審議会情報へ

中央教育審議会

 1999/4 議事録 
中央教育審議会第224回総会 (議事録) 

 中央教育審議会  総会(第224回)

  議  事  録


平成11年4月8日(木)13:00〜15:00
霞が関東京會舘  35階  ゴールドスタールーム


1.開    会
2.議    題
  「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」及び「少子化と教育について」
3.閉    会


出    席    者

委    員                                事務局
  根本会長                                有馬文部大臣
  河合座長                                森田政務次官
  木村座長                                佐藤事務次官
  市川委員                                富岡生涯学習局長
  薄田委員                                辻村初等中等教育局長
  川口委員                                御手洗教育助成局長
  國分委員                                佐々木高等教育局長
  小林委員                                高  総務審議官
  坂元委員                                寺脇政策課長
  高木委員                                その他関係官
  俵  委員
  土田委員
  永井委員
  横山委員


○根本会長
  それでは、ただいまから中央教育審議会第224回総会を開催いたします。
  本日は、皆様御多忙のところを御参集賜りましてありがとうございます。御案内のとおり、本日が第16期としての締めくくりの審議でございます。
  冒頭、有馬大臣より御挨拶をお願いしたいと思います。よろしくお願いいたします。

○有馬文部大臣
  中央教育審議会第224回総会の開会に当たりまして、一言御挨拶を申し上げます。
  本日は、今、会長がおっしゃられましたように、第16期中央教育審議会の締めくくりの総会でございます。
  第16期中央教育審議会の皆様方におかれましては、平成9年4月の発足以来、2年間にわたって80回を超えるというので、いささか私もびっくりいたしましたが、その会議を通じまして、文部省のほうの諮問に対し精力的な御審議をいただきましたことに心から御礼を申し上げます。
  その間、平成9年7月には「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の第二次答申を、平成10年6月には「幼児期からの心の教育の在り方について」の答申を、また同年の9月には「今後の地方教育行政の在り方について」答申を取りまとめていただきました。現在、文部省では、これらの答申を最大限尊重いたしまして、具体的な施策の実施に取り組んでおります。具体的には、「教育改革プログラム」という形で、皆様方からの御提言などを実現するべく努力をさせていただいております。
  また、平成10年11月以降は、「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」及び「少子化と教育について」、大所高所から様々な観点に立って活発な御審議をいただいており、本日はこれまでの審議状況について、小委員会の座長から御報告いただき、審議がなされるものと伺っております。
  これまでの御審議の成果は、近く発足いたします第17期中央教育審議会に引き継いでいただくことになります。第17期の委員の選任につきましては、審議の継続性に配慮しつつ準備を進めており、大方の委員の方々には留任をお願いすることを考えております。まだまだこれからありますので、よろしくお願いをいたします。
  ただし、引き続きお願いをする方がたくさんおられると思いますが、これまでの委員会をずうっとお務めいただいて、何らかの理由でここでお引きくださる方もおられるように伺っております。そういう方々に対しましては、この席をかりまして心より今までの御尽力、御協力に厚く御礼を申し上げます。また続けてやってくださる方々には、ぜひともまた今後もよろしくということをお願いいたしたいと思っております。
  私、ずうっとここにいさせていただいて、小委員会の様々な御報告を承りたいのでありますけれども、またほかにも行かなければいけないことがございまして、これで御無礼をさせていただきます。お許しください。どうぞよろしくお願いいたします。

○根本会長
  どうも大臣ありがとうございました。
  それでは、お手元の配付資料の確認を事務局にお願いいたします。
<事務局から説明>

○根本会長
  それでは、早速でございますが、審議に先立ちまして、接続に関する小委員会及び少子化に関する小委員会のこれまでの審議状況につきまして、それぞれの座長さんより御報告をお願いしたいと思います。
  最初に、木村座長から接続に関する小委員会の審議状況をよろしくお願いいたします。

○木村座長(初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会)
  それでは、初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会におけるこれまでの審議経過について、簡単に御説明を申し上げます。
  私どもの小委員会は、10名の委員並びに17名の専門委員から構成されております。平成10年12月3日に第1回目の小委員会を開きまして、これまでに計7回の小委員会を開催いたしております。
  諮問文及び諮問理由で示されておりますように、最近、初等中等教育におきましては、中央教育審議会の第一次答申で示されましたとおり、「ゆとり」の中で「生きる力」をはぐくむという今後の教育の基本的考えを踏まえ、教育課程の改訂がなされたところであります。これを受けまして、目下、個性を伸ばし、多様な選択ができる学校制度の実現が鋭意進められております。
  一方、高等教育におきましては、平成10年秋に「21世紀の大学像と今後の改革方策について」という大学審議会の答申が出されました。これを踏まえまして、教育研究の質の向上や教育研究システムの柔構造化、組織運営体制の整備、多元的な評価システムの確立などのための改革が進んでいるところであります。
  私どもの「初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会」におきましては、初等中等教育並びに高等教育においてこのような改革が進展しております状況の下で、今後、どのようなことが課題になるかを関係者からの説明等を通じて、明らかにしつつ、審議を進めてまいりました。
  これまでの小委員会の状況を簡単に御説明いたしますと、第1回の小委員会においては、教育改革の状況につきまして、事務方から説明を受けました後、今後の審議の進め方について意見交換を行いました。次いで第2回の小委員会におきましては、諸外国の状況を含め、大学入試センター教授の荒井克弘専門委員から総括的な御説明をいただいております。
  引き続きまして、高校教育の現状及び大学教育の現状を把握いたしますために、高等学校につきましては、第3回小委員会において、東京都の三田高等学校長で、かつまた全国高等学校長協会の会長でいらっしゃいます岡本裕之専門委員、並びに聖学院大学教授の西本憲弘先生からお話を伺いました。
  また、大学教育につきましては、第4回小委員会におきまして、愛知県立大学長の森正夫先生から御説明をいただき、特に西本先生からは連携を図る取組が各所でいろいろなされておりますので、それについてもお話を伺っております。さらに、大学教育を受けるために必要な能力は一体どのようなものかという問題につきまして、両者の接続の円滑化でありますとか、あるいは接続の観点を重視した入学者選抜の改善を進める上からも非常に重要であるということで、大学入試センター研究開発部長の柳井晴夫教授から御説明をいただいております。
  次に、入学者選抜の改善につきましても、その現状をまず把握しようということで、第5回小委員会において、事務局からの説明に引き続きまして、お茶の水女子大学の耳塚寛明教授から、特に高等教育の大衆化との関連に焦点を当てて御説明をいただきました。そのほか、接続を重視した入学者選抜の在り方につきまして、メディア教育開発センターの池田輝政教授からお話を伺っております。
  このお二人の御説明は、大学側からの視点に立つものでありましたが、現在の大学入学者選抜の状況をどのように見ているかという高等学校側の視点も極めて重要であるということで、第6回の小委員会においては、前都立日比谷高等学校長の久野猛専門委員、日本私立中学校高等学校連合会常任理事で、現在、穎明館中学校・高等学校長の久保田宏明先生から御説明をいただきました。
  また、大学入学者選抜の改善につきましては、現在の大学入試センター試験の在り方が極めて重要になっているということから、第7回小委員会におきまして、大学入試センターの荒井克弘専門委員から、現状と課題について御説明を伺いました。そして、事務局のほうから、主として先進国でありますが、欧米等の大学入学者選抜の状況について説明を受けております。
  以上をもちまして、第16期の小委員会としては審議を終了いたしましたが、これまでの説明を受けての審議を踏まえますと、おおむね次のようなことが要点になるかと考えられます。
  まず最初が、高等学校及び大学の役割分担の明確化と両者の教育の連携の問題でございます。現状認識と今後の課題に分けて御説明申し上げますと、現状認識につきましては、大学進学率の向上や高等学校教育の多様化、大学入学者選抜の多様化等が進む中、大学入学者については、大学教育を受けるに当たっての基礎的な学力の不足でありますとか、あるいは基本的な科目を履修していないといった問題点が指摘されております。
  また、ヒアリングを通じまして、高等学校における指導が大学入試を意識したものとなり過ぎており、それがかえって大学教育に必要な学力を十分に身につけさせることを妨げているのではないか、また、一方、大学も高等学校における教育の内容をよく理解した上で、入学者選抜や大学における教育の在り方を考えているのか、求める学生像や入学者に求める「学力」を高等学校側に明確に示しているのかといった課題が、現状認識あるいは問題点の背景として指摘されております。
  次に、今後の課題でありますが、今後の教育改革の進展の中で、高等学校を卒業した若者の学習内容、到達度は一層多様化することが見込まれております。現に既にかなり多様化しております。このような状況の下で、高等学校においては、基礎・基本の部分の着実な習得を図ることを重視するとともに、選択の範囲が広がったことを生かして、自分の進路を見据えながら、その能力や適性を伸ばしていくような学習が進められるようにするなど、指導の充実を図ることが必要ではないかという指摘がなされました。
  一方、大学も、先ほど申し上げましたように求める学生像や大学教育を受けるために必要な力を明確にし、これらを高校や進学希望者に積極的に示すことが必要ではないかという意見が出されました。また、高等学校卒業者の多様化を前提に、大学においてもそれぞれの大学の特色を踏まえつつ、大学入学後の教育の在り方を改善していくことが必要であろうということが、ほぼ我々の合意となっております。
  さらに、高校生がその意欲や関心に応じて、大学の協力の下、積極的に大学教育に触れる機会を設けることも重要であり、アメリカ等でかなり積極的に行われておりますが、大学・高校が連携協力して、大学入学後の学習への円滑な接続を図ることが必要ではないかという指摘がなされました。
  なお、高等学校、大学が、今後、さらに多様化していくであろうという前提に立ちますと、高等学校と大学の役割分担、連携の在り方には様々なものが想定されます。これら多様化の現状を踏まえました議論が今後必要となるのではないかと考えております。
  2番目が、高等学校と大学との接続を重視した大学入学者選抜の改善の問題であります。
  まず最初に、現状認識でありますが、これまでも中央教育審議会答申等を踏まえ、選抜方法の多様化、評価尺度の多元化等、大学入学者選抜の改善の努力がなされてきております。これらの取組がある程度成果を上げてきたこと、さらには18歳人口が減少してきたという事実によりまして、大学入学者選抜の現状及び課題は相当大きく変化してきているものと考えられます。先生方からのヒアリングにおきましては、依然厳しい選抜が存在する一方で、大学入学者選抜が高校生に対する学習の動機づけにもなっていた実態に変化が見られつつあることが明らかになりました。このような状況の下で、それぞれの生徒をどのようにすれば学びに向かわせることができるかという観点は、今後、一層重要となるものと考えられます。
  また、当然のことでありますが、高等学校と大学の多様化、個性化が進む中で、入学者選抜も接続を重視したものとしていく必要があると考えられます。
  次に、今後の課題でありますが、各大学の個性化、多様化が進む結果、入学者選抜の方法についても多様化が進むものと考えられますが、接続を重視した入学者選抜を推進するためには、各大学は求める学生像やそれぞれの大学において教育を受けるために必要な力を明確に示すとともに、これを入学者選抜によって適切に評価すべきであろうという御意見が強く出ております。
  一方、高等学校においては、単に大学に合格するということを目標とするのではなくて、高校生自身の興味、関心等に応じた進路選択を基調とする進路指導、学習指導を行う必要があるという指摘がなされました。また、大学に入学してくる学生の能力や適性、学習歴等を的確に把握し、大学教育を円滑に実施するためには、高等学校における評価についていま一層の充実が重要になるものと考えられます。
  大学入学者選抜や高等学校の評価におきましては、初等中等教育で今後、自ら考え、自ら学ぶ力の育成が重視されることや高等教育においても課題探求能力の育成がより必要となることを踏まえまして、これも中央教育審議会として再三申し上げてきましたが、知識のみではなくて、論理的思考をいかに行うかといったスキルの面をどう評価するかという観点を一層重視していくべきであろうという強い御意見も出ております。
  大学入試センター試験におきましては、高等学校の学習の達成度の評価と大学の選抜の資料とするという二つの課題にどう応えるのか、この点については大きな議論がございましたが、重大な課題であろうと思います。
  本小委員会の検討事項としては、その他の関連する施策として、例えば小学校と中学校、中学校と高等学校の相互の接続の在り方でありますとか、学校教育と職業生活との接続にかかわる課題がまだ残っております。また、入学者選抜の改善についてもなお補うべき点が多くあろうかと考えております。
  今後発足いたします第17期におかれましては、引き続きこれらの事項について、関係者から御意見を聞いていただいた上で審議を進められ、具体的な改善方策につながる答申をお出しいただくことを期待しております。
  私どもの小委員会の御報告は以上でございます。

