筑波大学 人間総合科学研究科教授 田中統治氏インタビュー概要

1.実施日

平成22年12月10日(木曜日)

2.インタビュー対象者

筑波大学 人間総合科学研究科教授 田中統治 氏

3.概要

(高校教育の理念と現実について)

 戦後の高校教育の理念と現実の間に乖離がある。その乖離は、特に生徒急増期に新設された学校において顕著である。
 自分としては、現実に理念を近づける方向性をもった方がよいと考えている。戦後の高校教育の原則や共通の教育課程という理想は大事だが、現場において、より生徒の実態に即した教育課程を編成・改善していく体制を保証していくような、現場での知恵の働かせ方を支援するような体制が必要であると考えている。
 しかし、履修漏れの問題が起こり、現場に任せることの弊害が明らかになった。そこで、学習指導要領は国の基準として法的に遵守しなければならないということで、少し揺り戻している。
 校長は現場に任せてほしいという思いをもっているが、任せると未履修のようなことが起こる。これはまさに理想と現実のギャップの最たるものである。理念と現実のすりあわせがよりうまく働くようなシステムがあればいい。
 理念というのは現実の中から生まれるものであって、公教育としての後期中等教育の理念も、現実の中から、あるいは現実を主導する形で創出する必要があるのではないか。

(教育課程改革について)

 県の教育委員会が高校教育改革をリードしてきたが、例えばSSHにおいて、いわゆる進学校が理数を重視した独自の教育課程を開発するようになるなど、高等学校もずいぶん変わってきた。このままではいけないと思いながら進学準備をしなければならないということで鬱積していたものが、新しいモデルとして活性化してきている。
 改革がうまくいった例を検証すると、教育委員会がそれをバックアップする体制と現場の力がうまくリンクしている。現場での試みに規制をかけるというよりも、チャレンジングなものを育てていく中でこれからのビジョンを描いていくというのがいいのではないか。
 教育課程改革でいうと、地方に分権化しながら現場の創意工夫が生かせるような形で少しずつ自由度をもたせていくという方向性に間違いはないだろう。ただし、そのためには、教員に、教育課程を作るという経験値が必要になる。
 教育課程編成に関しては、ほかの校種に比べて高校は動かない。そのような状況で現場に任せると、旧来の受験指導に偏る傾向が強い。しかし、おもしろいカリキュラムを作ることのできる教員もいる。そのような教員がうまくリードするような形や研修の機会を充実させないといけない。ただ現場に任せるのではなく、カリキュラムづくりのエキスパートを育てるという長期的なビジョンをもつことが必要である。
 総合学科も現実適応していかないといけないところがある。現実の環境の中でうまく存在基盤を作っている学校とそうでない学校がある。

(生涯学習能力育成における高校教育の在り方について)

 データでみても高校の在り方はずいぶん変わってきており、今は「脱受験競争」という時代に入ってきている。ただし、脱受験化はしているのだが、競争の激しい部分とそうでない部分の二極化が進んでいる。このような現実の傾向に対して、教育課程も生徒の実態に即した形で編成する必要がある。
 21世紀を生きる市民として必要な学力をみるというPISA調査の目的から考えても、高校教育は生涯学習の基礎を培っていく上でどのような役割を担うのかということについての理念の検討が必要である。生徒の実態によって中身は変わってくるかもしれないが、これだけ変化の激しい、知識の陳腐化が激しく起こっていく中で生きていく上で、生涯にわたって学び続けることは必須である。しかし、未来を完全に見通すことは困難なので、これまでの日本人が蓄えてきた学びを生涯学習の中で継承できるようなプログラムにしていく工夫が必要である。
 その点では大学入試も変わっていかなければならない。高大連携でいわれるように、大学に入った後の学ぶ力、また、大学を出た後も学び続ける力を高校と大学でどう作っていくかというスケールで話していかないといけない。小中学校を義務教育課程としての一貫教育という一つのまとまりとして考えるのなら、これからは、高大の連携をより強めて、アメリカの場合はコミュニティカレッジのように、地域の中から学びたい人たちが集まり、生涯学習のカリキュラムを再生できるような工夫が必要になるのではないか。大学も、研究大学院のようなものから地域の人が学ぶコミュニティカレッジまでできているので、高等教育との連関の上で高校教育を考えていく視点をもつべきと考える。
 生涯学習には、大学を卒業して一度社会に出てお金を貯めてまた大学に戻ってくるという方法もある。その保証があれば、高校を卒業して一度社会に出るのもいいかもしれない。イギリスでは大学合格後入学を1年間猶予するギャップイヤーという制度があるが、安心した学び、自分にあった学びを得る機会となっている。このような意味でも、大学受験だけでなく、生涯学習体系の中で高校教育を見直していく時期にきている。奨学金の保証や無償化ということは、その中で考えていけばいいのではないか。また、企業側も大学側も、ゆとりを持った教育システムを作ってもいいのではないかと思う。

