検 定 意 見 書
受理番号 14-76 | 学校 高等学校 | 教科 地理歴史 | 種目 日本史B | 学年 |
番号 | 指摘箇所 | 指 摘 事 項 | 指 摘 事 由 | 検定基準 | |
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頁 | 行 | ||||
1 | ![]() ![]() |
文字史料を読む | 学習指導要領に示す「内容の取扱い」の(2)のアの(ア)「作業的、体験的な学習を重視すること」に照らして、扱いが不適切である。 | 2-(1) | |
2 | ![]() ![]() |
歴史資料にふれる | 学習指導要領に示す「内容の取扱い」の(2)のアの(ア)「作業的、体験的な学習を重視すること」に照らして、扱いが不適切である。 | 2-(1) | |
3 | 8 | 図 | 図中の「糸魚川」 | 誤りである。 | 3-(1) |
4 | 16 | 3 − 5 |
魏から邪馬台国の国際的地位を認められることで、狗奴国や高句麗などの国内外の勢力に対抗しようとしたためだった。 | この時期の朝鮮半島の状況に照らして不正確である。 | 3-(1) |
5 | 19 | 写真説明 | 「好太王碑」中の、「・・海を渡りて百残□□□羅を破り、以つて臣民となす」 | 現在の学説状況に照らして不正確である。 | 3-(1) |
6 | 19 | 17 | 4世紀後半には、高句麗が百済や新羅と攻防をくりかえした。 | 当時新羅は高句麗に対して従属的な地位にあり不正確である。 | 3-(1) |
7 | 21 | 19 − 21 |
6世紀には仏教や儒教・医術・易などが伝わり、また、文字をもたなかった日本列島に漢字が伝わり、 | 漢字の伝来を6世紀とするのは不正確である。 | 3-(1) |
8 | 26 | 年表 | 630・・(第1次遣隋使) 669・・を遣隋使に任命 702・・を遣隋使 |
誤りである。 | 3-(1) |
9 | 26 | 19 − 22 |
また、そのころ編まれた『天皇記』『国記』といった歴史書にも・・いかに古いものであるかが強調されていることにもうかがえる。 | 『天皇記』『国記』が現存しており、その内容が把握できるかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
10 | 31 | 脚注![]() |
藤原京は、東西約2.1![]() ![]() |
現在の学説状況に照らして不正確である。 | 3-(1) |
11 | 33 | 脚注![]() |
718(養老2)年に養老律令が制定されるが、大宝律令の内容と大差はなく、養老律令が施行される757(天平宝字元)年まで施行された。 | 説明不足で理解し難い表現である。 | 3-(2) |
12 | 57 − 58 |
18 − 2 |
969(安和2)年、忠平の子の実頼は、源満仲の密告によって、源氏出身の有力公卿で左大臣の源高明を失脚させ(安和の変) | 安和の変の首謀者を藤原実頼とするのは一般的ではなく、誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
13 | 58 | 11 − 12 |
藤原氏などの最高官位である「氏の長者」は、・・ | 不正確である。 | 3-(1) |
14 | 58 | 14 − 15 |
摂関家が太政官の会議を主宰して国政を運営したため、詔や勅にかわって太政官が出す太政官符が増えていった。 | 摂関家の国政の運営により、太政官符が増加したかのように誤解するおそれのある表現である、 | 3-(2) |
15 | 60 | 表 | 源氏物語−未詳 | 誤りである。 | 3-(1) |
16 | 63 | 16 | 結婚は妻問い婚が一般的で、子どもは妻の家で養育されたが、・・ | 夫が生涯にわたって妻と別居するかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
17 | 64 − 65 |
テーマ学習「米と稲作文化」(「法と社会のうつりかわり」「日本列島を旅した人びとの東西観」「読み・書きの歴史」「移民県−広島県から長野県へ」を含めて) | 学習指導要領に示す「内容の取扱い」の(2)のイ「内容の(1)のイの(ア)から(オ)までの中から、生徒の実態等に応じ、二つ程度を選択して主題を設定し」に照らして、選択して学習することができるよう配慮されていない。 | 固有 2-(1) |
|
18 | 71 | 脚注![]() |
白河法皇以後歴代の院は、法勝寺・尊勝寺など・・(六勝寺)を建立した。 | すべてを院が建立したわけではなく、不正確である。 | 3-(1) |
19 | 73 | 18 − 21 |
