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科学技術・学術審議会技術・研究基盤部会

2002/06/17 議事録
科学技術・学術審議会技術・研究基盤部会産学官連携推進委員会利益相反ワーキング・グループ(第2回)議事録

科学技術・学術審議会技術・研究基盤部会産学官連携推進委員会利益相反ワーキング・グループ
(第2回)議事録

1. 日   時     平成14年6月17日(月)14:00〜16:00
     
2. 場   所     文部科学省別館   大会議室

3. 出席者
  委   員 安井(主査)、青柳、伊地知、今田、川崎、北地、小林、田村、中川、西尾、平井、古川、山本
  事務局 加藤研究環境・産業連携課長、出澤人事課審査班主査、磯谷技術移転推進室長、佐々木技術移転推進室長補佐   ほか

4. 議   題
  (1) 海外の大学における利益相反問題への取組について
   
  資料1、2、3、4に基づき事務局から説明。
  平井委員から「利益相反のゴールと考え方−米国の事例を参考にして」について意見発表
  伊地知委員から「大学・公的研究機関に係る利益相反のマネジメント−主要諸外国における制度・機構の現状」について意見発表
  その後、事務局の説明、平井委員、伊地知委員の意見発表の内容について質疑が行われた。
その内容は以下のとおり。
     
  (◎・・・主査   ○・・・委員)

 
 今議論されている内容は全部、国内の企業と大学とが前提になって話が進んでいるように思われる。実際には、外国のベンチャーからの接触も多い。この問題は、最終的には国の産業的なアクティビティー(政策活動)をどうするかということが原点にあり、それに対して公的な大学はどのような許容範囲の中でそれを認めていくかという議論がベースになると思われる。外国が入り込んできたときに我々はそれに対してどう対応するのかということに対する議論が、事務局の資料の中にも抜けているし、前回の議論の中にもなかったようなので、是非その辺に関する指針も議論してほしい。
   
 委員の先生方から説明いただいたConflict of Interest(利益相反。以下「COI」という。)というのは、大学と産業界との係わり方に関する包括的というか、上位の概念規程であると思われる。1990年から、私はIMSという国際プログラムに係わっており、そこで産学連携の国際スキームに携わっている。その際に、例えば、参加の仕組み、あるいは資金の出し方、成果の配分、特に知的財産権の配分などのいろいろな課題に対してどのような国際的な組織を作るかという議論をした。その結果、TOR(Terms of reference)という国際規約を作った。TORというのは一種の憲法みたいなものであり、その中に、各国が参加する上での倫理についての考え方が述べられている。TORの下には、知的財産に関してIPRガイドライン(Intellectual Property Right Guideline)というものがある。そのガイドラインに基づいて、実際にこれまで約23の研究プロジェクト・コンソーシアムを作ってきた。このコンソーシアムはIPRガイドラインに基づいて規程を作るが、業界によって少しずつ異なるので、それぞれが独自にCCA(Consortium Corporate Agreement)という別の細かい規程を設けている。例えば共同研究をする場合、実際に発生したforeground(新しい知的財産権)、あるいはbackground right(過去の知的財産権)をどう扱うかということを契約で明確に規定している。明確に規定してあれば、そこで出てきた利益(profit)については規定どおりに処理するだけであり、プロフィット(金銭的利益)の問題については各国の裁判所で裁判をするということになる。産業界と大学がIMSのような国際的な枠組みの中でお互いに関与して仕事をする場合、お互いにどんな立場で関与するのかということについては、上位規程としてのTOR(Terms of reference)で定めている。おそらく、本日説明があった、COIのアメリカの規程やヨーロッパの規程も大体そのような流れに沿っているように思われる。ところが、我が国の現状においては国から資金を得たり、国と民間で共同研究をして、例えば特許を取った場合、両者の間の契約、あるいは特許の規定が明確にルール化されていない。そのため、我が国においてこれからどういうふうに利益相反について検討するかというときに、プロフィット(金銭的利益)の問題が、Conflict of Commitment(責務相反)やCOIの問題に解釈されてしまい、具体的な課題の一つになってしまうように思われる。一つは、日本の大学と民間機関が共同研究をする場合の共同研究規程がやや不明確であるため、プロフィット上の問題が起きることである。二つ目は、学協会において企業等と学者が共同研究をした場合に生まれてくる知的財産はどう処分するかという問題がある。文部省通達に基づいて各学会が規定している知的財産権の取扱いと、そこに参加している大学人が所属している大学での知的財産権の取扱いとが違っている場合があり、それらをどう整合させるかという問題があるように思われる。三番目は、国際的な関係での問題であり、所属する国によって規定が異なるが、特に問題なのは、親会社の子会社がentity(実在)として日本に存在する場合、entity(実在)としての扱いが親会社の本国の扱いになるかということである。例えば、IBMという米国の会社があるが、日本IBMという日本国での規程に準拠して扱うのか、親会社の米国IBMの規程に基づいて扱うのか、という辺りがまだグレーゾーン(不明瞭な部分)であると思う。
   
