学術研究推進部会 人文学及び社会科学の振興に関する委員会(第13回) 議事録

1.日時

平成20年10月29日(水曜日)14時~16時

2.場所

文部科学省3F1特別会議室

3.出席者

委員

伊井主査、立本主査代理、井上孝美委員、中西委員、家委員、井上明久委員、猪口委員、今田委員、岩崎委員、小林委員、谷岡委員、深川委員
(外部有識者)
根岸 隆 日本学士院会員、東京大学名誉教授
(科学官)
縣科学官、佐藤科学官、高山科学官

文部科学省

倉持研究振興局担当審議官、奈良振興企画課長、門岡学術企画室長、高橋人文社会専門官 他関係官

4.議事録

【伊井主査】

 どうもお忙しいところ、本日はお集まりくださいまして、ありがとうございます。ただいまから、科学技術・学術審議会学術分科会学術研究推進部会に置かれております人文学及び社会科学の振興に関する委員会を開くことにいたします。
 本日は、日本学士院会員でございまして、東京大学名誉教授でいらっしゃいます根岸隆先生をお迎えいたしました。根岸先生におかれましては、ほんとうにお忙しいところをありがとうございます。

【根岸名誉教授】

 とんでもございません。

【伊井主査】

 よろしくお願いいたします。
 では、まず配付資料の確認からお願いいたします。

【高橋人文社会専門官】

 配付資料につきましては、お手元の配付資料一覧のとおり配布させていただいております。欠落等がございましたら、お知らせいただければと思います。なお、配付資料一覧とは別に、審議経過概要のその1とその2を机上に配付させていただいております。それから、基礎資料、ドッチファイルにつきましてはいつものようにご用意させていただいておりますので、適宜ごらんいただければと思います。
 以上でございます。

【伊井主査】

 ありがとうございます。
 それでは、これから議事に入ることにいたします。少し間があいたのでございますけれども、8月22日に人文学の振興方策につきましての審議について、「審議経過の概要(その2)」を作成していたところでございまして、本日は、まず初めに、今後の審議の進め方や、本日の審議の位置づけについて説明をしていきたいと思います。
 この委員会では、かねて何度か申し上げているところでありますけれども、3つの審議事項がございまして、1つ目は「人文学及び社会科学の学問的特性について」ということでありまして、2つ目は「人文学及び社会科学の社会との関係について」ということであります。3つ目としましては、「学問的特性と社会との関係を踏まえた人文学及び社会科学の振興方策」ということでございまして、この3つを審議するということがこの委員会では求められているわけであります。
 今後の予定でありますが、第4期の科学技術・学術審議会の任期が来年の1月末となっておりますので、これらの審議事項につきまして、ことしの12月末までには当委員会の報告書をまとめて答申したいと思っているところであります。まず、ことしの8月の「審議経過の概要(その2)」につきましては、人文学の学問的特性とか、成果の特性、振興方策の方向性につきましてこれまでの審議経過を整理したところでありました。人文学につきましては、今回の討論の中で、おおむね全体像を示すことができたと思っているわけでありますけれども、一方、社会科学につきましては、昨年の8月にまとめました「審議経過の概要(その1)」という、お手元にその1とその2がございますけれども、実証的な分析手法に基づきます社会科学研究の振興方策につきまして取り上げました。しかし、社会科学の研究におけます理論研究だとか、思想や歴史、制度研究という議論が残されております。社会科学研究の振興のあり方につきましては、全体像がまだ十分に議論できていない状況ではないかと思っているわけでありますので、改めて社会科学の研究につきましての議論を進めてまいりたいと思っているところであります。そして、これまでの審議の議論となってまいりました、たびたび出てきたところではありますけれども、「すぐれた研究」、あるいは「国際水準の研究」の考え方、「すぐれた研究者」の考え方や「研究者の養成」ということにつきましての考え方を含めまして、これからもご議論をいただきたいと思っているところであります。最終的には、これらのさまざまな審議を経ました上で、人文学、社会科学の振興のあり方につきまして、委員会としての報告書をまとめていくということでございます。
 今後の委員会をこのように位置づけておりまして、これからの審議につきましては、既に皆様のもとにご案内しておりますように、経済学、本日は経済学でありますが、その次は法学、そして政治学の分野を代表するご高名な先生方、有識者の方においでいただきまして、ヒアリングといいましょうか、ご講義いただきまして、我々の議論を深めていく材料にしていきたいということを思っているところであります。
 そういう経過のもとで、本日は理論経済学、経済学史がご専門の、日本学士院会員で東京大学名誉教授の根岸隆先生にお越しいただいたという次第でございます。「経済学研究の現状と問題点」と題しましてご発表いただくことにしております。根岸先生には、いつものように40分程度ご発表いただき、延びても一向に構いませんけれども、その後、根岸先生のご発表に対しまして、我々がいろいろご意見を交換するということにしてまいりたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
 それでは、根岸先生、よろしくお願い申し上げます。

