学校においても学力水準に応じて児童を配置する「等級制」が採用され、下等・上等両小学科とも各八級に区分された。各級の標準学習期間は六か月で、進級は必ず試験によることとした。

 「教則」と呼ばれた教育課程の基準には、明治五年九月文部省制定の小学教則と六年東京師範学校編成の小学教則とがあったが、「学制」の条章に準拠しつつも幕末洋学塾の系譜を引き多分にアカデミックな内容から成る前者よりも、スコットの指導により米国公立学校の教育課程を模範として定めた後者の方が、全国諸府県での小学教則のモデルとなった。

 小学校は基本的に地方民衆の民費や寄附金などにより設立維持された。児童数が少ない上に就学率が三〇%程度の当時にあっては、小学校の規模は一校当たり教員一~二人、児童四〇~五〇人程度、校舎の四〇%は寺院、三〇%は民家を転用したものであり、概して寺子屋と大差ない形態であったが、一部の地域では文部省や府県当局の奨励策にこたえて洋風校舎を新築し、教育への熱意を示した場合もあった。

 小学校の全国一斉実施は、民衆に大きな経済的負担を課した。また、欧米風の新しい教育内容は当時の民衆の生活に即応したものではなかった。これらへの不満が原因で、徴兵や地租改正など新政府の他の政策への批判と結び付いて、農民一揆(き)の際にしばしば学校が焼き討ちされるという事態を見るようにさえなった。文部省は、十二年「学制」を改正した「教育令」において、公立小学校の最低修業年限を四年とし、児童の最低就学期限を毎年四か月、合計十六か月に短縮した。教科目は読書・習字・算術・地理・歴史・修身の六科目を原則とし、公立学校の教則は文部卿の認可を得ることとしたが、その編成権は町村の学務委員にあるとし、地方官による一律編成を禁じた。さらに、学区制を廃止して公立小学校は町村が適宜設置するとし、私立小学校を保護・奨励した。総じて、地域の実情に対応した初等教育の建設を志向したのだが、それは同時に緩和された基準にまで教育実態を後退させる結果を生じた。

 公教育の後退を憂慮した文部省は、十三年教育令を全面改正し、初等教育の水準向上を期した。小学校の最低修業年限と児童の最低就学期限をともに三年の課程修了までとし、就学に対する督励を強化した。教科目では、儒教主義的な修身を首位教科とし、教則についての綱領を文部卿が定め、教育課程の基準を国の責任において一定化することとした。翌十四年中に改正教育令施行上の諸細則が制定された。小学校教則綱領では、小学校の課程を初等科(三年)、中等科(三年)、高等科(二年)に区分し、各教科の内容構成が初めて法規上に明確化された。通年授業の原則もこの時に確認された。そのほか、小学校教員心得により教員の言動に関する指針が示されるなど、府県の制定すべき諸規則の準則が制定された。

 この第二次教育令体制により、全国の小学校制度は初めて明確な共通の基準に整備されることとなった。これが全面施行された十五年以後、児童の就学率は上昇し始め、初等教育制度の回復が認められた。

 しかし「松方財政」の展開による深刻な経済不況に直面して、十七年ごろから初等教育は停滞と後退の局面に陥った。その打開のために文部省は、十八年教育令を再改正して小学校制度の基準を再び緩和し、地域の困難な財政状態に即応することに努めた。小学校のほかにより簡易な「小学教場」を設置し、半日又は夜間の授業も認め、児童の最低就学期限について規定せず、学務委員制度を廃して戸長に町村の学務を兼担させるなどの措置をとった。

 森有礼は、十八年十二月内閣制下の最初の文部大臣に就任すると、教育令を廃して学校種別ごとの独立勅令を整備したが、その「小学校令」では、小学校を尋常・高等各四年の二段階とし、尋常小学科への就学を初めて「義務」と規定したが、尋常・高等ともに授業料や寄附金を主な財源として運営することとし、受益者負担により公教育財政の困難を乗り切ろうと図った。尋常小学科に準ずる小学簡易科(三年以内)を置き、これは区町村費により運営され一般大衆向けの小学校とされた。このほか、教科書の文部大臣による検定制を発足させ、また教員資格の整備を図るなどの方策が採られた。

第二次小学校令下の初等教育

 市制・町村制など地方制度の確立に伴い、初等教育制度との調整が不可欠となったので、政府は明治二十三年十月従来の小学校令を廃止し新たな小学校令を公布した(第二次小学校令)。

 従来の小学校令が全文一六条であったのに比して第二次小学校令は全九六条で、法制的に著しく整備された。小学簡易科が廃止されて、尋常小学科は三年と四年、高等小学科は二年、三年、四年に区分され、ほかに補習科や専修科を設け、更に実業補習学校や徒弟学校も小学校の種類に加えられ、地域の状況に応じて多様な小学校の設立が可能となった。市町村に学齢児童を就学させるに足る尋常小学校の設置を義務付け、資力の乏しい場合には近隣市町村と学校組合を組織し得るとした。「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」と小学校の目的を初めて明文化したが、この規定はその後、国民学校令により小学校令が廃止されるまで存続した。小学校の基本的性格がここに確定されたことを示している。

