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中央教育審議会

 1999/4 議事録 
中央教育審議会第225回総会 (議事録) 

 中央教育審議会  総会(第225回)

議    事    録


平成11年4月19日(月)14:30〜16:30
霞が関東京會舘      35階  ゴールドスタールーム


1.開    会
2.議    題
    「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」及び「少子化と教育について」
3.閉    会


出    席    者

委    員                        事務局
  河合委員                        森田政務次官
  木村委員                        佐藤事務次官
  河野委員                        梶野生涯学習官
  小林委員                        御手洗教育助成局長
  坂元委員                        佐々木高等教育局長
  志村委員                        高  総務審議官
  田村委員                        寺脇政策課長
  鳥居委員                        その他関係官
  永井委員
  長尾委員
  中島委員
  根本委員
  松井委員
  森  委員
  横山委員


○事務局
  それでは、ただいまから中央教育審議会の第225回総会を開催させていただきます。
  本日は、第17期発足後の最初の会議でございますので、会長をお選びいただくまでの間、進行は事務局のほうで進めさせていただきたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。
  では、最初に第17期の発足に当たりまして、森田政務次官から御挨拶を申し上げます。

○森田政務次官
  このたび、皆様におかれましては大変御多忙の中、第17期中央教育審議会の委員の御就任をお引き受けくださいまして、誠にありがとうございます。
  昨年11月以来、第16期中央教育審議会におかれましては、「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」及び「少子化と教育について」、いずれも極めて重要な課題について精力的に御審議を賜りまして、誠にありがとうございます。また、これまで専門委員の皆様による御発表や関係者の方からのヒアリングを重ねることによって、基本的な論点が明らかになりつつあると承っております。
  このたび発足いたしました第17期中央教育審議会におかれましても、こうした成果を踏まえつつ、さらに御審議をいただきまして、内容の取りまとめをいただきたいと存じております。
  さて、いよいよ大変な仕事に入るわけでございますが、御多忙の中で大変恐縮でございますが、十分御審議いただくことをお願い申し上げまして、簡単でございますが、私の挨拶とさせていただきます。どうぞよろしくお願い申し上げます。

○事務局    それでは、引き続き本日の資料を確認させていただきます。
<事務局から説明>
<会長の選任については以下のように議事が進められた>
1. 事務局より中央教育審議会の会長の選任方法について、中央教育審議会令及び中央教  育審議会運営規則の説明がされた。
2. 会長に根本委員を推挙する旨発言があった。
3. 会長に根本委員が選出された。

○事務局
  それでは、会長から一言御挨拶をいただき、以後、議事進行は会長にお願いしたいと思います。よろしくお願いいたします。

○根本会長
  誠に恐縮でございますけれども、会長に再任されまして、これから皆さんの御協力を得ながら微力を尽くしていきたいと思っております。
  御案内のとおり、昨年の11月から接続の問題と少子化の問題につきまして、皆様とともに審議を重ねてきたわけでございまして、いずれも我が国の教育の根幹に関する問題でございます。いよいよ審議も佳境に入るかと思いますけれども、皆様の精力的な御協力を得て、何とか立派な結論を得たいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。どうもありがとうございました。
  それでは、副会長選出に入りたいと思います。
<副会長の選任については、以下のように議事が進められた>
1. 会長より副会長の選出手続について説明がなされた。
2. 副会長に鳥居委員を推挙する旨発言があった。
3. 副会長に鳥居委員が選出された。

○鳥居副会長
  根本会長をお助けいたしまして、微力ではございますが、この最終取りまとめに向けて全力を尽くしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。ありがとうございます。

○根本会長
  どうもありがとうございました。
  それでは、引き続き小委員会の設置についてお諮りしたいと思います。
  第16期におきましては、接続に関する小委員会及び少子化に関する小委員会の二つの小委員会を設けまして、具体的な審議を進めてまりました。第17期におきましても、この二つの小委員会を設置し、今回再任された木村委員と河合委員に引き続きそれぞれの小委員会の座長をお願いいたしたいと思います。また、これらの小委員会の分属につきましては、私に一任いただければと思いますが、前期よりの再任の方につきましては、これまでと同じ小委員会に御所属いただければと考えております。
  さらに、会議の運営についてでございますが、第16期と同様、各小委員会の案内通知は原則として当該小委員会に分属する委員に対してのみ行うことといたしたいと思います。
  今後の審議の進め方について、以上申し上げた方針でよろしゅうございますか。
  それでは、恐縮でございますが、二つの小委員会のそれぞれの座長から一言お言葉を賜りたいと思います。

○河合座長(少子化と教育に関する小委員会)
  それでは、僣越ですけれども、引き続きまして座長をさせていただきたいと思います。少子化の問題を考えておりますが、この問題と教育の問題を考えるのはなかなか難しいわけでございますが、皆さん方のお助けを得まして実りあるものにしたいと思っております。よろしくお願いいたします。

○木村座長(初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会)
  木村でございます。御指名でございますので、接続の改善に関する小委員会の座長をお引き受けさせていただきます。第16期では、主として専門の方々からのヒアリングを行いました。いよいよ第17期では取りまとめに入るということで、大変緊張いたしておりますが、皆様方の御協力を得まして何とかまとめたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

○根本会長
  ありがとうございました。
  それでは、引き続き専門委員の任命についてお話をしたいと思います。前期と同様に小委員会を設置することとし、委員の分属については後ほど決定したものをお知らせしたいと思います。この審議を深めるために、前回同様、それぞれの審議事項について専門委員を任命したいと思っております。第16期における専門委員に引き続き、専門委員をお願いすることで、今後の手続を進めていきたいと思いますので、このことについてもよろしくお願いいたします。
  それでは、次に審議会の公開でございますが、第16期の審議会においては、接続の改善についてという問題と、それから少子化のテーマを審議するに当たりまして、第223回の総会で決定された「審議会の公開に関する対処方針」に基づき、議事録による公開を行いますけれども、会議そのものは非公開とするといった方針により運営されてきたところであります。
  当期の審議会においても、審議が継続していることを踏まえ、前期の方針と同様の対処方針とし、詳細な議事録による公開を行い、会議そのものは非公開とするなどの運営が適当であると考えます。
  会議を非公開とする理由については、これまでと同様ですが、改めて申し上げれば次のとおりであります。
  現在の審議事項である接続についての審議に当たっては、1)特に大学入学者選抜の在り方に関するものについては、審議途中の未確定段階の情報により受験生など関係者に混乱を及ぼすおそれがあること、2)といたしまして、個別の高校や大学の名前を提示しつつ議論を進めていくことが十分にあり得ること、また少子化と教育についての審議に当たっては、個人の価値観や家族観等あるいはプライバシー等に深くかかわる部分も多いこと、等を考慮する必要があるというものであります。
  また、従来と同様、会議終了後に、会長または座長が記者会見を行い、審議の概要について紹介し、その際に報道関係者の参考用として審議の概要を簡潔に整理したメモを配布したいと考えております。
  こうした方針でよろしゅうございましょうか。

○根本会長
  ありがとうございます。
  それでは、従前と同様の方針で対処いたしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
  それでは、ただいまからおおよそ1時間半にわたりまして自由討議を行いたいと思います。本日は、第17期の最初の総会でもありますので、接続の問題と少子化の問題について、自由に御意見をいただきたいと思いますが、これまでの審議を振り返っても、これらの二つの重要テーマを検討するに当たりまして、基本的な問題として我が国の教育が目指すものは何か、どのような人間を育てるべきなのかといったことが常に意識されてきたところでございます。もちろん、これらの点につきましては、本審議会の「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の第一次答申や第二次答申、「幼児期からの心の教育の在り方について」の答申、あるいは昨年秋の大学審議会の答申などにおいて示されてきたところでありますが、本日は若干時間もございますので、この際、皆様の基本的な問題についての忌憚のない御意見を賜れればと思う次第でございます。
  どなたからでも結構でございますが、御意見を承りたいと思います。

