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ヒトゲノム研究に関する基本原則について
  
  
平成12年6月14日
科学技術会議生命倫理委員会
  
  

  
序 
  
  近年の生命科学の目覚ましい発展とそれを支える技術の進歩は、人間の生命現象に関する科学的理解を深めるとともに、人の健康の保持、疾病の予防と診断・治療など、われわれの生活に大きく貢献してきている。そのさらなる進展は人間にとって大きな福音となるであろう。しかし他方で、こうした生命科学の展開は、人間の誕生から死に至るまでのさまざまな生命の営みに、大きく人の手を加えることを可能にし、その結果われわれに人の尊厳の再認識を迫るさまざまの倫理的・法的・社会的問題を生ぜしめることになった。われわれは、生命科学が人の健康や疾病の克服にどのような利益をもたらすかを評価するだけではなく、それが倫理的な価値と原則に照らして問題がないかどうかを慎重に吟味しなければならない。近年になって生命倫理が人間社会の重要な規範として認識されるにいたった理由がここにある。
  人間の生命の設計図といわれるヒトゲノムの研究も、それ自体が人間の生命の根源に科学的に迫るがゆえに、その進展につれて、人間や生命についての考え方を変容させ、また社会における価値の揺らぎを生じさせる可能性がある。それゆえ、ヒトゲノムの研究は、倫理的にどこまでどのように許されるのかが問題にされることになる。いまやヒトゲノムの研究は、その全塩基配列の解読完了を目前にしており、今後は特に個人のゲノムの違いを研究することによって、体質や疾病の原因となる遺伝的要因を明らかにし、生物医学のさらなる発展、中でも個人個人に適した新しい医療の実現を目指している。しかし、こうした研究が行われるにあたっては、多数の提供者からの試料の提供が必要であり、またその研究成果が個人の遺伝情報をも明らかにすることから、これまで以上に多くのさまざまな問題が生じることが懸念される。このため、生命倫理の観点から、ヒトゲノム研究における基本的倫理規範の早急な策定が求められているのである。
  科学技術会議生命倫理委員会では、その発足以来、これまでにクローン技術のヒトへの適用やヒト胚性幹細胞研究について、基本的考え方を取りまとめてきたが、上のような状況に鑑み、平成11年12月にヒトゲノム研究小委員会を設置し、ヒトゲノム研究のあり方について審議を重ね、今般「ヒトゲノム研究に関する基本原則」をとりまとめた。
  この基本原則は、ヒトゲノム研究にたずさわる研究者や医師などの関係者が遵守すべき倫理規範であるが、同時に、ヒトゲノム研究に必要な試料を提供する立場の人や、広く一般社会が念頭におく基本的考え方となるべきものである。この基本原則をヒトゲノム研究における憲法的文書と位置づけつつ、研究を行うにあたり遵守すべきより詳細な事項については、この基本原則を踏まえて「指針」が定められる必要がある。また、この基本原則も、ヒトゲノム研究の今後の発展および生命倫理に対する社会の理解と認識の伸長を見据えつつ、適時見直していくことが必要である。加えて、ヒトゲノム研究の成果を用いた診断や予防、治療などの応用面にもさまざまな課題があり、それらについても別途規範が定められなければならないが、その際には、ここに示された諸原則の理念が参考にされることを期待する。
  いうまでもなく、生命倫理の諸原則は、社会一般の生命科学に対する基本的理解と人間の生命に係る幅広い省察を基礎とする。しかし、生命科学の進展の速度はきわめて速く、われわれは日々さまざまな問題に適切に対処しなければならない。これまで生命倫理の十分な理念や議論の枠組みがなかった我が国においては、一方で生起する問題について社会の理解を得て迅速な対応を確保しつつ、他方で早い時期からの生命科学および生命倫理についての十分な教育によって基礎を築き、同時に社会のコンセンサス形成への日々の議論と努力を続けることが枢要である。この基本原則の策定を契機に、我が国において生命倫理に関する認識が一層高まり、生命科学に関与するすべての研究者や医師が人の尊厳や人権を守りつつその研究を進める強固な基盤が形成され、調和のとれた社会の進歩と幸福が醸成されていくことを強く望むものである。
 
平成12年6月14日
生 命 倫 理 委 員 会

ヒトゲノム研究に関する基本原則

  
 目    次 

基本的考え方

第一章  ヒトゲノムとその研究のあり方

第二章  研究試料提供者の権利

      第一節  インフォームド・コンセント

      第二節  提供者の遺伝情報

      第三節  その他の権利等

第三章  ヒトゲノム研究の基本的実施要件

第四章  社会との関係

附則

解説   

      はじめに
      第一章  ヒトゲノムとその研究のあり方   
      第二章  研究試料提供者の権利   
          第一節  インフォームド・コンセント   
          第二節  提供者の遺伝情報   
          第三節  その他の権利等   
      第三章  ヒトゲノム研究の基本的実施要件   
      第四章  社会との関係   
      附則   
   

用語説明

ヒトゲノム研究小委員会構成員

生命倫理委員会構成員



基本的考え方

1.科学は、真理の探求を目的とする人間の知的営みであり、人類社会の将来の発展の礎である。その基盤となる科学研究の自由は基本的人権の中核の一つである思想の自由を構成する。しかし、科学はそれ自体で社会から独立し完結した存在ではなく、あくまでも人間社会の中での活動である。それゆえ科学研究は、人の尊厳を前提とし、社会の中のさまざまな要因と相互作用をもち、また時には衝突があることを、十分理解しながら行われなければならない。
2.生命科学は、生物の生命現象を解明すること、とりわけヒトを生物学的に理解することを目指している。その研究成果は医療や農業などに応用され、人類の健康や福祉の発展に大きく貢献してきた。とくにヒトゲノム研究を通じて得られる成果の医療への応用は、従来の医学では困難であった疾病の予防や治療に明るい希望を与えている。その一方で、生命科学の進展に伴って、社会との接点でさまざままな問題が生じることが懸念されている。実際に、人類には、これまでも研究を理由に、人の尊厳と人権への配慮を著しく欠いた行為がなされた過去の歴史がある。第二次大戦以降はこれに対する強い反省がなされ、こうした過去を繰り返さないため、ニュールンベルク綱領を端緒として、各国や関係国際機関では、生命倫理の立場からさまざまな努力を積み重ねてきている。また、医師や研究者自身の間でも、ヘルシンキ宣言等によって人の尊厳および人権に配慮して研究を行うことの重要性が認識されて、現在に至っている。とくにこの基本原則が取り扱うヒトゲノム研究については、1997年にユネスコ(国連教育科学文化機関)総会で採択された「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」が、ヒトゲノム研究におけるはじめての普遍的倫理原則として、国際連合総会でも支持され、諸国で受け入れられている。
3.ヒトゲノムの研究は、1990年から本格化した「ヒトゲノム計画」によって、急速に進展することとなった。この研究は、人のゲノムの構造と機能を解析して、人間の生物機能を探り、人間の生命のしくみを解明し、それによって人の生命や健康の保持そして疾病の治療と予防に大きく貢献する。とくに塩基配列の解読が急速に進んで行く中で、遺伝的多型の研究が進み、個人の遺伝情報を利用して、疾病原因を特定したり新しい予防、診断や治療の方法、医薬品を開発し、また利用することができるようになりつつある。
4.しかし、ヒトゲノム研究とその成果は、一方で人間の「生命」を操作することにつながり、他方で個人の遺伝的特徴に基づいて尊厳や人権が著しく損なわれる危険性を生むなど、大きな倫理的・法的・社会的問題を引き起こすことがある。そのため、ヒトゲノム研究とその成果の応用は、こうしたさまざまな問題に注意を払いながら、社会の十分な理解を得て進めていかねばならない。
5.「基本原則」は、ヒトゲノム研究が人の尊厳と人権を損なうことのないよう、適切な形で行われることを目指して作成された。これは、ヒトゲノムの研究者や医師を主な対象としているが、同時に、社会一般、とくに研究試料提供者や血縁者、家族等がヒトゲノム研究に対してもっていてほしい認識の基礎ともなるべきものである。なお、ヒトゲノム研究は、その成果としての遺伝情報に基づく診断や治療と密接に関連するところが大きく、ヒトゲノム研究に関するこの基本原則とともに、遺伝子診断および治療に関しては別途国の指針が定められる必要がある。

第一章  ヒトゲノムとその研究のあり方
第一(ヒトゲノムの意義)

1.ヒトゲノムは、人類の遺産である。

2.ヒトゲノムは、人の生命の設計図であり、人が人として存在することの生物学的基礎であって、また人が独自性と多様性をもっていることの根拠となるものである。

3.人はゲノムのみによって存在が決定されるものではない。

4.ヒトゲノムは、両親から子へ、子から孫へ、人の生命の基本的な情報を受け継いで、人としての基本的構造および機能を形作るが、同時にその発現は環境によってさまざまに影響を受ける。

第二(ゲノムの多様性と個人の尊厳と人権)

  各個人のゲノムはそれぞれに異なっており、各々の遺伝的特徴が個人の独自性と唯一性を示すとともに、人類全体が多様であることを表わすものである。それゆえに、何人もまたいずれの集団も、遺伝的特徴の如何を問わず、その尊厳と人権が尊重されなければならず、互いに平等であって、またいかなる差別の対象ともされてはならない。

第三(倫理的・法的・社会的問題への配慮)

  ヒトゲノム研究およびその成果の応用は、人間の生命や生活についての考え方を大きく変化させることが考えられ、社会にきわめて大きな影響を与える可能性があることから、倫理的・法的・社会的問題に配慮しつつ行われなければならない。

第四(提供者等への配慮)

  ヒトゲノム研究は、人から研究試料の提供を受けることが不可欠な研究であり、それゆえ、研究試料の提供者(以下「提供者」という)、その家族および血縁者の尊厳と人権を尊重しながら、行われなければならない。

第二章 研究試料提供者の権利

第一節 インフォームド・コンセント

第五(基本事項)

1.ヒトゲノム研究を行うにあたって提供者から研究試料の提供を受ける場合は、提供者に対して事前に十分な説明を行った上で、提供者から自由意思に基づく同意(インフォームド・コンセント)が与えられていなければならない。  

2.同意は、文書で表明する。  

3.研究試料の提供を求められた者は、提供に同意しないことにより、何らの不利益もこうむることがあってはならない。  

第六(同意能力の認められない者)

  同意能力の認められない者を提供者に含めたヒトゲノム研究を行う場合は、そうした者から試料の提供を受けて研究を行う必要性が明らかにされていなければならず、また、代諾者となるべき者から本人に代わってインフォームド・コンセントが与えられていなければならない。  

第七(研究の多様性の考慮)

1.インフォームド・コンセント手続においては、それぞれのヒトゲノム研究が、とくに個人の遺伝情報の特定が、倫理的・法的・社会的問題を引き起こす可能性が高いことに鑑みて、当該研究の目的と内容に照らして、その研究に最も適切な説明方法を用いた上で、同意が与えられなければならない。  

2.それぞれの研究において、インフォームド・コンセントの手続は研究計画に明示し、倫理委員会の審査を経なければならない。  

第八(包括的同意と非連結匿名化試料)

