ここからサイトの主なメニューです
前(節)へ  次(節)へ
1編 スポーツと健康
第1部 体育・スポーツの振興
第1章 体育・スポーツの振興
第3節 体育・スポーツ振興の歩み


 我が国のスポーツは,戦後の復興期から今田こ至るまで,経済の急速な成長と国民の生活水準の向上,都市化の進展・余暇時間の増大・高齢化の進行などの社会環境の変化に伴い,大きく発展してきた。ここでは戦後を主に10年ごとの時期に分け,それぞれについてスポーツの歩みを行政施策の展開に重点を置いて略述する。


1 戦後の復興とスポーツ(昭和20年代)

 昭和20年に終戦を迎え,敗戦と戦災によって困窮を極め意気消沈していた国民に,スポーツは勇気と希望を与えた。

 昭和21年に,第1回国民体育大会が,大日本体育会(日本体育協会の前身)の主催で,戦災を免れた京都市を中心に,全国から5,377人の選手が参加し開催された。また,昭和24年の全米水泳選手権大会での1フジヤマの飛び魚」と言われた古橋選手らの大活躍を始め,昭和26年には第1回アジア競技大会への参加,さらに,昭和27年には戦後初めて我が国が第15回オリンピック競技大会,第6回オリンピック冬季競技大会に参加した。さらに,プロスポーツにおいては昭和20年にプロ野球,大相撲が復活した。なお,国民体育大会は,第10回大会(昭和30年)から(財)日本体育協会,国(文部省)及び開催地の都道府県の三者共催となり,現在に至っている。

 国においても,昭和24年6月に「社会教育法」が制定され,体育及びレクリエーション活動が社会教育の一分野として示された。これにより,学校の教育活動を除き,主として青少年及び成人に対して行われる組織的な体育活動,いわゆる社会体育の法的根拠が明確になり,国及び地方公共団体は社会教育行政の一環として社会体育振興のための条件整備を図ることとなった。

 学校体育においても,昭和22年の「学校体育指導要綱」により戦後の新しい学校体育の方針と内容が明らかにされ,学習する運動の内容については,形式的規律訓練や画一的指導を排除し,児童生徒の自発性を尊重する観点から,徒手体操・器械運動中心の内容からスポーツ,遊戯中心の内容へ大きく転換した。武道を学校で行うことについては,終戦後中止されていたが,その後,競技方法が改められ,昭和25年に柔道がスポーツとして授業や課外の活動として実施できることとなったのを始め,その後弓道,剣道も同様に取り扱われるようになった。


2 社会体育の振興とスポーツ振興法の制定(昭和30年代)

 昭和30年代,特にその後半以降,我が国の経済は急速に成長し,社会は急速な発展を遂げた。スポーツにおいても,長嶋,王に代表されるプロ野球や栃若時代と謳われ人気を博した大相撲などの隆盛により,スポーツに対する国民一般の関心も高まった。これとともに国民が実際にスポーツをする際に必要となるスポーツ施設の整備と指導者の養成が急務とされた。このため文部省は,公立のスポーツ施設に対する補助を昭和34年度から開始し,補助対象も当初の水泳プールと体育館から次々に拡大していった。

 また,国民生活の向上及びスポーツやレクリエーションの普及発達(;つれて,スポーツの一層の発展のため,スポーツの行政機構の整備を望む声も大きくなり,第3回アジア競技大会(昭和33年)の開催,オリンピック大会招致の促進等,学校体育,社会体育並びにこれらに関連する施策を一元的に強力に推進するため,昭和24年に廃止されていた文部省体育局が昭和33年に再び設置された。

 そして,昭和36年6月には,我が国のスポーツの振興を図るため,「スポーツ振興法」が制定された。この法律は,スポーツの振興に関する施策の基本を明らかにし,もって国民の心身の健全な発達と明るく豊かな国民生活の形成に寄与することを目的とし,国及び地方公共団体の任務としてスポーツ振興に関する施策を実施しなければならないことを明確化したものであり,その意義は極めて大きい。この法律によって,スポーツ施設の整備が制度化され,体育指導委員の身分も確立し,国民体育大会の性格・国の援助も明示されるなど,スポーツの振興が一層推進されることとなった。

 学校体育においては,昭和33・35年の学習指導要領の全面改訂により,小学校,中学校及び高等学校の体育及び保健体育の目標・内容の一貫性が図られるとともに,学校における体育活動の中心の場として,体育館,水泳プール等の学校体育施設の整備も急速に進められた。


3 オリンピック東京大会の開催(昭和39年)

 我が国においてオリンピックを開催することは,昭和15年の第12回オリンピック競技大会の開催が決定していながら戦争により開催できなかったこともあり,国民の多年の念願であった。このような中で,昭和34年の国際オリンピック委員会(IOC)総会で,第18回オリンピック競技大会の東京での開催が決まり,国民のスポーツに対する関心はアジアで初めてのオリンピックに向けて高まった。

