学術研究推進部会 人文学及び社会科学の振興に関する委員会(第14回) 議事録

1.日時

平成20年12月8日(月曜日)15時~17時

2.場所

金融庁共用第2特別会議室

3.出席者

委員

伊井主査、立本主査代理、飯野委員、井上孝美委員、中西委員、西山委員、家委員、猪口委員、岩崎委員、小林委員、谷岡委員
(科学官)
縣科学官、佐藤科学官、辻中科学官

文部科学省

磯田研究振興局長、奈良振興企画課長、門岡学術企画室長、高橋人文社会専門官 その他関係官

4.議事録

【伊井主査】

 それでは時間になりましたので、ただいまから科学技術・学術審議会学術分科会学術研究推進部会に置かれております、人文学及び社会科学の振興に関する委員会を開催いたします。
 年末のお忙しいところ、お集まりくださいまして、ありがとうございます。
 さらに本日は、佐々木学術分科会長にお越しいただきました。佐々木会長におかれましては、ほんとにご多忙のところ、本委員会にご出席いただきまして、まことにありがとうございます。
 それでは、配付資料の確認をお願いします。

【高橋人文社会専門官】

 配付資料につきましては、お手元の配布資料一覧のとおりでございます。欠落などがございましたら、お知らせいただければと思います。
 それから、ドッジファイルにつきまして机の上にご用意させていただいておりますので、ご参考にしていただければと思ってございます。
 それから、資料2の主な意見(案)という資料がございます。これは前回の会議でも出させていただいておりますが、前回の会議でのご意見を踏まえて、さらに前回の会議のご意見をまたつけ加えるような形で整理させていただいておりますので、適宜ご参考にしていただければ幸いでございます。
 以上でございます。

【伊井主査】

 ありがとうございます。
 それでは、毎回繰り返して確認をしながら進めているところでありますけれども、この委員会はご存じのように昨年5月以降、学問的特性、社会とのかかわり、振興方策の3つの観点から、人文学及び社会科学の振興について皆様のご意見を賜っているところでございます。
 社会科学につきましては、昨年8月でしたけれど、「審議経過の概要(その1)」ということでまとめさせていただきました。実証的な分析手法に基づく社会科学の研究振興の方策について挙げたわけでありますけれども、ただ、社会科学の振興のあり方につきましての全体像がまだ十分に議論できていないという状況でございます。そのために、ここ数回、それぞれの専門分野の方にお越しいただいて、お話をいただいているところでございまして、改めて社会科学につきまして議論を深めていきたいと思っているところであります。
 前回の12月2日の委員会では、報告書の全体像につきまして社会科学を中心としまして、これまでの審議会での論点についてそれぞれ忌憚のないご意見を賜ったところでありました。
 まず、人文・社会科学における知の営みには、細かく分析して論理や事実を発見する「研究」という営みだけではなくて、さまざまな研究成果を体系化していく「総合知」を生み出していく「学問」という営みが重要であるというご指摘がありました。そのほか、このような「総合知」を担うことのできる人材の育成の必要性などの指摘があったところです。
 「総合知」ということにつきましては、個別の研究を積み重ねて深い研究ができる方で、かつ俯瞰的に学問を見ていくことができるという、いわゆる「T字型人材」といいましょうか、このような役割を担うことではないかというご指摘がありました。これはなかなか難しいことですけれども、前回も出ました細分化の問題だとか、あるいは総合的な判断ができる人材というようなこともありました。ここでの話の中では、経済学のサミュエルソンの例なども挙がったかと思います。
 また、研究評価という点につきましては、大学などの場で、書籍よりも海外のジャーナルへの掲載を一番評価するような「標準的評価方法」が確立されてしまっていること、また、この手法によって、あらゆる学問分野の評価がなされることへの危惧もございました。これは評価の問題も前回もいろいろ出てまいりました。この点につきまして、書籍に対する評価の比重を高めることの必要性について指摘をいただいたところであったと思いますが、このほかにも、独創的な研究を評価するに当たっての、複数の知の巨人による評価体制の構築の必要性についてのご意見があったかと思うわけであります。
 また、日本のジャーナルを国際的に高く評価されるよう努力していくことの重要性、研究者が海外に向けて研究成果を発信できるような書籍の翻訳を支援する体制を充実することの必要性などが出たかと思います。
 前回出ましたけれども、このほかにも社会における専門職業人を供給していく観点から、大学院の教育課程においてコースワークの充実の必要性だとか、専門社会調査士や図書館司書といった高度な技能資格を付与する場となることで大学院教育の魅力を高めていくということが人文・社会科学のすそ野を広げ、それがまたひいては振興につながっていくのではないかといったご意見もあったかと思うわけであります。
 こういうふうにさまざまなご意見をいただきながら、先ほども紹介がありましたように、人文学及び社会科学の振興に関する委員会に関する主な意見(案)として、これを充実させているというところでございます。
 さて、本日の委員会につきましては、佐々木分科会長にお越しいただきました。ご存じのことと思いますけれども、佐々木先生は政治学、政治思想史がご専門でございます。本日はお手元に資料が別にありますけれども、「政治学の現状と課題」と題しましてご発表いただくことにしております。40分程度ご発表いただきまして、残りの時間で皆様からのご意見を賜るということでございます。少々時間が延びても構いませんので、よろしくお願いいたします。
 どうぞ、お願いいたします。