○根本会長
  木村先生、どうもありがとうございました。
  それでは、引き続きまして河合先生に、少子化の問題についてお願いしたいと思います。

○河合座長(少子化と教育に関する小委員会)
  それでは、「少子化と教育に関する小委員会」の審議経過について御報告を申し上げます。
  本小委員会は7名の委員及び13名の専門委員から構成されておりまして、12月11日の第1回目の小委員会に始まり、これまで計4回の小委員会を開催しました。本日は、これまでの審議経過について、私から説明申し上げます。
  まず、小委員会の概要でございます。本小委員会は、「少子化と教育について」を審議するに当たり、少子化が教育にどのような影響を与えるのかを明らかにするとともに、それに対応してどのような教育関連施策を講ずべきかなどを検討することにしました。
  そのため、これまでの小委員会の状況を簡単に申しますと、第1回小委員会において、少子化の状況や少子化への対応を考える有識者会議の審議状況について事務方から説明を受けた後、第2回小委員会においては、依田明昭和女子大学大学院教授から「少子化が教育に与える影響とそれへの対策について」御説明をいただきました。
  次いで、少子化に対応した教育関連施策についての審議のため、第3回小委員会では、河野真理子キャリアネットワーク常務取締役から「出産・子育てを含めた女性のライフプランについて」、山口満筑波大学教授から「少子化と学校教育」について御説明をいただきました。
  さらに、第4回小委員会では、第3回に引き続き教育関連施策を審議するため、中原美恵ちば心理教育研究所副所長から「家庭教育相談に見る親の悩みについて」、佐々木宏子鳴門教育大学教授から「少子化に関連した幼稚園関連施策について」御説明をいただきました。続いて、事務方からは「子育てに伴う教育費負担の軽減方策について」説明を受けました。
  これらの説明を受け、またその後の審議を進める中で感じましたことは、少子化の問題を教育との関係に絞って論議することは、なかなか難しいということでございました。少子化の話は非常に広範囲に広がりまして、現代の社会はどうかという話になっていきがちでありまして、これを教育問題に絞ることは難しいという感じがしました。
  もともと、少子化については、これまで十分な知見が得られているとは言えない上に、例えばここ20数年、子どものいる家庭では子どもの数がほぼ変化していない中で、一人っ子的な育ち方が見受けられることを考えますと、少子化自体よりも他に変化の原因を求めるべきものも存在していると思います。
  また、少子化に対応した教育関連施策としては、少子化のもたらす影響への対応と、少子化の要因への対応が考えられますが、両者を区別して論議することはなかなか難しく、また総合的な取組が求められる中で、教育面のみを取り出して論議することは容易でない面がございます。
  このような難しい面がありますけれども、今後の審議についてもできるだけ教育との関連に焦点化した議論を期待したいと思っております。
  第16期の小委員会のこれまでの審議を踏まえますと、少子化と教育について、おおむね次のようなことが要点になると考えられます。
  まず、少子化が及ぼす教育への影響についてでございます。現在、急激に進行している少子化は、未婚化、晩婚化によるところが大きい。子どものいる家庭では、ここ20数年、子どもの数が減っているわけではないが、結婚しない人や子どものいない家庭が増えたため、地域社会全体から見れば、子どもの絶対数が減っているのが現在の特色であります。
  少子化が及ぼす影響については、例えば、次のような問題点が考えられます。
  1点目は、地域社会において、子育ての望ましい在り方が適切に共有、継承されなくなること。
  2点目として、地域社会において子どもの数が減ることにより、子どもたちが異なる年齢で様々な体験を行う機会が減少すること。
  3点目として、学校においても、きめ細かい対応が可能となる反面、部活動や特別活動等、集団活動が成立しにくくなるということです。
  続きまして、少子化に対応した教育関連施策についてでございます。まずさきに示しました少子化が及ぼす影響のうち、子どもにかかわるものについては、学校教育や社会教育において積極的に異年齢による集団活動の機会を設けていくといった取組が必要であると考えられます。
  2番目として、子育て支援は、子育てに伴う不安や負担感を解消していく上で、大きな意味があると考えられます。したがって、地域社会において子育ての望ましい在り方が適切に共有、継承されるよう、現在、子育てを行っている者のみならず、既に子育てを終わった者やこれから子育てを行う世代との交流を進める必要がある。
  また、幼稚園における預かり保育の拡充や子育ての悩みを共有できる機会の確保、奨学金の充実による教育費の負担の軽減等の取組も重要と考えられます。
  3番目として、若い世代に家族や子育ての重要性や楽しさを伝えるため、幼稚園等に行って幼児に触れるといった機会を設けることも意味があると考えられます。
  なお、これらの取り組みに当たっては、子育ては家族全体で、また地域全体で行うものであるというように、人々の意識を変えることが重要であると思います。また、社会全体の仕組みも、男も女も子育てをし、男も女も働き続けることを基本にしたものにしていく必要があります。このように人々の意識や社会の仕組みを考える上で、教育の役割は極めて重要と考えられます。
  次に、教育関連施策を進めるに当たって考えられることを申し上げます。
  子育てに家庭や地域がどのようにかかわっていくべきなのかという理念を持たないままでは、子育て支援策が単に利便性の追求にこたえるだけのものになる可能性があることに留意する必要がある。望ましい子育ての在り方とは何かが常に問われなければならない。また、単に子どもの数を増やせばよいというのではなく、どのような子どもを育てるのかという点が重視されなければならないと考えます。
  今申し上げましたような点は、報告をまとめる際のむしろ冒頭に、基本的考え方として示すほうがよいのではないかとも思っております。第16期小委員会の座長としまして、このような点にも留意しつつ、今後、さらに審議を進め、具体的かつ有効な施策について明らかにしていただくことを期待しております。

