第2章 文化資源の保存 3 文化資源の自然科学的分析

東京芸術大学教授 北田 正弘

文化資源の対象は非常に広く、自然科学的分析手法や研究は対象とする文化資源によって多様であるが、文化資源を正しく評価し、資源を永続的に国民の財産とする基本的な位置付けは変わらない。ここでは、自然科学的分析手法の基本的な事柄を述べ、筆者が携わっている美術工芸と関連する分野について言及する。
わが国が世界の中で地位の高い国として発展するためには、先端科学の発展だけではなく、伝統と文化を継続的に守り、かつ、文化の発展が必要である。文化的に高い国でなければ、自国を誇れないし、外国から尊敬の念をもたれない。ただし、文化は発展する先端科学とともに歩むことが必要である。先端科学は従来の知識や技を超える破壊的創造であるが、文化には永久的な創造がある。わが国の柱である技術立国は文化資源による立国と合わせて大きな効果を生むものと思われる。

3‐1 文化資源を取り巻く状況

現在、博物館や美術館の閉鎖が相次いでいる。主な原因はわが国の長期にわたる経済的な停滞と有料入場者の減少による収益の低下である。これは文化をもって知的生活や余裕のある生活を送ろうとする考えが国民の間に定着していないことを示している。たとえば、わが国の伝統である床の間のある家が激減している。特に都市部の家屋には床の間が少ない。これによって、掛け軸は表具を取り除かれて額装され、日本画は額装向きの技法に変化している。もちろん、これによって新たな創造がなされるが、わが国伝統の文化は失われる。家庭生活の中で、その家庭の経済的な水準に合った文化を楽しむという伝統も失われつつある。地域の伝統行事なども都市では大部分が失われているのはいうまでもない。これらは新たな文化との競合による旧文化の消滅過程と思われるが、消滅に見合う新文化の創造が望まれる。
文化財は図1で示すように、生活の中に根づいたものを基盤とし、その上にピラミッド状に形成され、頂点に国宝などがあると考えられる。国宝等の貴重な文化資源を末長く保存するためには、これらへの積極支援とともに、生活文化財的なものを含めて、文化資源全体を大切にすることが重要である。その意味で、一般人に対する文化教育を如何に進めるかが重要な課題であり、初等・中等教育はもちろんのこと、大学でも文化教育の強化が望まれる。また、先端科学だけでは同胞としての愛情や国を愛する感情は十分に生まれてこない。心を結び付けるものとしての文化資源の活用が重要である。

美術工芸品の位置付けの図
図1 美術工芸品の位置付け

また、博物館や美術館の閉鎖は文化財関係学科の卒業生の活動場所を減らしており、教育の場にとっても深刻な状況になっている。最近では、修士あるいは博士課程終了後に定職につけるのは1割程度である。多様な分野で活躍できる人材の育成を目指す教育の実施も必要だが、博物館等での文化資源保存員の増員などに対する予算の増大が望まれる。

3‐2 自然科学的分析法

図2で示すように、人文科学、社会科学および自然科学的手法に分けられる。これらはそれぞれの分野で力を発揮しており、たとえば、伝統的な考古学は人文科学的手法による分析、歴史や民俗学などは社会科学的手法を研究の主体としている。これらの調和で文化資源分析の成果は高まる。これらの中で物質や材料が役割を果たしている場合に、自然科学的手法による分析の比重が高くなる。また、人文科学や社会科学の限界を補うためにも自然科学的分析の強化が必要である。
文化資源の自然科学的分析法の基本となるものは、大部分、理工学の研究によって開発された方法および機器によって行なわれる。大部分は基本的にそのまま利用することができるが、理工学と文化資源の分析対象物の性質は必ずしも一致しないので、文化資源に対応した方法および機器に改良することが必要な場合も多い。以下にその要点を述べる。