 画期的な法制のゆえにこの小学校令には数多くの施行上の細則が必要とされた。二十四年十一月までに「小学校祝日大祭日儀式規程」「小学校教則大綱」「学級編制等ニ関スル規則」など、小学校制度の全般にわたる諸規則が相次いで制定された。こうして、第二次小学校令は二十五年四月から全面施行され、その結果我が国初等教育の原型が形成されるに至った。

第三次小学校令体制の成立

 明治三十三年小学校令の全面改正(第三次小学校令)が公布された。この改正において義務教育制度の完全施行が決定された。尋常小学校は四年制に統一され、その必須教科目は修身・国語(従来の読書・作文・習字を統合)・算術・体操の四科目から成るとした。就学の始期と終期とを四月学年制の採用(二十五年)に合わせて明確化するとともに、義務主体としての学齢児童保護者の要件を定め、さらに公立尋常小学校における授業料の徴収を原則として廃止した。また、小学校の教則は文部大臣が定めるとし、教則の国定化が成立した。なお、この改正に際し施行上の諸細則が「小学校令施行規則」に一括統合された。

 この改正に当たり当初準備されながらも実現を見なかったものに、義務教育年限延長と教科書の国定制化とがあった。義務教育年限は、漢字学習の負担に加えて欧米諸国との対比もあり、四年間では到底不十分と考えられていたが、校地・校舎の増設がもたらす市町村財政への圧迫を考慮して第三次小学校令では、尋常小学科に二年制の高等小学科を併置することを奨励して、将来の年限延長に備えることとした。市町村財政の状況と義務教育費国庫補助の進展とを配慮しつつ、四十年に至って尋常小学科の修業年限を二年延長する小学校令中改正により、義務教育六年制が翌四十一年度から逐年実施された。初等教育の基本課程を六年構成とすることは、このとき以来今日まで一貫して保持されることになる。

 小学校の教科書については、十九年以降文部大臣による検定制が採用されており、その検定教科書の採択は府県単位に行われ、また、いったん採択された教科書は四年間変更し得なかった。このために、教科書の採択をめぐり出版社と府県関係者との間での不正事例の横行が伝えられていた。文部省は、三十一年教科書採択を府県単位から各学校単位へと改めることにより、不正事例の発生を防止しようと計画したが実現を見なかった。他方、帝国議会は二十九年以来不正防止のほかに教材の統合化や質的向上の見地からしばしば小学校教科書の「国費編纂」を政府に建議していた。文部省は、既に第三次小学校令案の起草段階において教科書の国定化について府県知事の意見を徴したものの、諸般の事情から従来の検定制を踏襲したという経緯があった。三十四年文部省は採択をめぐる不正行為に対して罰則を規定し、また省内に修身教科書調査委員会を発足させた。

 三十五年十二月教科書採択をめぐる不正事件が一斉に摘発された。その結果、罰則規定により将来ほとんどすべての教科書が使用不能となる事態が予測され、文部省は翌年小学校令を改正して「小学校ノ教科用図書ハ文部省ニ於テ著作権ヲ有スルモノ」と規定し、三十七年度から施行した。ここに国定教科書制度が実現することとなった。なお、当初は修身・日本歴史・地理・国語読本・国語書き方手本・算術・図画の各教科書が国定とされたが、四十三年に理科教科書も追加された。国定教科書の翻刻発行については、業者間の協議により一社独占の可能性が生じたために、四十二年三社に分担させることとした。国定制の結果、教科書の価格は従来の民間発行書に比して大幅に低廉化し、保護者の負担が軽減されることとなった。

 三十年代に、児童の就学状況は急速に進展し、義務教育の実態が成立するに至った。三十五年に男女平均の就学率が初めて九〇%を超え、四十二年には九八%台に達した。この実態は、女子就学の急速な上昇によってもたらされたのである。こうして明治維新以来の「国民皆学」実現の悲願は、ここに一応の達成を見たのであった。

幼稚園の成立と展開

 「学制」では小学校の一種として、「幼稚小学」を親定したが、実現を見なかった。日本最初の幼稚園は、明治八年に京都府の小学校に開設された「幼穉(ち)遊嬉(き)場」とされるが、それはわずか一年半存続したに過ぎなかった。本格的な幼稚園の最初は、文部省が九年十一月東京女子師範学校に附設した幼稚園である。満三歳以上六歳までの幼児にフレーベル主義に基づく幼児教育を実施したこの附属幼稚園は、その後の幼稚園のモデルになった。

 文部省は十七年学齢未満児童の小学校入学を禁止し、それら児童の幼稚園への就園を勧めたが、義務教育である小学校の設立に追われて公立幼稚園の設置は遅々として進まなかった。しかし、三十年代の終わりごろから私立幼稚園の発達が著しくなり、四十二年には園数で国公立を超えるに至った。幼稚園数の増加に対応してその制度化を求める声が高まり、文部省は三十二年六月幼稚園に関する最初の独立法令として「幼稚園保育及設備規程」を公布し、幼稚園の法的基準を明確にした。

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