 今の指摘については、知財の話であるので、少なくとも私が説明した利益相反政策に関するものではなく、知財政策の取扱いの中で議論することではないかと思われる。 ただ、二番目の観点で述べられた、学会における知財の取扱いと大学における知財の取扱いの整合性の問題についてであるが、教員が大学の中の職務として行ったのか、それ以外での職務として行ったのかによって適用されることが違うと思う。利益相反のマネジメントにおいて重要なことは、例えば、あるべきモデルのようなものが学内で作られており、そうした事例が幾つかデータとして集積されていた場合に、ある関係が危なそうだといったときに、その危機を察して次のアクションを起こせるかどうかとかいうことである。今のことに関しては、例えば、国際プロジェクトにしろ、あるいは学会を通しての産業界とのコラボレーション(協力)あるいはコンソーシアム(協力団体)にしても、そこに金銭的な問題があれば、それをきちんと開示すればよいだけである。開示をして、開示をした結果自体が、即、その関係のよしあし、いい悪いということに結びつくわけではない。
   
 今、指摘があったことはいわゆるパテントポリシーの問題だと思う。アメリカの大学では、パテントポリシー(特許政策)やIPRポリシー(知的財産政策)をCOIポリシー(利益相反政策)に加えて別個に持っており、そちらのほうの話だと思われる。これはどこが違うかというと、COIのほうは、一つの主体が複数のinterest(関係するもの)を持っている場合にそれをどのようにして処理するかという問題である。今、指摘があった問題は、一つの主体が一つのinterestを持ってる場合だと思われる。例えば、共同研究を行えば、当事者が二つあり、生まれる特許(interest)が一つあることになる。この一つのinterestをめぐって、A社、B社それぞれが自分のところに持っていきたいという話であり、一つの主体が二つのinterestを持っており、調整ができなくなって困っているという話ではないと思われる。冒頭で指摘があった、日本のドメスチックな(国内の)企業と海外の企業をどう判断するかということについてはパテントポリシーやIPRポリシーの問題だと思う。例えば、ある組織がうちは国内に営業所がなければ行わないということを決めたり、あるいは、特許は出さないといったことを決めることは各大学の自由である。COIとは若干違うと思われる。
   
 今のお二方の説明を聞いていると、極端に言えば、温度差は各大学で様々であっていいという趣旨を話していたのではないかと思う。先ほどの説明であったスウェーデンの例で、スウェーデンも日本が行ってきたように、大学で公的な税金を使って開発したにもかかわらず、パテントは個人に寄与してもいいということであるが、その事例の論拠を示してもらえなければ、それを参考にして、大学の中で基準を定めようにも非常に定めにくいと思う。例えばアメリカ等の別の基準で行っているところもあるが、その温度差がどこまで許容されるものなのかということが前回、今回の議論を聞いていても非常にわかりにくい。大学は勝手に行ってよいということになれば、例えば、ある大学が税金を使って一つのパテントを生み出したときに、そのパテントをある企業だけが使えるとした場合、それを使いたい他の企業から、税金で発明したのに、一企業だけが使えて、何でこちらは使えないんだといったことが起こるかもしれない。それは大学の温度差だからいいという話で済んでしまうのかどうか、前回今回の議論を聞いても整理できない。大学に帰って、ちゃんとこれに従って作りなさいと言われたときに、私は説明できる自信が今のところはない。
   
