はじめに

 「人文学及び社会科学の振興について」(報告)(以下、「報告」という。)は、国が人文学及び社会科学を振興する観点から諸施策を検討していくに当たり、適切な施策を構想することができるよう、人文学及び社会科学の特性や役割・機能を明らかにするとともに、これを踏まえた施策の方向性を示すものである。

 「人文学及び社会科学の振興に関する委員会」は、人文学及び社会科学が果たす社会的機能を最大限発揮させ、社会の発展の基盤形成に資するため、人文学及び社会科学の社会的な意義や学問的な特性を明らかにした上で、学術研究に対する支援方策に加え、研究成果の社会還元の在り方や現代的な課題に対応した研究への支援方策の可能性等について検討することを目的として、平成19年5月、文部科学省の「科学技術・学術審議会」の下に設置されたものである。
 この報告をとりまとめるまで、本委員会は2年近くにわたって審議を重ねてきた。まず、発足当初、本委員会では、社会科学のうち主に実証的な研究方法を用いたものについて、その振興を中心に審議を行った。社会学、経営学、心理学などについて、主に委員からの意見発表に基づき審議を深め、平成19年8月、それまでの審議の内容を「審議経過の概要(その1)」としてとりまとめた。
 次に、本委員会では、人文学の振興を中心に審議を行った。哲学、歴史学、文学、日本研究、文献学、科学史など、それぞれの分野で日本の学術を先導している学者を本委員会にお招きし、それぞれの専門の研究分野から見た人文学の特性や役割・機能そして振興施策の方向性について御意見をいただきながら審議を深め、平成20年8月には、これらの審議の内容を「審議経過の概要(その2)」としてとりまとめた。
 その後、社会科学について、人文学との接点を意識しつつ、総合的な観点から検討を行った。法学、政治学、経済学について、日本の学術を代表する学者からの御意見をいただきながら審議を深め、「審議経過の概要(その1)」及び「審議経過の概要(その2)」の内容と合わせ、今般、「人文学及び社会科学の振興について」(報告)をとりまとめたものである。

 「報告」は大きく二部構成となっている。前半の第一章から第三章では、人文学及び社会科学の課題、特性、役割・機能について明らかにするとともに、後半の第四章では、前半を踏まえ、人文学及び社会科学の振興のための施策の方向性について提言をしている。
 まず、第一章においては、日本の人文学及び社会科学が抱えていると考えられる諸課題を抽出した。近代化の過程で、日本が欧米諸国の学問を、とりわけ専門分化を遂げた後の学問を受容したという歴史的な経緯を踏まえ、日本の人文学及び社会科学の研究水準に関する諸課題、研究の細分化に関する課題、そして学問と社会との関係に関する課題を提起している。これらの諸課題は「歴史的な宿命」としか言いようのないものかもしれないが、日本の人文学及び社会科学を振興するに当たっては踏まえておくべき視点であると考えている。
 次に、第二章においては、人文学及び社会科学の学問的特性について、対象、方法、成果及び評価の観点から、一定の問題関心の下で整理をした。特に、ここでは方法の特性に着目し、人文学及び社会科学の方法を対話的な方法と実証的な方法とに類型化した上で、実証的な方法の前提として対話的な方法を位置付けている。即ち、「他者」との「対話」を通じた「(認識)枠組み」の共有というプロセスを重視している。
 これは、特異な見方と思われるかもしれないが、既に数多くの振興施策を有する自然科学との比較という問題関心の下、国を含めた社会に対して人文学及び社会科学の学問的特性を理解してもらうため、「他者」との「対話」をキー概念としたものである。ここでは、学問論の最新の研究成果を説明することを意図しているのではなく、国や社会に対するメッセージとして人文学及び社会科学を俯瞰してとらえていると考えていただきたい。したがって、全ての人文学及び社会科学の学問的な特性を上記の考え方のみによって説明できるとは考えていないし、もちろん、実証的な方法に基づく研究の重要性を否定するものでもない。
 さらに、第三章では、人文学及び社会科学の役割・機能として、1.理論的統合、2.「実践」の学、3.社会的貢献、4.「教養」の形成、5.「市民」の育成、6.高度な「専門人」の育成という6つを設定した。まず、学術的な役割・機能として、諸学間の「対話」を通じた「普遍性」の獲得の可能性を導く観点から「理論的統合」という役割・機能を、政治や経済に対する人々の見解の形成に一定の影響を与えるという実践的な帰結が伴う観点から「実践」の学という役割・機能を設定した。また、社会的な役割・機能としては、専門家と市民とのコミュニケーション支援や政策や社会における課題の解決などの社会的貢献を、「対話」を通じた文化や社会の「共通規範」の形成という観点から「教養」の形成を、ポリシー・リテラシーの涵養という観点から「市民」の育成を、法曹やジャーナリスト、カウンセラー等、社会において高度な専門性を前提に活躍する人材の育成という観点から高度な「専門人」の育成という役割を設定した。
 最後に、第四章では、人文学及び社会科学の課題、特性、役割・機能を踏まえ、人文学及び社会科学の振興の方向性を提起している。具体的には、1.「対話」を理念とした共同研究の推進、2.政策や社会の要請に応える研究の推進、3.幅広い視野を有する卓越した「学者」の養成、4.実証的な研究方法を用いる研究に対する支援など、研究体制、研究基盤の整備・充実、5.「読者」の獲得への努力など、成果の発信への取組み、そして6.人文学及び社会科学における評価の確立の取組みについて、それぞれ提言を行っている。
 「報告」の概略は以上のとおりである。人文学及び社会科学とは、実証的な方法に基づいた「分析」による「説明」とともに、対話的な方法を通じた「総合」による「理解」を目指す知的営為と言ってよい。そして、このような知的営為には、「実践的な契機」が内包されており、社会との「対話」を通じて、人間や文化、そして社会を変革する効果をもたらすはずである。このような特性を踏まえ、諸施策を検討することが重要と考える。

