第二節 明治維新直後の教育

復古と改革

 幕府を倒して王政復古の宣言の下に成立した明治新政府は、従前の幕藩制社会に対する抜本的な改革に着手した。大きな社会変革にしばしば見受けられる「復古」と「改革」の両側面が、厳しい国際環境の下における我が国の民族的国家的な自立の確保のためにともに必要とされた。こうして、非欧米世界にあって初めて近代的自立を達成する我が国の苦難の道が開始された。

 新政府の施政方針は、明治元年三月の「五ケ条ノ御誓文」に示されたが、その第五項目中に「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」とあり、先進諸国の近代文化の導入が求められていた。ただしこの開化の方針は当初から支配的であったわけではなく、維新直後には「復古」の動向が顕著となっていた。

 維新政府の教育政策は、まず京都において開始された。元年二月学校掛が任命され翌月最初の学校制度案である「学舎制」を政府部内に示したが、国学思想により奈良時代の大学寮制度を模したこの案は、多数の同意を得られなかった。また、朝廷の儒学校であった「学習院」を母体とする「漢学所」と、国学を教授する「皇学所」とが一応設立されはしたが、ほとんど実体を見るに至らなかった。東京遷都の後政府の京都での学校計画は中止された。

 東京(江戸)では既に新政府により接収されていた旧幕府の学校を改編することとし、二年六月「大学校」の設立が達せられた。それは、旧昌(しょう)平坂学問所を国学を中心に漢学をも併せた大学校に、旧開成所を開成学校、旧医学所を医学校としてその分校たらしめるという構想であり、七月政府の官制改革により教育行政と教育活動との二つの機能を併せ持つ「大学校」が発足した。十二月に「大学校」が「大学」と改称されるに伴い、旧昌平坂学問所跡の本部と国漢学校とを「大学本校」、開成学校を「大学南校」、そして医学校を「大学東校」とそれぞれ改称した。

文明開化への転換

 維新直後から新政府は開国政策の堅持を諸外国に通告した。欧米列強の圧力に対峙(じ)して一国の独立を維持するためには、欧米に模して国内の制度と文化を近代化しなければならないと考えたからである。

 明治三年二月、大学は「大学規則」及び「中小学規則」を編成して太政官に伺い出た。これは、教育行政官庁である大学が初めて独自に示した体系的な学校制度構想で、欧米の学校制度をモデルとしていた。「大学規則」では、中央に大学一校、府藩県にそれぞれ中学と小学とを設けるとの制度体系を示した。次いで大学の編成においては、従前の国・漢・洋という国別の構成を採らず、教科・法科・理科・医科・文科の五科から成る欧米的な分科制を初めて採用した。小学は八歳から十五歳までの課程で普通学と「大学専門五科ノ大意」を修め、中学は小学を終えた十六歳以上の生徒に大学五科の予備教育を授ける課程とされた。これは、施行上の細則を編成した後法令として府藩県に示され、新政府の教育政策が「復古」から「欧化」へと大きく転回したことを世に示した。

 「大学規則」に基づく大学の改編をめぐって、優位に立った洋学派と国学派・漢学派との対立が激しくなり、政府は三年七月国学派・漢学派が本拠としている大学本校を閉鎖した。大学の教育機能は、大学南校と大学東校、すなわち洋学機関のみによって代行的に担われることとなり、新政府の教育政策方針の転換は一層明らかとなった。

 大学南校は二年から外国人教師を教授陣の主体に置き、本格的な外国語教育を展開した。特に、大学本校が閉鎖された三年七月に異色の人材養成計画が実施された。それは、全国諸藩にその石高に応じて入学生を派遣させる「貢進生」制度である。これは、全国規模での人材発掘を施行しようとしたものであり、確かにその後の我が国の学界や政界をリードした人材がかなりこの制度により育成されはしたものの、藩体制を基盤としたために旧来の身分制に拘束されて十全な人材選抜機能を果たし得なかったため、文部省設置後の四年九月に廃止された。大学南校は、また、優れた学生や教員を選抜して留学生として欧米諸国に派遣することとし、三年八月その第一陣が米国に赴いた。医学校では、既に二年中に欧米諸国中最も進歩していると見たドイツ医学の採用を決定して、プロイセン政府に教師の派遣を依頼し、四年七月二人の教師が大学東校に着任した。大学東校は留学生をすべてドイツに派遣することとし、三年十月その第一陣が出発した。

 政府の欧化教育方針に呼応して諸藩においても洋学校を開設し始め、また民間でも福沢論吉の「慶応義塾」、近藤真琴の「攻玉塾」などの洋学塾が設立され、新しい文明の息吹きを学ぼうとする青年たちを引き付けていた。

国民教育の胎動

 明治維新においては、近代国家建設の基礎として、国民一般の教育が重視された。

 もっとも、維新直後には幕府に代わる朝廷の権威を民衆に広く知らしめるために、「復古」的な発想での教化政策が採用された。明治三年一月の「宣布大教詔」の発布と宣教使による大衆教化の実施、五年三月教部省の設置、及び翌月の「教則三条」の公布とその普及を担当する教導職の設置などがそれである。これは、神仏分離や排仏毀(き)釈の極端な神道主義政策と関連していた。

 政府は、二年二月府県への施政方策を示した「府県施政順序」において「小学校ヲ設ル事」を指示し、大学校にその実施方策の検討を命じたが、同年六月新設の民部官(省)にその業務は移管され、同省の立案により翌三年十二月各県に将来の「郷学校」建設経費の準備を命ずる太政官達が発せられた。また先述のように、三年二月に「大学規則」とともに「中小学規則」が別に制定されていた。しかし当時それらの学校を総合する制度構想は立案されるに至らず、文部省の創設により、初めて全国規模における公的な教育制度の立案が可能になるのであった。

 藩や府県の中には、時代の動向にこたえて新しい学校を設立する動きが見られた。最も早く「小学校」の名称を用いた元年十二月設立の静岡藩(旧幕府)の沼津兵学校附属小学校は、旧幕臣の子弟を対象とした初等教育学校だったが、二年中に京都府が京都市内に六四校設立した番組小学校は、庶民の子供を広く対象とした公共施設としての性格を持っていた。東京府も三年六月市内に六小学を設立した。京都府や金沢藩、岩国藩などでは、主に藩士の子弟を対象とした「中学(校)」を設けたし、福山藩(広島)、松江藩などでは女学校の設立までも計画した。他方、京都府の番組小学校と同様な発想から庶民教育のための学校を設立したものに、神奈川県、筑摩県、名古屋県などがあり、いずれも地域住民の協力を得て公共的な学校を作り出そうとした。

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