 今の特許の問題については、バイ・ドール法等の上位概念で公平性の問題を突破するような法律ができており、特定の企業にある特許権を無償で渡しても何ら問題はないということになっている。その問題についてはもう答えが出ているのではないか。日本の社会と欧米の社会の話があったが、両者が異なるのは、日本では個人の品格を疑うような、スキャンダル的に扱われていくということである。公の利益相反というまな板に乗る話ではなく、中傷、ねたみ、そねみ、ひがみといったところから出てくる話であり、ライセンシングや産学協働という大義名分の話とは別の、例えば、某大学においてある先生がたくさんの研究資金を得ており、設備を買うために場所の貸与を申し出た際に、その妨害をされるといった嫌がらせの類まで含めた事例である。私は、こうした行動コンダクト(指導)みたいな形で整理するよりも、この問題については、例えば、先生個人の特許を企業に実施させてどれだけ個人収入を得てもかまわないが、所得税だけは申告してくださいといった、いいです、できますというようなことをケースに分けてまとめた事例集のようなものを作ることが一番いいと思われる。ジャーナリストの方にそういうことであればできるということを知ってもらったほうが、日本の場合には効果が大きいような気がする。
   
 先ほどの温度差の話についてであるが、利益相反の考え方を作るときに、大学の持っている理念によってそれは若干変わるということである。端的に言えば、教育を主軸にして、技術の産業化というのは二の次、三の次であり、たまたまできればいいと考えている大学においては、ある意味、非常に厳しい考え方をとることは可能だと思われる。逆に、産業化を非常に大事にする大学、あるいはもともと研究所として産業化を念頭に置くような研究所の場合であれば、そこはある程度緩やかにしてもいいと思われる。だから、大学や組織が持っている理念によって作り方が変わってくるというのが温度差だと思う。次に、日本特有のねたみ、そねみ等の話についてであるが、これにはポイントが二つある。日本の社会というのはどうしても、嫉妬とかがあり、その辺の問題が非常に厳しいということはよく聞く。ある意味、利益相反委員会というのがもしできれば、その防波堤になってもらいたいということが一つにはある。利益相反委員会というものができてお墨つきを与えれば、だれかに陰口をたたかれても、何を言ってるんだというふうに言いやすくなるということがまず一つである。ただ、もう一つのポイントは、これはいいです、これは悪いですということを決めることについては、私は反対である。なぜ反対かといえば、それは非常に難しいし、本質ではないと思うからである。例えば、ある研究員の方が外部のベンチャー企業の代表取締役になりたいということを言ってきた場合、これについてイエス・ノーとあらかじめ言うのはものすごく難しい。私は個人的には、代表権を持つということはなるべく避けたほうがいいと思っており、できれば技術顧問等のほうがいいと思うが、ケース・バイ・ケースで、代表権がどうしても欲しいという方がいることがあり、場合によっては必要なときがある。ケース・バイ・ケースであれば、ヒアリングした結果、利益相反委員会としては2年間の限定つきで代表権を認めるが、そのかわり、2年たったらやめて技術顧問等に役職を変えなさいといった解決ができる。ところが、初めにチェックリストを作って、代表取締役になってはいけないというふうにしたら最後、絶対になる道がなくなる。利益相反の問題というのはあくまで状況の管理であり、管理というものは答がない。ヒアリングをして、考えて、いったん結論を出して、また考えてといったインタラクション(相互作用)が重要であるので、チェックリストを作るのはよくないという気がする。
   
 私は、いい悪いという判断ではなくて、これはできます、あれはできますといった意味で発言した。代表取締役になれます、ベンチャー企業を興せます、出資ができますといった意味である。例えば、新薬についての臨床試験の治験例をいろいろなルールに従ってやらなければならないときに、調整をしていただく先生に大変お手間をとらせましたということで400万円を渡したとすると、今であれば大変になるが、そういう謝礼はもらうことができるが、所得税申告をしてくださいということを書けばいいわけである。その先生の能力を買ってそうしたことをするわけであり、公に尽くしている部分と同時に、公に尽くしている能力の一部がどこかで私的な利益を生むかもしれないが、それは許せるのではないかという意味である。もう一つ言わせてもらえれば、日本は公のものに対する個人については個人の権利を一切認めない。国立大学の先生であれば公人だから、私的なものは認められない。そうした高潔な方というのは1銭もお金をもらわないで昔の裁判官のように飢え死にしなければならないといったところが日本にはある。一方、個人であれば、公に何ら尽くさなくても全然非難されないという、アンバランスな社会構造がある。私が先ほど申し上げたように、ルール化に反対であるのは、これ以上、法をかけて縛ったら、結局、家で寝ていたほうが安全ということになるのではないかと思われるからである。
   
