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第2回科学技術会議生命倫理委員会議事録


1.日時    平成10年1月13日(火)16:30〜18:30

2.場所    帝国ホテル「牡丹の間」

3.出席者

谷垣科学技術庁長官

 (委 員)

森委員長、石川委員、井村委員、岡田委員、加賀美委員、熊谷委員、島薗委員、曽野委員、中村委員、藤澤委員、森岡委員、六本委員

 (事務局)

科学技術庁 青江研究開発局長 他

4.議題

(1)生命倫理の論点について
(2)今後の審議の方向性について
(3)委員会の運営について
(4)その他

5.配付資料

資料2−1  第1回生命倫理委員会議事要旨
資料2−2  生命倫理の論点として考えられる主な事項
資料2−3  クローン技術と生命倫理に関する各国の議論について
資料2−4  遺伝子・ゲノム技術と生命倫理に関する各国の議論について
資料2−5  脳死・臓器移植に関する議論について
資料2−6  クローン小委員会の設置について(案)
参考資料    ヒトゲノムと人権に関する世界宣言(第29回ユネスコ総会採択)

6.議事

○委員長から、橋本総理大臣は国会中で今回もご出席戴けないこととなったこと、しかし、谷垣科学技術庁長官が生命倫理に強い関心を持っておられることから今回の委員会にご出席戴くこととなった旨発言があり、委員会が開始された。
○委員長から、今回の議事の進め方について次のような発言があった。

今日は2時間くらいを予定しているが、生命倫理の問題は非常に幅広い議論を含むものであり、会議の前半は、特に個別の問題点について議論するというのではなく、全般的なことを自由に議論戴き、できれば後半に、もっか緊急に解決しなければならない問題点について議論したい。また、今日初めてお見えになった委員が3名おられるが、それらの委員の方々から、幅広い意味での生命倫理に関して一言ずつお考えをお聞かせ戴きたい。
○事務局による配布資料の確認に引き続いて議論が開始された。

議題:生命倫理の論点について

○事務局から、配付資料について説明が行われた後、次のような議論が行われた。

 (委員長)