科学分析の相関の図
図2 科学分析の相関

(1)理工学分析との違い

ア 試料

理工学研究の多くは、研究の目的に沿って新たに試料を調製あるいは作製し、これを分析に用いる。特に工学の場合には、自分の目的に従って原料を選び、性能あるいは機能を発現する目的で不純物効果、加工方法、熱処理などを施すので、予め測定すべき項目が決定され、その特性の予測も可能である。このように、明らかにするべき明確な目的あるいは目標と分析の間に密接な関係がある。
これに対して、文化資源を構成する物質あるいは材料の分析は、その物質・材料が属するところが不明のまま分析しなければならないことが多い。物質・材料の凡その種別が判別できても、その不純物効果、加工方法、熱処理などは不明なことが多い。また、かなり明確な判別ができても、自然素材を使っていることが多いので、産地などの違いによって一律な分析ができない。物質・材料のが作られた後の長い時間をかけた物質的な変化、環境からの影響による変化もあり、場合によっては、当初の物質・材料の形態あるいは性質がまったく失われている場合もある。この場合でも、変化した終点の状態から変化する前の始点の状態を推定しなければならないので、誤差が極めて大きく、確定した分析結果が得にくい。

イ 分析手法と機器

理工学に使われている分析手法および機器をそのまま使用できるのが最も望ましい。しかし、幾つかの障害がある。
文化資源が保存あるいは置かれている場所が特定され、動かし難い場合には、その場所に分析機器を運搬することが必要である。携帯型の機器がある場合には、これによって解決可能であるが、携帯型分析機器は据置型に比較して分析性能が通常1~2桁は劣るので、十分な分析は不可能である。後述のように、データ処理等での改善が有用である。文化資源が非常に重要なものである場合、資源を破壊することは通常許されない。したがって、非破壊で分析をすることになるが、この場合も高性能の機器を使用できないことが多い。したがって、分析精度は低くならざるを得ない。大きい形まま分析する場合、精密な測定装置の試料台等に収容できないことが多い。特に測定環境として真空が必要な場合に困難が生ずる。
微量の試料を切り取ることが許される場合には、精密な機器を使用できる利点はあるが、量が少ないために精度が十分に上がらない場合もある。
理工学の場合、試料の作製や前処理段階で失敗しても、やり直しができる。また、量を十分に確保できるので、繰返しの実験ができ、これによって精度を高めることもできる。初期の手法で良好な分析結果が得られなければ、原料などから再検討し、分析法も改良が可能であるが、文化資源の多くはこれができない。
物質あるいは材料によっては、新たな加工方法や熱履歴をすることによって試料の改善を行ない、分析精度を高めることができる。
したがって、十分な結果を出すためには、装置の改良や高性能化が必要である。しかし、経済的な面と装置開発能力の両面から、文化資源だけを目的にする装置の開発は極めて困難である。このため、特殊な方法を除くと、試料と機器の両方の制約で、一般には、分析の程度は理工学の先端分析水準より低くならざるを得ない。

ウ 分析の視覚的側面

自然科学的な分析では、巨視的分析と微視的分析がある。微視的分析はμmオーダーまでのミクロ分析からナノメートル単位のナノ分析に分けられる。たとえば、成分の分析では、全体の成分は巨視的分析であり、材質等を決める基本単位に近い分析が微視的分析となる。文化資源の分析では、巨視から準微視までの分析が大部分である。それぞれに役割を果たしているが、材質等はナノメートル単位まで追及しなければ真実が解明できない場合が多いので、ナノ分析を積極的に推進すべきである。これによって、先端科学の成果の多くを利用できる。

エ 結果の解析

文化資源の分析には手法的な限界があるので、解析では、この点を十分に考慮して慎重に結論を導かなければならない。理工学の分野では、分析機器(ハード)の性能限界を数学的あるいは統計的に処理して、精度を高める方法(ソフト)が急速に発達している。信号処理などによる誤り率の低減などもその一例で、デジタル化すれば数桁以上の改善が可能になる。実験精度に限界がある文化資源の分析にとっては非常に重要で、これらの手法を積極的に導入・活用すべきである。
人材の育成に当たっては、以上述べたような文化資源分析の特殊性を十分に教育するとともに、教科書等の制作も必要である。