 今、いろいろな意見をいただいているが、今の委員の話にしても、例えば、代表取締役になってもいいとうことになったときに、その大学の先生は大学の教官というポジションにおいてやるべきことの他に、代表取締役としてもやることがあり、両方ある事象の間で起きることが利益相反であるということではないか。今の委員の話というのは、ポジションあるいは代表取締役の種類によって、場合によってはCOIが起きることがあるという指摘だと思う。これは多分、一種の倫理問題であるので、そういう問題が起こり得るということを知ってもらうということをこのワーキング・グループは書くべきであると思う。そういう場合にどうするかといえば、そういうことを一般に開示するということがまずあり、それが何か調べていって、最終的にどうなるかわからないが、五段階ぐらいの手続をとることを行うというようなことが多分、このワーキング・グループで議論すべきことではないか。当該ワーキング・グループにおいて、個々のルールを作る必要はないと思われる。
また、AというボスとBというボスの人間がいる場合には比較的わかりやすいが、例えば学問の自由とかいうボスや、社会の公正さというボスもいるために、ある種の誤解を生みがちである。そういうボスに対して仕えているときにどうするかという話になってくると、これは倫理問題で難しいが、この資料の検討すべき課題の中に、例えば学問の自由のようなものを書き込むべきか、書き込まざるべきかといったことについて、これから議論していただきたい。
   
 先週、スウェーデンのルント大学に行ってきた。そのビジネスパークであるIDEONセンターにあるベンチャー企業の経営諮問会議に招かれたためである。スウェーデンでは、15年ぐらい前から社会貢献ということが言われ始めて、5年ぐらい前から非常に強く言われているそうである。昨今においては、ポリシーとして研究成果を生かすということが非常に重要なことであり、各大学はそうした社会貢献という大きなポリシーを挙げるべきだと思う。ただし、その事例に関しては、何ができる、できないということは事前にはわからないということがあるのも事実である。もう1つ大きなポリシーとしては情報公開というのがあるので、個人のプライバシーに踏み込んだところまでは無理であるが、どういうケースで認めた、認めなかったということは公開していくべきである。それが出てくれば、おのずと各大学の基準が明確になっていく。温度差という問題は非常に難しい問題である。日本国内でも都内の大学と地方の大学は全然違っており、例えば社長の人材がいるかというと、地方では難しいことが多い。学生をリクルートするという話も、ドイツは原則的には先生が作った会社には就職させないという話であるが、アメリカではそんなことはない。日本では、これは教官と学生の密接な問題が出てくるので、やはり倫理委員会みたいなものが必要になってくる。それから、ベンチャーをどう立ち上げるかということについても、相当なベンチャーキャピタルマネーが入ってやり始めた、専業の社長もいるし、マーケティングの部隊も最初から二、三人いるみたいなところから、奥さんがやり出すみたいなケースまで様々である。実際、IDEONのCEOは女性であり、あなたはどういうキャリアなのかと聞いたら、だんなさんが20年ぐらい前にデータ解析装置をつくって売り始めるときに、私が社長をせざるを得なくなったということであった。その経験から二、三社作って、最後に自分はIDEONでそのような会社を創る人財を育てているという話であった。これは人材が回り始めているということである。アメリカは身内の人が参加するということに対してはっきりオープンにするという方針であり、それはそれでいいと思うが、逆にそれがネガティブに働いてしまうと、そういう人材が育っていくチャンスも失われてしまう。だから、温度差というと非常にあいまいであるが、環境の違いはよく考慮すべきであり、それをネガティブにしない方向で人材を育てていくということがすごく大事である。
   
