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中央教育審議会

 1999/12 議事録 
中央教育審議会第227回 (議事録) 

 中央教育審議会  総会(第227回)

  議  事  録


平成11年12月7日(火)13:00〜15:00
霞が関東京會舘      35階  ゴールドスタールーム


    1.開    会
    2.議    題
          「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」
    3.閉    会


出席者
委員
根本会長、木村座長、河合座長、國分委員、小林委員、志村委員、田村委員、永井委員、松井委員、森  委員、横山委員
事務局
佐藤事務次官、御手洗初等中等教育局長、銭谷審議官(初等中等教育局担当)、佐々木高等教育局長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官


○根本会長  それでは、ただ今から第227回総会を開催いたします。
  御多忙のところを御参集賜りましてありがとうございます。
  懸案の「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」の答申(案)について、御審議をいただきたいと考えております。
  それでは、本日の配付資料の確認を事務局にお願いします。

<事務局から説明>

○根本会長  ありがとうございます。
  御案内のとおり、11月1日に中間報告を公表いたしまして、関係団体に対する書面によるヒアリングと国民の皆様方からの意見募集を行ってきたところでございます。
  そこで、関係団体と国民の皆様方からの意見の概要、新聞報道の概要等について、事務局に説明をお願いいたします。

○事務局  まず、関係団体と国民の皆様方からの意見について御報告させていただきます。
  11月1日に中間報告を公表いたしました後、35の団体に中間報告を送付して意見を求めました。35の団体と申しますのは、教育行政関係の団体、また校長会等の初等中等教育関係の団体、教職員関係の団体、保護者等の団体、高等教育関係の団体、それから経済団体ということで、御意見をお願いしたところでございます。全部御回答をいただきまして、九つの団体からは特段の意見はありませんということをいただいておりまして、内容として意見をいただきましたのは26団体ということでございます。中身はここにまとめましたとおりでございます。おおむね趣旨を肯定していただいていると認識しておりますけれども、意見の中には、総花的で具体的な提案についての踏み込みが足りないというような、ちょっときつい、厳しい御意見も一部ございました。内容につきましては、資料1(中央教育審議会「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」(中間報告)に対する関係団体からの意見の概要)(※1)と資料2(中央教育審議会「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」(中間報告)(※2)に対する関係団体からの意見)にまとめておりますとおりでございます。
  また、国民の皆さんに広く意見を求めるということをしておるわけでございまして、11月1日から22日までの期間におきまして、文部省の出しております文部広報などの広報誌やインターネットの文部省ホームページを通じまして、中間報告に対して広く国民から意見を求めました。また、文部省の教育改革モニターという方が100名いらっしゃいまして、その方々にも報告を送付して意見を求めたところでございます。そういった様々なルートでお願いをしました結果、109名の方々から意見が寄せられたところでございます。性別は男女ほぼ同数でございまして、年齢は20歳代から70歳代までわたっております。職業は教育関係者が約4割を占めておるわけでございますけれども、会社員、主婦、学生、自営業など、幅広い層からの意見が寄せられておるところでございます。答申に対する意見もございますし、この際ということで教育問題全般に対する意見も含まれておるところでございます。
  また、全国紙の報道ぶりについては、中間報告の基本的な考え方を否定するというものは全くございませんけれども、「具体的な提言に乏しい」とか、「既に検討が始まっているものを追認するだけで、新鮮味に欠ける」というような、もっとやるならこれぐらいという記事が多いように思います。また、有識者のコメントとして、「基礎学力を重視しているという点で半歩前進が見られた」という御意見でありますとか、「初等教育から高等教育まで一貫して職業選択と結びつけた教育を行うという提言は非常に重要で、評価ができる」という肯定的な評価もいただいておるところでございます。
  おおむね中間報告以来寄せられました様々な御意見、報道等については、以上のようなことでございます。

○根本会長  ありがとうございます。意見等の概要はただ今御説明のとおりでございますが、それを踏まえまして、中間報告に手を入れました。
  それでは、率直な意見交換を行いたいと思いますので御発言をいただけますでしょうか。

○  修文等の意見は特にございません。が、ちょっと感想的なことで、今配付いただいた資料1の関係団体からの意見の概要の中で、国立大学協会から、総論のところで「多様化した大学・短大を一般化して記述するのは不都合が生じる」という意見が出ております。基本的な考え方として、私も小委員会等を通じて、大学といったっていろいろあるんだという意見を言い、ほかの委員もまさに研究志向型の大学から職業人養成の学校から、それから教養的なものをやるとか、いろいろあるんだと。それを類型化してというような意見まで出たわけでございますが、私もその意見に近かったんですけれども、現時点で何か類型化してやるということは非常に難しいことだと思い、同時に今回、アドミッション・ポリシーという形で、各大学の目指している理念を入学志願者に示すことによって、その大学の特色、キャラクターを出していくということで、かなりな部分が果たせるのではないかと思ったわけです。
  ただ、同じく国立大学協会の意見で、「アドミッション・ポリシー」についても、「それほど多様なものになるとは考えにくい」と言っているので、そうだとするならばちょっと問題があるので、そこのところは各大学のこれからの努力がどういう形で出てくるか見てみる必要があるだろうし、やはり国立大学協会の意見のようなことであるならば、あんまり意味がなかったと、こうなってしまうわけで、これは各大学のこれからの努力を見守りたいということでございます。
  それから、冒頭申しました、いろんな大学を一般化して記述するのは不都合だというなら、一般化しない意見というのが国立大学協会にあるならば示してもらいたいと思うので、むしろその辺に一番反対するのが国立大学協会ではないかという気がするので、それはどういうことだろうかなと。本文を読んでみないとわからないんですけれども、印象としてはそんな感じを持ちました。

○  今、他の委員の方が的確にお述べになったと思いますが、国立大学協会も護送船団方式ではだめだということになっております。99の大学が本当はそれぞれ違うんですね。違うんですが、種別化というのはちょっと言い過ぎですが、類型化しようとしてもできない団体になってしまっている。独立行政法人化の問題が出てきましたときに、その辺が随分議論になったんですが、護送船団方式がだめだと言いながら、結局はそこへいかざるを得ないということで、今、他の委員の方がおっしゃったようなことになってしまっているのです。
  ただ、学位授与機構が大学評価を行うということになりますと、アドミッション・ポリシーを、鮮明にお出しいただかないと評価できなくなります。極端に言いますと、それが出せなければ存続の危機に曝されることになるのではないかと個人的には感じておりますので、そういう意味では、この御指摘は個人的には正鵠を得たものではないかと思っております。