(2)先端的分析方法の導入

理工学の分野では、発展する学問、工業の要求によって、たえず新しい分析機器や手法が開発されている。たとえば、半導体産業では、新しい装置、新しい分析法の開発が不可欠である。これらの先端的な装置や方法を文化資源の分析に直ちに取り入れることが望ましいが、経済的理由、研究者能力などで困難が伴う。
国に支援を求めることも必要だが、企業等の分析機器の開発に積極的に参加して、文化資源に適した分析手法の開発を促すべきであろう。これは、企業にとっても応用範囲の拡大や新たな需要の開拓として利益になる。

(3)研究者の能力

物質あるいは材料が主要な研究対象となっている場合、金属学、セラミックス学、有機化学、等々の材料科学に関する専門知識がないと、物質の内部の構造、組織等に関する分析ができない。たとえば、金属の場合、成分を分析しただけでは、組織、強度、電気化学的性質(腐食)、電磁気的性質等々が明らかにならない。物質あるいは材料の性質を明らかにしたとはいえない。
最先端の理化学機器を導入しても、有効活用されていない例が見受けられる。これは、有効に使うための能力や知識が不足しているためである。文化資源の研究領域に多くの理工学専門家が参加することが望ましい。また、人材育成の点からは最先端分析の教育が必要である。また、文化資源関係の学会だけではなく、理工学関係の学協会での研究発表、論文の投稿を勧める。
分析機器およびその使い方では、専門知識の有無によって結果が大きく異なることがある。場合によっては、誤った結果を導くおそれもある。文化財はもとより、材料科学、分析学などの全てに精通する人材の養成が望ましい。ただし、これは教育を含めて容易なことではない。したがって、理工学研究者からの協力を積極的に得ることが必要である。このためには、積極的に共同研究をし、文化資源の理解を得るような努力が望まれる。文化資源を研究あるいは保存する領域は人文科学および社会科学との関わりが強く、非常に広く、離れた分野間の学際領域である。その意味では、広い知識をもたせるような、あるいは広い知識を吸収できる能力、離れた分野間を有機的にむすびつけられるような能力をもたせる教育が望まれる。これによって、文化資源分野だけではない、広い分野で活躍できる人材が育成できる。

(4)体系化された理工学の導入

理工学の分野では、先端の鎬を削っているあいまいさのある領域は除き、過去の学問の発達は論理的に体系化されている。これらの学問の体系化の手法や学問的成果を積極的に取り入れることが必要である。学問の体系化は、体系からの将来予測を可能にする。また、体系から外れるものを厳しくチェックする。すなわち、誤った解析や結果などを排除するのに有効である。また、統計的な手法などは解析にすでに利用されているが、多くの理論があり、これらを有効に活用することが、文化資源の分析に大きな役割を果たすであろう。

(5)自然科学的思考法との交流

純粋理学などの一部もその例だが、文化資源の領域でも、現代の先端科学や先端工学、先端工業とは一線を画し、これらとは文化の違う領域の学問であるという意識が強い。しかし、学問の根本にはそれほど大きな差異はなく、論理的思考方法には大きな変わりはない。大きく異なるのは、本質から外れる嗜好・趣味的な領域である。したがって、先端科学との交流を積極化すべきである。自然科学的分析の根本は論理的思考法に基づいており、文化資源の分析の根本理念は同じである。きちんとした思考論理があれば、発掘品の時代決定の誤りなどは排除可能である。その意味では、解析にあたっては哲学的な論理学や科学の方法からも学ぶべきものが多い。

(6)望ましい結果を得るには

物質や材料は内部微細構造を含めて極めて複雑なものであり、少数の分析手法を使っただけでは正しい結果を得られない場合が多い。少し厳しい言い方であるが、物質・材料の一側面を分析した結果だけで、その全体を明らかにしたかのような錯覚をしている研究が理工学の分野でも少なくない。大学の研究で得られる成果が実用にむすびつかないのは、多くの場合、必要な知見を明らかにしていないためである。これは物質や材料の知識が不足しているためであり、前述のように、分析方法だけではなく、基礎となる物質科学や材料科学の教育を重視すべきである。“もの”が分かっている人材が使って、始めて分析機器が生きる。

