3.各論 第1章  自然資源及び統合的管理の概念整理

1‐1 自然資源の概念

 自然資源(natural resources)とは、普通には鉱物資源、生物資源、更には河川、湖沼などの水などを意味するが、更に一般的には、気候、気象、或いは景観などもふくめて考えることができる。最も広く考えればそれは人間社会がその中で生活し、人間が利用することのできる自然の中のすべてのもの、従って大気、土壌、太陽光などもふくむと理解することができる。このように考えればそれは自然環境(natural environment)と区別できないものとなる。むしろ自然環境の中で人間にとって価値あるもの(valuables)が自然資源と呼ばれると捉えるべきである。
 ただし、「価値あるもの」は、しばしば経済的に理解され「高価なもの」あるいは少なくとも「価値がつけられるもの」と同一視されて来た。経済学的にはそれは「稀少性(scarcity)」を持つものと表現されている。しかしそれが必ずしも本源的な(intrinsic)ものの価値と一致しないことも昔からよく注意されて来た。空気・水・太陽光などは価値があっても価格がないものの代表とされている。近年になって水資源はしばしば不足し、また清浄な空気を必ずしも容易に得られなくなって「空気と水はただで得られる(free)」とはいえなくなったし、太陽光についても、場所によっては価格がつけられるようになっている(日照権)。しかし人間にとって価値ある自然がすべて価格がつけられるものではないし、いわんや市場において成立した価値がその価格を正しく表現していると考えることはできない。
 資源資源の価値を考えるときは、大切なことはその市場価格ではなく、その本来の価値と基準とすることである。そうして自然資源の統合的管理とは、このような意味での自然の価値を保全することであると考えられる。
 しかしながら、自然資源の本来の価値といっても、それが何を意味するかを正確に定義することは困難である。それでも自然資源の統合的管理を問題にするとき、この点を避けて通ることはできない。
 ひとつの例として地球温暖化の問題をあげよう。この問題に対して、しばしばCO2排出量の抑制にともなう経済コストと、温暖化によって生ずる被害額とを比較するという方法が採用される。そうしてこの2つはともに現在価値に割引きされた世界総生産GWPの累積額によって計測される。
 このような方法は一見「合理的」であるように見えるが、あまり意味がない。このような計算に使われるデータの不十分性、予測に伴う不確実性等々の要素はしばらく問わないとしても、一体ここで割引されたGWPの累積額なるものに何の意味があるのであろうか。かりにGWPが、その時に生きている世代にとっても「価値」(或いは福祉welfare)の総額を表しているとしたとしても、現在の世代の人々の福祉と100年後の人々の福祉をどのようにして比較することができるであろうか。或いは100年後の福祉を適当な率で割引いて現在の福祉に加えることにどのような意味があるであろうか。
 更にGWPは1人当たりの生産と人口の積に等しいので、人口が多くなればそれだけGWPが大きくなるが、それでよいのであろうか。むしろ1人当たりGWPの方がよりよい尺度ではないかという疑問が生ずる。しかし今度は逆に人口が減少していくら少なくなっても、1人当たりの大きさが大きくなればそれでよいのか、GWPが減少しても、それ以上に人口が減少すればそれでよいのかという疑問が生ずる。
 しかしそもそもGWPは、特定の時点においてその年の世界総生産をその時の価格で評価したものにほかならない。いろいろな財・サービスの価格は時とともに大きく変動するし、そもそも長い間には生産される財・サービスやその消費の仕方も大きく変ってしまうから、離れた時点でのGWPの実質価値を比較することは、ほとんど不可能である。だから地球環境の変化の影響を、それが将来もたらすであろうGWPの大きさの変化によって計測しようとすることは、ほとんど無意味であるし、それを環境保全のために現在支出されるコストと同じ尺度で比較することはできないであろう。
 人間にとって自然そのものを意味する自然資源は、それ自体絶対的な価値を持つものと考えなければならない。それは自然が人間より価値があるとするような「自然至上主義」を意味するものではない。人間、人類全体、人類文明もまた絶対的な価値を持つものであって、それを価格によって評価することはできないものである。人類文明全体の「ストックとしての価値」を評価して、それを存続させるためのコストと比較し、どこまで文明存続のための努力を払うべきかなどという計算をすることは馬鹿げている。人類文明はそれ自体絶対的な価値を持つものであり、その存続は「至上命令」である。実は自然が絶対的な価値を持つのは、自然が人類社会の存続のための絶対的条件であるからにほかならない。従ってまた全体としての自然資源の保存は「至上命令」であって、そのことは価格やその裏面としてのコストで評価できるものではないと考えなければならない。
 しかしこのことは、自然に手を加えて変えることが許されないとか、自然資源を消費することはつねに悪だということを意味するものではない。自然そのものは絶えず変化するものであるし、また生物は地球上の自然を大きく変えて来た(酸素をふくんだ大気の生成はその最も大きな事例である)。人間は文明の成立以来、地球上の森林の大きな部分を、開かれた農牧用地や都市化、一部は砂漠や荒地に変え、生態系も大きく変えてしまったが、そのこと自体を「悪」であるとする必要はない。地球上の自然は極度に複雑なダイナミックなシステムで、多様な力の相互作用によって絶えず変化しているのである。人間もまたこのシステムの中に主体的に参加しているのであって、ただ自然を与えられたものとして受け取っているわけではない。
 自然資源の保全とは、このようなダイナミックな自然のシステムが、人類文明の存続にとって致命的となるような方向への変化を起さないように行動することを意味するのである。そのことは必ずしも自然資源、或いは自然についての現状維持を意味しない。人間にとって現実にあるよりもよりよい自然条件というものを想像することは可能である。しかも自然を意のままに「改造」することが人間の技術をもってしては当面不可能である以上(かつてのソビエト連邦で企てられた「自然改造計画」は惨めな失敗に終った)「間氷期」にあたる現在の地球上の自然条件の基本的枠組と維持することが目標とされねばならない。
 地球上の自然のシステムは、物質に関しては基本的には閉じた系(closed system)である。エネルギーに関しては開かれた系(open system)である。従って自然資源の保全とは物質に関しては安定的な循環を、エネルギーに関しては安定的な流れを維持することであり、そのような安定的に循環する物質と、エネルギーの流れを利用して、人間の文明社会を存続させることであると考えられる。ただしここで安定的とは必ずしも一定不変であることを意味しない。物質循環の様態は変化してもよいし、エネルギーの流れの様相も変わってもよい。けれども地球上の物質やエネルギー(或いはエントロピー)の分布が一方向にのみ動いて行って人類の破滅をもたらしてしまうことがないという意味で、変化は持続可能(sustainable)でなければならないのである。
 持続可能性とは、一定の状態を維持することではない。自然環境の変化に適応し、また自然環境に働きかけつつ、物質循環とエネルギーの流れの安定性を確保することを意味するのである。
 このように自然資源を広い観点から捉えれば、それは単に自然の中から人間が取り出して利用できる「もの」だけでなく、人間が自然の中で利用することのできるすべての条件を意味すると考えなければならない。従ってそこには資源resourceと環境environmentは不可分のものと考えなければならないし、資源と環境の保全は一体のものとして理解する必要がある。或いは古典的経済学では労働・資本に次ぐ第3の生産要素とされた「土地」も一体化して考える必要がある。
 しかし「資源」と「環境」或いは「土地」については、前者はフローとして利用され、後者は「ストック」として利用されるという区別が存在する。つまり「資源」は消費されなければ価値がなく、消費されれば資源としては無くなってしまうものとするのに対して、「環境」や「土地」は存在していることに価値があり、それを利用しても「摩耗」や「破壊」されることにはなっても一般に消滅することはない。現在の経済学はしばしば「ストック」そのものの価値を無視して、「ストック」ではなくストックから生ずる「資本サービス」の「フロー」が価値あるものと考え、「ストック」を「フローの累積」として埋蔵されている資源と同様に扱うが、これは単なる便宜的な擬制であって「環境」や「土地」を扱うには適切ではない。大気や土地などを消費可能な一定量の資源の集積と考えることは適当でない。従ってまたgreen GDPなどという考え方でGDPから環境悪化の分を差し引くということも適当とは思われない。環境悪化を「マイナスのフロー」としてGDPの表す「ポジティブなフロー」と同次元で捉えることは正しい方法とは思われない。同じ考え方からすれば環境改善の努力の結果は資本形成Green capital formationということになるのであろうが、そうするとまたそれに対しては、資本減耗capital depreciationも計算しなければならなくなるが、それでよいのであろうか。勿論環境悪化や、逆に環境改善の効果を何らかの形で計量的に評価することが望ましいことであろう。しかしそれを国民経済計算計画体系の中にふくめて一元的な価格評価を行おうとするのは正しくないと思う。あくまでも市場評価によって計算されるべき国民経済体系に対して、自然自体の価値評価はそれとは異なる次元のものであるべきだからである。このようにいうことは国民経済計算の意味を否定しようとするものではない。国民経済計算はそれとして市場価格原理で一貫することが、整合性と明確性を保つ所以であり、そこに市場価格原理以外の評価を(持ち込むことはその有用性を損うことになるのである。)勿論逆に人間活動にかかわるすべての価値評価を市場原理で統一しようとする「市場原理主義」の立場は、人間と自然との関係の場には通用しないものである。
 しかしこのことは、環境問題に経済計算を持ち込んではならないという意味ではない。資源を有効活用するためにも、また環境保全を効率的に行うためにも、性格な価格やコストの評価は必要である。ただ環境や資源の保全について、全体として市場価格にもとづくコスト・ベネフィフト計算を持ち込むこととできることとは明確に認識しなければならない。