○河合座長
  少子化のほうは私が座長をしておりますので、むしろきょうは皆さん方の御意見を聞いてメモしていきたいというふうに考えております。ただ、少子化のほうのグループでいつもみんなで頭を悩ましておりますのは、少子化の問題を論じているのか、日本の社会事情全般のことを言っているのか、わからなくなる。議論が非常に広くなりまして、これを教育に結びつけた施策としてどういうことにするかという点で悩んでおります。また今度新しい方も入られましたので、そういう点で案を出していただければ非常にありがたいと考えております。
  私がいつも思っておりますのは、日本の教育の問題というのは、結局は日本人の個々の生き方の問題と非常に関係深くて、制度とか施策によってそれを改善するのがなかなか難しいところにきているという感じがします。ただ、一般的にもそういう認識が高まってきたので、我々もそういう点でも発言していくと、国民全体の方が考え方なり生き方を変えるということで、教育の問題も改善されていくのではないかと思っております。

○木村座長
  第15期から中教審の委員として議論に参加しております。大して長くないのですが少しの間外国で生活した経験から、どうも日本の子どもたちは異常な状況に置かれているのではないかということで、第15期、第16期では、「生きる力」でありますとか、「ゆとり」について私なりに議論に参加いたしました。私の基本的なスタンスは、なんとか過度な受験競争をなくすような体制はないものかということです。
  ところが、最近、教育関係者を中心にして、日本の子どもたちの学力が非常に落ちているという話が随分出てまいりました。私は多少これまでの定義のような学力が落ちても、子どもたちにゆとりを持たせたほうがいいのではないかと思っていたのですが、英国などの最近の状況を見ておりますと、自分たちの国の子どもたちの学力が落ちたということで、相当ハッパをかけています。そういうことから「ゆとり」と「学力」の両方をどう考えたらいいのか、非常に難しい問題だと思うようになりました。このことについて専門家の方々からも随分お話を伺いましたので、今後は委員の皆様に御意見をお出しいただき、それを中心にまとめて行きたいと思っております。

○  これまでの審議の状況を拝見しておりまして、このごろ考えていることの一つは、小委員会でもいろいろ出ていたようですが、改めて大学、高等教育における教養教育をもう一度見直して考えてみたいと思っております。特にそのことを考える場合に、一体、学部レベルにおける専門教育の基礎としての高等学校教育がどういう形で成立してくるのか。また、高等教育レベルにおける教養教育の基礎としての高等学校教育がどういう形で成り立ってくるのか。特に今回の教育課程の改訂で、高等学校の教育内容がかなり大きく変わってきておりますので、そういう新しい視点から見直すことが接続の問題に大きくかかわっていくのかなと思います。
  それから、これは少しピント外れの言い方になるかもしれませんが、今、木村座長がおっしゃった学力のとらえ方の問題にもかかわって、既に御承知のように、今回の教育課程の大きな改善の中で、小学校・中学校・高等学校を通しての「総合的な学習の時間」  ―これは申し上げるまでもなく中央教育審議会が設定したものですが、今、「総合的な学習の時間」に非常に大きな関心が持たれております。しかし、このとらえ方についてなかなかはっきりしたものが出てきていない。これが今後どうなっていくかが、教育課程の改善が成功するのかどうかということにつながってきて、これをどうとらえるかが、木村さんのおっしゃった学力のとらえ方とも関係してくるのではないか。だから、私は「総合的な学習の時間」が子どもたちにとっては大きな成果を上げてくると思います。しかし、これが例えば入学試験に当たってどのように評価され、位置づけられていくか。そのことによって、「総合的な学習の時間」のこれからがどうなっていくのかということも心配される。
  一方、私が申し上げるまでもなく、大学審議会のほうでは「課題探求能力」ということで、あるいは「課題追求能力」と言っている人もいるようですけれども、これを非常に重視して、これからの高等教育の方向として打ち出されている。この「課題探求能力」「課題追求能力」というのは、はっきりと小学校・中学校・高等学校の段階における総合的な学習能力の育成が大きくかかわってくるだろう。そしてこうしたことが、究極的には大学入試の在り方とつながっていくのではないか。そういう点から少し考えてみたいと思っております。

○  まず第一に、初等中等教育と高等教育の接続の問題といいますと、多くは入学試験の問題になろうかと思いますけれども、入試の方法、内容については各大学が長年の間研究に研究を重ねているので、これを変えるには根本的に発想を変えなければ変化は不可能と思います。
  すなわち、現在の入試制度には、いかなる身分の人でも学力があれば入学を許可するという明治以来の平等主義の理念があったと思います。私が旧制高校に入学したときに、天野貞祐校長は入学式の訓辞で「諸君は門閥家柄によりて入学したるにあらず、富貴によりて入学したるにあらず、自らの力によりて入学したるなり」といいました。私はそれを聞いて感激したのを覚えています。しかし現在は子どものときから塾へ行ったり、いろいろお金をかけないと入試に不利だといわれて、「富貴により入学」ということになってきている。ここが問題だろうと思います。
  ただし、一方で18歳人口は数年前の220万人から、やがて120万人に減るのですから、入学難はいわゆる有名大学だけの一部の人だけの競争になると思います。その代わりに入学が容易になれば、学生の学力をどう維持するかが問題となり、これはすでにはじまっているといまご指摘がありました。
  第二に、少子化の問題として私は家族の変遷について考えております。すなわち私が子どものころには、我が家には祖父、祖母、父親、母親、兄弟がいて、夕食のときなどみな集まっていました。男の子にとって10代半ばぐらいになりますと反抗期で、乗り越える相手としての父親がいるわけですけれども、私と父親がたとえば進学先の問題で対立すると、祖父が出てきて仲裁してくれました。いまはいわゆる核家族化して、祖父祖母はいっしょに住んでいませんから、父親と息子が対立したならば仲裁者がなく、キレルより仕方なくなる状況が起こっています。要するに私がいいたいのは、「少子化」よりも「小親化」が家庭を変え、しつけを変え、教育に影響しているのではないかということです。