○  いろいろなところの意見や新聞などで、総花的だとか、突っ込みが足りないと書いてあるわけですけれども、そう新たなことを次々にたくさん書くわけにいかないだろうと思います。ただ、問題は、書かれていることを実現していくときに、実現しやすいようなシステムといいますか、あるいはそういう人をつくることが本当は大事なので、実は今までの中央教育審議会でも、ずっと前から随分いい答申がたくさん出ているんですが、必ずしもそれが実現されていないので、それで繰り返しになったり新味がなかったりするわけです。ですから、これは人の問題が非常に大きい。といっても、人がかわるわけでございませんから、大学なり高等学校なりを運営する先生方の質の向上を、この答申とは別にまた考えなければいけないのだろうと思っております。

○  基本的には、両方の小委員会を含めて中央教育審議会が取り組んでおります日本の教育制度、いろいろ美点はあるわけですけれども、もっと柔軟な対応の可能性を探ると私は解釈しているわけですが、非常にいいことであると思っております。ただし、制度としましては、ある基準とか、枠組みが必要で、その兼ね合いが大事なわけでございます。
  それに関連しまして、一例として、「初等中等教育における進路指導の充実」で、「我が国では、自己の進路決定を出来るだけ先延ばそうとする傾向が見られ、このことが高等教育進学に際して目的意識を欠いたり、学習意欲の欠如につながる場合も少なくないと考えられるが、今後は、16歳、17歳までには進路について現実的な認識を持たせることが必要になる」とあります。生徒の個性はそれぞれでございまして、早熟な人も遅咲きの人もあり、大学を出てから進路を決めたり変えたりする人もあって、それに対してもできるだけ対応できる制度が望ましいのではないかと思います。それでここではそういう性格といいますか傾向の生徒には、16、17歳までに進路についていろいろ考えて、大学受験をそういう考慮の上で決めることを支援する。他方、日本ではほとんどの人が18歳のときに一生が決まってしまうという傾向があるように思いますが、それをさらに強化しないような、もっと後で決めることもいいことである、それも可能であるというような含みがあったらという感じがいたします。

○  最初に、いろいろな委員の方がおっしゃられたように、とてもよくできた答申だと率直に思います。一般的に言うと、行きたいと思うと大体みんな大学に行ける社会はかなりいい社会だと思います。それが今、日本では実現しかかっているわでありまして、そのことを支援するような方向で、接続をいろいろな形で検討して提言する、そういう役割をしているんだろうと思うのです。
  その際に、これはいろんなことがあって、日本の場合には前からのしきたりを一挙に変えるのは非常に難しいわけでありまして、前を考えながら少しずつ変えていくという流れでいかないと、どうもうまくいかないという部分があるんですけれども、その点に関しては道を開くという書き方でいかないと、改革が進んでいかないという感じがあります。その意味では、到達度評価という各学校段階ごとのことについて、初等中等教育では全国的にこういうものをきちんと調査して、試験という形ではなくてでもやる必要があるとしていただいたのは、一歩進んでいる、将来の改革の目になるのではないかと思います。
  つまり、到達度評価が大学でも行われ、高校でも行われ、中学校でも行われ、それぞれの学校段階で行われることによって、いわゆる学校歴という具合のよくないことが消えていくのではないか。どんな学校を出ても、どこまでその人が伸びたかということが評価されるような社会にする。つまり、学歴社会というのはよくないことではないと私は思っているものですから、学校歴社会はちょっとまずいのではないかという気もするわけです。そういう意味では、到達度評価の芽を今後も育てていけるような形に持っていけるとありがたいという感じでした。
  学校の現場では、例えば医学部の問題が今非常に議論になっております。確かに生物をやらなくてはいけないということを具体的に考えてやってくださっている医学部も、今年度から変えるということで進んでいるところもあるわけです。今までは医学部を受けるときに、生物をやらなくてもいいというところが6・4ぐらいで多かったわけですが、それが今年度の例で見ると逆転しだしております。それは非常にいいんですけれども、ただ、困ったなと思うのは、医学部を受けるような子は、物理、化学で受けたほうがたくさん点を取れるわけです。生物というのは、かなり優秀な子がやっても高い点は取れないわけです。ですから、合格のところの得点で切るということを考えると、物理が有利だという話になって、どうしてもそこのところが最後のところでひっかかりが出てくるという点があるわけです。
  ですから、中央教育審議会の答申で書けば問題が解決するということではなくて、これをもとにして各大学で本当に考えてくれないと、いいものはできないんだということを、発表するときにいろんな形でおっしゃる必要があるという気がいたします。生物が必要だということはわかっているけれども、現実にはそういう対応がしにくい。で、いい生徒を採りたいという医学部はなかなかそれに踏み切れないという現実があるわけです。だから、入試のところの、点で表をつくって、上から順に採るというところが変わらない限り、これは変えようがないという部分があるんです。それをどうしたらいいかということを、それぞれのところで検討しないと、結果としてはうまくいかないんだということをぜひおっしゃっていただく必要があるのかなと思っております。

