第1部 「基礎研究による知の蓄積と展開」の第1章として、過去にノーベル賞を受賞した我が国を代表する研究者の言葉を振り返りつつ、基礎研究の持つ本質とその重要性について触れるとともに、基礎研究を支える基盤的な力の現状分析(論文数、研究資金、研究人材、研究環境等)を行う。
基礎研究は主に「真理の探究」、「基本原理の解明」や「新たな知の発見、創出や蓄積」などを志向する研究活動である。それは誰も足を踏み入れたことのない知のフロンティアを開拓する営みであり、研究者たちは絶えず独創的なアイデアや手法を考案し、試行錯誤を繰り返しながら、少しずつ未知を既知へと変えていく。このため、研究領域によって研究期間などの状況は大きく異なる(※1)ものの、基礎研究は目に見える成果が現れるまで長い時間を要したり、その成果がどのような役に立つのかが直ちに分からなかったりすることが多い。しかしながら、その結果として解明・創出された「真理」、「基本原理」や「新たな知」は、科学的に大きな価値があることはもちろん、既存の技術の限界を打破し、これまでにない革新的な製品やサービスを生み出すなど、私たちの暮らしや社会の在り方を大きく変える可能性を秘めている。
また、昨今の社会は、経済成長や生産性向上のみを目指すのではなく、将来像や価値観が多様化し、それらが混在する様相を呈している。地球規模課題への挑戦である持続可能な開発目標(SDGs(※2))達成に向けた取組の推進、デジタル革新と多様な人々の想像・創造力の融合によって、社会の課題を解決し、価値を創造する社会を目指すSociety 5.0等の推進が求められる、変革と多様性の時代へ移っている。IоT(※3)(科学技術が以前からは想像できないほど急速に進展し、モノ(物)がインターネットに接続される情報通信技術)や人工知能(AI(※4))、遺伝子改変技術等の革新的技術の登場がこれまで以上に経済、社会及び政治に影響を及ぼすようになった。我が国においても、資本設備への依存度が高く、製品が価値の中心とされている資本集約型から、スマート化によってあらゆる製品やサービスの高付加価値化が進んだ知識集約型と呼ばれる社会への転換が起こっている。
この知識集約型社会においては、多種多様な知をどれだけ糾合できるかによって将来の可能性や選択肢が変わってくる。そのため、「真理の探究」、「基本原理の解明」や「新たな知の発見、創出や蓄積」など、卓越した新たな発想を追求し、創造する知的活動である「基礎研究(※5)」における多様性と厚みが重要となる。その多様性と厚みを生み出すために、研究者の内在的動機(「知りたい」という人間の根源的欲求)に基づく独創的な研究を支援することの必要性が増している。「基礎研究」による新たな知の創造や蓄積は、それら成果の展開によって、長期的な社会課題の解決や新産業の創出とともに、将来の社会や生活に全く新しい価値をもたらし得る社会発展の基盤であり、その重要性はより一層高まっている。
一方、我が国における科学技術の基盤的な力の現状を見ると、論文数の減少や論文の質の高さを示す指標の一つである被引用Top10%論文数の国際シェアの減少など、研究力に関する国際的地位の低下傾向が危惧されている。2017年Nature誌においても、科学論文の国際シェアの減少など、日本の科学研究が近年失速している旨の指摘が掲載された。
基礎研究については、過去にノーベル賞を受賞した研究者からもしばしばその重要性が指摘されている。例えば、免疫反応にブレーキをかけるタンパク質であるPD‐1(※6)を発見し、2018年(平成30年)にノーベル生理学・医学賞を受賞した京都大学特別教授の本庶佑氏は「生命科学はどういうデザインになっているかを、まだ私たちは十分理解していない。AIやロケットはデザインがあり、目標に向かってプロジェクトが組めるが、生命科学はデザインを組むこと自体が難しい。応用だけをやると大きな問題が生じると思う」と指摘している。また、登山に例えて、「何が正しいのか、重要なのか分からないまま、山を攻めようというのはナンセンス。多くの人がたくさんの山を踏破して、そこに何があるか理解して、どの山が重要か調べる段階だ」と基礎研究における多様性と広がりの重要性を訴えた。
本庶佑氏
提供:京都大学
「オートファジー」という細胞に備えられた分解機構の中心の一つを分子レベルで解明し、2016年(平成28年)にノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅良典氏も、政府の助成対象として産業や医療への応用研究が重視されている現状について「とても危惧している」と指摘したほか、「技術のためではなく、知的好奇心で研究を進められる大事な芽を大学に残してほしい」と訴えている。そして、「基礎研究だけで良いわけではないが、基礎研究がないと新しい進歩はない」と重要性を説明した。国の研究開発の方向性が実用化を想定した出口戦略重視へと移りつつある中で「基礎研究は応用研究と同じ価値判断で評価されるべきではないし、先が分からないから面白い」と強調した。