一口に生命倫理といっても、様々な側面がある。ところで、今日は、谷垣科学技術庁長官にご出席戴いているが、一国の科学技術大臣が、生命倫理を含めた倫理、ことに科学技術と倫理といった問題に対して関心を抱いておられるのは、当然のことではあるかもしれないが、非常にうれしいことである。しばしば外国の方々から、日本の科学技術行政機関あるいは科学技術担当大臣は、科学技術と倫理という問題を真に考えているのか、という質問を受けるが、このたびの谷垣大臣のご関心は、個人的のみならず日本人としてうれしい限りである。この場では、大臣という立場にとらわれることなく、一人の知識人、学識経験者として遠慮なく御発言戴きたい。
(科学技術庁長官)
生命倫理の問題は非常に難しいもので、私自身、先般の臓器移植の問題の検討の際等本当に悩んだ。政治家があれだけ真剣に物事を議論したことは、本当に少ないのではないか。生命倫理の問題に関しては、例えば欧州評議会でも、クローン技術のヒトへの適用を禁止するための議定書が採択される等世界的な動きとなってきている。日本でも早急にきちんとした議論をすべき重要な問題であると認識している。この委員会で、高い視点から議論して戴くとともに、その内容をわかりやすい形で国民に発信して戴くようお願いしたい。
(委員長)
それでは、今日初めてご出席戴いた3名の委員の方々から一言ずつご発言戴きたい。
(委員)
私は、委員の中でただ一人の内科医であり、学長に選任されるまで37年間、臨床の現場で働いてきた。その中で、生命倫理の問題には常に直面してきた。それぞれの問題に対しては、その時代に医師たちが漠然と持っている常識を根拠として判断を下してきた。もちろん、このような常識は時代とともに変わるものであって、絶対的なものではない。我々が学生時代にまず習ったことは、いわゆるヒポクラテスの誓いである。これが医師の倫理の基本として、世界で長い間通用してきたものである。この誓いの中には、医師が責任をもって患者を治療する、というくだりがあり、この考え方が医師のパターナリズムと言われたものである。学生時代に敬愛する外科医がいて、休日等にその人の診療を見に行っていたが、やはりパターナリズムであって、患者が細かなことを聞くと、「私が責任を持つのだから、私に任せなさい。」と言っていた。これが長い間の医師の常識であった。しかし、戦後、患者の自己決定権ということが言われるようになってきた。これは、ナチスドイツが行った様々な人体実験に対して巻き起こった批判が基になっていると考えられる。その後、その考え方が次第に発展して、いわゆるインフォームドコンセントの概念が生まれてきた。もちろん、その前から、患者に対してはできる限りの説明をすべきであるという考え方があって、当時はムンテラと呼んでいた。ただ、ムンテラという言葉には、うまく説明して患者の協力を得やすくするといったニュアンスが込められていたように思う。そこには、患者が自己決定をするという考えはなく、今で言うインフォームドコンセントとは質の違ったものであった。今は、世の中の常識の変化とともに医師の常識も変化してきて、インフォームドコンセントは絶対不可欠なものとして学生にも教えているし、我々医師もそのように考えている。しかし、実際の医療の現場では、非常に難しい問題に直面する場合もある。例えば、がんの告知の問題がある。現在は、できる限り告知するという方向にあるが、実際に患者に聞くと、治るがんであるならば告知してほしい、というのが圧倒的に多く、約90%を占める。ところが、不治のがんであれば告知してほしくない、という人が、調査によって若干異なるものの、約20%おられる。病気の中には、できれば知らないで済ませたいというものもあり得る。例えば、ハンチントン舞踏病は、現在遺伝子診断によって発病前に診断できるが、これは非常に悲惨な病気であって、親の病気を見ていた子供が遺伝子診断を受けるかどうかということは、非常に難しく重い選択となる。このような場合には、病気のことを知らないで済ませたいという気持ちもあるだろう。このような問題を医療の現場でどのように取り扱っていくかということがある。もう一つは、患者が予想もしないような重い現実というものがある。例えば、非常に珍しい例であるが自分自身が迷ったケースとして睾丸性女性化症候群という病気がある。これは、染色体も男性であって睾丸もでき男性ホルモンが分泌されるが、男性ホルモンのレセプターが欠損している病気である。このような場合、本当は男性であるのに見かけは女性になる。私が診たケースでは、ちゃんと結婚して、旦那さんと極めて仲良く幸せに生活していた。このような場合に果たして患者に言うべきかどうか。非常に悩んだ結果、医師の裁量権として言わないことに決心した。もし告げれば、本人も大変だが、旦那さんも大変なことになる。このような医師の裁量権に関する問題も、非常に難しい事柄である。このように、インフォームドコンセント一つをとってみても、基本的な原理は比較的簡単ながら、実際に適用するとなると非常に難しい問題である。