○  要するに国民には、自分で何で生きていくのか、その道について、つまり進路について自律的になれということをこの答申は言っているのだろうと思います。総じてマスコミは、こういうときにあまり良い扱いはしないわけですけれども、期待がすれ違ったのは、「接続の改善」というテーマにしたものですから、もうちょっと今の受験にまつわる意識みたいなものを爆破するような提案を期待したんだと思うのです。中央教育審議会という場ではそれはちょっと無理で、全体的にそれぞれ大学に、あるいはそれぞれ国民に、意識を変えてくださいということを親切に言ったんだということだろうと思うのです。
  もう一つ、進路について自律的になれということは、ある意味ではつらいことでもあります。これは生涯教育の中でロングライフのスパンの中で決めていくことでもあるわけですが、私は高等教育のイメージが、今まで使ってきた脳の別なところを活用するような良いイメージの高等教育というのが、これは別なところでするのかもしれないけれども、例えば手とか、足とか、耳を使ったような、そういう付加価値教育があるはずだと思うので、そういうイメージがこの文脈からつかめればいいのかなという感じがしておりまして、芸術とか、文化とか、いろいろ入れていただいたんですが、そういう感じがしております。
  もう一つ、これはお伺いしたいんですけれども、ついこの間、教育課程審議会の答申があって、新学習指導要領ができましたよね。これでまた中央教育審議会のこういうのが出ますと、この間発表された新学習指導要領について、ちょっと違うようなニュアンスのものが相当あるわけです。あれはまた実際に動いていくまでに時間がかかるんですが、これがその後になるのか、実際に運用される場合に、少し早めに訂正できるところがあれば、途中からでも訂正できるのか。実際に子どもたちの上に影響が出ていくのがおくれていくような気がして仕方がないんですけれども、その辺は何かもう少し……。また中央教育審議会が「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」の答申を提出した後、教育課程審議会が行われて、また学習指導要領の改訂というふうになると、五、六年はおくれていくのではないかと思うのですけれども、その辺のところはどのように考えられているのかなという感想を持ちました。

○事務局  今のお尋ねでございますけれども、御案内のように、教育課程審議会が昨年答申を出しまして、昨年の暮れ、それから今年の春に、幼稚園から高等学校までの指導要領の改訂は終わったところでございます。実際、実施予定は幼稚園は来年からでございますが、小学校、中学校が平成14年度から全面実施、高等学校では平成15年度から、学年進行により実施する予定になっております。
  今回、初等中等教育の役割について、中央教育審議会のほうで御整理をいただいたわけでございますけれども、私どもはここで書いていただいております役割は、これまで教育課程審議会などで御議論いただきました内容を、非常にわかりやすく整理をしていただいたと受けとめておりますので、この答申が出ましたから、指導要領を実施される前に直すといったようなことは特に必要ないのではないかと思っております。
  ただ、この中で、学力の現状でございますとか、あるいは各学校段階ごとの到達度の評価とか、これからの教育課程行政を考える場合に、大変重要な御指摘もいただいております。これはむしろ教える内容というよりは、実際にこれから新しい学習指導要領を実施していった場合に、その実現状況をどう評価していくのかとか、各学校段階ごとにどのように教育課程の実施の状況を評価していくのか、その点について御指摘をいただいているわけでございますので、今後はその点についてさらに議論を深めていかなければいけないと思っております。現在、前回の中間報告の段階から、私ども教育課程審議会を再開して、今回御指摘をいただいた評価や学力の問題について、新しい学習指導要領のもとでどのように考えていったらいいのか、それを御議論する場を教育課程審議会の再開という形で用意をしていきたいと思っております。

○  中間報告が提出された11月1日からちょうど1ヵ月間、いろいろ御意見を聞いた中で修正があったと思うのですけれども、IEAの最新のデータを入れていただいたり、それから今問題になっている倫理観とか、モラルにつきまして、相当長く書いていただいたり、そういう面において御配慮いただいたことはありがたいと思っています。特に専門家でなくても、一般の人でもよく読めば、教育の在り方がわかるような気がしますし、例えば教育関係の会合でも、これを教材として使っても不自然でないような書き方だと思います。
  その中で、一貫して今回は役割の明確化ということをベースに置きまして、その上で、接続の在り方、そして大学の役割が明確になれば、その手段はそれぞれの大学に任せればいいのではないかという前提は理解したんでございますが、今回の資料3の3ページ目に、日本私立中学高等学校連合会から、「特に、大学入試について具体的方策を示すべき」とあります。大学とかの各学校段階の役割を我々はいろいろ議論してきたわけでございますが、世間の中では手段を示せということまでも言ってきているのがあるということは、もうちょっと違う角度から我々もPRしていく必要があるのではないかという感じがいたしました。
  それから、国立大学協会の意見は、特に接続の問題を考えた場合、大学審議会との連携の中で、国立大学協会がどういう取組を今後していくかというのは、私たち特に小学校、中学校の義務教育の保護者としては大変大きな関心を持っていると思います。
  さらに、各団体の意見の中で、例えば日本教職員組合から、「各大学がアドミッション・ポリシーの下に、『学生争奪戦争』という新たな矛盾をうむ危険性あり」という御指摘があるわけでございますが、もしそういうことが本当にあるのであれば、それはどういうことなのか、あるいはそういうものについて今の答申の中で十分対応できるのかどうかということも考えていく必要があるのではないかと思います。
  私自身としては非常にわかりやすい答申であると感じております。

