筑波大学 人間総合科学研究科准教授 飯田浩之氏インタビュー概要

1.実施日

平成22年12月17日(金曜日)

2.インタビュー対象者

筑波大学 人間総合科学研究科准教授 飯田浩之 氏

3.概要

(高校教育に関する現状認識について)

 戦後の新制高等学校は、旧制中学校、高等女学校、実業学校を一元化したもので、「能力に応じて誰もが後期中等教育段階、そして高等教育段階に進めるように」との理念で発足したものである。その当時は高等学校への進学率も低かったが、今は98%を超える数字となっている。また、高校卒業後の高等教育への進学率も、専修学校等まで加えると70%を超えるまでに増大している。これは、新制高等学校で目指していた理念がほぼ実現した段階といえる。その意味では、戦後の新制高等学校が終焉を迎え、高等学校が新たな段階に入ったと認識している。
 今や、高等学校は高等教育段階につながるところにある。これはかなり大きな変化といえる。大学入試が簡略化される傾向にあることも追い風となって、高等教育への機会がさらに開かれてきている。高等学校は高等教育段階につながる機会となった。それにどう対応するのかということが、新たな段階に入ったと思われる高等学校の在り方ともかかわって、そこでの教育の課題となっている。この点は、普通科高校に限られることではない。専門高校においても大学進学者が増えている。政策的にも、専門高校における学びを高等教育につなげていくことが目指されている。以上のようなことから、高等教育へのつながりを考えることなく高等学校教育を考えることができなくなっている。

(高等教育への準備段階としての高校教育の在り方について)

 高等教育段階につながる教育として高校教育が目指すべき方向性として、二つのことが考えられる。
 一つは、知識・技術につながりを付けて、構造化・体系化していくのが高等教育であるから、それにつながる高校教育の学びの在り方が大事になってくるということである。専修学校などは即戦力養成のために技術・技能に流れているところはあるが、高等教育段階である以上は、原理を知った上で技術・技能を発揮することが求められる。そういう知識・技術をつないでいくための準備をするような学習が高校教育に求められる。単なる受験準備ではない、高等教育につながる教育である。
 もう一つは、知識や技術を現実や応用につなげるための準備を高校教育段階で学んでいくということである。知識や技術を現実や応用につなげるというのは高等教育の一つの仕事である。学問のための学問をさせるというのも高等教育の在り方の一つではあるが、学問を現実につなぎ、実際の社会につないでいくということも高等教育の課題である。そのための準備段階としての学習が高校教育に求められる。現在、インターンシップなど体験的な学習が入ってきているが、それを単なる体験に終わらせずに、座学を中心にした教科の学習などに関係させていくのが高校教育の課題になるだろう。
 このように、知識と知識、技術と技術をつなげると同時に、知識と技術を現実の社会につなぐという高等教育の特徴に対応できるような高校教育をどう作るのかということが課題である。しかし、正直なところ、学力格差は大きく、どこまでこうした教育が適用可能なのかという問題もある。また、高等教育も多様化している。その点で高校教育、高等教育全体に通じるものではないかもしれないが、一つの核であると思われる。

(進学しない生徒への対応について)

 高等教育とのつながりを考えると同時に、高等教育段階に進学しない生徒たちの教育をどう考えたらいいのかという点も高校教育の課題の一つになる。高等教育段階に進学しない生徒がある意味でマイノリティになりつつある。もちろん専門高校だけを取り上げれば7~8割の生徒が就職していく学校もあるので、その部分ではマジョリティであろうが、高等学校全体で考えると、卒業後就職する生徒は17~18%であり、数字的にもマイノリティに近くなっているといえるだろう。高等教育へのつながりを考えると同時に、ここをどう充実させるかについて、真剣に考えなければいけない。昭和40年代に、高校に進学しない生徒がマイノリティになり、そこに目が向かない時期があったが、それと同じ問題が起こってくる可能性がある。
 特に、卒業後就職する生徒たちにどういうインセンティブを与えていくのか、そのインセンティブに対応できるだけの職業教育をできるのかということが大きな課題となる。例えば、かつて工業高校は日本の産業を支えるような中堅の技術者を輩出していたが、以前に比べると世間的には下位に位置付けられるようになってしまっている。かつてのような位置づけでの復活は、社会状況や教育状況が変化した今、とうてい不可能であるが、新たな形での再生が求められる。
 この点にかかわって、新学習指導要領において、教科・商業の中に商品開発という科目ができた。これが一つのヒントになるかもしれない。生徒たちが商品開発を進める中で自分のイメージや自分の考えを社会との関係の中で商品として形にする。それと同じように、自分が考えていることを形にしていくという学習の在り方である。「デザイン」だとか「ものづくり」というのも、そうした考えにつながるであろう。職業には直接、つながらないかもしれないが「演劇」のようなものも、生徒のパフォーマンスを形にする一つの手段であろう。学業成績だけではとらえられない「パフォーマンス」とそれを「形にすること」を大事にし、その中に職業を位置付ける。あるいは職業教育の中にそういうパフォーマンスの「有形化」を位置付けていくという在り方が、以前とは違う職業教育の一つの姿になるのではないかと考えている。
 そういう意味では、普通教育に特化した普通科は逆に魅力に欠けるのかもしれない。自分の形にするものがない。専門学科にはいろいろなパフォーマンスがあり、それを「形にする」機会がある。専門学科には、このような普通科にはない特徴があるので、そこにインテンシィブを与えれば、新たな専門学科の在り方が開けてくるのではないか。もちろん、最終的に生徒の進路につながらなくてはならないので、雇用状況が改善されない限りは難しい部分があるのは承知しているが。