○  今、マスコミなどでは教育が悪いと。社会の悪いのを教育の悪いせいにすることが多いんですけれども、いじめがあったり、学級崩壊があったりと、本当にそうなのかなと。そういう部分があると思うし、ある場合にはそれに対応しなければならないんですが、私がよくお目にかかる子どもさんたちの中に、とてもすばらしい子がいっぱいいるんです。
  例えば、小学校のビデオのコンクールをやるとか、発明工夫展で非常にいい工夫をした子どもとか、コンピュータ音楽のコンクールとか、幾つか関係しておりまして、賞状をお渡しするときに子どもさんたちが来てくれる。見ていてほれぼれするような、顔色もいいし、健康だし、知的だし、礼儀も正しいし、はきはきしているしという、本当にすばらしい子がたくさんいるんです。すばらしい子がたくさんいるということも、いろんなところで吹聴していく必要があるのではないか。そういうお子さんたちを私どもがモデルとしてというか、そういう子もいるんだぞと言うと、悪い子ばかりいるんだと悪い子にまねされても困るわけですから、いい子がいっぱいいるんだぞというモデルを出していくことが必要ではないかと最近考えているんですが、それが一つ申し上げたかったことです。
  もう一つは、大学生の学力が落ちたということです。確かにこれは落ちていると思いますが、落ちたという意味は、昔ならば大学生にならなかった低い学力の人が大学生になってきたということの影響だろうと思うわけです。そうすると、昔の学力というものをそういうお子さんたちに期待して、昔の学力をつけるような形の大学教育をすることが時代に合っているのかどうかということを少し考えなくてはいけないのではないかという気がしております。非常に優れたお子さんたち、昔の学力でも優れた子どもさんたちがいて、そういう学生さんたちは昔のような難しい入学試験でも、これは何をやっても通る子たちですから、問題はないでしょう。それ自身、選考の改良の余地はいっぱいあると思いますが、何をやっても通る子たち、すごい子は入れる。そこを目指して何人も競争しているところが、一部での大学競争でございます。
  そうでなくて、今は推薦で5割近く入れたり、それからいろんな形で、ほとんど無試験に近いような形で一般選考でも入れたりする大学生の数が相当増えてきております。そういうお子さんたちにも昔の学力検査のような学力検査をして入れて、そして昔の学力の高い学生さんたちを教育したと同じような教育を相も変わらず大学の先生たちがやっていることが本当にいいのか。先ほど他の委員の方もおっしゃったように、「総合的な学習の時間」というすばらしい時間が今度の初等中等教育の中にできた。それは「生きる力」を育てるのに一番深く関係した時間だと思いますが、その第1の「生きる力」の構成要素は、大学に行きますと課題解決とか、課題発見という力になるわけです。
  もう一つ、第2の要素は、人間関係とか、体力とか、そういうところです。もちろん第1の要素も非常に大事なんだけれども、この第2の要素で学生さんたちが社会に出たときに、社会を上手に円滑に動かしていく新しい学力ですね。「生きる力」の第2要素版になっている。第1と第2の要素を両方とも備えた人が日本のエリートで、そのエリートを育てる大学があって、それを育てていただくのは大変結構だし、それはやはり推進していかなければいけない。
  じゃなくて、第1の要素の中の昔型の学力というのが必ずしもなくても、第2の「生きる力」の構成要素を十分につけるような学生が日本の世の中を支えるわけですから、その人に対しては集団活動とか、集団の規範とか、粘りだとか、体を動かす技術、そういう大学教育。先ほどの他の委員の方は教養の見直しとおっしゃったんですけれども、そういうことも含めまして、マス化からユニバーサル化してきた大学に入ってくる、従来ならば大学で勉強しなかった子どもさんたちが大学に入って勉強するというすばらしい事態が起こっているんだと。そういうすばらしい事態に対して新しい学力を養成する大学教育を考えなくちゃいけない。それをやっていくと、入学試験も「生きる力」の第2の要素を測る、あるいは面接でもいいし、高等学校での授業の観察でも構わないわけですが、いろんな形で入学者を選抜することができるだろう。
  ある種のエリート校というものはどうしても残りますから、そこでは従来型の学力を測ること、プラスだんだんと「生きる力」の第1の要素を総合的に測っていくような形で、そこで入れた学生たちは、前回、木村座長が、うちの学生たちは朝から晩まで泊まり込みで勉強しますよとおっしゃったように、私もそういう学生さんたちしか見てなかったものですから、大学生が遊んで勉強しないということがなかなか信じられない。「そんな学生はいませんよ」と言われるけれども、身の回りに多くいるわけですから、「そういう学生はいっぱいいますよ」と。一所懸命外国の文献は読むわ、新しい実験はやるわ、調査には出かけるわ、そういう学生がいますよと言うんですが、そういう学生もいる。そういう学生はそういう学生でしっかりやってもらう。
  それから、第2の構成要素を伸ばす学生は、それなりに集団活動なり、クラブ活動なり、学校の中での集団調査なり、実験なり、ボランティア活動なり、それを一所懸命やってもらって、その中で世界に貢献していく人間を育てていく。そういう人間を測る評価といいますか、それをやっていただければありがたい。そういう方向に変わっていくことができないだろうかと思います。
  もう一つ、さらに先に行きますと、これはずっと先の話になると思いますが、今年度から大学間の単位互換が60単位ということに上限がなったわけです。それと同時にマルチメディアを使った遠隔授業でも60単位まで取れるということになる。修士は幾らでも取れるし、単位互換は10単位ですけれども。学部の124単位分のうちの60単位互換ということは、あと3単位それが増えたらば、大学の入学試験とか、卒業ということの意味が全く変わってしまうわけです。これは行政が3か4かをちょっと上乗せするかしないかということで、完全に日本の大学制度を変えてしまうという状況の一歩手前に来ているわけです。もし64単位以上の単位互換が認められれば、無理して京都大学、東京大学に入らなくても、どこかの大学へ入って、京都大学、東京大学の先生の授業を64単位、過半数取ることだってできるわけです。理屈の上ではですよ。実際問題は大変難しいけれども。そうすると、入学試験の持つ意味なんてガラーッと変わってくる。そこまでは今度の審議では無理かもしれませんが、将来を見越すとそういう問題も出てくるということも、ちょっと頭の片隅に置いて考えていったらいいかなと思っております。

○  一般的なことになりますけれども、二、三の所感を述べさせていただきたいと思います。
  この審議会は既に長い審議をしてこられて、二つの分科会で早い時点で結論を出すというところまで到達していらっしゃるわけでございますが、今までの答申の要旨を拝見いたしますと、接続の問題、少子化の問題、入試の問題というようなキーワードが使われておりますけれども、今までの御審議の中心は、どのような教育であるべきかという非常に大きな問題をとらえていらしたと私は理解いたしました。そして、その中でも、この中央教育審議会の第一次答申、第二次答申でも、また昨年の大学審議会の答申でも、自ら考える力を養う、「課題探求能力」が重要視されていると理解しております。これは国際化と言われる今日、私の乏しい経験で日本の教育と幾つかの諸外国の教育を考えましても、非常に重要な、中心的な課題であると考えております。
  そのような教育を考えるということは、すなわち、どのような人間が望ましいか、どのような社会であるべきかという非常に大きな問題にまで発展することでございまして、個々の問題を検討するときに、いつもそういう包括的な大きな問題がすぐ後ろに控えているということを感じたわけでございます。
  その一例といいますか、先ほどから学力の低下ということについて、何人かの先生方が言及なさいまして、このような自分で考える教育が望ましいのであれば、果たして学力とは何ぞやということも考えなくてはならないのではないか。明治のころから日本の教育制度が、欧米諸国に追いつき追い越せということで、新しい知識を導入し、そして一定の人数をあるレベルまで引き上げなくてはならないということを強調した時代の学力と、現在、それからこれからの学力とはかなり様子が違うこともあり得るのではないかということを考えました。
  もう一つ、どのような教育が望ましいかということを考えるときに避けて通れないのは、日本はどのような社会であるべきか、大人がどのような社会を現在形づくっているのかという、またまた大きな問題になってまいりまして、例えば大学入試を改革しましても、そこから卒業する学生の就職の問題、雇用者がどういう基準で卒業生を採用するかという問題にすぐ影響してくるということで、大変な問題をこの審議会は検討してこられたのであるなということを実感しているところでございます。