○  目次を見た感想と中身について申させていただきます。
  一つは、接続についての答申ですから、接続をどう考えるかという理解、哲学がなければいけないということを前回ちょっと申し上げたような気がするんですが、そういう観点から「検討課題」の四つが、私には接続の哲学のように思えるんです。「(1)『自ら学び、自ら考える力』と『課題探求能力』の育成を軸にした教育」、「(2)後期中等教育段階における多様性と高等教育段階における多様性との『接続』」、「(3)大学と学生とのより良い相互選択を目指して」、「(4)主体的な進路選択」。これらを私なりに読みますと、「(1)」は理念の接続、つまり、「自ら学び、自ら考える力」という、これは主に初等中等教育の教育理念、「課題探求能力」というのは高等教育の理念ですね。これは「高等教育については学部段階では,初等中等教育段階において身に付けられた『自ら学び,自ら考える力』を基礎に,主体的に変化に対応し,自ら将来の課題を探求し,その課題に対して幅広い視野から柔軟かつ総合的な判断を下すことのできる力である『課題探求能力』の育成を重視するとともに」とあります。
  そのように考えてくると、これは初等中等教育から高等教育へのこういう教育理念の接続なんですよということなのかなと思うのですが、「と」で結んでありますので、読む人は混乱するのではないか。ですから、「『自ら学び、自ら考える力』から『課題探求能力』へ」と言うならわかるのかなと思いますが、初等中等教育でも課題探求能力が大事だと触れられておりますし、そうは言えないので、そうすると、課題探求能力を小学生・中学生にはわからないから、「自ら学び、自ら考える力」と言った、単なる表現上のことなのかなと、私は頭が混乱してくるんですが、ともかくそういう理念の接続ではないかと思うのです。
  「(2)」番目は、初等中等教育も多様化し、大学も多様化しますから、これは多様性と多様性の接続である。つまり、それも多元化しますよと。「公平の多元化」などが出てきたと思うのですが、要するに「多様」というのがキーワードになっているわけです。私は日本の国民性からいって、たぶん多様というのも画一的多様化になると思うのですが、それは今ここで言いません。
  「(3)」番目の「大学と学生とのより良い相互選択」ですが、これは「相互選択」というのがキーワードで、一つの考え方だと思います。
  「(4)」番目の「主体的な進路選択」は、「主体性」ですね。
  ですから、「理念の接続」「多様性と多様性との接続」「相互選択」「主体性」という、接続の哲学というか、理念が前より見えてきたのかなとは思うのです。前よりというのは、私のほうが前より理解できたという意味ですけれども。2度しかともかく読んでいないんですから。そういう意味では、いいのかなと思うのです。
  ということで、「課題探求能力」というのは非常に大事だということは、10日に教養審の答申が出ますが、そこでも大学で「課題探求能力」が強調されていますので、ちょっと議論がありましたけれども、後から加わったので、それはそれでいいと思うのですが。そういった哲学不在という感想を私は持っていたんですが、よく読めば書いてあるんだなと。
  次は、序文で、我が国は「単線型」を採用しという、「単線型」という言葉が出てきているんです。戦前はそうではなかった。じゃこれからはどうなるのかということは、制度の原理として、これからはもう少し複線型になるのか、現代的な複線型になるのか、それともドイツの学者が言うような、ガーベルングス・ジステームといいますか、フォーク型でもっと多様化するのか、単線型と複線型が併存するのか、そういう整理とか議論があったのかどうかということが一つ疑問なんです。多様性を絡めて、単線、複線、併存、どういう制度になっていくのかなと。つまり、いろんな教育改革案が出るので、先ほども出ましたが、具体的にどういう学校になっていくのか、学校の側から見ると整理するのが大変だなということであります。

○  全体的な感想として、特に中間報告が出た後、マスコミは辛口の批評をしているというのが一つの特徴的なことだろう。これまでの第15期以降の答申に対する各社説、論説等の中では、私の見る限りでは、これは人によって違うかもしれませんが、比較的辛口の批評が多かったのではないかという印象を強く受けております。二、三電話をかけてきた新聞記者の中には、電話の先で相当厳しいことを言って、「1年間、何やっておったんですか」というようなことを言われたりもしたんですが、我々は謙虚にというか、まじめに回を重ねて議論をしてきたんですけれども、なぜそういうふうになったのか。
  特に「第1章」から「第4章」まで、あるいは「第6章」については、各マスコミの批評もほとんどないんです。「第5章」のいわゆる接続を重視した入試の改善というところに、期待外れというか、肩すかしというか、大学審議会に及び腰であるとか、そういう批評が非常に多く出されている。もちろん、接続というのは、皆さんおっしゃるように、必ずしも入学試験だけではない、教育課程や教授方法等も含めたマッチングのことなので、それはそうなんですけれども、世間一般は  ―昨年の10月に大学審議会が答申を出して、そのときに大学入試についてほとんど具体的な言及はなかった。そして、11月に当時の有馬文部大臣から、あえて第二次答申で高校入試や大学入試についてかなり提言をしたにもかかわらず、改めて中央教育審議会に接続の問題が諮問をされたというところから、マスコミ関係者や教育関係者の一部には、入試がかなり変わるのではないかというかなり強い期待があったので、まあ、期待したほうが少し無理なんだと言えばそれまでの話ですけれども。そういうことがあって、特に大学審議会にすべてげたを預けて  ―すべてというふうに私は思っていないんですが、一定の方向づけをして、その中で具体策を検討しろと言っているんですが、大学審議会が中央教育審議会にボールを投げたのが、また中央教育審議会が大学審議会にボールを投げるという、ボールの投げ合いをやっているかのように受け取られているというのが、一つの大きな問題ではないかと思うのです。しかし、議論はかなりしてきた上で、こういう結論になっていますからやむをえません。
  そういう意味では、この段階にきて、中央教育審議会だけで大学入試を頂点とする日本の入試制度について、これ以上議論をしても、何か新しいものが生まれるという展望、道筋も見えませんから、これはこれでやむを得ないと思うのですけれども、いろいろ議論した上に、大学入試センター試験について、資格試験的取扱いをするというのを1ヵ所だけ入れた箇所があって、これは最終の段階になって、第二次答申との絡みも含めてそういう扱いをして、大学入試センター試験の結果の成績を一定程度満たしておれば、学科試験をやらないことがあってもいいとか、大学の自主的な取組に任せるようなのがあります。
  そこに、私としては、過去の一定の成績を示した者については、複数年、大学入試センター試験を利用することができるような意味での資格試験的取扱いについて、これは他の委員の方からもあったと思うのですけれども、それについて事務局としては、いわゆる浪人生と現役との公平さが保たれないということを理由に、それは採れないという話をされたことを記憶しているんです。国立大学協会自身も公平性の多元化を言うのであれば、そういう問題についても、ここで結論を出すことはできないかもしれませんけれども、大学審議会でこれから議論する際に、大学入試センター試験の複数年利用とか、年に1回だけでなくて、2回か3回か試験をするとか、そういうことも含めて大学審議会のほうに検討をゆだねるならゆだねるということが、どうしてもできないのかどうか。その辺のところを意見として、現になおそういう意見を持っているということだけは申し上げておきたいと思います。
  中高一貫のところで、中高一貫は前の第二次答申で提起して、あくまでも設置者が地域の実情や子どもたちのニーズ等にこたえて設置者の主体的判断で設置可能とする、いわゆる選択的導入にするということで、私も意見として「選択的導入」という言葉がどこにもなかったので、修正意見として前に「選択的導入」ということを明確に書いてほしいということを申し上げた記憶があります。
  同じく中高一貫についてで、「生徒や保護者にとって実質的に選択が可能となるよう、できるだけ速やかに高等学校の通学範囲に少なくとも1校は設置されることが必要であ」るというふうに、かなり具体的に  ―今、たしか500通学区程度ありますから、500校速やかにつくるということを、ここにある意味では中央教育審議会が明示するという形をとるというのはすべきでない。仮に文部省側がそういう指導をされるというのであれば、それは行政の指導としてあってもしかるべきだと思いますけれども、現にまだ宮崎県の五ケ瀬中等学校と、この4月に開校した岡山市の併設型と、三重県の連携型と、来年の4月から秋田市が設置するという、47都道府県のうちでまだその程度の設置状況であるのに、今、500校速やかにつくるべきだということで、いかにも政策的にこれを誘導するかのような印象を与える文章は、行政としての指導であれば別としても、中央教育審議会自身がある意味で数を示して誘導するということは、審議会の性格からして私はとるべきでなかろうと思います。できるだけ速やかに高等学校の通学区域に少なくとも1校というのは取って、「……選択が可能となるよう、そのための条件整備をする」というようなことで、通学区域に1校というのは取るべきだというのが、あえて言えば修正意見であります。
  以上が具体的な点での意見ですけれども、いろいろ前の先生方から出ましたように、これまで第15期から第16期、第17期と審議会を続けていて、ほかの教育課程審議会、生涯学習審、保健体育審議会とか、様々な審議会が教育改革に向けて提言をして、それがかなり実施に移されてきていますけれども、ものによって答申の趣旨が最大限生かされて、地方教育委員会や自治体も実施に積極的な課題もあれば、全国的に見ればかなり格差が出ている問題等があります。前にたしか、どういう答申が出されて、それがどのように実施されているか、一覧表かなんかにして出してほしいということが、前々回ぐらいにあったように記憶していますが、ぜひ次回ぐらいにそれを出してもらって、中高一貫にしても、あるいは大学の飛び入学にしても、2年たちますけれども、依然として千葉大学だけということで、一定検証しつつ、我々の答申したものが実施できる、実施できない  ―実施できないというのはどこに問題があるのかということについて、答申のしっ放しというよりは、そういうことも、この答申が終わってしまえば、しばらく休眠になるのかわかりませんけれども、少しフォローアップするようなことも、中央教育審議会としてはある意味で建議もできるという二つの性格を持っているわけですから、そういうことを今後の審議で望みたいということを申し上げておきます。