私が医師を勤めていた37年間に大きく変わったことは、科学としての医学が非常に進歩したということである。私が医師になった当初は、診断も治療もまだまだ不完全であいまいなものであって、医師として迷うことや悩むことが多かったが、その後様々な研究が進んで医学は非常な進歩を遂げた。それだけに今度は、一般の人々に医療が見えなくなってくるという問題が生じてきた。例えば、脳死の問題が典型例である。脳死は、医師にしか見えない死であり、そこに一般の人々が不安や疑問を抱くこととなっている。その他、生殖技術、臓器移植等、すべて様々な問題を抱えている。先ほど事務局から説明された生命倫理上の主な問題点についても、一つも厳密には答えられないと感じている。ここに来る前に文部省学術審議会で、これからのゲノム研究に関してどのように進めていくか議論していたが、ゲノムにおいても倫理はさけて通れない問題となってきている。現在、ヒトゲノムに関する解析が進んでいて、あと数年で結論が出そうな状況となっている。その次に問題となりそうな事柄が既に出てきている。すなわち、ゲノムの個人差すなわち多型に関する研究を、どのように進めていくべきかという問題である。研究は進めるべきであるということになるが、これが進むと個人個人の違いが非常にはっきりとしてくることになり、そのことをどのようにインフォームするか、個人のプライバシーをどのように保護するか等の問題が発生する。このように、ゲノムに関しても倫理の問題を考えていかなければならない。間もなく21世紀を迎えるに当たり、科学のあらゆる面、例えば環境、エネルギー、高度技術あるいは生命等について、倫理は重要な問題となるだろう。戦後、日本では倫理の研究をおろそかにしてきた。ここで、今一度考え直すべきだと考える。
(委員)
私は、工学部の出身であって、専門は電子通信工学である。工学者は、一般に単純幼稚な人種であると考えられていて、私もその一人である。先ほど事務局から説明があった生命倫理の論点についても、一つ一つ議論していくとどのようなことになるのか、その行く先が分からないような感じすらする。一般に、物事を考えたり判断したりするには、政治的立場、経済的立場、宗教的立場、あるいは科学技術的立場等いろいろな視点や立場があり、それらが異なると、同じ問題に対して判断を下す場合であっても、その結果が異なることがままある。したがって、生命倫理の問題のように、様々な問題を包含する課題については、できるならば、議論を行う最初の段階で、判断の基準となるような最も基本的な視点あるいは立場を、お互いの共通認識として持つことができれば望ましい。そうでないと、具体的な問題のたびに、毎回同じ議論を繰り返すことになる可能性がある。しかし一方、そのようなことを最初に行おうとすると、それだけで議論が延々と続き、先に進まなくなるおそれもある。具体的な問題を一つ一つ議論していくうちに、最終的にこの委員会として生命倫理を考える場合の考え方の最も基本的なよりどころが浮かび上がってくれば、それはそれでこの委員会の有意義な成果の一つとできるだろう。どのような判断基準が望ましいかと問われてそれを提案できる自信はないが、私自身は、かねがね西田幾多郎先生の言葉を考え方や物事の判断の基準としてきた。すなわち、「学問も事業も究竟の目的はすべて人情のためにするのである」という言葉である。ここで、「人情」という言葉は、私なりに、人間愛あるいはヒューマニズム等といった意味と考え、「人情」のために学問も事業も行うのだということを自分自身の考え方や判断の基準としている。つまりは、世のため人のためになるか、ということではないかと思う。しかし、なおそれでも問題は残る。すなわち、世のため人のためになるとはどういうことか、という議論がさらに続くこととなる。そこで、世の中には「良いことばっかり」というようなものはないのだ、という非常に古くて新しい現実的な認識も必要となるのではないかと思う。良いところは充分に利用、活用し、陰の部分は英知をもってできる限り取り除く、という賢明な判断力が現実には必要だと考える。この委員会が、新しい科学技術や新しい医療技術の進歩を抑圧するようなことがないようにしたいと考えている。
(委員)
何も科学的なスタンドポイントはないので、最近の私の仕事の中から、どのようなことに困難を覚えているかについてお話ししたい。私は、現在の職に就く以前から小さなNGO組織を作って、アフリカ等で働く日本人のカトリックの宣教師たちを支援している。私は、「人を見れば泥棒と思え」と考えていて、人を信じることを美徳だとは考えていないので、例え相手が神父や修道女であっても、支援のお金を流用する可能性があるとの視点に立って、すべてのお金の行き先を、自費で突き止めるということを、ここ数年の仕事としている。その結果、私自身、日本で世界の最貧の状況を知っている人間の一人となっているのではないかと考えている。このことにより、作家として都合の良いことかもしれないが、日本に帰ると違和感を覚え続けて生きている。どうしてこんな暖かい部屋にいられるのか、どうして電気は消えないのだろうか、どうしてそこいらからくんできた水を飲んでよいのだろうか、このような贅沢が許されてよいのだろうか、等と毎日言っているので、家族は恐らくうるさいと思っているだろう。ごく最近、マダガスカルの奥地、首都から500km程度離れたところで医療行為を行っている日本人の助産婦兼看護婦の方と、AMDA(The Association of Medical Doctors of Asia:アジア医師連絡協議会)のルワンダにおける活動を拝見してきた。アフリカに行くたびに、アフリカは偉大な教師だと感じる。アフリカは、日本人が安易に持っている考え方をすべて拒否する。例えば、日本では人が生きることは当たり前だが、アフリカでは生きることは、奇跡とまでは言わないが、一つの大きな異常な事態である。悪い栄養、不潔をもたらす水の不足等が彼らを殺していく。毎日石鹸で洗えば治る皮膚病でも、言わないと衣服までは洗わない。彼らは衣服を着たまま、破れるまで洗わない。また、ルワンダの虐殺がある。フツ族とツチ族の対立である。フツは農耕民族でツチは牧畜民族。