○根本会長
  ありがとうございました。
  両座長から御説明がございましたけれども、これから二つのテーマにつきまして自由討議を行いたいと思います。時間は十分ございます。
  それでは、最初に接続の問題から入りたいと思います。接続の改善について、どなたでも結構でございます、どうぞ御意見をいただきたいと思います。

○  私自身は接続のほうの小委員会に属しておりましたので、それほど多くのことを申し上げることはないんでありますけれども、多くの国民が高等教育と初等中等教育の接続の問題、とりわけ大学入学者選抜の問題の解決が教育改革をする上で必須の条件であるという意識というか、認識を持っていると思います。だからといって、大学入試、選抜制度の在り方を改革すれば、問題を抱えている日本の教育がすべてよくなるというような単純な問題でもないというふうに、ヒアリングを通じながらいろいろ感じているところです。
  とりわけ幼稚園から大学までの今の学校体系全体を見直していくことが重要なのではないかと考えます。その際、それぞれの学校段階で卒業をしていく到達度、高等学校なら高等学校を卒業するのに、一体、高等学校の目標とされていることを3年間でどれだけ身につけたかという教育評価の問題が、この問題の議論の際に重要になってくるのではないかということを感じているわけです。
  入学選抜自体が、ある意味で学力の評定といいますか、判定になるわけですが、どうも日本の場合、入学選抜ということと、その結果として大学に入ってからの成果とはあまり結びついていないのではないか。たまたま私はある機会に、46答申(今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について)の事務局の中心になられた方と1時間半ばかり、いろいろ話をする機会を持ったんです。あの方自身はその後、高専、そして短大の学長をされていたんですが、いろんな実証的な研究をしてみると、入試の成績とその後の大学における学習とが結びついていないということをおっしゃっていました。今後、その辺のところをもう少し研究していく必要があるのではないか。
  たしか第16期の第二次答申のときに、私は、そういう実証的な研究をする必要があるのではないかという意見を言って、若干そういう表現を取り入れていただいたことを記憶しているんですが、今後、国レベルも含めてカリキュラムセンター等をつくっていく中で、評価の問題について、日本の場合、今の内申書もそうですが、5段階の相対評価が中心になっていますが、果たしてこの評価方法がいいのかどうか。学校現場のそれぞれのところからもいろいろ意見が出ていますので、ぜひ接続の問題と教育評価の問題をこれからの第17期の中では議論をしていく必要があるのではないか。
  私は、今年の1月の終わりから2月の初めに、イギリスに1週間、アメリカに1週間、特に大学入試を中心にそれぞれ関係機関を回ってそれなりに視察をしたんですが、日本ほど入学者選抜が大きな国民的課題には必ずしもなっていない。これほど受験競争といいますか、受験戦争と言われるほどの序列化された、偏差値みたいなもので輪切りするという状況に必ずしもなっていない。それはなぜなのかということをまだ整理しきれていませんけれども、一種の到達と評価、あるいは適性検査みたいなものが、イギリスでもアメリカでも主流になっているわけです。特に外部機関による卒業資格なり入試の資格試験化的なものになっているところについて、必ずしも外国のまねをするとかそういう意味ではありませんが、今の共通第1次学力試験から大学入試センター試験、個別大学と二重に試験をしている今の日本の制度が、これでいいのかどうかということについて、諸外国の例なども参考にしながら、一種の資格試験化的なものに踏み切る段階にきているのではないかというのが、現段階における私の意見であります。

○  特に経済ではグローバル化が進んでおりまして、このところの日本の経済は、業種によっても違うんですが、随分停滞しているという事実があるわけです。かなり個別的に専門能力をつけた人は強く、一つの企業に帰属するのではなく、個によって動くというような新しい生活の展望が見えるようになってまいりました。そのかわりに家族とか、地域というようなところの帰属意識は、恐らくいろいろな方々のサポートを受けて強まっていくだろうと思うんです。
  また、最近の調査をザーッと見ておりますと、大学教育での完全なダブルスクール化というのが進んでおります。そのあたりをどうするのか。
  今の学生は大学に所属しながら、もう一つ職業の訓練に利する教育を経済的な負担を親にかけながら学んでいるという状況があるんです。ですから、大学も職業的な専門学校に特化したような大学が出現することが必要なのかなと思いますし、また非常に高度な教育をする大学も出現しなければいけない。その辺、大学自体も顔がちょっと見えなくなってきているようなところがあるように思います。
  大学教育自体もきちっと個性化しつつ、なおかつそういうところに自分の進路を決定するということが、中等教育ではとても大事だと思いますので、非常に優れたというか、1割ぐらいの人は別にして、入学者選抜の場合は大多数が適切に、そう苦しまずに自分の進路を決定することを考えなければいけないと思っております。この会議の中でもありましたが、大学入学資格検定というものが到達度テストを行うとすると、今のセンター試験というのはなくしてしまうか、もっと高度化して充実化する必要があるのかもしれないと思っております。
  それから、進路指導のデータをきょう私は読んでおりましたが、変わってはきているんです。非常によくなってきているんですけれども、いまだに教員の方で進路指導をやりながら授業をやるということが多くて、十分にはできないという答えが強いとか、それから卒業生の中にはもうちょっと大学についての情報が欲しかったとか、大学をもっと訪問してみたかったとか、それからその学校を卒業した人の体験談をもっと聞きたかったとか、職場の見学をしたかったとかいうようなことを言っている人がいるので、いまだにいわゆる普通科を出て、割合名の知れた大学に入って、そこでは大学の勉強はともかく、4年間割合むだに過ごす学生が多いのが日本の現状かなと思います。その辺の接続のところを整理しないと、若い人たちの将来に非常に影響するのかなという感じがしております。