 オリンピック東京大会は,昭和39年10月,国立競技場を主会場として開催され,94か国から5,586人の選手が参加した。昭和33年の第3回アジア競技大会開催を契機に整備された国立競技場は,7万2,000人収容のスタンドに大増築され,また,代々木に屋内総合競技場(プール,バスケットボール場)を加えるなど,競技施設の整備が行われた。

 この大会において,日本は計29個のメダルを獲得するなど大きな成果を収めた。これを契機に,我が国の競技水準は飛躍的に向上するとともに,国民のスポーツに対する関心が高まり,スポーツの科学的研究も著しく発展した。また,整備された競技施設は,大会後広く国民に開放され,スポーツの普及・振興に役立てられるとともに,我が国の競技水準の向上に大きな役割を果たしている。さらに,女子選手村跡は,国立オリンピック記念青少年総合センターとして,青少年の宿泊研修施設に使われている。昭和41年には,この大会の輝かしい成果を記念し,スポーツに親しみ健康な心身を培う日として,大会の開会式が行われた10月10日が国民の祝日「体育の日」に制定された。


4 高度経済成長とスポーツ(昭和40年代)

 昭和40年代に入ると,急激な経済成長に伴う生活様式の変化により,日常生活における身体的な活動が減少するとともに,公害の発生や自然環境の破壊の問題などが健康に対する国民の関心を高め,生活水準の向上や余暇時間の増大を背景にして,スポーツへの欲求を急速に強めた。

 このような状況に対応して,保健体育審議会は昭和47年12月,「体育・スポーツの普及振興に関する基本方策について」の答申を文部大臣に提出した。この答申は体育・スポーツの普及振興の新しい基本方向を示し,1)体育・スポーツ施設について人口規模別に整備すべき水準を設定するとともに,2)体育・スポーツへの参加を促進するためのスポーツ教室の開設の促進,3)指導者の養成・確保,4)体育・スポーツに関する研究体制の整備,5)必要な資金の確保と運用など,広範囲にわたり具体的な施策が提言された。文部省は,地方公共団体やスポーツ団体などとも協力しながら,答申が示した方向に従って,体育・スポーツ施設の整備などの関係施策の推進に努めた。

 学校体育においては,昭和43〜45年の学習指導要領の改訂により,総則に「体育」の項が設けられ,望ましい人間形成の上から調和と統一のある教育課程の実現を図るため,教科のみならず学校の教育活動全体を通じて体育に関する指導の充実を図ることの必要性が強調された。

 昭和47年には,アジアで最初のオリンピック冬季競技大会が札幌市で開催され,35か国から1,128人の選手が参加した。大会の開催を契機に,世界に誇り得る競技施設が整備されるとともに,国民の冬季スポーツに対する関心が高まった。オリンピック東京大会に続くこの大会の成功により,国際社会の中での我が国の存在は一層確かなものとなった。


5 スポーツの多様化と学校体育の充実(昭和50年代)

 昭和50年代に入ると,テニスクラブやスイミングクラブなど民間のスポーツ施設の開設が盛んになるとともに,ジョギング,エアロビクス,ゲートボールなどに親しむ人が増えるなど,スポーツの多様化が見られ始めるようになった。また,昭和52年にはプロ野球で王選手が本塁打の世界最高記録を樹立するとともに初の国民栄誉賞を受賞した。

 昭和50年には,市町村の社会体育行政を充実させ,地域住民のスポーツ活動の普及振興を図るために,社会教育主事(スポーツ担当)の派遣制度が開始された。

 学校体育においては,昭和52・53年に学習指導要領が改訂され,小学校では,児童の発達段階に応じて運動の楽しさを体得するとともに,運動の仕方を身に付けるよう,低学年(1・2年),中学年(3・4年)に体の基本的な動きや各種の運動の基礎となる動きを身に付けるための「基本の運動」とドッジボールなど集団で勝敗を競う「ゲーム」を取り入れ,中学校では効果的な指導と内容の弾力的な取扱いができるよう,運動やスポーツ種目のまとまりである運動領域を整理統合した。このほか,高等学校において体育の専門教育を主とする学科のための教科及び科目の内容が初めて明示された。

 児童生徒の対外競技については,それまで小学校では校内競技に,中学校では都道府県内にとどめることとされていたが,児童生徒の運動競技が一層活発かつ適正に行われるよう,昭和54年に基準を改訂し,学校教育活動としての対外競技についても,小学校では同一市町村又は隣接市町村程度の範囲で実施し,中学校では地方ブロック大会及び全国大会へ参加できる道を開いた。