・・崇徳上皇は源為義・源為朝・・兵をあげ天皇側を攻めた。しかし源義朝・平清盛らの反撃にあって敗退した(保元の乱)。 | 保元の乱で先に攻めたのは天皇側であり、不正確である。 | 3-(1) |
20 | 79 | 2 − 4 |
・・頼朝は、相模の石橋山の戦いで平氏にやぶれたが、鎌倉に入り、伊豆の北条時政の娘政子と婚姻するなど、・・ | 頼朝と政子との婚姻が石橋山合戦のあとであるように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
21 | 80 | 2 − 4 |
1185(文治元)年、頼朝は後白河法皇の要請をうけ、範頼と義経に平氏追討を命じ、長門の壇の浦で平氏を滅亡させた。 | 後白河法皇の要請が1185年であるかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
22 | 83 − 84 |
9 − 1 |
・・武士がはじめて仲恭天皇にかえて後堀河天皇を立てた。 | 何がはじめてであるのか理解し難い表現である。 | 3-(2) |
23 | 98 | 16 − 17 |
元は、三別抄の乱をしずめると、翌1274(文永11)年、・・ | 同ページ地図「元による東アジア各国への侵略」中の、「1271 三別抄を破る」との関連で、理解し難い表現である。 | 3-(2) |
24 | 125 − 126 |
テーマ学習「法と社会のうつりかわり」 | 学習指導要領に示す「内容」の(1)のイの(オ)「各時代における法と人とのかかわりや法が社会に果たす役割について追究させる」に照らして、制度の変化のみ記述されており、扱いが不適切である。 | 2-(1) | |
25 | 135 | 脚注![]() |
〔イエズス会は〕スペインで結成された団体。 | 誤りである。 | 3-(1) |
26 | 148 − 149 |
16 − 1 |
幕府は、ポルトガル商人を排除し、糸割符仲間からの献金を手に入れた。しかし、中国産生糸の需要はいぜん高く、・・貨幣用の金銀に事欠くことになった。 | 前後の文章の関係が不明確であり、理解し難い表現である。 | 3-(2) |
27 | 152 | 6 | ・・江戸城の警固などにあたる藩士![]() 〔脚注 ![]() |
本文と脚注との関連が不適切である。 | 2-(9) |
28 | 161 | 7 | 譜代大名筆頭の松平氏 〔脚注 ![]() ![]() |
不正確である。 | 3-(1) |
29 | 172 | 11 − 13 |
一族のなかでは、本家が分家よりも格が高く、家のなかでも、家長が妻や子どもらに対して絶大な権限をもったため、長子単独相続が広まり、・・ | 文章中の因果関係が、説明不足で理解し難い表現である。 | 3-(2) |
30 | 178 − 179 |
テーマ学習「日本列島を旅した人びとの東西観」 (p.217−218「移民県−広島県から長野県へ」も同様) |
学習指導要領に示す「内容」の(1)のイ「時代ごとに区切らない主題を設定し」に照らして、特定の時代に偏っており、扱いが不適切である。 | 2-(1) | |
31 | 217 − 218 |
テーマ学習「移民県−広島県から長野県へ」 | 学習指導要領に示す「内容」の(1)のウ「地域社会の歴史と文化」に関する内容であるが、当該記述は選択して学習することとなっている学習指導要領に示す「内容」の(1)のイの(エ)に関する内容でもあり、扱いが不適切である。 | 2-(1) | |
32 | 218 | 8 − 9 |
1932年1月、「満州国」が建国された。 | 建国の月が誤りである。 | 3-(1) |
33 | 229 | 1 − 3 |
この事件をきっかけに、攘夷の困難さを知った薩摩藩は会津藩とむすんで・・・長州藩の勢力を一掃した(八月十八日の政変)。 | 薩摩藩が長州藩を排除しようとした要因について、攘夷の困難さを知ったことにあると誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
34 | 230 | 14 − 15 |
・・薩長同盟が秘密裡にむすばれた。そのため、薩摩藩が主力の長州征討軍の士気はあがらず・・ | 薩摩藩が長州征討軍として出陣したかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
35 | 231 | 脚注![]() |
・・これは、幕末からみられた朝鮮を蔑視する見方が、実際に侵略を行なう段階に近づいたことを示している。 | 未だ江戸幕府が崩壊していない段階であり、理解し難い表現である。 | 3-(2) |
36 | 236 | 21 − 24 |
1872年には幕府がアメリカに許可していた江戸・横浜間の鉄道敷設権と経営権を買いもどし、 | アメリカに対しては金銭の支払いはなく、不正確である。 | 3-(1) |