1.(イ) 一つの研究計画の中でゲノム解析研究を目的として提供される試料は、提供の同意が    与えられる時に同時に、他のゲノム解析研究または関連する医学研究に使用することを認める旨の同意が与えられていれば、それら他の目的の研究に使用することができる。

  (ロ) この場合には、提供試料が前号にいう他の目的の研究に使用されることについて、提供者が十分にその意味を理解できるよう、その時点において予想される具体的研究目的を明らかにしつつ、説明がなされなければならない。

  (ハ) 前2号の場合において、提供者の遺伝情報を含む個人情報が、その匿名化の可能性も含めて、どのように管理されかつ保護されるか説明されなければならず、それらの情報の厳格な保護が保障されなければならない。

2.提供される試料を匿名化することが予定されている場合には、提供者との連結不可能性が確保されることを条件として、インフォームド・コンセント手続における説明の手続は適切な形で簡略化されることができる。

3.前2項の場合においては、使用される試料の由来およびインフォームド・コンセントの具体的な方法や手続について研究計画に記載し、倫理委員会の審査を経なければ、その方法を採ることはできない。

第九(既提供試料)

1.既に提供されている試料で、提供されたときに同意が与えられていなかったものは、新たに同意を得た場合に限り、使用することができる。

2.既に提供されている試料で、提供されたときに同意が与えられていたものは、その同意の範囲内に限り使用することができる。

3.前2項にかかわらず、提供者が同意を与えていないままでまたは提供者の同意の範囲を超えて、既提供試料を用いて研究を行う必要がある場合には、倫理委員会の審査を経なければ既提供試料は使用することができない。倫理委員会は、試料の匿名化、提供者との連結可能性、試料の性質、研究計画と内容、提供者等に与える影響、個人情報保護の体制等を考慮して、新たな同意の要否を含め、具体的な使用条件を定めなければならない。

4.既提供試料については、個人の遺伝情報を含む個人情報が厳格に保管されかつ保護されなければならない。研究者および研究機関は、この目的のための個人情報管理体制を整備しなければならない。

5.既提供試料で、バンク等の保存機関へ寄託されまたは既に市販されているものを用いて研究を行う場合は、通常の科学研究試料と同様に扱うことができる。

第十(同意の撤回)

1.研究試料提供の同意は、提供した試料が提供者本人と連結できる期間または状態にある限り、撤回することができる。

2.提供者は、試料提供の同意を撤回することにより、何らの不利益もこうむることがあってはならない。

第二節 提供者の遺伝情報
第十一(遺伝情報の保護管理と体制整備)

1.提供者の遺伝情報は、厳重に保管され、十分に保護されなければならない。

2.研究機関および研究者は、提供者の個人情報、提供者と提供研究試料を結ぶ個人識別情報および研究の結果明らかになる個人の遺伝情報を厳重に管理し、これらの情報を最大限の注意をもって保護しなければならない。そのため、研究機関は、個人の遺伝情報および個人識別情報を含む個人情報を保護し管理するために必要な体制と手続を整備しなければならない。

3.研究機関は、研究者および研究に関与する者にヒトゲノム研究における個人情報保護の重要性を周知徹底し、またこれらの者は、ヒトゲノム研究において個人情報のもつ意味とその保護の必要性を十分に理解しなければならない。

第十二(個人情報の漏洩)

1.研究機関および研究者は個人情報の漏洩を防止するために必要な方策を設定しなければならない。

2.個人情報の漏洩が判明した場合には、漏洩した者、当該研究を行う研究者、個人情報管理者および研究機関の長その他漏洩した情報に関連した者に関して、その責任について、身分の不利益処分を含めて、厳格な処置が講じられなければならない。

3.個人情報の漏洩によって損害をこうむった者は、正当な補償または賠償を受けることができる。

第十三(知る権利)

  提供者は、研究の結果明らかになった自己の遺伝情報を知る権利を有する。

第十四(知らないでいる権利)

  提供者は、研究の結果明らかになった自己の遺伝情報を知らないでいる権利を有する。提供者の意思に反して、研究結果を提供者に知らせることは許されない。

第十五(血縁者等への情報開示)

1.提供者と血縁関係にある者または提供者の家族は、提供者個人の遺伝情報について、原則として提供者本人の承諾がある場合に限り、知ることができる。提供者の意思に反して、提供者個人の遺伝情報を血縁者または家族に知らせることは許されない。

2.前項の原則にかかわらず、研究の結果明らかになった遺伝情報に関して、疾病に関する遺伝的要因であるかまたはその可能性があるとの判断に結びつく場合、当該疾患の予防または治療が可能と認められるときは、倫理委員会の審査を経て、その判断は血縁者に伝えられることができる。

第十六(差別の禁止)

  提供者の遺伝情報は、人としての多様性を示す基盤であり、提供者は、研究の結果明らかになった自己の遺伝情報が示す遺伝的特徴を理由にして差別されてはならない。

第三節 その他の権利等
第十七(無償原則等)

1.研究試料の提供は無償とする。

2.研究の結果得られた成果が知的所有権等の対象となる場合、それらの権利は提供者に帰属するものではない。

第十八(損害の補償)

  提供者は、ヒトゲノム研究の過程においてまたはその研究に関連して損害をこうむった場合、正当な補償または賠償を受ける権利をもつ。

第十九(社会的・心理的支援)

  提供者および血縁者ならびにそれらの家族は、研究試料を提供しようとするにあたって、または研究結果を知りもしくは伝えられるにあたって、遺伝カウンセリングを含む適切な社会的・心理的支援を受けることができる。

第三章 ヒトゲノム研究の基本的実施要件
第二十(人の尊厳と研究の自由)

1.人の尊厳に反する研究は行ってはならない。  

2. 科学研究の自由は尊重される。  

3.ヒトゲノム研究とその応用は、人の尊厳と人権とを十分に尊重して行われなければならない。 

第二十一(研究の基本と研究計画の設定)

1.ヒトゲノム研究は、生物学上、遺伝学上および医学上の有意義な成果が見込まれるものでなければならない。  

2.ヒトゲノム研究は、明確で詳細な研究計画に基づいて行われなければならない。  

3.研究の結果得られたヒトゲノム塩基配列情報は、公開されなければならない。 

第二十二(研究実施手続の設定と遵守)

  ヒトゲノム研究は、それぞれの研究の目的や対象がさまざまであり、この基本原則を尊重しつつ、それぞれの研究計画に応じて適切な研究実施手続が設定されなければならず、研究者およびその研究の遂行に関係する者は、その手続を遵守しなければならない。  

第二十三(倫理委員会)

1.ヒトゲノム研究にあたっては、その研究計画について、独立で学際的かつ多元的な倫理委員会による事前の審査を経なければならない。  

2.倫理委員会は、提出されたヒトゲノムに関する研究計画について、科学的観点からの評価とともに、倫理的・法的・社会的観点を中心に、総合的に研究実施の可否の審査を行う。  

3.倫理委員会は、その組織および審査において、透明性が確保されていなければならない。  

第四章 社会との関係
第二十四(社会の理解・支援と説明責任)

1.ヒトゲノム研究は、人類および個人の生命と健康ならびに社会の福祉に大きく貢献するものである。  

2.社会は、ここに示したヒトゲノム研究の基本原則、とりわけ第一から第三に示したヒトゲノムの意味を十分に理解し、またヒトゲノム研究が社会とその将来に果たす役割を認識しつつ、研究の進展を支援することが望まれる。  

3.ヒトゲノム研究に関わる者は、そうした社会の理解と認識を増進するために、ヒトゲノム研究全般にわたって社会に十分な説明を行う一般的責任がある。  

第二十五(研究成果の公開と社会への還元)

1.ヒトゲノム研究によって得られた生物学上、遺伝学上、医学上の成果は、社会に還元されなくてはならず、公開されることを原則とする。  

2.ヒトゲノム研究の成果は、科学の進歩、人々の苦痛の除去、疾病の予防および治療ならびに健康の改善のために用いられなければならない。  

第二十六(適切な措置と対応)

  ヒトゲノム研究がこの「基本原則」に従って十分かつ効果的に推進されるよう、適切な措置が講じられるとともに、ヒトゲノム研究とその成果が引き起こす可能性のあるさまざまな倫理的・法的・社会的問題については、全般的で適切かつ迅速な判断と対応が図られなければならない。  

第二十七(教育の普及と情報の提供)

  ヒトゲノム研究が人類や個人の生命、生活および未来に与える影響がきわめて重要なものとなるであろうことに留意して、とくにヒトゲノムおよびヒトゲノム研究ならびに生命倫理についての教育の普及が推進され、ヒトゲノムの研究と応用についての情報の提供が図られなければならない。  

附則
  この基本原則は、ヒトゲノム研究の実際の進展および社会の理解と動向に照らして、適切な時期に見直しが行われなければならない。  

解説

はじめに

1.この解説のねらい 

  この解説は、「ヒトゲノム研究に関する基本原則」(以下「基本原則」という。)のそれぞれの原則がよりよく理解され、実際の研究において適切に適用されることを目的として作成された。  

  ヒトゲノム研究とは、ゲノムという生命の基本設計図をもとにヒトがどのように成り立っているかを体系的に理解するために行うものであり、疾患の原因解明もその目的の一つである。この研究は、かつてはヒトゲノムDNAの全塩基配列を決定することが主体であり、ゲノムの全構造とそこに記されている遺伝情報をすべて解読して、そこから出発する新しい生命研究として位置づけられていた。今や、ヒトゲノムDNAの全塩基配列の解読はほぼ終了しようという状況にあり、生物学的なヒトの生命現象の解明とともに、とくにゲノム産物(RNA、タンパク質)を含めてその機能の解明を行うことや、ゲノムにおける個々人の違いを明らかにすることにより、疾患とゲノムの関係を明らかにして疾患の原因をより正確に理解しようという研究が、ヒトゲノム研究の主体となっている。  

  この「基本原則」は、ヒトゲノム研究における「憲法的文書」として位置づけられる。これらの基本原則は、いずれのヒトゲノム研究が行われるにあたっても、それぞれの研究者、医師およびそれに関わるその他の関係者が遵守するべき倫理規範であり、同時に、ヒトゲノム研究に必要な研究試料を提供する研究試料提供者、その血縁者および提供者の家族、ならびに社会一般が念頭におくべき基本的考え方である。この解説は、こうしたねらいによりよく対応するため、また実際の理解や適用を容易にするために、各原則の背景や趣旨、原則に対して許容される例外の可能性を説明しているほか、その他各条項を理解するのに役立つと考えられる事項を記してある。 

2.「基本原則」の対象範囲  
  この基本原則は、上に述べたように、ヒトゲノムに関する知識を発展させ、またそれへの寄与を目的とする研究、すなわち「ヒトゲノム研究」を対象としている。したがって、ヒトゲノム研究の成果を用いた診断や治療などに関連する医学的応用または産業的応用等の活動については、この原則の直接的な対象ではなく、それぞれについて適切な指針が定められるべきである。しかし、ここに「基本原則」として掲げられた諸原則は、生命科学研究一般についての原則の基本要素を示しているものとして、広い範囲で参照されまた利用されることが望まれる。  
 