(高校教育の統一性について)

 高校教育について考えるにあたり、高校教育の歴史を踏まえると、新制高校の理念として掲げられていた「高校教育としての統一性」をどう考えるか、といった問題に直面する。課程・学科の別なく、高等学校は高等学校として変わりはない、という前提である。こうした高校教育そのものの統一性をどのようにして保つのか、あるいはもう保たなくていいのかという問題が出てくる。高等学校は、多様化・弾力化の方向で改革がなされてきたが、結果として「高校教育としての統一性」を失ってしまっている。もはや、統一性は必要ないのか、やはり、統一性は必要なのかという問題である。
 この問題を考えるに当たり、必履修科目の扱いをどう位置付けていったらいいのかということがポイントになる。新制高校の歴史の中では、必履修科目は高等学校としてのアイデンティティを形作るものとして位置付いていた。それが徐々に減り、今や30単位あまりになっている。しかも代替措置などもあり、必履修としての体をなしていない部分がある上に、履修と修得は分かれており、必修得とはされていない。そのような状況において、高校教育としての統一性は、必履修科目でもってもたせられるのか。必履修科目でそれができないとしたら、何をもって高校教育に統一性をもたせようとするのか。高等教育に進む者が多くなるなかで、形式的には一元化が進んだのであるが、教育の中身において一元化されているかどうか疑問となっている現状で、高校教育としての統一性を何でもたせるのか、その必要性も含めて、再度議論するときがきているのではないか。
 極端に言えば、必履修科目というのは必要なのかということも出てくるだろう。必履修科目とはいうが実際には選択必履修であり、履修パターンは様々である。新制高校発足時において考えられていたような、全員に同じことを勉強させて高校教育とするのだという、高校教育のアイデンティティを保つようなものになっていない。そこをどうするかということを文部科学省は考えなければいけないだろう。
 ただ、必履修をなくしてしまい、高校教育は各学校、生徒個人の選択に任せるという形で自由化することには抵抗がある。やはり高校教育にはどこか高校教育としての統一性が必要であろう。選択に任せると、この段階の教育として何を目指すのか、何を核に据えるのかといったことが問われなくなってしまう。
 そこから出てくるのが、高校教育の一体化を従来の必履修科目に頼らずにどのようにもたせたらいいのかという課題である。たとえば、従来の必履修科目に縛られないような教育を必履修として設定することによって高校教育の一体性をもたせる方向性もあるのではないか。総合学科において必履修となっている「産業社会と人間」が含んでいるようなもの、すなわち,個人のキャリア形成を支えていくようなもの、一人前の市民になっていく上での教育として必須なものなどいろいろ考えられる。それを教科とはいわないまでも、必履修にして高校教育をアイデンティファイするものとして位置付けていく。こうした設定の仕方は、全国の高等学校に対して行うだけでなく、各都道府県においても可能である。都道府県レベルで必履修の教科や科目を設定する動きがあるが、こうした動向は高校教育に新たなアイデンティーを持たせるものとして重要であると思われる。
 ただ、その場合の内容が重要である。内容としては、前期青年期の教育という枠の中で高校教育を考えていくこと、つまり、15~18歳の青少年が、現在、そしてこれからの社会で生きていくときに必要なものを身に付けるという考え方で科目を設けるという発想が必要だろう。教科の内容ではなく、その時期にそれぞれの社会が期待するもの、それはキャリア的なものかもしれないし社会生活を営む上での構えのようなものであるかもしれないが、15~18歳の青年に対して学校と社会をどうつなぐかという観点から共通して必要とされることを盛り込むことで、高校教育に新たな統一性を持たせることが必要であると思われる。

(高等教育につなぐカリキュラムの在り方について)

