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宇宙開発利用

1945年(昭和20年)~1954年(昭和29年)

第一章 日本の宇宙開発の政策史 > 1.黎明期から宇宙開発委員会発足まで(~昭和43年)

1955年(昭和30年) →

1945年(昭和20年)12月

東京帝国大学第二工学部航空機体工学科が物理工学科に改称

1946年(昭和21年)3月

東京帝国大学の航空研究所が改組され「理工学研究所」となる

1947年(昭和22年)10月

東京帝国大学が東京大学に改称

1949年(昭和24年)5月

新制東京大学が発足。東京大学第二工学部の後継として、「東京大学生産技術研究所」が設立された。その目的は「技術の実際問題を取り上げ、これを総合的に研究し、その結果を実用化試験によって確証し、世間に知らしめる。工学と工業とを結びつける。」というものであった。

1952年(昭和27年)

世界の地球物理学研究者の間で、国際地球観測年(IGY: International Geophysical Year)の計画が立てられた。これは1957年(昭和32年) 7月1日から翌1958年(昭和33年)12月31日までの18ケ月間、世界63ヶ国が各地で協力して、地球物理学、天文学、物理学、地質学、海洋学などの各種の観測を共同で行い、地球の全体像を明らかにしようというもので、共同観測の分野は13項目あった。

1953年(昭和28年)10月3日

糸川教授が経済団体連合会(経団連)主催の講演会に臨み、民間企業13社にロケット研究の必要性を講演し、富士精密工業が協力することとなった。

1953年(昭和28年)12月

経団連の中にGM懇談会(GM:Guided Missile 誘導ミサイル)を設けるなど、民間企業等も系列ごとにまとまった活動を開始した。

1954年(昭和29年)2月

生産技術研究所に「AVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics:航空電子工学と超音速航空工学) 研究 班」が発足した。

 戦後の日本復興時期において、米・ソの冷戦と宇宙開発競争が始まっていたが、日本のロケット研究は官学民のいくつかの組織によって始められていた。その中でも重要な役割を果たしたのが、糸川英夫教授ほか有志10数名の研究者で結成されたAVSA(Avionicsand Supersonic Aerodynamics:航空電子工学と超音速航空工学) 研究班である。この研究班は、東京帝国大学第二工学部(西千葉)解散後の1949年(昭和24年)5月に発足した東京大学生産技術研究所の中に、1954年(昭和29年)2月5日に誕生した。そして、(1)航空電子工学に重点を置く、(2)電子制御装置などの分野を育てる、(3)航空力学としては音速以上の非常に速いところだけをやるというおおよその研究方針が立てられた。

1954年(昭和29年)4月16日

AVSA研究班は東京-サンフランシスコ間を20分で横断できるような輸送手段として、極超高速ロケット輸送機の構想を提示した。

 1954年(昭和29年)、AVSA研究班は研究費60万円を受け、高速衝撃風洞の建設とロケット・テレメータ装置の研究を目指して、その活動の第一歩を踏み出した。更にこの60万円に加えて、文部省からの補助金40万円と通産省から富士精密に補助金230万円が出ることになった。通産省の補助金は、それと同額を会社側も出すことになっていたため、全てを合わせると560万円の年間費用となった。この560万円で多くの超小型ロケットが試作され、富士精密荻窪工場での燃焼試験を経て、直径1.8cm、長さ23cm、重さ202gの翼幅8cmの十字尾翼を持つペンシルロケットが生まれた。

 1954年(昭和29年)春、第2次大戦後初めての国際地球観測年(IGY: International Geophysical Year)の準備会議がローマで開催された。大戦後の飛躍的な技術革新を背景にして、戦勝国であるアメリカ、イギリス、ソ連の強力なリーダーシップのもとで開催され、南極大陸の観測、観測ロケットによる大気圏上層の観測という2つの特別プロジェクトが組まれた。

 アメリカから「ロケットはアメリカが提供するから、日本はそれに乗せる観測機器を作ってはどうか」との申し出があったが、このローマ会議に出席していた東京大学永田武教授と京都大学前田憲一教授は、日本学術会議に日本のロケットによる観測の希望を伝え、政府側窓口であった文部省大学学術局学術課長の岡野澄氏が調整することとなった。

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研究開発局参事官(宇宙航空政策担当)付

(研究開発局参事官(宇宙航空政策担当)付)

-- 登録:平成23年02月 --