3.「基本的考え方」  
  ここでは「基本原則」を作成した背景と「基本原則」の位置づけを述べている。とくに後半では、ヒトゲノムの研究が科学研究の一部であり、人間の健康と福祉に大きく貢献する、というプラスの側面を最大限に活かしつつ、遺伝情報がさまざまな倫理的・法的・社会的問題を引き起こす可能性がある、というマイナスの側面を最小限に抑えるよう十分に配慮して、適切な形でヒトゲノム研究が行われることを求めている。  
*この「解説」では概ね、「ヒト」は生物学上の概念として、「人間」は一般的に人間という存在を念頭において、また「人」は個人や集団など具体的に状況が設定されている場合に、それぞれ用いる。

第一章  ヒトゲノムとその研究のあり方
  この章は、ヒトゲノムのもつ意味と位置づけ、ヒトゲノム研究の理念について述べている。

第一(ヒトゲノムの意義)
1.ヒトゲノムは、人類の遺産である。

2.ヒトゲノムは、人の生命の設計図であり、人が人として存在することの生物学的基礎であって、また人が独自性と多様性をもっていることの根拠となるものである。

  第1項、2項は、ヒトゲノムのもつ意味を示している。ヒトゲノムが「人類の遺産(heritage)」である、という表現は、「世界遺産」で語られるのと同じく、ヒトゲノムは、その生物的進化の上で「人類が代々受け継いできた大切なもの」であり、そのことによって人間が人間として存在する、ということを象徴的に示している。ゲノムを人類が共同して所有している「物=財産」である、という所有権的意味を指し示すのではない。したがって、そうした人間たることの生物学的基礎を示すものをないがしろにするような研究や応用は許されないのである。それぞれの人が、各自のゲノムをもっていると同時に、人類(ヒト)は全体としてヒトのゲノムをもっていることになる。その意味で、個人のゲノムと人類のゲノムを解析研究するために各々の人から研究材料の提供を受けることは、きわめて重要な意義がある。ただし、人類のゲノムであるからという理由で、またはゲノムは人類がもっている共同財産であるからという理由で、研究材料の提供を強いられることはない。各個人のゲノムはそれぞれがもつものであって、試料提供に際して同意が不可欠だからである。「財産」という言葉を避けたのは、ここに理由がある。この「人類の遺産」という表現は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」やヒトゲノム計画に参加している科学者の団体HUGO(ヒトゲノム機構)のELSI(倫理的・法的・社会的問題)委員会でも用いられている。

  「生命の設計図」は、人間がヒトゲノムのもつ情報に基づいてその生命体を構成していることを示している。それぞれの個人が独自のゲノムをもち、したがってそれぞれの設計図をもっているから、一人一人の人が独自性をもっており、それぞれが唯一の存在であって、互いに異なっており、多様性をもっているのである。

3.人はゲノムのみによって存在が決定されるものではない。

4.ヒトゲノムは、両親から子へ、子から孫へ、人の生命の基本的な情報を受け継いで、人としての基本的構造および機能を形作るが、同時にその発現は環境によってさまざまに影響を受ける。

  第3項は、それぞれの人の姿、形や性格、生死まですべてがゲノムで決まってしまうとする、いわゆる遺伝子決定論を排除するためのものである。ヒトゲノムは、人の生物学的な基本的設計図であり、原則第二に述べるようにその人ごとに異なり、それがそれぞれの人の個性や多様性を示すものである。同時に、遺伝子は、第4項に示すように、環境の影響によってもその発現が異なるのであって、ゲノムのみがその人を決定づけているのではない。原則第二と併せて、一般の人々にヒトゲノムについての正しい理解を求める意味がある。


第二(ゲノムの多様性と個人の尊厳と人権)

  各個人のゲノムはそれぞれに異なっており、各々の遺伝的特徴が個人の独自性と唯一性を示すとともに、人類全体が多様であることを表わすものである。それゆえに、何人もまたいずれの集団も、遺伝的特徴の如何を問わず、その尊厳と人権が尊重されなければならず、互いに平等であって、またいかなる差別の対象ともされてはならない。

  原則第一から、各個人の遺伝的特徴は生物学上の差異に過ぎず、その特徴がそれぞれの個人の個性を示している。その間には何ら価値の優劣はない。社会はそのことを十分に認識し、個人や集団の尊厳と人権を尊重しなければならない。それゆえに、遺伝的特徴がどのようなものであろうとも、人は互いに平等であり、遺伝的特徴に基づく差別は禁止される。

  「尊厳」には、各個人を主体にする場合と、人間(人類・人)全体を、例えば動物などとの対比で、主体にする場合の双方がある。ここでは「遺伝的特徴」を問題にしており、基本的には各個人や集団が問題になる場合なので、「個人や集団の尊厳」が対象である。また、ここでの「人権」は、個別の人権内容を含めて包括的にいわゆる「基本的人権」をいう。この中にまた一般原則としての差別禁止原則も含まれる。

  遺伝的特徴を尊重することは、しかし、遺伝的素因をもつ疾患の治療、とくに遺伝子治療を否定することではない。遺伝的特徴については、基本的に価値の平等が認められなければならない。しかし一方で、医療は、人間が社会で通常生活していく上で何らかの身体的、精神的不利益や負担があれば、それを軽減することが大きな目標の一つであり、ゲノムを研究し、その成果を治療に役立てることは妥当である。


第三(倫理的・法的・社会的問題への配慮)

  ヒトゲノム研究およびその成果の応用は、人間の生命や生活についての考え方を大きく変化させることが考えられ、社会にきわめて大きな影響を与える可能性があることから、倫理的・法的・社会的問題に配慮しつつ行われなければならない。

  ヒトゲノムについては、その「研究」のみではなく、「応用」も含めて社会に対する影響があることを念頭においておかねばならない。この基本原則は「研究」に関する倫理規範であるが、同時に「応用」においても社会に対する影響に配慮するべきことを示した。これによって、研究のみならずその応用に関連する民間を含めたすべての関係者、関係機関においても、この基本原則の内容を十分に尊重しなければならない。


第四(提供者等への配慮)

  ヒトゲノム研究は、人から研究試料の提供を受けることが不可欠な研究であり、それゆえ、研究試料の提供者(以下「提供者」という)、その家族および血縁者の尊厳と人権を尊重しながら、行われなければならない。

  ヒトゲノム研究がとくに倫理的・法的・社会的問題に配慮しなければならないのは、研究に協力する個人から研究試料の提供を受けるものであることと、その試料を用いて個人の遺伝情報を解析することから導かれる。したがって、原則第三の一般的保護に加えて、本条ではとくに提供者等の保護を定めた。

  ここにいう「提供者」には、研究の必要に応じて、患者のみならず、健常者も含む。また「家族」は、法律上の婚姻関係にあるかどうかには関わらず、同居等の事実を配慮する必要がある。


第二章  研究試料提供者の権利
  この章は、ヒトゲノム研究に協力して、研究に不可欠な試料を提供する研究試料提供者の地位について定める。ヒトゲノム研究に関する倫理的・法的・社会的問題を考える上で、もっとも配慮の対象とすべきは、直接に解析される遺伝情報を提供する提供者である。

第一節 インフォームド・コンセント
  この節は、提供者の人権保護の基本的な要素である自己決定権としてのインフォームド・コンセントにつき定める。

第五(基本事項)

1.ヒトゲノム研究を行うにあたって提供者から研究試料の提供を受ける場合は、提供者に対して事前に十分な説明を行った上で、提供者から自由意思に基づく同意(インフォームド・コンセント)が与えられていなければならない。

2.同意は、文書で表明する。

3.研究試料の提供を求められた者は、提供に同意しないことにより、何らの不利益もこうむることがあってはならない。

  ここでは、インフォームド・コンセントの原則を一般的に定める。インフォームド・コンセントの基本は、研究試料を提供しようとする者一人一人に対して、その研究について十分に理解が得られるよう説明を行い、その者の自由意思に基づいて、書面で同意を得ることである。実際の同意の方法、形式等については、この基本原則による他、別に定められるべき指針による。

  説明者は、各提供者にインフォームド・コンセントのための説明を行うにあたって、提供者が自分の提供試料を用いて行われる研究の計画と試料を提供することの意義について、十分に理解することができるよう努めなければならない。その際、その研究の目的、方法、見込まれる研究成果、提供者がこうむる可能性のある不利益や損失等について、説明のための文書やスライド、ビデオ等を用いるなどして、わかりやすく説明しなければならない。とくに提供者が必ずしもヒトゲノム研究に関連した十分な知識をもっていないことに十分配慮するべきである。また説明は、提供者がそれを理解したかどうかを確認しながら進める必要がある。例えば、文書を用いた説明は、提供に同意する前に時間的余裕を設けることができるとともに、本人に考慮の材料と余地とを与えることができ、望ましい方法である。また、各個人別に説明を行うことと別に、集団での説明会方式が理解を容易にすると考えられる場合には、そうした方法を採ることも認められる。ただし、特別の事情がない場合には、説明会方式は、本来行われるべき各個人別のインフォームド・コンセント手続の補完的手段に留まる。

  原則第七および第八に述べる手続も含めて、インフォームド・コンセントの手続と方法については、研究計画に示しておかなければならない。インフォームド・コンセントの手続や方法が適切かどうかは、提出された研究計画に基づいて、倫理委員会が判断する。

  同意は原則として文書でなされ、適切に保管される。しかし、書写能力や運動能力に困難があるなどの理由により、文書で同意することが困難かまたは不可能な場合には、ビデオテープによるなどの適当な代替方法が考えられなければならない。なお、書面によらず代替的方法を利用するのは、提供者に上記のような特別の理由がある場合に限ることとし、研究者の便宜を理由としてはならない。

  説明した内容と研究計画または実際の研究との間に食い違いがある場合には、有効な同意がなかったものとみなされる。


第六(同意能力の認められない者)

  同意能力の認められない者を提供者に含めたヒトゲノム研究を行う場合は、そうした者から試料の提供を受けて研究を行う必要性が明らかにされていなければならず、また、代諾者となるべき者から本人に代わってインフォームド・コンセントが与えられていなければならない。

  同意能力の認められない者をも提供者に含める場合は、その研究に当該同意能力の認められない者から試料の提供を受ける必要性が明らかにされていなければならない。同意能力の認められない者の参加を得なくとも当該研究を支障なく行うことができる場合には、その者を提供者に含めるべきではない。また、当該研究は、本人にとって利益となるか、または少なくとも不利益とならないものでなければならない。

  「同意能力の認められない者」の範囲は、一般的に法令または国の指針で定めることが望ましい。また同意能力が認められないか否かの判断は、できる限り科学的客観的に判断される必要がある。したがって、実際には、その研究計画に参加していない医師が第三者の立場で医学的に判断して、同意能力の有無を決定することになろう。