【根岸名誉教授】

 ご紹介いただきました根岸でございます。私は、何ていうんでしょうか、後期高齢者というんですか、後期老人と呼ばれるようになったばかりでありまして、気のせいか、しばらく心身ともにダウンして、最近は国際学会とか国内の学会等の講演とか、報告とか、すべてご辞退していたんですけれども、また一方で、私の現在の唯一の職業は文部省の付設機関というんでしょうか、下部機関というんでしょうか、の非常勤公務員ということでありまして、それでうちの事務長さんが、本省の委員会から何か頼まれたといって非常に緊張しておられましたので、むげにお断りできなくなって、本日はとうとうのこのこやってまいりました。
 経済学について話をしろということでございますけれども、皆さん経済社会に生きておられますので、それぞれ経済的な問題に直面されるわけであります。昨今ですと、株が下がったということが一番大きな経済上の問題かと思いますが、そのほかもろもろのそういう具体的な経済問題について、いろいろなご議論があり、経済学と称するものがあるわけですが、そういう具体的な経済学については、私はほとんど見識がございません。現に私の友人にしろ、親類の人々にしろ、この株の大下落に対してどうしたらいいのかというアドバイスを私に求めてきた者は1人もおりません。私はそうではなくて、非常に抽象的な経済学と申しますか、大学の科目でいいますと応用経済学のほうではなくて、理論的と申しますか、経済原論とか、そういったような分野で少し仕事をしてきたということでございますので、そういう抽象的な経済学の最近の動向について、そして、また我が国の研究体制の若干の問題点についてお話しさせていただければと存じます。
 そういう経済学の新しい理論の発表の機関というのが、ちょうど前世紀の中ごろを境目にしまして非常に大きく変わってまいりました。それまではいわゆる大経済学者、あるいは大経済学者たらんとする人たちは、『経済学原理』とか、『経済学原論』とか、そういった大きな書物を書きまして、それを世に問うというのが研究成果の発表の基本的なスタイルでありました。『経済学原理』と申しますのは、ジェームズ・スチュアートという人が1767年だったでしょうか、スコットランドの人ですけれども、最初に大きな本を書いて、それを『経済学原理(プリンシプルズ・オブ・ポリティカル・エコノミー)』と、そういう本を出したわけでありますけれども、その後10年ばかりたって、有名なアダム・スミスが『諸国民の富(ウェルス・オブ・ネイションズ)』ですね、『国富論』という、これは原理とは書いてありませんけれども、内容的には全く経済学原理に関する書物でございました。その後、これを批判する形でリカードという人が同じように経済学の原理に関する書物を刊行しました。『プリンシプルズ・オブ・ポリティカル・エコノミー・アンド・タクセ-ション』、課税ですね、『課税及び経済学に関する原理』という本を書きまして、大体イギリスが初めのころは中心だったんですけれども、イギリスの人がイギリスの出版社から出版しましたそういう大きな本、最後は、これは単なる経済学者ではございませんで、むしろ人文社会科学にわたっての巨人ですけれども、ジョン・スチュアート・ミルというような人、この人も『経済学原理』という大きな本を書いております。それから、さらに20世紀に入りましても、いろいろな形でそういう大きな書物が刊行されました。有名なケインズ経済学というものを提唱しました、ケインズ政策というものを提唱しましたケインズなどは一般理論というふうな名前を使っておりますけれども、これも伝統的な経済学原理に関する大きな書物でございます。
 ところがそのケインズの本あたりを中心にして、それ以後は大体新しい学説を発表するというときに、そういう大きな本を書くという形ではなくて、専門の雑誌に専門的な論文を発表するという形で自己の学説を提唱するということにだんだん方向が変わってまいりました。専門の雑誌ということになりますと、これは大経済学者でなくても、あるいは出版社に特別のコネがなくても、だれでも投稿できるということになるわけでありますが、そうすると、載せるべき論文と遠慮していただく論文と取捨選択をしなければいけないということで、レフェリーと申しますか、査読の問題ということが当然浮かんでまいります。それで、経済学の論文の雑誌における、専門誌における査読の問題について、現状はどうであろうかというようなことはいろいろな人がいろいろ不満を述べていたわけですけれども、それでは、きちんと調べてみようという試みがございました。
 それで、お手元にその配付していただいたと思いますが、私の書いた駄文で恐縮なんですけれども、これはもうかなり前の古いものですが、「大先生たちの落第」という一種の戯文がございます。これは随想と書いてございますけれども、私が青山学院に60歳から66歳まで勤務したことがあるんですけれども、そこの青山学院の学報、『青山学報』というものに書いた随筆でございます。青山学院と申しますのは、大変独特な特色のある学院でありまして、幼稚園から大学院まで全部そろっておりまして、それで、ご存じと思いますが青山一丁目にありますキャンパスにその大部分が集中しているわけであります。そんなに広いキャンパスじゃないんですけれども、とにかく幼稚園から大学院まですべての教員と、それからいろいろな人がいるわけですが、つまり、うっかり学生と言っちゃいけないので、詳しく申しますと、院生、学生、生徒、児童、園児という種類の人たちが狭いキャンパスに押し合いへし合いしておるわけでありまして、そういう青山学院の現在のメンバーと、それから卒業生、同窓会、そういうものが1つに大きくまとまっていまして、『青山学報』という、学内誌でもあり、また同窓会誌でもあるような雑誌を出しておりまして、大学の先生たちは時々何か専門について書けと言われる、随想というところに動員されるわけですけれども、私はあまり専門的なことを書いてはつまらないと思いまして、ちょっとこんないたずらのような文章を書いたわけであります。
 落第というのは、青山学院大学の学生にとっては、ほかの大学の場合と違って切実な問題があるんです。と申しますのは、青山のキャンパスのほかに厚木というところにもキャンパスがございまして、最初の2年間は厚木で勉強して、これが大変不便なところなんですけれども、そこで1年、2年の試験にすべて合格しますと、晴れて青山のほうに進学してくることができる。もし厚木の試験を落第しますと、青山に来られなかったり、あるいはかけ持ちで、青山にも来るし、厚木にも行かなければいけないというので、大変学生たちにとってはこの2年目から3年目の進級が切実な問題になるわけで、そういうこともねらって、学生諸君だけじゃなくて先生たちにも落第という問題があるんだよということで、学術雑誌、国際的な学術雑誌ですけれども、それのレフェリーイングの問題を書いてみたわけであります。
 これは、ここに紹介してございますように種本があるわけでございまして、スタンフォード大学の2人の大学院の学生、これは不思議なことに、経済学専攻ではなくて政治学専攻だったんだそうですが、この人たちが国際的に著名な百数十人の経済学者にアンケート調査をいたしまして、それで、現在の経済学の専門雑誌の査読、レフェリーはうまくいっているかどうかということを聞いたわけです。こういうアンケートでどれくらい返ってくるのが普通なのかわかりませんけれども、120人の経済学者の中から65人ばかりが回答を寄せてまいりまして、これをこの2人の大学院生は『ジャーナル・オブ・エコノミック・パースペクティブス』という専門雑誌に論文の形でその結果を公表しました。それからさらにその全部の資料を、ホートンという小さな出版社ですけれども、アメリカの出版社から出版いたしました。本の題名は、邦訳しますと『不採択――大経済学者たちが論文の発表過程について考える――』ということでありました。
 その内容ですけれども、大体有名な大経済学者が何遍も専門雑誌から断られるという苦杯を喫しているわけであります。サミュエルソンというのは現在のアメリカの主流の、ということは国際的にも主流ということになるんですが、経済学の大将格の人ですけれども、非常に多くの論文を書いている。その大部分はいろいろな方面の理論の基礎になるような大きな仕事をしたわけでありまして、経済学のノーベル賞としては第2回目だったかと思いますが、受賞したんです。大経済学者ですけれども、自分の論文、それも非常にできのいい論文であって、後々いろいろな教科書に使われているような、そういう内容のものが何遍も方々の雑誌で断られた、憤慨やる方ないという形で返事を寄せておりました。
 それから、ことしになって急にこの点は強調すべきことになったんですが、サミュエルソンよりはずっと若い人ですけれども、クルーグマンという本年度のノーベル経済学賞の受賞者ですけれども、クルーグマンに至っては、自分が学術雑誌に投稿した論文のうち60%は不採択になったという告白をしているわけであります。クルーグマンについては、ノーベル賞ということで新聞等にも紹介されたわけでありますけれども、かなり現実に即した、国際的な経済問題を取り上げて、大胆な新説を展開した人なので、今やけちをつける人はだれもないわけですけれども、その彼の場合も60%は不採択になったというのが現状であるので、大経済学者たちは、そのほかすべて現在の国際的な専門雑誌の査読はなっていないという結論を述べて、恨みを述べているわけです。
 中で2人だけ、いや、そうではなくて、断られた論文を後で考えたら、やっぱり大した論文ではなくて、公開しないでむしろよかったというふうにレフェリーたちに花を持たせているのは、アジア人が2人だけなんです。日本人とインド人ということなんですが、このインド人というのは、これも数年前にノーベル賞をとったアマルティア・センという人で、これもまた単なる経済学者ではございませんで、いろいろ哲学のほうまで手を伸ばしてる有名な人で、ある意味では非常にアグレッシブな人なので、こんなしおらしいことを言ったというので私はちょっとびっくりしたんですけれども、アジア人といっても彼の場合は大部分イギリスで教育を受けた人なんですが、ちょっとセンについてこれで見直したわけです。
 あと、日本人というのは実は私のことなんですが、どうも日本人としては、こういうアンケートを受けると、やはり一言、いろいろお世話になりましたと言わないといけないように思って、つい書いちゃったんですが、そういうようなことであって、この国際的な一流の雑誌のレフェリー、これは現在、若い経済学者たちも重要な仕事だということを自覚していまして、ほかにもそういう例があるかどうかわかりませんけれども、経済学の分野では、若い学者が履歴書に自分の学位とか論文を書いた後に、どういう雑誌のレフェリーを引き受けた経験がある、具体的にはそれ以上は書けないわけですけれども、雑誌の名前までは出して、こうこうこういう雑誌からレフェリーを頼まれたというふうに一種のオナーとして申告している、主張しているというくらいなものなんですけれども、レフェリーされるほうにしてみると、どうもうまくいっていないというような感じなんです。
 これは、ある意味ではしようがないのでありまして、何ていうんでしょうか、優等生的な現在の通説をしっかりつかまえて、それをほんのちょっとプラスアルファをつけるような、それでも学問全体としては前進に違いないわけですけれども、そういう仕事に関してはレフェリーたちは非常によく理解して、丸をつけてくれるわけなんです。ところが、そういう優等生ではなくて、やんちゃ坊主といいますか、今のは全部だめだよと、こういうふうにしなきゃいかんというふうな論文に対しては非常に警戒心が強くて、大抵、うちの雑誌じゃなくて、どこかほかのほうへお回ししましょうというような形で落第にすることが多いんじゃないかと思うんです。つまり、いわゆるノーマルサイエンスというんでしょうか、現在の支配的な学説のもとで1つ1つれんがが積み重なっていくようなプロセスについては、現在の学術雑誌、国際的な経済学の学術雑誌はうまく機能しているわけですけれども、しかし、大げさに言えば科学革命のような、現在の考え方に対して大きな変換を迫ると、そういう仕事に関しては、普通のレフェリーたちは非常に慎重であって、大したことは言えないという形で、できればお引き取り願いたいというふうなことになるんだろうと思われます。この話は、なるほどと思うわけですけれども、何ともいたし方ないのであって、やはりクルーグマンのような例、要するに、ほんとうに偉い人は何遍か断られるというのが、むしろ名誉の負傷になるような感じではないかと思っております。
 それで、ただもう1つ、このガンスさんとシェファードさんの調査に対して非常に独特な返事を寄せられた人がいるんです。「森嶋通夫教授と投資関数」という私の論文をお見せするのはちょっと恥ずかしいんですが、お手元に配付されているかと思いますけれども、森嶋さんはロンドン大学に最後は名誉教授になるまで勤められて、もともとは京都大学、大阪大学で活躍された経済学者ですけれども、途中で日本の学会に愛想を尽かされて、ロンドンに行かれて、最後はロンドン大学でおしまいになったという方ですけれども、この森嶋さん自身はこのアンケートに対してどういうふうに答えたかと申しますと、この論文の82ページのところに書いてありますが、82ページの上段のおしまいのところです。「私は研究成果を雑誌論文ではなく単行本のかたちで公開するのを常としています。――現在の専門雑誌は細かい技巧を重視しすぎており、重要な発想は無視されがちである。技術的な論文なら、どんな些細なものでも、採用される機会がより大きいことは確かである」というので、自分は学術雑誌を相手にせずと、つまりアダム・スミスのころから延々と続いた大経済学者の『経済学原論』よろしくすべて単行本で勝負をすると、だからこのアンケートの意味も大してないという回答を寄せられておられるわけです。
 ついでに、今、引用しました私の論文のことですけれども、『日本学士院紀要』というものに寄稿した論文なんですが、日本学士院は現在、2種類の紀要を発行しておりまして、理科系のは『プロシーディングス』という英語の雑誌なんですけれども、これは国際的なレフェリー制の雑誌として運営されておりまして、日本の人たちは編集委員のような形の仕組みをやっておられるわけですけれども、主として書かれるのは日本人だけじゃなくて、国際的にもいろいろな人が、要するに国際的な学術雑誌として寄稿してこられると、それをレフェリーをして出しているという形で、日本の学士院の先生たちは編集委員的なことだけをしておられるわけです。
 それに対して、文科系のほうはそういう英文の雑誌ではございませんで、昔ながらに『日本学士院紀要』という、日本の大学の紀要と同じような形のものを出しております。これは学士院の会員しか書かないんです。その辺を日本の大学の紀要という枠にしているわけですけれども、そしてレフェリーをしているかと申しますと、それが極めて、何ていうんでしょうか、あうんの呼吸と申しますか、つまり毎月1回の会合で2人ずつ文科系の会員は論文の報告というのを順番にやることになっておりまして、そこで報告した論文について、もちろん若干の質疑応答はあるわけですけれども、その後、この紀要に寄稿されると。そのときに、あまりいい感じじゃなかったという方はみずから没にしてしまわれるわけですけれども、私のように、せっかくやったんだから、載せなきゃ損、損という形で載せてしまったのがこの私の「森嶋通夫教授と投資関数」ということなんですけれども、森嶋さんを紹介するという意味がありますのでちょっと。ほんとうは皆さんに差し上げるなんて厚かましいことは考えていなくて、回覧させていただく資料と思ったんですけれども、事務局が、いや、全部配りますということで、ちょっと恥ずかしいことになったわけですが、そういうわけで、森嶋さんは現在のレフェリー制度に対して非常に批判的であって、そして、自分は書物で勝負をすると言われているわけです。
 どういう形でしておられるかと申しますと、この論文の83ページのところ、「四」というところの下のところですけれども、森嶋さんはロンドン・スクール・オブ・エコノミクスというロンドン大学のカレッジの先生だったわけですが、ここでマルクスの経済学に関して一連の講義をしておられまして、それをまず書物にされたわけであります。これは現代経済学の手法でマルクスの問題を解明したということで、国際的にも高く評価された名著であると言ってよろしいかと思います。その後、森嶋さんの現代経済学の目で見たマルクスという講義が題目が変わりまして、84ページの上段のところに書いてございますが、森嶋さんの講義題目は「マルクス」から「マルクス・ワルラス・アンド・ケインズ」というふうに講義の題目が変わったわけでございます。そして、したがって、マルクスの次は今度は『ワルラスの経済学』という書物が出たわけであります。
 ワルラスと申しますのは、19世紀の後半といいますか、1870年代ですね、古典派経済学、アダム・スミスからずっと続いて、ジョン・スチュアート・ミルまで続いた古典派経済学の流れに対して、一種の科学革命――サイエンティフィックレボリューションという形で、限界革命という革命が経済学に起こりました。限界革命――マージナルレボリューションというんですけれども、これは革命自身がマージナルということではなくて、マージナルコンセプトと申しますが、限界概念、要するに微分積分ですよね。それを初めて経済学に持ち込むという革命が起こったわけですが、そのときの大立て者がワルラスでありまして、いわば経済学の歴史ではニュートンのような役割を演じた大経済学者なんですけれども、まず、ワルラスについて、森嶋さんはマルクスの次に講義をして、書物を書かれました。
 ところが、本が出る前から、私は森嶋さんのワルラスに関する考え方に若干疑問がありまして、プライベートなコレスポンデンスで議論をしていたんですけれども、何かそのまま出てしまいまして、どうもこれはまずいというので書評を書いたりいたしました。ほかにもその点について若干書評が出て、森嶋先生は考え直されまして、これは修正しなきゃいけないということになったわけであります。ワルラスについての本は、マルクスもそうですけれども、ワルラスについての本は日本語訳が出まして、その日本語訳に付録として、書評にこたえるという形で議論の一部を修正するということをされたわけであります。しかし日本語訳だけ修正されても、もともとは英語の本で、ケンブリッジ大学出版局から出ているわけですからおさまらないわけですね。しかし、ワルラスの本そのものを変えるということも、もはやできないということで、次に今度はリカードという人について本を書くことになったわけです。もともとの計画は、森嶋さんはマルクス、ワルラス、それからケインズだったんですが、急遽、ケインズを引っ込められまして、マルクス、それからワルラス、その2人にとっていわば先輩であったリカードという、アダム・スミスの批判者ですけれども、この人の経済学についての書物を書いて3部作を完結されるというふうに計画を変更されている。このリカードの本で、かなりのスペースを割いて、リカードそっちのけでワルラスについての理論を蒸し返されまして、要するにいろいろな人の書評があったけれども、それに対してこういうふうに理論を変更したいということを書かれたわけであります。そういうことで、読者はかなり面食らうわけなんですが、これはやはり、何と申しますか、現在では単行本で自分の学説を世に問うということはかなり無理があるということの1つの証拠ではないのだろうかと私は思いました。
 それで、そうしますと、また専門雑誌のほうに話が帰るわけでありまして、そうするとまたレフェリーの問題にぶつかるわけですけれども、これは先ほど申しましたように、レフェリーがすばらしい論文を落とすということはどうしようもないことであって、だから、すんなり通った人は自分の仕事は大した仕事じゃなかったと思うべきであるし、それから、一遍落ちて、またほかのところで日の目を見たり、あるいは1浪だけじゃなくて、2浪、3浪もしたというふうなものは、これは自分は大学者である、大論文であると考えていただいていいんじゃないかというふうな結論になるわけであります。