 利益相反については、私自身はすっきり割り切ったようなところまで来ていたが、こういう議論になるとやはり難しいところに来てしまう。明確なのは、今の現代知識社会においては、二つの身分を大学教員が持つようになったということである。私は、それをわけのわからない変な親分に仕えるというふうにあまりネガティブに言わないほうがいいのではないかと思う。先ほど発言があったように、もっと前向きにできればいいが、前向きだけでは言えないようなところもある。二つの身分を持たなければいけないときには、二つの基本になる考え方が大事である。一つは、アメリカのAAU(全米大学協会)の2001年の報告書の冒頭のところにある、大学教員の公的な責任である。ここでは、公的な責任とは何かということに関して、例えば、学生の教育に対する責任、学問の自由に対する責任等々、六つぐらい出している。これは洋の東西を問わず、大学の教員である以上は真理であり、こういうものに対する責任を果たすということを知らせる、あるいは大学の教員が知る、確認するということは非常に大事なことである。世間一般もそういうふうなものを考えているということになれば、それは世間一般でも認められることになる。もう一つの大事なキーワードはアカウンタビリティー(説明責任)だと思う。これは、資金配分機関が資金を受けるところに対して、文書にされたきちんとしたルールを持たせるようなアカウンタビリティーのことである。しかし、不幸にして何か起こり得る可能性が高いのは、別に大学における産学連携だけでなく、その一番典型的なものは医薬品の開発だと思う。医薬品の開発においては、まず最初に、GLPとか、GMPとか、GCPというものができた。それは何かというと、あなたたちを信頼しているが、場合によっては問題が起こる可能性があるので、その際には申し開きをし、きちんと記録して、それを報告、評価、モニタリングできるというシステムをどれだけ持っていたかどうかということである。どれだけ記録されているものに戻れるかということが大事である。肝心なことはインテグリティー(公正性)に戻ることがきっちり理解されているということと、アカウンタビリティーの際にどれだけ記録をさかのぼれるかということである。この二つが満たされるかどうかということについて利益相反を考えておけば、産学連携についてはそれくらいのレベルでいいのではないかと思う。
   
 アメリカやイギリスの例を挙げていただいたが、なぜ日本の私立大学の例がないのかという疑問がある。会計士という仕事をやっているが、これはもともとアメリカで発達した制度である。アメリカの仕組みを日本に入れようとしても、組織文化も違うし、そもそも経営者がアカウンタビリティーを感じているのかというようなところも違うので、アメリカの教科書がそのまま日本には入ってきにくい。私が一番苦労するのは、せっかく産学連携ができるようになってきたのに、おまえは何でそんな抑制的なことを言うんだと言われることである。かなり啓蒙活動をやっていった結果、事務所内部ではそういうことは言われなくなってきたが、今度は外部のベンチャーキャピタルの方とかに、お金を入れてしまった後、そんなことを言われても困ると言われるようになった。せっかくこういうふうによくなってきたのにと皆さんがおっしゃるのは、公務員法とか、倫理法とか、法律の規制がかなり緩和された一方で、セルフレギュレーション(自主規制)の部分をこれからきちんと入れていかなければならないという議論をしているが、これを法の代わりに自分たちを締めつけるものだというふうに理解されているためではないか。まずそうした文化を取り払わなければいけないと思う。ある人から、法の規制がなくとも、日本の私立大学で必要であれば、そういうことを既に行っているのではないか、もし日本の文化、日本の社会制度にきちんとはまるものであれば、そういうものが紹介できるのではないか、といったことを言われたことがある。
   
 ある私立大学では、産学連携を非常に熱心にやっており、書かれたものとしては利益相反政策を持っていないが、メカニズムとして何か問題があったときには担当副学長が対応しているということを紹介されたことがあった。システムとしてではなく属人的なのかもしれないが、これは一種、メカニズムとしては利益相反に対処するものとして機能しているのではないか。
   
 先ほど指摘があった、嫉妬、ジェラシーの世界も非常に感じている。日本で唯一例外的に海外からわりとすんなり入ったものにISOがある。ISOが入ってくるときは、将来、これがなければECと取引ができないといった強迫観念で入ってきた部分があるが、今では定着している。そのように、大学が自然に利益相反のことを取り扱えるようになれば、ほかのところも右へ倣えで自分なりにアレンジして行うのではないか。
   