  同意能力の認められない者に代わってインフォームド・コンセントを与える代諾者となるべき者は、本人が未成年者の場合は親権者、その他の者の場合は後見人等、原則として法の定めに基づいて選ばれなければならない。法に定めのない場合には、提供者の権利と最善の利益を考慮して、適切な代諾者が選ばれる必要がある。代諾者の選任については、できる限り研究計画に明示し、倫理委員会の審査を経て行われるべきである。代諾者は、代諾にあたって、提供者本人の権利と利益を保護し、またそれらを損なうことのないよう、十分に注意しなければならない。

  なお、一定年齢以上の未成年者については、本人の同意も併せて与えられることが望ましい。


第七(研究の多様性の考慮)

1.インフォームド・コンセント手続においては、それぞれのヒトゲノム研究が、とくに個人の遺伝情報の特定が、倫理的・法的・社会的問題を引き起こす可能性が高いことに鑑みて、当該研究の目的と内容に照らして、その研究に最も適切な説明方法を用いた上で、同意が与えられなければならない。

2.それぞれの研究において、インフォームド・コンセントの手続は研究計画に明示し、倫理委員会の審査を経なければならない。

  「基本的考え方」に述べたように、ヒトゲノム研究とその成果が、倫理的・法的・社会的問題を引き起こすことがある。とくに個人の遺伝情報が特定されることにより、とりわけ提供者や家族、血縁者には、さまざまな問題が生じることがある。インフォームド・コンセントの際には、そうしたことも含めて、提供者に十分に説明し理解してもらうことが重要である。しかし、ヒトゲノムの研究は、その目的、対象、方法がさまざまであり、インフォームド・コンセント手続も含めて、個別の研究を単一の研究方法に統一することは不可能であり、かえって研究の妨げになりかねない。したがって、ヒトゲノム研究を行うにあたっては、最も合理的で効果的な研究手法を採ることができるよう、適切な研究実施手続を定めることが必要である。インフォームド・コンセントの基本は、原則第五に挙げたように事前の十分な説明を受けた上での同意の形で自己決定権を行使することにあるから、提供者本人の十分な理解を得ることを前提としつつ、それぞれのヒトゲノム研究において、具体的なインフォームド・コンセントの手続や方法は異なることが考えられる。

  例えば、多数の個人からなる集団を対象として研究試料の提供を受けて行われるゲノム解析研究の場合のように、各個人に一人一人説明を尽くすことが困難である場合には、説明会を開くなどの手段をとって、研究の趣旨と内容が個々の提供者に十分に理解されるよう努めなければならない。同じように、特定のゲノム解析研究に限定することなく、他のゲノム解析研究やそれら以外の関連する医学研究に同意を広げる場合(いわゆる包括的同意)や、提供された試料が提供者本人と連結が不可能な形で匿名化されて、個人情報との関連が切り離される場合(いずれも原則第八の第1、2項参照)のように、インフォームド・コンセント手続における説明の手続が適切な形で簡略化されることは妥当である。

  集団を対象とする大規模な疫学的研究で追跡調査を必要とするもののように、提供者と提供試料との連結可能な状態を比較的長期間にわたって継続させて研究することによって、医学の発展と疾病の予防、診断および治療の進展に大きく貢献することが明らかに予想される場合がある。そのような場合には、本来なら個別に提供者に対して説明し、同意が与えられるべきであるが、その研究の成果によって提供者や社会が受ける恩恵の大きさと、通常のインフォームド・コンセント手続をとって個別に説明し同意を得る作業を求めることが研究の遂行に過大な負担を強いる可能性があることとを勘案しつつ、また提供者の個人情報の厳格な管理を確保することを条件として、個別でなく集団での説明会のような説明形態を採ることができる。提供者との連結可能な試料を用いた研究においてこのような説明形態を採ろうとするときは、研究計画にその旨を明示して、倫理委員会の審査を受けなければならない。倫理委員会は、提供者のインフォームド・コンセントの重要性と、当該研究の医科学的重要性および個人情報保護の適切さ等を考慮して、研究計画に示された説明形態の是非について判断するべきである。なお、この種の長期間連結可能な試料を用いた集団を対象とする大規模な研究計画については、倫理委員会はとりわけ慎重に審査するよう留意しなければならない。

  また集団での説明が、提供者同士の情報交換やそれぞれの人の心理状況の観点から、その集団の構成員にとっては効果的である場合もありうる。その他、懇切な説明を付した文書の配布や電話による個別説明などもインフォームド・コンセントに必要な説明として用いることが考えられる。これら以外にも、今後の研究の発展によって、インフォームド・コンセントの手続や方法に異なる形が出てくることがありえよう。

  こうした通常のインフォームド・コンセントの手続や方法によらない他の方法の選択は、あくまでヒトゲノム研究が人の健康の改善や疾病の原因特定や予防および治療に大きな貢献をすることが期待され、そのため研究自体が最も迅速に合理的かつ効果的に行われることが研究者ならびに提供者および一般社会の双方にとって利益があるからであって、研究の便宜や省力化を目的として採られてはならない。そうした便宜的理由による説明の簡略化は、インフォームド・コンセントの意味を損なうものである。そのため、個別の研究の実施にあたっては、インフォームド・コンセントの具体的な手続や方法について、研究計画に明示し、倫理委員会の審査を受けてから行うことが条件となる。いかなる場合も、提供者から個別に説明を求められるときは、インフォームド・コンセントの基本に立ち返って、個別の説明に応じなければならない。また、説明が簡略な形でなされる場合であっても、同意は個別に文書で行われなければならない。同意の簡略化は認められない。

  他方で、研究内容によっては、原則第六にある同意能力の認められない者を提供者とする場合や、重篤な疾病の患者であってその疾病の治療が困難なことを本人が知らない場合などのように、原則第五の解説に述べたインフォームド・コンセントの基本に細心の注意を払って、通常よりも慎重に説明が行われなければならない場合もありうる。

  いずれの方法を採るにせよ、個人の遺伝情報の保護は十全に行われなければならない。この保障がなければ、研究計画は認められず、したがって研究を実施することは許されない。


第八(包括的同意と非連結匿名化試料)

1.(イ)一つの研究計画の中でゲノム解析研究を目的として提供される試料は、提供の同意が与えられる時に同時に、他のゲノム解析研究または関連する医学研究に使用することを認める旨の同意が与えられていれば、それら他の目的の研究に使用することができる。

   (ロ)この場合には、提供試料が前号にいう他の目的の研究に使用されることについて、提供者が十分にその意味を理解できるよう、その時点において予想される具体的研究目的を明らかにしつつ、説明がなされなければならない。

  (ハ)前2号の場合において、提供者の遺伝情報を含む個人情報が、その匿名化の可能性も含めて、どのように管理されかつ保護されるか説明されなければならず、それらの情報の厳格な保護が保障されなければならない。

  この原則は、インフォームド・コンセント手続の特別の例を定める。原則第七の範囲に入るが、原則第九と並んで、特記するべきものと考えた。

  ここでは前条の説明に述べた包括的同意の場合を定めている。ある具体的な研究計画を設定してゲノム解析研究が行われる際に、提供者はその研究計画について試料提供に同意するのが原則である。しかし試料そのものは貴重な研究試料として、その研究計画以外で他のゲノム解析研究や、またはもっと広く関連する医学的研究に利用することにも提供者が同意すれば、その試料の利用は認められることができる。この場合、当初の研究が実施されている期間はもちろん、その研究の終了後に提供試料が他の研究に使用されるまでの期間、また他の研究に使用されている期間を通じて、提供者の個人情報は常に厳格に管理され保護されることが、もっとも重要である。

  ただし、このような包括的同意は、単なる研究の便宜や省力化を目的として求められてはならない。他のゲノム解析研究に用いるにせよ、関連する医学研究に用いるにせよ、こうした包括的同意が与えられるためには、インフォームド・コンセントの一般原則を想い起こして、その時点で予想される具体的な他のゲノム解析研究や関連する医学研究の内容をも説明しておくべきである。なお、本項にいう他の目的の研究はゲノム解析研究または関連する医学研究に限る。これら以外の目的の研究に使用しようとする場合には、通常のインフォームド・コンセントの手続が取られなければならない。

  いずれにせよ、原則第七と同じく提供者の個人情報(遺伝情報および個人識別情報を含む。)の厳格な保護が保障されなければ、前条と同じく、包括的同意を含んだ研究計画そのものが承認されてはならない。

2.提供される試料を匿名化することが予定されている場合には、提供者との連結不可能性が確保されることを条件として、インフォームド・コンセント手続における説明の手続は適切な形で簡略化されることができる。

  第2項は、連結不可能匿名化の場合の説明の簡略化を定める。

  試料が提供されたときにその提供者の個人名と完全に切り離されて、誰からの試料か判らなくされ、その後も遡って提供者には結びつけることができないように処理(連結不可能匿名化)される場合には、その研究の過程および研究結果の発表において、提供者とは完全に切り離される。つまり、ある人の身体の一部の提供ではあるものの、提供者と試料そしてゲノム解析から得られる個人遺伝情報の間になんらの結びつきもなくなる。この場合には、研究の結果得られる遺伝情報は、個人情報ではあっても、提供者個人と結びつかないことから、遺伝情報が明らかになることによる不利益はない、といえる。このように連結不可能匿名化された試料を用いた研究においては、その研究の医学的価値と通常のインフォームド・コンセント手続での説明方法を採らないことによって提供者がこうむる可能性のある不利益とを衡量すれば、説明の手続を簡略化することはあながち不合理ではない。インフォームド・コンセントの基本は、提供者がその研究の目的と内容、意義を十分に理解して、研究に協力する積極的意思を示すことにあるから、その点が確保されるなら、説明の方法や手続は簡略化することができる。

  例えば、集団を対象とするゲノム解析研究において、提供される試料が提供者と連結不可能な形で匿名化される場合には、個別に説明を行い同意が与えられるべきであるとするならば、そうした研究がもたらすであろう成果の重要性と比べて、過大な負担を研究者の側に負わせることになりかねない。したがって、このような場合には、多数の個人に個別に説明を行うことなく、集団を対象にした説明会を開くことや、懇切な説明文書の配布や視聴覚資料の提供により対面説明に代えたり、質問があれば電話で応答することなどの方法によって事前の説明とすることができる。ただし、提供者の側から個別の説明を求められるときは、インフォームド・コンセントの基本に立ち返って、個別の説明に応じなければならない。

  もっとも、説明の手続や方法は簡略化することが許されても、同意は簡略化されるべきではなく、個別に書面で与えられなければならない。

3.前2項の場合においては、使用される試料の由来およびインフォームド・コンセントの具体的な方法や手続について研究計画に記載し、倫理委員会の審査を経なければ、その方法を採ることはできない。

  包括的同意の場合にせよ、連結不可能匿名化の場合にせよ、上に述べたような説明の簡略化はインフォームド・コンセント原則の例外であり、倫理委員会において、そうしたインフォームド・コンセント手続の必要と条件を満たしているかどうかの審査を経なければ、この方法を採ることはできない。


第九(既提供試料)