○根本会長  ありがとうございました。
  今の大学入試の問題につきまして、「大学審議会において……改善について具体的な……検討をすることが望まれる」と結んであるわけですが、この辺、何か御意見ございますか。

○  只今の御指摘に対してはうまくコメントできないんですが、過去の中央教育審議会の答申を詳しく見ますと、大学の入試の選抜がこうあるべきだということは言っております。私自信は、大体どうすべきかというシナリオは持っていますが、この問題についてはアイディアはほとんど出されていて、あとは大学がどうやるかということだけなんですね。私は、17歳入学の実施は、日本の社会にとって大変なブレークスルーになると思っていますが、千葉大学の学長先生が大変な思いをされて強行突破して、あそこまでいかれた。今、他の委員の方が、何であんなことが他の大学でもできないんだとおっしゃいましたが、要は大学の先生方がこのような問題を真剣に捉えていないということだと思います。私の経験から言いますと、要するに現状維持でいいではないかということなんですね。そこへどうやって風穴をあけるか、私も随分努力したんですが、東京工業大学でも議論はしてくれたんですが、結局、未だ実施できていません。ある分野については、学会からのプレッシャーがものすごく強くて議論ができなかったという事情もあるようですが。私は、大学の入試については、大学審議会なり中央教育審議会が非常に強い権限を持っていれば、「こうやれ」と言うことができるかもしれませんが、それはあり得ないことですね。私は、これ以上もう言うべきことはないのではないかと思っています。

○  同じく今の御説に別に反論するわけじゃないんですけれども、高等学校、中学校の中高一貫の問題も、実は全く同じ面があるんですね。ですから、何にも書かなければ進まないだろうと思いますね。この書き方は、学区に1校とは書いてないんで、通学範囲ということだから、これぐらいはせめて書かないと、実際おやりにならないんですよね、現場は。だから、なかなか進まないです。接続の問題ですから、中高一貫もその一つだろうと思うのですけれども、何にも触れないと、実態から言うと、要するに全然動かないという実態があるわけですね。ですから、中央教育審議会としてこの問題を取り上げて答申を書くならば、一応は触れておかないと、それこそ何を議論しているんだということになるのではないかという気がしますので、中高一貫に関してはこの程度は少なくとも書いておかないと、全然進まない話になっていってしまうような気がするので、これは残していただきたいと私は思っているんです。

○事務局  今の中高一貫の点につきましては、第二次答申の中に、このように書いてございます。「従来の中学校・高等学校に区分された中等教育と、中高一貫教育とを選択可能とする……」。それはだから、保護者に選択可能にするということは前のところでも書いているわけでございますので、選択可能にするためには、北海道にあるからそっちに行けよという話にもならないので、そこをもうちょっと、今、委員の方がおっしゃったように、推進していくという観点から書けばということで、従来は自由と言っていたんだけれども、今度は1学区に1校つくらなければいけないという趣旨で書いているつもりではないんでございますけれども。そこのところの御心配は、もちろん設置者が考えることでございますから、中央教育審議会や文部省が、ああしろこうしろではないにしても、もともとの願いが選択可能ということを前提にいたしておりますので、これぐらいはということで整理させていただいたということでございます。

○  入試のことでもう一つ申し上げますと、いわゆるペーパーテストが、中央教育審議会で言う特定の影響力のある大学で主流を占めています。私は個人的には、後期の入試をもう少し改善できれば、そこがブレークスルーになるだろうと思っていたのですが、国立大学協会の一員になってわかりましたことは、とにかく入試の日程がある期間に決まってしまっているということです。つまり、大学入試センター試験は前へ出せない。これは高校側のものすごい反対がありますから、出せない。では後へ押せるかというと、後期の発表を何日までにやれという私立大学とのものすごいせめぎ合いがあって、半日延ばすのがやっとだという状況です。この辺をシステム的に変えてしまわないと、せっかく大学の個性を出そうとした後期試験すらうまくいかないという状況が生じています。ですから、問題は非常に根が深く、システムを全面的に変えないと、本質的には変わらないという印象を持っております。その後、私立大学との関係がどうなっているかわかりませんけれども、たぶん変わっていないのではないでしょうか。