フツ族が作った畑に、牛を連れたツチ族が入って荒らし、共存できない。虐殺の跡がいたる所に残っていて、例えば、ツチ族の人間やツチ族の血を受けた者あるいはツチ族の妻になったフツ族の人間を彼らが逃げ込んだ教会堂で片端から殺していった跡が残されている。そこで私は人間の一生とは何か、そこで失われたものは何かということを考える。私は単純に、人間が普通に得べかりし悲しみと喜びを拒絶された、と考える。一人の母は、なぜそのようなことになったのか分からないが、あのような暑い土地で子供を抱いたままミイラになっていた。私流に言えば、神がこれを後世に伝えよ、とお残しになったとも言えるすごいミイラである。日本では、非常に美しい言葉があって、例えば、平和は望めば与えられる、とか、一人の人間の命は地球よりも重い等と言われるが、アフリカではお笑いぐさである。乏しい水をどのように分けるか、悪い栄養と医療行為のない中でどのように生き延びるか、いろいろなことが生きるに値しない中で人々が生活しているという状況がある。日本人は、あなたも私も幸福になることが可能であるかのように信じているが、アフリカではそのようなことが全く不可能であるという現実を突きつけられる。アフリカでは一夫多妻制の国が多く、二人ないし三人の妻を持つ人が普通にいるが、その間でエイズが感染する。その子供たちにもエイズが感染しているはずであるが、検査をする人はいない。アフリカでは、治らない者に金を出す人はいない。普通、子供には権利拡張のための泣き方というのがあって、泣きながら政治をしているな、と感じることがあるが、エイズに感染した子供たちは、この世で一度も良いことはなかった、本当にただ生きているのがいやだ、という泣き方をする。私はつくづく、日本人は収奪をして生きているのだと思う。例えば、マダガスカルでは長い間酸素もなかった。日本では、五つ子が育つと喜ぶが、マダガスカルの子供に与えないで、自分たちで酸素を使っているわけだ。ミルクについても同様である。収奪をして生きるということに、日本人はもはや何らの不思議も感じなくなっている。実際にアフリカに行くことによって、このような視点が私に与えられた。人間は生きていられるものなのか、生きるということはどういうことなのか、自分一人が他人に何も悪いことをしないで生きられるのだろうか、等と言った基本的な疑問からこの会議に加わらせて戴いた。しかし、日本は先端の医療を引き受ける責任を有する国でもある。その面については、先生方のご活躍とお教えを戴きたいと考えている。
(委員長)
それぞれの方々から、それぞれの立場、経験に基づいて、良いお話を伺った。できるだけ多くの方々からご意見を戴きたいと考えるが、何か生命倫理一般に関してご発言はないか?
(科学技術庁長官)
話を聞きながら混迷の中にいる。人間にはそれぞれ定まった数があるという人生観を持っているが、余りそればかりを言うと、科学の進歩を抑圧する議論になりかねない。結論を先取りするようだが、その折り合いをどうつけるかが、議論の中心になってくるのではないか。
(委員長)
同感である。時には、社会全体の利益になることと、社会を構成している個人個人の利益になることとが一致しない場合も生じる。
(委員)
生命倫理の論点に関する資料についてであるが、なぜこの資料の中で、最初から人間のことを「ヒト」と片仮名で書いて押し通すのか?
(委員長)
後で動物に関する記述が出てくるからかもしれない。
(委員)
例えば、資料にある「種としてのヒト」という表現には抵抗感を覚えないが、「ヒトの生命と動物の生命」や「ヒト生命への介入の倫理性」等の表現には、頭からこの委員会として人間を生物の種としてしかみないのか、という感じがする。先ほどあげられた睾丸性女性化症候群の人の例では、「種としてのヒト」としては男性であるが、「人間」としては女性として生活を営んでいる。この委員会で、どちらを主な着眼点とするかという場合に、私としては、「人間として」、という方に目を向けるべきであると考える。
(委員長)
それは、まがうことなく「人間として」の方であろう。
(委員)
先ほどお話があったことと関連することであるが、最近縄文遺跡が掘り出されて縄文時代のロマンが語られるようになってきているが、当時の平均寿命を推定した報告書によると、15才に満たない。恐らく、現在のアフリカよりもひどい状況だったであろう。そうした時代には、弱いものが淘汰されてきたと言える。例えば、色覚異常者もほとんどなかったと考えられている。最初に申し上げたように、倫理には不変の原則もあるが、ある意味では常識の側面があって、社会が変わっていけば変わっていくところがある。一例を挙げると、現在、国際的な一応のコンセンサスとして、遺伝子治療は体細胞を対象とする場合には実施してもかまわないが、胚細胞に対しては、子孫に影響が残るため、実施してはいけないことになっている。ところが、遺伝疾患は非常に多く、生殖細胞にまで手を出さないと治せないケースも多い。そこに極めて難しい倫理的問題が生じると考えるが、恐らくそれも研究の進歩により時代とともに変わっていく可能性があるであろう。絶対的なものは、恐らくないだろう。今の社会の中での一種の常識として我々はこのように考える、ということにしないと、我々は何も決め得ないのではないか。
(委員)
淘汰ということは、現在、社会の常識としてよいのか。淘汰という言葉は、非常に意味のある言葉であると感じる。今の日本、ことにマスコミの世界では禁句となっている。この委員会では、それをきちんとした立場でとらえていくのかどうか、ということについてご教示戴きたい。
(委員)