○  教育改革というのが、今、日本で進んでいるわけでありますが、これは別に中央教育審議会が言ったから進んだというのではないだろうと思います。つまり、日本の社会がそれを求めているという背景があるわけであります。どういう背景かというと、いわゆる個性尊重というのがキーワードになって、子どもたちの生き方が変わってきた。かつては、「国のためになる人材を養成する」、これが教育の目標になり得たわけです。もちろん今もそれはあるんですが、同時に自分が生きていることに満足できる、生まれてよかったとか、自分が生きて持ってきたものを生きてる間に伸ばせるだけ伸ばせた、そして満足して生きられるということが目標になり得る社会になっている。それが背景にあって、教育改革が進んでいるんだと理解しているわけであります。
  現状進んでいる改革が、高等学校以下では新しい教育課程が実施されますので、これを「学力の低下」という表現でくくるのはいかがかという気がします。「学力が多様化した」という言い方であれば理解できるんです。多様化するというのは、つまりいろいろな高校生が卒業してくる。古典的な意味での学力の判断基準で言えば、非常に多様な高校生が卒業してくる。それを一致させるという考え方は今ないというのが状況であろうと考えております。
  多様化と言っても、その中に普遍性がなければいけないわけですが、普遍性をどういう形で求めていくかというと、大学入試ということがその一つの手がかりになるのかもしれません。先ほどお話がありましたエリート化からマス化へ、そして今やユニバーサル化している大学が果たしてきた役割。これは高校以下の立場で言いますと、日本では大学入試が何といっても学力維持機能を果たしてきたという現状があります。したがって、全員が入ってしまって、大学入試が学力維持機能を失ってしまう状況が起こりそうだということは、実は学力低下という切り口で考えると非常に大きな問題になるということであります。そこで、第16期の中央教育審議会の「初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会」は、まさにそのことを取り上げているんで、私は大変いい取り上げ方だなと思っているわけです。
  では対応としてはどうしたらいいかというと、中央教育審議会としてはそういう難しい事態の中で、大学入試は高等学校が多様になったように、大学も多様化していくわけですから、非常に難しい入試をやる大学とほとんど全員が入れるような入試をやる大学と分かれていく。そうすると、それぞれにおいて入試をどうすべきかということを議論しなければいけないだろうと思います。その議論において、多様化の普遍性を持たせる切り口はやはり国際化だろうと考えています。つまり、大学卒業生が国際競争に対して耐えられるか、あるいは国際的なレベルに対応できる力を持てるだろうかということが一つの基準になるだろうと思います。とは言っても、すべての大学がそれができるわけではありません。少なくとも、しかし、一定の量の大学はそうなってくれないと、日本の国としては非常に困るだろうと思います。ですから、そこの部分をしっかり押さえることがまず大事かと思います。そこから出てくる大学の教育内容に応じて、難関大学と言われる大学の入試が決まってくるのかなと考えます。
  それでは、学力維持機能を失ってしまったという一般の大学の入試に代わるものは何かないんだろうか。これが今まさに考えられている議論でありまして、接続の議論はまさにそのところが一番大きいわけであります。一般的に言われているのは大学入試センター試験を利用できないだろうかという議論とか、あるいは大学も個々の大学で、うちの大学の卒業生はこれだけの力を持たして卒業させるということを公にして、それに応じた入試をやるのと同じように、全国の高等学校が例えば各県別に県単位で、うちの県の高校を卒業すると、ここからこれぐらいの多様な学力を持った生徒が卒業するということを、数値的にあらわせるような仕組みを考えておく。
  そういうことを提案したいと思っておりますが、ここは中央教育審議会ですから、現状に対して何かサポートできる案が出ればいいと思っていますので、大学入試センター試験の改革も一つの案だと思います。つまり、難関大学用の大学入試センター試験と、全員が入学できる大学用の大学入試センター試験と2種類つくるという考え方、あるいは分権の考え方で言えば、高校側は自分の高校を卒業する生徒について、大学が自分の大学を卒業する学生がどれぐらいの力を持つかということを明快にすると同じ意味で、高校も各県単位あるいは各学校単位で、自分の高校を出た生徒がどれぐらいの学力を持っているんだということを明らかにしていく仕組みが提言できると、大学におけるリメディアル教育もかなりはっきりしたものになっていくような気がします。その辺が接続を議論することの意味なのかなと理解はしているわけでございます。
  今後さらに議論を深めて、この大きな教育改革の流れが、ただ学力が低下しただけで、完璧な初等中等教育を壊して、問題のある大学教育は手をつけないで、これが教育改革だなんてそういう悪口を言う人がいますけれども、私はそんなことは全然ないだろうと思っています。そんなことは全くないわけでありまして、この大きな教育改革の中で、日本の青少年が生き生きと生きられる仕組みを考えて提言することを目標にしていきたいと考えているところでございます。

○  今の時代のテンポは非常に速くて、日本の中からの変化というよりは、今、他の委員の方がおっしゃられたように、国際化の流れの中の影響を受けての変化だろうと思いますが、その中で日本固有のものをどう考えるかという問題も一つあるように思います。私自身も迷いがあるんですけれども、平成8年から議論してきた中で、議論をお伺いしていて思うのは、委員の方々の中にも同床異夢といいますか、根本的な変化を求めるのか、それとも若干の手直しなのかというところで、考え方に相当隔たりが出てきたなという感じを持っております。経済戦略会議などでは教育に関してかなり過激な意見も出ているようでございますが、中央教育審議会は現実に制度の手直しにつながる文部省の審議会でございますので、恐らく現状を見ながら若干手直しをしていく感じなのかなという、私自身も手探り状態でございます。
  いずれにしても、自由で、個性的で、活力と希望に満ちた人間を育成したいという気持ちは、委員の中で共通したものだと思いますが、その具体的な方法論で、例えば大学入学年齢の特例というようなことは、中央教育審議会の流れの中で具体的に実現させたものの一つだろうと思いますけれども、個性的なということから言えば、依然として年齢別の集団にこだわりがある。そこにくさびを打てるのか。カウンセラーがついていて、学力や能力、適性に従って、「あなたはこのクラスよ」ということが言えるのかどうかということ。これは接続についても言える部分ではないかと考えます。
  最近、私の近くで、入試はだれでも入れるようになりつつあると言うんですが、例えば公立大学の医学部の試験で、応募した人間の順番について、20人採るところを、20番と21番と並んだんです。そしたら両方切ってしまった。欠員1でその医学部はスタートしたということがあった場合、医学部からすれば少なければ少ないほどいいのか、あるいは厚生省からなるべく少なくと言われているのかわかりませんが、1点差でまた浪人というつらい期間を続けなければならないというようなことは、同じ状態で、あるわけです。いずれにしろ論理的思考力、創造力、適性というものを見る部分と、学力の到達度を見るという部分と、それから一瞬の誤差というか、その辺を合わせて柔軟に選別というのも見てほしいという希望は、親であればどの人も持つに違いないという、選抜の問題を抱えていることは間違いないわけです。
  試験無用論というのもあるわけで、入口をできるだけ柔軟にし、入ってから厳しい勉強をして、出口を厳しくしろという論もありまして、この接続のところでは、諸外国の例なども見て柔軟なやり方があるのではないかという気が依然としております。
  それから、少子化の方に関しましては、もちろん男女も含めたほかとの共存といいますか、違いを認め合って共同作業をしていくような習慣を教育内容の中でつけていくことが重要だと思っております。男女の違いももちろんございます。ジェンダーフリーという言葉が先回の総会では出されましたけれども、男女の違い。それから、障害者であるかそうでないかという違い、年齢の違い、あるいは能力の違い、知的な能力が優れているということもあるけれども、一方ではサービス・経済に合ったやさしい性格も尊ばれなければならないだろうと思います。こうした互いの違いを認め合えるような共同作業を通じた学習、これが総合学習の一つのタイプであるかもしれませんが、そういうことによって培われるのではないかと思っております。いずれにしろ中央教育審議会は難しいところにきたという感じを持っております。