1‐2 資源の統合的管理

 資源と環境を一体として「自然」と捉えた時、自然の保全の問題は極めて多様な側面を持つ。そこには基本的に3つの作用がふくまれている。1つは自然科学的(物理化学的、及び生物学的)な関係であり、1つは人間社会の社会科学的な関係であり、そうして更に人間と自然との相互関係である。自然の保全にはこれらのすべての関係を考慮に入れなければならない。その全体は極めて複雑であり、まだ十分解明されていない部分も少くないので、われわれの持っている知見には大きな不確実性が残されている。その中で人間社会が直面する課題も多種、多様である。
 このような問題を統一的な原理に従って総合的、かつ体系的(comprehensively and sysoptematically)に扱うことが望ましいと考えられるかもしれないが、実はそれは不可能である。対象となる現象や問題の中には、比較的短期的、局所的なものから、極めて長期にわたる全地球的な規模のものまで、さまざまなスケールのものがある。このような場合に、つねに長期的・全地球的な観点から考えるべきであるというのはまちがいである。すべての小さいスケールの部分と統合して、長期に全域を扱うような「モデル」や「理論」は作られていないから、人々が具体的に多くの場で直面するような小スケールの問題に対する解答は、長期を対象とする大域的な理論やモデルからは導かれないのである。他方長期、或いは広範囲にわたる対象については、短期ないし局所的な場とは別個の規則性や法則性が存在し、それを対象とするモデルや理論も作られているから、大域的な問題を局所的な問題の集合として扱うこともできない。
 むしろ個々の具体的な課題に対しては、それぞれに対応しつつ、全体的な関連も見失うことなく、整合的に行動することが必要である。それが統合的管理(integrated control)というものである。
 本来長期的・広域的な課題に対して、短期的・局所的な問題に具体的に対応することは「対症療法」にすぎないといわれることがある。確かに本源的な病気を治すことなく、対症療法だけに終始したのでは、病気は治らないであろう。しかし当面患者が苦しんでいる苦痛や症状を鎮めることも重要であり、対症療法も必要である。ただその場合も本来の病気を治すこと、更には体力や健康度を高めることを怠ってはならないし、また対症療法も本来の病気の治癒や健康の回復に悪影響を及ぼすことがないように選択しなければならないのである。人の病気についても、その時々の症状から、それの直接の原因となっている特定の病気、そしてその人の全般的な健康状態までいろいろなレベルがあり、それらに対応していろいろなレベルの医学的手段がある。そのことを統合的に判断して、いろいろなレベルの手段の適切な組み合わせを選ばなければならない。それを統合的医療(integrated medicine)といってもよいであろう。
 地球規模の自然資源や自然環境の管理の問題は、医学の問題より一層複雑多様である。従って一層高度な統合管理が必要になる。
 このような問題に対して、これまで2つのアプローチがあった。1つは統合的計画comprehensire planningの考え方である。それはすべての要素を一元的に総合して、計画を作成し、それぞれ1つの組織によって実行しようというのである。共産主義的計画経済はこのような考え方によって構想されたのであった。それによってすべてを合理的かつ効率的に達成することができると考えたのであった。しかしそれが最終的に失敗に終ったことは今ではよく知られている通りである。それは一国の経済全体には極めて多くの複雑多様な要素があり、それらをすべて一元的に把握することは不可能なので、それを単一の中央計画の下に行わせようとすることは不可能である。結局不効率な結果になってしまうのである。もう1つの理由は、組織全体を上からの命令によって動かそうとした結果、具体的な現場での人々の主体性や理念を生かすことができず運営が硬直化し、多くのムダと不効率を生じたのであった。1990年代初頭ソ連や東欧の社会主義体制は崩壊し、中国も共産党政権の下で経済は完全に資本主義化した。その後中国が極めて大規模な経済成長を開始したことは周知のことである。
 自然との関係でもソ連時代には「自然改造計画」が唱えられ、中央アジアの自然も大きく変えることが計画されたが、それはまだ本格的に実行される前に、アム河、シル河の灌漑によってアラル海が干上ってしまうという大失敗をもたらしたのであった。自然の生態系や気候システムの微妙なバランスと無視した一面的な発想によって自然に手を加えることは、取り返しのつかない結果を生ずることが明らかとなったのである。
 もう1つの問題は、自然のシステムを大きく変えるような大規模な計画は、極めて多くの人々の生活に影響することである。そこでは利害の対立が必然的に生まれるだけでなく、何が望ましい結果であるかについての人々の価値判断も多様になる。そこに中央政府が単一の価値基準によって計画を作成し、それを権力によって強制することは、人々の反発を招き、少なくとも人々の自発的で積極的な協力を遠ざけることになるからである。ソ連の場合モスクワの政府の作成した計画が、中央アジアに住む多様な民族に属する人々の生活上の要求や価値観を無視して、ひたすら「国家目標」を達成しようとしたものであったことは否定できない。そのような計画は現地の人々に利益をもたらすようなものであっても現地の人々の計画遂行に対する積極的な関与、従ってまた現地の人々が持っている自然に関する経験的知識や知恵を生かすこともできなくなったのでは意味がない。
 総合的管理の中には中央集権的な計画ではなく、すべての関係する人々の利害と、価値判断を尊重し、異なる利害と価値判断を調整しながら、全体としての整合性を計ることが重要である。その意味とは社会主義的計画の考え方とは異なる考え方に立たねばならない。
 その意味で統合的管理は、総合的、全体的計画とは異なることに必要がある。すなわち問題ごとに、地域やコミュニティに権限を委譲し、その中で生ずる利害の対立や価値判断の違いについても、それぞれの場で調整できるようにすべきである。しかし同時に国全体としても各地域の要求を全体として調整して、整合性と効率性を達成することが必要である。すべてを地方へ委ねることもできない。統合的管理においては、問題ごとに、集中と分散の適切なバランスを保たなければならない。
 ところが社会主義経済の失敗が明らかとなった後、「小さい政府」を強調する「新自由主義」の意見が強くなった。
 すなわち、社会における人々の活動の調整はすべて市場に委ねる。政府の干渉介入は最小限にすべきであると主張されるようになった。環境問題については、それは環境影響の「外部性」によって生ずるものであって、その「内部化」つまり環境影響によって生ずるマイナスを市場にコストとして反映させることが望ましい方法である。環境破壊によって生ずるマイナスと環境保護のために要するコストと市場が評価することによって、最も効率の高い結果が得られると主張されるようになった。
 しかし環境の価値が、そのような方法によって市場において適切に評価されるようになるとは思われない。特に地球温暖化、気候変動の場合、それによって影響を受ける人々は時間的にも空間的にも直接CO2を排出する人々とは遠く離れているが、その被害の大きさを直接市場に反映してCO2削減のコストと比較計量し、「最適な排出水準」が達成されるようにするなどということはできない。この場合地球の気候、気象条件の「外部性」を市場経済の中に「内部化」することは不可能である。
 狭義の自然資源、鉱石や化石燃料などについても、その採掘コストは市場に反映するが、その有限性による本来の「稀少性」を市場価格に適切に反映することは恐らく不可能である。変化する技術的条件の下で、採掘可能な資源量も、また必要量も明確に予測することはできないからであり、また現在の効用と需要の世代の人々の効用とどのように比較計量するかについても明確な基準は存在しないからである。
 「外部性」の議論は、環境の価値が本来市場によって評価できるものであることを前提にしている。たまたま市場の「失敗」によって、それが市場価値に反映されていないので、政府が適当なインセンティブで、或いはディスインセンティブに与えることによってそれがコストで価格に反映されるようにすれば、後は競争によって最も効率的に環境が改善されるであろうというのである。
 勿論環境管理の手段として、経済的インセンティブを用いることは有り得ることであろうが、しかし環境破壊の結果が、つねに一定の経済的損失として価格評価できると考えるのは正しくない。逆に環境を改善とするような「プラスの外部性」も存在するが、それについても価格で評価して、その推進のために経済的インセンティブに依存しようというのであろうか。しかし清浄な空気や水、或いは美しい景観などの「プラスの外部性」は本来価格評価できないものである。
 統合的管理は、計画的経済でも自由経済でもない第三の考え方にもとづかねばならない。それは多くの個人や企業、或いは公共的団体が、自由にかつ主体的に行動することを前提とする。しかしそれと同時にすべてを放任するのではなく、様々な主体の行動が全体として望ましい結果にもたらすよう、調整をはかるのである。そのために直接多くの主体に何をなすべきかを命令するのでなく、多くの主体が望ましい方向に行動するように誘導し、場合によっては税や納付金によってインセンティブを与え、更に場合によっては法律によって規制するのである。一般的にいって直接的な命令でなく、間接的な方法による制御がその方法である。
 このような政府による間接的な制御、或いは管理の必要性は、いわゆる規制緩和、脱規制が進む中で進行する中で、むしろ高まって来たというべきである。すべてを計画的に達成することができるとするのが幻想であったといえば、すべてを市場に委ねることによって予定調和が達成されるとするのも夢想にすぎないことは明らかである。
 自然と人間との関係において、多くの人々や集団の主体的行動が整合的であり、長期的に持続可能なものとなるようにするためには政府と民間、或いは多くの主体をまき込んだ統合的管理が必要とされるのである。