大隅良典氏
提供:東京工業大学
世界で初めてニュートリノに質量があることを発見し、2015年(平成27年)にノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章氏も「当初の実験目的とは違って予期せぬものが見えたことも、科学研究の醍醐味(だいごみ)。この研究は何かすぐ役に立つものではないが、人類の知の地平線を拡大するようなもの」と述べたほか、「基礎研究は、今すぐ私たちの生活に役立つ性格のものではない。やがて人々の生活に役立つという側面と、物事の真理、自然界のより深い理解に近づくことを通して、人類全体の共通の知的財産を構築する側面、その二つがある」と言及している。
梶田隆章氏
提供:東京大学
それまで不可能とされていた「タンパク質を壊さないでイオン化すること」に世界で初めて成功し、2002年(平成14年)にノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏は、「何かを初めて実験する場合、失敗が多いが、その中に大変新しい展開が隠れている場合がある。100人中99人は落胆してしまうだけの失敗も、自分が何をやったかをきちんと解釈すると、ほかの人が見過ごしてしまうような、百に一つ万に一つの発見に結びつけられるチャンスが転がっている」と、失敗を繰り返しても実験を続ける基礎研究の重要性を述べている。
田中耕一氏
提供:株式会社島津製作所
我が国における科学技術の基盤的な力の現状やノーベル賞受賞決定を契機として、改めて基礎研究に対して焦点が当てられており、我が国の学術研究・基礎研究の持続的な成果創出の可能性をめぐっては、多くの課題が指摘されている。
我が国が将来にわたってノーベル賞級の国際的に傑出した成果を生み出す研究者を輩出し続けることができるのか。また、長期的な社会課題の解決や新産業の創出とともに、将来の社会や生活に全く新しい価値をもたらし得る基礎研究の成果を生み出し続けることができるのか。
その問いに答えるに当たっての出発点として、我が国の科学技術の現状を把握し、その問題点を認識するため、本節では、平成30年版科学技術白書でも取り上げた定量的指標を用いて、研究の量と質を表す論文数とともに、研究を支える研究資金、研究人材、研究環境等を中心に再度俯瞰(ふかん)する。
近年、我が国の論文数の伸びは停滞し、国際的なシェア及び順位は低下している。被引用数Top10%補正論文数(※7)の順位で比較すると、この10年の間に、日本は4位から9位に低下している(第1‐1‐1表)。
また、科学技術・学術政策研究所が作成しているサイエンスマップでは、論文データベースを用いて被引用数が世界で上位1%の論文を共引用分析することにより、国際的に注目を集めている研究領域を抽出している。
第1‐1‐2図に示すように、各国が参画している注目度の高い研究領域(以下「参画領域」という。)を数字で見ると、世界の研究領域数は598領域(サイエンスマップ2002)から895領域(サイエンスマップ2016)へ拡大している。主要国において、特に米国の参画領域数は多く、世界の研究領域数に占める割合は90%以上である。また、英国やドイツの参画領域数は増加しており、世界の研究領域数に占める割合は50~60%程度を維持している。中国は参画領域数及びその割合のいずれも増加している。
一方、我が国の参画領域数は、サイエンスマップ2008以降は停滞傾向にあり、世界の研究領域数に占める割合は、サイエンスマップ2008では41%であったが、サイエンスマップ2014では32%へと9ポイント低下した。サイエンスマップ2016では参画割合は33%であり、1ポイント上昇した。これは、国際共著論文による参画領域の増加等によるものである(※8)。
次に、国立大学法人、私立大学及び国立研究開発法人等の研究や教育を安定的・継続的に支える基盤的経費の推移を見る。
国立大学法人運営費交付金については、平成16年度から比較すると減少しているが、近年は同水準で推移している状況である(第1‐1‐3図)。また、私立大学等経常費補助金についても平成16年度から比較すると減少しているが、近年は同水準で推移している状況である(第1‐1‐4図)。国立研究開発法人の運営費交付金については一時減少していたが、平成27年度以降は増加している(第1‐1‐5図)。