非常に難しい問題である。既に医学は自然の淘汰は否定して、弱者もすべて救済しようという立場でやってきている。
(委員)
今の日本の社会は、非常に贅沢である。贅沢だ、というのはいろいろなものをただ無駄使いしているというのではなく、贅沢な状況の中で生きているということである。それらの状況が崩れたときに、現在言われているようなヒューマニズムがどこまで持ちこたえられるのか、心配している。現在いろいろな形で疾病を持っている人々が生きられるということは、良いことであるし、それによって生き甲斐を感じている人々がいて、それは今までの常識では考えられないことが起きていて、それは決していけないことではないが、非常に贅沢だという前提を忘れてはならない。それを我々の社会が持ちこたえるのは大変なことであるという認識が忘れられてしまうと、非常に簡単に医療がヒューマニズムに結びついてしまい、それは結局大変無責任なことになってしまう。もう一つ、時代によって価値観は変わるので、結局すべての時代を通じた価値観はないのではないかということについては、哲学の方から見ても、現代はある価値観により統一されているという時代ではなくなってきている。その意味で、価値の相対化が起きている。そこでは、先ほどおっしゃっられたのとは違う意味で、常識を疑わねばならない。常識ということについては、ギリシア哲学以来の賢慮、polynicesというのがあって、ばらばらに一つ一つ考えるのではなく、全体を考えて適切に判断するという伝統がある。ところで、倫理という言葉は、どのように考えても日本語の中で納まりが悪い。なぜ悪いのかということをずっと考えている。倫理という言葉は、もともとはモラルという言葉に由来していると思うが、モラルという言葉の語源は習俗という意味であるので、倫理をかちっとした概念にする前に、我々の社会がそれぞれの物事についてどういった感覚でとらえているか、どういう風に人々は考えているのか、というところから出発しないと、よそ行きの説得力を持たない倫理というものばかりができてしまうのではないかと考えるようになってきた。倫理というものを、今一度習俗に戻した上で考えるべきではないか。
(委員長)
私は、かつて脳死臨調に参加させて戴いていたが、その際、脳死の是非については論じられても、移植の是非についてはほとんど論じられなかった。脳死に反対の方々も、移植は是としていた。移植は良いのですか、と問うても、それは世の中で認められていることだから、と避けられた。風俗習慣などでなく、ただ死を免れるために、人の臓器をもらって生き長らえるということと、亡くなった人の肉を食べて生き長らえることと、基本的にどこが異なるのだろうか。
(委員)
それは、どちら側から見るかという問題だろう。私はカトリックの信者であるが、死んだ肉を食べるということに関しては、何の問題もない。アンデスで起きた飛行機事故で、死人の肉を食べて生き延びた例があったが、生還した人の歓迎会に、死んで食べられた人の父親が来ていて、「私は一人の科学者として、そのようなことがあることを推測していた。有り難いことだ。40余人いたから10余人が生き延びることができた。」とはっきりと述べていた。死者の肉を食べるということは、日本人はどう考えるか分からないが、キリスト教徒としてはどうということはないことである。また、私の母は死後眼球を提供したが、その瞬間から私たちは大変に幸福になった。「自ら差し上げる」という自発的な行動と、そうでない行動とは、同じことをするにしても全く意味が異なる。殺して肉を食べる、あるいは殺してもらう、こちらから差し上げる、これが人間の同じ行動でありながら異なる意味を持つという面白さだと思う。そのどれをも欠落させてはならない。
(委員長)
亡くなった人の肉を食べても、日本では法律では罰せられないのか。
(委員)
刑法の専門でないので、法律的にどうかということについては申し上げる資格がない。ただ、今お話しのような異常な状況の中で深刻な問題として論じられるのは、何人かの人の生命を救うためにだれかを犠牲にすることがどのような根拠で許されるかということである。
(委員)
死んだ人でも、犠牲になったと考えるのか。
(委員)
限界的な状況の中で、死んだ人の肉を食べたことを、どう評価するのかという問題である。たとえ死んだ人の肉であっても人間の肉であるから、道徳上どうかという問題が残る。正常な秩序が働いている中での問題とは、異なると考えられる。
(委員長)
死人の肉を食べるという問題を離れて、何か発言はないか。
(委員)
法律と倫理との関係の観点から述べれば、例えば、嘘をついてはいけない、あるいは人を殺してはいけない、等といった倫理観が法律に反映するということは確かにあり、また当然のことと考えられている。しかし、倫理というものを、ひとかたまりの一枚岩のように考えるのはミスリーディングである。非常に社会が単純な場合には、倫理の対象となる事態もおおむね単純であり、一致した倫理観を持ち得るが、社会が分化してくると、倫理観も分かれてこざるを得ない。ある部分は共通であっても、ある部分は分かれている。そして、技術の発展に伴って新たな現象が出てくれば、またそれについての考え方を新たに考え直さねばならないという部分も出てくる。一般に共通に抱かれている倫理と分化した倫理、それから体系化された倫理というように層化される。しかし、新しい状況が出てくると改めて考え直して、その原理を適用するとどのような結論になるのか、といったことを考えなければならない。倫理といっても、そのようなダイナミックなものと考えざるを得ない。先端医療やゲノム計画のような、生命に関わる技術が発展して新しい状況が生じた時に、果たして一般の人々がどのように倫理的な観点から見るかということは、直ちには分からない部分があると思う。また、一般の人々が、非常に細かく発達した専門的であり技術的に高度なものを、どこまで理解した上で倫理的な判断をするのかということも、問題の一つであると思う。何が起きているのか充分に理解する前に「これが私の倫理観である」と決めてかかって判断することは、避けなければならない。