1‐3 自然資源の歴史的変化

 自然資源の中で何が最も重要であり、何が稀少であって、社会の発展の制約条件となるかは、人類社会の発展とともに歴史的に変化する。
 人類の文明が狩猟・採取段階にとどまっていた時期には、森林や河川、海湾などに生息する生物が基本的な資源であり、自然が生み出すままの量が資源量であった。
 農業・牧畜段階になると、人間は必要とする動・植物を増やすことができるようになり、そのために必要とされる土地と水、それに森林が本源的な資源となった。
 産業革命とともに工業化が進むと、工業製品の原料、及び燃料となる鉱物が重要な資源となった。
 しかし20世紀になって、科学技術が進歩すると、必要とされる資源は変化した。例えば19世紀末までは窒素資源として硝石が重要であって、その稀少性が大きな問題となったが、空中窒素の固定法が開発されて、無限に存在する空気の窒素が利用可能となって、窒素自体はもはや稀少な資源ではなくなった。またかつて多くの有機化合物は、特殊の植物などのみから得られ、稀少な資源とされたが、20世紀には合成化学技術が発展して、これらのものはほとんどすべて人工的に合成可能となり、更に自然に存在しない多くの化合物が作られるようになって、一般的に化合物は稀少な資源ではなくなった。元素資源については、新しく作り出すことは原則として不可能であるが、技術の発達により利用可能な資源の範囲は拡大と、また一度利用されたものを再利用され循環させる技術も開発されて来た。
 しかし化合物の合成や、低品質資源の利用或いは資源のリサイクルにはエネルギーが必要である。結局、少々短絡的にいえば、21世紀の現在、資源問題はほとんどすべてエネルギー資源の問題に帰着するといってよい。
 ただし食料については、勿論まだ自然の中の生物(植物・動物)に依存し、それは人工的に合成することは不可能であるが、しかし農・畜産物の生産においても、化学肥料や農薬、或いは温室などに多量のエネルギーを投入することによって、その量を大きく増すことができたのであり、それによって単純な土地の大きさによる制約は無くなったといえないが、大きく緩和されたのである。20世紀後半の世界的な食糧の大増産は、このようなエネルギーの投入と、品種改良によって可能となったのである。今後分子生物学にもとづくバイオテクロロジーの発達によって、なお食糧の増産の可能性は開かれている。
 ただしここで燐の有限性が制約となる可能性はある。燐は生物にとって不可欠の元素であるが、窒素とは異なり、事実上無限に存在するものではないので、地球上のバイオマスの制約となることは考えられる。その他稀少元素の中に、生産増大の絶対的な制約となり得るものがあるかははっきりしない。
 もう1つ本来的に資源と思われるのは水である。勿論水は単にH2Oとしてだけでは海水という形で無限に存在するが、資源として必要なのはいわゆる淡水であり、それが海と大気の間を気象現象を通して循環しているものが資源として利用されているのである。その量は有限であり、しかも空間的にも時間的にも利用可能な部分は限定されている。水は極めて多くの目的に利用されるが、食糧生産にとっては最も重要である。21世紀においては利用可能な水の量が食料生産の限界をもたらす可能性がある。
 これについては2つの対策がある。1つは海水の利用である。海水の淡水化は技術的には可能であるが、それを大規模で行うには大きいエネルギーが必要である。もう1つは水の有効利用である。そのためには降水を無駄に海に流出させないようにすること、同じ水を(必要な処理を加えて)何回も利用することが必要である。それについても技術の開発とともにエネルギーが必要となる。
 もう1つ本源的な資源と考えられるのは森林と土壌である。森林は木材等の生産とともに、美しい自然環境を提供するが、それはその限りでは、再生も可能なrenewable自然資源の一つと考えられる。しかし熱帯雨林とともに温帯や寒冷帯の大森林は、多様な生物の棲息地として生物多様性の源泉となる。またCO2の吸収、降水の保存、砂漠化の阻止など気候、或いは周辺地域の気象条件にも貢献している。これは森林は単にフロー資源の源泉と見なせないことを意味している。
 土壌は農作物にとって絶対的な条件であるが、それは単に農業生産のために投入される原料と同じものと見なすことはできない。適当な科学的・物理的性質を持ち、豊富に有機物を含んだ土壌は、農業牧畜における誤った土地の過度利用や、不適当な土地利用によって失われれば容易に回復できない。土壌はかけがえのないストックとして注意深く保全されなければならない。
 フローとしての資源で安定的な循環を確保することは、エネルギーの問題が解決すれば基本的に解決できると思われる。
 エネルギー問題の困難さは、それが単に利用可能なエネルギーの量と質の問題に盡きないところにある。産業革命以来、人間のエネルギー消費量は飛躍的に増大した。それが主として石炭、石油などの化石燃料、すなわち過去において生物体によって地中に蓄積された太陽エネルギーの消費に依存していたために、有限なエネルギー資源の枯渇がすでに100年も前から懸念されていたのである。エネルギーは熱力学第二法則によってつねに一方向にしか流れないから、利用可能なエネルギーは地上の物理化学系、生態系の外部から供給されるものしかない。それは基本的には現在太陽から放出される光エネルギーと、過去に放出されて地中に蓄積されたものしかない。前者は時間的にほぼ一定であるし、後者は有限である。そこにエネルギー資源の本質的有限性がある。ただし核融合、核分裂をふくむ核エネルギーの利用が拡大すれば、それはエネルギーの外部からの供給を増大させることになる。しかしそれにはまた別の問題もある。
 エネルギー利用においては、また熱力学の法則によって、その利用効率を100%にすることは不可能である。従って必ず利用目的以外の形でエネルギーを放出することになり、エネルギーの流れを乱すことになる。それによって外部に意図しなかった変化をもたらす。従って仮に利用可能な資源が無限に存在したとしても、無暗にエネルギー利用を増大させれば、それにともなって目的に合致しない方向へのエネルギーの流れが生じ、環境を攪乱することになる。熱汚染はその1例であろう。
 環境問題は、資源問題と表裏の関係にある。つまり資源は自然の中の「もの」が、人間にとって有益な、或いは有利な形で存在することを意味し、環境問題はそれらが人間にとって有害な、或いは不利益な形で存在する(或いは生成される)ことから生ずる。そこで環境問題にも、物質の面とエネルギーの面が存在する。すなわち物質が有害な形で存在すること、或いは有害な物質が生成されることが、環境問題の物質的側面であり、有害な、或いは破壊的なエネルギーの流れが生ずることがそのエネルギー的側面である。前者については、多くの場合、エネルギーを投入することにより解決可能である。すなわち有害な物質を除去したり、化学変化を起させて無害な物質に変化させたりすることが可能である。しかしエネルギーについては、エネルギーの流れを変えるためにエネルギーを投入すれば、エネルギーの流れの攪乱はより大きくなってしまうから、その解決は困難であり、基本的にはそのようなエネルギーの流れを生ずる原因を除去するほかはない。ある意味ではそれが最も根本的な環境問題であり、地球温暖化問題はその典型であるといえる。気候変動は温暖化であっても寒冷化であっても、人間生活に大きな影響を及ぼす。見方によっては温暖化は寒冷化より望ましいといえる。寒冷化は植物の生産を確実に減少させ、食料供給の困難をひき起こすことが確実だからである。しかし寒冷化に対応することは、温暖化に対応するより容易であるともいえる。寒冷化(或いはその影響)を防ぐには熱エネルギーを供給しさえすれはよいが、温暖化を防ぐためには熱を外気に排出しなければならない。しかしそのためにはやはりエネルギーを加えなければならないから、そこに基本的な矛盾が生ずる。冷房は暖房より技術的に困難であることは、人類は有史以前の昔から暖を取っていたのに対して、冷房や冷凍の技術が生まれたのはようやく19世紀になってからであることからも明らかである。
 21世紀の世界において、エネルギーも一資源の管理が自然との関係で、最も本質的な問題となっているのである。そこでは資源の量だけでなく、その開発や利用のしかたが重要になっていることに注意する必要がある。このことは資源利用の効率化が最も重要な基準となることを意味する。なぜならばエネルギーの不効率な利用は、それだけエネルギーの流れを不必要に攪乱し、意図に反する作用をひき起して、広い意味の環境破壊をもたらすこととなるからである。
 同様にものとしての資源についても、その利用の効率化をはかることは、単に有限な資源をなるべく効率的に利用するというだけでなく、利用された後の廃棄物や、排出物の量を減らし、環境汚染を少くすることになるからである。
 自然資源の統合的管理については、各種の資源の相互関係に注意しなければならない。物質資源については、多くの場合問題はエネルギー問題に帰着するとのべたが、逆にいえば資源量だけでなく、資源の利用のために必要とされるエネルギーの量にも注意しなければならない。最近資源のリサイクルが奨励され盛んになっているが、リサイクルにもエネルギーが必要であり、しかもその量はしばしば自然に存在する資源を利用する場合よりも大きくなることがある。リサイクルするよりも資源の消費そのものを効率化し、量を減らすことの方が有効であるかもしれない。最近紙について古紙利用の嘘偽表示が問題になったが、嘘偽の表示はともかくとして、古紙を利用する新鮮なパルプを用いる方が、生産コストも低く品質もよい紙が作られるとしたら、無理に古紙を利用することにどのようなメリットがあるかをあらためて検討すべきである。その上で古紙利用に資源保存の上での「外部効果」があるならば、それが市場で評価され「内部化」されるようなシステムを作ることが必要である。
 自然資源の統合的管理については、資源利用にかかわる多くの面を総合的に考察しなければならない。