 とにかく、こういうぐあいに昔は大きな本で経済学者は自分の仕事を発表したわけですけれども、それが今や専門雑誌の論文という形になってきたという大きな流れがあるわけであります。実は日本学士院では、ご存じの日本学士院賞というものを出しております。これは、理科系は大体それぞれの分野ですばらしい論文を書かれた方、そういう一連の論文に対して授賞するというスタイルになっております。ところが文科系のほうは、また理科系と違いまして、今までは非常に大きなご本を書かれた方を対象とすると、何百ページというような、日本語でいいんですけれども、大きなご本を書かれた方を対象とすると、そうでなきゃいけないというふうな何となく固定観念があったわけです。そうしますと、経済学の場合にはちょっとおつき合いするのに骨を折るわけでありまして、必ずしもいい仕事がそういう大きな日本語の本にまとまっているとは限らない。実際にどんどん仕事をしているプロダクティブな人は、論文を書いているので忙しくて、本にまとめるなんていうことはしてくださらないわけであります。
 で、授賞するのに非常に困っていたんですけれども、日本学士院の規則を調べてみましたら、日本学士院法第8条というものに、「学術上特にすぐれた論文、著書その他の研究業績に対する授賞」としか書いていないのであって、大きな本でなきゃいけないなんていうことはどこにも書いていないということを見つけまして、それで、ちょっとおかしいんじゃないですかというふうに話を持ち出しまして、最近は理科系と同じように、文科系でもそれまでに書かれた一連の論文でいい仕事をされた方に授賞するというふうに変わってきております。これも専門分野によってかなり違うわけでありまして、人文科学の場合には、むしろ大きな書物というスタイルで大研究を発表されるということが多いだろうと思いますし、それから、これは経済学の場合について私は困るということで主張したんですけれども、それに対して、法律と申しますか、法学の方から意外に援護射撃をしていただいたんですが、それは、法律の分野では大きな本というと大体教科書になるのであって、ちゃんとした仕事はみんな論文になっているんだけれども、本でないからということで法律に関する専門の仕事に対して今まで学士院賞が出ていないといようなことが出てまいりまして、それではもう大きな本というのはやめましょうと、もちろん大きな本でもいいけれども、理科系と同じように論文中心でいきましょうという形にしていただきつつあります。
 そんなような形で、経済学の場合には経済学原理に関する大きな本から専門誌の論文へ新しい研究成果の発表のスタイルが変わりつつあると、これが1つ経済学研究の現状と問題点、現状でもありますし、それから、またレフェリーをする際のいろいろな問題が出てくるというので、まさに問題点であろうかと思います。
 それから、次に我が国の経済学界の問題点というようなことについて多少感想を述べさせていただきたいと思いますが、お手元に日本の経済学会のリストがお配りしてございますでしょうか。およそ60ばかり経済学関係の学会と称するものが存在しております。それぞれ独立して、中には雑誌を出しておられるところもたくさんありますし、全くばらばらに活動しているんです。これはちょっとぐあいが悪いんじゃないかということで、最初は慶応大学、それからその後、早稲田大学にバトンタッチしていただいたんですけれども、その2つの大学の先生方が学会相互の連絡ということを非常に心配してくださいまして、経済学会連合という組織をつくってくださっております。ただし、これは全く、何ていうんでしょうか、学会のクラブのようなものであって、お互いにあまり悪口は言わないで、ほんとうは言いたいわけですけれども、仲よくやっていくクラブのようなものなんです。そこでつくったリストがお手元の六十幾つの学会があるということであります。
 これをアメリカの場合と比べてみますと、アメリカにもいろいろな種類の経済学に関する学会がやっぱり五、六十あるようでございます。ただ、日本との違いは、これが全部、何と申しますか、ユナイテッドという感じで、ユナイテッドアソシエーションという形で、真冬のクリスマスの休暇のころに一緒に同じ場所で学会を開催するわけです。したがって、すべての学会の会員が相互に情報が与えられていまして、いろいろな学会へ出入りすると、その中心はアメリカン・エコノミック・アソシエーションという学会でして、これは数万人の会員を擁する、アメリカの主要な学者はほとんどその会員であるというわけですけれども、そのほか、また個々の学会にもみんな入っていて、その間の連携が非常に緊密なんです。それに対して日本の場合は、先ほど申しましたように、学会連合というものがあるわけですけれども、これは単に連絡をとる、親睦的なものであって、一緒に学会をやるとかという交流はほとんどないというのが日本とアメリカの、ちょっと見ると、たくさん学会があるという点では似ているわけですけれども、非常に大きな違いであります。
 そこで、日本経済学会というものがあるわけなんですが、これはアメリカン・エコノミック・アソシエーション、アメリカの学会の中心になる大学会の日本版たらんとして頑張っているわけですけれども、会員はまだ3,000程度で、ほかの学会とそんなに変わらないちょぼちょぼした存在なんです。例えば雑誌なども、日本経済学会というのは『ザ・ジャパニーズ・エコノミック・レビュー』というものを出して、『ジ・アメリカン・エコノミック・レビュー』、アメリカン・エコノミック・アソシエーションの機関誌に対抗するという気概を示しているわけなんですけれども、やはり日本経済学会の人しか投稿しない。国際的な雑誌ということで、外国人の編集者も入れておりますし、出版もイギリスの出版社に依頼しているわけなんですけれども、主として寄稿するのは日本人の、しかも日本経済学会の人だけであって、ほかの学会の日本の経済学者は、必ずしもまだそれをサポートしてくださるということにはなっていないんです。
 また、それではヨーロッパの場合はどうかと申しますと、これはしばらく前までは、それぞれの国で、イギリスはイギリス、フランスはフランス、ドイツはドイツというぐあいに全くばらばらでありまして、それぞれ多少国際的に著名な雑誌を出して、国際的な雑誌を出していたわけなんですが、最近はヨーロピアン・アソシエーション・オブ・エコノミクスというものに統一されまして、学会も一緒にやると申しますか、全経済学者が、各国の経済学者がEUの1つの体制として1カ所で学会を持つというようなことをしておりますし、雑誌も『ヨーロピアン・エコノミック・レビュー』という1つの雑誌、統一的な雑誌を出しております。もちろんそれぞれの国の伝統的な雑誌も相変わらず続いておりますけれども、しかし主要な研究雑誌というのはヨーロピアン・ジャーナルでしたか、レビューでしたかに統一されつつあるんです。
 アメリカとヨーロッパに対して、日本の場合だけが、アジア全体どころか日本の中でもまだまだまとまって行動するということができかねる状態ということなので、学会が多いということは確かに学問的な活動が盛んなように見えますし、学会出張費を大学からいただいて、ちょっと行って楽しんでくるという機会もたくさんあったほうがいいわけで、いろいろな学会がばらばらにあるほうがある意味では楽しいんですけれども、しかし研究の連絡・統一という形では、アメリカ及びヨーロッパに対して1つおくれているわけであるというのが我が国経済学界の1つの問題点であろうかと思います。
 それから、次に研究費と書いてございますけれども、これは私なんかが現役のころは、ご多分に漏れず人文科学あるいは社会科学の研究費というのは非常に貧しくて、ちょっとした外国の会合に行くというときに、国際学会ではよく旅費は半額出すと、招待される場合でも半額で勘弁してくれと、半額は自分で持ってくれという場合が多いわけですけれども、半額はと言われても、一昔前の日本の場合はかなりの額になるので随分困ったことがあるんですが、最近はどうやら、経済学の場合ですけれども、研究費は非常に豊かになってきたようでありまして、以前は外国の偉い学者に来てもらってというようなときも、日本の学会にはお金がないので、新聞社その他に渡りをつけて講演をしてもらうとか、一般講演をしてもらうという形で名の通った大学者には来てもらうということができたんですけれども、二流クラスの人にはそれは効かないので大変不便だったんですが、最近はほとんど聞いたことのないような二流の人にも十分旅費を出して招待するということができるほど、私なんかから見ると、今の現役の人たちはうらやましいくらい学会研究費が豊かになっているようです。しかし別にぜいたくということではなくて、アメリカならアメリカの中で、あるいはヨーロッパならヨーロッパ諸国の間でそういう二流同士の交流というのはセミナーと称して非常にあるわけでありまして、いろいろなよその人が来て、報告をして、議論をするという機会が欧米の大学では多かったわけで、やっと日本もその点、追いついてきたのかなという感じがいたします。
 ただ、研究費の配分ということになりますと、最近の状態は私は知らないんですけれども、一昔前はいささか問題があったようでありまして、その点、最近はどうなっているのか教えていただければと思うんですが、昔は文部省の研究費なんていう場合でも、第1段、第2段という審査があって、各学会から頼まれて審査員にかり出されるわけですけれども、それで研究計画なるものを拝見しますと、大体、推薦者が学長さんなんです。そうしますと、ご専門についてはあまりご存じない、偉い方なんですけれども、ご自分の専門でなければその大学のトップというだけであってご存じない場合がありますので、とにかくこのメンバーは大変すぐれた人でという美辞麗句が並んでいるわけですけれども、専門的にはちょっとごあいさつ程度の推薦状なんです。
 実は同じころ、アメリカの研究費のレフェリーというものを、1遍だけですけれども、引き受けさせてもらったことがあるんです。これはアメリカの学者でないとアプライできない研究費なので、したがって審査をする人もアメリカ人が審査する場合が多いんですけれども、特殊なテーマであったので、おまえはアプライできないのに審査だけ押しつけるのは悪いけれども、何とか手伝ってくれないかということで一遍だけ頼まれたことがあるんです。それで、経験だと思って引き受けてみましたら、小包のようなものが届いて、膨大な資料なんです。それを読みますと、研究計画なるものがほんとうに微に入り細をうがって書いてあったんです。研究費の内訳なんかも、例えばどういうタイプのセクレタリーを雇うので、この人にはこれだけ払うのが水準だとか、そういうことまで詳しく書いてありますし、それから研究の内容について、実はこれは私もどきっとしたんですが、何ていうんでしょう、もし私が悪いことをすれば、その内容をそっくりいただいて、国際的にはともかく、日本で発表しちゃえば得点になるかなというふうなすばらしいアイデアがふんだんに書いてあるんです。それを、こういうすばらしいことを研究するんだから、したがってこれこれしかじかの費用がどうしても要ると、それについて研究費を援助してほしいというふうな、ほんとうにものすごい機密資料でありまして、なるほど、連中は研究費も潤沢だけれども、それを獲得するためにはこれだけの苦労をするのかと、ほんとうに自分でなきゃこの研究はできないし、この研究はこういうふうにすばらしいんだということが説得的に書いてあって驚いた記憶があるんですけれども、日本の場合には、幸か不幸かそういうことは書かなくていいようでありまして、会議費その他とかといって適当に挙げておけば、何かスタンダードがあるようでして、通ってしまうというのが、これは一昔前のことですから、現代がそうであるということでは必ずしもないので、もし間違っていたら、昔はそういう時代があったのかという話にしていただきたいと思いますけれども、膨大な研究費ということは結構なんですけれども、それを獲得するためにはアメリカの学者はものすごく苦労をしているという感じをひところ持ったことがございました。
 とにかく、そういう形で我が国の経済学界は運営されているわけですが、それじゃ、国際的な研究水準はどんなものだろうかということです。それで、研究水準ということになりますと、大体日本のジャーナリズムはノーベル賞というものをにしきの御旗にしておりまして、物理学からは3人も日本人のノーベル賞が出たと。3人もとおっしゃいますけれども、実は3人合わせて一人前なんですよね。ですから、3枚旗が上がったというわけではなくて、1本の旗を3人で協力して立てられたというわけで、年によっては1人で1本の方もあるわけで、そういうことなんですけれども、とにかくノーベル賞は研究水準をあらわす1つのメルクマールになっているようなんですが、多くの人文系、それから社会科学系の学会にはノーベル賞は関係ないわけですが、経済学にはノーベル賞というものがありまして、それで、途中で始まったものですから、まだ物理、化学、それから生理学・医学ですか、なんかに比べて歴史は浅いわけですけれども、既に数十年の歴史があるわけで、日本人はまだ1人も出ていないということで、経済学者はだめであるというふうな評価がジャーナリズムでは横行しているのではないかと思いますが、いろいろノーベル賞に関しては珍談があるわけでありまして、ノーベル経済学賞というものはにせものだというふうなことをテレビの、何ていうんでしょうか、時事問題についていろいろ偉い先生方が座談会をするときに出てこられる経済学者の1人がこの間、述べておられました。つまり、あれはスウェーデンの銀行がつくった賞で、ノーベル賞じゃないんだと、こういうふうなご託宣なんです。それは確かにそうなんです。ただ、スウェーデンの学士院は、ほかのノーベル賞と同じように経済学のノーベル賞についても審査をしているのでありまして、お金の出どころが、ノーベルさんがダイナマイトでうんともうけて、それを運用していたのか、あるいは途中で別の資金が入ったのかどうかわかりませんけれども、それとは違ってスウェーデンの銀行が20世紀になってからでっち上げた賞金なんですけれども、しかし、賞の審査はほかの場合と同じようにスウェーデンの学士院で審査しておられるんです。この審査は毎年ノーベル賞に出す賞金と同じくらいの額を情報を集めるために使っておられるということであって、それで日本の場合にも、経済学の専門の大学の先生のところには大抵推薦を依頼する文書が来ているはずであります。ただ、2回ばかり返事を出さないでほうっておきますと、もうそれっきり来ないという、非常にはっきりしているわけであって、そう書いてあります。2回その返事がない場合には、もう推薦を依頼しないとはっきり書いてあるんですが、推薦を細々とでも続ける限り、ずっと推薦の依頼は日本にも来ているわけです。
 そこで、話があっちに行ったりこっちに行ったりしますけれども、そういう賞なんですが、物理の場合でも今度のように何か何十年前の仕事であって、忘れたころ、やっと回ってきたというようなお話もありましたけれども、経済学のノーベル賞も、始まりが遅いわけですから、順番に大経済学者が次々と受賞するという時期があって、なかなか小経済学者にまでは回ってこないという状況だったんですけれども、それでも大体一わたり渡って、そろそろということなんですが、なかなか日本に回ってくるということにはなりません。
 ノーベル賞の推薦というので、私は先ほどちょっと悪口を言った森嶋先生ですけれども、森嶋先生をずっと最初から推薦させていただいていたんです。とうとう受賞されないで亡くなってしまったんですけれども、そのほかに、何人でも推薦できるので、1人のフランス人の学者をずっと推薦していたんですが、フランスは、さっきのワルラスもそうですけれども、現代経済学の始まりの時点で大きな貢献をしたわけですけれども、その後、あまりノーベル賞がもらえるような仕事が出てこなかったわけですけれども、1人、ある方がノーベル賞に値すると思っておりまして、私はせっせと推薦してまいりました。もちろん、その人が受賞したのは私が推薦したからではなくて、アメリカのフリードマンという、これはサミュエルソンと同じように偉い人ですけれども、その人がこのフランス人、モーリス・アレという人ですけれども、これは私はちょっと悪口を言っているんですが、経済学の仕事を評価したというよりは、むしろ同じ思想の人であるということで大変フリードマンがアレさんを評価したんじゃないかと思うんですが、それはモンペルランというソサエティーがあるんです。国際的な、私は、極端なと言ったらモンペルランの会員の人がいてしかられたんですが、国際的な非常に強力な自由主義者の連合があるそうでありまして、フリードマンさんもアレさんもそのメンバーであるということも効いたんだと思いますけれども、何年ぶりかに、森嶋さんのはだめだったんですが、アレさんが受賞されるということで、やれやれという気がしました。その後は、アレさんは片づいてしまいましたし、森嶋さんも亡くなられましたので、また別の人を細々と推薦しております。
 当然、日本人も推薦しているんですけれども、なかなか結果が出てこないで、毎年10月13日が経済学賞なのですけれども、ちょっと緊張して、それからがっかりするということを繰り返しているのですけれども、緊張するというのは、日本の新聞社から、殊に森嶋さんの全盛時代には、今度は森嶋さんが受賞するだろうということで、受賞したら説明をしてもらうから、おまえ、待機しておれという電話が10月になると必ずかかってくるわけです。それで、NHKをはじめ、朝日、読売、毎日、それから共同通信とか、一通り連絡があります。ちょうど発表される時間が8時過ぎなわけでありまして、もしほんとうに当たったら、これは説明しなきゃいけないというので、若いころは大変まじめにノートなどをつくりまして読み上げられるように準備していたものです。最盛期には、そのころ「NC9」というNHKの番組があったんですけれども、「NC9」なんかは森嶋先生が受賞したら、車を回して迎えに行くから、それで「NC9」で説明をしろとか、そういう手はずまで整っておりました。で、時間が時間なので、これはうっかり晩酌もできないわけです。それで10月13日だったんですが、まだ依然としてだめですね。
 それで、日本のジャーナリズムというのは、ある意味で非常に不勉強でして、毎年繰り返しがあって、それでこういう先生が可能性があるんだけれども、どういう人かという説明を事前にしておくわけですけれども、そのときの担当の記者が次の年は違うらしくて、また最初からやり直しをさせられて、何遍もさせられるんです。中には人名辞典を見れば書いてあるようなこともあるので、新聞社の書庫にあるでしょうと言ったら、新聞社に書物なんかありませんよと豪語された社もあったんですけれども、とにかく、そういうことでノーベル賞では妙な苦労をしているんですが、いまだに日本人の受賞者が出ないと。
 どれくらい日本の研究水準があるのか、多少客観的なことを考えてみますと、例えばいろいろな人名辞典、国際的な人名辞典というものがあって、それで見ますと、二、三%は日本人の名前が出てくるんです。経済学のノーベル賞が始まってからもうかなりたっておりまして、そろそろ二、三%でも回ってきてよさそうなんですけれども、しかし二、三%は二、三%ですけれども、やっぱり考えてみると、まだ主要な仕事ではなくて、わりとマイナーな仕事でやっと人名辞典に名前が出るというようなものを入れて二、三%で、まだいまいちなのかなという感じがするわけであります。
 例えば名祖というんでしょうか、エポニム、エポニマスとかエポニムという言葉がございますけれども、名前の名に祖先の祖ですが、名祖という、だれだれの法則という経済学の法則に名前がつく、フリードマンならフリードマンの法則とか、サミュエルソンの法則とかというものがあるわけですけれども、それがあまり日本人の場合にはまだないんです。『エポニマス・ディクショナリー・オブ・エコノミクス』という変な辞書があるんですけれども、それを見てみますと、たまに日本人の名前が出てくると、これは経済学者じゃなくて、何と経済学に応用される数学の定理をつくられた日本人の数学者の名前が出てくると、これはわりと出てくるんですが、しかし経済学者の定理というものがまだあまりないので、いまいちなのかなと。これが、ある意味では我が国経済学界の問題点の1つということが言えるかと思います。
 くだらない雑談に脱線することが多くて、話があちこちに飛びましてお聞き苦しかったかと思いますけれども、一通りこんなところでよろしいでございましょうか。