(委員長)
単なる情報公開だけでなく、若干の解説を加えることも時には必要である。
(委員)
科学技術の進歩は、我々がついていけないほど激しい。科学技術が進歩すると、光だけでなく陰の部分が必ず出てくる。それは、生命倫理の問題に関しても同じである。科学の進歩は止められないので、どんどんそのようなことは進んでいくであろう。そのようなときに、一人一人の人間が持っている倫理については個別的に分かるが、社会が全体としてどう考えているかということについては簡単に決められない。それを決めるのは、結局国民の意識である。そしてそれは時代によって異なるものである。例えば、人工授精についても、初めはそれを拒否する言論が多くあったが、だんだんと理解が進んできて、人間の尊厳には関係がないのだということになり、「その程度までは良いのだ」ということで、社会の意識がそれを受け止めるということになったのであろう。人間の社会が持っている個別の意識は、必ずしも一致しないであろうが、社会の多数の意識が形成されたときに、特定の科学技術が受け入れられるようになると考える。また、その社会が持っている文化や歴史も、社会の意識の形成に影響してくることは否定できない。したがって、倫理といっても、日本人の倫理とはどのようなものか、それと異なった基盤の上に立つ米国人の倫理とはどのようなものか、それらの相違する点や共通する点はどこか、といったことも検討してみる必要もあると考える。
(委員)
科学技術が発展すると社会に様々な影響を及ぼすが、その影響は、目に見えやすい社会的差別やプライバシーの侵害等の場合と、そうでない場合とがある。どこから浸食されているのか分からないが、いつか人間観が変わってしまっている、人の生活の在り方が変わってしまって、後になってやっとおかしなことが見えることがある。オウム真理教のことを調べていると、どうしてあのようなことが起こったかは簡単に解明できることではないが、麻原が若いときに当時流行の書物として読んだ多くの本の中に「ヒトの改造」ということを通俗的に解説したものがたくさんあった。どうしてそのようなことが起こっているかは分からないが、何かおかしなことが社会の中で起こっている、といった時には、科学技術も一部の責任を負っていると考えられる。倫理という問題の中には、明確な判断基準を決めなくてはならないという側面とともに、そのような目に見えないものを感じ取り、その影響について社会科学的に評価するという側面もあるのではないか。特に若い人々に起こっている変化、あるいは若い人々が直感的に感じていることを、倫理的問題につなげて考えることが重要である。
(委員)
どの立場で、どの視点で、何を大事に、何を中心に考えていったら良いのか、それが最初であって、また最終の目的であると感じている。先ほど、良きを伸ばし、悪しきは英知をもって抑えるというお話があったが、常に新しいものを求めることが人間の道筋であるとともに、それをしっかり見据えていくのもまた人間あるいは国の力であり文化であろう。生命倫理は、人間の原点であり、すべての最初である。その意味で、生命倫理について議論するということは、非常に当たり前のことを議論するということになるのではないか。倫理とは何なのか、時代の常識とは何なのか、生命とは何なのか、といった事柄について、あれもこれもではなく、一つ一つ個別に考えていくことが、適切なのではないだろうか。
(委員)
倫理の問題は相対的なものであって、この委員会で何か一つの一致した絶対的なものを作り上げることは、まず不可能だろう。この委員会では、ぎりぎりのレベルのコンセンサスを作り、後は具体的な問題点についてそれぞれ議論していけば良い。そのような場が永続的にあることが重要だと考える。
(委員)
かつての医師は、職業人としての善意で対処していたが、それでは独善的になりがちであり、患者の自己決定が大事というように変わってきている。欧米の場合は個人主義が発達しているため、患者の自己決定によって多くの倫理的問題を解決している。しかし、自己決定だけですべての問題が解決できる訳ではない。生殖医学等については、やはり社会的な接点についても考える必要がある。倫理とは、一般的に人のなすべきことを体系化する学問のようにとらえられているが、この委員会では、ごく一般的な意味での道徳的な観点から議論してもよいと考える。特に生殖医学が重要だと思うが、議論を進めるに当たっては、具体的な個別の問題について一つ一つ考えていくのが良いと考える。
(委員)
振出しに戻るようだが、倫理というのが何を指すのかということを、我々はどう考えたらよいのか。倫理というのは、普通の人間が普通に考えるおおざっぱな見方で言って、道徳と同義であると言ってよいのであろうか。道徳を、素直に人の道であると考えるならば、生命倫理とは、生命に関する人の道徳、すなわち、人の命に対する人の道の在り方、と考えてよいのか。もしそうであれば、人の道に外れたことはしてはいけないということが教育だけではおさまらない場合には、具体的な事例について法律的に規制する必要が出てくるかもしれない。そうすると、倫理を法律的に規制することが適切であるか、という問題提起も出てくることになるだろう。
