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中央教育審議会

2000/10/24 議事録
中央教育審議会  総会(第238回)  議事録

14:00〜16:00
グランドアーク半蔵門3階
光の間

1.開    会
2.議    題
「新しい時代における教養教育の在り方について」自由討議

3.閉    会

出席者
委   員
根本会長、内永委員、木村委員、小林委員、坂元委員、志村委員、
杉田委員、田村委員、土田委員、松井委員、森 委員、横山委員

事務局
松村政務次官、小野事務次官、崎谷生涯学習局長、御手洗初等中等教育局長、
工藤高等教育局長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官

○根本会長    それでは、定刻になりましたので、これから本会を始めさせていただきます。
   きょうの審議会は第238回の審議会でございます。前回に続きまして、これまでのヒアリング、それから事務局で用意いたしました関係資料を踏まえつつ、討議を行ってまいりたいと思います。
   それでは、事務局のほうから配付資料の確認をお願いいたします。

(事務局から説明)

○根本会長    ありがとうございました。
  前回皆様にお諮りいたしましたけれども、おおよそ12月の末までに、この教養問題についての審議過程を取りまとめるということになっておりますが、その方法として、ワーキング・グループを発足させようということになったわけでございます。本日、まずそのメンバーの方々を御紹介したいと思います。
  大変お忙しいところを恐縮でございますが、座長を木村先生にお願いをしたいということでございます。
  それから、座長の代理としては小林先生にお願いしたいと思っております。
  そのほかのメンバーの方は、坂元先生、志村先生、杉田さん、松井さん。
  これに河合先生と長尾先生、本拠は京都のほうにあるわけでございますが、両先生にも委員に加わっていただきたいと思っております。ただし、御両人ともに京都という距離もありますことでございますから、場合によっては適宜文書で御意見をちょうだいいたしたいと思っております。それでは、木村先生、恐縮でございますが、どうぞよろしくお願いいたします。
○木村ワーキング・グループ座長    突然の御指名でございますが、よろしくお願いいたします。
○根本会長    それでは、総会を継続させていただきます。それでは、どなたからでもどうぞ。
○  今まで何回か出席させていただいて、いろいろなお話を伺い、まだ頭の中でまとまっていないのですが、私の現段階での考えについて少し御報告したいと思います。
  教養というのはすごく難しいと思いますが、基本的に知識というものがベースにあって、何も知識がないのはまず話にならない。一方、その大事な知識を使って、自分の体を動かすこと、体で覚えるということも大切で、2本の柱のような気がしております。
  田部井さんの話に始まって、野村さん、中村さんをはじめ、いろんな方のお話からしても、そういったことがとても大事なのではないかと感じました。知識を自分の頭で考え、自分なりに消化して、自分の体の中に吸収する。そのときに、中村さんがおっしゃっていましたけれども、いわゆる受容体、受け入れるベースがないと、それはどんな知識を持っても、体の中に入ってこない。この観点から受容体をどうやってつくっていくのかも重要だと思います。
  そういう意味では、自分でこう思うんだということをやっていく過程の中で、知識として入ってきたものが、なぜそういうものなのか、なぜそういうふうに決まっているのか、なぜそういうふうになってきたのかという、基本的にどうしてそうなのかということを、自分なりに考えていく中で、自分というものを確立していくのではないでしょうか。自分はこう思う、自分はこういうふうに解釈するといったような自分の確立という過程の中から自分の考え方や自分の価値観をもつ。また、同じ知識をもっていても、よその人は違う考え方をするし、違う解釈の仕方をするということを考えれば、やはり自己の確立あるいは、価値観の確立の中で、自分と他人というものがはっきり自覚されてくるのではないかと思います。
  そうなってくると、今度はある一つの知識をもとにして、お互いに話し合う、コミュニケーションしなければいけない。私はこういう知識をこういうふうに自分で消化して、こういうものだと思うということを言葉を使って話し合う中に、もう一つの新しい次のステップが生まれてくるのではないかなということを意見発表者のお話を伺いながら感じたわけです。