1.既に提供されている試料で、提供されたときに同意が与えられていなかったものは、新たに同意を得た場合に限り、使用することができる。

2.既に提供されている試料で、提供されたときに同意が与えられていたものは、その同意の範囲内に限り使用することができる。

3.前2項にかかわらず、提供者が同意を与えていないままでまたは提供者の同意の範囲を超えて、既提供試料を用いて研究を行う必要がある場合には、倫理委員会の審査を経なければ既提供試料は使用することができない。倫理委員会は、試料の匿名化、提供者との連結可能性、試料の性質、研究計画と内容、提供者等に与える影響、個人情報保護の体制等を考慮して、新たな同意の要否を含め、具体的な使用条件を定めなければならない。

4.既提供試料については、個人の遺伝情報を含む個人情報が厳格に保管されかつ保護されなければならない。研究者および研究機関は、この目的のための個人情報管理体制を整備しなければならない。

5.既提供試料で、バンク等の保存機関へ寄託されまたは既に市販されているものを用いて研究を行う場合は、通常の科学研究試料と同様に扱うことができる。

  この基本原則が作られる以前に提供されていた試料(以下「既提供試料」という。)の取り扱いについては、慎重な配慮が必要であり、原則第九では、それについての基本的な考え方を示している。既提供試料は、以前に生命倫理やインフォームド・コンセントの概念が研究者にもまた一般の人々にも十分に理解されていない時期に提供を受けたものであり、現時点での基準から考えると説明や同意の態様等に不十分なところがありうる。したがって本来なら使用してはならず、速やかに廃棄するべきものである。しかし他方で、既に提供を受けた試料は研究試料として貴重な価値を有し、これを利用することが人の健康の改善や疾病の克服に重要な貢献をすることが考えられる。そのため、そうした既提供試料を使用して研究を行うことが必要であり、またその研究が提供者に不利益を与えない場合には、その旨を研究計画に明示し、倫理委員会の審査を経ることにより、提供時の不十分なインフォームド・コンセントは償われると考えられる。

  既提供試料の使用の際のインフォームド・コンセントの緩和の可能性と関連して、原則第七の説明で述べたと同じように、既提供試料の使用が単なる研究の便宜や省力化を目的として採られてはならない。

  また、原則第七と同様に、提供者の遺伝情報を含む個人情報の保護は十分に行われなければならず、この保障がなければ、研究計画は承認されず、したがって研究を実施することは許されず、既提供試料は廃棄されなければならない。

  また、研究実績が十分に認められ、学術的価値が確定し、普遍的かつ広汎に利用され、さらに一般入手可能な組織、細胞、体液および排泄物ならびにそれらから抽出したDNA等で、由来が明確かつ正当であってバンク等に保存されまたは市販されており、いずれの研究者も公平に入手できる状態にある試料がある。そのような試料を用いて研究を行う場合、その試料の性質に照らして、それらの試料は、提供者の尊厳や人権に影響するものでないことから、元の提供者に遡って同意を求める必要は認められず、通常の科学研究試料と同様に扱うことができる。


第十(同意の撤回)

1.研究試料提供の同意は、提供した試料が提供者本人と連結できる期間または状態にある限り、撤回することができる。

2.提供者は、試料提供の同意を撤回することにより、何らの不利益もこうむることがあってはならない。

  同意は、提供した試料が提供者本人のものであると判別できる(連結できる)期間または状態にある場合は、撤回できるのが原則である。ただし、試料が匿名化され、提供者本人と連結不可能となった場合または連結不可能な状態で保存されている場合は、同意を撤回することはできない。また、研究結果が公表された後では同意は撤回できない。同意がどの段階までであれば撤回できるかについては、インフォームド・コンセントの際に、あらかじめ説明されなければならない。バンク等に保存されている試料や市販試料については、同意の撤回の対象とはならない。

  なお、同意を撤回することによって提供者が不利益をこうむることがないように注意が払われなければならない。

  同意が撤回された試料およびその試料のみに係る研究結果は、いずれも廃棄される。


第二  提供者の遺伝情報

第十一(遺伝情報の保護管理と体制整備)

1.提供者の遺伝情報は、厳重に保管され、十分に保護されなければならない。

2.研究機関および研究者は、提供者の個人情報、提供者と提供研究試料を結ぶ個人識別情報および研究の結果明らかになる個人の遺伝情報を厳重に管理し、これらの情報を最大限の注意をもって保護しなければならない。そのため、研究機関は、個人の遺伝情報および個人識別情報を含む個人情報を保護し管理するために必要な体制と手続を整備しなければならない。

3.研究機関は、研究者および研究に関与する者にヒトゲノム研究における個人情報保護の重要性を周知徹底し、またこれらの者は、ヒトゲノム研究において個人情報のもつ意味とその保護の必要性を十分に理解しなければならない。

  研究機関において提供試料に関連する個人情報、個人識別情報および個人遺伝情報を保管しおよび保護する体制ならびに試料の譲渡に関する条件については、この基本原則の適用・運用に係る「指針」で定める必要がある。

  各研究機関において個人情報等の保管および保護の体制を考えるにあたっては、個人情報保護の目的および趣旨と関係法令の規定に則りつつ、とくに次のような要素を含むべきである。
    (1) 個人の遺伝情報を含む個人情報と個人を特定することができる個人識別情報とを分離すること。

(2) 個人識別情報と個人情報とを保管し、またそれらの情報の分離と連結を管理する個人情報管理者をおくこと。

(3) 個人情報管理者の責任の下に個人情報を厳重に管理する手続および設備を整えること。

(4) 研究者は、使用中の試料と提供者との連結が必要な場合、個人情報管理者を通じてのみ個人識別情報にアクセスすることができること。

(5) 個人情報の漏洩の場合の罰則、および被害の補償・賠償に関する体制を整えること。

個人情報の厳格な保護・管理は、体制や手続の整備のみでは不十分である。研究者や研究関係者それぞれが個人情報保護の意味を十分に理解し、自覚していなければ、万全な保護・管理は現実には保障できない。関係者の意識向上が不可欠である。上記(3)については、例えば個人情報を処理するコンピュータは、他の一切のコンピュータと切り離し、情報は外部記憶媒体のみを用い、保管庫で厳重に保管することが考えられる。

  国内外を問わず、ある研究機関より他の研究機関または特定個人と連結可能な試料を譲渡する場合、譲り受ける研究機関にも個人情報保護体制が整備されていなければならない。個人情報保護体制の不十分な研究機関には譲渡してはならない。

  なお、犯罪捜査等、法の定める場合に限り、個人情報が開示されることがある。


第十二(個人情報の漏洩)

1.研究機関および研究者は個人情報の漏洩を防止するために必要な方策を設定しなければならない。

2.個人情報の漏洩が判明した場合には、漏洩した者、当該研究を行う研究者、個人情報管理者および研究機関の長その他漏洩した情報に関連した者に関して、その責任について、身分の不利益処分を含めて、厳格な処置が講じられなければならない。

3.個人情報の漏洩によって損害をこうむった者は、正当な補償または賠償を受けることができる。

  原則第十一と対になる原則である。ヒトゲノム研究においては、インフォームド・コンセントを確保することにもまして、個人情報を保護し、その漏洩を防ぐことが最も重要である。ヒトゲノム研究で明らかになる個人の遺伝情報はその個人の特性を示す情報が含まれている可能性があり、これが漏洩することは、その個人の人権侵害につながる。したがって、研究機関は個人情報の漏洩を防止する方策を設けるとともに、万一の漏洩に対して厳格な責任と断固とした措置をとらなければならない。

  個人情報の漏洩により損害をこうむった者は、正当な補償または賠償を受ける。その場合、漏洩は、実害がなくとも漏洩自体が被害であると考えることもでき、人権の侵害にも繋がることを十分に理解しておかなければならない。

  なお、漏洩の責任を負う者から正当な補償または賠償を受けることができない場合には、研究機関がその補償または賠償を行わなければならない。また、漏洩に起因する人権侵害については、何らかの社会的救済措置を考えておく必要がある。


第十三(知る権利)

  提供者は、研究の結果明らかになった自己の遺伝情報を知る権利を有する。

  本条は、人の遺伝情報はあくまで個人のものであり、各個人は自己の遺伝情報を知る権利をもつ、という基本原則を示している。インフォームド・コンセントに際しては、提供者のこの知る権利および知らない権利について説明がなされていなければならない。

  提供者は、研究の結果明らかになった自己の遺伝情報について、それが提供者本人にとって理解できるものか否かまたは提供者本人にとって役に立つ情報であるか否かを問わず、知る権利がある。ただし、提供された試料について、研究の過程で匿名化が行われかつ提供者本人との連結が不可能となった試料の遺伝情報については、提供者がそれを知ることは不可能であり、そのことはインフォームド・コンセントにあたって十分に説明されなければならない。

  研究の結果明らかになった遺伝情報は、必ずしも診断には直接結びつかない場合が多い。そのため、知る権利を行使しても、提供者にとって必ずしも具体的に役に立つ情報が提供されるわけではない。知る権利の行使については、研究の結果得られた遺伝情報の意味や有用性ならびに研究と診断の相違等について、研究者または医師が十分に説明し、研究結果としての遺伝情報とその情報を解釈して得られる診断との相違について、提供者本人の理解と適切な判断を促すことが望ましい。

  また、大規模研究の場合には、連結可能であっても匿名化されており、集団全体の情報の中から特定の個人情報を取り出して開示する作業過程に比べて、その情報が診断としての精度や確実性に欠けており、提供者個人に知らせるには十分な意義がないことが考えられる。その他、今後とられる研究形態には提供者個人の知る権利の行使が現実に容易ではない場合やその権利の行使が意味に乏しい場合もあろう。こうした具体的な研究形態における知る権利の行使の取り扱いについては、この基本原則の適用・運用に係る指針で定める必要がある。

  なお、上にも触れたように、個々の研究結果がいかなる意味をもつかの解釈は、診断に属する部分であり、この基本原則の範囲を超える。遺伝情報に基づく診断に関しては、別に診断に関する指針が定められるべきである。


第十四(知らないでいる権利)

  提供者は、研究の結果明らかになった自己の遺伝情報を知らないでいる権利を有する。提供者の意思に反して、研究結果を提供者に知らせることは許されない。

  提供者は、原則第十三の知る権利と関連して、研究結果を知りたくないときには、知らないでいる権利がある。インフォームド・コンセントの際には、知る権利と同じく、知らないでいる権利についても十分に説明されなければならない。

  しかし、研究の結果明らかになった遺伝情報に関して、疾病や薬剤応答性に関する遺伝的要因であるかまたはその可能性があるとの判断に結びつく場合、つまり、提供者が遺伝的素因をもつ疾患に罹患しているかまたはそれらの遺伝因子をもっている場合で、かつ当該疾患の予防または治療や薬剤の副作用予測が可能と認められるときは、提供者の人命を救う趣旨で、その遺伝情報と判断は提供者に伝えられるのが望ましい場合がある。インフォームド・コンセントに際しては、研究の目的や内容から見てそのような場合が想定できるときは、説明者は、ゲノム解析研究の結果のもつ意味、研究の目標としていた遺伝因子以外の他の遺伝因子も発見され解析される可能性、研究の進展により診断的意義が評価される可能性、遺伝的素因をもつ疾病や薬剤副作用予測の意味、その予防、診断や治療の可能性、血縁者が同一疾患等に罹患している可能性、遺伝カウンセリング等の社会的・心理的支援体制等、当該研究および関連する疾病や薬剤副作用等に関して可能な限りの説明を行うべきである。その上で、その時点で予防・治療可能と認められる疾病等の場合には研究結果とそこから得られるその疾患等についての判断を知ることが、提供者本人の健康にとって重要であることに理解を求めるべきである。このような場合には、提供者本人が、研究結果を知ることの重要性を理解して、研究の結果明らかになった遺伝情報とそれに関する疾患等についての判断を知ることを希望により選択できるよう、説明に努めるべきである。ただし、その説明が強制的なものとならないよう十分に留意しなければならない。