【佐々木分科会長】

 佐々木でございます。
 当委員会の先生方にはお忙しいところ、たくさんの難しい検討課題につきまして熱心にご討議いただきまして、まことにありがとうございます。12月の委員会の日程だけを見ましても、いささかちょっと、感に堪えざるところがあるわけでございまして、出てこいと言われて、分科会長として出てこないというわけには当然いかないということで、今日は出てまいりました。可能な限り、お役に立てればと思っております。
  それでは時間がございませんので、早速始めさせていただきます。「はじめに」ということでありますように、政治というのをどうとらえるかということがございますが、いかなる社会においても統治をする人はいたわけでございまして、したがって統治及び統治者のための学問的意義というものはずっとどの社会にも存在してきました。東アジアもその非常に重要な歴史的な遺産を後世に残した社会であろうと思います。
 いわゆる儒学というのは治者の学でございまして、治者以外の人にとっては意味があるかどうかわかりませんけれども、少なくとも治者にとっては必須の教養であり、統治の要諦を教えてくれるものとして、ずっと長い間、中国を中心にして東アジアにおいて重用されてきたわけであります。この伝統と、日本のいろんな伝統とがどのように一致するのか。あるいは、一致しないのかという問題はございますが、ここでは差し控えさせていただきたいと思います。
 同じことをヨーロッパについて見るとどうなるかというと、私の認識では、いわゆる社会という概念は比較的新しい概念でありまして、社会科学というような言葉はどう見ても19世紀以降の言葉だと思います。それまでは社会についての学問というのは、こう言っては口幅ったいのでございますけれども、いわゆるぼんやりした意味での政治学の領域としてとらえられてきたと思います。それが18世紀ぐらいからだんだん諸学が分離・独立をしてきまして、経済学や社会学といったようなものが、その中から出てきたということでございます。
 しかし総じて、この学問領域は政治的、社会的実態というものと非常に密接に関連しておりまして、もちろんどういう政治がいいかとか、社会がいいかということを考えるのは勝手なんですけれども、やはり目の前にある現実といいましょうか、事実といいましょうか、こういうものの枠というものか、そういった実態というものと必ずおつき合いをしなければいけない仕組みにあるということはまず最初に申し上げさせていただきたいと思います。
 そこで日本における政治学でありますが、伝統の形成というのがございます。大学における政治学は明治20年代に始まるわけでありまして、一般的に言われていますのは公法学からだんだん分離・独立してきたととらえられております。東京大学における政治学第一講座というのは明治26年か何かにできるのです。これは第一講座。第二講座、第三講座と徐々に増えていったわけであります。私の認識では、これは明治憲法の制定というものが契機になっていると思われます。
 つまりどういうことかというと、統治者が初めから決まっていて、そこでどうしたらいいかということを検討する段階から、いろんな人たちが政治に関与してくる仕組みが憲法という形でできるということです。これは大変大きな転機だと思います。不十分ではあれ、議会というものがつくられる。そして、そこで選挙が行われる。いろんな人たちが政治に参加してくる。ちょっと抽象的にいえば、政治参加主体の複数性、多元性というものが憲法的な枠組みとしてそれなりに出てくるということが恐らく政治学の誕生にとって非常に重要なわけであります。
 思い起こせば、西洋の政治学の原点でありますギリシャ、ローマというのはまさに政治参加というものについて、いろんな人たちが多数、複数参加する政治的な現実というものを背景にして産声を上げたということがございます。その意味で、日本におきましても明治憲法というものの制定が新しい伝統の形成というものと表裏の関係にあったのではないかと思います。
 この旧憲法下での政治学につきましては、蠟山政道先生という私の何代も前の先生が『日本における近代政治学の発達』という本を第二次世界大戦直後にお書きになっております。これはどこかの文庫に入っていたものでございます。それを見ますと、明治以来の流れというものが基本的にわかるような仕組みになっております。
 いろいろな議論がそこに入っておりますけれども、実証的研究も行われました。しかし、私の見るところ、いろいろ政治的な課題が多うございまして、例えばそこに出ていますように、選挙権をどうするかという問題はずっと明治憲法下で問題になってきたわけでございます。そういったような問題とか、1人の政治学者がカバーする範囲が非常に広くて、実証的な研究をおやりになろうにもいろんなツールや態勢も恐らくなかった次第でございますから、できることはかなり限られていた。結果としてcivic education的な話に非常に傾斜していったということはあろうかと思います。
 代表的な名前を挙げられるのが吉野作造先生でありまして、大正デモクラシーの有名な理論家と称せられている方でありますが、吉野先生の作品なんかを見ますと、日本の政治の実態について、たくさん『中央公論』とかそういうもの、あるいは『国家学会雑誌』なんかにも書かれているわけですが、それこそ研究の細分化とはおよそ別世界の時代でございますから、先生は中国についてもたくさん物をお書きになっている。袁世凱の息子さんの家庭教師をやっていたというような方なものですから、我々の世界とはまた違った世界でございます。もちろん明治以降の日本の政治史のご研究も専門でございますが、そういうことでございまして、およそ細分化とは全く無縁な中で伝統の形成がされてきたと思います。
 そういう中で、ある意味では固有の領域以外に踏み出さない政治学者ももちろんおりまして、僕の先生の先生の南原先生なんかはその代表的な例だったと私は認識しております。
 新憲法になりますと、そういう意味で政治的な仕組みというものを動かす主体はますます広がってまいりますから、当面はそこでどのように政治のシステムを動かすかということがもちろん問題になりますが、学問的な傾向としていうと、私も端のほうなんですけれども、マルクス主義の影響が非常に強うございます。これは日本の社会科学全般について、戦中から戦後について言えることでありまして、政治学のほうもその例外ではなかったという記憶がございます。そして、そこに書きましたように、60年代ごろからいろいろ実証的な研究が表にあらわれてくるということになります。私の先生の1人であります京極先生なんかには調査のやり方その他についてもいろいろ教えていただいた記憶がございますが、そのころからぼつぼつそういった動きが始まってきたと言えるかと思います。
 先ほどご紹介いただきましたように、私は政治思想史の領域なものですから、ここは科研費その他がなくてもテキストの研究はできますから、そういう世界は昔と変わらず続いていくわけですが、そうではなくて、政治意識の調査だとか、選挙の調査だとか、こういったものを突破口にして実証的な研究が始まってきたということでございます。
 それから、ここでは輸入学問という話がしばしば出てくるのでありますけれども、政治体制というものは明治以降はある意味で近代化という大きな波に洗われますから、どうしてもレジームそのものがある種輸入であるということもあるものですから、当然学問も一緒に輸入のものが入ってくるということは避けられないわけであります。そして、自分たちの国の政治をどういうふうに分析するかということが原点でありますから、それができるかどうかが私は一番かぎだと思います。輸入云々というのはいろいろあるんですけれども、いろんな領域でそれぞれ国際的な、言葉は悪いですけど、ある種の流れというものがありまして、あるときはこういうことを重視する、あるときはこういうものをテーマとして取り上げるという流れがあるということは否定できません。
 しかし、基本的に政治の過程がどうなっているのかとか、そういうことの分析は輸入といえば輸入かもしれませんけれども、それぞれの人たちがそれぞれの対象を相手にしながら取り組むというわけでありまして、輸入云々の話は、私は仕方ないというか、世界の政治の体制が基本的に同じ方向に向かっているという中で共通の問題、関心を共有するという方向は避けようと思っても避けられない。何かそれに抗して、日本でしかわからないような政治学をつくろうということを考えましても、これはこれでまた別の問題を生み出すことになりはしないかと思っております。
 研究の細分化でございますが、私などが研究を始めたころに比べますと、確かに細分化したといえば細分化したと言えますし、学会の数も、経済学なんかと比べると、まことに小規模でございますから微々たるものですが、一つ二つ、増えてきております。ただ、隣接として歴史の領域、例えば政治史というものは非常に大事ですけど、これは事実上、歴史学のほうとほとんど重なっております。政治史という格好で学会をつくるというのはそれほど意味があると思われてこなかったのかもしれませんが、そういったものはいまだにないのではないか。ただ、私自身は長い間、日本政治の学会というのをもうちょっときっちりしなければいけないと思っていたのですけれども、ようやく少し形が整ってきたということだと思います。
 私のように思想史ですと、これはある意味で社会思想史だとか経済思想史だとか、場合によっては哲学史だとか、こういうところといろいろ接点があるような領域でございまして、その意味で、何か中にいろんな学会をどんどんつくっていくというよりも、ほかの学会の刺激を受けるために、そっちのほうとの交流を深めていくというようなところも随分あるのではないかなと思います。ただ、非常に縦割り的な仕組みであることは間違いありません。これは私自身も留学を通して、ドイツとかほかの国の学問を見ましたけど、日本の場合は、特に法学なんかもひどいと私は思います。星野先生がそんなことを言ったか言わないか、私はわかりませんけど、日本はものすごく縦割りです。だからつまり、その領域のことについてはどなたかがいると、それについてはしゃべってはいかんというぐらいに非常にバリアが高いのでありまして、私の考えですけれども、あんまりそういうふうにしてしまうのは本人にとっても、ほかの人にとっても実はあまりいいことではないのではないかと思います。先ほど来お話しになっております、いわゆる「総合知」なんていう話を考えましても、あまりにも閉じこもり型ではかえってよくないのではないかという感じがします。
 しかし、これはいいことか悪いことかわかりませんけれども、政治学者は大変被害者になっております。それはどういうことかというと、大体法学部に一緒にいるものですから、ロースクールに人をとられちゃいまして、しわ寄せを食うことが残念ながら散見されまして、いろいろなことをやらなければいけなくなってきた。別にロースクールに恨みはないですけれども、個人的にはいろんな考えをお持ちの先生方もいらっしゃるんだと思います。
 ということで、実は私が教育したことのある人間たちを見ましても、大学院で勉強したことと随分違う領域もやらないと、職場が見つからないということも1つの現実でございます。これは皮肉な意味での細分化対策かもしれませんが、仕方がないという面もあります。やはりそれがどういう結果を招くのかということについては一方で非常に慎重にならなければいけないし、他方では案外そこから新しい芽が出てくるかもしれない。そんな感じで今のところ、見ております。
 社会とのかかわりといいますと、政治学だから政治と深くかかわっているだろうと言われるかもしれませんけど、これは人によって千差万別であり、政治のことに全く興味がなさそうな政治学者もいないわけではございません。目の前の、特に麻生政権の支持率が下がったからどうだこうだなんていうことにほとんど興味を持たない政治学者も広い意味ではいると思います。一般の人とそんなに変わらない。
 それから、向こうが分析されると思っていますから、非常に警戒するという面もあるわけです。そんな妙な関係でございまして、実はいろんなところで我々が分析の対象とする方々と非常に濃密な情報交換をするというような世界で政治学者が動いているというイメージがあるとすれば、それは誤解ではないか。好きな人は好きなんでしょうから、何かやるんでしょうけれども、基本的にはそこはやっぱりある種の緊張関係と距離感がないと、実は学問そのものが問題を抱え込んでしまうということがあるので、両義的であるということは、関心を持ちつつ距離感を保つというのは研究者としては当然のスタンスだろうということでございます。
 研究者の性質でありますが、もちろん実証的研究に専念しておられる、そして業績を上げていらっしゃる方々はたくさんいらっしゃいます。そういう研究者、それから私のような西洋政治思想史の領域なんかでは、ある意味では歴史家のようになってしまったような人もたくさんいるわけでございます。しかし他方で、とかくいろんなことに対して口を開きやすいような人ももちろんいるわけでありまして、これはどうだとか、あれはどうだとか、これはよくないとかというタイプの人ももちろんいるわけでございます。これも中は非常にバラエティーに富んでいるというのが私の認識でございます。
 時間がございませんので、政治学の特性に入ります。対象につきましては、ここにはいろんな考え方がございますが、政治的統合のメカニズムの実態の分析というようなことではないか。あるいはこれを裏側に変えれば、権力のいろんな動きを実証的、場合によっては批判的に分析し、フォローするというようなものが大きな固まりとしてあると思います。ですから、権力の成立・維持・変動のメカニズム、それと、それを支える国民等の意識構造の問題、それからそうして行われている統合、例えば政策、そういったものがどういうものなのかということについて、価値という言葉はあんまり使いたくないんですけれども、その意味を分析するというようなことも入ってくると思います。
 その一環として民主制と言われていますけど、その中にどんな類型があるかを制度的に、あるいは実態的に類型化してみようだとか、それから政党にもいろいろな、我々はパーティーシステムといいます。いろいろな複数の政党が集まって、政党制というシステムをつくっている。これはどういうようなことになっていて、そしてそのシステムのあり方によって、どういうアウトプットの違いが出てき得るかとか、そういったもの。その際にイデオロギーの問題その他ももちろん分析の対象に入ってくるわけですが、その政治的統合のメカニズムの分析ということになりますと、リーダーシップの問題なんかも当然その中に一部入ってくる。これらのうちのある種のものについて、例えば経済的なパフォーマンスと政治体制のあり方みたいなのはどんなふうにかかわるのかというようなことに非常にスポットが当たるという場合もありますし、いろいろなスポットの当たり方はあるのですが、その時々に応じて、それなりの権力の構造といったようなものを分析して描き出すというようなことがメーンテーマでありまして、その周辺に政治理論とか政治史といったものがそれをサポートするような体制になっていると私はイメージしております。
 それで、方法としては政治的統合の理解ということでありまして、その歴史的・思想的・制度的位置づけと、それに対する批判的考察ということで、歴史的位置づけということになると政治史になると思いますが、思想的・制度的というと理論という問題も入ってきます。中には政治哲学という領域を担当されている方もいらっしゃるわけであります。
