4. 脳科学研究人材の育成の在り方について

1.脳科学における人材育成の目標と理念

 近年の脳科学研究は、精神・神経疾患の病因解明等を可能にするとともに、失われた身体機能の回復・補完を可能とする技術開発をもたらすなど、医療・福祉の向上に最も貢献できる研究分野の一つであるため、社会からの期待が大きい。また、記憶・学習のメカニズムの解明等により、将来的な教育等への活用に対する社会の関心も高い。このような社会からの期待や関心にこたえるためには、脳科学の先端的な研究を行うとともに、脳に関する正確で科学的な情報の流布が期待されるため、それらを実行できる人材の継続的な育成が必要である。

 また、脳科学は、生物学、医学、薬学、化学、工学、情報学等の自然科学の領域のみならず、哲学、心理学、教育学、社会学、倫理学、法学、経済学等の人文・社会科学の領域や、芸術等の諸領域を含む文化とも大きく関係する学際性・融合性を持つ学問分野であることから、領域間の活発な議論が保証された環境の中で、複数の異なる領域に精通した人材の育成が必要である。さらに、研究目的の設定や研究成果の活用において、人間の存在、尊厳、倫理に関わることもあり、このような点について留意することが必要である。

 このため、学際性・融合性を特徴とした脳科学の人材育成には、広範な学問分野を系統的に教育する体制の維持が不可欠であり、次世代の脳科学研究を担う若手の人材育成に向けた効果的な教育体制の構築が必要である。また、大学院卒業後のポストドクターや若手研究職・教育職、専門技術職、産業界における研究職のような研究部門のみならず、研究戦略や知財戦略の企画立案を行う研究の運営管理部門など、多様なキャリアパス構築の体制整備にも取り組むことが望ましい。特に、これらの取組に当たっては、社会においてどのような人材が求められているのかを十分に考慮することが重要である。なお、研究においては「人」こそが創造の源泉であることから、「人財」という観点も考慮に入れていくことが肝要である。

 現在の大学教育の体制下において、脳科学教育は医学、薬学、理学、工学系の学部や大学院で分散的に行われており、広範な学問分野を俯瞰する教育プログラムはほとんど存在しない。したがって、学生が脳科学を系統的に学ぶことができる体制は、十分に構築されているとは言えない状況である。

 一方で、21世紀COEプログラムやグローバルCOEプログラムを活用して、脳や心を研究・教育の対象とした拠点も見られるようになり27、学際的・融合的な研究教育が模索されている。また、学内措置で脳科学に関する融合的な研究教育組織を設置し、教育実績を挙げている例も存在する。しかしながら、これらの取組はいずれも5年程度の時限措置であるため、継続した教育を実施できないのが現状である。

 脳科学は、学際性・融合性を特徴とした学問分野であるため、他の学問分野と比して修得に時間がかかることから、我が国においても、時限措置のある既存のプログラムを発展させるなど、継続性のある教育プログラムを確立することが必要である。

2.脳科学大学院教育

 学際性・融合性を特徴とした脳科学を担う人材の育成には、共通する基礎的な知識と技術に加えて、専門的・先端的な幅広い知識と技術や、人文・社会科学的な人間理解を併せて教授することが必要である。しかし、我が国の大学には、現在、単一で脳科学の全領域を網羅できる部局は存在せず、当面は大学内や大学間の連携を強め、講義・実習科目の単位互換等を進めることで、広範な学問分野に対応した脳科学教育プログラムを実施することが必要である。

 また、将来的には、大学において脳科学研究教育センターや脳科学に関する専攻等を段階的に設け、全国的な脳科学教育ネットワークを形成し、脳科学の人材育成を継続的に推進する体制整備が行われることが期待される。このためには、現在、先駆的に取組がなされているグローバルCOEプログラムによる拠点等を核として、融合型研究教育組織を整備するとともに、長期的視野に立って全国的な連携のもとに、脳科学の研究・教育を統合的に推進する中核拠点を設置することが望ましい。