  このような説明を通じて、提供者が研究結果と疾患等についての判断を知ることを望んだ場合にのみ、これを提供者に伝えることができる。さらに、このような説明にもかかわらず、提供者がなお知らないでいたいという意思を表明している場合には、提供者に研究結果を知らせてはならない。

  また、研究の結果、目標としていた遺伝因子の診断的意義が評価されるようになった場合や、目標以外の遺伝因子の存在や機能が判明して診断に結びつく場合など、提供にあたってインフォームド・コンセント手続が取られた時点では明らかでなかった、提供者の健康に重要な影響をもつ要素が現れたときには、提供者にそれを説明する必要がある場合が考えられる。研究結果がこのような場合に該当するか否か、また該当する場合にはいかなる方法で提供者に説明するかの手続については、倫理委員会の審査を経なければならない。倫理委員会がこうした研究から得られた新たな要素の説明と開示を必要と認めた場合、このような新しい要素を含んだ研究結果を説明した後に、研究の結果得られた自分に関連する新しい要素を含んだ遺伝情報やそれに基づく疾患等に関する判断を知ることを望む提供者に対しては、その結果を伝えなければならない。またそうした研究結果を知ることを望まない提供者には、これを伝えてはならない。

  提供者に対して研究の結果明らかにになった遺伝情報および疾患等についての判断を知らせる場合には、研究機関は、必要に応じて遺伝カウンセリング等の社会的・心理的支援を提供するよう措置しなければならない。

  なお、この解説に述べたような場合の研究結果についての判断は、この基本原則の対象である「研究」の範囲を超えて、「診断」や「治療」の範囲に入る可能性があり、それについては別途定められるべき遺伝子診断・治療に関する指針によらなければならない。また、倫理委員会がこの件に関する決定を行うために考慮するべき要素や判断基準については、この基本原則の適用・運用に係る「指針」に定めるべきである。

  なお、同意能力の認められない者が提供者である場合には、代諾者に対して上に述べた説明の努力を行い、代諾者に研究結果と判断を伝えることに同意を得ることが望ましい。このような場合には、代諾者は、提供者本人の最善の利益を考慮して、これを受け入れるかどうか決定しなければならない。


第十五(血縁者等への情報開示)

1.提供者と血縁関係にある者または提供者の家族は、提供者個人の遺伝情報について、原則として提供者本人の承諾がある場合に限り、知ることができる。提供者の意思に反して、提供者個人の遺伝情報を血縁者または家族に知らせることは許されない。

2.前項の原則にかかわらず、研究の結果明らかになった遺伝情報に関して、疾病に関する遺伝的要因であるかまたはその可能性があるとの判断に結びつく場合、当該疾患の予防または治療が可能と認められるときは、倫理委員会の審査を経て、その判断は血縁者に伝えられることができる。

  遺伝情報は、個人の情報であるのみならず、血縁者にも関連する情報である。したがって、提供者の遺伝情報が明らかになることは、同時に血縁者の遺伝情報も明らかになる部分があり、提供者がなんらかの遺伝的疾患等をもっていれば、血縁者も同じ遺伝的要因をもっている可能性が高い。遺伝情報のこうした性格は、インフォームド・コンセントに際して十分に説明される必要がある。

  このことから、原則第十四の場合と同じく、研究の結果明らかになった遺伝情報に関して、疾病や薬剤応答性に関する遺伝的要因であるかまたはその可能性があるとの判断に結びつく場合で、かつ当該疾患の予防または治療もしくは薬剤の副作用予測が十分に可能と認められるときは、その判断は、提供者の知らないでいる権利を尊重しつつ、血縁者に対しても伝えられるのが望ましい場合がある。

  研究の目的や内容から見てそのような場合が想定できるときは、説明者は、研究試料の提供を受ける際のインフォームド・コンセントが与えられる時に、ゲノム解析研究のもつ意味、目標としていた遺伝因子以外の他の遺伝因子も発見され解析される可能性、研究の進展により診断的意義が評価される可能性、遺伝的素因をもつ疾病や薬剤副作用予測の意味、その予防、診断や治療の可能性、血縁者が同一疾患等に罹患している可能性、遺伝カウンセリング等の社会的・心理的支援体制等、当該研究および関連する疾病や薬剤副作用等に関して可能な限りの説明を行うべきである。その上で、提供者自身が結果を知ることを望むと望まないとにかかわらず、こうした状況が生じた場合には、研究の結果明らかになった遺伝情報に基づく疾病や薬剤応答性についての判断を血縁者に伝えることが、血縁者の健康にとって重要であることに理解を求め、血縁者にこの判断を知らせるのが望ましいことを説明して、予め提供者の承諾を得ておくよう努めることが望ましい。ただし、その説明が強制的なものとならないよう十分に留意しなければならない。

  しかし、それでもなお提供者が自分以外の他の者に自分の遺伝情報を知られたくないという意思を明らかにしたときには、研究者の判断のみで血縁者に知らせるべきではない。このような場合には、血縁者に知らせるか否かは、倫理委員会の審査に委ねるべきである。血縁者に伝えられるのは、その血縁者に関連する遺伝的素因をもつ疾患や薬剤応答性に関する判断のみであり、提供者の遺伝情報そのものではない。ここでは、提供者と血縁者の遺伝情報の共有という状況の下で、提供者の知らせたくない権利と血縁者の健康への権利が衝突することになるが、後者を優先させる可能性が開かれておくべきである。

  なお、この場合、原則第十四で述べたことと同じように、血縁者も知る権利と知らない権利をもつ。したがって、まず、提供者本人に関する遺伝情報から導かれる遺伝的素因をもつ疾患や薬剤応答性に関する判断について、それぞれの血縁者に、そのような判断を伝えられることを承諾するか否かについて、意思を確認する必要がある。この場合、知らないでいることを選択する血縁者に対して実質的にその判断が伝わることのないよう、十分注意して、その血縁者の意思を確認する必要がある。この意思確認の後、伝えられることを承諾した血縁者にのみ、その判断を伝えることとする。そうした判断を知りたくないとの意思を表明した血縁者に対しては、その判断は知らせてはならない。

  血縁者に対して判断を伝える場合には、提供者自身の遺伝情報がそのまま伝えられるわけではないので、血縁者自身の遺伝情報については、必要に応じて血縁者が遺伝子検査・診断を受けることとなろう。また研究機関は、血縁者に対して、必要に応じて遺伝カウンセリングを含む社会的・心理的支援を提供するよう措置しなければならない。

  また、伝えるべき血縁者の範囲は、遺伝的素因をもつ疾患や薬剤応答性の種類等によりさまざまであり、個別に倫理委員会で判断する。

  なお、こうした状況は、この基本原則の対象である「研究」の範囲を超えて、「診断」や「治療」の範囲に入る可能性があり、それについては別途定められるべき遺伝子診断・治療に関する指針によらなければならない。また、倫理委員会がこの件に関する決定を行うために考慮するべき要素や判断基準については、この基本原則の適用・運用に係る「指針」に定めるべきである。

  同意能力の認められない者が提供者である場合には、代諾者に対して上に述べた説明の努力を行い、血縁者に研究結果に基づく上記の判断を伝えることに同意を得ることが望ましい。このような場合には、代諾者は、提供者本人の最善の利益を考慮して、同意するかどうか決定しなければならない。


第十六(差別の禁止)

    提供者の遺伝情報は、人としての多様性を示す基盤であり、提供者は、研究の結果明らかになった自己の遺伝情報が示す遺伝的特徴を理由にして差別されてはならない。

  提供者の権利としての差別禁止原則である。雇用、保険、婚姻等さまざまな具体的差別がありうる。とくに雇用や保険に関する差別の可能性に対しては、現行の法令や制度の枠内で差別的取り扱いを禁止、排除するよう努めるべきであるとともに、将来においても新しい法令の制定の可能性も含めて、適切な制度的措置をとる必要がある。なお、この基本原則の精神に照らして、提供者と血縁関係にある者または提供者の家族についても、差別されることがあってはならない。


第三  その他の権利等

第十七(無償原則等)

1.研究試料の提供は無償とする。

2.研究の結果得られた成果が知的所有権等の対象となる場合、それらの権利は提供者に帰属するものではない。

  研究試料の提供は、提供者の善意に基づく行為もしくは研究への自発的な協力であり、無償を原則とする。しかし、研究の協力者である提供者に不必要な負担を負わせるべきではなく、提供者は提供に係る交通費、休業保障等の経費については支給を受けることが望ましい。また、研究試料の提供を容易にするために、報奨金等の不合理な利益措置によって試料の提供を誘導してはならない。

  研究の結果に基づいて、研究者または研究機関は特許等の知的所有権を取得することができる。知的所有権は、提供試料またはそこに含まれる遺伝情報そのものではなく、研究者が行う研究行為によって、または研究成果の応用者が行う応用行為によって知的所有権の対象となりうる価値が付与されるものと考えられ、提供者は、試料提供の事実のみでは、当然の権利としてその試料に関わる知的所有権を主張することはできない。提供者がこのように当然には知的所有権を主張できないことは、インフォームド・コンセントの際に十分に説明し、理解を得ておくことが望ましい。

  なお、知的所有権に関する手続等は現行の法制度に従う。


第十八(損害の補償)

    提供者は、ヒトゲノム研究の過程においてまたはその研究に関連して損害をこうむった場合、正当な補償または賠償を受ける権利をもつ。

  補償・賠償の条件、手続、責任の主体等については、具体的な法制度に委ねられる。特定可能な個人の遺伝情報の漏洩によって、その個人が差別等の被害をこうむった場合もこれに含まれる。なお、ヒトゲノム研究の過程で生じた損害については、最近の法制度や判例の傾向も採り入れつつ、損害をこうむった提供者による因果関係の立証責任は軽減されるべきである。


第十九(社会的・心理的支援)

  提供者および血縁者ならびにそれらの家族は、研究試料を提供しようとするにあたって、または研究結果を知りもしくは伝えられるにあたって、遺伝カウンセリングを含む適切な社会的・心理的支援を受けることができる。