一方、上述の基盤的経費と同様に研究を支える主要な資金である競争的資金(※9)については、研究力及び研究成果の最大化や一層の効果的・効率的な活用が求められる。あわせて、基盤的経費及び競争的資金の双方についての改革と充実を図るとともに、政府の資金配分に当たっては、両経費の最適な組合せが常に考慮されることが必要であるとともに研究が軌道に乗って大型の競争的資金を獲得できるようになるまでの研究期間における基盤的経費等による支援も重要である。
また、第1‐1‐6図は、経済協力開発機構(ОECD(※10))加盟国を中心に、基礎研究費について、国内の4部門(高等教育部門、政府部門、企業部門、民間非営利部門)のうち、高等教育部門と政府部門の占める割合を国際比較したものである。日本は53.4%となっており、主要国と比較して、基礎研究費に占める高等教育部門と政府部門の支出割合が低い状況である。
研究の重要な担い手である博士課程の入学者数を分野別に見ると、平成30年度において、保健系が6,271人(42.1%)、工学系が2,562人(17.2%)の順に多くを占めている。理学系、人文科学系、社会科学系はそれぞれ1,000人程度になっている。平成15年度と比較すると、保健系のみ増加しているが、博士課程入学者総数としては減少傾向にある(第1‐1‐7図)。
研究者にとって、研究時間、研究体制及び研究マネジメント等の研究環境も重要な要素である。
第1‐1‐8図は大学等職員の研究時間割合の推移を示したものである。研究時間割合の変化を見ると、平成14年から平成20年までの6年間に全分野平均で46.5%から36.5%に低下し、平成20年から平成25年までの5年間では35.0%に微減している。一方、教育時間割合は平成14年から平成25年までの11年間で23.7%から28.4%に増加した。また、社会貢献としての社会サービス活動時間は、研究成果の活用に関する技術相談等の研究関連、市民講座等の教育関連及び「その他:診療活動等」のいずれも平成14年から平成20年までの間で大幅に増加しており、平成25年までの間では特に「その他:診療活動等」の時間割合が大幅に増加している。さらに、「その他の職務活動(学内事務等)」の時間割合については微減傾向にある。
職務活動の時間割合の変化は学問分野(※11)によって状況が異なる。平成14年から平成20年にかけては、全ての学問分野において研究時間割合が減少している。これは、大学等教員の教育時間割合の増加、社会サービス時間割合の増加によるものと考えられる。平成20年から平成25年にかけては、保健分野における研究時間割合が38.8%から31.9%まで減少している。一方、「社会サービス活動(その他:診療活動等)」に係る時間割合が著しく増加している。保健分野以外については、平成20年から平成25年にかけて、全ての分野で研究時間割合が微増しており、わずかに改善が見られる(第1‐1‐9図)。なお、保健分野の教員数は全体の約30%を占めているため、保健分野における時間割合の変化が大学等教員全体の研究時間割合の変化に大きく影響を及ぼしている。
大学等の教員の研究や研究事務を補助する研究支援者(※12)の配置についても研究者の研究環境において重要な要素である。
大学等における研究支援者数は、平成30年では研究事務その他の関係者が最も多く4.5万人、研究補助者が1.5万人、技能者は1.3万人である。研究事務その他の関係者、研究補助者は増加しているが、技能者はほぼ横ばいである(第1‐1‐10図)。
全体として、我が国の大学等における研究支援者数は増加傾向にある。しかし、我が国全体の研究者一人当たりの研究支援者数は、諸外国と比べて少ない(第1‐1‐11図)。
第1節において触れたとおり、革新的な科学的発見は、研究者自身の不断の努力とその発想の独創性や斬新性から産み出されるものである。そのため、研究者がその能力を十分に発揮できる環境を整えることが重要となる。しかしながら、第2節において俯瞰(ふかん)したとおり、論文数、研究資金、研究人材や研究環境などの定量的指標を見ると、我が国の科学技術の基盤的な力は相対的に低下傾向にある。
我が国はこの現状をどのように捉え、次にどこへ進んでいくべきか。第2章からは、基礎研究が社会にもたらす価値や基礎研究を支える技術等について事例を交えながら具体的に紹介し、基礎研究による知の蓄積と展開についての意義と重要性について今一度考える機会としたい。
科学技術・学術政策局企画評価課
-- 登録:令和元年07月 --