1‐4 統合的管理の必要性と地球温暖化対策

 地球温暖化問題に対する関心が、最近にわかに高まって、CO2排出の抑制が盛んに強調されるようになった。しかしこの問題は極めて複雑かつ多面的な構造を持っており、単にCO2ガスを有害物質としてその発生を減らせばよいというような問題ではない。そこでは真の意味の統合的アプローチが必要である。
 そもそも人間の活動によるCO2の排出、大気中のCO2濃度の上昇、大気温の上昇、そしてそれにともなって発生する気候や気象の変動については、まだ未知ないし未解明の部分が多く、量的因果関係や将来予測にはまだ大きな不確性がふくまれている。スーパーコンピュータを用いた気候変動モデルによる予測にしても、モデルの形やパラメータの値に関する仮定に依存するところも多く、いくつかのモデルによる予測は必ずしも一致した結論を得ていない。しかしIPCCによる研究などを通じて、概ね次の点では一致した結論が得られている。
 すなわち、産業革命以来、人類が地中に堆積された化石燃料を燃した結果、大気中のCO2濃度はすでに100ppm以上上昇し、その結果、世界の平均気温は既に1℃程度上昇した。もしこの傾向が続けばCO2濃度は産業革命以前の2倍以上になり、気温はなお2〜5℃も上昇するであろう。それによって平均1m程度の海面上昇、及びその他の変動が生ずるであろう。
 実は未来のことではなく、既に世界各地でいろいろな気候変動、及び異常気候が起こっている。極地における氷床の減少、高山の氷河の後退、ツンドラの解凍、或いは世界各地における夏の猛暑、暖冬など温暖化に直接結びつく現象だけでなく、豪雨、暴風、或いは旱ばつなど温暖化が原因と見られる異常気象も頻度と強度が増している。またその結果として各地の動物、植物の生態系にも変異が見られる。
 このような気候変動の結果として、将来人間社会は大きな影響を受け、危機的な状況になる危険性もあると恐れられているのであるが、このような問題の考察に当っては、まず問題の構造を整理することが必要である。
 まず重要なことは、タイム・スパン、すなわち時間的拡がりの認識である。地球温暖化問題は基本的には極めて長いタイム・スパンを持つ問題である。産業革命以来、石炭の大量消費が始まってから、そして一部の科学者が温暖化を予測してから、20世紀末近くなって温暖化が現実の問題として認識されるまで100年以上が経過した。このまま化石燃料の消費が増加したとしても、その影響が完全に発現するのは22世紀になってからのことであろう。逆に、現在直ちにCO2排出量を削減し始めたとしても、CO2濃度上昇、温暖化はしばらくは続くであろう。
 このような状況に対して、それ故超長期的計画が必要であるとして、300年にも及ぶ長期モデルを想定して、CO2排出削減の「最適シナリオ」を提案した学者もあったが、そのような考え方は馬鹿げている。歴史を振り返えるまでもなく、300年先の人類社会がどのようなものになるかについては想像することすら不可能であり、それについて「最適シナリオ」を今から想定できるなどとは考えられない。300年先の人類社会は、もし温暖化の問題に直面したとしても、現在のわれわれには想像もできないやり方でそれに対処するであろう。
 ある程度の現実性を持って未来を想像できるのは50年後、せいぜい100年後くらいまでであろう。その時までには、どのようなコースを取るにしても、地球温暖化問題は完結していないであろう。そこでわれわれが現在構想し得るのは、50年後或いは100年後までに安定状態を作り出すことでなく、その時のCO2濃度の上昇の変化の方向と速さ、気候変動のトレンドをどのようにコントロールできるかである。
 そもそも地球上の気候は、長い間にはまだまだ知られていない様々な原因によって、さまざまな周期で変動しているから、それを完全に安定化することは不可能である。また現在の地球の気候の状態が人類にとって最善であって、気候変動は必ず災害をもたらすというものでもないから、すべての変動を止めようとすることが最善ともいえない。人類にとって温暖な気候の方が寒冷な気候より一般的には望ましいことは明らかである。現在温暖化が脅威とされているが、20世紀60年代に一時恐れられたように、小氷期が到来して地球上の気温が数度低下することになったら、生物生産が激減し、大変な事態になるであろう。
 時間の問題は変化の速さの問題でもある。気候の変化、或いはそれとともに起こる海面上昇などは、ゆっくりとしたものであればそれに対応することができる。しかしその変化が速すぎると、生態系も、人間の社会システムもそれに対応することができずに混乱し、場合によっては破綻してしまうことになる。温暖化やそれにともなう気候変動し降水量や日照の変化には、品種や作物の種類の転換、場合によっては栽培適地の移動によって対応できるであろう。このような転換にはコストがかかるが、気候変動がそれほど急速でなければ転換は可能であろう。人間が快適な健康な生活を送るためには、それぞれの気候に適した居住形態や住居の様式が必要であるが、気候変動が急激に起れば適応ができず被害を受けることになるであろう。2003年にヨーロッパを襲った熱波は多くの死者を出したが、それはヨーロッパの都市ではあのような暑さに対する備えがなされていなかったためであって、あの程度の暑さは熱帯は勿論、亜熱帯にある都市ならば猛暑というほどのものでもなかったのである。今後温暖化が続くことが予想されるとすれば、住居の設計や都市計画においてはその要素を考慮して適切に対応することが必要である。
 地球温暖化については、長期的なCO2排出を削減して温暖化を抑制することも重要であるが、同時に温暖化によって何が起こり得るかについて予測して、なるべく早くその対策を講ずることが必要である。その中でトレンド的に起こることともに可能性は必ずしも高くないとしても突発的に起り得る異常事態(暴風、豪雨、或いは氷床の解凍による急速な海面上昇など)についても緊急の警報システムと対策を準備しておくことが必要である。
 CO2排出量の削減は必要ではあるが、現在人間活動の大きい部分が化石燃料の消費に依存している以上、その削減だけを目標とれば、経済活動全般を抑制しなければならないことになるが、気候変動の抑止ということが自己目的にはならないことを考えればそれは誤りである。また現在の社会システムの下でそれが不可能であることは、どこの国の政府でも経済のマイナス成長や国民の生活水準の大幅な低下を政策目標とすることはできないことと思えば、ほとんど明白である。CO2排出による温暖化の進行は世界全体が一体化した現象であるから、一国がCO2削減を進めても自国だけが温暖化の影響から逃れることはできない。また世界のために自国の国民を犠牲にしてCO2を削減しようという国も存在しないであろう。また何れかの形で世界的に組織された力によって、経済活動を抑え込もうとすれば人々の大きな反発を招き、大混乱を招くだけであろう。
 CO2削減と経済成長を両立させるということは、決して無責任な妥協といったものではなく、むしろ至上命令というべきである。勿論このことは経済成長に名分として、CO2排出抑制を無視してよいことを意味するものではない。CO2排出量をできる限り少なくしながら、経済成長を達成する方向を求めるということである。そのための本質的目標はエネルギー利用の効率化を「クリーン」なエネルギー資源の開発である。それは自然資源の統合管理の根本的な目標と一致する。これに対し表面的にCO2排出量の削減にのみとらわれることは、かえって長期的なエネルギー利用の効率化に反することになる恐れもある。例えば最近ガソリンを一部代替し、CO2削減に通ずるものとしてバイオエタノールが奨励されているが、しかしそれがこれまで利用されずに捨てられていた素材(砂糖きびの搾りかす、稲や麦のわら、廃材など)から生産される場合はよいとして、人間の食料や家畜の飼料となる穀物を転用したり、ましてやバイオエタノール生産のために原生林を伐り開いて穀物畑にしたりしたのでは、全体としては逆効果である。しかもバイオエタノール増産の目的が、原油価格の高騰によって引き起こされるガソリン価格の上昇を防ぎ、自動車のための安価な燃料を確保するためであるとすれば、長期的にはCO2排出量の抑制に対しても逆効果となる可能性が大きい。バイオエタノールの増産が、穀物価格の上昇を狙う穀物メジァーの利益のみに貢献することになったのでは長期的な人類の収益にはならない。勿論このことはバイオエタノールの利用そのものを否定するものではないが、それがCO2削減に有効であるためには、それが適切な形で生産され適切な形を利用されなければならない。