37 | 250 | 12 − 13 |
・・の増税などを行なって歳入を増加させ、正貨保有量を増やし、その余剰金で不換紙幣を処分した(紙幣整理)。 | 歳入増加、正貨保有量増加、不換紙幣処分の関係が説明不足で理解し難い。 | 3-(2) |
38 | 256 | 2 − 6 |
また大臣は天皇の最高諮問機関をになう枢密院などの検討をへて選ばれたものを・・ | 不正確である。 | 3-(1) |
39 | 256 − 257 |
28 − 3 |
この民法では・・・女性には姦通罪が適用され・・ | 民法に姦通罪があるかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
40 | 258 | 25 | 立憲自由党 | 不正確である。 | 3-(1) |
41 | 259 | 18 | 1889年、朝鮮政府は穀物の搬出を禁止したが、・・ | 朝鮮政府とするのは不正確である。 | 3-(1) |
42 | 260 | 3 | これに対して、日本政府は議会を解散して朝鮮出兵の準備を急いだ。 | 議会が出兵の阻害要因であったかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
43 | 260 | 4 − 5 |
日本も天津条約にしたがって | 天津条約に規定されているかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
44 | 260 | 8 | ロシアにも了解をえた日本は、 | ロシアが了解したかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
45 | 268 | 12 | 義和団という宗教団体 | 義和団の性格について不正確である。 | 3-(1) |
46 | 271 | 脚注![]() |
(1)日本の朝鮮における独占的支配権をみとめること | この時点で日本の支配権が容認されたかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
47 | 272 | 8 − 9 |
・・堺利彦らは日本社会党を結成し、労働争議や東京市電値上げ反対運動を支援すると、・・西園寺内閣は解散を命じた。 | 日本社会党の解散命令理由が不正確である。 | 3-(1) |
48 | 272 | 21 − 23 |
このため、軍人は反日武装闘争(義兵闘争)にくわわり、伊藤博文は独立運動家の安重根に暗殺された。統監府はこれを武力で弾圧し、1909年に司法権・警察権をうばい、・・ | 日本が韓国の司法権を奪ったのが伊藤暗殺後であり、また警察権を奪ったのが1909年であるかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
49 | 274 | 1 − 3 |
辛亥革命がおきると、陸軍は、これを警戒して朝鮮派遣軍の増強を計画し、朝鮮への2個師団増設案を要求した。 | 陸軍は辛亥革命以前から増師を計画しており、不正確である。 | 3-(1) |
50 | 285 | 脚注![]() |
ロマノフ王朝の皇帝(ツアーリ)による圧政に対する革命は、3月革命と11月革命の二度くりかえされた。 | 帝政に対する革命が二度おこされたかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
51 | 285 | 6 | 1922年、内外の批判をうけてようやく撤兵した。 | 同ページ脚注![]() |
3-(1) |
52 | 286 | 14 − 15 |
1919年、パリのヴェルサイユ宮殿で連合国とドイツとの間の戦争状態をおわらせるための講和会議が開かれ、・・ | 講和会議の開催場所をヴェルサイユ宮殿とするのは不正確である。 | 3-(1) |
53 | 289 | 脚注![]() |
三菱系の東京電灯会社は・・ | 誤りである。 | 3-(1) |
54 | 296 | 13 − 14 |
清浦内閣は政党に対して強硬姿勢を打ちだした。そのため、野党の憲政会と革新倶楽部の両党は・・ | 清浦内閣の政党に対する姿勢について誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
55 | 302 | 5 | ・・移入されて先端風俗となった![]() |
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2-(9) |
56 | 305 | 地図 | 日本から上海への矢印 | 説明不足で理解し難い。 | 3-(2) |
57 | 305 | 23 − 24 |
政友会は、共産主義思想を弾圧し、議院内閣制を批判する政党で、積極(強硬)外交をとり、軍事力をもちいて・・ | 政友会が一貫してこのような政策であったかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