 それから、実証的方法というのもたくさんございます。これもこれだけに尽きるものではないと思いますけれども、統計的分析――政治意識・投票行動の分析といったような領域はそうであります。それから、記述的・歴史的分析といったような政治過程を彩る主体とその影響力、権力の所在という政治過程論といった領域。今日ご出席の辻中さんなんかもこういったところで大変な業績を上げられております。
 それから比較による分析というのがありまして、これは各国の政治体制をいろいろ比較して、何かのヒントを得ようとしたり、あるいはお互いの政治体制の特徴を浮き彫りにするためにこういう比較の方法というのはよく使われるわけでございます。ほかにもいろんな説明の方法というのはあろうかと思いますが、とりあえず3つぐらい挙げさせていただきました。
 成果でありますが、説明と理解を幅広く内に含んでいます。日本の政治の、あるいは権力の構造がこういうふうになっているというようなことは、今日、ここの委員の猪口先生なんかが昔やられた族議員の研究などに見られます。猪口さんはほかにもたくさんやられているんだけど、族議員という言葉が出てきたのは、そういう研究があって出てくるわけです。これは政党、政治家と官僚制との関係というようなものについての実態の分析なのでございますけれども、それはある種の、社会が政治や官僚制を見る場合の見解を実際上、促進する、あるいはそれに刺激を与えるというようなことになってきます。ですから、分析する結果というのは、ただ分析するだけで、ご本人はそれ以上のことを考えなくても、それが反射的に社会の政治像その他にはね返ってきて、そしてそれが今度、社会のそうした現実に対するいろいろな意見形成みたいなものに影響を及ぼしていくというようなことがあちこちで起こるわけであります。ですから、これは実証的な説明ですといっても、分析者はそこで話をとめているつもりなんだけれども、そのメッセージは、だんだんそこから波が起こってきて、それが人々のopinionに影響して、そしてそれがまた人々の物の考え方等にも影響を及ぼすということでございます。そこにジャーナリズムなどを通して取捨選択が行われるというようなことがあるわけです。
 ですから、媒介項としてのジャーナリズムという問題は政治学そのものではありませんけれども、政治学にとっては重要な意味を持つものだと思います。ほかの領域もそうだろうと思いますが、政治学の場合は、やはりジャーナリズムというのが作用・反作用の媒介項として私は重要な意味を持つと思います。ですから、実践的なものを直接意図しないものでも、ある種のそういう帰結を伴うことがあるということは認めなければならないわけであります。
 それで評価についてでありますが、「アカデミズムによる評価はかつてとは異なり」というのはいささか問題発言であります。私たちが若いころは大分イデオロギー策が盛んでございましたものですから、そういう意味では何という評価かよくわからない評価がいろいろあったものですが、最近はそういうことは非常に少なくなりまして、私は信頼度が向上していると思います。ただ、そういった研究の社会的・歴史的評価というのは先ほど言ったようなことで、常に多かれ少なかれ社会を巻き込む要素があるものですから、論争的になる側面は否定できないところがあるということでございます。
 役割と機能といいますと、説明と理解――理解の中に評価も入ります――を通して政治に対するopinionを刺激し、場合によっては、それを呼び覚ます、あるいはそれを変えることを促すということが、役割というとちょっと問題があるかもしれませんけれども、そういう側面が伴います。事実は事実として認識するということはそうなんだけれども、しかし事実は事実の認識としてとどまらないで、それをどう考えるかとか、どういうふうに意味づけるかとか、どうしようかとか、どうすべきかというような、いろんな波長がそこから出てくるというのが我々政治学の世界では普通であるというか、そういうことから免れようと思っても、なかなか免れられるものではないということが言いたかったわけでございます。
 それで、そのことはもう一つの機能として、もうちょっとそれを絞って言えば、明示的・暗黙的なcivic educationを結局やっているということにつながるのかなと思います。政治がどのような仕組みで動くのかということを学んでも、別にそれで給料をもらうのにあんまり役に立つわけでもないのでありますけれども、政治について考えるための手がかりを大学時代その他で受けるということが将来何かの形で、一生に何度かかもしれませんけれども、ある種の知的体験として生きるということも考えられると思いますし、それから政治参加や、いろんな政治についての物の見方をどのような形で扱ったらいいのかということについては、これは1つの解があるわけではありませんけれども、繰り返し繰り返し政治学が取り上げてきた問題であります。昔は統治者の教育論に専らエネルギーを使ってきた。これが現代になりますと、一般の政治参加者に対するある種のeducationというとちょっときついかもしれませんけれども、事実上、そういうことを行う役割を持っているのではないかと思います。
 あわせて、高度な専門人というものの育成というとちょっと……、せいぜい生育というぐらいがいいかもしれないけど、こういうものに関与しているのではないかなと思います。政策担当者――お役人、それから特にジャーナリストの問題は先ほど言ったように、彼らも政治学から完全に離れるわけにいかないような関係にあろうかと思います。ほんとは小さい字で書こうと思ったんですけど、「政治家など」というのも。政治家を果たして教育しているかどうかというのは大変忸怩たる思いがします。昔の儒教その他だと、これは政治家を教育する以外、何も目的がなかったわけでありますが、我々の場合は、そこはそういう人も出てくるかもしれないし、わかりません。
 ただ、そこで専門人というのをちょっとかぎ括弧に入れさせていただきました。これはどういうことかというと、この部会でも人文・社会科学の問題を考えるときに議論していただきたい点なんですけれども、非常に包括的、客観的な知識があって、それを現場にただ適用するんだという、あるいは非常に機械的なイメージでもって適用するんだという、いわゆるテクニカルなエキスパートみたいな専門人というのは我々の領域のイメージとはあんまりぴったり来ないところがございます。専門人というのは要するに学問の都合によって現実を切り分けて、そしてある種の問題設定を前提とした上で、もしそうであるなら、こういうことをやったらいいとか、こういうことをすべきだという世界のように私には見えるのでありますが、政治の世界を含めて、この世界は人間がやること、なすことについては問題設定そのものが一義的に与えられるものでもないし、目的というものが一義的に与えられているものでもなく、それ自体をめぐって、ごたごた、ああでもこうでもないということが繰り返されている領域でございます。
 その意味でいうと、こういう領域を扱う専門人というのは何か特定の大学で習うような理論を身につけていけば処理できるかというと、恐らくそういう世界とは非常に違う世界だろうと思います。でも、そういう世界は適当にほうっておいていいかというと、そういうわけにもいかない。これはやっぱり整理をして、それなりの品質を伴う形でこれらの問題を取り扱わなければいけないというような状況に置かれているわけでございます。ですから、何か高等教育で身につけた専門的な知識を単純に実行するかのごとき、かなり古いイメージで専門人を考えるのは我々のイメージとは大分違う。
 特に政治家というのは専門人かどうか甚だ疑わしいのでありまして、非専門的専門人なのか、よくわからない人であります。しかし、何か毎日、ちゃんと生きているわけですから、大したものではあります。何事にもかかわると言えるのですけれども、何ができるかと言われると、よくわからない人たちの最たるものであります。しかし、こういう人たちが問題を整理したり、問題を立て直したりしながら事を処理していくということをやっているわけでございまして、特に科学という概念を非常に狭く解しますと、こういう人たちに対するリスペクトは全く発生しない可能性があるのではないかということを私は一番恐れているんです。確かにリスペクトに値しない人もいるかもしれませんけれども、知の働きというものの多元性については寛容である、そして、むしろそれが当たり前の面があるということについては少しトレラントであるべきではないかというように考えております。
 そこでprudentia civilsというのを書いたんですけど、これは昔、僕が研究したテーマです。要するに、judgmentの世界というものはopinionとjudgmentの世界で問題の処理を図っていくという世界ですから、何か1つの真理があるからこうなるんだという世界とは、大分構造といいましょうか、骨組みが違う世界で、なおかつ専門人というのがいかにして可能かということをやっぱり考える必要があるのではないか。
 結局、我々は意識的にどこまでやっているかはわかりませんけれども、例えばジャーナリズムの問題1つとりましても、こういうジャーナリズムがある種のクオリティーにあるかということは政治にとっては非常に重要なことなんです。ですから、お役人をお務めになった方も含めて、ジャーナリズムというのは適当にやっておけばいいと言っているだけでは済まないので、これをどういう格好で、どのような格好で、これのある種の、それ自体がやっぱりプロフェッショナルなコードを持って、プロフェッショナルなスキルを持って、それからある種のプロフェッショナルとしての自制心とパースペクティブを持って活動するかというようなことは、私は大変大事なことだと思います。
 ジャーナリストも何をどう扱ったらいいかについて、そんなにレディメイドなノウハウがあるわけではないと思うんですけれども、だからといって、そういう人たちがいなくていいというわけにもいかないのでございます。その意味で、ここで専門人というのをかぎ括弧で書きましたのは、そういうことも少し考えて、少し幅を広くとった専門人の育成ということで政治学の位置づけも考えていただく必要があるんじゃないかと考えたわけでございます。
 施策の方向性についてもあまり具体的でないんですけれども、少し述べさせていただきたいと思います。まず評価というのは、いろいろ専門的な研究で専門誌で評価を受け、そして論文を発表するというのはすばらしいことですから大いにやっていただく必要があろうかと思います。しかし同時に、政治現象をとらえる、言葉はよくないですけど、感性とでもいいましょうか、こういったものを消してしまうというのはやっぱりリスクがあると思います。ある意味で、特に専門人なんかもそうなんですけど、いろんなことが個別に言われる中で何をどう瞬間的につかまえるかというのが知的にテストされているということでございまして、その意味で政治現象を総合的にとらえる感性とでも言ってもいいかもしれません。あるいは、そういうことに努力する態度というものについては、私は保存していく、あるいはそういうものの存在余地を認めていく必要があるのではないかと思います。論文を書くのももちろん結構なんですけれども、単行本は意味がないとか言われると、いささかちょっとバランスが崩れるかもしれないと思います。
 研究者の養成ですが、専門家はどうしても必要でありますから、それはそのとおりで、どんどんやっていただく必要があるわけですが、1人の研究者が政治学の中でいろんな領域にチャレンジすることを、私はやっぱりもう少し考えていいのではないかなと思います。ですから、現代日本をやっていた人が少し歴史の中へ入っていってやってみるとか、それから、これはちょっと私自身もそうだったのですけれども、大体ヨーロッパの政治思想史をやっている人間がアメリカの政治の話をするなんていうのはいかがなものかという感じもあったんですが、そういうことをやってみるとか、いろんなことをやらせていただく空気が大事です。これからはそういうことをしたいという人ができるようにする。みんなする必要はないので、したいという人にはどんどんやってもらう。そのためには、やっぱりこれは全般そうですけど、サバティカルのような制度を入れてもらいたい。大学の関係者はますます忙しくなってきておりますから、実験から手を離せないという世界もあろうかと思いますが、人文学・社会科学の領域では、こういった制度をやっぱりきっちり入れて、時間というものをとってあげるということが私は大事だと思います。ですから、それをサポートするような制度を例えば何かの形で文部科学省がやるということは、私は大変いいことだろうと思っております。
 それから共同研究を含めて、いろんな体制づくりについてですけれども、日本の政治についてのデータの収集のための体制整備。これは科研費を使ったりしていろいろやっているんですけれども、幾らあっても足りないという領域でございます。それから政策研究のための環境整備というのもありますけれども、これなども実際にこの霞が関を対象にしてやろうというと、きちっとした材料というものを手に入れて、十分検討してやるということはなかなか難しいところがあるのではないか。福田前首相の公文書館ではないんですけれども、とにかくきっちりと残しておいてもらって、そういう研究ができるような体制にしてもらいたいということでございます。
 いずれにしてもデータの収集という問題は非常にバイタルな問題です。私自身がかかわったものとしては、政治資金のデータを収集したいと思いまして、できれば、これを文部科学省がキープするというのは大変有効な政策ではないかと思ったのでありますが、これをやろうとするとなかなか大変でして、特に地方へ行くと、人海戦術でしか集められない。コピーは許されない。紙に書き写して持ってくる。しかも書き写す部屋は窓もあんまりなく、いすもあまりないようなところにぽんと資料だけが置かれている。それで情報が公開されたことになっているという変な話になっていまして、実は非常に苦い体験をしたことがございます。そして、国際的ないろんな政治資金の研究会に行くと、あなたの国は果たして政治的な政治資金についてのデータの収集はできる国なんですかねとか言われて、非常におもしろくなく帰ってきたことも20年ぐらい前はありました。
 ですから、こういうデータの収集というのは一方で、これは何しろいろんな意味で権力の問題が絡んでいるものですから、関係者たちはできるだけこれを明らかにしたくないという本能が必ず働くわけです。他方で、これは研究者のエゴだけではなくて、政治のプロセスの姿を明らかにしようということをきっちりと実行しようということになりますと、こういったものについてもまだまだ日本の実情は課題があり、ぜひサポート体制を考えていただきたい。政治資金の研究のためだけには出しにくいかもしれないけど、それも出していただければ、科研費でも結構なわけです。我々政治学者としてもデータがないというのは非常に恥ずかしくて困る、実は我々の名誉にかかわることでもあるということを1つ、例示として挙げさせていただきたいと思います。
 それからいろんな地域についての共同研究の推進。これは政治学とほかの学問、あるいは場合によっては人文学も含めてなんですけれども、これにつきましてはいろいろサポートが始まっているようでありますが、ぜひもっと大々的におやりいただく余地があるのではないかと思っております。
 以上がこのレジュメの中身でありまして、そろそろ時間がなくなってまいりましたが、今日述べたことは私が思いつくままに書き連ねたものでありますし、ここには政治学者の方も何人かいらっしゃいますので、いろいろご意見を伺って、またご質問等があれば応答したいと思っております。それでもって補いたいと思います。