 またすでにヨーロッパで導入され、日本でも導入が検討されている、CO2排出量取引制度についても、一部の経済学者が主張しているように、それが市場原理を利用することによって排出量を削減を最も効率的に実現する制度であると簡単にいうことはできない。このような制度が有効に作用するためには、1.最初の排出量の配分が合理的であって、公平であると感ぜられるものであること、2.排出量を越えた排出が行われないよう取り締まる制度が整えられていること、3.配分される排出量が多すぎもせず、少なすぎもせず適正であること、4.排出量価格が投機的な取引きによって激しく変動するようなことが起らないことが必要である。このような前提条件が現実に満たされているか否か疑問である。現実に旧ソ連を引きついたロシアや東欧の国々が、旧社会主義時代の不効率なエネルギー消費のいわば過度としての排出量を大量に保有しており、それをいち早く省エネルギー技術の開発と普及を進めて、もはや排出量削減の余裕のない日本が買わなければならないような状況を、われわれが不公平に感じても、「自国中心のエゴイズム」と批判されなければならない理由はないであろう。またCO2削減義務を持たない開発途上国に対してCO2削減に通ずる技術を提供した先進国に対し、その結果生じたCO2削減量をその提供した国の削減分に算入するという方式も、CO2削減、或いは省エネルギー技術の普及、移転を促進する効果を持ってとか期待されるが、排出価格との関係で途上国が技術提供をする権利を売って利益を得るようになれば問題である。このような制度の導入には、開発途上国もふくめてすべての国々の間で、まずそれぞれの国ごとの構成で削減目標についての広範な合意が成立していることが大前提である。
 エネルギー利用の効率化については、2つの面がある。1つはいろいろな場面におけるエネルギー原単位の改善である。これはそれぞれの場におけるいわば単体技術であるが、現在までそれについてエネルギーの投入量に流れを細かく制御する技術が大きく貢献したこと、それは機械などに組み込まれたコンピュータのソフト技術に依存していることに注意すべきである。もう1つは、1つの工場、1つのビルなどから、大きくは1つの社会分野、産業部門などのシステムに関するものである。この点で最も大きな問題は交通システムである。19世紀から20世紀前半までに鉄道の時代、20世紀後半からは自動車の時代であるが、自家用自動車中心の交通、運転システムは、いろいろな意味で便利であり、効用が高いとしても、車の生活に必要とする分に車の移動に要する分とを合わせて、全体的なエネルギー効率の点からは、鉄道より遙かに不効率である(蒸気機関車は低効率であったが、それに鉄道の本質ではない)。しかし現在アメリカを先頭として多くの先進国では自家用車の普及によって公共交通機関が衰退してしまったために、自動車の生活に欠かせないものになってしまっている。そうして中国やインドなども経済の高度の成長の中で、公共交通機関の整備より前にモータリゼーション時代に入ろうとしている。しかし世界中の人々が米国と同様に2人で1台の車を持つようになるとしたら、エネルギー資源が枯渇し、CO2排出量が大きく増加してしまうことは確実である。そのようなことが起こる前に公共交通機関を中心としたエネルギー効率のよい交通システムを作らなければならない。そのためには世界的な協力が必要である。
 最近経済のグローバル化は急速に進んでいる。それはもはや止めることはできない。一般的にいえば、経済のグローバル化は世界的な競争を通じて効率化を推進すると思われるが、世界各国の技術水準や、経済水準或いは賃金に非常に大きな格差が存在する中でグローバルな競争が展開されると、大きな歪みが生ずる可能性がある。ここでは所得格差、不平等の問題は取りあえずおくとしても、条件が非常に異なる国々の間で行われる市場競争は、自然資源の利用、環境保全に関して不効率を生み出すことが少ない。
 特に開発途上国が輸出している自然資源はその国が貧しく、また賃金も低いために、非常に低いコストで開発され産出される、安く売られることが少くない。そのためにまたその国は貧しいままに置かれることになる。このような場合に、資源の価格はその本来の稀少性もまた開発にともなう環境破壊のコストも反映しないことになり、資源の効率的な利用を妨げる。逆にまた一部の産油国のように資源の稀少性を利用してその産出物の価格を吊り上げて大きな収益を得る場合には、今度はそこから得られた莫大な所得が一部の特権階級の豪華な生活のために無駄に費やされてしまい、その結果、CO2排出量も増加するということになって、資源の有効利用は妨げられる。
 環境保全、或いは温暖化防止、手段としてエネルギー税、或いは炭素種などの導入が唱えられている。既存の石油消費税、ガソリン税などもそのような性格を持っている。このような税は、石油の消費そのものをほとんど禁止したり、いわんやエネルギー消費を抑えて経済成長率を下げたりするほど高率にすれば、それによって生ずる経済の歪みによる悪影響が大きくなるが、あまり低すぎもせず高すぎもしない適当な税率であれば、石油やエネルギー全般の利用効率を高め、また省エネルギー技術の開発を促進するインセレティブとなるであろう。しかしこのような税は、租税体系全体、或いは国の財政全体の中で、整合的に考えなければならない。一方で、景気刺激のための一般的な減税を必要としながら、同時に炭素税を新たに導入することを考えたり、炭素税による増収分を結果としてCO2排出量を増加させるような経済活動も促進するような方向に向けることがあってはならない。政府の負債が累積し、増税が必要であれば、エネルギー税や炭素税に税源を求めることが合理的である。
 この点で現在論ぜられているガソリン税の一般財源化は正しい方向であるというべきである。一方で温暖化防止、CO2削減の重要性を強調しながら、ガソリン税の暫定税率分をそのまま道路特定財源として維持したり、逆にそれを廃止してガソリンを値下げしようとしたりするのは、いずれも矛盾であるといわねばならない。CO2削減のような長期的課題に対しては、経済社会には複雑な相互作用が働くことを考慮して、長期的総合的な視野を持つことが必要である。
 同時に温暖化、異常気象はいろいろな面でいろいろな影響を及ぼすことを考慮して、各分野においてそれぞれ具体的な対策を論ずる必要がある。特に都市や住宅の計画については、温暖化を考慮に入れてヒートアイランド対策、冷暖房システムの設計などを行う必要がある。また全般的な国土利用計画についても、人口減少と気候変動の両面を考慮しなければならない。この点からすれば将来気候条件が改善されるとみられる(現在でもヨーロッパなどと比較して特に寒冷とはいえない)北海道の人口が急速に減少しつつあるのは不合理であると考えられる。
 気候変動問題は、長期的総合的視野の下に、長期的な計画と同時に短・中期の具体的な問題に対する対策を総合的に考える統合的アプローチを最も必要とするものである。特に異った諸分野の活動が、長期的なエネルギーの効率的利用に向かって合理的に調整されることが最も重要である。