○  選抜の方法というのは、常に時代に合わせて改革されるべきだと思うんですけれども、何か試験の仕方をいろいろと手をかえ品をかえるということで、何かが変わるという感じはどうなのかなという気がしております。18歳になったら試験があって、そこで入れる人と入れない人がいて、どんな試験の仕方をしても落ちる人はいるわけですよね。落ちてしまうということに関するものすごい絶望感とか、そこで試験を通らなければいけないというすごいプレッシャーというか、そういうものが子どもたちを苦しめていると思うので、試験のやり方を変えるというより、18歳でそこを乗り越えないと人生だめだというようなプレッシャーを社会が与えていることのほうが、子どもたちを苦しめているという気がします。試験というのをすれば必ず落ちる人と受かる人がいるということだと思います。
  もちろん、その年齢で自分の人生とか、適性を考えるのはいいことだと思うんですけれども、必ずしもみんながその年齢で、自分が何に向いているかとか、どういうことをしたいかというのを明確にできないことだってあると思うんです。全員が一斉にその年に何かが変わるということでもない。ですから、「接続」って、こういう言葉はすごく不思議な用語だなと思って見ていたんですけれども、高校とだけ別に接続しているわけではなくて、もちろん社会とも大学は接続していたり、18歳で必ず大学に接続するというのではなくて、例えばいろんな回り道をして、やっぱり僕は医者になりたいから医学部を受けようとか、みんなが18歳で一斉に何かをしなければいけないという社会の空気が変わったら、プレッシャーみたいなものが随分和らげられるのではないかと感じました。

○  私が参加させていただいております少子化のほうの議論について感じていることを、2点申し上げたいと思います。
  一つは、少子化というものの状況の認識の仕方で、議論の切り口が参加されている各委員の間でだいぶ違うのではないかという印象を得ております。そういう意味では、少子化が教育に与える影響をどのようにとらえるのか。経済なり社会の風潮といいますか、いろんなひずみとか、世に言う世情といったものの変化が教育に与えている影響と、少子化で論じられる教育とのかかわり合い、その辺がどうも混濁したままの議論になりかねないのではないか。そういう意味では、私自身ももう少し整理して考えなければいかんなということを痛感いたしております。
  同じようなことだと思うんですが、両親ともに働く世帯が非常に増えているという意味で、そういう中での子育てのサポートという問題と、そういう中で子どもを育て、その子どもが教育を得ていくという、子育てサポートと子育ちのサポートのところの議論の混濁もどうもあるように思います。そういう意味では、まだこれからの論議ですが、その辺をそれなりに整理して議論をしていく必要があるのかなと、そんなことを痛感しております。
○  考えてみますと、「初等中等教育と高等教育との接続」という言葉は、ある意味では上手な言葉を使っているなという気がしているんです。といいますのは、2年前ですか、前回のときの答申で入試を扱ったときもそうですが、随分入試が改善されてきておりまして、現在はもっとその事態が変わってきている。あいまいな状況で、初等中等教育と高等教育をつなぐという意味の接続にして、入試の問題というふうにしなかったのは非常にいいだろうと思っております。
  もし東大にみんな入りたければ、社会人になってドクターに入ればかなりの人が入れるのではないかという気がしますし、放送大学もありますし、約50%が推薦入学で入れるというような時代になってきておりますので、言われている入試地獄というのは本当なのか、虚像じゃないのかなという気すら私はしております。そういう点で、接続という取り上げ方は大変いい。
  接続ということの意味は、大学と高等学校それぞれが非常に多様化してきている。高等学校は選択がいろいろできるようになって多様化する。大学のほうも多様化してきております。その多様化はいろいろありますが、高度な教育を志向して、学力検査で入学をさせるような大学と、それから学力検査の比重が軽く、入学するのが比較的容易で学力試験はなく、学生を入れる大学  ―これがますます18歳人口減で増えてくると思います。その中間で、学力試験から脱しきれないけれども、学生は欲しいという大学といろいろあるわけですね。
  そうしますと、全体で50万人から60万人ぐらい大学へ入るとしても、そのうちの1割前後がいわゆる学力型に集中して入る。それを目指して何倍かの人が確かに競争はするんですけれども、それ以外の人は全く競争しないで、入学試験の学力の勉強なんて考えないで大学へ入って、大学生活を楽しむという学生が随分増えているわけです。もう過半数、もっと多いのではないかという気がいたします。
  そういう状況になってきますと、勉強させていただく中で感じたんですけれども、大学が多様化して、三つのタイプがもしあるとする。高等学校もそれぞれいろいろな多様化で、学力検査向きの高校もあれば、そうではない、しっかりと人間を育てて、日本の社会に役立つような人間を育てる。必ずしも学力、いわゆるお勉強はできなくても、しっかりとした人間に育てると。エラーを起こさないし、仁義を尊ぶし、しっかりと社会集団を維持するというような育てられ方をした人間が、これまでの日本の社会を守り育ててきたということであれば、学力、学力でくる中にもそういう人はもちろんいるわけですけれども、学力、学力が必ずしも高くなくても、そういう人間性を  ―「生きる力」ですね  ―大学でもズバリ教育するように人間の道筋をもっと尊重していく。
  そうしますと、大学に入ったときの大学の先生方の教育の仕方も、どのような学力を持って入った子どもに対しても、いわゆる旧制帝大の先生が教えて「学力がない。学力がない」と言うのではなくて、もっと「生きる力」としての大学レベルでの教養とか、集団規範をきちっとするとか、社会生活の技術を身につけるとか、そういう新しい大学  ―知の探求というようなところを追求していらっしゃる大学もありますが、社会性の探求というんですか、人間の教育というか、つまり大学の先生の教育観自身も変えていくことによって、そういうところから出てきた人々は、日本の社会に役に立つはずなんです。
  ですから、学力、学力でいく子どももいれば、人間性  ―学力のある子が人間性がないというわけではありません。両方備える人はもちろんすばらしいからそれでいいんですけれども  ―学力が必ずしもなくても、学力以上に社会に尽くせるという人たちを入れて育てるような入試とか、育て方、なかなかうまく表現できないんですけれども、そういう新しい道が探れないのか。
  そういうことで、高校と大学の接続が多様化と多様化を上手に  ―多様化というのは学力の個性もあるし、技術の個性もあるし、あの人は信用できるというような個性もある。いろいろな個性を持った子どもが、いろいろな個性を尊重する大学にぴったりと振り分けられて入っていって、その間はバリューの上下はないんだと。みんなそれぞれ大事な価値を持っているんだという意識になっていくような入れ方をする。
  入試なんかでも学力の入試もいわゆる知識型の入試でなくて、「生きる力」を測るような総合的な科目の入試、今度「総合的な学習の時間」が小学校・中学校・高等学校でできますけれども、小学校・中学校・高等学校でできる「総合的な学習の時間」プラス9教科を総合したような科目の能力を測る。いわゆる入社試験では、英文科を出たからといって英語の試験をするわけではないし、数学科を出たからといって数学の試験をしないで、社会観とかいろんなものを見て入社させていますよね。それと同じように、大学の入学試験も、人間の総合力を測るような形のものが、人間が少なくなっていくとできてくるだろうから、そんな形の採り方をしていく。現在でもアドミッション・オフィス入試とか、推薦入学とか、いろいろな形でできつつあるわけですが、それをもう少し進めていくような方向を考えて解決ができないだろうかということを、この7回勉強して感じております。十分まだまとまっておりませんけれども、いろんな新しい動きを見つけられるのではないかと思っております。