【伊井主査】

 どうもありがとうございます。生の政治ということともかかわりがあったりなかったりするという力関係もあるんだろうと思いますけど、非常に興味深いお話をどうもありがとうございました。
 先ほど申し上げましたように、この委員会では昨年来、学問的特性、社会とのかかわり、振興方策という3つの観点を中心にして話を進めているわけですけれども、ただいまの佐々木先生のお話もまさにそれに合うようにお話しくださいました。大きな項目を挙げまして、日本における政治学、そして政治学の特性、さらに役割・機能、最後に施策の方向性ということをお話しくださったわけです。いろいろご関心のある方、ご関係のある方が多いと思いますので、どの問題からでも結構ですので、お話しくだされば、ご質問くださればと思います。
 谷岡先生、どうぞ。

【谷岡委員】

 大変示唆に富むお話をありがとうございました。実証的方法というところの説明で、記述的・歴史的分析というのが実は佐々木先生のお話の中で登場したんですが、記述的・歴史的分析というのは実証的方法がわりと使いにくい分野でもあると思うんです。そういう意味で、ほかの統計的分析や比較とは違って、データもないし、どうやったら実証的な科学たり得る条件を満たしていくんだろうかというのが質問です。お願いいたします。

【伊井主査】

 ありがとうございます。お願いいたします。

【佐々木分科会長】

 科学たり得るかというのはなかなか一言で答えにくいんですが、ある種の因果性とでも言うべきものを掘り起こしていくという作業として、私は専ら理解をしております。ただし、Aというファクターがどれだけ原因として有効性を持つのかというようなことについては、おっしゃるように、特に昔のことも含めて、あるいは膨大なアクターがかかわるような事象について、どこまで科学的・厳密的に言えるかということについては私も課題が残るかと思います。しかし、説明しなくていいというわけでもないものですから、それを何かの形で説明しようと試みること自体をディスカレッジするべきではないだろうし、その意味で、例えば特定のアクターをとってきて、それに即して、ある程度、そこがどういうふうな形で過程の中で影響力を行使していったのかというようなやり方をやる場合もあるし、我々の世代は知っていますけど、例えば土光臨調とか、ああいったものを取り上げて、あれがどういう形で、どういう主体を巻き込みながら、どのようにして動いていったのかを分析的にといった具合です。だから、それがほんとうにそうだったのかというのは実はだれもわからないところがあるものですから、そこについてはその限りのものとして、あるところで説得性がそれでもどの程度あるか。これを無視して、こういう話をしてはだめですよという話が出てくるなら、やっぱりこれはちょっとまずい。だから、これはあくまでも私は相対的な格好で分析の成果を評価する範囲をなかなか出られない領域ではないかなととりあえず思っております。

【伊井主査】

 谷岡さん、よろしいでしょうか。

【谷岡委員】

 はい。

【伊井主査】

 ほかに、どうぞ。
 家先生、どうぞ。

【家委員】

 大変多岐にわたって含蓄深いお話を拝聴いたしまして、ありがとうございました。先生がご指摘になったことの1つの研究の細分化ということですけれども、ほかの分野、自然科学でも研究が進むにつれて細分化、より狭い分野、ディテールを研究するという傾向はあるかと思うんですけれども、それが例えば、私どもが属している物理の場合には、研究の細分化ということと、学会の乱立といったら怒られますが、林立とは必ずしもつながらないのですけれども、大きな学会の中に分科会のようなものができていくということになります。その辺、人文・社会科学ではどうもそうなっていないような印象を持っているんですけど、これは諸外国でもそうなのでしょうか。その辺の原因はどうなっているのですか。

【佐々木分科会長】

 いや、もちろん、やっぱりそれは1つは会員の数の問題とか、いろんな問題がありますから一概には言えません。それからもちろん、私は政治学についていえば、日本は学会レベルで細分化しているとは思わないです。ただ、時々そう思うこともある。というのは似たようなものが2つできたりすると、これは何か争いでもあったのではないかというふうに……。

【家委員】

 何か学閥ごとに分かれてしまうとか……。

【佐々木分科会長】

 学閥というか、ある種の関心の違いもある場合もあるかもしれませんけれども、先ほど申しましたように、政治学はそれほど学会の林立が甚だしいところではないと私自身は思っています。それはやっぱりサイズがそんなに大きくないということもあると思います。
 ただ、前は日本政治学会と日本国際政治学会という大きな2つの学会があったんです。それから行政学会というのがあって、ここはもともとちょっと独立していた。そこから少しずつ、政治思想史も独自の学会を持つとか、比較政治がまた独自の学会を持つというのはあります。あるいは日本政治というのもありますけど、それほど何か無関係になってしまうような、疎遠になってしまうような世界ではないと私自身は思っております。それに比べると、大学のシステムのほうがはるかに縦割りでできているのではないかというのが私の認識です。

【家委員】

 自然科学の場合は全体でやらなければいけないという作業があります。例えば、学術誌の刊行とか、学会、アニュアルミーティングの開催とか、そういうことが1つの要素になっているのかなと思いますけれども、政治学では政治学全体のミーティングというのはあまり……。

【佐々木分科会長】

 ですから、日本政治学会とか日本国際政治学会はもちろん全体のミーティングがある。その中にいろんな分科会みたいなもので、いろんなものが入ってくる。ところが、やっぱりだんだん研究者が多くなると、そこだけだとチャンスが幾ら何でも狭いということになるから、またちょっとつくって広げて、そういうものはそういうものでまたやるという形になっているんですけど、それはやっぱりある時期、私が入ったころは全体で500人ぐらいの学会だったんです。それがもう2,000人を超えてくる。それからもう少し今増えていると思うんですけど、そうなってくると、どうしても学会というのが集まり、ある意味でサービスをしない組織としてはもたなくなってくるわけです。そうすると、特に若い人にとっては発表の機会を与える、あるいはいろんな論文を発表する機会を与えるというようなことになりますと、どうしてもやっぱり間口を広げていく必要が少なくとも量的には出てきたと私は思います。ただ、全体のコミュニケーションは私らの中ではほとんど問題なく行われているという認識を持っております。

【立本主査主査】

 よろしいでしょうか。

【伊井主査】

 どうぞ。

【立本主査代理】

 実は佐々木先生に評価について教えていただきたいのですが、今日は施策の方向性の評価というところで、政治現象をとらえる感性を加味すべきであるとおっしゃいました。ちょっと言葉が悪いとはおっしゃっていましたけれども、この委員会でも感性という言葉がたびたび出てきまして、それをどのように、どういうふうな指標でとらえるかというのが大きな課題でした。それに関しまして、政治現象をとらえる感性とおっしゃったときに、1つはポリティカルにというか、政治のセンスというのと、もうひとつはサイエンティフィック・センスというのと、どちらになるのでしょうか? 両方がなければいけないのかなとも思いますけれども。
 それからもう一つ、センスといいますか、感性といいましても、 よい感性、悪い感性というのがございますね。そうすると感性を評価に加味したときに、それがいよいよ評価を複雑にするのではないかなと思います。そこら辺はどういうふうにしたらいいのかということです。この2つが施策の方向性のところでの感性に関することです。
 もう一つ、感性に関しまして、前のほうの(4)の評価のところで「アカデミズムによる評価はかつてと異なり、信頼度が向上」したというご指摘をされておりますが、この信頼度が向上したというのは、感性を加味しているからなのか、あるいは、そういうようなこととは全然関係なしに、要するにアカデミズムがレベルアップしたから信頼度が向上したのか。信頼度を向上したい時に感性をどういうふうに加えたらいいのかという、以上3点をちょっと教えていただければ。