1‐5 人口と資源・環境問題

 自然資源・環境問題と関連してしばしば人口問題が重要な要素として論じられて来た。マルサスが「人口論」において、人口は絶えず幾何級数的に増大しようとするのに対して食料生産はせいぜい算術級数的にしか増加し得ないから、食料不足による貧窮はさけられないと論じて以来、しばしば人口過剰が自然資源の不足、環境破壊をもたらすという主張がなされて来た。1960年代にはPaul Ehlichは「人口爆弾」という本を著して、人口爆発は核爆発より恐ろしい。20世紀末までには人口の爆発的増加によって、世界的な飢饉が発生し、世界は大混乱に陥るであろうと「警告」した。マルサスやエーリッヒの悲願的予想に反して、食料生産は人口増加を越えて増大し、現在ではなお世界に飢餓が存在するとしても、それが絶対的な食料不足によるものでないことは明白であるが、食料をふくむ自然資源に絶対的な限界が存在し、地球上にも生存し得る人間の数に限界があることは事実である。また長期的に見れば、人類文明の発達が地球上の自然に大きな圧力を加え、それを大きく変化させて来たことも明白である。従って自然資源・環境の問題を考える場合は、人口が重要な要素となることは確かであるが、それを単に資源と人口との算術的な比例関係として把握し、有限な資源に対する増大する人口の問題、すなわち「過剰人口」の問題と理解してはならない。人口問題はもっと微妙で複雑な様相を呈しているのである。
 第1に、一定の人口が必要とする自然資源の量、或いは逆に一定の自然環境が維持することができる人口の大きさは、技術水準や社会体制、或いは生活様式などによって大きく変化する。人間社会は地球上の極めて変動の大きな自然環境・資源のあり方に適応して技術や社会システムを発達させて、大きく異なる自然条件にそれぞれ適応する多様な社会を作り出して来るのであった。他方自然条件も決して一定不変ではなく、一方では農業の発生以来、地球上の大きな部分の自然資源は大きく変化したし、また地球自身のまだ十分には解明されていないリズムによって、気象、気候などの条件も変化し続けているのである。それに対しても人間社会に絶えず適応の努力を続けて来たのであるが、時には人間自身の活動による環境破壊(森林の破壊、土壌の塩化など)、或いは気候変動に対して対応し切れないで社会の衰退、或いは滅亡を招くこともあったのである。
 従って人口と自然資源の関係は、静的固定的でなくダイナミックな過程と考えねばならない。その中でも最も重要な要素は技術である。技術の発展によって、何が利用できる資源であり、それがどのような制約をするかは既に第3章でのべた通り、時代とともに根本的に変化するのである。
 また人間が必要とする資源の量は、人々の生活様式の変化によって大きく変動する。基本的な1人当たりの食料にしても、動物性食品の摂取が増加するとともに、家畜を通じて間接的に消費する部分をふくめていわゆるオリジナルカロリーの消費は大きく増大する。そのことは一般的には栄養の改善を意味すると考えられているが、しかしオリジナルカロリーの消費が多ければ多いほどよいわけではないことは、現在ほとんどすべての先進国で、人々が一般に過栄養、肥満に悩まされていることからも明らかである。
 また必要とされる資源の量と内容は、個人の生活スタイルだけでなく、社会システムによって大きく影響される。20世紀前半、諸国が石油や鉱物資源を求めて争ったのは、何よりも軍事力強化のためであった。現在石油資源に対する最大の需要が自動車から来ていることは疑いないが、それは米国を先頭として先進諸国が自動車中心の交通、運輸システム、またそれに対応する居住形態を作り上げてしまったからであり、また中国、インドなどの国々もそれに続こうとしているからである。
 従って人間と自然資源の関係、資源・環境から来る制約を単に人口と資源量の比で考えるのは単純すぎる考え方といわねばならない。過去において自然資源の過度の消費や環境の破壊が社会の衰退をもたらしたことがあったとしても、それを単純に人口過剰によるものと理解するのは誤まりであって、むしろその社会が自然条件に対して適応することに失敗したためと見るべき場合も多い。
 しかしかつてマルクスが主張し、そして多くのマルクス主義者が追随したように、貧困は資本主義或いは封建制などの階級支配が生み出したものであって、人口過剰、論は貧困を不可避のものとし、労働者に低賃金を押しつけるためのテマゴギーにすぎないとするのも誤まりである。人口が急激に増大すれば、一定の社会システムの下での生産力の上昇を越えて「人口過剰」現象が生ずることは事実である。そうして生産力の上昇がその時々の技術のあり方とともに、利用可能な自然資源の量や土地の大きさによって制約されることも事実である。しかしこのような場合に生ずる問題は、基本的には絶対的に人口が「多すぎる」ことでなく、人口が急速に「増加する」ことによって起こって来ることが多いのである。人間社会はつねに一定の枠組の中で生存している。人口が急激に増大すると、在来の枠組の中にそれを容れることが困難になる。勿論枠組そのものも変化し得るが、人口増加が速すぎると、それに追いつくことができなくなり「人口過剰」現象が生ずるのである。それは人口が絶対的に過剰になってしまったことを意味するものではないが、そうであるかのように見られるのである。昭和の初めころ、日本(当時の「内地」)の人口はほぼ6000万人で、現在の半分であった。「狭い国土に多すぎる人口」ということが盛んにいわれ、「海外進出」の必要性が免れたのであった。今から考えれば6000万人の人口が絶対的に過剰であったとはいえないが、しかし当時は人口増加率が年1.5%に達し、毎年100万人近く増加する人口を、なお農業人口が50%近くを占める日本社会に受容れることが困難になっていたのであった。
 確かに第2次大戦後、世界人口は爆発的に増大し、50年間には2.5倍、年率1.8%と増加し、特に1960〜20年代には年率2%以上に達したが、それが高すぎたことは確かである。多くの開発途上国で見られるような年率2.5%にも達する人口増加が、その社会に多くの困難をもたらすことは避けられない。従ってこのような場合に出生率を抑制する必要があることは疑いない。しかしそのことは人口が絶対的に「過剰」になりつつある。或いはすでにあってしまったことを意味するものではない。現に20世紀の最後の4半世紀になって、人口増加率は低下し始め、中国、インド、ブラジルなど「過剰な人口」を抱えているとされていた国々でも、出生率、人口増加率が下るとともに、急速な経済成長が始まって1人当たりの消費水準は上昇しており、これらの国々が「絶対的過剰人口の制約の下に置かれているという説は誤まっていたことが明白となっている。
 更にマルサスは「人間が性的欲望を持つ限り、人口はつねに増加しようとする」と主張したが、それも正しくない。すべての先進国では近代化の中で生活水準の上昇とともに出生率が低下し、高出生‐高死亡から高出生‐低死亡を経て、低出生‐低死亡という「人口転換」が行われ人口増加が低下したことは周知の通りである。更に日本や韓国、東ヨーロッパや南ヨーロッパでは出生率の一層の低下による少子化・人口減少が起こっているが、前近代社会においても、それぞれに人口調節にかかわる社会的メカニズムが存在していたのであって、つねに貧国と窮乏、そしてそれによって発生する社会的混乱や秩序の崩壊が人口増加をチェックしたというわけではなかった。日本の江戸時代の人口は17世紀初め、戦乱が収まって社会秩序が確立された後、急速に増大したが、18世紀初頭以来、人口増加は停止し、その後幕末まで人口はほとんど停滞した。それは17世紀に新たな耕地の開発が大規模に行われそれとともに農村やそれを構成する農家の数も増加して人口が増えたが、17世紀末それが限界に達して新たな農村が生まれなくなると、「村」を構成する共同体の大きさは「家」単位と固定されていたから自ずから人口増加が抑制されることになったのであった。そのような人口調整のあり方や、その効果は歴史的にそれぞれの社会で異なっていたから、それぞれの社会は異なる「人口法則」を持っていたということができる。それに歴史人口学の発達によってようやく最近になって明らかにされつつあるところであって、まだ未解明の部分が多いが、過去の社会がつねに「過剰人口」の圧力に悩まされていたと考えるのは正しくない。