○  私は接続のほうの小委員会に属しておりませんので、詳しく審議状況を存じ上げませんから、間違ったことを言うといけないとけれども、ごく簡単に申しますと、今、他の委員の方がおっしゃった、将来、大学がどうなるかということについては、私も明確なイメージがないんですが、同じような方向に行くのではないかとかねがね思っております。
  大学の問題は、各大学がどんな学生を求めるかということのほかに、もう一つこの大学のこういう学科を出たらどういう知識は持っている、どういう能力は持っているという、たとえて言いますと、仕上がり基準というものを各大学は出すべきだと思うんです。何大学を出たから偉いとか、偉くないとかいう評価が非常に強いわけですけれども、そうではなくて、何大学のこの学部を出たらこういうことはできますというような、これは各大学がぜひ自分の宣伝のためにもお出しになったほうがいい。
  ですから、大学というものは、「学の蘊奥を究める」と昔言ったんですが、そういうスローガンはおりたと思いますけれども、かなり学術的に高度な内容を教えている大学と、それから常識的に発達した人間を養成する大学がどうしても出てきたと思います。ですから、大学という名前で一くくりにくくれないような状況が起こってきた。既に高等学校もそうだろうと思うんです。その場合に一くくりにくくって、初等中等教育と高等教育の接続というふうにいえるのかなという気がします。
  しかし、大学もそのように分類いたしますと、みな一番高いランクの大学になりたがるんです。それが問題だろうと私は思うんです。なぜかというと、日本では一生、何大学を出たって書かれるんですね、新聞でも何でもあらゆるところで。そうすると、まぐれで入って遊んでばかりいて卒業した人も、一所懸命勉強した人も、みんな同じ何大学卒という肩書がつくわけです。これをなくしたほうがいいと私は思うんです。企業なんかでも履歴書からそういうものを取るとか言っていますが、なかなか取れない。
  どうしたらいいかということですが、この前の答申で私が申し上げたことですが、大学間の単位の互換をうんと大きくすれば、A大学卒業といっても、実際はB大学で30単位も40単位も取っている。あるいは、B大学の卒業といっても、実際はA大学で30も40も単位を取っているということになりますと、どっちの卒業だかわからなくなってくる。
  もう一つは、大学の先生と最近の学生を御存じの方はすぐわかると思いますが、日本の大学というのは「うち」なんです。「うちの学生」「うちの先生」と言うんです。他大学は「外」なんです。そういう閉鎖集団が日本におよそ580もあったのでは、これは学閥は必至になるわけです。それをぶち破るには長期計画を立てて少しずつ単位互換を増やしていって、最終目標は全部の単位の半分ぐらいはどこで取ってもいいということになりますと、「うちの学生」も「外の学生」もなくなって、フェアな状態が起こる。あとは勉強しない学生とする学生が出るだけ。これは理想論ですけれども、そういう大学の将来像を考えるときがきているのではないかと思います。
  最後に、昔、中等教育、高等学校の進学率がどんどん高まっていったときに、高等学校というのは優れた人が行くところでなくて、多くの国民が行くようになってきた。普通教育になってきたわけです。大学もこれだけ増えてきて、進学率が40%を超してきますと、一種の普通教育の要素を持たざるを得なくなるのではないか。ですから、例えば法律学科で法律を教えざるを得ないことは十分わかりますけれども、1年から4年間法律ばかり教え込んで、それで卒業をしても、行くところが法律事務所でなければ何にも役に立たない。そういう点で、大学の将来像は、高等学校との接続で、高等学校でやったものについて、さらに一段高い社会人としての見識を備えることに目標を置いていく大学がたくさん出てもいいのではないか。むしろアメリカなんかは優れた大学ほどそうで、本格的な専門は大学院だという話を聞いておりますけれども、これは私は本で読んだだけですから、実際調べたわけではありません。狭い専門教育に立てこもらないような大学像を立てていく必要があるのではないかと思います。

○  大学入試制度というのは明治以来、改革、改善を加えて、もちろんその時々の社会の動きに合わせているわけですけれども、決定打が出ていないというので、決定的な仕組みをつくることは不可能に近いだろうと思います。しかし、その中で、できるだけいいものをつくり上げていくという努力が必要だろうと思います。
  接続の小委員会に私も属しており、先ほど木村座長がまとめられましたけれども、私もヒアリング等を通じて感じますことは、大学側にしてみれば、現在の高校教育に非常に不満を持っている。つまり、大学で必要としている学力を身につけていない。それから、高等学校側は、せっかく基礎・基本を含めた幅広い教育をやろうとしているのだけれども、大学入試のために特定の科目だけ一所懸命やるということで苦労しているというような視点が、大ざっぱに言うと言えると思うんです。
  したがって、大学と高等学校の接続の中で、やはり入試が大きな柱になろうと思いますので、その視点からこれをどう改革、改善していくかというのが一つ。
  それから、前にもこれは小委員会で申したのですけれども、高等学校の多様化が今日常識になっておりますが、大学も同じように多様化してきているわけです。大学審議会の答申にありますように、学問、研究を目指す大学から、いわゆるコミュニティカレッジのような大学まで様々あるわけで、それを大学あるいは大学入試と同じ枠の中で  ―同じ枠の中でという言い方は変なのかもしれませんけれども  ―考えてしまうのは無理で、なかなか難しいかもしれませんが、ある程度これを類型化して考えていく必要があるのではないかという視点が一つ。
  もう一つは、入試制度について、マスコミあるいは親御さんたちからいろいろ議論が出ていますのは、主として国立大学の入試の在り方が多いわけです。しかし、よく見てみますと、国立大学は大学入試センター試験を活用し、そしてまた各大学が個別にいろいろ工夫をした試験を行っているわけで、それはもちろん今後とも改善していく余地はあると思いますが、かなり改善されてきたんだろうと思うんです。
  問題は私立大学で、私立大学では、一定の時間内に効率的に入学者を決定するというような形での入試になりがちです。また一方で、最近、大学入試センター試験の活用も増えているようですけれども、18歳人口の減少に伴って、真に自分の入学者選抜を改善するという視点よりも、学生がより多く志願するようにという視点から、むしろこれを利用したのではないかと思いたくなるような大学もあるようです。
  したがって、私立大学については、今まで私学の自主性ということがあって、物を言うことを遠慮する傾向がございましたけれども、やはりもう一度この問題を考えてみる必要がありはしないかというのが一つでございます。
  そうは言っても、大学入試の在り方が高等学校、中学校、小学校、時には幼稚園まで巻き込んで、受験競争だとか、受験地獄だとか、いろいろなことを言われているのは、いわゆる特定の銘柄大学に何とか自分の子どもを入れたいというのが背景にあるんだろうと思います。しかし、企業では特定の銘柄大学を出たからどうこうというような風潮がかなりなくなってきている。そういうのにしがみついているようなところは、世の中から取り残されて斜陽化していく。今、経営危機を言われているのはむしろそういう会社だというくらいの気分がかなり出てきているように思います。そういう学歴偏重社会というものが親御さんまで含めたところで是正されていくことが、これは時間がかかって迂遠なようですけれども、どうしても引き続きやっていかなければならないのではないか。
  小委員会でまだヒアリングが終わっただけで、具体的な検討はこれからになるわけですが、そういう視点で臨みたいと思っております。

○  先ほど来出ている話が、大学も多様化してきていて、高等学校も多様化してきている。国民の同じ年齢層のほとんどが高等学校に入学するわけですし、半分近くが大学に入るわけですから、多様化せざるを得ないし、多様化してきている。多様化してきている大学と多様化してきている高等学校との間の接続は、当然のことながら多様化せざるを得ない。多様化していいんだろうと思います。
  したがって、接続の在り方というのは、基本的にそれぞれの大学あるいはそれぞれの高等学校がどういう教育をするか、あるいは大学がどういう入学試験をして、自分の学校の教育方針にふさわしい生徒を採りたいと思うかということで、自然に決まってくるわけでして、そこをあまり議論をする必要はそもそもないのではないだろうか。高等学校で勉強していなくてもいいことを出すということがあってはならないわけなので、おのずからそののりは必要だと思いますけれども、そののりは高等学校で何を教育すべきかということで決まってくるわけですから、あまりこうあるべきだという議論をしないほうが私はむしろいいのではないかと思います。
  接続の小委員会で、初めに大学入試センター試験ありきという議論をするのはいかがなものだろうかという議論を申し上げましたのは、実はそういう試験があって、国立大学がそれを使うということになれば、おのずから接続の在り方に枠をはめることになりますから、一遍にというのは難しいと思いますが、しばらく時間をかけて自由にしていいのではないだろうか。
  今、大学も高等学校も、社会によって選ばれている時期ですから、生き残るためには大学も高等学校も必死になるわけです。それは今おっしゃられましたように、企業も全く同じことでして、そのようになってきた時代に、自分がどうやって生き残るかということのためには、大学も自分の方針にふさわしい生徒が欲しいということだと思います。
  ということで、自由にしたらいいじゃないかということを思って、あるとき、ある私立大学の先生とお話をしていましたらば、そこの大学の英語の試験の在り方が受験生から非常に評判が悪いんだそうです。なぜ評判が悪いかといいますと、そこの大学の入学試験は、前置詞に何を入れるかというような問題は一切出しませんで、英文和訳をしなさいというのも非常に少なくて、例えば英語の文章があって、その文章に一番ふさわしい形容詞、そのコンテキストで使われる形容詞としてふさわしいものは何かということを、幾つかの選択肢から選ぶ。要するに英語の勉強をしているかどうかを見ているということなわけですけれども、そういう試験を出したら、受験生に非常に評判が悪いということだそうです。
  ということは、多様化しようとしているある大学の試みが理解されていないということなんですけれども、社会が入学試験の在り方をどう考えるかということへの教育も、そういう意味では必要です。ですから、長い時間をかけて、そのように自由に何でもほぼありき、のりを超えない範囲で何でもありということで、試験をやっていくという方向に動かしていったらいいのではないかと私は思っております。