【佐々木分科会長】

 いや、なかなか難しくて。ここはさっきの専門人の話とちょっと絡むんだけれども、なかなかこれを定義化できない要素という面があるのが困ったところだなというのが私のそれこそ感性というか表現です。それは結果として出てきたもの、つまりある意味で言葉は悪いですが、ある種の技法といえば技法、アートといえばアートみたいなところもその中には入っている。ただし、先生が言われたように、辞書的なものがなくていいというわけでももちろんないだろうし、だけど辞書的なものがただ散在しているだけではどうにもならないわけでありまして、一体それをどのように、ある意味で1つの像なり、「総合知」と書いてありましたけれども、そういったものに仕上げていくというのか、あるいは理解していく、意味づけていくかという話はそれぞれの分析をする作業とは少し違う可能性を持っているということだろうと思います。
 いろいろ悪く言うことはできるんですけれども、でもそこがやっぱりないと、opinionとして社会との交通可能性というものが遮断されるという問題が出てくるのではないかと。ですから、おそらく今最後に先生が言われた、いい、悪いはあるのではないかというような話もあるし、それは私は1つの媒体とか、ジャーナリズムとかなんとかの世界だろうと思いますが、いろんなそういう感性があり得ると思うのだけれども、いくら何でもこれは使えないねという話になれば、それはそれだけのものかもしれない。そういうものもあるでしょうと。
 要するに、いろんな実証的なことも含めて、1つの例として言うと、今全体がどうなっているのかなというようなことについての総合的なとらえ方みたいなものも、多分1つその中に入っているでしょうと。だけど、私はこのことしか関心がないから、それに関係するものだけを取りまとめてきて、全体はこうなっているという話をするようであれば、これはそれなりのものでしかないだろうというような話に例えばなると思います。ですから、そこは何か初めから基準を決めて裁断するというわけにもなかなかいかない。しかし、そこは政治の場合は最後までぐるぐる回りするところなんですけれども、いくら多くの人に参加させてみても1つの答えが出るという保証はないし、間違わないという保証はないし、そういう面は歴史からしてもなしとしないということがあるものですから。
 ただ、いい総合知があればいい総合知が出てくるというような関係に持っていくということが、やはり全体としては非常に望ましいことで、悪く言えば、その出発点が非常に低いと低いものが続々と出てくるという、これは非常にぐあいが悪いということになると思います。
 ですから、そういう好循環をいかにしてつくれるかということの最後のとりでは、学問自体の中に内在しているのか、どこまで内在しているのか。これは間違ったことを言っているからだめだよという批判はもちろんできます。それはできることはできるんですけれども、その中だけで全部賄い切れるかと言われると、そこには少し賄い切れないところも幾ばくか出てくるかもしれないということは、私は人文・社会科学の場合、そこは学問のほうがむしろ謙虚であるほうがいいのではないかと。つまり、そこはオープンにしておいていろんな可能性を開いておくということのほうが、あり方としてはいいのではないか。そこを我々が、これは全部わかっているんだという言い方をしてしまうのは、これはまた身もふたもない話になってきて、後で始末が悪くなるということになりはしないだろうかと。私は、漠然とですけれども、一々はお答えできなかったかもしれませんけれども、そういう感じで考えてはおります。

【伊井主査】

 ありがとうございます。
 どうぞ、猪口先生。

【猪口委員】

 佐々木先生は、学問と実際、両方ともおやりになっているもので……。

【佐々木分科会長】

 いえいえ、そんなことは。

【猪口委員】

 私は、ほとんどの間といいますか、毎日が日曜日、毎年がサバティカルみたいなことをやっていると言われたこともありまして、ほとんど国立大学の附置研究所にいたもので、アンフェアな批判を受けたことはあるんですが、そういう立場からすると、実際のほうが入っているジャーナリズムとか感性のほうは、聞くのは遠慮させていただきます。弱いですから。
 5番の施策の方向性の(3)で共同研究のところなんですけれども、お願いしたいと思うというか、日本の政治に焦点を当てるのは、それはほんとうにすごくいいと思うんですが、どこの国でもある程度学問が発達すると、帝国主義的というか、結局自分の国だけじゃなくて、全部やろうとするんですよ。パキスタンみたいな小さな国と言っちゃ悪いけれども、人口的に同じなので、全世界の健康についていろんなことをやり始めるとか、ロシアだってばかでっかい政治年鑑を各国、全部の国について、結構いろんなことを調べているし。それから、アメリカなどは、国連開発計画で「ヒューマン・ディベロプメント・レポート」いうのを途上国について出していますけれども、これはアンフェアだといってアメリカについても州のレベル、カウンティのレベルでみんな調べたとか、そういうすごく大量のデータ収集というのを体系的に、もうできることはやるという姿勢が非常に地球的に見て強くなってきているんです。
 それを、あまり日本、日本といってちょっと縮まるみたいな感じを与えるのは、影響力のある佐々木先生が、そうじゃない方向に言ってくれたほうがいいかなと思います。どうしてかというと、ほんとうに小さな国でも、韓国とか、パキスタンとか、もうどんどんいろんなことで大量データを集めているんです。それは統計データでも、医療データでも、あるいは世論データでも。日本は、やっぱり細かく、たくみの精神の人が多いのか、延々とやっている人が多いというのは佐々木先生と同じなんですが、専門家がちょっと極端にずっと同じというのが若干多いかなと思うのですけれども、その関連で、僕は、この5番の(3)、共同研究をもっと大量に、網羅的に、体系的にやれという感じに佐々木先生に言っていただけたら、ほんとうに幸せです。

【佐々木分科会長】

 そのとおり言いましょう。例えば、猪口さんたちは、今度アジアのことについての世論調査を含めてやられているんです。ああ、こういうこともやられるようになったんだということをもちろん私も知っているし、その過程で猪口さんが随分頑張られたというのはよく知っています。今度本も出されましたし。
 僕も今の話に触発されて言うと、やっぱり日本の市民は、例えば政策についてのリテラシーが低いと思います。それは、いろいろなことを知らないことも関係している。それで、やたらに怒ったり何なりする人は出てくるけれども、国際的にどうかというのも一つの作法です。日本は大変だという。しかし、例えば、今のここのところのパーキャピターのGDPは世界で言うとどの辺ですかねなんていう話を聞けば、だからといって怒らないようになるかどうかはともかくとして、やっぱりそれは1つの知的な作法みたいなものなのだけれども、それが非常に少ないということは、僕は非常に大きな問題だと思うのです。
 それで大変恐縮なのですが、政治家や政策担当者は、都合のいいときだけ都合のいいデータを持ってきてこうだという話をやって、後でもめるわけです。だから、そういう意味で言うと、ここで政策研究のための環境整備ということも言いましたけれども、もう少しある種のポリシーのリテラシーをcivic educationの1つの大きなテーマとして掲げるためには、あなたが言われるようなことを含めて、そういうものを当然の前提として入れていくというようなことは、civic educationを心構え論だけやるんじゃなくて、一体、政策というもの、そして実態というものはどうなっているのかということについて、もう少し日常的に国民がケアするという環境をつくるということは、私はその点では全く大賛成です。
 ですから、調査するのを例えばそういうふうに少し方向性を出すということと結びつければ、私は説得的な説明になるのではないかなと思います。それで、僕はほんとうにポリシーについてのリテラシーが……、それでみんな高いと思っているから非常に困ります。自分たちは、世界のいろいろなことをわかっていると思っているわけですよ。ところが、決してそうじゃない。大体、税金を幾ら払っているかほとんど知らない国民ですから。だから、そういうあたりがcivic educationとしては、ある意味で非常にベーシックなところですから、そういったことも含めて、できるだけ客観的に物事をとらえるような環境整備というものも、政治学だけかどうかわからないけれども、社会学も含めて社会科学の1つの大きな課題にするというのは、私は非常にいいと思います。

【伊井主査】

 辻中先生、どうぞ。

【辻中科学官】

 今のラインで、政治学の教育研究だけじゃなくて、社会科学全体なんですけれども、政治学部とか、政治学の大学院というのを正面から掲げているところは、日本ではないのではないかなと思うんです。日本の社会は、まだまだ政策も知らないし、政治もあんまり知らなくてみんな怒っているというか。だから、実際は大学だけじゃなくて、高校でも現代政治というのをあんまり正面から扱わないで、日本社会はまだまだ政治をあまりかたぎの仕事だと思っていないようなところがあると思うんです。
 それが僕は、随分前から気になっていて、公共政策の大学院ができたり、学部ができたりしてこれはかなりよくなってきたし、国際関係に関してもそういう流れはあるんですが、もう一歩これを進めるためには、やっぱり政治学部的なものだとか、政治学大学院的なものだとか、それから高校以下の教育での政治というもの、現代政治を忌避しないで正面から教えていくというか、そういうものが必要だと思うんですが、佐々木先生のご意見を聞きたくて……。

【佐々木分科会長】

 それはどうしたらいいかはわからない。政治学部というか、ただ1つ大事なことは、要するに今、辻中委員が言われた政治というものとのインターフェースみたいなものが非常に屈折しているという問題、何か非常に遠いものとして考えているかと思うと、政治家のほうから言えば、突然雷が落っこちてくるとか、何を考えているかよくわからないとかいうような、何かそういう非常にインターフェースがいびつになっているということは1つの大きな課題であると思います。ですから、さっき猪口先生が言われたようなことも、そのいびつさを改めていく1つの入口として私は賛成したんですが。
 ですが、政治学部で大学院をつくって何かやろうというときは、やっぱり材料がないと困るわけでして、そのためにはデータも含めて材料をどのようにして充実させるかということと、そういうのをつくれば集まるのかもしれないけれども、何かセットでやっていく必要がある。個々の研究者がいろんな形で苦労してデータづくりをしているわけですよね。だから、例えば僕のところでも国会研究をやっていた人なども、国会でいろいろ審議があってもめたり何なりすると、とにかくデータ化をして、いろんな格好でそれを数理的に分析可能なものに仕上げていくというような作業を延々とやっている。
 そういうような作業というのがだんだん積み上がっていきますと、もとにさかのぼってそういうつくり方がいいのか、悪いのかも含めて、大いに議論したり何なりするということは十分可能になると思うけれども、ここで言うところの実証的部分、特にこの実証的部分というのが可能になるような条件とは何かというあたりが、やっぱりかぎを握っているのではないかなと思います。だから、猪口先生が言われたことも含めて、5の(3)あたりのところがいろんな形で豊かになってくれば、辻中さんが言われたようなこととのミスマッチは非常に少なくなるのではないかと。
 大学院をつくったけれど、ある意味実証的なことに興味ない人ばかりが来るというのもちょっと困るかもしれない。困るというか、あまり意図したところに合致しないかもしれない。だから、これを活用しながら大学院の問題は考えていったほうがいいんじゃないかなと私は思います。だから別に反対なわけではありませんので、頑張っていただくということでお願いします。