○  いろんな審議会とか、いろんな委員会とかの結論が出たら、それが大きな影響を及ぼしますから、最終的な報告というか、答申をどのように書くかというのはなかなか難しいものだと常々思っております。
  何を言いたいかといいますと、教育の場合は、高等学校も多様化してきている。大学も多様化している。そういった中で、例えば教育が目指すものはこういうものである。例えば「課題探求能力」を高めていくとか、あるいは学力とはこういうものであるということを答申に書きますと、すべてのところにおいてそれが成り立たなければいけないというように受け取られかねないわけであります。例えば、「多様な入試をする」という表現がありますと、一つ一つの大学の中で多様な入試をしなければならないのかどうか。そのように受け取られたりしかねません。日本全体として分布が広ければよいわけですね、多様な分布をしておればよいのですから。そういった意味で、議論は多様な可能性を議論する。これは今までの委員の御発言の中でもございました。そうしたときに、その結果を答申に書くときも多様な選択ができるような結論を書くようにしないといけないのではないか。でないと誤解を招いたりする可能性があるのではないかという気がしております。
  したがって、議論をする場合も、一般的な平均レベルの議論、ちょうど真ん中あたりのところについての議論をするのか、分布のどの辺のところに関して議論をしているのかということがはっきりしないと、何かすれ違いの議論をしてしまったということになりかねないのではないか、そういう感じがしておりますので、これから難しい問題を議論していく場合に少し考えていただくとありがたいのではないかと思います。
  もう一つは、確かに学生諸君の学問に対する関心が低下してきている。学力も落ちてきていると言われておりますけれども、確かにそれは事実だと思いますが、最近の若い人たちはいろんなことに関心が多いわけです。マスコミとか、テレビとか、いろんなところでおもしろいことがたくさんあるわけですから、勉強だけが最大の関心事であるはずはないんで、そういうことになってしまうわけです。教育の内容、やり方について、もっと学生諸君が興味を持つ  ―高等学校の生徒諸君も大学もそうですけれども  ―そういう教え方というか、教育の仕方といいますか、学生の自発的探究心を触発するようなやり方はどういうものであるか、どういうやり方をすればいいのかということについて、もっといろいろ研究をして、具体的なやり方について、最近、相当なされてきていると思いますが、それを先生方にきちっと浸透するような努力をする必要があるのではないか。
  もう一つは、そういうことに学生諸君が興味を持つようなやり方をするためには、やはり相当なお金がかかるのではないか。つまり、教育に関するインベストメントがもっともっとないといけないのではないかという気もしておりますので、そういったことについても少し議論していただくといいのではないかと思います。

○  少子化が非常に進んできまして、一人の子どもにかける教育費は、親のほうはかつてよりもかけられる、かつ親の所得が上がってきたという形で、今、高学歴化が進んでいると思います。高校で申しますと、既に96%、97%という進学の状況がございます。進学率が96〜97%ということは、特に義務教育のすべての課程をきちっと身につけていない子どもも、実は進学をしてきている高校があるわけです。そういうことで、多様な高校教育が必要ということはもちろんでございますが、そういう中で、実は不登校のまま退学していくという子どもたちがかなり増えているわけでございます。とにかく高校へ行かなければという一つの意識があって入ってきたわけですけれども、それが途中で挫折をせざるを得ないという状況が一つある。これが大学の場合、今、50%に近い進学率に上がってくるということでございます。そうしますと、かつてのような意識とはまた違った形での入学者が増えてくるのではないかというところを若干危惧しているわけでございます。
  そういう意味で、今までの年齢別に、この年になればどこの学校へ行き、この年齢になればどのところへ進学するというシステムそのものが、ある意味では問われていることになるのではないかという気がしております。例えば、登校拒否という明白な意図を持って拒否をした子どもさんもいるわけでございますが、その子どもたちは逆に何らかの機会なり、何らかのプッシュがあれば、全く別のチャレンジをするというケースもあるわけでございます。そういう意味では、失敗からの再チャレンジという意味での多様なコースを、高校だけではなくて、大学という部分についても、幾つか選択の余地が必要だろうと思っております。それによって、さらにそういう子どもたちの失敗について、それで人生が終わりというような挫折感を持たせないで済むのではないかと思っております。システム的には難しい部分があるわけでございますが、いろんな面で、ある年齢の段階で自分の進路を決めきれなくて失敗したというケースについては、ぜひそういうチャンスを与えてやりたいと思っているところでございます。
  あと大学生の学力が落ちるという話も先ほどございましたが、大学に入るのが目的で、はっきり入学の意思を持ってこの大学に入り、こういう勉強をしたいという方々が大部分でございますが、そうではなくて、とにかくどこかの大学に入りたいというお子さんもいるということを仄聞することが多いわけでございます。そういう意味では、大学での勉強の仕方とか、あるいは卒業についての認定の仕方、その辺もこれから少しは問われてくるのではないかという気がしているところでございます。

○  総論で3点ほど述べてみたいと思います。
  まず、心の教育でございますけれども、中央教育審議会が心の教育を出した。初めて家庭の中にいろんなことの提言をなされたことは非常に意義があることだと思っています。というのは、親の背を見て子は育つという育ち方も一つの教育としてあるわけでございますけれども、家庭の教育力とか、地域の教育力というものが何であるかということが、若い世代の人にはなかなかわからなくなってきている。そういう中で、ある程度のルールとか、規範とか、意図的なものを出していかないと、なかなか難しいだろうと私どもはとらえておりますし、私どもも意図的な家庭教育についつどうにかしていこうという考えを持っているわけであります。
  今までの委員の方のお話の中にもあるんですが、実はアメリカの経済学者のレスター・C・サローが『資本主義の未来』の中でこう述べております。世界の家族がどんどん崩壊している。日本も崩壊している。いわゆる大家族主義から小家族主義になってきている。そういう中で、もはや子どもはプロフィットセンターでなくてコストセンターになってしまった。そういう中においては、子どもは親を必要とするけれども、親はもはや子どもを必要としないというようなことが書いてあるんです。日本の今後の先行きに警鐘を鳴らしているところでございますが、それを踏まえていくと、日本の中で、ただ単に教育だけでなくて、全体で子育てというものを考えていく必要があるのではないか。
  そのように考えたときに、子どもを産み育てるということの社会的評価が低過ぎるのではないか。ここら辺はもうちょっと高くしていかないと、子どもを3人、4人産んで育てることは大変なことだという中で、それだけの評価を構築していかないと、なかなか若い人は安心して子どもを産めないという考えになってきているわけであります。これが1点でございます。
  もう1点は、2002年からの「総合的な学習の時間」というのは、私どもは非常に評価しております。先ほど委員の方から学力という問題が出ておりますけれども、私どもが小学校、中学校について、学力とは何かと考えた場合、人間として生きる力  ―動物も生きる力を持っているわけでございますが、人間として生きる力をどうとらえていくかということだと思います。そういう中には、どの分野でどう生きるかということも含まれるわけであります。
  そうなってきたときに、この分野において国際理解の教育とか、あるいは環境の教育とか、創造性の教育とか、心の教育とか、そういう教育ができるチャンスが非常に出てきている。従来、カリキュラムというのは専門の先生が組んでいたんですけれども、ひょっとしたらこの分野について、私たち保護者あるいは地域の人たちも、先生方と一緒にカリキュラム編成に加わることができるのではないか。従来、同一の集団がカリキュラムを組んでいたのが、異質の集団の人も入ってカリキュラムを組むことによって、カリキュラムの幅が広がってくるということになると、多角的な見方ができるだろうということの考えの中で、「総合的な学習の時間」は大いに我々保護者も学校の中に入っていって、あるいは地域の方も学校の中へ入っていって、カリキュラム編成からいろいろな目的を持ってやっていったらいいのではないかととらえているわけでございます。
  もう1点は、最近、私、いろいろ考えているんですけれども、学習の機会がこれからどんどん増えていく。それから、テレビ、あるいはインターネットということで、いわゆる教えるあるいは教わる教育というのは、学校もそうでしょうけれども、その気になればいろんなメディアを通じて学ぶことができる。一番重要なことは、それを実体験とどう結びつけるかということだと思います。マスメディア、あるいはインターネット等のヴァーチャルな教育と実体験の乖離が大きくなってきますと、知識としてはとらえても、体験という形では身につかない。そういう中で、このリンクをどうやっていくかということを、私どもはそろそろ考えていかなければいけないだろうと思っています。