○  千葉大学の飛び級のことがちょっと出ましたが、私は全国の国立大学が全部飛び級をやらなければいけないと考えるほうが画一的多様化なので、そんな必要はないと思うのです。だから、できるところがやればいいので。中高一貫も同じで、全普通学校通学区に1校つくれとか、そういうことが画一的多様化になるので、中高一貫校のない県もあってもいいし、それが本当の多様化ではないかということもさっきチラッと申し上げたんですが。ですから、物事を考えるときに、これは例外なのか、原則なのかということを考えれば、私は飛び級は例外としたほうがいいのではないかと思うのですが、中央教育審議会で例外を少し認知されたというぐらいのところに理解しているんです。

○  この際、何も答申案のみにとらわれずに、教育の問題について何か御意見がございましたらば、どなたでも結構ですが、御発言いかがでございますか。

○  「自ら学び、考える」というのは一つの理念だと思うのですが、この理念は、今の日本の教育に欠けているのを補おうという理念なんで、理念には私は二面性があると思うのです。欠けているところを補うスローガンと、今もう十分だけれども、もっと伸ばそうというスローガンがあると思うのです。プラスとマイナス。それを誤解すると、昔の文化大革命のころ、中国へ行くと、至るとこに「大躍進」「大躍進」というスローガンがあるので、それを見た二人の人が私に全く違う意見を言ったんです。一人は「中国は大躍進してますね」と言うんです。「なぜなら、至るところに『大躍進』というスローガンがあったから」と。もう一人の人は「中国はこれからですね。なぜなら、これから躍進するためにスローガンを掲げている」と。同じスローガンを見ても、そういう見方があるんで、私はこの「自ら学び、自ら考える力」というのは、今の日本の教育に欠けていることを補うスローガンだと理解したんです。
  だから、先生がおっしゃるように、確かにそういう問題があることは事実だと思うのですが、それを学校教育目標で、学校で理解しないで掲げているところが日本の教育の欠点だと思うのです。どの学校へ行っても、「よく考える子、たくましい子、思いやりのある子」とか。で、私は聞くんですよ。「おたくの子どもはよく考えてないんですか」「いや、考えてますが」と。そういう理念を考えるときの哲学がない。ですから、おかしなことになってるなと。

○  高校現場の話なんで少しお話しさせていただきますが、「自ら学び、自ら考える力」という目標を挙げたというのはすばらしいと思うのです。これは結果なんですね。「自ら学び、自ら考える力」があるなら、最初から学校へ来る必要はないわけです。それを卒業するまでにちゃんと身に付けようという話だということですね。そういう意味で言うと、日本の環境はかなり大変だと感じたことがあります。
  具体的な例で申し上げるんですが、高校生が、自分たちの研究の結果が、日本学生科学賞というのを受賞することになったわけです。二人出して、一人は総理大臣賞をもらって、一人は2等賞だったんです。新聞社が取材に来まして、取材をされたんです。そのときに、私は実はびっくりしたんですが、その生徒の出した論文というのは、授業を聞いておもしろいテーマだというので、そのテーマを取り上げて、自分で朝早く来て、先生も朝早く来て指導してくれて、2ヵ月ぐらいそれをやって、まとめた論文なんです。二つテーマがあって、一つは例のミュラーの実験というアミノ酸の合成、生命の誕生。もう一つは人工ダイヤモンドなんです。両方とも自分がおもしろいと思ってやった。
  新聞社の人が取材に来たときに、その人に聞いたら、その生徒以外は全部、科学部とか、科学班の研究なんです。つまり、自分でやってないんです。自分でやっているんだと思うのですけれども、そういう仕組みでないと出てこないというね。ほかの賞を受けた人は全部、何々高校科学部とか、何々中学科学班というのの研究なんです。個人がやっているというのは、高校段階では入賞したのは一つもないわけです。そのことが大事だということを、残念ながら取材に来た某有名新聞の記者が理解できないんです。それを指摘してあげたら、初めて「ああ、そうですか」と言ってくださったんです。だから、日本の教育を抱えている教育の環境というのは大変だなと思いましたね、それを聞いていて。
  今の訓告の話ですね。これは本当の根っこのところに踏み込んで、「自ら学び、自ら考える」ということを生徒にやらせているのかどうかという反省が、その教師にあるのかなと私は思いましたね。非常に表面的なことで、簡単に「自ら学び、自ら考える力」ということを、そういうことに適用しているというような言い方をするというのは非常に問題があると思います。授業を聞いて自分でおもしろいと思ったものを、その子が研究して、それを先生が手助けしたというのもすばらしいと思うのです。それこそ「自ら学び、自ら考える」ということだと思うのです。そういうことをやっていながら、訓告されたようなことがあったんなら、それは訓告するほうが悪いと思いますけれども、そっちのほうをちゃんとやらないで、形だけそんな形をやって、怒られて文句言うなんていうのはおかしいと思いますね。
  だけど、そういう生徒の指導で朝、毎日7時に来て、実験の結果を出すような指導をした先生は、ちょっと言いにくいんですけれども、日本教職員組合の指導の教師なんです。非常に教育のレベルが高くて、日本教職員組合に毎年頼まれて指導している先生なんです。しかし、その先生はそういうことは全然言いません。訓告されたようなことは生徒に言いません。それはそういうものではないということを知っているからなんですね、その先生が。だから、「自ら学び、自ら考える」というのをかなり軽く考えているのではないかと思うのです。だから、訓告するなんていうのはある意味では当たり前で、そこでよく反省してもらいたいと私は思ったんです。