 地球全体の或いは特定の一地域の自然環境や資源、土地との関係で抽象的、一般的に「収容万能な人口」や「最適人口」を計算することは無意味である。勿論そのような限界が存在することは確かである。例えば1兆という人口を地球上で養うことは不可能であろう。また1千億にしても、大きな困難と無理をともなうに違いない。しかしこのような計算は現実にはあまり意味がない。現実に問題とされるのは、21世紀中に人口が例えば100億を越えるとすれば、それは「絶対的に過剰」を意味するか否かということであって、そのような議論を精密に行うためには、多くの前提が必要であり、それについては自然科学的にも社会科学的にも、また技術の発達に関しても大きな不確実性がある。いくらかでも信頼できる予測を行うことは不可能というべきである。確実にいえることは、21世紀中に20世紀後半に起こったような急速な人口増加が起こるとなればそれは甚だ危険であるということであるが、それは例えば世界の人口が現在の2倍になったら、それは絶対的に過剰になるということとは違うのである。そしてすべての点から見て、低下しつつある人口増加率が再び大きく上昇する可能性は小さいと思われる。
 自然資源、環境との関係からすれば、近代では人口増加率よりも世界全体の経済成長率の方が遥かに大きな影響を与える。人口はせいぜい年に2%しか増加しないが、経済成長率は国によって10%を越えることもある。それに対して完全に比例的ではないとしても、資源消費が増大して資源環境への圧力が強まることは確実である。1970年にローマクラブは、世界には資源、環境の面から見て「成長の限界」が存在し、しかしその限界は21世紀の早い時点で確実になるであろうと警告したが、その後世界の経済成長は傾き、しかも最近になって中国を先頭としてインドなどの多くの人口大国が経済の高度成長を開始して、1人当たりの資源消費量でも先進国に追いつこうとしている。このことが世界の自然資源の絶対的不足をもたらす危険性はすでに明白であると思う。
 その中でアジアやアフリカ、ラテンアメリカの国の「過剰人口」を大きな問題とする人々が、中国やインドなどにおける自動車の急増、いかなる人口増加よりも遙にかに高い率での増加を見過ごしているのは不可解である。勿論中国やインドの経済成長を止めることはできないし、既に高い生活水準を達成している国々がそれに否認する権利も持たないであろう。自動車にしてもそれらの国の人々が自らの力で選択している限り、簡単に否定することはできない。米国や日本などの先進国も依然経済成長にこだわりつづけ、2%というような「低い」成長率であっても、世界のほとんどすべての国の人口の増加率より高いことを考えれば、経済成長のふくむ危険性を無視して「人口過剰」だけを問題にするのはナンセンスである。
 実は日本をふくむ多くの先進国、更には中国、韓国などのアジアの国々でも、出生率の低下、いわゆる少子化が著しく進み、人口は減少に向いつつある。ここで自然資源との関係で人口が減少することは望ましいことであると簡単に結論するわけにはいかない。人口がゆっくりと年齢構成のバランスを保ったままで減ることはおそらく望ましいことであるといってもよいが、合計特殊出生率が1.0に近づき、人口が年率2%という速さで急激に減少することは極めて危険である。人口構成が極端に高齢化し、老齢人口が50%へ達する一方、若年労働力が著しく不足するような社会は活力を維持することは困難である。人口減少の速さに対応して、すべての社会システムを30年間で2分の1に縮少しなければならないとすれば、そこには大きな混乱が生じざるを得ない。人口が減少すれば資源や環境に対する圧力が減ると考えられるかもしれないが、自然資源は放置すれば自然に回復するとはいえない。農耕地、工場用地、住宅地などをただ放置しただけでは荒廃が残るだけである。そこに「美しい自然」を取り戻すためには開発した場合と同様に資金と労働が必要になるのであり、人口が急激に減少する社会にはそれを生み出す余力はない。自然資源にしても、少子化と高齢化、そして過疎化は資源利用の効率を下げる可能性が大きいし、また資源利用の効率化のための新技術や新社会システムの開発するための資本や人材にも不足することになるであろう。
 人口の絶対数が少くなるということではなく、それが急激に減少することは急速に増加する場合と同様に、社会に大きな混乱と困難をもたらすのである。従って今後は先進国を中心とした人口減少、高齢化が少なくとも一部の開発途上国における人口増加以上に重大な「問題」となるであろう。
 しかしながら少子化、人口減少を急速に止めることは困難であり、日本において人口減少社会の様相が明確になって来ることは避けられないであろう。従って出生率低下を一層加速化するようなことは絶対止めねばならないが、今後しばらくは人口減少のトレンドが続くことを前提にして考えねばならない。それは資源や環境の問題を具体的に論ずる場合には、総合的観点から取り入れなければならない重要な要素である。
 人口の絶対的大きさについては、それが操作可能なものと考えではならない。一定の期間内にそれを大きく増やすことも大きく減らすことも不可能である。勿論破滅的な戦争によって人口を大きく減らすことは可能であるかもしれないが、先の戦争における日本の人的被害が300万人、人口の5%であったことを考えると、大きく人口を減らすような戦争があれば「人口過剰」が解消されるより前に国家や社会が滅亡してしまう。人口の増加率を抑制したり、減少を食い止めたりする政策はある程度可能であるが、それは人口変化の速さをコントロールすることであって、人口の大きさを変えることを直接の目的とするものではないと考えねばならない。
 自然資源、環境の問題を考えるとき、人口の大きさとその変化のトレンドは、基本的に与件と見なすべきであり、それを前提にして論ずるべきであって、人口を変えることを目標とすべきではない。実際「現在の世界の人口60億強は多すぎる、20億くらいが望ましい」などということは「現実のの地球は人間にとって小さすぎる。直径が2倍くらいになることが望ましい」ということと同じ無意味な議論である。しかも資源の統合的管理の目的のためには、問題の本質を誤まる危険な考え方というべきである。
 人口とそのトンレンドを考慮することは、長期的な社会資本投資に計画する場合、極めて重要である。人口予測を間違えば、不用な資本の建設に資源を消費する一方、必要な資本ストックがないために、資源の利用効率が低下することになるからである。例えば道路建設の長期計画において、将来の人口、その構成、地域的な分布が十分考慮されているか疑問である。数十年先までの建設計画を現在の「ニーズ」にそのまま反映させて作ったのでは、結局莫大な無駄を生むことになりかねない。
 自然資源の統合的管理という概念は、単に対象として自然資源や環境を考慮するだけでなく、人間社会のあり方を対象とするものでなくてはならない。それは人間社会を操作しようとするものではなく社会の基本的なトレンドを見極めることであり、その中でも人口の最も基本的な要素であることは疑いない。