 利益相反というものを理解してもらう上で重要なことは、決して大学の先生の活動を規制するものではないということである。あくまでも大学の先生が今現在携わっている起業、経済的な活動等を守るためというか、大学が産業界と連携していく上で、きちんとやっているということを対外的、社会的に示すというものであると思っている。質問が幾つかある。フランスで職業倫理委員会という全国的な組織がマネジメントをしており、許認可の許可を下すかどうか判断するといった、日本の人事院と同じような仕組みをとっていると思われるが、なぜフランスの現場ではアメリカの大学のような形でそうした許認可が出せないのかということと、実際に中央で統一的にやっていて何か弊害が起こっているのかどうか、それから、今年の3月にフランスの大学の関係者と話をした際に、兼業をしている企業と共同研究した場合、利益相反という問題はあるのかと聞いたところ、そんなものは一切なく委員会が許可したから自分は何でもできるというようなことを言われた経験があるが、その辺はどのような扱いをしているのか。以上について教えてほしい。
   
 その辺は事例的なことでしか把握していないが、フランスの場合、先ほど紹介した仕組みを作ったのは、実際に行われていることを後付けで認めるという意味があったようだ。つまり、公務員という縛りが厳しいために、実際はいろいろ兼業等をやっていても、それを見逃したりして、一種違法的な方法で進めていた。ところが、イノベーションのために大学や公的研究機関の成果の活用を進めるという政策の展開の中できちんと整理をした結果、今の形になったと思われる。今まで隠れていた、違法だったものを認めるようにしたということが、より実態に近いのではないか。一番最初の質問についてであるが、これは私の推測であるが、今のフランスの高等教育に関する体制が非常に中央集権的であり、国家公務員の身分に関しては中央集権的に一元的に管理をするという体制が非常に強いためだと思われる。そのため、フランスでは各大学で行わない。
   
 ISOと同じような認証をするという話も今出てきたが、これはある基準があって、基準を満たしているか、満たしていないかで認証するわけである。ところが、COIのほうはそういうものがなくて、各大学の自己責任として規定していくということが今の流れだと私は思っている。もちろん自己責任で各大学が規定を作っていき、その中でベストプラクティス(好事例)がどんどん出てくれば、それが将来的にはデファクトスタンダード(事実上の基準)化されて、そのデファクト(事実)が一般的であれば、やがて本当の意味でのISOと同じような基準になるかもしれない。そういう解釈を私はしているが、法的に見てどうか。
   
 今の質問について私がプレゼンをしてないのでお答えするのはどうかと思うが、アメリカでTLOの関係者が集まって、COIについてディスカッションをした場に加わったことがあるが、結論から言うと、デファクト化は絶対に無理だろうという話であった。ある人がこのケースはCOIだという話をしたら、ほかの人たちは猛反発をして、そんなのはうちではみんな当たり前にやっているというようなことがあった。議論を戻させていただくと、先ほど委員から指摘があったように、いいことを決めていくということはわかりやすいことであり、気持ちは私も理解できるが、いいことが果たしてほんとうに決められるのかという疑問がある。これはやってもいいですよというふうな一般的なことは決められても、状況によって悪いことにもなりかねないというようなことはどうしてもある。先ほどのフランスの例みたいに行うのも一つの方法かもしれないが、結局、現場でどういうシチュエーション(状況)でどういう問題が起こっているのかということをジャッジ(審査)していかないと先に進めないということが問題ではないかと思うし、今でもアメリカでは常にそうしたことが起こっている。ねたみ、そねみも常になくならないものでもあり、結局、そのケースを1つ1つクリアにしてアカウンタビリティーをとっているというのが実態だと思う。先ほど指摘があったように、これは常に起こる状態で、常にコントロールを必要とするものだということだと思う。そのため、この議論の方向性として、基準を作りましょうという話になることについては、賛成できない。個々の大学が法人化されるタイミングで考える際に、ファジー(あいまい)過ぎてとても決められないというような部分に対してヘルプフル(有用な)な提案ができればということであれば、前向きに議論に参加したい。
   