【伊井主査】

 どうもありがとうございます。実を申しますと、私は経済学ということできょうは緊張しておりましたけれども、非常に興味深い、我々の今まで話してきましたこととも共通のテーマをふんだんに示唆深くお話しくださいまして、ありがとうございます。
 ほんとうにわかりやすいお話で、もうまとめることもないと思いますけれども、1つは研究発表の方法と申しましょうか、単行本から論文へと、そしてまた、森嶋先生などは単行本というようなことのご主張であったようです。しかし論文になりますと、レフェリーという、査読というものをどうするのかという問題が出てきます。落とされる論文、採択されない論文のほうがむしろいいものかもしれないという、これは現在の丸かバツかという判別が蔓延しているようですけれども、実は別の道もあるんだという、何となくじゃんけんのような感じがしてまいります。2つ目としては、日本経済学会のあり方といいましょうか、そのあたりをお話しくださいました。関連諸学会は、実は連合という組織体を作っているようですけれども、アメリカ、ヨーロッパとはまたかなり違う組織体であるということでした。3つ目は研究費の話をいただきました。予算を獲得するための方法がヨーロッパ、アメリカとは異なるということでした。そして、4つ目は研究水準、国際的な水準ということの1つの例として、ノーベル賞とのかかわりということをお話しくださいましたけれども、これ以外でも結構ですので、いろいろなご質問、ご討議をいただければと思っております。できるだけ皆様にご質問いただく時間をつくりたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。どうぞ、どなたからでも結構です。猪口先生、どうぞ。

