東京聖栄大学 管理栄養学科教授 長須正明氏インタビュー概要

1.実施日 

平成22年12月9日(木曜日)

2.インタビュー対象者 

東京聖栄大学 管理栄養学科教授 長須正明 氏

3.概要

(専門高校の現状について)

 制度そのもの、また、その運用について、それぞれ課題がある。
 現在、問題意識を持っているのは、専門高校の存在理由である。工業高校の卒業者に対する求人の多くは製造業、生産工程・労務の職種で、産業の集積がない地域ではほとんどが連絡求人である。特に北東北、南九州などでは、高校で学んだ専門を生かして地元で就職できる生徒が一人もいないという状況もある。これでは、なんのために専門高校で学んだのかということになる。
 一方、専門高校に進学コースなどを作っているところもあり、専門高校のカリキュラムを進学のためにシフトするという方向性がある。
 卒業生の半分以上が進学するという状況で、高卒就職をさせるというからには、それに向けた社会を見通せるものを学校がもっておくことが必要である。キャリア教育の観点から考えたとき、多くの生徒に地元志向があることをふまえると、何になるかという職業選択よりもどこで暮らすのかということの方が優先される生き方選びというものがあってもよい。そこで暮らすにはどうすればいいかということを考えないと、キャリア教育にならない。その意味では地域を考慮しない普遍的キャリアモデルなど存在しない。
 専門高校は、かつては完成教育を目指していた。つまり、高卒就職を前提にしたカリキュラムを組み、生徒指導についても就職指導とセットになっていた。それが今は、欠席や遅刻が多くてもお金さえあれば進学できる一方、皆勤で成績優秀、部活を一生懸命にやりリーダーとして活躍しても(正規雇用で)就職できないというような状況になっている場合もあり、生徒指導も徹底できないということになってきている。
 後期中等教育において専門高校で学ぶということはどういうことなのか、考えるべきところにきている。なにより就職を念頭に置いたカリキュラム、指導をした上で、高卒人材の採用を社会にも働きかける必要がある。

(専門高校のカリキュラムについて)

 海外との比較調査をみてみると、例えば学力が高いといわれるフィンランドにおいて、義務教育修了後は、普通科4に対して専門学科6の割合で進路分化している。ところが、専門学科については、40~60%の中退率となっている。そこで、学校を終わらずに社会に出た者を何らかの職業訓練に誘導して、それに学校が単位を追認する形で学校卒業資格と職業資格を与えようという後追いの政策を行っている。決してこのやり方がいいわけではないが、フィンランドではこのような社会の側からキャリア形成不十分な個人に歩み寄る制度をつくり運用している。
 日本では、高校卒業は74単位の修得が最低の基準となっているが、専門高校は卒業に必要な単位数が多いという傾向がある。単純には比較できないが、フィンランドでは卒業単位が大体120で、そのうち90は実習になっている。特に、OJTや将来的な就職まで見通した就業を通した実習を行うなど、学外での学修が多い。これは、そのような制度に対して社会的合意があるということ、また人数が少ないということがあるからこそできるのであり、同じことを日本でできるかどうかというと難しい。しかし、それくらい思い切ったカリキュラムを作らないと専門高校としての「完成教育」は出来ないということは十分認識すべきである。
 日本においては、カリキュラムを考える中で、専門教科、特に実習をもっと本格的に取り入れ、実習の内容を座学で補うといった形でやるのがいいのではないか。看護専門学校などをイメージするとわかりやすいが、実務の経験ではなく、実務を実際に行う中で必要なことを学校において補うというカリキュラムがあっていい。
 福岡県のある工業学校は、卒業単位90(うち3単位はHR)に対し、普通教科50、専門教科37となっている。これは割と多い方で、北海道のある農業高校は、普通教科55、専門教科32となっている。これだけ専門教科が少なくて、これで専門高校といえるのか。モデルスクールのような形で、実務とそれを補う理論を教える実習中心の学校を作り、進学ではない道で自分を生かすという方向付けがあってもいいのではないか。
 例えば、三重県立相可高等学校では、食物調理科において、さまざまな制約があるため部活動の形式をとって県から委託された食堂を運営している。これは実務そのもので、これによって生徒は職業を通して社会に出るという意味でも、専門技術を得るという意味でも成長する。
 いくら専門高校だからといって、学習指導要領においてほとんどすべてを実習科目にすることは難しいだろう。そこで、例えば、普通教科は専門教科を理解するために必要な専門基礎のような位置付けにして、できるだけ効率よく教えることが求められる。また、学校外の学修の単位認定も活用できるだろう。
 文部科学省としては、これだけ高等教育進学率が高くなると、大学をどうにかしようということになるだろう。定員を充足できない、全入あるいはそこまでいかないまでも、入試でほとんど不合格を出せないという状況の大学もかなりある。その結果、意欲、学力がないばかりか、授業に出席するという大前提を当たり前と思えない学生が入ってくる。なによりも学ぶエートスがないのである。意欲がない学生は、初年次教育や補習などの取組にも乗ってこない。大学は、入学させたからには教育する責任がある。出席状況を確認して登校を促すなど手取り足取りの指導(サービス)をする大学も多いが、学生が乗ってこないのでどうしようもない上に、大学教員の意識は低い。これは私立大学の無責任な経営至上主義と高校教育における安易な進学シフトにより生じた問題で、当然のこととして大学においても取り組まなければならないが、高校の段階での進学指導においても対応しなければならない。そのためには、進学以外の選択肢として、就職した上で必要があればその後学ぶというような方向付けがあってもよい。
 進学よりも就職に向いている生徒に具体的な就職の選択肢を示せることが高校教育に求められる。高校で学ぶことの意味を教えるためにも、すべての人間がリーダーとなりマネジメントするという発想に基づくカリキュラムだけではなく、パーソナリティに応じて「人を支えることで自分を生かす生き方」(よきフォローアーモデル)を教えるようなカリキュラムこそが必要である。例えば、知識から入るのではなく、技術・技能から入り、その上で最低限必要な法規のようなものを勉強するというようなものがあってもよい。そうしないと、無気力な学生にとっては、時間と金の無駄である。安易な進学シフトについては社会的な問題として考えるべきである。
 学校によっては、専門科目が極端に少ないカリキュラムをもっている場合がある。その高校の専門高校としての存在価値は、カリキュラムの上からは見えない。新しい専門高校といわれるところは、ほとんど進学を念頭に置いた学校経営をしているし、そういうカリキュラムを作っている。ニーズに応じているのだとは思うが、行き先の大半は専門技能・技術を学ぶ大学・専門学校である場合が多い。それならば高校で専門教育を行い、就職を見据えたうえで、実務を経験しながら必要に応じて学校(必ずしも高等教育機関とは限らない)で学んだ方がよい。
 方向性としては、就職できる専門高校にすること、また、どうしても勉強したいという生徒は大学進学できるようにすることであろう。専門高校といいながら普通科目が6~7割占めているのでは、専門とはいえない。工業高校で進学を考えるとき、例えば工業大学に行くのであれば、実習を中心にやり、座学は大学で補うなどの形は考えられる。入学のために普通科目を深めようという戦略はあるかもしれないが、専門高校の進学コースには違和感がある。