○  まず接続のことですが、接続といいますと、すぐ頭に浮かびますのは、学校間の縦の関係ということです。教育制度論から言いますと、学校間の縦の関係とともに、横の関係も考えなければいけないと思います。縦の関係はアーティキュレーションで、横の関係はインテグレーションと言います。横の関係を考えていきますと、どうしても内容に入りますので、これが今日、多様化して、自主・自律的な学校とか、いろいろ言われているわけであります。そうすると、多様な高校以下の学校と、大学のほうも競争的環境の中で個性が輝く大学という答申も出ておりますが、多様性と多様性の接続というのはどういうことなんだろうかなと、そういう一つの問題点に気づくわけです。
  次に、接続というのは連続ではないと思うんです。だから、接続にもいろんな接続があるので、例えば大学から接続を考えれば、高校で準備教育をしてくれといったように、入試問題は大学の先生がつくるということになります。大学の先生は高校のことをよく知らないで、一所懸命つくって忙しいと思うんですが、高校の側から接続を考えれば、高校の上に大学を考えれば、アウフバウですから、高校の先生が高校を卒業したという試験をやればいい。
  そうすると、多様性の接続というのは難しいなと思うんですが、スタンダードがないと多様性というのはカオスになりますから、そのスタンダードをどこに求めるのかということだと思うんです。ですから、極論を言えば、大学入試センター試験がスタンダードになるなら、その試験の在り方といいますか、問題をつくるのは高校の先生に任せる。そのかわり大学は個性的に大学ごとにするとか、いろんなことが考えられるのではないかと思うんです。
  つまり、試験というのは、学校の縦の関係の問題で、ドーアによれば、大事なのは学校教育の内容で、これが犬の本体なら、入試というのはしっぽのようなものだと。ところが、日本の教育はしっぽが犬を振り回しているといって、書いていましたけれども、やっぱり体がしっぽを振るような教育制度にしなければいけないのではないかと思います。
  第2点目の少子化ですが、少子化でまずすぐ頭に浮かぶのは、我々大人を含めてですが、個の権利の主張ばかりして、種の保存といいますか、未来の人間の権利のことを考えていない。未来にも人間がいるのに。これが一番の問題点ではないかと思うんです。DINKSに税金をかけろとまで言いませんけれども、どういう考えなのかぐらい聞いても私はいいと思うんです。もっと種のことを考えろということが一つ。
  それから、少子化と教育の点では、家庭教育が非常に難しくなった。家庭教育は、臨時教育審議会以来、生涯学習の原点であると。中央教育審議会は、あらゆる教育の出発点といっています。原点とか、出発点とか、問題の指摘はあったんですが、どういう方法でいくのかという提案がなかったんです。最近、「家庭教育手帳」が生涯学習局から出ましたけれども、私はあれはなかなかいいと思うんです。内容もいいんですけれども。あれは改訂版を出してバージョンアップしたほうがいいと思うんです。西ドイツで「エルテルン・フューラーシャイン(両親の免許状)」というのをつくって、これはオーソライズされていませんが、親の自覚を促す点ではいいと思うんです。今の親は、自分は子どもにとって人生最初の教師だという自覚がないんです。そういう自覚を与えるためにも、あの「家庭教育手帳」はもっと発展させていただきたいと思うんです。
  それについて、あるところで原稿を書きましたら、「親は子の鑑、子は親の鏡」と書いたのですが、ゲラを見ましたら、二つともミラーの「鏡」になっているんです。今の編集者の常識というのはこの程度かと思ったんですが、現実をあらわしている。「『親は子の鑑』は『鑑定』の『鑑』ですよ」と言わないとわからないんです。「何でも鑑定団」を見ていたせいか、すぐに「ああ、そうですか。わかりました」と。笑い話みたいになりますけれども、「鑑」と「鏡」の関係が教育でわかっていない。
  今、「学級崩壊」とか、「学校崩壊」とか言われておりますけれども、それ以前に家庭が崩壊している。家庭が崩壊しているから、家庭教育がなくなった。家庭教育をどうしようか、どうしようかと考えている人がたくさんいますけれども、家庭がないのに家庭教育があるはずがないんです。じゃ家庭は何かということなんですが、そのヒントとして、ペスタロッチが孤児院の院長になったときにまず考えたのは、家庭のない子を預かるんだから、家庭教育の長所から学ぼうと思って孤児院の院長になったんです。ペスタロッチはその前に農園を経営して失敗しているんです。植物の経営に失敗したんですが、人間の経営には成功したわけですけれども、ペスタロッチが家庭教育の長所から学ぶと言ったことを、日本では厚生省の教護院がやっているんです。教護院は去年の4月からですか、児童自立支援施設という名前に変わりましたけれども、教護院の教育方針を見ると、やっぱり家庭から学ぼうという姿勢が読み取れるんです。
  それはどういうことかというと、「家庭というのは家族が一緒に生活することだ」という、この「一緒に」がキーワードになっているんです。これを「withの精神」と言うんですが、一緒に食事をして、一緒にふろに入り、一緒に話し合って、一緒に寝る。今、日本の家庭に「一緒に」がないんです。家庭生活がないから、家庭教育がないんです。生活が教育するというのはそういうことなんです。そういう意味では、家庭をまずつくることから始めなければいけない。
  最後に結論を言いますと、今の教育全般については、豊かな社会における教育の在り方を我々はもっと真剣に考えなければいけないのではないかと思うんです。貧しい社会の教育は非常に簡単で、我慢、我慢、我慢でたくましくなったんですが、豊かな社会でどういう教育をしたらいいのか。イギリスの貴族階級の教育にヒントがあると言う人もいますが、私はそれだけではないと思うんです。
  もう一つ少子化教育の問題では、自我の形成というのは少人数家族で可能なのかということを、集団心理学といいますか、組織心理学の専門家にいろいろ聞いてみたんです。何人ぐらい家族の人数がいないと自我は形成されないのかということです。一般的には3世代、おじいさん、おばあさんと言われておりましたが、そういう研究すらどうもないみたいなんです。ですから、少子化になって、一人っ子の場合に、自我の形成というのは本当にうまくいくのかどうか、どういう点に注意したらいいのか、そういうことがわかっていないのではないかということです。
  それと教育改革がいろいろ進んでおりますけれども、私はあらゆる制度にメリットもあればデメリットもあるんで、それをよく押さえた上で、現在の歴史的時点ではこういうことをするんだというふうにしないと、また小選挙区制のように、そのとき長所ばかり過大評価して、後でしまったということになるんで、そういうことが事前にどのくらいアセスメントできるのかという問題があると思います。
  最後にやはりどうしても言いたいのは、人生最初の教師としての親の免許状、自覚を促すにはどうすればいいのか。学校の先生の免許に関することは厳しくやっているんですが、親の免許については何も考えていない。それで家庭はあらゆる学習の原点だと言う。川で言えば川上なんですが、川上からどんどん汚いものが流れてくるのに、途中からのことばかりやって、何か手遅れなことを、むだなことをたくさんやっているような気がするんです。