58 | 308 | 23 − 25 |
1931年、満州で日本の軍人が行方不明となった事件や、満州在住の朝鮮人農民と国境警備にあたる中国の保安隊とが武力衝突した事件 | 不正確である。 | 3-(1) |
59 | 309 | 11 − 13 |
諸外国も日本の侵略行為をきびしく批判したため、国際連盟は・・を団長とする調査団を日本・中国へ派遣した。そのため、軍部は、1932年に・・衝突させた(第1次上海事変)。 | リットン調査団派遣の理由及び第1次上海事変の原因について誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
60 | 309 | 脚注![]() |
若槻首相は、民政・政友両党の連立内閣を樹立させて、満州事変を収拾しようとしたが、安達謙蔵内務大臣は軍部を入れた挙国一致内閣を構想し、閣内不一致で倒閣した。 | 若槻内閣崩壊の原因が不正確である。 | 3-(1) |
61 | 310 | 8 − 9 |
かえって、事件のたびごとに軍部の発言力は強まり、あとを継ぐ政党内閣はなく、・・ | 説明不足で理解し難い表現である。 | 3-(2) |
62 | 310 | 15 − 16 |
・・リットン報告書にもとづいて日本の満州占領は国際法違反であるとする勧告が・・ | 国際法違反とはしておらず、不正確である。 | 3-(1) |
63 | 311 | 側注![]() |
三上卓らの・・クーデタ。 | 本文に、脚注に対応する注番号が付されておらず、組織が不適切である。 | 2-(9) |
64 | 311 | 脚注![]() |
1935年の、・・勢力を拡大した。 | 本文に、脚注に対応する注番号が付されておらず、組織が不適切である。 | 2-(9) |
65 | 311 − 312 |
11 − 2 |
犬養内閣の高橋是清大蔵大臣は、金本位制を停止し、・・管理通貨制度に移行した。これらの政策を実施するには、政府財源だけでは足りず、多額の赤字国債を発行しておぎなっていった。 | 前後の文章の関係が説明不足で理解し難い表現である。 | 3-(2) |
66 | 316 | 3 − 6 |
ドイツでは、1933年、ヒトラーが国家(国民)社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を組織して・・をとなえ・・国民の支持を集め、首相となった。 | ヒトラーがナチスを1933年に組織したかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
67 | 316 | 11 − 12 |
1938年のミュンヘン会談ではドイツのオーストリア併合をみとめた。 | 不正確である。 | 3-(1) |
68 | 317 | 8 − 9 |
・・広田弘毅内閣の組閣にあたって、軍部大臣現役武官制を復活させて圧力をかけ・・ | 軍部大臣現役武官制復活は組閣後であり、不正確である。 | 3-(1) |
69 | 317 | 13 | 軍閥ごとに異なっていた通貨 | 中国において通貨が異なっていた主要因は軍閥の存在にあるのではなく、不正確である。 | 3-(1) |
70 | 318 | 17 − 19 |
・・さらに日本・「満州」・「中国」の3か国による「東亜新秩序」建設の声明(第2次近衛声明)を出して、みずから和平の道を閉ざした。 | 第2次近衛声明の内容について誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
71 | 321 | 11 − 12 |
・・また、輸出入品等臨時措置法・臨時資金調整法などを制定した![]() ![]() |
本文と脚注との関連が不適切である。 | 2-(9) |
72 | 326 | 見出し | アジア・太平洋戦争 | アジア・太平洋戦争という用語は、現在一般的とは言い難い。 | 2-(4) |
73 | 326 | 6 − 7 |
日本は、中国からの物資獲得がうまくいかなくなったため、あらたに東南アジア進出(南進)計画をすすめるようになった。 | 日本の戦略物資獲得はおもにアメリカや東南アジアからであり、不正確である。 | 3-(1) |
74 | 326 | 12 − 13 |
日独伊3か国による世界再分割をめざすための日独伊三国同盟を締結した。 | 三国同盟の実態について誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
75 | 327 | 脚注![]() |
ハル国務長官と野村吉三郎駐米大使による日米交渉は・・しかし、松岡洋右外務大臣が強硬に反対したため、近衛首相は松岡をはずして、第3次近衛内閣を組織した。 | 本文の「ハル−ノート」に関連付けて扱われていない。 | 2-(10) |