【伊井主査】

 よろしいでしょうか。
 中西先生、どうぞ。

【中西委員】

 私は全く素人なので、法学と政治学の関係を学術的にどういうふうに考えるかということがよく理解できていません。これらは体系と実践ではないかと思われるのですが、東大の場合、学部は法学部で、大学院になると法学政治学研究科となっているので、どちらからどう生まれたのか、また学術的な関係のようなものを教えていただけるでしょうか。

【佐々木分科会長】

 これはなかなか難しい問題です。ただ、私たちから見て言えることが幾つかあります。つまり、あちらは非常に法律的な専門スキル、ある意味で自己完結的な世界の中でどのように現実を処理するかということを競うという、星野先生が言ういわゆる法解釈学というのは、まさにそういう世界でございますから、その意味でいろんな形で法学的な知が作用する事実というものを、事態をある意味コントロールした上で料理をするわけです。事実といっても、無数にあるわけですから、その中で一体どういう事実をいわゆる事実として法的にみなすかという上に立って、これをどうする、こうするといった具合です。
 ところが、政治学の場合は、もうそういう能力はないわけです。いろんな事実が山のごとくたまっているわけです。我々から見ると、法学という世界は非常にアーティフィシャルにつくられた世界で知を競う世界だという意味では、彼らの世界のほうがある種完結性が高いように思います。
 ただ1つ、非常に共通しているのは、あえて言えば制度という問題は、我々のほうでも大変重要な仕組みになってきていますから、何をやるにしても法律があり、いろんな機関があり、権限がありということと無関係に政治が動くわけではございません。ですから、公法学、公法、国の憲法、行政法のところをやっていたところと政治学との関係がかつては非常に親密だったと聞いております。それはそこでは同じ制度をシェア、共有しつつ、分析の肝心のアスペクトはこっちはこっち、こっちはこっちという形、違う方向へ向いているという形で、何といいましょうか、背骨がつながっているみたいなところはあったと思います。そして、例えば今にいたしましても、ねじれ国会の問題とか、こういった話は憲法という制度なしでは考えられないことですから、制度が現象をつくる、あるいは枠づけるというようなことはもちろんございます。ですから、そこで法学と政治学というのは、政治学のほうが先ほど言ったように、事実について学問のほうである程度コントロールはできるんですけれども、しかしほとんどできない世界であるのに対して、法学のほうは、事実も含めて、手続も含めて、きちっと自分たちの世界というものをかなり完結的につくっている世界であるという意味で、向こうは整地されており、こっちはややごつごつしているという感じが私はしています。
 ですから、政治学を勉強しようとする人には、頭が非常にいい人も大切だけども、やっぱり頭が丈夫な人も必要だという面がある。だから、非常にごつごつして気になる場合というのは、非常にタフなものも出会うことが研究過程ではあると思いますから。特に権力という問題については、当事者は必ず隠したがるわけですから、そういう問題をどうやるかということになりますから。ですから、我々から見ると、向こうの世界はそういう意味では現実をきれいに切り取って、そして現実をコントロールするというような、かなりアーティフィシャルな感じのする学問だなと私は見ています。

【伊井主査】

 佐々木先生、どうもありがとうございます。かなり具体的なイメージがわくようにおっしゃってくださいました。
 どうぞ、井上先生。

【井上(孝)委員】

 本日は、大変ありがとうございました。今お聞きしていて思いますのは、やはり政治が、特に公法学のシステムの上に乗っていろいろな政策判断というもの、統合機能を発揮するということについてはよくわかったわけですが、そこで社会科学は法学などと同じように、政治学も従来、どちらかというと個人研究が多かったのではないかと思うのですが、やはり施策の方向性の(3)のところに書いてあります共同研究の必要性を指摘されているわけで、そういう意味で、先般、星野先生の法学と同じような施策の方向性をお示しいただいていると思います。
 私も、そういう点で上に書いてある具体的な比較による分析というのは、確かに諸外国との比較分析というのは、先ほど猪口先生がいろいろ調査結果の分析が必要だというお話がありましたが、そういう意味で共同研究をする場合には、どうしてもデータベースの構築というのを、共通の研究の基盤としてはそういう形成がどうしても必要ではないか。
 それと、できたら共同研究の拠点形成というのも必要になってくるのではないかなと思います。ただ、社会科学の場合、経済学も同じだと思うのですが、自然科学のように大規模な施設とか設備が必要というわけでもないわけですから、そういう点で1つの拠点をつくって、ネットワークによって共同研究をやるという手法も可能ではないかなと思っているわけです。それによって共同研究の推進と政策研究の環境整備ということをご指摘いただいているわけで、特に私どもが見ていて、日本の政治というのは果たして政策決定のシステムとかそういうものの上でほんとうに理論的なのかどうかというのは、これはまた非常に疑問があるところです。
 特に、最近グローバル化して、外交の面では国連によるPKO活動などの必要性とか、あるいはアメリカの金融危機による経済政策についても先進諸国で共同歩調をとった政策決定とか、グローバル化すると、日本独自の政策というのが日本の経験を生かしながら、そういうところで日本の政策の普遍性を世界的にも訴えるということは可能だと思うんですが、そういう理論的な裏づけと申しますが、そういうものが政治学にも求められているのではないかとも思うわけでございます。
 そういう意味で、日本の実際の政治の今後の方向性とかあり方、ヨーロッパがEUを構成しているように、いずれ日本もアジアのユニオンをつくっていく可能性もなきにしもあらずで、そういう政策の方向性とか研究というのは、日本の政治の将来を見通す場合に必要ではないかなというようにも具体的な課題としては思っているわけですが、そういう点についてご示唆いただければと思います。

【佐々木分科会長】

 ありがとうございます。前のデータの収集という課題は、先ほど猪口委員からもお話しありましたけれども、私は、非常にいろんなことについて、我々の世代ではとても想像つかなかったようなことを研究している若い人たちはたくさん出てきていると思います。ですから、ぜひそういう人たちをこの際勇気づけることも含めて、何かが起こったときにこういう人がいるということがわかるということは、社会の大きなデータベースみたいなものでしょうから、これは何かの形で主張することは、どういう形のものにするかはともかくとして、施策としても私はサポートも含めて、そして人材の有効活用の面からも非常に大事なことではないかなと思った次第でございます。改めて今、井上委員からご指摘いただいて、その点はそのように思います。
 それから、政策というものがどのようにしてできるのか、あるいはどのように政策をつくる構造が変わってきているかという問題は、確かに非常に大きな現代的な課題だと思っております。ですから、主権国家にいろんなところで風穴があいてきて、それで金融危機なんぞは、あれはもうあきっ放しみたいなところがあるんですけれども、いろいろなところで政策形成の仕組みも含めて、事実上、権力の移動が起こっているというふうにも見られるわけでございまして、ただ、ほっておいていいのかとか、そういう中で日本のシステムはどういうふうにその問題をうまく取り込むのか、あるいはそれにアダプトしていくのかとかいうような問題というのは、私は今の権力研究にとって非常に大事なスポットになっていると思います。
 ただ、ここは政治学で言うと、国際と国内がこうなっているところで、自己完結的な話ばかりしていても説得性が急速になくなっていることはそのとおりでございまして、ですからその辺を今いろんな理論が出て、これをどう理解したらいいのかということの議論が出ておりますので、私は早晩、特に自己完結的なシステムからやや非完結性を備えたシステムへの移行という問題というのは、理論化は政治学から期待できるんじゃないかなと、このように思っております。
 一番難しいのは、日本の政党をどうするかというのが一番難しい。これはなお非常にいろんな課題が残るかもしれませんけれども。

【伊井主査】

 ありがとうございます。
 西山委員は何かございますでしょうか。

【西山委員】

 いや、全く門外漢なものですけれども、ちょっとお教え願えればありがたいんですが、例えば同じ学問体系だと、文学などというのは多様化するものが価値があると思うんですけれども、政治学というと、やっぱり統治とか、統治者のための学ということですから、もちろんそこには統治する人と統治される者がいるわけですよね。そうしたときに、学問としては、実際に社会全体に役に立つことが望ましいと思われるわけですけれども、その場合、歴史的に少し時間がたったものは議論が非常にしやすくて、現場に立脚した今のような事態の中での議論というのは、非常に生臭くて学問としての議論がかなりしにくいんじゃないかという側面を大きく持つと感じられるのです。
 だけども、実際に今の中で政治としての基盤的なものが、どの政党であれ価値観が共用されるところが微動だにしないという部分は乗っかっていると、中でいろいろあるというのが本来的に望ましい姿だと思うんですけれども、その辺が基盤的なところがめちゃくちゃに揺れ動きますと、価値観そのもの、基盤的なことが揺れ動くと議論が非常にかみ合わなくなってしまいますよね。
 ですから、そういう立場で見たときに、実際に政治学を有効に作用させるのは、ほんとうは今の世の中にばっちりヒットして役に立つのが最高だと思いますけれども、その辺はどう考えたらいいのでしょうか。