3‐3 先端科学にも寄与する研究

現代の科学技術を遡ると、美術工芸、特に工芸などの"ものづくり"をルーツとするものが多い。たとえば、半導体産業で使われているリソグラフィ(マスク)技術は衣服などに紋様を染める型紙の技術がルーツであり、高度な鉄鋼材料は日本刀などの鍛冶がルーツである。ところが、18世紀からの科学技術の急速な発展により、工芸などの芸術と自然科学は次第に乖離する状態になってしまった。しかし、昔、手作りされたものの中には現代の科学技術をもってしても再現できないような高度な製品がある。その中には、現代科学が参考とする技術が秘められているものと考えられる。一方、各種の画像表示技術、映像処理、コンピューター・グラフィックス、音声合成などの先端科学の分野では、先端的な芸術的創造からの支援が非常に重要になっている。文化資源の研究成果から先端科学および先端工業、先端商業への寄与も必要と思われる。これによって、文化資源の分野が孤立する状況から脱することができる。

3‐4 文化資源の保存

文化資源の保存でも、先端科学からの支援が不可欠と思われる。従来の伝統的な保存修復技術は重要であるが、修復技術者は年々減少している。高度な技術をもつ人材の養成は必須ではあるが、若年からの弟子入り等による技術の修得が不可能な時代になり、現代の教育体系の中では育成が困難である。したがって、できるだけ自然科学的な知識や研究結果を人材教育に生かすとともに、保存・修復にも有効に活用することが望ましい。これには、高精度の分析技術が必須であり、文化資源の修復にも十分な資金援助をもって進められるべきである。保存環境なども、半導体産業で開発されている環境機器や設備を有効に利用できる。一部では利用されているが、地震対策などでも、減振、吸振、防振装置類の積極活用と支援が必要である。
文化資源を国や市町村だけで保存管理するのには限界がある。資源の水準に従がって、家庭、企業などで分散保存し、また、保存の意識を高めるべきである。欧米では、文化資源の保存や研究などに、民間の資金が多く流入している。わが国で、民間あるいは個人からの資金流入が少ない原因の一つとして税制の問題がある。それ以上に民間の文化資源保存への寄与意識が低いことも大きな原因である。これは文化資源に携わる者の責任でもあり、啓蒙に力を入れるべきである。

3‐5 自然科学と芸術を融合する新領域の創成

以上のような視点から、芸術分野と先端科学分野を太いパイプで繋ぐことが必要である。これには、自然科学と芸術を融合する新しい共通基盤の創成が必要であり、図3で示すような芸術と科学の両方向へ情報を発信する新領域を創るべきである。

自然科学と芸術を融合する新領域の創成の図
図3 自然科学と芸術を融合する新領域の創成

これは理想像であるが、たとえば、著者の属する大学では、芸術の創造分野があり、この中で、理工学の知識をもつ研究者が自然科学と芸術を融合する新領域の創成に役割を果たすことは非常に重要と考えられる。ただし、当大学の自然科学研究者は極めて少数であり、他大学、企業研究所などとの緊密な連携や共同研究が必要である。
著者の属する大学での保存科学の役割を述べる。大学院における文化財保存学専攻は保存修復5教室と保存科学教室からなっている。保存科学教室は教授1、助教授2、助手1の小さな研究教育単位である。保存科学教室は昭和の初めに工芸化学教室として発足した。現在の役割は美術工芸材料および分析の研究・教育、文化財の保存に関わる自然科学からの基礎的な研究、修復技術に対する自然科学からの支援である。
研究面での具体的例は、
1.先端科学、特に材料科学の視点から文化財を"物質・材料"として解明する、
2.物資・材料の解明にはナノ構造が重要であり、これに積極的に取り組む、
3.研究成果を保存修復だけではなく、芸術の創造、先端科学分野に役立てる、
を研究姿勢としている。また、先端科学あるいは材料科学に並べる水準の研究、とくにナノ構造の解明に力を注いでいる。
人材の育成面では、先端科学に並ぶ知的能力の付与により、先端分野との関わりをもって文化資源の仕事に携わることはもちろん、文化資源の知識をもって先端分野の仕事ができる人材の育成が理想である。