○  平成9年の6月に、「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」ということで第二次答申が出されました。その中で、「教育は、『自分さがしの旅』を扶ける営みと言える。」という言葉が大きく使われております。初等中等教育において、そして高等教育において当てはめてみると、では「自分さがしの旅」というのはどこまで続くのだろうか。初等中等教育においていろんな場合を考えて、非常に多くの窓口をつくってやられてきたものが、急に高等教育になってしまってコロッと変わってしまう。今の世の中では、先ほど何人もの方が言われているように、多様化になってしまってきて、だんだんそれが希薄になってきている。専門的というよりも、一所懸命に勉強したい人が3分の1ぐらい、そうでなくて学生生活を楽しみたいという人がそのほか。結局、一所懸命に勉強したい3分の1の人たちというのは、何らかの姿でどんどん3分の2のほうに引っ張り込まれるというお話が以前にあったかと思います。
  そういうことを考えてみたときに、多様化というのは、高等教育においては今の学部ということも考えていかなければならない。先ほどのお話にもありましたけれども、法学部で法律をやったから法律を専門にする仕事に就いているかというと、なかなかそうではない。文学をやったから文学者になっているかというと、そうじゃない。なっているのはみんなサラリーマンであるということを考えたときに、大学教育においても総合学部みたいなものがあって、そういう中で過ごせる学生もこれからは必要になってくるのではないか。また逆に学問・研究のために専門にやる学生たちも、これはまた別の意味でしっかり受けとめなければならない。まさに多様化というか、新しい大学というものをどこかで見つけ出していかなければならないのではないか。教育はあくまでも「『自分さがしの旅』を扶ける営み」ということであれば、大学というものに関してもその考え方を入れていかなければならない21世紀ではないかと思います。
  先ほどもどなたか「仕上がり基準」という言葉で表現されておりましたけれども、だれがどんなふうになるかなんていうのはわからない。これをある程度の基準でもって、最初の入口のところでふるいにかけるということはものすごくおこがましいようなことではないかと思う一人ですけれども、そうかといって、だれでも行きたいところにということになると、これもいろんな面で難しいということになります。
  芸術の世界でいろんな作品を見て、いいものを見たときにはだれもがいいと思うのはあたりまえのことで、そういうものを育てようとするのは実に楽なことです。そうではなくて、何かその中に一つだけでもキラリと光るものを見つけ出す指導者がいて、そういう人が育て、そして数年後にはちゃんと花が開いているというのが本当の教育ではないだろうかと思う一人であります。多様化を迎えている中、皆さん方がお話をしてきた部分とかなり合わさるところがあるかと思いますけれども、大学というものに関してもっともっと多様化し、そして今のニーズにこたえていく姿をとっていく必要が早急に考えられるべきではないかと思います。

○  いろいろな委員の方々が発言をされましたので、ほとんど同じようなことを言うことになるんだろうと思いますが、ちょっと乱暴な言い方をさせていただきますと、木村座長の報告の中にも、3回ほどということで、大学からすれば到達度が非常に低い、高等学校側からすればどういう学力が求められているのかよくわからないから、はっきり示してくれと。大学から、高等学校側からというふうにはおっしゃいませんでしたけれども、想像するにたぶんそういうことなんだろうなという気がするわけでございます。
  高等学校のほうからすれば、今、レベルもいろいろあるんでしょうけれども、大学に入るのが難しくて、出るのがやさし過ぎる。したがって、大学へ入れば、大学生活を楽しんじゃって、何を勉強したかわからない。これが問題で、もっと入るのがやさしくなって、出るのを難しくしたらどうだという御意見もたぶんあったのではないだろうかと思うわけです。
  ここから先は私流の乱暴な言い方でして、こんなことが続いていけば、大学というのは入るのも出るのもやさしいということになってしまうのではないかと実は気になるわけです。大学というのは全国で500数十あるそうですが、500数十もあるわけですから、出るのも入るのも難しいという学校ができてきてもいいし、それができにくいとすれば、お金の心配がないと言うと語弊がありますけれども、国立の大学でそいう大学をつくることも一つの方法ではないのか。こういうことをこういう席で申し上げると、エリートをつくる気かという反論があるんだろうと思いますが、エリートをつくるのかと言われて、私自身でしたらそれは必要だと胸を張って言いたいんです。そうでなくても、少なくとも学問のレベルとして、世界のどこの大学とでも伍していけるんだという大学の必要性は絶対あるのではなかろうかと思います。

○根本会長
  どうもありがとうございました。
  皆さんから大変率直な御意見を賜りまして、教育評価、それから大学の顔がもう少し見えるようにしたらどうかとか、あるいは敗者復活といいますか、そういうものに配慮したことを考えるべきではないか、あるいは「生きる力」の教育の大学版というようなお考え方、それから大学の仕上がり基準を考えたらどうか、それから多様性の問題、それからただいまお話がございましたけれども、大学が大衆化してきておるわけでありまして、その中でエリートをつくる大学と分けていったらどうかという御意見がございました。

○  今、最後の委員の方が、大学に入りやすくて、出にくい大学という提示がありましたが、この議論を聞いていると、私はいつも私のいた大学の学生はかわいそうだと思います。いつかある委員の方の弟さんが、ものすごく勉強しているとおっしゃいましたね。そういうところもあるんです。理工系の学生は、研究室に来て御覧になりますとおわかり頂けると思いますが、とにかく勉強しています。1学期に15回程、厳しい実験があって1回サボると卒業できません。不適合学生もいますから、それも何とか引っ張り込んできてやらせているんです。皆さんの御意見を伺っていると、理工系でちゃんとやっているところを是非御覧いただきたいといつも思ってしまいます。
  本論の高等学校との接続についてですが、高等学校のほうでどんどん選択が自由になりまして、いろんなことをやってきている。したがって、入ってきている学生の従来の意味での学力が下がっています。そこのところが我々の大きな悩みでありますが、英国でも同じことが起こっています。英国はどうしたかというと、非常に簡単で、主要な理工系の大学について、3年制だったのをいきなり4年制にしてしまったんです。1年間で足りない分を補おうということのようです。日本の大学について4年制を5年制にするのはどうかと思いますけれども、とにかくきちんとやっている部分もあるんで、大学を十把一からげにして議論はできませんよということを申し上げたいのです。私、こんなことを申し上げようとは思わなかったんですけれども、聞いていて……。私、大学を退職したのですが、たまたまこの2月の末に二、三度研究室へ行く機会がありました。みんなフラフラになってやっています。そういう連中が日本を支えているということを御理解いただかないといけないのではないかと思います。そうでない部分がまた多過ぎるところが問題だと思います。ちょっと余計なことを申し上げました。