 さらに、研究のグローバル化がますます進みつつある現状に鑑み、我が国における脳科学大学院教育の国際化も急務である。このため、世界の優れた大学との連携等を積極的に取り組んでいくことが望ましい。

 このような段階的な脳科学研究教育体制の整備、ネットワーク化、国際化を確実に実現するためには、予算面での配慮や、能力ある人材への経済的援助と適切な評価システムの拡充が期待される。また、このような脳科学大学院教育を推進していくためには、教員のみならず事務系職員等についても、専門的知識や外国語のスキル等を維持・向上させることが望ましい。

 また、学生の教育に当たっては、学部での卒業研究や修士課程研究において、より学際的・融合的な研究に興味を持った学生に対し、他大学や研究機関等への流動化を促進することにも配慮が必要である。

 なお、脳科学大学院教育の実現の大前提となるのは、個々の大学等の自主性による創意工夫と積極的な取組であり、ここで提言することは一つのモデルである。

2-1 脳科学教育プログラムの拡充

(1)大学における脳科学教育プログラムの実施

 学際性・融合性を特徴とした脳科学における人材育成には、所属部門におけるマンツーマンでの技術伝達を中心とした専門的教育に加えて、共通講義や実習、短期研修や国内外留学等を通して、幅広い知識と技術を身につけさせることが必要である。

 そのため、まずは既存の教育体制を活用し、学内措置で実行可能な脳科学教育プログラムを提供することが期待される。教育プログラムの内容としては、学際性・融合性を特徴とする脳科学を理解するため守備領域を広げることを目的としたコースと、高度な専門的知識を習得することを目的としたコースの二つが必要であり、学生のレベルと目的に応じた選択を可能とするようなものが望ましい。

 このような教育プログラムを受ける機会を広く学生に提供することは、新たな脳科学研究人材を育成することのみならず、脳科学の教育を受けた人材を社会に多数送り出すとともに、社会からの期待や関心が高い脳科学の研究成果等を、国民に分かりやすく伝えることのできる脳科学の素養を持つ科学コミュニケーターを育成する観点等からも必要である。

(2)大学間における単位互換等の促進

 大学間の単位互換等を進めることにより、脳科学の領域ごとに講義・実習科目の履修を可能とすることが望ましい。また、e-learningの手法等を用いた遠隔地の大学との交流や、欧米やアジア諸国の大学との連携を強めて、脳科学教育の相互乗り入れの実施を検討することが期待される。

(3)短期研修・国内外留学

 脳科学に関する専門教育を提供するだけではなく、他大学や研究機関への短期研修を実施するほか、国内外の留学を大学院の単位として認めるなど、学生に多様な経験を積ませる機会を提供することが期待される。特に、国際的に活躍できる人材を育成するためには、大学、学会等の支援により、海外研修や国外留学を経験させる機会を増やすことが期待される。また、優秀な外国人留学生の受入れは、我が国の学生にとっても刺激になり、教育効果が非常に高いことから、積極的に取り組むことが必要である。

(4)英語による脳科学教育プログラムの整備

 欧米やアジア諸国の大学との連携や優秀な外国人留学生の受入れのためには、英語による脳科学教育プログラムの整備が必須である。英語による授業やチュートリアル講義を行っている一部の大学や研究開発独立行政法人等によるプログラムを拡充することで、英語による脳科学教育プログラムを整備し、国際的に活躍できる人材の育成を促進することが必要である。

(5)複数の学位取得の促進

 学生にとっては、所属する専攻の研究・教育に加えて、広範な学問分野を俯瞰し、今後様々な分野で研究が進められ、また、様々な形で社会に貢献することが大いに期待される脳科学の専門教育を受ける利点は非常に大きい。そのため、大学において、脳科学の修士・博士の学位を取得できる専攻等が設置されることが期待される。

2-2 脳科学研究教育センターの設置

 脳科学教育プログラムで教育実績を上げた大学は、脳科学研究教育センターを設置することが考えられる。脳科学研究教育センターは、専任教員・事務員と兼任教員を配置し、安定的な予算措置に支えられる研究・教育組織として設置するとともに、専用研究スペースと優れた教員の確保を図っていくことが必要である。このような取組において、教員が常駐して研究・教育を行うことにより、密な情報交換や優れた人材育成を行える環境を醸成することが期待される。