(才能教育について)

 教育課程改革の方向性としては、現場に任せていくという現場主義ということと、それぞれの生徒たちの学習スタイルを作っていくということが考えられる。
 それぞれの生徒たちの学習スタイルを作るという点で注目しているのは、アメリカで提唱されてきている才能教育(タレント・エデュケーション)である。以前はgiftedといういわゆるエリート教育だったが、それがうまくいかなかった。早修、先取りという形で早く大学院に進んだが、その後の追跡調査によると、あまり伸びていない。
 日本の進学校には早修がエリート教育だという誤解がある。それに対して80年代くらいからいわれているのがエンリッチメント(拡張教育)という考え方である。それは、IQのようなジェネラルな知性ではなく、八つくらいの知能の領域のうち、得意なものをのばして苦手なものをカバーするというものである。
 これまでの高校教育は、センター試験のように「まんべんなく」というスタイルをとってきた。しかし、生涯学習における学びのスタイルにはいろいろなものがあり、その基礎を培うという観点で考えると、今の高校の一斉学習の中で目指している「詰め込み」のようなスタイルは、生涯学習体系の中で社会の要求にうまく応え切れていないのではないか。
 筑波大学附属駒場中・高等学校で行事等においてリーダーを務めた生徒を追跡調査してみた。すると、行事の企画から丁寧に合意を積み重ね、チームで物事を作るよい訓練の場になっている。これを小学校からの流れの中で調査してみると、やがて特別支援教育の方法論と結びついてくる。特別支援教育においては個別の支援計画に基づいて教育活動を進めている。このようなスタイルはエリート教育とは対極にあるようにいわれるが、才能教育という目線でみれば、一人ひとりの学習のスタイルの特徴にあった個別のメニュー、教材、学習環境を用意したりするという点では共通する。これが、生涯学習の基礎を作ることにつながる。
 「紙キュラム」と名付けているのだが、ペーパープランの中だけで教育課程をとらえるのではなく、環境や人間関係やメニューや学習活動をいろいろ工夫していけば、より長期的な学ぶ力の基礎の部分が生み出せるのではないかと思われる。
 大学はそういう個性をもった生徒をとりたいと思っているので、推薦入試やAO入試を取り入れ、できるだけ丁寧な選抜を行っている。高校にもそのような試みが出てくればよいと思っている。
 文部科学省がいわゆるスペシャリティをのばす取組の中で、学校のカリキュラムを活性化させるようなプロジェクトを組んでモデル校づくり、教員研修を進めていることは、非常にいいことである。生涯学習の基礎を培う事例について、大学の研究者や実践家がパートナーシップをもって研究し、東アジアの新しい高校教育像を日本が開拓していくという方向性をもつべきだろう。
 才能教育はアメリカが発信であるが、これからはメードインジャパンというブランドを教育の面でも作っていかなければならない。高得点低学力の傾向が見える中国や韓国などの諸国はやがて息切れしてくるだろうから、大学と連携を図りながら、新しいモデルを現場の創意工夫の中で作っていければいい。そのような試みの中で、特別支援にもよびかけながら、認知を個性ととらえ、誰もがもっている能力やスタイルを見つけ出して刺激していくような教育課程改革が進められるとよい。
 その点で、高大連携は受験のバイパスというより、より長期的な学びを見通した新しいシステムになりうるだろう。大学のカリキュラムの工夫も必要になるが、連続性の中で得意な分野をのばしていくことができるだろう。

(特別活動で身に付く学力について)

 e-leaningはこれからどんどん進んでいく。環境は整ってきているし、事例も出ている。アメリカや韓国では日本よりも進んでいる。双方向的な学習のツールとして使われていくことが主体的な学び、自分の学びに合うものにつながる。e-leaningを中心とし、大学ともつながるようなモデルを作ってみてもいい。そうなると、学校の中で学ぶことは活用の学習、あるいは人間関係に限られる可能性もある。
 同窓会などの様子をみると、受験エリートはあまり他人のお世話などをしない傾向がある。面倒な世話係を引き受けているのは、大体において行事で活躍していた生徒である。人間関係能力は学力とは別のものとされがちだが、これこそ行事の中で培われる、いわばメードインジャパンの学力だと考えている。外国の人たちが日本の学校を視察してもっとも驚くのは運動会である。時間どおりにあれだけのものが滞りなく進行するのは日本の学校教育の特徴である。日本の学者は学力とはみていないが、脳科学的にみれば、チームの中で人間関係、人の動きを見ながら学んでいく知性というものは、習得された学力である。
 受験指導の中で個人主義に流れているが、チームで人間関係を構築する能力は非常に大事である。特別活動は教科外ということでそれなりの扱いを受けているが、これからの学校は教科外がメインになるかもしれない。文化祭などの行事の中で培われる学力の伝統が日本の学校にはこれまであり、蓄積されてきている。
 そのような、現実の中で生涯にわたって学び続ける人間の学力というものを見据えた大きなスパンが、高大連携の構想に必要だと思う。高校の義務化ということも視野に入ってくるだろうが、もっと先まで見通していくことが必要である。現在、大学の学士課程は教養教育が中心になっており、専門教育は大学院で行っている。より長期的に、大学院まで見込んだ学校体系の在り方というのを考えなければいけないので、高校は中等教育ととらえるよりも、前高等教育、生涯学習につなげるための基礎学校段階と位置付け直すことが必要なのではないかと思う。