○根本会長
  ありがとうございました。
  それでは、次のテーマの少子化問題につきまして、お願いいたします。

○  小委員会の議論を、きょう河合座長からお聞きしただけでよくわからないんですけれども、少子化というのを人によってはあまり悲観的にとらえていない、それはそれで結構なことじゃないかという意見もあるんですが、私自身は日本の社会の持続的発展ということを考えれば、今の少子化というのはこのまま放置できない、かなり深刻な問題ではないかというのが私の基本的な認識です。
  先ほど報告もありましたように、結婚とか、出産というのは、言ってみれば個人のそれぞれの価値観の問題で、選択の問題ですから、結婚をしないとか、晩婚化になかなか歯どめがかからないとは思うんです。少子化に歯どめをかけるという意味での対策という面と、現に進んでいる少子化の中での教育に及ぼす影響の面で、教育的にどういう対応をするのかという二つの側面があるんだと思いますが、河合座長がおっしゃるように、完全に分けて議論するというのは難しい。相互に関連があると思います。
  つい最近、四、五人の女性の方とこの問題で意見交換をしたんですけれども、なぜ今の女性が結婚しないのかということを聞くと、結婚することによるデメリットが非常に大き過ぎる。今までだとある一定年齢に達すれば女性は結婚するということがあったけれども、男性は結婚して比較的メリットはあるけれども、女性はほとんどメリットがない、デメリットのほうが多い。子育てにしても、家事にしても、男性の協力がない。古典的なある意味での性別役割分業みたいなものが、日本の社会には雇用関係も含めて非常に色濃く残っておって、これを是正しない限り、女性が苦労してまで結婚して、子どもを産み育てるというようなことは、特に子育て・教育が非常に難しくなってきているということと、教育にお金がかかり過ぎるということも、女性の方の中からは強調されて伝えられています。
  それと性別役割分業みたいなものを見直して是正をしていくというのは、「少子化への対応を考える有識者会議」の報告書の中にも出ているんですが、特に教育の面では、小さいときから男性も女性も自立して、自分のことは自分でやるというようなことをきちっと教えていくべきである。男女平等の教育というようなことをもう少し重視していくべきではないか。例えば、私はまだ検証していませんけれども、教科書の中でも男性は外へ出て働く、女性は家庭で育児、家事というようなことが、挿し絵なんか見てもかなり多く残っているという指摘をされる。私は現場を離れてからだいぶになりますから、そこまでよくわかりませんけれども。あるいは、子どもが入学して、教室の中の座席の色分けとか、げた箱、ロッカーの配置の仕方も男性は男性、女性は女性、また男性からアイウエオ順になって、女性はその後というようなところも含めて、教育の中でももっと男女平等だということを徹底して、小さいときから教えるということも必要ではないか。それとさっき言いましたように、子育て・教育というものを社会全体で支援をして、保護者の負担を軽減するということについて、たぶん意見が出ているんだと思いますけれども、今後、第17期が発足すれば、そういうことについてもぜひ議論をしてほしい。これは要望・意見です。

○  最近、統計を見ていないのでよくわからないんですが、要するに結婚した夫婦というのは割合子どもを持つ。晩婚化による統計への影響が非常に大きいのではないかと思います。ですから、少し数字がずれ込んできているということではないかと私は解釈しております。私が若いころは大体平均結婚年齢は25才でございましたけれども、今、たしか27才ぐらいになっています。サンプルでいきますと、30代になって女性がきちっと職業で生きていけるというふうに、自分の経済的な自立がついてから伴侶と結びつくというケースが多いので、ずれ込む数字は大きくなるんだろうと思います。
  要するに子どもを産むかどうかの決定権は女性に移っておりますので、女性と男性というのは当然生理的な差があるわけでございますが、生理的な現実の差以上に文化的な差が大きいのが日本でございまして、それをジェンダーというふうに言っておりますが、そのことと、最近のキャッチフレーズでいろいろ言われていることをすべて制度化すればいいんじゃないかと思いますが、おむつ一つかえない男を夫と呼ばないとか、いろいろございます。介護についても、育児についても、そういうことが労働省あたりからキャンペーンで出るようになりました。これは30年前には考えられなかったことでございますが、そういう一つ一つの政策を実現していくということ。
  それから、これも今、私どもがやっております接続のところと関係あるわけですけれども、お金がかかるということです。他の委員の方がおっしゃいましたように、ダブルスクールでずうっと一生行く。塾と公教育、私立も一つの公教育だと思いますけれども、その悪循環をどうするのか。この二つを解決していくことでなければいけないと思います。
  教育の中では、さっき他の委員の方がおっしゃいましたように、異年齢集団教育ということが大事で、これは幼保一元化というのが少し進むことになるんですか、幼稚園なども拡大して夕方まで子どもを預かるというところが、地方自治体の委託を受けて増えてまいりました。子どもが少ないわけですから、小さいときから異年齢の集団生活に慣れて、人とのつき合いに慣れることが大事ではないかと思います。小さいころはお互いに暴力を振るって相手をなぐるなんていうことがあるわけですけれども、それを制止して、痛いことを知らないなんていう子どもがいないようにしなければいけないと思います。
  それから、世田谷区の例ですと、学校などにも「BOP」というものができまして、「ベース・オブ・プレーイング」と言いますけれども、夕方まで働く女性が多いわけですから、少し人件費をつけまして、遊ぶための要員を予算化しまして、講堂とか、庭とか、広く遊べるようなところと一つの教室を確保して、夕方まで異年齢集団の居場所を確保したりしています。
  それから、教育の授業の中でも、多様な能力といいますか、個別的な能力開発ということになると、異年齢集団の教育、オープン・エデュケーションというようなものもいろいろ工夫されていいのではないかと思います。総合的学習とか、課題学習などで異年齢の子どもたちと一緒にやるということも大事になってくるんだろうと思います。そういうことによって、一つ一つ解決していけば、将来、介護をだれがするのかとか、年金問題とか、経済的な問題がございますけれども、教育に関しては、今言われている政策を総合的に一つ一つ行えばいいのではないかと考えております。

○  私は少子化と教育に関する小委員会に属していまして、毎回話がすごくおもしろくて参加するのが楽しみなんですけれども、一方で、個人の生き方にもかかわる問題なので、なかなかこれがいいというふうな言い方は難しいと思います。男女共同参画社会と言われますけれども、女性のほうが社会、いろんな仕事に進出していっているんですから、男性も家庭とか、子育てのほうにじゃんじゃん進出してきてもらわないと、それはバランスが取れないのは当然かなという感じがします。
  私ぐらいの世代の女性ですと、結婚するかしないかというより、子どもを産むか産まないかということのほうが大問題で、結婚は何歳になってもできますし、後でやめたりもできるので、それは別に何歳でもいいかなという感じですけれども、子どもに関してはみんなすごく真剣に悩んでいます。ただ、最近の女性雑誌のある統計を見ていましたら、若くして子どもを産んだ人、高齢で産んだ人、それぞれアンケートを取って、自分が産んだ年齢に関して後悔があるかというと、ほとんどの人は後悔していなくて、みんな「よかった」と言う人のほうが多いんです。ですから、女性は産んでしまえば「よかった」と思うのかなと思ったり、私の友人などでも夫には当たり外れはあるんだけれども、子どもにはないと言っていまして、女性というのは産めば、みんな子どもに対してはいい感触というか、人生にとってはすごくプラスになるのかなと感じています。
  だから、産んでいない人がためらっているということが割と問題なような気がするんです。産んでいない人がためらう理由としては、自分が仕事を続けられるのかとか、割と私の友人なんかでも深刻に、21世紀が子どもにとっていい時代なのであろうかとか、そこまで考えうちゃうと怖くて産めないと言っている人もいます。ですから、産む手前でためらっている女性に対して、どう背中を押してあげられるかということが割と大きなことなのかなと感じています。

○  私、少子化というのはある意味では自然の摂理ではないかと思います。長期的に、それから天体から地球を見るような観点をとりますと、天災だとか、飢饉だとか、戦争だとか、病気だとかで、人口調節が起こってきたわけです。今のように人間がかなり横暴になっていて、世界を壊して、地球を壊しているような状況だと、ある意味では自然の摂理という感じなんですけれども、そこに国家という概念が入ってくるものですから、ややこしくなってしまう。ある国が人口が増えると、減ったところを侵略していく。そうすると、その国なり民族なりの存続が問題になるというその辺が非常に大きな問題なので、「ヒト」という観点から少子化というのは自然の現象だぞとばかり見てはいられないだろう。
  そうすると、日本という国の立場に立って、異文化が同時に存在している状況の中で、少子化の問題を考える必要があると思います。それを考えますと、我々が育ったころは、私は6人兄弟で、1人早く死んじゃったんですが、やはりけんかをしたり、ガキ大将が近所にいて、仲間と一緒になって石を投げて、けがを相手にさせて、そこの親から怒られるとか、いじめられたら仲間の力の強いやつがかばってくれたり、そういうことをやりながら、集団の中の生き方を自然に学んできたような気がするんです。それがなくなっているというのは、今の子どもはかわいそうだと思うんです。
  というのは、同年齢の子どもたちは、幼稚園なり小学校なりにいるんだけれども、異年齢の子どもたちの中で、その一番典型は兄弟です。兄弟3人とか、4人とか、5人いて、いろんな人間関係の中で、朝から晩まで育っているというような体験がなくなっている。だから、今の子どもたちにはそういう体験を持たせる場をバーチャルなり人工的にでもいいから、できるだけつくってやるということが必要だろうと思います。そういう中で、けんかの仕方とか、同情の仕方とか、奉仕の仕方とか、仁義とかを学ぶわけです。
  そうすると、学校にいても、ノングレード的な勉強をするところがあってもいいし、クラブ活動的なものをやってもいいし、「総合的な学習の時間」なんかは同学年の中での時間の自由ということだけではなくて、異年齢の学年を超えた共通の問題解決をするとか、社会に学校が開かれて、いろいろ働いている人たちのところへデジタルカメラを持っていって取材をして、ビデオを持っていって録画したりする。そうすると、地域社会の人たちと子どもたち、異年齢を超えた連携ができてくる。
  それから、最近、老人ホーム、保育所と学校という合築的なものができてまいりますと、そこでも生きた人間同士が触れ合う社会との接点が広がってまいります。それを超えますと、海外の子どもたちとインターネットを通してやりとりできる。テレビ会議を通してやりとりできるということになりますと、学校が地域社会、近所に開かれていくと同時に、異文化の人に開かれる。異文化の間の交流をするときには、自分の地域社会について何が起こっているかということで、自分たちが地域を歩き回って、環境とか、ごみとか、お年寄りとか、伝統文化とか、お祭りとかを取材して、メディアに編集して、それで海外に出す。同じようなことが海外でもやられる。そうすると、向こうとこっちでは食べ物が違う、習慣が違う。だけども同じように人間として存在しているんだな。だから異文化の人たちの存在も認めましょう、お互いに尊重し合いましょうということが続いていくと、世界が平和になって、地球が一つになるような形の、人として物を見る。国と国との対立という観点ではない物の見方が子どもに広がっていくだろう。少子化ということを逆手にとって、世界みんな兄弟だという形の教育に向けていくことができないだろうかという勝手な夢を描いております。