(委員)
倫理という日本語は、国語辞典を見れば、人の道、あるいは人として踏まなければならない道、と書いてある。我々が倫理というときには、恐らくそのニュアンスで使われることがほとんどであろう。ただし、科学技術と並んで倫理が問題とされる場合には、ethicsの訳語として使われているのだと考えられる。道徳すなわちmoralと、倫理すなわちethicsは、語源が、前者はラテン語(mos,習俗,習慣)、後者はギリシア語(ethos,習俗,習慣→ethos,品性,人柄)であるという違いだけで、元来意味は同じである。科学技術と倫理を考えると、科学技術は、人間の生存と行動のためにどうしたら役立つのか、という価値をひたすら追求してきたもの。人間の生存に役立つこと、という価値は、大きな価値ではあるが、人間にとっての価値の中のone of themである。したがって、科学技術の価値を追求していく時に、人間としてのトータルの価値と衝突する場合が起こってくる。そのように衝突した場合に、どの程度介入が許されるかということは、どの程度人間としてのトータルの価値と衝突するかということになってくるだろう。その点を、人間にとっての全体的な価値の立場からチェックするのが倫理である。物質を手掛かりとして自然を操作する、という考え方の延長上に現在の科学技術がある。すなわち、魂や精神などといったものに関わる価値をすべて排除する、という基本にのったものが近代自然科学技術であるからだ。アリストテレスの言葉に、技術とは自然がやり遂げようとしてできなかったことを完成させるものである、あるいは自然を模倣するものである、というものがある。自然がやろうとしてやれなかったものを完成させる、そこまでが技術の限度だと考える。例えば、どこまで生命に関与することが許されるかを考える場合に、自然が必ずしも欲さないであろうようなことまで技術がやりだすと、大変なことになるのではないか。その場合、研究を阻害することにならないように、ということばかりを言ってはいられないだろう。
(委員)
倫理が人の道である、ということに異論はない。ただし問題は、人の道は時代とともに変わるということである。現在人の道であっても、しばらくたつと必ずしもそうでなくなる部分がある。もちろん、なかなか変わらない部分もあるが。最近痛切に感じているのは、科学技術の進歩が早くて、人間社会の対応の方が遅れているということである。研究者の努力によって科学技術の進歩がどんどん先に行ってしまい、社会が受け入れるのに時間がかかるといったときにごたごたすることになる。その場合の倫理に絡む判断というのは、人、国、持っている文化遺産によって違うなど、いろいろなことがあるだろう。したがって、日本においてこの問題を考える時には、その違いが社会の合意に昇華してくる、上がってくるように心がけないと、科学技術の研究と社会がアンバランスになってしまうのではないかと心配している。いろいろな研究について、もっと国民が理解できる場を持たないといけない。専門家だけの理解で進むと、科学技術と社会との間にアンバランスを生むことになる。
(委員長)
これまでの話しをまとめると、科学技術を利用する際に、今日の日本の社会が認めているような「人の道」を外さないようにしようということになる。
(委員)
そのときに、科学技術の進歩が止められることは良くないだろうし、事実止めることはできないだろう。
(委員長)
あくまで、科学技術の利用の仕方の問題であろう。
(委員)
そうである。科学技術を受け取る側の問題である。
(委員)
生命倫理の論点に関する資料の中に精神の改変についての記述があるが、それに関連して、現在急速に進んでいる脳研究に関して、早晩倫理上の大きな問題が提起されると思う。例えば、性格を改変することができるようになる、しかもそれがかなり早い時期にできるようになる可能性もある。したがって、脳科学研究についても、早急に倫理の問題を考える必要がある。日本学術会議や科学技術会議で、脳科学研究の推進をすべきであると提言しているが、この分野で倫理の問題に関する発言は、まだほとんどない。
(委員)
倫理の問題は、本来当事者が一番問題とすべき事柄で、現場ではどう対処するかという判断を下さねばならない。その場合、職業集団はブレーキのない自動車のようなものであるという面もあり、最近では一般の人を入れてディスカッションすることがよく行われるようになってきており、重要なことだと思う。また、当然のことだが、実際に問題にタッチしている人々がどのように考えているのか、ということを知ることも重要である。
(委員)
人の道が時代とともに変わるものであることは理解できるが、古典に学べば、本当に重要なことは変わっていない、ということを実感する。その重要な変わらない部分が何か、ということが常に気にかかっている。
(委員長)
その通りだと思う。恐らく、委員の方々すべてが感じていることだろう。ただ、中心に変わらない部分があっても、それを覆う表面の部分は時代とともに変わっているということではないか。科学技術は自然科学の応用である、と定義する人もいる。自然科学の応用である科学技術を、実際に応用していく際に、日本の文化や今日の日本の社会の現状等を考えながら、人の道を外さないようにしていこう、というのが恐らく大体の基本であろう。それよりも末梢に近い部分については、それぞれの委員がそれぞれの考え方を持っておられることと思うし、むしろそれが当然だろう。そのようないろいろな考えを取り上げて、いろいろな議論をしていくのが良いと考える。