【佐々木分科会長】

 難しいご質問です。例えば、おっしゃるとおり、過去のものについてはもういろんな分析も出ていますから、それで大体当事者ももうこの世にいらっしゃらない場合も多いわけで、これはこうやっても別にリアクションもないし、まあ、そうそうという形だということになる。しかし、例えばある意味で現在目の前で起こっているとおぼしき生ものみたいなのをどう扱うかという、実は非常な胆力と知力が必要なのです。政治学は特にですね。ある意味で権力者、ないしはその関連のものを対象としなければいけないということですから。つまりどういうことかというと、新聞というのにもいろんな新聞、赤い字で印刷した新聞からいろいろあるわけで、あの世界にもいろいろな違いがある。そういう中で、政治学をやってきた人間らしい話だなということができるかどうかというのが、多分目の前で何か起こったときはテストされるというふうに我々は思っているのではないかと思います。
 ですから、それなりにこれはこういうことなので、あまりきっちり押さえられていないけれども、この数字をきっちり見ることがむしろ基本線なので、表の派手な話とか何かをいろいろ追いかけ回すだけではないよというようなじわりと来るような話ができれば、これは1つの貢献とまでは言えないかもしれないけれども、1つの作用かなと。
 先ほど、ほかの先生からもご議論あったのですが、政治の場合は、この国は、国民と政治との距離感というのが非常に不安定なのです。不安定というか、安定していないというか、別に敵がい心を持っているとか何かそういうことではないのだけれども、平常心でお互い接することについてなかなかうまくいかない。
 ですから、国立大学を法人化しようなんていうときも、なかなか先生方がウンと言ってくれないとか、何かとんでもないところに行かされるみたいな顔つきをされるといささか困るわけなんだけれども、しかし実際はそんなわけでもないのです。そういう意味で、ほかで通ずる話がこちらでも通ずる話に、平凡なことを言えばその関係というのは整理できると。そうすればもう少し合理的な話をつくっていくことが私はできるのではないかなと。そんな意味で言うと、なお苦戦中ということです。それで、僕は、ある方から、日本の政治学はいつ世界一流になりますかというふうに、ご質問というよりご下問があったことがありまして、非常に答えに窮したということがございます。
 しかし、考えてみますと、確かにいい状況、例えば世界からうらやましがられるような政治体制のもとで営まれる政治学、ハッピーなのかハッピーでないのか、残念ながら、まだ私が生きている限りあんまり味わった記憶がないものだからよくわからない。そこが結構1つ大きな問題ですね。
 しかし、非常にいろいろな意味で問題のある政治体制のもとで育った政治学は意味がないかといえば、うまくいっているところではわからないような問題が、かえって見えてくるということだってある。特に、政治的に考え、物を書き、発表する自由が奪われるかどうかは、非常にクリティカルなんです。ですから、戦前の政治学を見ていますと、ある時期から現実とは関係のない議論ばっかりをやっているわけですよね。あるいは歴史をやる、あるいは思想史をやると。
 これはなぜかというと、現実に関係あることをやったら、途端に実際問題として非常に不愉快なことが起こり得るというような世界が一時期、残念ながらあったということがございまして、ですから、そういう意味でいうと、非常にこの関係というものはいろんな入り組み方をしていると私は思っております。
 ただ、そこで先ほどの話に戻りますけど、例えばジャーナリズムが政治を見る見方、我々はやはりかないません。あんな見方はとてもできないということを、彼らは平気で言いますし書きますね。だけど、我々は同じことをする必要はないだろうなと思っています。
 では、何だというと、新聞ばっかり読んでいても答えが出てこないので、やはり考えなきゃいかん。少し頭脳を活性化させて考えて、何が何なのかということを言わなくてはいけない。仮に言うとした場合ですよね。言わなくてもいいんですけど、言うとしたら。
 そういうような格好で、これはきつい面が場合によってはあるということは覚悟しなければいけないという意味では、非常に話がはっきりしている分、少しこちらもはっきりしてしまうというような関係が、例えば自然現象の分析なんかとは全然違う、ある種のコミュニケーション、ディスコミュニケーション、これが起こるということは言えると思います。
 そういう意味では、先生おっしゃったご指摘の点は、我々の場合もいろんな格好で、独自の格好であらわれるということがあると思います。

【伊井主査】

 ありがとうございます。現実に対応した能力を持った人材育成と研究者養成ということと、一般の市民教育というようなことをお話しなさったと思いますけれども、飯野先生。

【飯野委員】

 よろしいですか。先生がお話し下さったこととの関連で、エリアスタディーズについて、先生のお考えをちょっと伺えたらと思った次第です。
 政治学から見たエリアスタディーズについてです。日本でも幾つかエリアスタディーズの学会がございますけれども、例えば法学の専門の方から見るとエリアスタディーズというのは表層的であるとか、世界のレベルにはなかなか達しないのではないか、法学のレベルでは、例えば世界に伍するようなレベルの研究者が生まれるのだけれども、エリアスタディーズでは生まれないのではないかとかというコメントもあります。先生はどういうふうにごらんになるか、あるいは、政治学から見てのエリアスタディーズというのはどういう発展性を持っているのか、あるいは持っていないのかということを、伺えたらと思いました。

【佐々木分科会長】

 私もあんまり口幅ったいことは言えないんですけども、先ほどの猪口さんのお話ではないのだけれども、やっぱり基本的に個別の研究者の大変なご努力やフィールドワークその他の伝統の積み重ねはあるんですけれども、全体として、なお期待される役割というものはたくさんあるだろうというふうに思って見ているわけです。私たちは、政治学ですから、どうしても政策などのようなことを念頭に置いて、あの地域はどういうことになっているのかとかいうようなことを知りたいという、先生から見れば、やや限られた関心に支配されやすいというところは確かにありまして、その意味で、エリアスタディーというのは、非常にいろんな領域の人が自分の関心を満たしてくれといって来るが、満たすと後はどこかへ行っちゃうというような、非常に当該地域の専門の方にとってはやや心理的に複雑な様相もあるのではないかなというふうに、私は想像しております。
 ですから、その辺のことをどういうふうにもう少し出来ないか、全体としてエリアスタディーズの質を上げるということが前提に、それを、言葉は悪いですけど、利用させていただくなら、それなりの投資をして、そして安心して、ある水準とある成果を出していただけるようなものをきっちりつくっておくということが、僕は結果としては国の政策にしても何にしても非常に大事な一種のインフラだろうと思います。エリアスタディーというのは、みなさんそれぞれ専門をやっているから専門家なのだけれども、ある面から見るとインフラ的な側面が私はあるのではないかと思うんです。
 ですから、そういう意味でベーシックなものとして、きちっと推進をするという意識をもう少し持ったほうがいいんじゃないかと。
 あわせて、時々、寄らせていただいたり、あるいは短い期間ですけれども、何かお助けをいただくというようなことはお願いせざるを得ないかもしれないけれども、しかしそのためにも、そこのところのインフラが非常に脆弱化しているということになれば、結果として1人がある地域のことに関心を持ったらみんなやらなくちゃいかんという話になるので、これはやっぱりシステムとして1つ大きな問題点があるんじゃないかなということを漠然と思っていたものですから、ちょっとそういうことを念頭に置いて書いてみました。
 ですから、エリアスタディーズの専門家がいること自体は、結構だと思うんですけれども、そういう人たちをいかにして、しかも領域的にも多くの人が必ずしもやるとも限らない領域の研究者を、どのようにしてキープしていくかということは、やっぱりある程度公的な施策を含めて考えるということが必要な側面があるのではないだろうかというふうに私自身は考えます。
 例の研究環境基盤部会のほうでも、共同研究の話を今やっておりますので、あちらのほうでもいいかもしれません。よくわかりませんけれども、同じ研究振興局ですから、ああいうものともリンクしながら、もう少し、これは絶対に日本の外交だけではなくて日本の将来にとって必要な知的インフラであるという形で、何か政治学や政治学と横並びで議論するだけではない観点を入れることが、私は大事じゃないかと、こんなふうに思っています。
 以上です。

【伊井主査】

 ありがとうございます。
 岩崎先生、どうぞ。

【岩崎委員】

 ありがとうございました。ちょっと2点お伺いしたいんでございますけど、大学における、例えば政治学、先ほど中西先生からご質問もあったんですが、実はざっと見渡すと、例えば、私、心理学なんですが、心理学は哲学が先にあって、あるいは政治的に強い教育学という講座というか学科がありまして、心理学は後発と見なされているわけです。同じようなことが、物理学に対する化学ですね。これも、歴史的にいえば後発。
 先ほどのお話だと、法学部においては、多分、法律学科が先行していて、政治学科というのは後からできたのではないかと思うのですが、この後発の大学における位置づけというのが、日本の場合、今は昔の講座というのはないんですけれども、特に国立大学の場合は、そうはいってもといって昔の歴史を背負ってますので、非常に、言うならば入学定員にしても何にしても、一般的に言えば制限を受けているというか、隣接のビッグなほうに中心がいつもあって、いつも悲哀を飲んでいるというか、そういうところが。
 政治学の場合は、先生をはじめビッグな個性的な方もたくさんいらっしゃいますけど、そういう大学における人材養成のシステムから見ると、あまりにも歴史を背負い過ぎているのが少し問題ではないかなと、私は被害者の1人といいますか、として少し思っていたものですから、その点について、先生のお考えをお伺いしたいのと、それから5番の施策の方向性の(1)ですけど、ご説明あったかもしれませんが、聞き逃してしまったのですが、総合的にとらえる感性が必要だということはよくわかるんですけど、「論文万能主義は制限が必要」という意味なんですが、論文の数だけではだめだよという意味なのか、あるいは何か別の評価システムがあるのか、その辺について、もしお話しになったのでしたら申しわけありませんけど、復唱していただければと思います。よろしくお願いします。