○  簡単に申し上げます。中央教育審議会でなぜこの問題を取り上げたのか、今ごろになってあれですが、ひとつピンとこないということがあります。
  それはどういうことかというと、少子化というのは日本の将来にとって、例えば労働力の問題を考えるにしても、年金の問題を考えるにしても、その他の問題を考えるにしても、大変な問題であるとは思います。ただ、これの教育に与える影響というか、それにまたどう対応していくかということは、もちろんいろんな影響があります。家庭内において子どもの数が減ってきた。しかし、先ほどのお話だと、結婚した世帯においてはそんなに減っていない。むしろ結婚していないということからすれば、その問題はそれほどでもないのかなとも思います。
  この問題を中央教育審議会で取り上げる際に、それにしても児童生徒数が減ってくることから、様々な問題がありますけれども、それに対する対応を考えるのか、それとも戦前の「生めよ殖やせよ」ということを教育サイドから考えていくのか。例えば、教育費負担の軽減の方策についてのヒアリングなどもあるようですが、こういう形で産みやすくするようなことをやるのか。このスタンスが難しいのではないかと私は思っております。座長は恐らく御苦労されると思いますけれども、この問題は私の知る限りでも、一つの提言があるようですけれども、今までそうあちこちの分野で考えたということがないので、そういう意味で、ひとつ中央教育審議会で幅広に考えていただいて  ―もちろん焦点は、中央教育審議会ですから中央教育審議会の守備範囲でまとめるよりないと思いますが、幅広くいろいろ御議論していただいてまとめるのがいいのではないか。ちょっと勝手なことを申し上げて恐縮でございます。

○  端的に申し上げますと、私は、少子化との関連で一番大事なのは、ジェンダーフリーの教育をどこまで徹底するかということだと思っております。他の委員の方々も、そういうところに通ずることをおっしゃいましたが、それは今、かなりなされていると思いますけれども、もっともっと徹底するべきだと思います。
  確かに我々の世代と比べると、今の若い二十代の大学生までは、お互いの意識としてはジェンダーフリーでやっていると思うんです。ところが、どういうわけだか大学を出ちゃった後、途端にジェンダーフリーでなくなってしまうところがあって、どうしてそうなっちゃうのかというのは、教育以外のところに問題もあると思いますが、やはり学校の教育の在り方が、これは家庭教育も含めて根がついていない。どこか本物になっていないところがあるのではないだろうか。
  もう一つは、私はかねがね申し上げているんですが、「少子化」というのは名前が間違いで、本来、「未婚化・晩婚化」と言うべきであると思っております。その点で言うと、これは前に出した答申とつながるところがあるんですけれども、それぞれが独立した責任を持つ個人として育つということとか、人に尽くす心とか、子どもは育てさせてもらうんだという意識とか、そういうことをもっと徹底して、これも教育で対応できることではないだろうか。

○  少子化ということは、先ほどの議論の中にもありましたけれども、外からは何も言えない。もし言うことになれば、厚生省関係になってしまうのではないかということであります。ただ、21世紀を見通したとき、この状況はそんなにすぐには変わらない。今の少子化というのは、これからもある程度は続くだろうということを見越したときに、これからの少子化の中での学校教育はどうあるべきか、その辺のところを考えていくことが一番重要なので、少子化をどうしたら脱却できるかなどというのは、上から「産みなさい」と言ったって産めるわけがないことですので、少子化ということが続く中で、学校教育や家庭教育がどうあるべきかということを真剣に論議すべきだと考えます。

○  私は少子化と教育に関する小委員会に属しているものですから、小委員会でも申し上げたんですが、少子化というのは、子どもの数が減るんだから、親は二人ですし、子どもの数が減れば目が行き届く。あるいは、学校の子どもの数が減って、先生の数がそんなに減らないとすれば、これもまた目が届くということで、そういう方面から、例えば30人学級にしろみたいな話も出てくるんだろうと思います。ただ、子どもの側からすれば、学校でも、家庭でも過保護で、過干渉になるのではないか。それは子どもにとっては、ますます学校というのは居づらくなるようなことになるのではないかという意見を申し上げたんですが、いまだに私はそんな心配がございます。

○  これは非常に難しいと思っておったんですが、皆さんの御意見を聞いて、ますますその認識を高めているところでございます。教育ということで考えますと、余計難しいと思っておりますが、何か具体的なことも見つけたいとは思っております。今、難しさのほうが先に立って、あまり物が言えません。

○根本会長
  大変に御熱心な御意見をありがとうございました。
  中央教育審議会が扱うテーマというのは、私はやはり“揺りかごから墓場まで”というような生涯教育を含めたそういったような観点で物を考える必要があるのではないか。その中で、本日お話がございましたトランジットの問題とか、あるいは少子化の問題が出てくるのではないかと思います。
  先ほど両座長さんのお話の中で、一体どのような子どもを育てるのか。それから、求められる学生像は一体どういうことなんだというような、基本的な御指摘がございまして、結局これは21世紀  ―河合先生は今度そっちのほうの座長をおやりでございますが、要するにどういう社会像といいますか、国家像というか、そういったものをできれば中央教育審議会のメンバーの間で共有できないかなと私は思っておりまして、そういった問題を含めて次の期の討議をしていただいたらいかがなものかなと思っております。
  それでは、時間も詰まってまいりまして、一応これで本日の審議は終わりますが、お手元にお配りしております「会長談話」(※1)というのがありまして、内容は御覧いただければよろしゅうございますが、今までの経緯を列記したものでございます。これをもって会長談話の形で、本日発表したいと思いますので、よろしくお含みおきください。
  それから、今後の日程について、事務局のほうから一言お願いいたします。
<事務局から説明>

○根本会長
  ありがとうございました。
  それでは、政務次官が御出席でございますので、一言よろしくお願いいたします。

○森田政務次官
  第16期中央教育審議会の皆様におかれましては、御多忙にもかかわらず精力的に御審議をいただきまして、誠にありがとうございます。
  私自身、本日の報告にありました「少子化と教育に関する小委員会」の御審議について、できる限り自分自身も参加いたしまして、また皆様方から大変有意義な御意見を賜りまして、心からうれしく思っております。
  また、本日、第16期での審議が終了し、第17期に引き継がれるわけですが、これまでの委員の皆様方の御尽力、御協力に深く敬意を表しますとともに、今後ともそれぞれのお立場でひとつ文部行政に御支援を賜りたいと、そのように願っております。ありがとうございました。

○根本会長
  それでは、これをもちまして第16期を終わらせていただきますが、2年間、80回という精力的な御審議を賜りまして、大変に感謝しております。大部分の方は次期にまた繰り越していただくわけでございまして、ひとつ何分よろしくお願いいたします。どうも本当にありがとうございました。


※1  この資料については、文部省大臣官房総務課広報室にて閲覧できます。

(大臣官房政策課)

ページの先頭へ