議題:今後の審議の方向性について

○委員長から、今後の議論に取り上げるべき具体的な課題として、クローン技術、遺伝子・ゲノム技術あるいは脳死・臓器移植や、今回の委員会で委員から取り上げるべきであるとの提言があった脳科学研究等がある中で、ある程度世界を見渡した時に、現在やはり焦点となっており、また実際的な問題として近い将来日本の態度を世界に表明せねばならないことになると思われるクローンの問題を、まず第一の具体的な課題として取り上げることについて提案があり、異議なく承認された。
○引き続いて、事務局から資料に基づいて、クローン技術と生命倫理に関する各国の議論について説明が行われた。
○その後、委員長から、この問題に関してこの委員会で始めから議論するのは難しいであろうことから、小委員会を設置してそこであらかたの議論を行った後、そのエッセンスを本委員会に説明して戴き、それを基に議論を進めるのが適切ではないか、との提案があり、異議なく承認された。
○また、委員長から、小委員会の委員長には本委員会の委員の中から選ぶのが良いと考え、専門とこれまでの経験等に鑑みて岡田委員を任命することとしたいがいかがか、との提案があり、異議なく承認された。さらに、委員長から、小委員会の委員については、今後、委員長と岡田委員及び事務局で相談して決定したい旨の提案があり、これも異議なく承認された。これに対して、次のような発言があった。

 (委員)

小委員会で、いつまでに何を行うべきかということについては、今後事務局と相談して進めたい。クローン技術の問題が、生命倫理に関する様々な問題点の中でどのような位置付けにあるのかを考えてみると、非常に具体的であって考えやすい問題である。倫理の一つのベースを考える材料としては、最も適切である。脳死、脳、遺伝子、移植等といった問題は、枝葉がたくさんあって、議論が難しい。これに対して、クローン技術の問題は、非常に単純ではあるが、それでいて深く掘り下げるに値する問題である。
(委員長)
小委員会での議論が進む中で適当な時期に、議論の進捗等についてご紹介戴きながら、本委員会で議論する機会を与えて戴きたい。
(委員)
文部省学術審議会バイオサイエンス部会でも、クローン技術の問題に関して議論が行われており、そこでの議論も材料としながら進めていきたい。
(委員)
ところで、資料の中に「核移植等技術を用いたクローン個体の作製」との記述があるが、ここで「等」は何を含めているのか。
(事務局)
クローン個体の作製の方法には、いろいろな方法がある。それらを幅広く捉えるという趣旨である。
(委員)
了解した。小委員会の委員についてであるが、産婦人科の領域からも委員を選ぶべきである。生殖技術については産婦人科領域の方々が非常に長い議論の経験を持っていることと、仮にクローン人間の作製を考えたとしても、産婦人科領域の方々の協力がなければ不可能であることから、産婦人科領域の方々がどのように考えているのかが非常に重要である。
(委員長)
そのようにしたい。

議題:委員会の運営について

○前回に引き続いて、委員会の公開をどの程度までとするかについて、次のような議論が行われた。

 (委員長)

前回も議論したが、この会議の公開をどの程度までとするか。政府主導の委員会は公開すべし、との意見が強く、またそのようにすることとなっている。ただし、公開の程度については、様々な段階がある。すなわち、会議自体を公開にして傍聴者を入れることから、議事要旨を公開するにとどめることまで、幅広い形式がある。中間的な方法としては、全文に近い詳細な議事録を公開するという方法があるが、その場合も、発言者が分かるようにするか否か、というバリエーションがある。いずれにしても、委員の意見で決定したい。
(委員)
議事録の公開も、発言者が分かるようにすることも構わない。ただし、議事そのものを公開して傍聴者を入れることについては、委員会としてそのようにすることについては異論はないが、自分自身としては、その時点で委員をやめさせて戴くという立場をとっており、それを公表している。
(委員長)
では、公開前には必ず各委員に事前チェックを戴くことを前提として、発言者が分かるような議事録を公開するということで良いか。
(委員)
議論の内容を広く一般に公開することと、自由な議論ができるということとの両立が必要である。その観点からは、どのような議論が行われたのかという情報が重要なのであって、誰が発言したのかということは情報として不要である。

○以上のような議論の結果、発言者は匿名にして、詳細な議事録を公開することとなった。
○次回の開催日程については、小委員会の進捗状況等を勘案して、委員長と事務局で調整することとなった。
○最後に、谷垣科学技術庁長官から次のような発言があり、閉会した。

生命倫理の問題は、大変難しいものであるとの思いを新たにした。今後ともできる限り出席させて戴いて、行政の現場の者として理解を深めなければならないと考えているので、よろしくお願いしたい。