【伊井主査】

 お願いいたします。

【佐々木分科会長】

 はい。なかなか第1問の質問は答えにくいところがあるんですが。これも世の中が変わりまして、ロースクールができてしまいました。そうしますと、大学の法学部は何をやるのかなというのが逆に問題になってしまったわけです。
 ですから、実は大学の学部段階では、結局政治学的なことをかえって教えざるを得なくなってきている面があるんじゃないでしょうか。何とか法、何とか法は、かなり法科大学院へいってしまったものですから、法学部関係についていうと、この数年の制度環境の変化というのは非常に大きいと。
 ただ、先ほどちらっと申しましたように、ついでに人まで持っていかれて困ったというところも出てきているという意味では、先生言うように、後発は大変だなということになるかもしれませんが、実は教育体系として見ると、法学部というのが、結局アイデンティティーが大きく事実上変わってしまった。つまり、昔はあそこでプロフェッショナルの感性教育をやっていたわけですけど、多分あれは法科大学院ににいっちゃったということの結果、結局政治学とは言いませんけど、政治学に近いような科目を学部の学生は従来以上に勉強をするというような状況が、実際上、いや応なしに、人手が足りないということも含めて、なりつつあるのではないかというふうに仄聞しております。
 ですから、その辺も含めて、また法科大学院は定員を減らすとか、いろいろ言っていますから、どういうことになるかわからんのですけども、大きな変化がありましたので、そこでむしろ問題になってきたのは、大学院をどうするのかというのが、法科大学院を含めて結構大きな問題になってきている。政治系は、別に今までどおりやっていけばいいという話ではありますが、研究者養成では、法科大学院のほうがかえって深刻な問題を抱えているというようなぐあいで、刻々変化していますので、ちょっと今後の推移を見守っていただく必要があるのではないかなと思います。
 私自身の個人的な体験でいいますと、あんまり中に大きな仕切りがあったという感じはしませんね。ですから、東大は政治学科というのはなくて、昔はあったのですが、私のころは3つぐらいのグループに分かれて学生は分属するんですが、好きなところへ好きな数行けるというぐらいの気分でしたから、縦割り的な意味でのしがらみはありませんでしたが、圧倒的に少なかったということだけは認めざるを得ない。それは学生の就職の関心度か何かでしょっちゅう動くわけで、どこを出ても大して違わないところへ行ってしまうわけですよね。ですから、あまり壁はなかったんですよね。
 そういう意味でいうと、比較的内部的にはルーズな編成になっていたというのが認識で、今、どうなっているか正確なことはわかりません。
 それから、論文の数は、大変私も大事なことだと思いますので、それを重視されることは別に何の問題もないと思います。しかし、いろんな知的な活動というものを研究者はするわけですから、若いときに書いたような論文のような形以外は何の評価にも値しないというようなことは、少し違うのかもしれないということについて、少し留保をつけたかったと思っただけでありまして、私ぐらいの年になってきますと、難しくなってくることも多いものですから、そういうことももちろんあるんですけど、そうではないからゼロカウントだというのは、フェアであるかどうかというよりも、厳密性と適切さという本体が根本にあると思うので、厳密だけれども何もおもしろくないという話はこの世にたくさんありまして、厳密であるということと意味があるということとは、少しずれる、あるいは相当ずれるわけであります。
 ですから、社会科学、人文学は特にそうだと思うんですが、意味があるということをみんな関心を持っているわけですから、厳密であるというだけに終わっちゃうと、知的作用の範囲を狭めやしないかということがあります。論文だと、どうしても狭い範囲で厳密なことを言うことに精力を100%つぎ込むわけですから、それはそれでいいんですけども、評価の文化は少し幅があったほうが、私は人文学、社会科学の場合は長期的にはプラスに働くのではないかなと、そんなふうに考えた、その程度のことでございます。

【伊井主査】

 ありがとうございます。
 小林先生、よろしくお願いいたします。

【小林委員】

 今、ほんとうに世の中がどんどん変わったり、変化のスピードがものすごく激しい中で、一体これはどういう方向性でいっているんだろうかとか、こうした流れのほんとうの根底に流れているものは何なのかというようなことは、だれもが知りたがっている。特に政治の世界なんかはそうだと思うんですけれども、そういった意味で、先生が言われる高度な専門人というのの育成は絶対必要じゃないかなと。これで専門家として、ジャーナリストとか政治家とかがありますけれど、今のジャーナリストの新聞を読んでも、あんまりよくわからんというか、テレビを見てもよくわからんというか、そんなようなところが多くあるものですから、ほんとうの根底を流れているところをきちっと高度の専門人として育成していくような、まさにほんとうの大学院だと思うんですが、魅力的なものがあって、逆にジャーナリストが講師になるんじゃなくて入ってくると。ジャーナリストにそういうことを教えてあげるというような部分の政策というか、そうしたものがほんとうに必要じゃないかなと。
 じゃないと、実際、何が起こっているかというのがよくわからない、そのままでいっちゃっているというところがあるものですから、私は大学院をとにかく充実することがあれだということをいつも言っているんですけれども、そうした意味でも、政治というのもジャーナリストがスチューデントとして来るというふうに、教職大学院は先生が入れといいますけれども、政治大学院にはジャーナリストが入れと、そういうようなものができればなと、感想的なことですけども、述べさせていただきました。

【伊井主査】

 ありがとうございます。

【佐々木分科会長】

 1つだけ。やはりジャーナリズムの問題、先ほど辻中さんの言われた話は、ジャーナリズムと政治家をどういうふうに組み合わせるかということが実践的には非常に大きなテーマとして私もあると思います。
 ただ、政治現象の実証研究をやりたい人だけで大学院をつくるのが果たしていいのかという意味でいうと、実際問題として、例えば選挙に通ったばかりの国会議員は2週間ぐらいそういうところへ少し行っていただき、基本的に自分は何者であるかということを少し考えていただくといったこともあるでしょう。実は、我々も国会に呼ばれてよく話しているのですが、議員になってしまうと人の言うことを聞かない人たちばっかりが増えるものだから、それがまた非常にぐあい悪い。だけど、ケネディースクールがやっているんですよね、新しく通った人をインバイトするわけです。インバイトして、それでそういうプログラムを実施しています。こうしたことも含めてある種安定化させるというような形の中で大学院が生きていくということであるとすれば、それは大変結構なことではないかなと。

【伊井主査】

 佐藤先生。

【佐藤科学官】

 私も、先生のレジュメの4の(2)にあるところが1つお伺いしたかったのですが、どう申しましょうか、昔は評論家という人たちは、アカデミズムの中にいてモノを言ってきたことが多いと思うのですが、最近は、インターネットという便利なものができましたので、アカデミズムの外で、場合によってはタレントを使うといったとんでもないような仕組みができてきて、いろんなことがいろんなところで言われているケースを非常に多く目にするわけです。私は農学の分野に近いところにいるんですが、遺伝子組換えの作物なんていうのは、様々な立場の人が勝手なことを言うわけですよね。
 こうなりますと、一体どういうふうにこれを、コントロールはできないんでしょうけれども、これに働きかけるかというようなところは、これからすごく問題になるような気がするんですが、先生のお考えが、もしお聞かせ願えればと思って、1つ質問いたしました。

【伊井主査】

 ありがとうございます。
 いかがでしょうか。

【佐々木分科会長】

 大変深刻な問題を出されたと思います。広い意味でジャーナリズムの問題、結果的には政策とか何かに影響をもたらす、あるいは世論に影響をもたらすという意味で、この辺をどういうふうに言うのかは難しいんですけども、実際問題として、政治についても、状況は、かなりそういうふうになってきている。
 ただ、政治の場合は、市民は互いに平等ということもございますので、あんまり専門知識がどうだという議論ができる範囲は限られている面があるんですけども、政治家の方々自身がもうかなわんと思っているようですね。特に映像関係の世界について、そのようなことが言われています。
 いろいろ問題があると正面から言うのか、あるいは先ほどの辻中さんの提案のような格好で、実は政治大学院には農学からも先生に来ていただくとか、いろんなポリシーの領域から来ていただくとか、これは政策大学院との相談なんだけれども、少し間接的に人材の供給源を幅広げていって、A論があればB論も必ずあるみたいな格好にしないと、非常にわかりやすい話、あるいは気に入る話だけしか出てこないということになると、いろんな意味でゆゆしきことになるのではないかなということについては、農学の関係者からもいろいろなことを聞いております。実際、農学だけではなく、ほかもいろいろ心配な話がそれなりにございますので、何かこういうのを正面からジャーナリズム対策だとか何とか言うと、必ずしも適切なことじゃないんだけど、意見のバランスのとれた人材の供給という、そして高度に専門的な人材の供給という、ジャーナリズムにおける専門人という、こういう問題は私はひとつ、政治学が受けとめるかどうかわかりませんけども、考えていく価値はあるのではないかなと。
 それで、私もつくづく思うんですけど、サイエンスとかのほうも、結局翻訳する人というのがいないんですよね。どんな研究をやられているかは、研究している中身の内容として知っているんだけど、これをどのように世の中に伝えられるものなのか伝えられないものだかわからないけども、研究誌から出てきた先生に説明してくださいと言うと、はっきり申し上げると、難しいことだけはわかるんだけども、何がメッセージとして伝わるかということについての問題は、あらゆるところで日本はあるのではないかなというふうに思うんです。
 最終的に、それが帰するところは政治や政策ということであるとすれば、その辺のこともどう考えるかは、領域を超えて考慮すべきテーマかと思います。

【伊井主査】

 ありがとうございます。
 よろしいでしょうか。これ、議論を進めていくと非常におもしろい議論になっていくんだろうと思います。初めに猪口先生もおっしゃったような、世界的な研究の水準とか展開というようなこともございましょうし、これまでも市民教育というもの、それと現実の政治とどういうかかわりかということも、問題がさまざま出てまいりまして、議論の尽きないところでございますけれども、ほんとうにいろいろとありがとうございました。時間もそろそろ迫ってまいりましたもので、本日の議論をこれで終了させていただこうと思っております。
 本日の議論を踏まえまして修正しましたものを、次の委員会を改めて皆様にお示ししまして、報告書としていきたいと思っております。どうもありがとうございます。
 それでは、本日の会はこのあたりで終わらせていただきたいと思いますが、次回の予定等につきまして、事務局からご説明をお願いいたします。

【高橋人文社会専門官】

 次回の予定でございますが、資料3をごらんいただければと思います。今週末で大変恐縮でございますけれども、12月12日金曜日、15時から17時ということで、文部科学省3F1特別会議室ということで予定させていただいております。
 それからその次が12月19日、それから前回ご案内しておりませんが、その次に1月16日ということで予定をしてございますので、日程詰まっておりまして大変恐縮でございますけれども、よろしくお願いできればと思います。
 それからあと、本日ご用意させていただきました資料につきましては、封筒に入れて机の上に置いておいていただければ、また郵送させていただきます。
 それから、ドッチファイルにつきましては、机の上に残しておいていただければと思います。
 以上でございます。

【伊井主査】

 ありがとうございます。次回は12月12日という年末で、ご多忙のところをまことに申しわけございませんが、12日と19日ということでよろしくお願いいたします。
 どうも、ほんとうにありがとうございました。本日の会議は、これで終了いたします。どうも皆さん、ご苦労さまでございました。

―― 了 ――

お問合せ先

研究振興局 振興企画課