  私自身も振り返ってみますと、知識として記憶に残るとか、知識として覚えるということは一所懸命やってきましたが、では自分としてどうなのか。そのことは自分にとってどういうことなのかということを消化・吸収することがまだまだ不十分だったような気がします。そのために、何か借りてきたような教養であったり、借りてきたような考え方であったり、自分自身を振り返ってみて、大変恥ずかしいなと思いながら、そんなようなことを取りとめもなく考えていました。
○  一つの例ですが、東京工業大学における教養教育の現状を客観的に眺めますと、和田先生の先見性が非常に生きているように思います。和田先生は、皆さん御承知だと思いますけれども、戦前、日本が一所懸命脱亜入欧でやってきて、どうして戦争という悲惨な結果につなげてしまったかということをお考えになった。それは多分専門馬鹿ばかりつくったからだろうということで、戦後すぐ、東京工業大学のようないわばかたい大学に人文系というものをおつくりになった。そして、専門教育と一般教育とが両輪をなして初めて全人教育が可能であるという理想を掲げられ、それを実践されました。そういう意味で、問題はもちろんありましたけれども、ではある程度教養教育が実を上げてきたのではないかと思います。
  どうして実をなしてきたかというと、学問の専門分野における学習が、世の中に対してどういう意味があるのかということを、教養の先生方が学生に一所懸命に講義をされたということだと思います。それと教養を担当する先生方に非常にユニークな人を多く集めたことも成功の理由になっているのではないかと考えております。
  そのような実態を見まして、私は、自分の専門の分野を通して、自分のやっている仕事が社会に対してどういう関連を持っているのか、他人にどのようなインパクトを与えるのか、そういうことを考えるのが教養教育ではないかと思うようになりました。
  他の委員の方の意見で出ておりましたが、これからは社会とのかかわりといった場合には、国際的な視野が重要になるのではないかと思います。日本人はともすると、世界の人からあまり相手にされない。私はしばらくケンブリッジ大学におりましたが、ケンブリッジの連中というのは学問もできるんですが、音楽にやたらに詳しいとか、絵にやたらに詳しいとか、そういうのが沢山いるんです。そういう連中とつき合っていると非常に楽しく、世の中がとても広くなるという経験をしました。そういうものが高い専門性と結びついた教養というものかなという印象を持っております。
  教養教育とは一体どうあるべきかということについては、自分の中でも完全にはまとまっておりません。取りとめのない話で申しわけございませんでした。
○  先ほど他の委員の方がおっしゃったこととかなり重なるかと思うんでございますが、やはり教養の一番根源は、自己の確立といいますと、個のほうだけを強調するようですけれども、社会の一員、歴史の流れの中の一員としての自己を自分でつくり上げる。その点で、ドイツ語の「ビルドゥング(Bildung)」というのが私の考える教養に一番近いのではないか。日本語の「教養」というのは、私はいつも何かエリート的といいますか、そぐわない感じがしておりましたけれども、自分は何者か、そして自分は広い社会の一員、そして長い歴史の中のこの一点に生きる一員として、どういうものであり、何をするのかということを探り、できる限りそこに答えを見出すプロセスが教養の中心ではないかと思います。
  そうするためには、自己を見つめる、自己をしっかり持つ、自分の考えをしっかり持つという反面、外に対し、そして過去の遺産とか、将来への見通しに対してオープンであることが不可欠なのではないか。そのようにオープンでありますと、どうしても自分と違う他をも尊重する。実は「尊重する」という言葉はちょっと腰が引けていて、あまりふさわしくないのではないか。それから、自分と違う社会とか文化の人々に対して、「寛容」という言葉も時々使われますが、「寛容」も何か高いところから話しているようで、多様性といいますか、世界、そして社会にもいろいろな人がいるわけでして、そして自分というものを探しながら、多様な人々、文化、社会、宗教、その他に接していきながら、本当にオープンである場合には、尊重とか、寛容というところよりももう一歩踏み込んで、それが喜ばしいといいますか、多様性に喜びを見出すということにならざるを得ないのではないか、そういう感じがいたします。