3‐6 著者の研究例

前述のような研究理念を考慮した著者の研究例を以下に述べる。

(1)文化資源の研究と先端材料科学への寄与

ア 材料工学のナノ構造開発への寄与-日本刀の先端材料科学的研究-

日本刀は鉄鋼材料の世界的な遺産である。その材質の優秀なことは古くからいわれているが、それは過去の実戦的な評価、あるいは美術観賞的なものであって、先端の材料科学からみた評価ではない。
室町時代に製作された日本刀の著者らの電子顕微鏡を主とするナノ構造研究によれば、刃の部分はナノ寸法で双晶などの欠陥のない良質のマルテンサイト組織であり、刃と芯金の境界では、驚くべきことに、現在、超鉄鋼プロジェクトが目指している微細な結晶粒組織と析出物の多方向分布が観察された。現在の鋼の製造技術では、結晶粒径を20μm以下にすることは困難だが、図2、3、4で示すように、日本刀ではナノから数μmの結晶粒の中に複数方向の析出物が存在する。これは、超鉄鋼材料が実現可能であることを示しており、この製法を解明することで大量生産への糸口が見つかるものと考えられる。

イ 実験では不可能な長時間の現象解明-錫糸ナノ構造と腐食-

江戸中期から銀糸の代用として使われた錫糸は表面が腐食して金属光沢を示さないが、これを電子顕微鏡で分析すると、表面は二酸化酸化錫(SnO2)、その下は一酸化錫(SnO)、さらにその下に水酸化酸化錫{Sn3O2(OH)2}、その下に金属錫(Sn)が存在する。図5にSnOとSn3O2(OH)2の混合組織の格子像を示す。

日本刀にみられる微細結晶粒と析出物の図
図4 日本刀にみられる微細結晶粒と析出物

混合組織の格子像の図

図5 SnOとSn3O2(OH)2の混合組織の格子像

これによって、Snの酸化は水(H2O)が関与するSn3O2(OH)2から始まり、SnO、SnO2の順に進んでいることが明らかになった。この反応では、表面からの酸素の拡散と、Sn3O2(OH)2の解離と合成による水素の循環(化学輸送)が生じていることが見出された。これは、工業的にSn薄膜などを利用する場合の信頼性を論ずる場合に非常に重要である。少なくとも、150年以上の長時間を経た結果であり、通常の短期間実験では把握不可能な現象の解明である。

ウ 材料科学の応用と寄与-金属薄膜を使った環境評価法の開発-

薄膜は半導体デバイス、磁器デバイスを始めとして、先端産業では必須の材料である。薄膜は塊状物質とは異なった挙動を示すので、これに注目した利用が可能である。
半導体やガラスなどの非常に平坦な基板の上に形成された薄膜の表面は光学的平面に近いので、表面からの反射機能を利用すると厳密な測定ができる。また、このような薄膜の腐食は均一に進むので、腐食を利用した応用ができる。
著者が薄膜デバイスの劣化実験に用いた方法の応用として、環境測定に利用したところ、湿度、温度、亜硫酸ガスなどによる環境の善し悪しが明確に測定できることを示した。図6は美術館の内外における環境評価で、反射率の高い場所の環境が良い。

美術館の内外における環境評価の図
図6 美術館の内外における環境評価

これは、従来の環境成分の評価とは異なり、腐食などを受ける物質・材料側からの評価技術であり、文化財の保存には勿論のこと、工業的な金属材料の腐食環境評価にも広く利用できる。