2-3 脳科学に関する専攻等の新設

 欧米諸国の大学では、ペンシルバニア大学(米国)、ジョンズホプキンス大学(米国)、カロリンスカ医科大学(スウェーデン)等において、分子・細胞神経科学からシステム脳科学、認知科学、行動科学までを包含したニューロサイエンス・デパートメントが存在し、大学院生は脳科学に関する幅広い知識と技術を、系統的に習得する機会が得ることが可能である。

 一方、我が国の大学では、医学部だけでも解剖学、生理学、生化学、薬理学、病理学、精神医学、神経内科、脳外科等の個々の講座に、脳科学を専門とする教員が分散しており、例えば、ショウジョウバエや線虫を使った神経科学研究を行っている理学系研究者、ロボット・数理モデルを扱っている理工学系研究者、心理学や教育学の人文・社会科学系研究者等の研究者間の連携も多いとは言えない状況である。

 多次元で複雑な脳の機能を深く理解するためには、異なるバックグラウンドを有する大学院生が集まり、互いに切磋琢磨することにより、総合的な脳科学の素養を持つ人材が多数輩出されるよう、大学において脳科学に関する専攻等が新設されることが期待される。

 脳科学に関する専攻等の新設は、研究及び教育面で高い質等が必要であることから、まずは、学際的・融合的な脳科学の研究・教育の実績を有するとともに、必要な施設や設備等が既に整備されている大学において行われることが望ましい。

2-4 脳科学教育の統合的推進

 それぞれの大学において、段階的に脳科学教育体制の整備を行う一方で、長期的視野に立つ全国的な連携のもとに、脳科学教育を統合的に推進するため、全国の大学や研究機関等を大規模に組織化するネットワークを形成し、大学共同利用機関等がその中核としての役割を果たすとともに、研究開発独立行政法人が持つ国際的な基盤を活用することが望ましい。

 このようなネットワークの中核においては、全国の大学教員等の協力の下、学際性・融合性を特徴とする脳科学の発展のために、異分野連携を推進するモデル教育プログラムを先導する役割等を担うことが期待される。

 また、大学院生が若いうちから将来の研究指導者として不可欠な国際性を身につけるために、国際的研究拠点である研究開発独立行政法人において、積極的に若手研究者の育成を図ることが必要である。

 さらに、各機関が開催する脳科学の専門技術のトレーニングコース等を通じて、脳科学以外の学問分野から脳科学に参入する研究者の教育や、目的意識をもった社会人のリカレント教育等も含め、積極的に人材育成を行うことが望ましい。

  1. 21世紀COEプログラムにより「脳神経医学の融合的研究拠点(東京大学)」や、「脳の機能統合とその失調(東京医科歯科大学)」、グローバルCOEプログラムにより「脳神経科学を社会へ還流する教育研究拠点(東北大学)」や「社会に生きる心の創成(玉川大学)」等が支援されている。

3.若手脳科学研究人材育成とキャリアパスの多様化

 脳科学研究教育を受けた人材が活躍できる場は、大学院卒業後のポストドクターや若手研究職・教育職、専門技術職、産業界における研究職のような研究部門のみとは限らず、研究戦略や知財戦略の企画立案を行う研究運営管理部門も考えられる。したがって、若手脳科学研究人材の育成に当たっては、多様なキャリアパスの構築に適した体制の整備に取り組むとともに、学生から指導教員に至るまで、キャリアパスが多様であるという意識改革をすることが望ましい。

3-1 ポストドクターの支援体制の整備

 我が国におけるポストドクトラル制度は、第1期科学技術基本計画(平成8年7月閣議決定)の策定とともに本格的に導入され、ポストドクターは今や我が国の研究活動の活発な展開に大きく寄与しており、社会の多様な場で活躍することが期待されている。しかしながら、現在、我が国において研究機関以外への進路に関するキャリア形成支援は組織的には行われておらず、ポストドクター後のキャリアパスが不透明であるという問題も生じている。