【猪口委員】

 ありがとうございました。私は政治学の者ですが、本と論文のことは非常に興味を覚えました。政治学の人は、武士と同じで長い刀と短い刀、両方やらないとだめだという人が多いんです。論文だけでもだめだ、本だけでもだめだということがあって、それがどういうコンシクエンスになるのかということはよくわかりませんけれども。それから学会についても、もっともっと細かく、経済学会よりもっともっと細かく、同好会のような、同窓会のような、限りなく細かくというのが政治学みたいで、日本政治学会とか、日本国際政治学会、大きなものはあるんですが、やっぱりそれにアンブレラをかけるみたいな感じが多い感じがします。それがどうしてそうなるのかちょっとわからないし、雑誌でも、学会の機関誌は、日本政治学会なんかで言うとちょっと違った話で、やっぱり日本語だけですし、学会員じゃないと書くことができないみたいになっています。もう1つの大きな学会は、国際政治学会というのは日本語の雑誌と英語の雑誌と別々に出しているんですが、英語の雑誌は学会員が書くんじゃなくて外国人がよく書いている8割位という、いろいろな感じで、どういうふうに考えていいかわからなくて、それが学問の発展にどうつながっているかわかりにくいところがあって、経済学はみんな英語でやっているのかと思ったら、そうでもないことがわかりました。
 それから、こんなにいっぱい学会があってどうするんだろうかなと思いました。結局、政治学なんかは実業というか、実務の世界でカウンターパートみたいな実業がないものですから、官庁とか政党なんかをカウンターパートにしても、何も得もないし、あっちも何も得だと思っていないから、ただただ孤高というか、湖底に埋もれて長い刀と短い刀を持ってちゃんちゃんやっているみたいな感じがして、やっぱり社会科学とまとめても全然違うなという感じがしまして、ただただ驚きました。
 ほんとうにそんなこと、日本学士院がどんなふうにやっておられるのか、非常に興味というか、政治学はほんとうに長い刀と短い刀両方やらないとだめというのも結構大変で、経済学はうらやましいですね。短い刀で自分のわざを決めるみたいなところ、それは物理とか生物学もそうなのかもしれませんが、長い刀でも舞を舞えみたいなところがあって、面倒くさいなと、そういう意味では人文系に近いのかななんて思いました。

【伊井主査】

 何か一言ありましたら。

【根岸名誉教授】

 そうですね、二刀流というのはほんとうにうらやましいと申しますか、本来、それでいくべきなんだろうと私は思うんですけれども、やはりあの人が本を書いてくれたらいいなというような人はなかなか本を書く暇がなくて、うまくいかないみたいですね。
 それから、何ていうんでしょうか、もう1つは何でしたっけ、二刀流のほかに……。

【猪口委員】

 学会って何なのかわからないんです。

【根岸名誉教授】

 私、今、先生のお話で大変結構だなと思ったのは、日本の政治学の雑誌に外国人がたくさん書くということをおっしゃった。

【猪口委員】

 英語の機関誌も出しているんですが、それは学会員が1,2割しか書かなくて、外国人の人が7,8割書いている。

【根岸名誉教授】

 それは非常にすばらしいことなんだろうと思うんですが、経済学の場合はまだ力が足りないせいか、国際的な学会誌としては三流らしくて、なかなかちゃんとした外国からの寄稿があまり多くないというので、日本人ばかりの下手な英語が並ぶということになりかねない状態なので、その点、政治学は外国からの寄稿が多いというのはちょっと感心して伺っていたんですけれども。

【伊井主査】

 ありがとうございます。
 家先生、何かご質問はございますでしょうか。

【家委員】

 私は物理の者ですが、随分違うなということをひたすら思っていた次第で、査読の問題というのは、どこでも、査読されるほうはあまり気持ちのいいものではないので、不満がたまるのもそうだと思うんですけれども、結局、採択率というんですか、どのぐらいのものでございましょうか。

【根岸名誉教授】

 採択の率?

【家委員】

 ええ、論文として投稿されたもので、結局、最終的に、修正は入るにしろ、最終的に論文として掲載されるというものは。

【根岸名誉教授】

 それは、採択と申しますか、最初に断られるか、あるいは話が続いてモディファイされて載るかということなんですけれども、最初に断られる率というのが非常に高いのは国際誌です。一流の国際誌ですと、もう大半は落ちるという、言ってみれば、それだけそれに値しないものがどんどん投稿されてくるということでもあるんだろうと思うんですけれども、非常に採択率は低いという。で、低くてもいいものは全部受かっていればいいんですけれども、時々、大論文が落ちるということがあるんですね。

【家委員】

 私どもの理工系の場合ですと、最初から一発で通るということはあまりなくて、レフェリーが非常に建設的なコメントを出してくれると、それによってその論文がよりリファインされたものになるというメリットはあるんですけれども、リジェクトされると、腹を立てて、もうこんなところには出してやるものかというような心理になると、お互いにあまりよくないと思うんですけれども、その辺はいかがなんでしょうか。

【根岸名誉教授】

 レフェリーによっては非常に建設的なコメントをくれる場合も多うございまして、それで助かったということはあるんですけれども。

【家委員】

 ただ、理系の場合ですと、レフェリーがリジェクトする理由としては、例えば論理が一貫していないとか、こういう矛盾したことを言っているとかということで、事実関係とか、言っていることと自分と意見が合わないから落とすというのは、そういうのはレフェリーにとっては反則なわけですね。それは最終的に読者が決めれば、判断すればいい話なので、ただ、何か人文社会系の場合には、どうも意見が合わないということになると、それを客観的に判断するのが難しいのかなという気が若干しておるんです。

【根岸名誉教授】

 そうですね、思想的に色がついている雑誌というものがやっぱりあるわけでして、そうしますと、こういう種類の仕事は、うちではなくて、例えばああいう雑誌へ投稿したらよかろうというふうにエディターが何か言ってくるという、こっちが勘違いしている場合に、うちではなくてあそこにしろというふうに何も細かいコメントはなしで言ってくる場合はよくございます。

【家委員】

 そうすると、学派ごとにができてしまうという。

【根岸名誉教授】

 ええ、そういうことになりますね。

【伊井主査】

 どうぞ、中西先生。

【中西委員】

 2つ質問があるんですが、1つは本か論文かとおっしゃったんですけれども、レビュー、総説ということもありますね。もちろん科学系ではレビューというのも査読が入るんですけれども、論文よりは甘いんです。全体の研究の流れを書いてきて、自分の考えも後で入れられるということで、割合自分のことを盛り込める、どちらかというと論文よりは易しい方法があります。そのレビューだけを載せる本が、雑誌もあるんですけれども、そういうものはあるのかということと、それからもう1つは査読の問題で、先生は保守的なところというようなことも少し書かれているんですけれども、私も基本的にはレビューは保守的でいいと思うんです。ただ、プラスアルファで新しいものを入れるのはもちろんですけれども、ものすごくけた外れに違うものをみんなが喜んで載せるようになると、例えばいい雑誌はものすごく違うものの論文の取り合いでしょうし、それから若い人に対してあまりいい影響はないと思うんです。というのは、例えば科学でいいますと『ネイチャー』とか『サイエンス』に今までと全く違うようなものを載せる、とんでもないものがたくさん載ったほうが、例えば、極端ですけれども、3つぐらい載れば教授になれるということになると、若い人が無理をすると思うんです。何でもかんでもいいからけた外れなことを言おうというような、そういう雰囲気も、今、非常に競争的なところもありまして、ナチュラルサイエンスだけかもしれないんですけれども、そんな弊害もあるような気がするんです。ですから、基本的には保守的でいいけれども、プラスアルファで新しい考えをどう入れていくかというのはレビューする人の難しさじゃないかと個人的には思うんですが、先生はいかがでしょうか。

【根岸名誉教授】

 レビューということですけれども、私どもではレビューアーティクルというものはエディターなり、あるいは編集委員会がプランを立てまして、かなりエスタブリッシュされた人にこういう問題についてレビューを、サーベイという言い方もしますけれども、依頼するということが多くて、レビューを投稿するという話はあまり聞かないようなんですけれども、どうしてでしょうかね。何かそういうのは編集者がリードする仕事であると考えているところが多いかと思います。
 それから、雑誌によってやっぱり多少傾向が違いますので、それは非常にいいことで、こちらの雑誌では向かないけれども、あちらの雑誌でという形で、例えば3回落ちて4回目に載ったなんていうのは、ノーベル賞をもらった人が威張ってそう言っているわけですけれども、出すところを間違えたというようなこともあるかと思うんです。私どもの世界では、ゲームの理論というものが最近非常にはやりまして、ある雑誌、『エコノメトリカ』という数学を使った経済学の専門雑誌が、これは長い歴史がある雑誌なんですけれども、そこの編集者がゲームの理論に取りつかれて、ゲーム論仕立てでないと採択しないという、半ば冗談かもしれませんけれども、そういう傾向がありました。そのときに、新しく『ジャーナル・オブ・マスマティカル・エコノミクス』というものが発刊されまして、あっちでゲームでないから断られたというものは、それじゃ、全部こっちへおいでというふうな形で何かおさまったようなエピソードもございます。そんなことでしょうか。