エ ナノ構造の解明による真実に近い文化財の分析

青華白磁のコバルト釉の分析:Co原子のナノ分布
わが国では、伊万里焼に代表される青色で紋様を描いた磁器は、柿右衛門などの技法に発展し、江戸時代の代表的な輸出製品であった。その青色顔料はCoを含むものだが、これの成分と光学的に測定した色の間には時代や地域による相関があり、朝鮮や中国との関係が解明された。さらに、電子顕微鏡で釉のナノ構造を観察すると、図7で示すように、ガラス地の中にCoを含む球形の凝集体が存在し、釉全体での評価とは異なることが明らかになった。

コバルト釉中のCo原子凝集体の図
図7 コバルト釉中のCo原子凝集体

煮色着色層の微細構造-Auナノ粒子の役割-
江戸時代に大きく発展したわが国の装飾用金属工芸技術の中で、煮色着色技術は銅および銅合金を腐食液中で処理して表面に色づけするものである。赤銅(しゃくどう)はCuに数パーセントのAuを加えることによって銅色から紫黒色に変化する。これは、図8で示すように、Cuの表面に形成された亜酸化銅(CuO)の中に数ナノメーターのAu粒子が分布し、これの光学的な効果によって着色する。プラズマ振動などに基因するAuの光吸収や選択透過、半導体/金属接合による光吸収などが原因であり、ナノ構造の観察によって始めて着色の機構が明らかになった。

オ 根来椀の漆層の顔料-顔料の製作法の解明-

根来椀は紀州の根来寺を起源とする黒漆地に朱漆を塗った木椀で、表面が滑らかな仕上がりの高級漆器である。この朱には硫化水銀(HgS)が使われているが、非常に滑らかな仕上がりの要因については不明であった。朱漆層を電子顕微鏡で観察すると、ナノ寸法の粒子からなっている。HgS鉱石を粉砕するだけでは、これほど微細な粒子の作製は不可能で、これはHgS鉱石を加熱して昇華させて作製したものである。このように、非常に微細な粒子を使用しているため、表面が非常に滑らかなものと考えられる。

 亜酸化銅(Cu2O)中の数ナノメーターのAu粒子の図
図8 亜酸化銅(Cu2O)中の数ナノメーターのAu粒子

現在、化粧用のファンデーションでは、顔料をナノ粒子にすることによって美しい化粧技術を実用化している。根来椀は同じ発想で作られたもので、現代の技術の先取りをしている。

カ 体系化された学問の応用-江戸小紋の幾何学的解析-

江戸小紋と呼ばれる布の紋様は室町時代から江戸時代にかけて盛んになった。その紋様数は数千種ともいわれる。これらを分類するために、既に体系化されている結晶学の知識を応用した。結晶とは異なり2次元であるが、幾つかの格子型として分類すると、小紋全体をうまく整理できる。図9は数種の基本紋を異種原子と同様に考え、2次元の格子模型にしたものである。また、格子の微妙な変化で視覚情報が異なることや、紋様デザインの発展の過程が明らかになった。さらに、図10で示すように、鮫小紋といわれる無秩序な点紋様の準規則性はアモルファスの構造として理解することができる。紋様をフーリェ変換すれば、さらに厳密な解析ができる。これらから、紋様を美しいと認識するときの規則性からのずれの効果など解明できる。

数種の基本紋からなる小紋の2次元の格子模型の図
図9 数種の基本紋からなる小紋の2次元の格子模型

さらに、これらの解析を基礎にすれば、コンピューターなどを利用する新しい紋様の考案に利用できる。

鮫小紋の図

鮫小紋の配置の準規則性の図
図10 鮫小紋とその配置の準規則性

3‐7 提言

以上に述べた視点から、次のような提言をする。

  1. 自然科学的研究支援の強化、特に、文化資源分野でのナノ分析、ナノ構造研究等の導入とその積極支援
  2. 大学間連携、企業-大学間連携等による文化資源の高度な研究・教育の推進
  3. 文化資源の高度な自然科学的研究拠点の形成
  4. 文化資源の保存等に対する民間支援の活性化
  5. 文化資源分野で幅広い分野に能力を発揮できる人材の育成

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科学技術・学術政策局政策課資源室

(科学技術・学術政策局政策課資源室)