 簡単な質問であるが、例示で説明があった代表取締役になるということは、リーガル(合法的)に日本ではなれると理解してよいのか。そこが非常に重要であり、どこまでがリーガルで、どこまでがイリーガル(非合法的)なのかということがはっきりすれば、非常にやりやすい。そこが非常にファジーなため、なかなかわからない。
   
 私はデファクトというものはあると思う。何がデファクトかというと、例えば、先ほど少し紹介したが、こういう項目について開示しなさいといったことなどである。資料14ページに列挙したが、これはデファクトである。これはアメリカの経験と知恵の中で生まれてきたものである。つまり、家族については、配偶者については申告するようにということは、だれが決めたというよりも、多分、みんなが一生懸命考えていく中でできたものであると思われる。利益相反委員会を作ろうということも、だれかが最初に考えて、短い歴史の中で生まれてきたと思う。だから、利益相反に関するデファクトというのは、規範の細かな部分ではなくてシステムだと思う。こういうシステムというのはデファクトで生まれつつある。だから、日本でもシステムをデファクトとして作ることは可能かもしれない。
 私の理解では、利益相反に関するポリシーというものは順番があり、まず刑法がある。そして、国家公務員倫理法があり、倫理規則があり、それらを超えるところに利益相反のポリシーがあると思う。つまり、刑法や倫理法の問題というのは、これは絶対にやってはいけないということである。世の中にはやっていいことがたくさんあり、例えば、兼業だって、103条の申請を出せば、何をやっても法律上は自由なはずである。しかし、全く自由にしてしまうと、やっていいと言われた方が中に入るのが怖くてできないといって右往左往する事態が起きうる。ある研究者がうまいことを言われたが、自由だといって放り出されたのはいいが、走り回るためには、そこから先は行ってはいけないという柵を自分の周りに作ってほしいということであった。法律というのはやってはいけないことを書いてあるのでやらないが、自由になっている部分に意外に怖いところがある。例えば、馬に乗って走るときに手綱なしで走る人はいない。それは、裸馬に手綱なしで乗るのは怖いためである。利益相反とは、手綱を持って乗りましょうという話だと思う。
   
 利益相反の今の話はまさにそのとおりであり、法律的に決まっていることについては、すでに決まっているという立場である。それが法律の解釈でどうなるかということは、このワーキング・グループが議論すべき問題ではもともとない。もともとグレーなところをどうするかという話で、法律のない、法律と何かの中間みたいなところはどうかということだと思う。
   
 余計なことかもしれないが、日本の場合に特に利益相反で大学の問題が大きく出るのは、従来、大学の個人の研究者についての評価というメカニズムがなかったためである。今、私の頭にある利益相反の問題は、個人が責められる形になることを防ぎたいということである。大学の教授といえども、公人であると同時にその個人の能力を100%生かして、その能力の結果、100%収入を増やしてもいいわけである。そのような雰囲気を作ることが利益相反問題のねらいだろうと私は思う。どこかのベンチャーのCEOをやりつつ、大学の教授をやっていても、大学の教授としては何も変わらないのであるから、そこで正当な評価を受けることになる。評価が至らなければ、CEOに専念するしかなく、大学の職を失うことになる。そういう厳密さが、大学を評価するあるメカニズムを取り入れたときにできてくる。その一方で、兼職をするのは個人の自由な選択であり、自分の生き様の判断の問題である。私の能力からすれば、CEOもできるし、大学教授も十分やれるという自信のある方は二つ兼職すればいいといったルール化ができるようにしていくこともあるのではないか。これはわりと精神的な問題であるが、日本の話としてよく出てくるのは、すべてお金は汚いという考えである。お金だけは個人で扱わないようなメカニズムを作る必要がある。そのためには大学の事務局の会計がよほどしっかりしなければならない。入ってくるお金が10万円であろうとも、1万円であろうとも、それは全部公的に受け入れてその先生が使えるような仕掛けにするというルールさえ作っておけば、ほとんどの利益相反の問題で個人の先生に被害が及ぶことはないのではないか。
   
5. 今後の日程
     次回は7月中旬に開催する予定とし、各委員との日程調整の上、事務局から改めて連絡することとされた。
  (文責:研究振興局研究環境・産業連携課技術移転推進室)

(研究振興局研究環境・産業連携課技術移転推進室)

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