ここからサイトの主なメニューです
前(節)へ  次(節)へ
第4章
教育投資の配分
3 教育投資の分担
(2) わが国の史的考察


次に,わが国の教育費の,国・地方の負担関係の歴史をたどってみよう。

明治初期においては,教育は個人の利益として考えられたため,受益者負担の原則が支配し,小学校の経費も授業料でまかなうことが原則とされていたが,教育の普及は地域社会の発達の基礎となるという認識が強まり,明治13年には,教育令改正によって,小学校経費は原則として市町村負担とするという設置者負担の原則が立てられて今日にいたっている。明治14年以降今日までの,国・地方の負担関係の推移をみると,次の表に示すとおりである。なお,国・地方の負担する教育費が,それぞれの財政規模のなかでどの程度の比重を占めてきたかをみるために,行政費中に占める教育費の比率をあわせて示した。

表37 公教育費の国・地方の負担区分

表38 国・地方の行政費に占める公教育費の比率

教育費は最初,市町村の負担が圧倒的に大きく,しだいに県の負担が増加し,次いで国の負担増加という現象が現われて,市町村の負担する教育費の比重はしだいに小さくなってきたことがわかる。国と県の負担する教育費の比率は,ともに増加しているが,両者の比率の伸びを比較すれば,国の負担額の比率の伸びのほうが大きい。

国の負担した教育費について述べれば,明治5年の「小学補助委託金」制度,明治27年の「実業教育費国庫補助金」制度,明治33年の「小学校教員年功加俸国庫補助金」制度などを通じて,国は早くから教育に関する補助金を支出していたが,義務教育費について,国が多額の負担を行なうようになったのは,大正7年の「市町村立義務教育費国庫負担法」の成立以来のことである。この法律は,当時,増大する傾向にあった市町村の教育費負担を軽減すること,ならびに全国的に教育の水準の向上をはかることを目的として制定されたものであったた。この法律によって,国は小学校教員のほう給の一部を負担することとなり,その負担額も年々増加した。国の負担した教育費の比率は,明治14年の10.2%から大正9年には,14.7%,大正14年には22.7%,さらに昭和5年には31.6%へと大幅な上昇を示しているが,これは主として,義務教育費に対する国の負担額の増大に起因するものである。なお,大正年代にはいって,高等教育機関が大いに拡充され,高等教育費に対する国の支出が増大したことも,大正期以後,国の教育費負担率の増大するひとつの原因となっている。

昭和15年には「義務教育費国庫負担法」が新たに制定され,市町村立小学校教員の給与費の1/2は国が負担することとなった。国の負担した教育費の比率が昭和15年に40.3%に上昇しているのは,主としてこの制度の発足によるものである。

この比率は第二次世界大戦後さらに増加し,昭和35年には,48.4%に達している。国の行政費のうち教育費の占める比率も,国の教育費負担率の増大につれて増加し,明治14年にはわずか1.2%にすぎなかったものが,昭和35年には21.5%になっている。戦後,国の負担率が著しく増大したのは,ひとつには,戦災復旧施設費や新制中学校の施設整備に対する国の負担が大きかったことにもよるが,戦前に比べて教育の内容が充実したこと,特殊地域・へき地教育の振興,産業教育・理科教育の振興など,各種の教育の振興を目的とした補助金が増大していることなどによるものである。

県の負担する教育費の比率についてみると,国費の場合ほど顕著な増加はみられないが,明治14年の14.3%から昭和35年には30.3%へと,順調な伸びを記録している。特に明治33年と昭和15年の2回にわたってかなりの増加をみせているが,前者は小学校費に対する県費補助の増大と,県立中等学校の増設および生徒数の増加によるものであり,また,後者は昭和15年から市町村立小学校の教員給与が県費負担とされたことによるものである。この県費負担への切り替えは,市町村の財政力の不均衡,特に財政力の貧弱な町村における教育費の負担過重に対処して,教員のほう給を府県の負担に移して,市町村の財政上の負担を軽減し,かつ教員の給与水準を適正化する目的で行なわれたものであった。この制度変革にともなって,県の行政費のうち教育費の占める割合も,明治33年と昭和15年に大幅に増加している。

市町村の教育費負担率は,明治14年の75.5%から,昭和35年には21.3%へと大きく減少しているが,市町村の行政費のうち教育費の占める割合も,同じ期間に41.1%から22.5%へと減少していることがわかる。


前(節)へ  次(節)へ

ページの先頭へ 文部科学省ホームページのトップへ