【伊井主査】

 ありがとうございます。では、今田先生、どうぞ。

【今田委員】

 単行本か雑誌論文かということにとても関心があって、別の角度からお聞きしたいんですけれども、経済学はノーベル賞があるんですよね。

【根岸名誉教授】

 はい。

【今田委員】

 それ以外の人文社会科学はありませんよね。なぜ経済学はノーベル賞級の仕事であるかないかということを客観的にクールに判断できるかということは1つあると思うんですけれども、理系というのは結構クリアに、これは正しい、すごいレベルということはあるんですが、経済学が数理経済学になったからそうなったのかもしれませんけれども、その辺で基本的に経済学とそれ以外の人文社会科学の違いがあると思うんです。その辺との関連で、先生がおっしゃった、昔、アダム・スミス、リカード、J・S・ミルとか、あの辺のレベルのときには、科学革命の区分のあれでいう革命のときだって、そのときはやっぱり1人で本を書いて、これでどうだというぐらいのものが中心だったのが、1950年ぐらい以降になると、もうそういうものはなくなって、雑誌、レビュー論文、レビューというか、査読論文みたいなものが中心になっていると、これはもう戻らないのかどうか、またすごい経済学革命が起きるときに、1人で書くようなことが起きるのか起きないのかというちょっと関心がありまして、その辺はどうお考えになるのかをお聞きしたいと。私自身、社会学なものですから、社会学の、特に日本の現状を見ると、雑誌論文に、大分、社会学も査読つきというものが普及しまして、査読つきでないものはあまり評価がされなくなったので、それはいいんですが、例えば一番メジャーな『社会学評論』というものがあるんですが、若い人の登竜門になっちゃう。若い人が書いて、査読して、通って、こういう若い人がいるんだと、デビューしたんだというような感じで査読論文に投稿するというふうになって、で、本は査読がないんですよね。原則、出版社の編集者が大体のレピュテーションを聞いていて、この人はなかなかよさそうな人だという、その勘で書いてみませんかと、こっちはだから評価というよりも、何となくあいまいなもやっとした評判みたいなものでいっているんですが、それは別に社会学だけじゃなくてあると思うんですけれども、そういう状態になると、こっちの本のほうは、極端に言うと査読なし、論文は査読があるんだけれども、若い人は自分の名前を売って登竜門にしたいと、これはやっぱりあまりいい状況ではないんじゃないかと思うんですけれども、その辺、先生の経済学の観点からごらんになって、どういうふうに思われるかをお聞きしたいなと思うんですが。

【根岸名誉教授】

 非常に大事なことをおっしゃっていただいたわけですけれども、どうして経済学にノーベル賞があるのかというのは、これはやっぱりお金を寄附した銀行があったということなんだろうと思うんです。それがなきゃ話が始まらないわけですから、それで、どうなんでしょうね、銀行ですから、当然、賞の対象は経済学ということになったんだろうと思いますけれども。それと、おっしゃるとおり、多少は数理化されていまして、理科系と同じようなジャーナルによるプロセスが、正規のプロセスが確立しているというような感じで、準備過程というようなイメージが多少あったのかもしれないと思います。
 それから、本の場合ですけれども、本のレフェリーというのもあるわけでして、例えばアメリカとかイギリスのユニバーシティプレス、その場合には非常にレフェリーが厳しくて、それに対して有名な出版社でも、商業出版社というと語弊がありますけれども、大学と直接結びついていないようなところは比較的レフェリーが楽であると、事実、短い論文なら、頼まれたほうもちゃんと読んで幾らでも考えられますけれども、どかっと大きな本の原稿を送ってこられますと、ほんとうに結構でございますというぐらいしか、こちらも時間がないわけですので、返事のしようがないというようになって、本のレフェリーはよほど出版社がしっかりしていないと難しい。殊に森嶋先生のように大先生の本は、レフェリーがたとえあったとしても、なかなかノーという答えは出しにくいんじゃないかというので、本の場合にはどうしても甘くなるというようなことだろうと思いますけれども。
 それで、若い人はどうするかというんですけれども、経済学で、冗談ですが、Ph.D論文を書きますと、アメリカの大学の話ですが、大体それを3つぐらい内容を分けていろいろなジャーナルに送りなさいというふうに指導教官はサジェストするんだそうです。あの人はPh.D論文で3つ稼いだとか、いや、2つしか稼げなかったとかというジョークがあるくらいなので、まずPh.D論文を書いて、それでその主要な部分をジャーナルに発表するという形が多いようでございます。
 日本の場合も、そこまでは行かないんですけれども、逆に、私が東大にいたころは、博士論文は少なくとも2つぐらいジャーナルにアクセプトされている程度の論文を含んでいなきゃだめだというのが、かなり元気のいい分野の若い先生たちの基準になっていまして、「1つじゃだめかね」とか、「いや、2つなきゃだめです」とかというふうな議論をしたことがありますけれども、かなりジャーナルを意識した学位論文の審査というふうになっていた記憶がございます。もう十何年も前の話で、その後どうなっているか、私も第一線ではないので存じませんけれども、そんなようなことでしょうか。

【伊井主査】

 ありがとうございます。今、すぐれた研究者とは何かとか、世界的な水準の研究とか、研究者養成ということが話題になっているんですが、深川先生、どうぞ。

【深川委員】

 ありがとうございました。一応、私は日本経済学会連合の理事をお引き受けしている、のんびりクラブとかと言われて、情けないことなんですけれども、お話のあったことにも非常に深く関連してくることかと思うんですけれども、昨今、どこの学校でもとにかく教育重視でやれということで、学位をいっぱい出せということで号令がかかっていまして、COEの基準もそうですし、それから、あと、そうすると昔みたいにのんびりしたやり方はだんだんできなくなって、査読の何本がと今おっしゃったのは、まさに経済学は相当厳しくなってきているかと思うんですけれども、こういう学会連合の集まりとか、アメリカとの差についても言及されたんですけれども、1つどういうふうにお考えかお尋ねしたいと思っているのは、アメリカの場合は、おそらく経済学部のカリキュラムってかなり標準化したタイプのものがございますよね。大体「アイ・アム・エコノミスト・バイ・トレーニング」と言えば、どういうことをやってきたかは、もうミニマムはほとんどみんな統一されているので、そういうふうに成り立っている世界だと思うんですけれども、日本の場合、何か、最近変わってきてはいると思うんですけれども、博士課程のコースワークの集中度というのが結構甘くて、論文を作成するということにものすごい労働がかかっていて、というカリキュラムのとり方をやっているところはまだかなりあると思うんです。
 そうすると、アメリカの学会連合は緩やかであっても、それぞれ結局は細分化していくわけなんですけれども、ジャーナルで戦っていく上では細分化していくんですけれども、ただ、博士課程のコースワークでかなりの幅広いことをやらせているので、自分と違うことをだれかがやっていても、何かしら質問ができる、コメントができる、あの能力の高さというのはやっぱりコースワークとすごく結びついていると思うんです。
 この前も、お恥ずかしいですけれども、常に定員割れしている我が経済学研究科でも、結局、経済史の人といわゆるエコノメトリックス系の人たちが同居していますので、アメリカのカリキュラムだと、多分、Ph.Dのコースワークだと、私がかいま見た世界だと、経済史をやっている人でも、もちろんマクロ、ミクロを第1段階、第2段階とやりますし、逆にほんとうにゲームとかベイジアンとか、こういう人たちでもアメリカ経済史とかをやらされて、もう泣きそうな、百科事典みたいなものを英語ができないのに読まされて、もう涙を流しながらやっていくので、でもやっぱり1回はやったことがあるから、違う学会の人とつき合ってもコミュニケートできるということがあると思うんです。でももう今の段階で中途半端にジャーナル主義が導入されて、かつ、なぜか論文ばかりに執着した仕組みになっていて、コースワークの標準化ができていなくて、先生の間での点の甘さとか辛さのコーディネートもできていないと、結局、すごく中途半端な形に終わってしまうという問題点ってすごくあると思うんです。
 もう1つは、経済学部というのが全日本的に不人気な学部に残念ながらなっているものですから、東大さんは別として、大抵の経済学部に入ってくる学生は数3をやっていないです。数2Bもやっていないです。そういう人たちに、経済学をやらせることがはなから相当に無理があって、結局、研究者として残っている人たちはさすがにやるんでしょうけれども、そうすると、何か一番楽なのは理系から転換してくるという、この人たちが一番楽なので、この人たちに負けていくんです。何しろ無理ですよね。数1Aしかやっていないのに、数学科から来た人とやるというのは、それは無理なので、そこでまたディスインセンティブが生じたりとか、全体として非常に分野的な問題もあるかと思うので、ひとつぜひPh.Dの育て方の問題と今のジャーナル主義について、ご意見をお伺いできればと思うんです。

【伊井主査】

 ありがとうございます。何かございますでしょうか。

【根岸名誉教授】

 私もアメリカのPh.Dの場合に、知っている学生、日本の学生なんかを見ていますと、おっしゃるとおり、理論系の学生は経済史というのが大変なんですよという話を聞かされた覚えがありますし、それから、いろいろ抜け道はあるんでしょうけれども、何ていうんでしょうね、日本のほうが早くから専門化しちゃって、それで経済史の方は経済史だけ、それから理論の人は理論だけということになってしまうんです。それは、今はどうなっているかわかりませんが、昔は国立大学の大学院というのは大体経済学研究科というのは幾つかのコースに分かれていまして、理論経済学だとか、経済史だとか、応用経済学だとか、経営会計コースだとか、コースが分かれていて、教員も、それから学生もそれぞれどこに入るかということは決まっているわけです。統計コースなんていうものもありまして、それで、よほど単位が自分のところで足りない場合は別として、大体学部のときから習った先生に引き続き習うという形で早くから専門化し過ぎちゃうということはあったと思うんですが、最近でもそうでしょうか。最近のことは知らないので、お返事ができませんけれども、確かにアメリカ人の経済学者なんかの話を聞いてみると、そういう意味では基礎的な訓練がかなり広くできているということは痛感しますし、大体、アメリカの大学院はそんなふうに早くから分化していないわけで、基礎科目を全部とった上で、論文の段階で初めてテーマが決まるというので、その辺が日本の大学院は、最近はどうなっているかわかりませんけれども、一昔前はほんとうにタコ部屋的に分かれていて、おっしゃるとおりの問題があったと思いますが、最近はいかがなんでしょう。むしろ私のほうが先生方に伺いたいことなんですけれども。