 そのため、ポストドクター等のキャリアパス多様化に向けた組織的支援と環境整備を行う取組を推進するとともに、ポストドクターを雇用する際には、指導教員が責任を持っていくつかのキャリアパスを明確に示し、教育職・研究職、産業界等の適性を有する場への就職を促すような助言を行うことも期待される。

 また、定年延長や運営費交付金の削減等に伴い、若手教員のポストはむしろ減少傾向にあると言われている。こうした状況から、脳科学研究を担う優秀な若手研究者のキャリアサポートの推進や魅力ある脳科学教育プログラムの提供のため、研究職・教育職ポストにポストドクターを活用することも必要である。

 さらに、大学等は、若手教員のポストを増やし、テニュア・トラック制度等を導入するとともに、教育にも参加可能な特任教員の採用を認めるほか、職に関する情報提供や教育スキルの講習会を開催するなど、積極的に若手研究者を支援することが望ましい。特に、研究開発独立行政法人における若手研究者の育成機能を、大学院から研究指導者へのキャリアパスの中で有効に活用するため、大学と研究開発独立行政法人の密接な協力が必要である。

3-2 脳科学研究専門技術者等の育成

 学際性・融合性を特徴とする脳科学の発展は、様々な領域のイノベーションによるところが大きい。専門化・先端化する脳科学研究において、研究全体を俯瞰して研究戦略を立案する者、知財戦略の立案や知財マネジメントを行う者、脳科学研究の先端技術をサポートする者など研究活動を運営する人材の育成及び新しい技術の研究開発を行う人材の育成も重要な課題である。

 そのため、従来から技術職員によるサポートが重要と言われる病理組織解析の検査技師に加え、分子イメージング機器や多光子励起顕微鏡等の光学機器のデータ解析や分子脳科学的解析を行う技術職員、さらにはPET・MRI等を扱う医学物理士、脳内情報処理やBMIをサポートするプログラマー、各種遺伝子組換え動物の維持管理を行う実験動物技術者など、脳科学研究を支える専門技術を持った職員の育成及び拡充が必要である。

 したがって、大学や研究機関等においては、こうした専門技術者の身分の安定化と再教育等の支援にも積極的に取り組むとともに、大学院修了者やポストドクター経験者が活躍する分野の一つとして、専門技術職を位置付けるための工夫が期待される。

3-3 キャリアパスの多様化

 脳科学は、教育、福祉、マーケティング、ロボティクスなど、産業界と多様な接点を持つため、脳科学の専門的・先端的知識を有する優れた学生やポストドクターは、大学における研究職・教育職のみならず、例えば企業等における研究開発を推進する場でも活躍できる可能性を有している。そのため、大学や研究機関等においては、企業等への就職がスムーズに行われるよう、産業界にとっても魅力的な人材となるような教育を行うなど、キャリアパスの多様化に向けた取組が期待される。

 キャリアパスの一例としては、初等中等教育における理科教員が考えられる。専門的・先端的知識を有する人材により、脳科学に関する教育を早期から充実させることは、脳科学の持続的な発展にとって非常に重要である。また、これによって、研究スキルを持った教育者が育成されるのみならず、既に現場にいる教師に対して、脳科学研究の先端的内容に触れる機会が与えられることにも通じる。

 さらに、脳科学に関するサイエンス・コミュニケーションとして、脳科学研究に携わる研究者による出前講義、高校生を対象とした脳科学セミナー、サイエンス・カフェ等を開催することにより、国民の理解を得ながら脳科学研究を発展させていくことが可能となるといった効果も得られる。そのため、大学院修了者やポストドクターの経験者に対して、脳科学に関するコミュニケーションのスキルを身につけさせる機会を提供し、脳科学の素養を持つ科学コミュニケーターが育成されることも期待される。

お問合せ先

科学技術・学術政策局 計画官付

電話番号:03-6734-3982(直通)

(科学技術・学術政策局 計画官付)