○  前回、他の委員の方々の論争など大変おもしろかったのですが、教養について意見発表者の月尾さんが、「why」、「what」、「how」という切り口で説明されたのが印象的だったんですが、私なりにそういう切り口で考えて、教養教育についてのお話をさせていただこうと思っております。
  なぜここで教養教育が言われるかということを考えてみると、現在、世紀末と言われる日本を覆う閉塞感、会長はよく「人間性の疎外」という言い方をされますが、要するに閉塞感、先行きの見通しがない。もっと言えば、このままでいいのかという感じが色濃く出ているこの時代に、社会の一部としての教育という活動においても同じように閉塞感が覆っている。これでいいのかという感じが非常に強い。その中で教養教育が提言される意味があるのかなと。「why」ということで考えれば、そういう面があるというように、切り口として考えていいのかと思います。
  カフカが21世紀の作家と言われて、彼の演劇が最近注目されているわけですが、彼の作品はまさに21世紀型と言われるだけあって、先行きの見通しがつかないところでの人間の生き方が非常にうまく書かれている。そういったものはいろいろなところで既にあらわれてきているんだろうと思いますけれども、私たちの日本における教育の中では、そのための教育をそろそろ考える必要があるというふうに、まずその点についての定義づけみたいなことを考えてみました。
  そのための具体的な方法としては、社会は明らかに変わっていくわけでありまして、その社会の変化の予測と、自分自身の生き方、言い方としては個人の折り合いというのでしょうか、これでいいんだという生き方みたいなことを両立させる制約があるのかなと思います。自分との折り合いということからいえば、生きるとか死ぬという問題をこの中にどうしても入れざるを得ない面があるかと思います。
  そこで、現時点で、私たちの日本の教育で、幼稚園から始まり、小学校・中学校・高校・大学・大学院と続く学校教育という面で考えた場合は、教養教育の在り方というのは、その学校の流れを通して、他の委員の方は「年齢発達」とおっしゃっていますけれども、その段階におけるそれぞれの場における教養というものを考える必要があるだろう。現在、実は同じような意味で「総合学習」という新しい試みがスタートしようとしているわけですが、これは「教養がなぜ必要か」という問題の答えの一つとして試みられようとしているものだと理解しているわけです。
  ただ、その際、私たちがここでどうしても強く言わなきゃいけないのは、教科万能という傾向をここで反省する必要があるのではないか。教養ということを言われるのは、教科万能に対する反省という形でとらえる必要がある。従来型の教養でいいますと、どちらかといえば教科を深めることが教養になるんだという考え方が強いんですけれども、そうでない面を考え直す必要が出てくるのではないかと思っているわけです。ミルが言う「やせたソクラテスと太った豚」という主知主義、啓蒙主義とロマン主義の争いみたいなことが常に私たちの歴史の中で出てきているわけですが、それが現時点で我々の教養教育の中に出てくると考える必要があると思います。
  一橋大学の教授をされていた中谷巌さんの話ですと、一橋大学時代の話ですが、彼のゼミに学生が来たとき、とにかく受験勉強で知識が山のようにあって、何でもよく知っているけれども、持っている知識をどう使っていいかということについてのモチベーションがほとんどないことに気がついて愕然とするわけです。彼はどうしたかというと、彼のゼミで実際に今もやっているわけですが、半年間あるいは1学期の間、学生に国立市の街中を歩かせて、そこでいろいろな問題を見つけ出させて、それをどう解決するかという解決方法を研究させて報告させる。1学期はそればかりやらせるそうです。それをやった後で、経営学が専門ですから経営学の話を始めると、砂に水を注ぐように前向きに学習するという経験を持っているそうです。これは今まで私たちがやってきた教育のいわゆる教科万能という一つのマイナス面が典型的に出ている話というふうに受けとめているわけです。そういうことを考えた上で、教養を論じ、教育を考えるということをしていく必要があるのだろうと思います。