【深川委員】

 最近もあまり変わっていないんじゃないでしょうか。ついこの前、我が社であった論争は、経済学研究科で修士号とか博士号とかを出しているわけだから、経済史の人であってもミクロ、マクロを相当やってもらわないとだめだと、ここは文学部の博士号じゃないんだと、歴史じゃないんだというご意見の方と、経済史の方々の、いや、そんなものは全く要りませんと、役に立ちませんという方々の延々とした論争が繰り返されていて、ぜひ、そんなこともあって、一度。特に、今、やっぱり厳しくなってくると、ジャーナルなので、どんどんますます細分化が加速度化していっちゃうんです。そうすると、従来はおそらく日本人の強みであったであろう歴史観のある経済学、森嶋先生とかは多分そうだったろうと思うんですけれども、もうどんどん歴史観から遠ざかって、工学、数学の世界になっていっちゃって、これはこれで、ある種の若い人に弊害を生んでいるかなという反省もおそらくあるんじゃないかと。

【根岸名誉教授】

 そうですね。

【伊井主査】

 ありがとうございます。なかなか研究の細分化というのは、これはすべて理系も人文系も全部あるんだろうと思いますが、世界的なレベルという形で、高山先生、何かご意見はございませんでしょうか。

【高山科学官】

 私はヨーロッパ中世史が専門なんですけれども、経済は知り合いが非常に多くて、特にアメリカでPh.Dを取ってきた人たち、友人が多いんですけれども、僕は以前から経済に対してすごくうらやましいなと思っていたんです。わりと国際化が進んでおりまして、みんな国際的に活躍しているという印象を持っていまして、今でもやはりアメリカで教えている人たちがいますから、それに比べると、私どもの世界はヨーロッパ史であるにもかかわらず、国際化が進んでいないという状況だったんです。
 ところが最近、ここ五、六年ですか、若い人たち、30前後なんですけれども、国際化が非常に進んだという印象を持ったんです。というのは、ヨーロッパが多いんですけれども、ヨーロッパで博士号を取って、そして向こうで出版すると、そういう人たちがものすごい増えたんです。ここ二、三年でお会いしただけでも10人を超える、同じくらいの年代なんですけれども、そういう形で私が昔考えたのと全然違う状況になってきているんですけれども、これはどうしてなのかというのは変なんですけれども、私の東大で教えている大学院生たちには、とにかく日本は捨てて向こうに行けと言っているんです。日本のシステムでは、よっぽど頑張っても国際的に競争できるような人材にはなかなかなれないと、だからシステムがしっかりしている、アメリカを中心としてなんですけれども、向こうできちっと教育を受けなさいと、向こうで博士号を取って、とにかくそこまでは行って帰ってきなさいというふうに指導をしているんですけれども、現実は、彼らが全員Ph.Dを取っているわけじゃないんですけれども、それでもほんとうに増えてきたんです。ということは、もう我々のかつての感覚とは違う世代が歴史でも生まれてきているという状況だと思うんです。だから、経済の場合はもっと先を行ってよさそうな気がしているんですけれども、どうしたんでしょうか。多分、私が知っているアメリカに残っている連中というのは、今も最前線で活躍しているという印象を持っているんですけれども、どうも日本に戻ってきた友人たちというのはそういうエネルギーというんですか、これがちょっと落ちているのかなというふうな印象を持ってしまっているんですけれども、どんなものなんでしょうか。

【伊井主査】

 ありがとうございます。研究者養成システムの崩壊みたいなことをおっしゃって、非常に恐ろしい話なんですが、何かお考えはございますでしょうか。

【根岸名誉教授】

 何と申しますか、ソフトアカデミズムではなくて、ハードアカデミズムということを先生は強調されまして、それで、西洋史でもそうなっているのかなと、今、心強く伺ったんですけれども、ただ、アメリカの場合と比べて、日本のもう1つの問題は、やっぱり日本の大学はいまだに年功序列ということですよね。それで、多少はこのごろフレキシブルになったのかもしれませんけれども、国立大学じゃなくなったといっても、やっぱり文部科学省がついているわけで、そう自由にはできないということなのかもしれませんが、その辺がアメリカの場合とはすごく違うんじゃないか、アメリカの場合はまた行き過ぎていまして、一々、学部長と月給を上げろという交渉をすると、その際には、例えばこういう人名辞典に自分のことが出ているからといって学部長に交渉したら、学部長は出ていなかったので逆効果だったというような笑い話もありますけれども、一人一人メリットを考えて待遇を決めるというアメリカの社会との違いというのはまだあるように思うんです。
 それで、日本人の場合には、それはちょっと浅ましいんじゃないかと、私も昔、若いころ、私は大学院のときに奨学金をもらえないで困っていたら、アメリカの大学で助手に雇ってくれるというところがあって、行って、そこの教授が後でノーベル賞をもらったすごい人ですけれども、日本に来たときに日本のことをいろいろ説明して、日本の大学というのは、いつ大学の先生になったかによって生涯の給料が全部決まっているんだと、私より後で入った人がノーベル賞をとっても、私を追い抜くことはできないんだと言ったら、すごく不思議がりまして、どうしてそれじゃ研究なんかするんだと、こう言うんです。研究してもしなくても同じじゃないかと。私は、いや、研究をするのは私のプロフェッショナルプライドだと言ったら、ほんとうに何か妙ちきりんな顔をして、どう誤解したのか知りませんけれども、困っちゃったことがあるんですけれども、やっぱりそういう待遇というのが研究推進的に組織されていないということは1つあると思うんです。いろいろなことで、したがって、学問的でない仕事でも経済的な要因でいろいろされるというようなことも出てきますし、それが研究至上主義という観点からすれば、アメリカとはかなり違ってくるとちょっと思っておりますけれども。

【伊井主査】

 ありがとうございます。何か井上先生、そういう立場からいかがでしょうか。

【井上(明)委員】

 1つ教えていただきたいんですが、経済学研究の分野での評価ですね、ノーベル賞のそういう賞が設定されているということは、究極は社会貢献的なものがやはりあるのが評価されるのか、だと思われるんですが、そのあたり、何をもってベストとするのか、もし経済学がどんどん発展していったら、今日のこの経済不況といいますか、このようなことは起きないんだと思われるんですけれども、だから、このあたりがどう、やっぱり自然科学は、倫理の問題等において、あまりにも発達し過ぎてという負の範囲がないわけではない。だけれども、経済学のほうで、今いろいろお聞きしていて、自然科学で、実験、論文の書き方も、単なる予測の理論的なものなのか、実験データに基づいて解析して、詳細にそこに、あるいは今おっしゃった何々の理論だとか、何々の法則だとか、そういうものがつくことが最終的にベストなのか、社会貢献といいつつ、今回のこういう大不況を予測した人がものすごく偉いのか、じゃ、もっと改善方法をほんとうは示してほしいということにもなるので、何が一番、今の若い人等においても、あるいは論文を書いたときの引用の頻度が高い場合をベストとするのか、このあたりの経済学特有の何かそういうふうなものはあるんでしょうか。教えていただければと。

【根岸名誉教授】

 特有のものがあるのかどうかわかりませんけれども、今回のあれは金融工学の失敗と言われているんですけれども、金融工学というのは非常に難しい数学をふんだんに使って株式の予想をするというようなことで、それの行き過ぎだというふうにも言われておりますけれども、いろいろな分野が経済学にあるわけでして、経済の歴史、経済史なんていうのは非常に重要な分野ですし、ノーベル賞委員会は、今まで出してきたような分野だけが経済学賞の対象ではないので、経済学ノーベル賞の対象は非常に広いんだと、まだ出していない分野がいっぱいあるんだから、そういうことも念頭に置いて推薦してくれということは、これは毎年強調してくるんです。ただ、やっぱり今までのところは、どちらかというと、何ていうんでしょう、経済理論的なものに偏り過ぎてきているということは否めないんですけれども、逆にノーベル賞委員会はそれは行き過ぎだというふうなブレーキをかけているように、もっとどんな分野でも経済学に関係ある分野は取り上げられるんだということを強調して、強調しているということは、逆に今まで偏り過ぎてきたということだろうと思うんですけれども、そんなふうに思います。

【伊井主査】

 ありがとうございます。何かほかに。井上先生、どうぞ。

【井上(孝)委員】

 きょうは大変ありがとうございました。先生の経済学原理、理論の話というのは非常に貴重だと思うんですが、やはり経済学の振興という観点を考える場合に、どうしても経済社会との関係とか、それに対する政策提言というのも場合によっては必要なことで、理論的な研究が世界全体の経済成長に貢献するとか、そういう観点から考えると、日本でも、最近は竹中経済財政政策担当大臣が出ているように、今後は研究者が実際に閣僚になって、そういう政策を実際に実行するとか、そういうふうな人材養成というのも我が国はアメリカのように必要になってくるんじゃないかと思うんです。そういうことによって経済学が活性化するというか、経済の発展に貢献することも必要だと思うんですが、そういう点について経済学原理というものが経済の成長なり発展に貢献する役割というのは、従来の理論からいうと、確かに実証的な研究もあると思うんですが、今後、そういう経済学を振興する場合に、社会とのかかわり、あるいは政策とのかかわり、そういう点について先生はどのようにお考えになっているか、お教えいただけたらと思います。

【根岸名誉教授】

 最初にお断りしましたように、私はそういう今おっしゃったようなことは非常に大事だということはよく認識している点では人後に落ちないつもりなんですけれども、私自身は全然そういう仕事の経験もございませんし、見識もないので、恐縮ですがお答えはちょっと不可能なんですが、それはおっしゃったことは非常に重要なんですけれども、逆に申しますと、これは単に大学だけのことで済むわけではなくて、研究官庁とか、いろいろな研究団体のほうにウエートがかかる問題ではないかと思いますし、そういう意味でまたそういうところとの交流ということが非常に大事なんじゃないかと。
 でも、私どものころに比べますと、私どものころは実は大部分、大学紛争でわっしょいわっしょいとやっていたので、とてもそれどころじゃなかったんですけれども、最近はそれもおさまりまして、よく勉強できるような雰囲気になって非常にいいと思いますが、そういう意味で大学の人が、官庁と申しますか、あるいはいろいろな形のそういう大学以外のところで経験を積むということが非常に多く、大学もまたそういうことを、前はちょっとでもそういうことを引き受けるというふうな話になりますと、学部長とか、教授会とかが非常に嫌がったものなんですけれども、最近はそうではなくて、いろいろなところに経済学部の先生が出て行くということがあるので、それは非常に望ましい方向だと、そんなふうに思っております。

【井上(孝)委員】

 ありがとうございました。

【伊井主査】

 ありがとうございます。もう大分時間が迫ってまいりましたが、まだご発言いただいていない方もいらっしゃいますので、佐藤科学官からお一人ずつ、ご感想でも、ご意見でも、簡単におっしゃっていただけるとありがたく思いますが。