76 | 329 | 15 − 16 |
1943年、日本は「満州国」や中国(南京汪兆銘政権)、タイ、フィリピン、ビルマなどの占領地から東京に代表を集めて大東亜会議を開き、 | タイを占領地に含めるのは不正確である。 | 3-(1) |
77 | 336 | 6 − 8 |
・・10月、米英仏ソ中の5か国が中心となって・・国際連合が発足した。 | フランスが国連発足の際の中心の一つであったかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
78 | 339 | 脚注![]() |
裁判中の死亡者3名であった。 | 誤りである。 | 3-(1) |
79 | 341 | グラフ | 「衆議院議員総選挙における政党の勢力分野」中の「日本民主党」 | 不正確である。 | 3-(1) |
80 | 341 | 6 − 7 |
この直後、マッカーサーは批判をかわすために、吉田首相に総選挙の実施を指示した。 | 総選挙実施の支持の理由について、誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
81 | 343 | 囲み | 改正民法 | 改正された民法であるかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
82 | 344 | 3 − 9 |
1945年11月、幣原内閣は・・5町歩(5ha)とし、小作料は金納とする農地改革案を作成した。しかし、農民運動や労働運動の高まりを恐れた総司令部は・・実施されなかった | 第1次農地改革が実施されなかった主因が農民運動などにあるかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
83 | 345 | 写真説明 | 墨ぬり教科書 資料不足のために・・ | 説明不足で理解し難い表現である。 | 3-(2) |
84 | 351 | 脚注![]() |
金日成主席 | 当時は首相であり、誤りである。 | 3-(1) |
85 | 360 | 19 − 20 |
松下電器工業(のちのパナソニック)や・・本田技研工業(のちのホンダ) | 誤りである。 | 3-(1) |
86 | 363 | 5 − 6 |
韓国との間では、対日賠償請求と国交回復のための日韓交渉をつづけてきたが、・・ | 国交正常化と賠償問題とが同列に扱われていたかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
87 | 363 | 7 − 8 |
しかし、1960年に軍人の朴正熙がクーデタによって政権をにぎり、 | 1960年は誤りである。 | 3-(1) |
88 | 364 | 7 | 最前線基地 | 実際に戦場であるかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
89 | 364 | 26 − 27 |
企業は製品輸入の必要がなくなったため、大量の製品の販売先を外国にたよる輸出依存型の産業構造ができあがっていった。 | 説明不足で理解し難い表現である。 | 3-(2) |
90 | 370 | 写真説明 | ニクソン大統領は、・・1979年に中国と国交を回復した。 | 誤りである。 | 3-(1) |
91 | 370 | 13 − 16 |
世界経済もまた、1971年に為替相場が変動相場制に移行した後、・・1973年・・固定相場制は崩壊し、主要先進国は変動相場制に移行した。(p.371![]() ![]() |
変動相場制への移行時期について、説明不足で理解し難い表現である。 | 3-(2) |
92 | 370 | 18 − 19 |
〔田中角栄内閣は〕再度の円レートの切上げをふせぐために「日本列島改造論」にもとづく内需拡大政策を実行にうつした。 | 円交換レートの問題と日本列島改造論との関係について、説明不足で理解し難い表現である。 | 3-(2) |
93 | 375 | 9 | 金利の引下げ | 誤りである。 | 3-(1) |
94 | 376 | 7 − 9 |
・・竹下登内閣が成立し、選挙公約に反して大型間接税である「消費税」3%導入がきめられた。 | 竹下内閣の選挙公約であるかのように誤解するおそれのある表現である。 | 3-(2) |
95 | 377 | 脚注![]() |
さらに2001年から欧州統一通貨としてユーロが使われはじめるなど・・ | 2002年からであり、誤りである。 | 3-(1) |
検定基準の欄には、義務教育諸学校教科用図書検定基準又は高等学校教科用図書検定基準の第2章及び第3章に掲げる項目のうち、該当するものの番号を示す。