1‐6 統合的管理の方法

 自然資源の統合的管理については、いくつかの方法的観点が重要である。
 統合的管理の対象となる現象には、地球温暖化問題は典型的に見られるように、多様な自然科学的、社会化学的関係が働き、また多くの利害や価値観の異なる人々が関係する。その中で多様な価値観、異なる立場を認めてその調整をはかり、多くの人々の行動が整合的な結果を生み出すようにすることが最も大切である。一元的な価値観を押しつけてはならない。それは単に倫理的な問題ではなく、多くの人々の主体的な協力を得ることが最も重要だからである。
 また、自然資源の管理が多くの価値を持つことは、それに多くの分野の専門家、研究者がかかわることになる。そこでいわゆる学際的協力が必要になるが、狭い意味の学者、研究者だけでなく、技術者、行政官などについても異なる分野の人々の協力が必要である。その場合、多くの分野の人々のinterdisciplinary(学問研究に限らず専門分野を越えた)協力については、単に専門知識を持ち寄るだけでなく、相互理解をまず高めることが必要である。異なる分野の専門家の間では、しばしば同じ言葉が微妙に異なる意味に用いられるが、相互にそのことに気がつかないために、誤解が生ずることもあるからである。統合的管理のためには異なる分野の知の統合も必要であり、そのためのソフト技術も重要である。
 価値基準や立場の多様性を認める一方、統合的管理の推進のためには、その基盤となる価値観については一定の立場が共有されなければならない。例えば地球温暖化に問題について考えれば、地球上の気候がどのような形になることが望ましいか、或いはそのためにどのような努力をし、コストを支払うべきかということについて、世界中の人々の見解を一致させることは困難であろう。しかし、共通の理解として、少なくとも地球上の自然は、まだ生まれていない世代をふくめて全人類の共通の財産である。それを保全して将来の世代に伝えることは、全人類の共通の義務であるということが認識されていなければならない。その上で世界の人々が協力することが基本的な前提である。勿論地球環境問題においても特定の国の「国益」やグループの利益が主張されることは避けられない。しかし実は温暖化問題などにおいて、CO2を排出する国と温暖化によって被害を受ける国とは直接関係ないから、もし各国が自国の「国益」だけを考えて、被害が自分のところに及ばなければ関心を持たない、更には自分の国が排出するCO2によって他の国々が被害を受けるならば、そのことをパワーポリテックスの手段として利用して被害の大きい国を脅迫するということになれば、問題の解決は絶望的になる。このような場合、国際間の「現実政治」による取引や市場メカニズムによる調整によって利害が調整され問題が解決されることは期待できない。地球環境問題解決の最も重要な前提は、国際的な協調である。もし大規模な戦争が起こるようなことがあれば、そのこと自体自然資源の大規模な浪費、環境の破綻をひき起こすのみならず、地球環境問題解決のための基本前提が失われてしまう。
 われわれは自然資源の統合的管理の問題についても、日本の「国益」を優先的に考えるのは当然である「人類全体の観点」のみを重視して日本の人々の利益を無視することはできない。しかしその場合でも「国益」の増進が人類全体の利益と一致する方向でなされなければならない。
 それぞれの国の「国益」が全人類の利益と結びつく、或いは少なくとも矛盾しないように、世界的なシステムを構築する必要がある。グローバリゼーションの進展は、世界各国、或いはそれぞれの国のグループの利害をますます密接に結びつけているが、それが市場経済の発展という方向だけで行われるとすれば、各国の「国益」やいろいろな集団の経済的な利益の追求が自然資源の無駄な消費や環境の破壊をもたらす可能性も大きいことはすでにのべた通りである。経済のグローバル化を阻止しようとすることは無意味であるが、それをチェックするための国際的メカニズムを作ることは必要である。
 同時に各国の「ナショナリズム」が強くなって、自然資源の「囲い込み」に向かう傾向もチェックしなければならない。20世紀になっては自然資源の獲得をめぐる競争がしばしば国際紛争の種となった。そうして国際的対立の激化は軍事力の競争を伴い、その結果軍需物資としての自然資源の重要性を一層高めて対立をさらに激化させるという悪循環を生み、遂には戦争を招くことにもなったのである。21世紀には自然資源をめぐる競争が深刻な国際紛争をひき起こすことがないよう、努力が必要である。
 自然資源の統合的管理においては、「国益」と人類全体の利益、或いは特定の集団の利益と国全体の利益をともに視野に入れて、その間に矛盾や対立を生じないような方向をさぐることも重要である。
 統合的管理を行うに当たっては、その主体がどこにあるかも明確にしなければならない。多くの関係者の意志や意見を尊重することについても、そこに統合する中心がなければならないことは当然である。これまでの議論ではそれが「国」或いは中央政府であることを暗黙の前提として来た。しかし政府は多くの省庁に分かれており、それぞれに権限がある。しかし自然の統合的管理の課題は、いくつかの省庁の責任分野にまたがることが少なくない。例えば地球温暖化の問題については、実はその内容はほとんどすべての省庁に関係するのである。このような場合、例えば環境省だけが問題を担当したのでは、有効な対策を打ち出すことは困難である。CO2排出抑制はすべての産業にかかわり、環境税などは財政にかかわる。それについてまたその解決と環境省と関係する省庁の間の調整、交渉だけによろうとすると、それが環境省は「環境保全」と各省は「産業の利益」を、財務省は「財政のバランス」をそれぞれ主張してそこに「利害の衝突」の形が発生し、結果は各省間の力関係を反映した妥協に終わるということになり勝ちである。このようなことでは真の統合的管理は成立しない。
 地球温暖問題のようなスケールの大きい問題については、何らかの形でその統合的管理を担う機構を政府に作る必要がある。
 自然資源、環境の統合的管理は、国全体だけでなく、地方レベルでも必要である。
 最近、多くの地方で少子化・高齢化が進み、また地域産業の衰退、地方財政の破綻など危機的状況が振興している。その中で「地方の活性化」「地域の再生」が叫ばれている。しかし地域の活性化と自然資源、環境の統合的管理とは密接に結びついている。実際美しい自然の保全、森林の維持、食料生産の確保などにおいて、地方は中心的な役割を果たさねばならない。地方の活性化にはこれらの役割を十分考慮にいれなければならない。そこで問題を統合的に把握し、統合的な施策を進めなければならない。すなわち産業の誘致と雇用の確保、農林漁業の拡充と環境の保全、そして人口減少の阻止と地方財政の再建などをすべて総合的に視野に入れてその地域の人々の主体的な立場から総合的施策と推進する必要がある。
 これまで商工業、農林水産、或いは建設業はそれぞれ別個の省の施策と結びつき、また環境、医療保健、教育などもそれぞれ別個省の管轄下に置かれて、それらの分野の施策が統合的に行われることがなかったといわざるを得ない。
 しかし例えば森林は単に林業の振興だけでなく、環境保全、観光などの多くの観点から統合的に管理されねばならない。しかし現実に日本の林業は輸入木材に圧倒されて衰退し、更に独立採算性に制約されている林野庁店も赤字が累積して、森林の手入れが十分行われなくなって荒廃が進んでいる。国土の3分の2を占める森林に恵まれている日本で、森林資源が有効に利用されないのみならず、荒廃してCO2吸収能力も減退しているようなことは世界的に森林の伐採による破壊が大きな問題となっている中で、自然の統合的管理の観点からみて好ましくないことである。一方では利用されない道路のために森林が伐り枯れて環境が破壊されているような状況もある。
 自然の統合的管理と結びつく地方活性化は国からの集権的管理によるのではなく、それぞれの地域の独自性を活かして、それぞれの地方が主体的に取り組むべきである。その点でも地方分権が進められるべきであろう。しかしそのことは国の援助が不要であるということではない。自然の統合的管理における有効な施策については国の援助がなされるべきである。特定財源によって道路建設のために支出される資金によって地方の雇用が維持されるというような構造は、自然の統合的管理にとって好ましくない。地方の財政を国からの直接支出にするにせよ、税源の委譲によるにせよ、地方自治体の財政基盤を強化することは必要であるが、資金の使途についてはそれぞれの地方が自主的に判断して、統合的な施策を進めるべきである。
 そのためには各地方においても自然資源の統合的な管理の能力を高める必要がある。そしてそのためには地方の行政だけでなく、その地域の人々の主体的な参加が求められる。

お問合せ先

科学技術・学術政策局政策課資源室

(科学技術・学術政策局政策課資源室)

-- 登録:平成21年以前 --