【佐藤科学官】

 ありがとうございます。1つだけ事実関係をお伺いしたいことがあるのですが、先生がお書きになりましたクルーグマンでしたか、60%が不採択になったというお話ですが、この60%はごみ箱に行ってしまったのでしょうか、それともどこかでまた再生産されて、リクルートされて、何かに使われたのでしょうか。

【根岸名誉教授】

 それは、個々のケースはわかりません。憤慨して、もうごみ箱という場合もあると思いますし、それからまたほかの雑誌へ出して、めでたく合格する、あるいはもう一遍やって3浪して合格するとか、いろいろなケースがあると思います。

【佐藤科学官】

 わかりました。ありがとうございました。

【伊井主査】

 縣先生、どうぞ。

【縣科学官】

 両井上先生がおっしゃった方向で伺いたいことがございましたのですが、この委員会は人文学及び社会科学の振興ということがテーマになっておりまして、お手元にもお持ちかもしれませんが、ここに1つまとまったものがありまして、そこの5ページ、6ページに取り組むべき政策的・社会的課題というものがあって、そこに例が挙がっているわけです。今後、経済学あるいは経済学一般がこうした政策的・社会的課題にこたえているとして、さらにそれを伸ばすための振興策としたら、どういうことをやるべきなのか、どのようにお考えになられるでしょうか。

【根岸名誉教授】

 そうですね、私は一番お答えするのにふさわしくない人間だと思いますけれども、やっぱり人的交流ということも非常に大事なんじゃないでしょうか。いろいろな現場の方が大学に来られるとか、それから大学の人が現場に行くとか、そういう人的交流ということは昔はほとんどなかったわけですけれども、最近は非常に、若い後輩の活躍や何かを見ていますと、やっているようですので、それが一番大事かと思います。

【縣科学官】

 示唆されておられるのは、研究者の国際交流とかということではなくて、研究と実践の交流と。

【根岸名誉教授】

 そうです。

【縣科学官】

 それはやはり実務上のことなのか、あるいは教育上の交流、何を。

【根岸名誉教授】

 教育上というのはむしろ大学が引き受けなきゃいけないことなので、実践と申しますか、実務という形で大学の人材がいろいろなところにタッチするということでしょうか。

【縣科学官】

 ありがとうございました。

【伊井主査】

 ありがとうございます。谷岡先生、何かございますでしょうか。

【谷岡委員】

 日本経済学会連合についてちょっとお聞きしたいんですが、この60あまり入っているのも、猪口先生がおっしゃったように、びっくりしたんですが、よく内容を見ると、全然関係ない学会がいっぱい入っておりまして、まずこういう学会連合に参加するメリットは何なのか、また、参加していない経済学関係の学会もいっぱいあると思うんです。そういう学会はなぜ参加していないのか、そこのところをちょっとお教えいただけますでしょうか。

【根岸名誉教授】

 私がタッチしたのはかなり前なんですけれども、入りたいという学会があると、学会連合のほうでいろいろ書類を出していただいて、多少調べて、代表の方に面接して、入っていただくに値するかどうかという試験をしておりまして。

【谷岡委員】

 でも、みんなそんなお茶話をしに来るほど暇ではございませんでしょう。だから、やはり何らかのメリットがないと、どういうメリットがあるんでしょうか。

【根岸名誉教授】

 メリットですか。それは、1つは学会自体の箔づけと申しますか、このメンバーであるということなんだろうと思いますし、それから、多少は外国の学会へ人を派遣するときの資金の援助とか、そういう点もあると思います。

【伊井主査】

 ありがとうございます。小林先生。

【小林委員】

 済みません、日本というのは経済大国3位でありますし、経済というのはほんとうにインターナショナルなものですけれども、先ほどお聞きしていると、英語での専門誌というのはあまり投稿がなくて、どちらかといえば国際的には三流だというようなことをちょっと言われたような気がいたしたんですけれども、まことに残念だなと思うんですが、それは内容がそうなのか、語学力がないからそうなのか、それとも力のある英語もできる人は海外に投稿するからそうなのか、もしもそうだとしたら、日本に世界の冠たる経済誌がないということはまことにさみしいことだなと思うものですから、それの何とかできるような仕組みが、世界の一流の経済学者、あるいはほんとうの若手の登竜門となるような経済誌というものができるということが一番大事、日本の経済学会にとって大事なんじゃないかなと門外漢として思うんですが、いかがなんでしょうか。

【根岸名誉教授】

 ほんとうにおっしゃるとおりなんですけれども、私どもの立場としては、やっぱり学生が博士論文の準備課程でいい仕事をしたときには、やっぱり国際的な一流雑誌にトライしてごらんなさいというふうについ言ってしまうわけです。それで、そう言ったらほんとうに悪いんですけれども、矢尽き刀折れて帰ってきたら、それじゃ、ジャパニーズジャーナルにでも回すかというふうについ言ってしまうので、まことに申しわけないんですけれども、しかし、徐々に改善していくよりしようがない問題で、一遍に超一流雑誌ができるということにはならないかと思います。

【伊井主査】

 岩崎先生。

【岩崎委員】

 谷岡先生のお話というか、ご質問と関連するんですけれども、日本経済学会というところが中心なのかなと思うのですが、これは3,000名ちょっとというのは私は意外に少ないなという印象を持ちます。私は心理学なんですけれども、日本心理学会ですら7,000名の会員なので、非常に経済学会に入るのが難しいのか、あるいは大体そんなものなのか、あるいは入っておられない経済学者がかなりいらっしゃるのか、その辺のこと、それからもう1つは、先ほどほかの先生方もお話があったんですけれども、もともと学会というものは学術研究の発表の場とか、雑誌や大会、学会ですね、等を含めて、そういう場だと思うんですけれども、昨今の状態では教育、大学教育、あるいは大学院教育のあり方とか、あるいは社会貢献のあり方とか、そういうようなことをテーマにせざるを得ないといいますか、するようになってきているんですけれども、経済学会の場合には、そういうことについて何か学会として取り組んでおられるようなものというのはおありになるんでしょうか。その2点をお伺いしたいと思います。

【根岸名誉教授】

 日本経済学会というのは、もともとは理論・計量経済学会と称しておりまして、それは理論経済学会というものと計量経済学会とが合併してできたんですが、そういう意味で、理論と、それから統計的な手法を使う経済学者が中心の学会だったんです。それがアメリカン・エコノミック・アソシエーションのように経済学全体を代表する学会になりたいということで頑張っているわけなんですけれども、どうしても前身を引きずっていますから、経済史の方とか、あるいは同じ理論でもマルクス系の理論の方とかはいろいろ、あの学会に何も代表してもらうことはないんじゃないのというふうな雰囲気があるわけでありまして、その辺が、日本経済学会という看板は掲げていますけれども、アメリカン・エコノミック・アソシエーションとは全然違うことなんです。いたし方ないと言われたら仕方がないんですけれども、そういう前身を引きずっていて、まだそれがあってひとつ伸び悩んでいるということかと思います。
 それから、もう1つはどういうお答えをしたらいいんでしょうか。

【岩崎委員】

 学術研究以外の社会貢献とか、教育への提言とか、何かそういうようなこともおやりになっていらっしゃるのか。

【根岸名誉教授】

 それは、少なくとも日本経済学会を見ておりますと、単に経済理論とか何かのシンポジウムだけじゃなくて、今おっしゃったようなことに関してシンポジウムをしたりして、努力はしておるようでございます。

【伊井主査】

 ありがとうございます。立本委員、どうぞ。

【立本主査代理】

 きょうの先生のお話で、皆さんもおっしゃっていたように、一番印象に残ったのは書物と論文の区別で、経済学者もこんな分け方をするのかなと、それが非常に印象に残りました。全体といたしましては、経済学だけでなくて、人文社会科学に共通する問題点を非常に的確に指摘していただいたかなと思うんですが、それをどうしてそうなの、どうしたらいいのかということを今後この委員会で考えなければいけないのかなと思っておりましたが、1つだけ簡単な質問ですが、この委員会で、評価に関しまして知の巨人による評価という1つの項目を立てております。根岸先生は、例えば森嶋通夫という人がそういうふうな評価システム、あるいは知の巨人による評価というものをすれば、経済学は……。

【根岸名誉教授】

 何による評価ですか。

【立本主査代理】

 知の巨人。知の巨人というのは、英語で何というか、知識の知ですね。知的巨人といいますか、森嶋通夫先生などは知の巨人と言ってもよいかと思うんですが、、レフェリー制とか、そういうふうなものではなくて、もう1つのものすごい極にそういうふうな評価システムを置くという考えなんですが、もしそういうような知の巨人による評価システムができて、森嶋先生が評価をなされたら、経済学はよくなるとお思いでしょうか。

【根岸名誉教授】

 これは私がお答えできる範囲を超えている大きな問題だと思いますけれども、そうですね、そういう方がおられれば、ある意味では非常に便利だとは思いますけれども、逆にまたその人がいたらやり切れないなという感じも私などはいたしますので、ちょぼちょぼの、せいぜい、追い抜くことはできないにしろ、後ろから手を伸ばしてすそを押さえることができる程度の先輩がいらっしゃることは非常に心強いんですけれども、巨人と言われる人は功罪半ばするようなふうに思いますが、いかがでしょうか。

【伊井主査】

 ありがとうございました。
 この議論はほんとうにいろいろやっていくとおもしろいところだと思って、きょうは、今、立本先生もおっしゃったように、さまざまな問題が出てきたと思うんです。浮かび上がってきたと思うんです。評価とは何かとか、ことしのノーベル物理学賞なんかも三十数年前のものが今、評価されたとか、今の経済不況の問題で、アメリカのグリーンスパンのような人が、神様のように言われていた人が、今、自己批判せざるを得ないような状況に追い込まれているとか、これは非常に難しい問題だと思って、評価とは何かとか、論文とは何か、あるいは大学の研究紀要というものがございますけれども、これは紀要って一体何なのか、どういうふうに役割を持つのかというようなこともさまざま議論したいところでございますけれども、時間をちょっと超過いたしまして申しわけございません。
 それでは次回の予定等につきまして、事務局からご説明いただきたいと思います。

【高橋人文社会専門官】

 次回の日程でございますけれども、資料2のとおりでございます。また、本日の資料につきましては、封筒に入れて机の上に置いておいていただければ、郵送させていただきます。ドッチファイルはそのまま机上に残しておいていただければと思います。
 以上でございます。

【伊井主査】

 ありがとうございます。予定表にございますように、12月はかなり立て込んでございますので、お忙しいと思いますけれども、どうぞご助力いただければと思います。
 それでは、本日の会はこれで終了いたします。どうも皆様、ご協力をありがとうございます。
 根岸先生、ほんとうにどうもありがとうございました。

【根岸名誉教授】

 どうもありがとうございました。(拍手)

―― 了 ――

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