 昭和56年には社会体育の分野における実践的指導者の養成を主眼に,国立大学としては初の体育系単科大学である鹿屋体育大学が設置され,昭和59年度から学生を受け入れた。


6 21世紀に向けたスポーツ振興方策(昭和60年代以降)

 その後,都市化の進展,余暇時間の増大,高齢化の進行などに伴い,スポーツ活動に対する国民のニーズが更に増大し,かつ多様化してきた。このため,国民の生涯にわたるスポーツ活動の振興を図っていくことが大きな課題となった。また,競技スポーツの分野では,世界の競技水準が著しく高まる中で,我が国の競技力の水準は相対的に低下し,その向上が重要な課題となってきた。

 このような状況を踏まえ,臨時教育審議会は,昭和62年4月の第三次答申において,1)個々人の生活環境や健康,体力などに応じたスポーツ活動が容易に行えるようにするためスポーツプログラム開発や施設の整備,指導者の資質向上などの推進,2)競技スポーツの向上のための青少年のスポーツ活動の促進,コーチ制度の確立,国際交流の推進,3)スポーツ医,科学研究の推進,などを指摘した。

 また,内閣総理大臣の懇談会「スポーツの振興に関する懇談会」は,昭和63年3月の報告において,1)スポーツに関する社会的評価の向上,2)スポーツ指導者の養成確保,3)スポーツ施設の充実,4)スポーツ振興のための財源措置などを提言した。

 文部省では,これらの答申等を踏まえ,21世紀に向けたスポーツの振興方策について,昭和63年4月,保健体育審議会に諮問を行い,平成元年11月に答申を得た。

 この答申は,昭和47年答申を踏まえつつ,広く生涯スポーツと競技スポーツの両面にわたるスポーツ振興の意義付けを行うとともに,21世紀に向けたスポーツの振興の基本的方向として,1)スポーツ施設の整備充実のため地方公共団体におけるスポーツ施設の整備の指針を示すとともに,2)生涯スポーツの充実のための多様なスポーツ種目の普及や指導者の養成確保などの各種事業の推進,3)競技スポーツの振興のための指導者の資質向上や指導体制の確立,スポーツ科学研究の推進,4)スポーツの国際交流の推進,5)プロスポーツの健全な発展の助長,6)スポーツ振興のための資金の確保などを示した。この答申で,スポーツを人類の「文化」の中でも極めて重要なものと意義付けたこと,生活をより豊がにするものとして「見るスポーツ」を取り上げていること,また,プロスポーツを取り上げていることなどは,これまでの答申等にはない画期的なものとして注目された。

 文部省においても,スポーツに対する国民のニーズの増大と多様化にこたえ,また,我が国選手の競技力の向上を図るため,行政の積極的な対応が必要になったことから,昭和63年7月,従来のスポーツ課を生涯スポーツ課と競技スポーツ課に分け,それぞれの分野についての行政を独自の課で体系的に行うこととし,平成元年の保健体育審議会答申の実現に向け,各種の施策を実施している。また,国立競技場と日本学校健康会が,広く国民の体力や健康の保持増進の面で密接な関係を有するものであることから,昭和61年3月に両特殊法人を統合して新たに日本体育・学校健康センターを設置した。

 また,スポーツ団体については,(財)日本体育協会が,長年,我が国スポーツ界の統轄団体として,国際競技力の向上と国民スポーツの振興の両面を担ってきたが,昭和63年のソウルオリンピックにおける我が国選手の不振などを契機として,我が国の競技水準の一層の向上を図るという観点から,従来(財)日本体育協会の一委員会であった日本オリンピック委員会が独立し,財団法人化された。これにより,国際競技力の向上は主として(財)日本オリンピック委員会が,国民スポーツの振興は主として(財)日本体育協会が担当する体制となった。

 さらに,プロスポーツ関係の団体については,平成2年12月に,(財)日本プロスポーツ協会が統轄組織として財団法人化された。


7 スポーツ振興基金の創設(平成2年)

 我が国スポーツの一層の振興を図るため,安定的・継続的な財源の下に,競技水準の向上と国民のスポーツの裾野を拡大するための諸活動に援助を行うスポーツ振興基金を設置することは,スポーツ関係者を始め,国民が強く待ち望んでいたことであった。そこで,平成2年度の補正予算において,日本体育・学校健康センターにスポーツ振興基金を設置するための政府出資金を計上するとともに,日本体育・学校健康センター法の一部改正を行い,平成2年12月,日本体育・学校健康センターにスポーツ振興基金を創設した。スポーツ振興基金は,その運用益により,スポーツ団体が行う選手強化活動等に対する援助を行うものであり,これにより我が国スポーツ振興のための支援体制が強化がされることとなった。


前(節)へ  次(節)へ

ページの先頭へ   文部科学省ホームページのトップへ