  提供者および血縁者ならびにそれらの家族が、研究試料の提供にあたって、または研究の結果得られた遺伝情報および関連する疾患についての判断(診断)の告知にあたって、遺伝カウンセリングを含む適切な社会的・心理的支援を受けることができるよう、研究機関は必要な措置をとらなければならない。とくに、原則十三から第十五に掲げるように、提供者(代諾者も含む)または血縁者が疾病の遺伝的要因またはその可能性について研究結果に基づく判断(診断)を伝えられるときは、診断的要素も含まれる可能性があることから、必要に応じて遺伝カウンセリングをはじめ適切な対応措置が必要である。

  現状では社会的・心理的支援体制、とくに遺伝カウンセリングの体制はきわめて不十分であり、早急な整備を必要とする。こうした体制を整備することが、ヒトゲノムについて一般が十分に理解し、ヒトゲノム研究が適切かつ効果的に行われる基礎ともなる。このため、当該研究機関は遺伝カウンセリング等の支援体制を用意しておく必要があり、研究機関内で支援制度を用意していないときには、他の機関の提供するカウンセリング等の便宜を利用するなどによって対応することが望ましい。また遺伝カウンセリングが医療制度の中で明確で十分な位置づけを与えられるべきである。


第三章 ヒトゲノム研究の基本的実施要件
この章は、研究者および研究機関の側が守るべき原則を掲げている。

第二十(人の尊厳と研究の自由)

1.人の尊厳に反する研究は行ってはならない。

2.科学研究の自由は尊重される。

3.ヒトゲノム研究とその応用は、人の尊厳と人権とを十分に尊重して行われなければならない。

  「基本的考え方」でも述べたように、科学は人間の知的営みであり、人類の進歩の礎である。しかし、科学はあくまでも人間社会の中での活動であり、そこにおける基本的価値、すなわち「人の尊厳」を否定するような研究はいささかも許されるものではない。

  いかなる研究が人の尊厳に反する研究であるかは、現実の研究の展開に対応して、統一的に基準が定められるべきであり、具体的研究計画の当否は各倫理委員会の判断に委ねられる。なお、ユネスコの「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」では、人クローン個体の産生を人の尊厳に反する行為としてあげ、生殖系列細胞に対する介入または操作をその危険性がある行為として例示する他、それら以外についてはユネスコ国際生命倫理委員会が判定することとしている。

  科学研究の自由は思想の自由の一つとして、研究者の人権であり、尊重されなければならない。科学の発展にとって研究の自由は不可欠の価値であり、これは科学研究の基本的前提である。

  しかし、「科学研究の自由」は、社会における「人の尊厳と人権」の尊重の枠組みの中で認められる。人の尊厳と人権を無視しまたは損なう形で行われる研究は、基本的人権としての研究の自由に価せず、保護を受けない。したがって、ヒトゲノム研究を行うにあたっても、人の尊厳と人権が尊重されなければならない。また、研究成果の応用についても、人の尊厳をないがしろにし、または人権を侵害することは許されない。


第二十一(研究の基本と研究計画の設定)

1.ヒトゲノム研究は、生物学上、遺伝学上および医学上の有意義な成果が見込まれるものでなければならない。

2.ヒトゲノム研究は、明確で詳細な研究計画に基づいて行われなければならない。

  ヒトゲノムを研究対象とする、というこの研究の特徴からして、単なる科学的興味を理由にしては認められるべきではない。出発点は科学的興味ではあっても、実際にヒトゲノム研究を行うにあたっては、人のゲノムを研究対象にするということおよび提供者から研究試料の提供を受けること、そして個人の遺伝情報を明らかにすることという三点の重要性に鑑みて、人間の生命、健康、福祉にとって有意義な成果が見込まれる研究でなければならず、そのための計画が立てられるべきである。また、直接に人の疾病の予防や治療に結びつかなくとも、生命科学の基礎研究として有意義な成果が見込まれねばならない。ここで、有意義性の判断は、倫理委員会によってなされる。

  なお、ヒトゲノム研究の成果の利用が見込まれるのは、生物学、遺伝学、医学以外にもありうると考える(例えば、薬学が含まれよう)が、すべてを列挙することは不必要である。遺伝学を挙げたのは、ヒトゲノム研究が遺伝学の一部でもあるからである。

  ヒトゲノム研究を行おうとする研究者は、研究の目的、方法、研究試料の取得方法、見込まれる研究成果、個人情報の保護の方法、この基本原則および解説で触れた事項、その他研究遂行に必要な事項を明記した研究計画を作成して、所属研究機関に提出する。この研究計画は、倫理委員会の審査に付託される。

3.研究の結果得られたヒトゲノム塩基配列情報は、公開されなければならない。

  ヒトゲノムの塩基配列情報それ自体は、知的所有権が本来対象とする「発明」とみなすことができない。したがって、研究の結果、塩基配列情報が得られたとしても、知的所有権の対象とされるべきではない。ヒトゲノム計画ではこうした塩基配列情報は公開されることが合意されている。2000年3月に出された米国のクリントン大統領と英国のブレア首相の共同声明およびそれに先立つ同年2月のフランス、シラク大統領の演説、加えて我が国の中曽根科学技術庁長官の同年4月の声明においても、「生のヒトゲノム塩基配列情報は自由なアクセスを保障されるべき」旨を確認している。また、ユネスコも松浦晃一郎事務局長の同年5月の声明で、ユネスコ国際生命倫理委員会とともに、この点を支持している。ただし、塩基配列情報を超えて何らかの遺伝情報が明らかにされた場合に、知的所有権の対象となる可能性があることは、これらの声明等によっても認められている。

  本来特許権の対象となった物や方法、情報は公開されることが原則である。したがって、公開することと特許を認めないということは同じではない。研究の成果が公開されることは、それによって特許が認められないわけではない。このように、知的所有権制度は、「公開」を原則としており、その公開された物、方法、情報を利用したい者は、使用料を支払えば、誰でも使用できるという制度である。研究者側にも提供者や社会の側にも、知的所有権制度の十分な理解が必要である。


第二十二(研究実施手続の設定と遵守)

  ヒトゲノム研究は、それぞれの研究の目的や対象がさまざまであり、この基本原則を尊重しつつ、それぞれの研究計画に応じて適切な研究実施手続が設定されなければならず、研究者およびその研究の遂行に関係する者は、その手続を遵守しなければならない。

  ヒトゲノム研究は、人の生命現象に関する基礎研究から疾患遺伝子研究まで多様であり、とくに遺伝的多型研究においてはその研究対象がさまざまであることから、それらの研究それぞれについて最も合理的かつ効果的な研究手法を採ることが、研究の進展においては重要である。

  したがって、具体的研究それぞれについて最も合理的かつ効果的な研究手法を採ることができるよう、研究実施手続を設定しなければならない。その際、とくに個人の遺伝情報の特定が倫理的・法的・社会的問題を引き起こす可能性が高いことに留意しながら、当該研究の目的と内容に照らして、その研究が人間の健康と疾患等の予防や診断、治療にきわめて重要な貢献をすること、および提供者に与える不利益がきわめて少ないことが明白であることなどを条件として、基本原則の定める研究実施のための条件を、実施手続の中で適切な形で具現化していく必要がある。


第二十三(倫理委員会)

1.ヒトゲノム研究にあたっては、その研究計画について、独立で学際的かつ多元的な倫理委員会による事前の審査を経なければならない。

2.倫理委員会は、提出されたヒトゲノムに関する研究計画について、科学的観点からの評価とともに、倫理的・法的・社会的観点を中心に、総合的に研究実施の可否の審査を行う。

3.倫理委員会は、その組織および審査において、透明性が確保されていなければならない。

  本条は、倫理委員会に関する原則である。ヒトゲノム研究においては、倫理委員会の審査、判断が重要な役割を果たす。倫理委員会は、この基本原則およびこの基本原則の下で別途定められるヒトゲノム研究に関する「指針」に従い、それぞれの研究計画の内容をとくに倫理面から審査し、その計画の実施の可否を決定するとともに、必要に応じてさまざまな倫理的・法的・社会的問題についての判断を下す、というきわめて重要な任務と権限を帯びている。それに対応するためには、まずそれぞれの研究機関および研究者が、研究における倫理規範の重要性とその遵守を十分に認識して研究活動を行わなければならない。そして、倫理委員会は、その構成、審査手続、審査基準等を明確にし、審査の公正さと透明性を図らなければならない。現在の我が国における倫理委員会制度は、この基本原則に照らしてみると、ヒトゲノム研究の遂行には必ずしも十分に対応していないと考えられる。今後、この基本原則および別に定められる指針に従って、早急に各研究機関で倫理委員会が整備される必要がある。

  第1項にいう委員会の構成については、中立的、第三者的でなければならず、とくに一定数の外部の者を含めて、さまざまな分野の人により構成されることが、倫理的な観点からの総合的な審査という点で重要である。委員には、専門家のほかに、一般人(いわゆる市井の人)や患者等の関係者団体の代表も含むことができる。

  倫理委員会の中に、科学的観点のみから研究計画を審査する研究審査委員会を設けることも可能である。

  また、委員会の組織、手続規則、審査結果については、個人のプライバシーの保護と研究の創造性の尊重に留意しつつ、公開を原則とし、委員会における審査の経過や議論の内容とその判断についても、審査の公正さと中立性を妨げない範囲で、透明性が維持されなければならない。倫理委員会の審査や判断の実効性は、この透明性が保障され、社会がその審査と判断とを検証することによって、確保される。

  なお、既存の機関内委員会はさまざまな名称をもっているが、その名称の如何を問わず、ここに示す倫理審査機能を果たす委員会を総称して「倫理委員会」とした。


第四章 社会との関係
  この章は、ヒトゲノム研究が社会との関係で捉えられるべき点を挙げている。ヒトゲノム研究は、とくに社会との間の相互作用が重要である。

第二十四(社会の理解・支援と説明責任)

1.ヒトゲノム研究は、人類および個人の生命と健康ならびに社会の福祉に大きく貢献するものである。

2.社会は、ここに示したヒトゲノム研究の基本原則、とりわけ第一から第三に示したヒトゲノムの意味を十分に理解し、またヒトゲノム研究が社会とその将来に果たす役割を認識しつつ、研究の進展を支援することが望まれる。

3.ヒトゲノム研究に関わる者は、そうした社会の理解と認識を増進するために、ヒトゲノム研究全般にわたって社会に十分な説明を行う一般的責任がある。

  ヒトゲノム研究の重要性を社会が認識することが、この基本原則に定めるような生命倫理原則を実際に適用する際に不可欠である。この基本原則は、とくに研究者が従うべき倫理原則を一つの大きな柱としているが、「基本的考え方」にも述べたように、実際の研究に協力する提供者や血縁者、家族等、そして社会一般が、ヒトゲノムのもつ意味とこの基本原則の趣旨を十分に理解する必要がある。

  と同時に、社会の理解を得て効果的に研究を発展させるためには、社会に対してその研究について十分な説明がなされる必要がある。ヒトゲノム研究に関する「説明責任(accountability)」である。説明責任が十分に果たされ、社会がその研究の意義を十分に認識することこそが、ヒトゲノム研究を進展させる基盤である。


第二十五(研究成果の公開と社会への還元)