 これまで、人文学及び社会科学に対しては、成果が見えにくいとか、そもそも何を明らかにしたのか分かりにくいといった理解の不足があったように思う。「報告」では、社会における選択を通じて成果が受容されるという成果還元のプロセスを示した。人文学及び社会科学の成果は、何かの役に立つという道具的な性格を持つというよりも、「理解」の共有という対話的な性格を有している。したがって、このような性格から、人文学及び社会科学は、多様性を前提としつつ人々の間に共通の理解を促すという意味で、文明の形成に大きな貢献を果たしているのである。そして、これらを総合的に検討することによって、人文学及び社会科学の社会的な意義を明らかにできたと考えている。
 ただし、二年近くに及ぶ本委員会の審議においても、まだ十分に議論を尽くせなかった事項がある。これを、ここに示しておきたい。
 まず、人文学及び社会科学における評価の確立についてである。「報告」において提起されているとおり、学問的な特性を踏まえた上で、定性的な評価を中心に、評価の仕組みや指標を整えていくことが、人文学及び社会科学の将来の発展にとって重要である。「報告」は総論であり、詳細な審議は将来の課題と考えている。
 次に、教育との関係である。対話的な性格を有する人文学及び社会科学における教育とは、知識・技術の一方向での伝達のみならず、異なる価値や文化との双方向の交流として行われる。そして、このような双方向の交流を通じて「理解」の共有が図られ、一定の普遍性を獲得するに至れば文化の共通規範とも言うべき「教養」の形成も視野に入るのである。このような特性を踏まえ、人文学及び社会科学については、教育と研究を一連の知的営為として、とりわけ「教養」という観点から、今後、議論を深めていくことが必要である。
 さらに、欧米の学問の受容に伴う「日本で創造された知」への関心の低下という課題についても、もう少し審議を行うことが必要かもしれない。おそらく現在では、「日本で創造された知」への関心は、一部にとどまっているという状態であり、「学者」もまた歴史や文化に拘束された存在であるとすれば、日本の「学者」が「日本で創造された知」にどのように関与していくのかが、今後の課題になる考えられる。
 最後に、美学や芸術学といった「美」に関する分野についての事項である。この分野独自の学問的な特性や社会的な役割・機能を明らかにしつつ、振興の方向性を検討することが必要であろう。本委員会の審議においては、文学研究に関する議論や、感性や表現力の重要性の提起といった中で意見交換が行われたが、今後、議論を深めていくことが期待される。
 以上、本委員会で取り扱った問題は、広範にわたり、やや議論が拡散したようにも思われる部分もある。「報告」は、人文学及び社会科学の特性を踏まえた振興方策の検討という大きなテーマの下、本委員会での審議やヒアリングにおいて提出された意見をできるだけくみ取るという方法によってまとめたものである。このため、若干の偏りや、場合によっては矛盾が残っている可能性もあるのではないかと危惧もしているところである。
 本委員会における審議は終了するが、今後、「報告」を踏まえ、国において施策の検討が進められることを期待している。また、大学や関連する研究機関、学協会等においても、「報告」を参考に、学問の将来について様々な議論が活発に行われることを期待している。
 先に述べたとおり、「報告」において審議できなかった事項はまだあると考えている。今後、科学技術・学術審議会の場において、人文学及び社会科学の振興について審議を行う機会が設けられることを期待したい。

平成21年1月
人文学及び社会科学の振興に関する委員会 主査
伊井春樹

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研究振興局振興企画課