(統廃合における学科の在り方について)

 後期中等教育段階を世界的に眺めてみると、普通科中心(日本、オーストラリアなど)、専門学科中心(北欧)、総合学科中心(アメリカ)のパターンがある。日本は後期中等教育段階でどのような人材をどのようなシステムで育てていくのかを考えなければならない。次のステップに行くのか、そこを社会の一つの節目とするのかをクリアにする制度設計が必要である。
 高等学校の統廃合において、総合学科の二極化が進んでいる。進学校化し、大学受験に特化する場合と、さまざまな教科・科目の履修を可能にする場合である。前者の場合はさまざまな教科・科目を学べるという総合学科のメリットはなく、後者の場合はあまりにたくさんの科目をとりすぎて何をやっているのかがわからなくなり、就職にもつながらなくなっている。アメリカ型総合学科を取り入れたのだが、アメリカでも行き詰まっている。総合学科がなんのためのカリキュラムなのかを考え、より就職に有利なようにするのか(イメージとしては学内コースとしてのキャリア・アカデミー)、進学に向けるのか、色分けをはっきりすることが必要である。中途半端な総合学科の存在はかえって進路を見えにくくしているので、存在価値がないのではないか。

(雇用に関する問題について)

 ニート・フリーター問題を考えるとき、若いときに経験がない人は社会に出て自信を持って働く生活を継続して行けない。無業でいることの問題点は、何もしないでいるうちに能力が落ちる、働けなくなるということである。何かさせるという意味でも、早いうちから「それなりに」働くという方向付けがあってもいい。
 雇用ということでは、地元企業求人数について、地域によって大きな差がある。地方では地元に正規雇用労働者として就職することは困難な状況がある。また、製造業の動向は、工業高校からの就職に大きく関わり、就職決定率に大きく影響する。
 産業界に同一労働同一賃金を呼びかけることが一つの方策となりうるだろう。現在は学歴別、産業・企業別賃金となっているために、安易な進学が増えている。同一労働同一賃金とすることで、安易な進学は防げる。18~22、23歳といえば、働いていれば社会人としての自己を作る時期である。安易に大学に進むことは無意味であるばかりか望ましくない。
 大学で学ぶということには、コストと時間がかかる。自分に身に付けたいこと、やりたいことがあるなら意味はある。しかし、何となく過ごすだけならば、その期間を社会の中でその一員として生きる生き方を模索する方がよほど有意義である。

(福祉との関わりについて)

 発達上の問題をもつ生徒が社会に出て職場の理解に恵まれないと、職場を転々とするか、無職~無業になるケースが多い。地域で支えていかなくてはならないが、その情報の源は学校にある。それを社会につなぐことが大切である。2009年7月に成立して今年4月から施行された「子ども若者育成支援推進法」に基づいて地域協議会を立ち上げて「困難を抱える若者」支援を始めようにも、教育委員会から情報が上がらないところは、取組が進まない。発達障害などの困難を抱えながらも社会で生きていくためには、情報保護も大事だが、情報を共有して地域で支えていくことがもっと大事になる。新潟県三条市では出生~就学から40歳くらいまでの情報をデータベース化、一元管理の上、教育委員会事務局「子育て支援課」を窓口に「三条市子ども・若者総合サポートシステム」として運用を進めている。問題は、政策の継続と恒常的な予算の確保である。

(全体を通して)

 「人を支えることで自分を生かす」という生き方は地味で、格好のよいものではないが、好むと好まざるとに関わらず多くの人間がたどる一般的な生き方である。地域に暮らし、家族や友人たちと日常の生活を共にして無名の一生を送り、時間の流れの中で静かにフェードアウトしてゆく人生も立派なキャリアモデルだと思われる。
 文部科学省としても、地に足をつけた、当たり前の生き方モデルをきちんと提示していただきたい。「考えること」も重要だが、「(人権や他者の存在を意識しながら)行動する」ことはもっと重要である。「働くこと」を人生の手段として、一日一日を大切に地域で生きる生き方をひとつのモデルとして、後期中等教育卒業を社会へのパスポートとして社会の形成者となる人材を育てたい。

(以上)

お問合せ先

初等中等教育局初等中等教育企画課教育制度改革室

(初等中等教育局初等中等教育企画課教育制度改革室)

-- 登録:平成23年03月 --