1.ヒトゲノム研究によって得られた生物学上、遺伝学上、医学上の成果は、社会に還元されなくてはならず、公開されることを原則とする。

  「基本的考え方」および原則第一にも述べたように、ヒトゲノムは人間の生命現象を解き明かすものであり、人類そしてそれぞれの個人の健康と福祉に大きく貢献するものであることから、研究結果は原則として公開されなければならない。ここでの「公開」は、特定の個人の情報の公開までも意味するものではない。また知的所有権を制限する意図ではない。知的所有権は産業発展を目的とした開示の制度であるので、ここでいう公開原則と反しない。知的所有権に限らず、研究遂行途上では、適当な期間の非開示状態があっても、それ自体は不合理ではない。

2.ヒトゲノム研究の成果は、科学の進歩、人々の苦痛の除去、疾病の予防および治療ならびに健康の改善のために用いられなければならない。

  ヒトゲノム研究は、基礎科学研究としても行われることは言うまでもないが、その成果の応用は、とくに医学や薬学において重要な貢献を果たすことから、この原則をおいた。


第二十六(適切な措置と対応)

  ヒトゲノム研究がこの「基本原則」に従って十分かつ効果的に推進されるよう、適切な措置が講じられるとともに、ヒトゲノム研究とその成果が引き起こす可能性のあるさまざまな倫理的・法的・社会的問題については、全般的で適切かつ迅速な判断と対応が図られなければならない。

  ここにいう適切な措置とは、既存の法令の適用や新しい法令の制定、国の指針の策定、その他さまざまな行政的措置などが考えられる。とくに社会的支援措置に関しては、遺伝カウンセリング制度の早急な整備も念頭におきながら、法令の制定や財政措置も視野に入れてさまざまな措置が講じられる必要がある。


第二十七(教育の普及と情報の提供)

  ヒトゲノム研究が人類や個人の生命、生活および未来に与える影響がきわめて重要なものとなるであろうことに留意して、とくにヒトゲノムおよびヒトゲノム研究ならびに生命倫理についての教育の普及が推進され、ヒトゲノムの研究と応用についての情報の提供が図られなければならない。

  ヒトゲノムについてのみならず、十分な科学教育は将来の世代にとって必要不可欠である。とりわけ先端科学に対する社会の理解が行き届かなければ、有効な形で科学は発展していかない。そのためには、教育制度をも含めて、包括的な科学政策の推進が図られねばならない。

  また、生命倫理についても、研究者や提供者等とともに社会にも十分に理解されることが、冒頭に示した生命科学研究のプラス面を増進し、マイナス面を不必要に拡大しないためにも重要であり、生命倫理教育の推進が不可欠である。また、教育の普及には、とくに遺伝医学等の教育や生命倫理問題の専門家の養成も含める必要がある。


附則
    この基本原則は、ヒトゲノム研究の実際の進展および社会の理解と動向に照らして、適切な時期に見直しが行われなければならない。

  ヒトゲノム研究が急速な発展を遂げていることおよび社会のヒトゲノム研究やその臨床的意義等に関する理解の進展が期待されることなどから、この基本原則は、適切な時期に実状を考慮しながら、見直す必要がある。特段の状況の変化がなくとも、3ないし5年ごとに再検討の機会が設けられるべきである。


  
用語説明
  

  以下では、各用語のこの基本原則における意味を説明する。 

【遺伝情報】

  生物の個体から個体へと受け継がれる情報のうち、細胞の核およびミトコンドリア内に存在する、デオキシリボ核酸(DNA)によって伝えられる情報を指す。後天的に学習される行動等の情報は含まない。

【遺伝子】

  遺伝情報のうち、リボ核酸(RNA)に転写、タンパク質に翻訳されることによって、もしくは、RNAとして、生命活動を行う上で必要なさまざまな機能をになうものを指す。

【ゲノム】

  遺伝子を含む遺伝情報の総体を指し、DNAの全塩基配列情報のみならず、染色体の構造、繰り返し配列などの遺伝子ではない部分の情報等も含む。遺伝情報という語がより抽象的な「情報」という概念であり、個別的な情報を指すのに対し、ゲノムという語においては、より具体的にDNAという実体をも含み、全体としての情報を指す。

【遺伝的多型】

  物は、種としてほぼ同じ遺伝情報をもっており、99%以上は共通なDNAの塩基配列を有するが、個体ごとに少しずつ異なっている部分がある。このことを遺伝的多型(polymorphism)といい、これにより、同じヒトという種でありながらも多様な遺伝的特徴をもった個々人が存在している。

【ゲノム解析研究】

  遺伝子の塩基配列、機能、制御機構、発現状況、タンパク質のアミノ酸配列等を解析する研究や遺伝的多型を解析する研究などの、遺伝情報を解析する研究、およびそこから得られた情報をもとにして行われる研究を指す。

【遺伝子診断】

  遺伝的形質を解析するために、個人の遺伝情報を調べること。病因の特定、あるいは将来的にかかる可能性のある病気の予測、薬剤に対する効果や副作用の予知などの目的で行われる。

【疾病の遺伝的要因】

  疾病の原因としては、遺伝的に(ゲノムにより)決定される遺伝的要因と、生活環境等から決定される環境要因がある。一般に遺伝病と言われる、血友病や家族性大腸腺腫症(FAP)のように遺伝的要因が非常に強いものもあれば、生活習慣病やがんのように遺伝的には多因子性であり、環境要因の寄与も大きいものもある。現在では、多くの疾患は遺伝的素因をもつと考えられており、上記の遺伝子診断は医療においてますます重要となってきている。

【薬剤応答性】

  同じ量の薬剤を投与しても、身体での吸収・分布・代謝・排泄の違いや、薬剤に対する感受性の違いなどにより、個人個人によってその薬の効き方、副作用の程度が異なる。また、人によっては予期しない異常反応が起こることもある。このような薬剤投与における個人個人の反応の違いを指して薬剤応答性という。このような差が生じる原因はすべて明らかでないが、その一つとして遺伝的素因が関係していることがわかっている。遺伝子の多様性のため、遺伝子の働きが個人個人によって異なるためと考えられている。したがって、個人個人の遺伝情報に基づき個別に対応していく、「オーダーメイド」の薬剤使用の研究が進められている。

【生殖系列細胞】

  生殖細胞である精子・卵子、および将来的に生殖細胞になるところの一群の細胞(受精卵、未分化状態の初期胚、および始原生殖細胞、精原細胞・卵原細胞、精母細胞・卵母細胞など)を指す。

【遺伝カウンセリング】

  患者(ここでは試料提供者)、血縁者、またはその家族に対して、遺伝医学に関する知識およびカウンセリングの技能を用いて適切な情報を提供し、ゲノム解析研究や遺伝的素因をもつ疾患等に関する理解を深めるとともに、患者(試料提供者)、血縁者、またはその家族が生活設計上の選択を自らの意思で行い、そして行動できるように支援する医療行為。ここでは、ヒトゲノム研究の結果が診断的側面をもちうる場合に提供されるもの。インフォームド・コンセント手続の中の説明行為の一部ではない。

【ヒトゲノム計画】

  1980年代末にアメリカによって提唱され、1990年代からは日本や英仏独を中心とした欧州も参加している計画で、日米欧三極を中心とした国際的な協力の下に、ヒトの全遺伝情報を解読しようとする計画。単に遺伝情報としての塩基配列の決定だけでなく、遺伝子の機能解析等も含めた解析を行うことを目的としている。主に、各国の大学および国立の研究機関において実施されており、日本も、いくつかの大学や研究施設が参加している。

【ニュールンベルク綱領】

  第2次世界大戦下のナチス・ドイツによるユダヤ人を使った人体実験を裁いた、1947年のニュールンベルク裁判判決の中で「許容される医学実験」原則10箇条として示されたもので、人体を用いた医学研究における倫理基準を定めたもの。後のヘルシンキ宣言のもとになっている。

【ヘルシンキ宣言】

  1964年6月にヘルシンキで行われた第18回世界医師会総会において「ヒトを対象とした生物医学研究に携わる医師のための勧告」として採択された倫理原則。75年の東京総会でインフォームド・コンセントの明記など大きく改正されて現在に至る。

【ヒトゲノムと人権に関する世界宣言】

  ヒトゲノム研究を始め生命科学の急速な進展がもたらす倫理的・法的・社会的問題に鑑みて、1993年にユネスコ(国連教育科学文化機関)内に国際生命倫理委員会が設立された。この委員会が作成し、1997年11月のユネスコ総会で採択された宣言。人の尊厳に反する行為(人クローン個体の産生など)の禁止やインフォームド・コンセントが明記されている。ヒトゲノム研究において生じる諸問題における、人の尊厳と人権の保護を謳った宣言である。

【HUGO】

  Human Genome Organization (ヒトゲノム機構)のこと。ヒトゲノム計画での国際協力の促進を目的として、関係の研究者によって1989年に設立された国際的な科学者団体であり、例えばデータの交換、技術の共有、ヒトゲノム計画についての情報や助言の提供のほか、倫理的・法的・社会的問題や知的所有権等、広範な事項についての検討を進めている。これまで、ヒトゲノム計画をめぐる社会問題についての検討結果として、いくつかの声明を出している。


ヒトゲノム研究小委員会構成員
(委員長)高久  史麿    自治医科大学学長  

                        内科学  

             位田  隆一    京都大学大学院法学研究科教授  

                        国際法・生命倫理  

             奥田  秀毅    日本製薬工業協会研究開発委員会委員長  

                        薬学  

             小幡  純子    上智大学法学部教授 

              行政法
   五條堀  孝    国立遺伝学研究所生命情報研究所センター長  

              情報生物学・集団遺伝学・分子進化学  

   玉井真理子  信州大学医療技術短期大学助教授  

              心理学・遺伝倫理学  

   寺田  雅昭    国立がんセンター総長  

              分子腫瘍学  

   豊島久真男  住友病院院長  

              腫瘍学  

   中村  祐輔    東京大学医科学研究所教授  

              遺伝医学  

   眞崎  知生    国立循環器病センター研究所所長  

              薬理学  

   町野  朔      上智大学法学部教授  

              刑法・医事法 


生命倫理委員会構成員

(委員長)  井  村  裕  夫      科学技術会議議員(常  勤)  

               石  川  忠  雄      慶應義塾大学名誉教授  

               石  塚      貢       科学技術会議議員(常  勤)  

               位  田  隆  一      京都大学大学院法学研究科教授  

               岡  田  善  雄      千里ライフサイエンス振興財団理事長  

               熊  谷  信  昭      科学技術会議議員(大阪大学名誉教授)  

               佐  野  陽  子      科学技術会議議員(東京国際大学教授)  

               島  薗   進          東京大学大学院人文社会系研究科教授      

               曾  野  綾  子      作家  

               高  久  史  麿      自治医科大学学長  

               田  中  成  明      京都大学法学部教授  

               永  井  克  孝      三菱化学生命科学研究所所長  

               藤  澤  令  夫      京都大学名誉教授  

               前  田  勝之助      科学技術会議議員(東レ株式会社会長)      

               町  野      朔       上智大学法学部教授  

               森  岡  恭  彦      日本赤十字社医療センター院長  

               吉  川  弘  之      科学技術会議議員(日本学術会議会長)