○  この前の総会のときに若干意見を申し上げましたので、できるだけ重複を避けながら二、三意見を申し上げたいと思います。
  まず、接続に関する問題ですけれども、これまでのヒアリングなどを通じても、これまで入試といいますか、選抜というのがある意味で学習の動機づけといいますか、かなりインセンティブを持って機能してきた。しかし、それは少子化の進行の中で、恐らく大学を含めて全入時代に突入するという中では、単に入学試験でもって次のステップの学校へ入るための学力を維持していくのは非常に難しくなってきているのではないかというのが専門家の意見でありまして、私も考えさせられたわけです。
  特に、今まで日本の場合は、入口が非常に難しい、そして出口がまた非常にあいまいになっていて、卒業についてどういう認定をするのかというのは、義務教育の場合は別としても、高校や大学においては、学んだことの成果の評価という問題について、日本はこれまであまり研究がされていないのではないかという感じを私も持ちます。この前申し上げましたイギリスに行って、強くそのことを印象として持ったわけです。イギリスの場合は、学習到達度を一つの独立した機関が3年に1回ぐらい、イギリスの全部の学校を評価してそれを公表している。そこまで一気にいくというのは別としましても、何をもって高校を卒業し、あるいは大学を卒業するかというところをイギリスの場合はかなり徹底して、カリキュラムは日本ほど緻密にはでき上がっていませんけれども、教育評価、到達度というのは公平な客観性を持った一つの評価をしている。その辺が日本の教育においてこれまで欠落していた部分ではないのかという感じを一つは持っております。
  そうは言っても、実際問題として18歳のかなりの人が大学を志願するという、恐らく2008年から2009年には全入時代に入るというこれは避けて通れない流れでありまして、そのことには異議は挟まないわけです。しかし、日本の将来を考えると、大学、高等教育機関と高等学校というのは目的をかなり異にしていますし、高等学校の場合は97%の青年が入っています。そして、高校を卒業したら社会人として、仮に50%、60%が大学・短大に進学したとしても、残りの4割から5割近い人が実社会に出ていくわけですから、もっと社会人として自立していけるというような、特に職業能力の形成というようなことを高校段階で一定程度育成することが重要ではないかという感じを持っております。
  入試については、学習機会をできるだけ公平に保障するという立場に立つと同時に、しかし大学教育を受けるに足る能力・適性を備えているかどうかというのは見ざるを得ないと思うので、選抜というよりも、できるだけ本人の選択なり、そういう能力を備えているかどうかという適性を見るといいますか、到達度を評価する。そういう意味で、どなたかおっしゃいましたけれども、到達基準の基準性を何に求めるかと言えば、何らかの共通試験的なものが必要ではないか。できれば資格試験的なものにしたいということを私は前から主張していますが、一気にそこまでいかないにしても、今の共通一次というものを一定程度、競争選抜的な要素を持つ大学  ―銘柄大学といいますか  ―と、そうでない、アメリカで言えばコミュニティカレッジみたいなものと、その中間ぐらいと、三極分化していくのではないかと見られますので、他の委員の方がおっしゃったように、そういったものを備えるように、大学入試センター試験の性格を三つぐらいの機能を持つような形に変えていくということを検討したらどうかというのが、接続問題に関する意見です。
  少子化についても、前回他の委員の方からも基本的にはジェンダーフリーといいますか、古典的というか、固定的な性別役割分業を見直すということをもっと徹底すべきではないかということを言われましたが、私も基本的にそういう立場に立っています。
  この前言わなかったことで、少子化が教育に及ぼす影響の中で、子どもたちが人間関係を形成していく力が、最近、非常に劣ってきているという指摘がありますし、現場の先生に聞いても、教師自体の同じ職場の中での連帯感といいますか、共同して、協力してやっていくということについて、教職員自体もかつてに比べれば劣ってきている。特に少人数にいずれにしても集団がなっていきますが、その中で、単に従来のような一斉指導型の授業だけでなくて、少人数化した中でも小集団学習といいますか、イギリスへ行ったら、日本のように黒板を背にして授業をしているという風景は、学校を八つぐらい回りましたけれども、ほとんど見かけません。四、五人ぐらいのグループで学習している。その中で人間形成を図ってきている。そういう意味で、少子化の中での学習指導の形態とか、そういうことについて、少子化の分科会の中では少し議論して、答申の中に取りまとめてほしいなということを感じていることを申し上げておきます。

○  大事なことをほとんど皆様がおっしゃってくださいましたので、あんまりありませんが、毎回繰り返していることをやはり繰り返して申し上げたいと思います。
  きょうは、会長の先ほどの御説明で、具体的な問題もさることながら、我が国の教育が目指すものは何か、どのような人間を育てるべきかという視点からも話をしろというお話を最初におっしゃっていましたので、そういう観点から考えますと、私は、日本人の質をこれ以上落としてはいけないと思います。皆様のお話の中に出てきておりますとおり、私たちはどこか日本の子どもが変わってきているということを否定できないと思います。簡単に言いますと、子どもは生まれてから幼年期、少年期、青年期と育っていくその過程で、それぞれ大切な人格形成をしていくはずで、その人格形成を支えるというかサポートするのが、学校の役割と家庭の役割だと思うんです。その結果出てきたものが、あまりにも問題の多い状況になっているという現在の状態を何とかする。そのためには、中央教育審議会として何ができるのかということを考えなければならないと考えます。
  具体的には、私、小学校、中学校段階、高等学校段階、大学、大学院と、この4月に11回入学式をしましたが、今は小学校から大学院まで親がついてくるんです。ですから、親に向かって入学式のスピーチをするわけですが、親に言いたいことがたくさんありまして、まずやっぱり体力をつくってください、精神力を大切にしましょう、それから目的意識といいますか、社会的な使命感を持った人になってほしいということを次々と言いますと、子どもたちはこっちを見てませんが、親はこっちを見て聞いてくれる。
  その過程で考えますことは、子どもの質の問題よりも親の質の問題。つまり、親といっても本当に若い世代ですから、既に変質していると思います。我々が考えている教養のスタンダード、あるいは文化の世界的な座標軸といいますか、古今東西だれでもが座標軸としているような文化の座標軸を失っていると思います。
  それから、日本の今の状況をつくり出している大きな原因の一つは、歴史観がだいぶ変わってきたということです。一番いい例を一つだけ具体的にお話ししますと、私のところでは50年前に卒業した先輩が入学式に来て新入生を激励するという習慣があるんですが、ちょうどことしは昭和24年の卒業生ですから、戦争を学生として体験した人が非常に多いんです。そのことを紹介しますと、新入生と親にざわつきが起こります。つまり、戦争犯罪人を見るような目で彼らを見るわけです。そうではないんだと。いい戦争、悪い戦争がある。侵略戦争もある。どの戦争でもその戦争が起きてしまったときに、それに行かざるを得なかった人たちの状況は理解する必要があるということを、入学式で説明しないとわからない。そういう状況が既に日本全体の現象として起こっていると私は思います。
  それから、この問題を考えていく上でもう一つ大切な問題だと私が思いますのは、これは他の委員の方もおっしゃっていたことですが、先生の質を上げていかないことにはどうにもならない。学力の低下という問題は、実は先生の学力の低下であり、先生の視野の狭窄化であり、先生の歴史観の変質だと思います。
  もう一つは、これは今、他の委員の方のおっしゃったことでありますけれども、先生の指導力がこれから本当に問われる。特に4人とか5人とかいう少人数で教育しようと思いますと、率直に言って、私が知っている先生たちでもなかなか困難だと思います。特訓をやらないと、彼らには黒板に向かってしか授業ができないんです。改めて本当に一人とか二人を相手にする授業の仕方を教えないといけない。
  こういう意味で、今回は少子化問題と接続というところに問題を限定していますけれども、全体を考えないと、日本の教育をどういう方向に持っていったらいいかという解が出てこないのではないかと思っています。会長にリードしていただいて、なるべく視野の広い議論をさせていただければ幸いでございます。