(教育課程の検証について)

 先入観をできるだけ排除してデータを確実に根拠にしながらエビデンスベースで教育改革を進めていくことが、90年代の学力低下論争から我々が学んだことである。
 学科の在り方についても、検証(カリキュラム評価)しながら見直していくしかない。古い学科体制は時代に合わないからダメだということではなく、これまで培ったものの中でいい力を育てているものはどのようなものかをみていくことが必要である。教育の不易流行ということで考えると、学科の在り方、選択制と必修制の是非などは、うまくいった事例とそうでない事例などを検証しながら見直していくしかない。
 カリキュラムの改革では、「万人に効く薬」というものはない。特定の学校において有効なカリキュラムが別の学校でも有効であるとは限らない。よく効く薬は副作用が強い。やんわりと効く薬は劇的な効果はない。カリキュラムについても、どういう条件が整えばこのカリキュラムは有効であるという検証を蓄積する必要がある。
 教育改革に必要なのは、シンプルなものである。システムもできるだけシンプルなものにして、複雑なものを作らないこと。現場で実績を上げているものに注目しながらそれを育てていく。新規なものを作ったり外国のものをまねしたりという時代ではない。
 クリエイティブな人間が求められているが、クリエイティビティとは、遊びの中やずっと考え続けていく中から生まれてくるものである。日本の教育はそのような仕掛けを徒弟制の中にもっていたが、それが学校化されすぎたために学ぶ力が衰えてしまった。学ぶ力を衰えさせず、たとえば、不適応を起こした場合も、それを起こした原因がシステムの中のどこにあるかを調べていく必要がある。
 そういう意味では、日本の教育改革はよくなってきている。学力論は極端に走らないようになったし、データを元にして教育改革を議論しようというシステムも出てきた。もっといいものにしていくには追跡調査まで含めた研究を継続すること。
 そのための基礎研究は重要である。国立教育政策研究所の中に、それに集中し、時間をかけてじっくり研究を進めていくチームを作ってほしい。調査はプロフェッショナルなテクニックなので、調査の専門家が設計した調査のやり方で、量的、統計的な調査だけでなく、質的な調査を通して、日本の深部をみてほしい。外部委託という方法もあるが、それを改善につなげられるのは研究者である。そうした人材を国研の中におき、研究のストックと現場の知恵を結びつけていくとよい。

(全体を通して)

 これからの日本の教育プログラムは、生涯の中で自分の才能を開花させるような、一人ひとりを大事にするような教育だと思う。自分の学び方のスタイルにあったものを選んだり、できなかったからそれで終わりではなく、別の方向から試したりするというものが用意されている社会になればいい。
 努力してきたにもかかわらず英語ができなかった日本人の留学生が、留学先の英国で現地校の講師から初めて「LDではないか」という指摘を受けたという事例がある。早くわかっていれば自分にあった学び方ができたはずである。日本ではLDはネガティブなイメージだが、実はLDの中には天才と呼ばれるケースもある。学習スタイルに合った多様なメニューを用意できるのが生涯学習の理想である。これまでの学校制度から抜け落ちたような人たち、収まりきらない人たちまでカバーできるような生涯学習体制の枠組みの中で高校教育の在り方を再考していく時期にきている。
 PISA調査も実施まで10年かかっている。また、諸外国では長いスパンで研究を積み重ねている。うまくいっている事例などの研究を含め、長い目で研究を進めていくことが大事である。政権が変わっても続けていけるようなプログラムが必要。スウェーデンなどでは政権が変わってもいいものは継続している。地道なカリキュラムの研究の中で生涯にわたって学ぶ力を育てるプログラムを高大連携の中で開発していくというのが一つの方向である。
 企業でも受験エリートを敬遠する傾向が見られる。人間のもつ能力の多様性に気付き、それを伸ばすための多様なカリキュラムを創っていかなければならない。すべての分野で求められているのは、学び続ける人材である。その意味では、「学ばないとどうなるか」ということも研究の余地があるかもしれない。

(以上)

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初等中等教育局初等中等教育企画課教育制度改革室

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-- 登録:平成23年03月 --