○  大学がやるかやらないかだというのは、私も何度かここで申しておりますけれども、特に入試の問題というのはいろいろ議論が尽くされていると言えば尽くされているわけで、マスコミが期待するような、これをやればガラッと変わるというようなものはないんだろうと思います。しかし、それなりの努力はしていかなければなりませんけれども、そういう意味で出尽くされているので、大学人が真剣に、提言どおりということは言いませんけれども、提言を参考にしつつ、当該大学の入試選抜の在り方をみんなで考えていくというふうに期待したいと思います。もし会長が何らかの形で談話等を出されるときには、そういう趣旨のものを盛り込んでいただければなと思います。
  それから、さっき中高一貫で通学区に一つというのが出ましたけれども、これは先ほど事務局から話がありましたように、私はあれが議論されたときには、実質的に保護者あるいは本人が選択するのであれば、半分半分の数がなければ、つまり、従来型と中高一貫と、それでなければ実質的な選択ができないではないか、むしろ量的なものを示したらどうかということだったんですが、それを急に言うということは、目標として掲げるにしても、財政負担、その他で、とても現実の問題としてできないということがって、ああいう抽象的な表現に落ちついたように記憶しております。その後、実態を見ていますと、各県がやろうとしても、中高一貫という新しい学校をつくるには、現在の地方財政から見ると、かなり財政負担が大きいということも一つの障害になっているようですので、それを鼓舞する意味で、通学区にせめて一つというぐらいのことは言ってもいい。ただ、それを受け入れるかどうかはまた各県の判断ということになろうと思いますけれども、言ってもいいのではないだろうかという気がいたします。

○  中高一貫の話が出てきましたが、私どもも組織でいろいろ議論しました。そのときに、我々の中からも、選択というのは1対1でなければ選択できないではないか。しかも、公立の場合ですとテリトリーも決まってしまいますので、やはり1対1の割合でなければだめじゃないかという議論がございまして、基本的には将来は半分半分になればいいねという考えを持っているわけです。そういう中で、今回、通学区とかそういう範囲内で1校という一つの目標が出たわけでございますので、一つのバネになっていくことは事実でございます。
  もう1点、最近、これは個人的な考え方ですけれども、教育の中で、個と集団のバランスというのがいつの時代にも考えられていたと思うんでございますが、最近、個と集団のバランスが、どちらかというと個のほうに重きがいくようになっていまして、他人に迷惑をかけなければ何してもいいじゃないかという風潮が、小学校、中学校、高校ぐらいまで出てきまして、子どもが親に向かって「他人に迷惑をかけてなければ、いいでしょう」と言うのに対して、親もそれについて言えない、学校も言えない。それで大変困っているわけでございます。私どもはよく言うんですけれども、他人に迷惑をかけてもやらなければならないこともあるし、たとえ他人に迷惑をかけなくてもしてはならないことがある。それを明確に教えていかなければいけないものがあるのではないかと思っているわけです。
  例えば、他人に迷惑をかけなくてもやってはいけないものは、当然、法律に違反するようなこと。ですから、援助交際なんていうのは当然いけないことでございますから、我々は堂々と「これはいけないんだ」と言えるわけです。あとこれはよく言われるんですが、自分の体を傷つけるようなこと、これもいけないことだと思うのです。そういうものは小学校、中学校、高校で、教育関係者あるいは保護者がある程度明確に言えるようなベースになっていかないと、倫理観、道徳観、モラル観がどんどん薄れていっちゃいますので、今回の答申の中でも倫理観等が出ているわけでございますが、善悪の判断をするもとの中に、「自ら学ぶ」とか、「自ら考える力」というのがあるわけでございまして、「自ら学び、自ら考える力」を持って悪いことをしたら全然意味がないわけでございます。そこら辺のベースに善悪の区別があるという、そのような感じを持っております。

○  ちょっと話題が外れるかもしれませんけれども、日本の中等教育の、ここには全然書かれていない大問題が一つあると私は思っております。それは教員の質の向上ということです。昔の旧制中学には非常にいい先生が大勢おられました。考えてみますと、あのころの中学校の先生というのは、今の大学の先生よりも数が少ないんです。この50年間を見ておりますと、大学の先生というのは8万人か10万人ぐらいになってしまった。中等教育で光るような人柄、あるいは業績の人を、大学がみんな引き抜いてしまうんです。ただし、それにもかかわらず、私は中学校、高校の先生は健闘していると思っています。しかし、何といっても人材を失った面があるのではないか。昔の中等教育では、老練の先生と将来の大学教授になる若い先生がおりまして、私を教えてくれた国語の先生はその後大学の学部長になったり、大学の学長になった方です。都立のいくつかの高等学校の先生には、そういう方がたくさんいたんですね。考えてみまして、やはりいい人材を教育界に引っ張り込むことが一つのこれからの課題ではないか。
  明治時代には、貧しい子どもで進学できない子どもは、師範学校へ行くか、陸軍に行くか、海軍に行くか。ここは授業料がただですから、進学できたのです。私の先祖にもそういう人がいます。ところが、今、東京学芸大がどのくらい教員を供給しているか数字がわからないんですけれども、同じように授業料を払って、率直に言うと、国立大学の中で必ずしも上位でないという問題がある。そういう点で、教員志望の人は授業料がただという制度を作れないだろうか。明治時代と今とは全然違いますけれども、このことは天野郁夫さんの書かれた『学歴の社会史』に書いてあって、改めて私は「ああ、そうか。昔はそうだったのか」と思ったので、教員の人材確保というのは何かの形で考えていかないといけないのではないかと思っております。それが一つあれば、先ほどの「自ら学び、自ら考える力」とか、そういう問題について、かなり解決がつくのではないかということを考えたので、関連して申しておきます。
  もう一つは、このごろ、きめ細かいというか、おせっかいというか、昔より先生の自由度が減ったような気がするので、教育委員会とか、校長というのはもうちょっと太っ腹で、先生が多少たがが外れたようなことをやっても、あまり細々と干渉しないほうが教育としていい。私の小学校の先生は、時間表には、何時間目「国語」とか、「算術」とか、あったのですが、全く守らないで勝手なことをやっていた。よくあれで校長に怒られなかったと、私は今顧みて思います。今のほうがよく言えばきめ細かいんですけれども、悪く言うと細々、こせこせしていると思います。

○  答申案の中で、「このような大学の例としてしばしば引き合いに出されるアメリカの大学では、中途退学者については他の大学に再入学したり、コミュニティ・カレッジで職業資格を取る道もある。」とあるのですが、この文章を読みますと、何となく大学の落ちこぼれがコミュニティ・カレッジへ行くという、受け皿のような書き方になっているんですが、コミュニティ・カレッジというのは多様で、アメリカの教授と話していたら、コミュニティ・カレッジから大学の3年に編入するとか、カレッジ・パラレルのコースもあるコミュニティ・カレッジも多いので、何かネガティブにここで取り上げるだけでいいのかなと、ちょっと今気になったので申し上げておきます。