○  それでは、最後になりましたけれども、私の考えていることを一言申し上げたいと思います。
  まず少子化の問題ですけれども、少子化の問題ということは、高齢化社会の到来ということと裏腹をなしているわけでございまして、人口動態の変化ということだと思います。したがいまして、学校教育制度、それから接続の問題を含めまして、それを大きく包む社会の人口動態の変化と考えますと、少子化・高齢化社会の到来に伴って、教育はいかにあるべきかということと、それから学校のシステムの在り方とマッチングしていかなくちゃいけないのではないかと私は個人的に思っております。この辺は他の委員の方がまた別の観点で探究されるのかと思いますけれども、そんなような感じを持っております。
  小学校・中学校・高等学校という前半の一つのセグメントと、大学という後半のセグメントの、その間の関所の接続の問題というふうになりますけれども、小学校の前に幼稚園というものがあることは御存じでございます。私がこの間聞いたことでは、日本の幼児の50%が幼稚園に行っておる。これは大体180万人でございまして、約1万4,000園の幼稚園があるそうでございます。約6割が私立、4割が国公立ということになっているわけです。この幼稚園の在り方は、先ほど来御指摘のあった家庭教育の問題と非常に関連しているのではないか。この辺をどのように考えていくかということが大きな問題としてあると思います。さらに、家庭を包む地域社会の教育に対する在り方をどう考えるのか。そして、小学校・中学校・高等学校・大学といきまして、卒業した連中が社会へ出、企業社会へ出ていくわけでございます。そこで、大学をほぼ10回卒業するようなことに相なるわけです。
  したがって、このように考えますと、セグメントは家庭と幼稚園の一つのジャンル、そして家庭を包む地域のジャンル、それから小学校・中学校・高等学校のジャンル、そして大学のジャンル、そして社会、企業のジャンルということで、大きく分けるとさらにそれを包む国家というものがございますが、そういった流れの中で、私どもの論議をどう進めていくかという視点もまた必要でないかと思っております。
  この間、本を引っ張り出しましてずっと読んでおりましたところが、明治維新が1868年に御案内のとおりまいりまして、明治23年に教育勅語が出るわけでございますが、それまでの間に日本国においても、今のような問題が非常に激しく論議されておったようでございます。教育制度も最初はフランス型のやや中央集権的な教育制度をとるかという考え方と、より自由化されたアメリカ型をとるかというような論議がございまして、結局、アメリカ型に近いものをとっていったようでございます。
  それと並行いたしまして、いわゆる徳育の論議、福沢先生が『学問のすゝめ』をお書きになって、あれは100万部ぐらいのベストセラーになったそうですが、それと同時に中村さんという方が例のスマイルズの『Self-Help   』(『自助論』)というやつを翻訳されて、あれは『西国立志編』という本が出て、これまた100万部売れた。そこで自助の精神を非常に強調した。そういうような論議がずうっと行われていって、明治23年(1890年)に教育勅語が出てくる。
  教育勅語の内容については、皆様御存じのとおりでございますが、ヨーロッパのほうには連綿としてモーゼの十戒の思想がずっとあるわけです。内容的に言っているところは、天皇の問題は別といたしまして、父母を敬えとか、隣人を大事にしろとか、盗んではいかん、姦淫してはいけないというような、基本的なことがモーゼの十戒の中にあるわけで、そういったものを西側の方々はベースにしている。明治23年にできました教育勅語が、おおよそ50年間でございますか、1945年までずうっと日本の教育の一つの柱になっていたのではないかと思います。それが壊されまして、何もない状態で今日まできているということかと思います。
  私が何を申し上げたいかといいますのは、何も教育勅語みたいなものをつくれとか、つくるべきだという意見ではございません。ただ、その後の終戦後のあれをずうっと見ていますと、今もお話がございましたけれども、多様化された社会とか、あるいは選択の多い社会という積極的な面がございますが、一方においてはそれは相対主義的な考え方を強調する結果になりまして、普遍的な価値観というものについての考慮がかなり欠けてきていたのではないか。そういった状態で、モチベーションとか、我々の昔の言葉で言えば「がっつき」でございますな。「あいつはがっついている」とか何とか言いますけれども、そういうものが非常に欠如した子どもたちが出てくる。あるいは、学力の低下というようなものがあらわれるということではないかと思います。
  私は、この論議をいろいろな形で進めていく際に、そういった日本の過去の教育の過程において、そういった価値観がどのようにあれされたのかということも大きな問題として考えなければならないのではないかと思っております。

○佐藤事務次官
  それぞれポイントを突いた御意見をちょうだいいたしまして大変ありがたく存じております。第17期発足でございますので、できればというような御期待を二つ申し上げておきたいと存じます。
  一つ目は、会長の御挨拶とただいまのお話にもございました、結局、どういう人材を育てるのかという基本問題が常にあるわけでございます。このことが全体のかなめのようなもので、恐らくそこについての基本的なコンセンサスが必ずしもこれまで得られてきておりませんので、いろいろな議論がフラフラする原因になっているような気がいたしてございます。と申しましても、会長が申されましたように、これをまとめて中央教育審議会が世に問うという形で出すことがよいかどうかということについては、よほど熟慮の要る問題であろうと思いますので、その点はよくお考えいただきたいと存じます。しかし、基本問題についての何らかの意見の集約みたいなものがあると、本当にうれしいなという気はしているわけでございます。
  御承知のように、昭和46年に「期待される人間像」という形で、中央教育審議会は世に問いましたけれども、社会的なコンセンサスは得られていなかったかと思います。以後、あまり明示的な形でこのことを論じておりませんが、最近、大学審議会の答申では、高等教育に関して若干の記述をいたしてございます。大学審議会答申「21世紀の大学像と今後の改革方策について」の中に「求められる人材」という形で、高等教育段階での求められる人材像が書いてございます。少々係り結びの難しい文章でございますけれども、少なくともそういうトライを高等教育段階ではしておるということを、御参考に供したいと思っているわけでございます。
  もう一つは、最近、他の分野から教育問題についての御提言がいろいろなされておりまして、これは大変いいことだと思って喜んではいるわけでございます。兄弟分の科学技術分野からはもちろんいろんな御注文がございますが、先ほどお話にありました経済戦略会議あるいは経済再生会議、そういった経済政策の面からも人材養成についての御注文がいろいろございます。当然、雇用政策の面からもございます。そしてまた、21世紀懇談会でも恐らく大きな視点から御議論になると思います。新聞で伝えられるところによりますと、来月開かれますケルンサミットでは、初めてヒューマン・リソーセズということがG8首脳の議題になるということで、いろんな角度から教育問題についての注文が出てきているわけでございます。
  この中央教育審議会は教育問題についての一番基本的な議論をする場でございますけれども、どうぞ他の分野の政策につきましても御遠慮なく御提言を出していただければありがたいと思うわけでございます。もちろん、答申を出す段階で各省とは私ども事務的にいろんな整理をするという仕事がございまして、そういう作業はいたしますけれども、これは教育問題でないからというふうにはどうぞお考えになりませんで、いろいろと御提言をちょうだいできればありがたいかと思うわけでございます。
  その2点について、できればという御期待を申し上げたいと存じます。ありがとうございました。

○根本会長
  それでは、時間も迫ってまいりました。本日の論議はここまでということにさせていただきます。
  本日はどうも御熱心な御意見を賜りましてありがとうございました。
  本日の会議は、これをもって終了いたします。どうもありがとうございました。

(大臣官房政策課)

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