 高等教育につなぐ高校教育を実現するカリキュラムとしては、全国的に広がりを見せてきている探究科なども参考になる。探究科で力点が置かれている問題の発見と解決の過程を学校のカリキュラムの中に落として行くことは、高校教育を高等教育につなぐ一つの在り方として有効である。これは別に探究科に限ったことではない。特別の科目を設けなくてもよい。他の学科においても、あるいは各教科においても、教育活動のなかに問題の発見と解決の発想を組み込むことは可能である。探究科の問題として限ってしまうのではなく、その発想をどう広げていくか、課題であるように思われる。
 考えてみると、大学に進むにしても社会に出るにしても、問題を見つけてそれを自分で解決することは必要になってくる。問題を見つけることもなく、見つけたとしても他者が解決するのを待つような者を育てるのではなく、大きなものでなくても、日々の生活の中で身近なところに問題を見つけて自分でそれを解決していくような力を養う教育ができるといい。探究科も、進学実績ではなく、それにより社会で役立つ人材育成ができるというところに魅力があるのであり、その考え方は高等教育への準備に止まらず、先程、述べたような「前期青年期の教育」としても魅力的である。
 いわゆる「進学校」を卒業した、一見、学力が高いと思われる学生においても、大学で卒論のテーマを設定できない学生がいる。どこに関心を持って何を調べたらいいのか、その入口である問題や課題の設定ができない。それを解決したり達成したりする方法も思いつかない。そうでありながら、更に大学院に進学したいという希望を持っていたりもする。こうした学生の指導には骨が折れる。学ぶということの基本を取り違えているようで、それを正すのが大変である。
 問題を発見したり、解決したりする力については、いわゆる進学校ではない学校の生徒の中にも、そうした力をもった者がいるだろう。そういう力を発揮するチャンスがどれだけ与えられているかが大事である。チャンスを与えること、さらにそうした力を育てる場を用意できるかどうか。単純に教えてもらうのではなく、自分で問題を見つけて解決する。極端に言えば「教えない授業」が高等教育につなぐ教育として、あるいはそれにとどまらず、広く高等学校教育として必要であるように思われる。
 この点に関して、どれだけものごとに興味がもてるかということが大事である。最近の学生をみていると、関心をもち、自分でそれを広げていこうという姿勢が欠けているところがある。例えば新聞を読む学生が減っている。新聞には、様々なことが載っていて様々なことがらについての関心を喚起してくれる。何かに関心をもつという機会を、新聞を読まないことで自ら排除しているように思われる。書店も同様。様々な本が並んでいてそこを歩き回ることで様々な関心を喚起してくれる。しかし、今ではネットで目的の本だけを検索してしまう。折角、身の回りに関心を喚起してくれる場やチャンスがあるのに、そのような場やチャンスをどれだけ活用できているか。
 これでは知識をつなげる、また、知識を現実の世界とつなげるというようなことはできない。知識をつなげるようなチャンスはいろんなところにあるのに、無駄にしている。そのようなところに目を向けられるような生徒を育てたい。

(全体を通して)

 高校進学率、高等教育進学率の増加は決して悪いことではないが、結果として新制高校発足時の理念ではとうてい対応できない状況になっている。その理念は、教育の機会を拡大させるための原理であった。後期中等教育や高等教育の段階への進学のチャンスを開くというのが新制高等学校の理念の一つであって、高校進学率、高等教育進学率が上昇した今、それはほぼ達成されたものと見て取れる。無論、実際には、経済的な理由などで進学が叶わない生徒もいるので、現状でよいということにはならないが、ひとまず、制度の理念は達成されたとみてよいだろう。新制高等学校の理念がひとまず達成されたとして、新たな理念をどのようにそこに盛り込むのか。今、それが問題となっている。
 さらにこの点に関して問われてくるのが高校教育や高等教育を下支えする義務教育段階の在り方である。基礎的な知識や技術の習得は中学校までの重要な課題である。義務教育段階での発展的な学習も必要かもしれないが、中学校は広く多くの生徒のその後の教育を支える場であるということを考えると、学習指導要領に定める最低限の部分を生徒に定着させる役割は外すことはできない。高等学校の学習指導要領を読むと、高等学校においてもリメディアル的な部分が入ってきてはいるが、中学までに基礎的な知識・技術を定着させることが高校教育を支えていくことになると思われる。
 さらに高校では分化させることが必要だが、中学までは分化させず、基礎的・基本的なことを全員に保証することが大事である。学力のすそ野を広げ、更にそれを高めるということを考えると、中学までの教育をいかに充実させるか、その上にたって高校教育をどのように持ち上げるかというところが重要である。
 飛び級のようにエリートを育てることも国としては必要かもしれないが、それが主流になるような教育改革ではいかがなものか。競争に勝つための人材育成も必要かもしれないが、そうではない人たちもたくさんいるのだから。義務教育の基盤の上に、高校教育を前期青年期の教育として個性や進路による分化も含めてどう形作っていくか。そしてそれを高等教育や職業教育にどうつなげていくか。新たな理念の創出とその具体化が今日の高校教育に問われている。

(以上)

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初等中等教育局初等中等教育企画課教育制度改革室

(初等中等教育局初等中等教育企画課教育制度改革室)

-- 登録:平成23年03月 --