○事務局  御指摘の点、アメリカの教育事情をもう1回整理いたしまして、誤解のないように検討させていただきたいと思います。

○  最後にコメントしたいと思うんでございます。おおよそ1年かけましてこれだけの討議をいたしまして、皆さんの御意見を承り、ようやくここにまとまったわけでございまして、最初のころに比べると非常にまとまったのではないかと私は思っております。
  特に目次を見ていただきますと、戦後の半世紀のレビューから始まりまして、教育基本法と臨事教育審議会答申、そういったものの延長線上に、最近の大変化に対応して、我々はどう対処すべきか。そういうようなスタンスをまずとりながら、検討課題のところで、我々の考え方のフィロソフィーといいますか、そういうものを明示いたしまして、そして高等教育に至る前の段階の初等中等教育、これは幼稚園、幼児教育から始めて、ずうっと高等学校に至るまでの役割を明確にした上で、高等教育の役割はいかにあるべきか。そういったようなものを踏まえまして、両者の連携の円滑化、それから入学者選抜の改善というような本論に立ち至りまして、最後には実社会に出ていく職業生活との接続というようなことで、ある意味では問題点を体系的によくまとめておるのではないかと私は思っております。
  最近、いろんな団体の動きが出てきて、百家争鳴というか、教育、教育、教育……というようなことになって、それがまた選挙にも何か影響するような、まことに日本というのはおもしろい風潮だなと思います。それが何か中央教育審議会に、「中央教育審議会は何やってんだ」というような新聞の記事ではございませんが、かなりアゲンストの風向きにもなってきているかと思いますが、中央教育審議会が逆立ちをしても解決できない、日本が直面している文明病というようなものもあるわけでございまして、我々がやれば一挙に今の日本の閉塞状態を打破できると思うほうが間違いである。私、日本の文明病で非常に心配しておりますのは、教育の問題もさることながら、日本の家庭というか、家族の問題、それをめぐる地域社会、そういった我々の日常生活、デー・ツー・デーの現場がどうもガタガタしておる。そこを一体どうするのかというところが、かなり大きな問題として接続の問題の底流にマグマとしてあるのではないか。こういったような問題を、中央教育審議会が答申を出した後に、どのようにタックルしていくのか。私もよくわかりませんけれども。
  その問題のほかに、教育基本法から臨事教育審議会に至る一つの流れというのは、今読んでみますと極めてビューティフルな普遍的なことを言っているわけでございますが、やや個性の重視に当時の風潮からして偏っていた面もあるのではないか。要するに、個というのは他とのかかわりなくして、緊張なくして存立し得ない。ですから、それが公共という問題とか、あるいは社会というようなものに対してどう対応していったらいいのかという点が、やや社会的にもトーンが弱かったのではないか。それは日本の家族制度の影の部分を打破するために、専ら家族主義というのは悪いんだという風潮もあったかと思いますけれども、今ここまで参りまして振り返りますと、私は個人的には、我々が大事にしなければならないのは家族であると思うわけです。その中の個ということになってくるわけでございます。
  そういった点では、今回の答申の中にも各所に触れておりますけれども、徳育・知育・体育の調和というものは絶対に必要ではないかと思います。今回の初等中等教育の役割の中にも、例えば、「人間として、また、家族の一員、社会の一員として、更には国民として共通に身に付けるべき基礎・基本を」着実に学習し、定着させるというようにはっきり書いてあるわけでございまして、そういったようなものをこれが世に出ていくときにどのようにアピールするかという問題が一つあるということ。
  それから、今回の答申案の中で、教養教育というものを数ヵ所入れられて、専門教育との有機的連携を確保すると。これは大変に結構なことでございまして、この辺は大学においてもしっかりやっていただきたいと思っているわけです。
  いずれにしても、入学者選抜そのものの具体的な改善という中で、いわゆる日本の知識偏重の教育ではなくて、もう少し人間的に倫理観に基づいた教育、職業体験、あるいは職業歴、環境、福祉、青少年活動、スポーツ、国際協力というようなボランティア体験についても触れているわけでございます。これを皆さん一般の方が詳しくお読みになるかどうか気にはなりますけれども、私が今申し上げたようなことを含めたレジュメというか、そういったものを用意されるとよろしいのかなと思っております。
  最後に、委員の皆さんからお話がございましたが、私どもの答申が実際にどのように具現されていっておるのかというフォローアップ・リストといいますか、そういうものを我々はよく見ておく必要があるのではないか。今後、省庁改編で審議会がどんどんなくなってまいりますよね。中央教育審議会がどういうふうになるのか私も存じませんけれども、この種の審議会のステータスという問題になってくるわけでございまして、例えば我々の審議会と文部大臣がコントラクトを結ぶというようなステータスの審議会なのか、いや、それは大臣の命令によって諮問がきた、それに対して我々が審議して、答申ですな、お答え申し上げる。こういうスタイルが果たして時代に合っているのかどうかという根本的な問題にもなるわけでございまして、今後、フォローアップの問題と同時に、審議会のステータスをどう考えたらいいのかということもひとつ御検討をいただけたらと思います。

○根本会長  大変に率直な御意見を承りましてありがとうございました。ただ今の御意見を十分参酌いたしまして、事務局と文章上の整理を行いまして、次回の総会において文部大臣に答申として提出することを考えております。
  最後に、少子化の河合先生のほうから、少子化と教育について何か御報告いただきたいと思います。

○河合座長  中央教育審議会「少子化と教育に関する小委員会」は、平成11年4月19日に開催されました総会以降、学校見学も含めまして7回開催いたしました。
  11月30日に開催された第10回の会議におきまして、今後、報告案の取りまとめに向けて、文案を作成するために、小委員会の下に起草ワーキング・グループを設置することが了承されました。今後、このワーキング・グループにおいて、文案作成の作業を進め、文案を取りまとめたいと考えております。
  以上、御報告いたします。

○根本会長  ありがとうございました。それでは、本日の会議はこれで終了いたします。


※1、※2  この資料については、文部省大臣官房総務課広報室にて閲覧できます。

(大臣官房政策課)

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