  ちなみに、20世紀が終わるということで『ライフ』という雑誌が、過去1000年の人類にとっての最大の出来事というアンケート調査をやりましたら、何と科学技術の関係では4位が「産業革命」で、5位が「ガリレオの地動説」であります。「ガリレオの地動説」というのは、ブレヒトの『ガリレオの生涯』を引用するまでもなく、サイエンスが何のためにあるのかということを最初に問いかけたテーマだったと考えられます。それをヨーロッパの人たちが非常に高く評価しているということを、私たちももう1回考えて、教養を論ずる場合にはそういった切り口を忘れないでやらないといけないのではないかと思っているわけです。
  最後に、それではもうちょっと具体的にどんな切り口で考えたらいいかということについての話をさせていただきます。
  一つは、これから考えられる要素としては、21世紀はグローバリズムが支配する社会という、社会の大きな変化があるわけです。その社会に対応するという面が一つあります。
  もう一つは、個人的にはその違った社会に接することを生き抜く個人ということですから、タフネスさが個人に求められる。
  社会の変化に対応しては、国際社会の出現ということでは、ヨーロッパの歴史、12世紀から始まったルネッサンスについて、チャールス・ハスキンスが見事に説明しておりますけれども、多様な文化が接触するところで新しい文化が生まれてくるという意味を教育の中にはっきり入れていく。これが教養教育のまず一つの柱になると思います。
  ただ、それは同時に、一人の人間として多様な社会に生きるためのタフネスを身につけるためには、日本人としてのアイデンティティーといいますか、日本人としての特徴みたいなことをしっかりと打ち出すことで、国際社会に生きる人間という立場ができ上がるだろうと考えています。つまり、グローバリズムというのはほかの国を理解するという面もありますけれども、同時に日本人の特徴を世界に示すという強い面があるわけですから、その部分の教育が個人としては必要になってくる。
  その際、私たちが忘れてはいけないのは、戦後教育は公平性とか、平等性について敏感な人間をつくるのには役立ったと思いますし、そのことは国際的な社会の中で生きる日本人として必要な資質だと思いますので、その面ではよかったと思いますが、同時に日本人としての誇りという部分でいうと、ちょっと弱かったのではないかということを強く感じています。国際性という切り口から教養を考える場合には、日本人としての特徴をぜひ教養教育の中核に据える必要があるのではないか。
  ペリーが幕末に来航しました。その前にはフロイスといったような何人かの宣教師が日本に来ているわけですが、彼らが残した記録によると、当時の日本人というのは将軍からはじまって町中にいる普通に歩いている町人の一人一人に至るまで、全員が自分に対して自信と誇りを持っていることに驚嘆するわけです。日本に対して尊敬の念を抱いて報告書に残しております。それを私たちは持っていたんですけれども、どこかで弱くしてしまったということがあるのかなと思います。
  教育基本法の議論がよく言われるのですが、教育基本法に関しても同じような意味で、その部分をもう1回みんなが考えていく必要があると個人的には思っているわけですが、教養教育についてもこの部分はどうしても外せない。ですから、国際社会の出現に対応する教育と日本人としてのアイデンティティーをどうするかという部分の教育、この2本の柱が必要な柱になるのではないかと考えています。
  最後に、教養教育の結果得られるものは、私は習慣と言われるものになるのかなと思います。「心の習慣」とあえて言いますけれども、教育を受けた結果、習慣にまでさせる方策を考える必要があると思っています。なかなかにこれは難しいテーマですけれども、それをしないと何の意味もないものになってしまう。まさに知識を伝えただけになってしまいますから、習慣にさせるためにどうしたらいいかというところまで当然議論し、考えて提言をしていく必要があると思うわけであります。簡単ですけれども、以上でございます。
○  私が考えております教養教育の位置づけにつきまして、お話しいたしたいと思います。今まで、教養教育につきまして、やや子ども社会の問題として取り上げられがちではないかということが一つの問題点でございまして、結局、幼児教育が重要だということは我々はすべて認識しているわけでございますが、保育所あるいは幼稚園から大学までに至る子ども社会を囲む家族、地域社会、それから学校の問題、それから私どもが勤めている職場の問題が、子ども社会の周辺にあるわけです。特に家族と地域社会が非常に大きな問題になっているのではないか。したがって、「子ども社会」の教養教育ばかりを論じていても、正しい処方せんにはならないのではないかという危機意識を持っております。
  したがって、教育改革というのは大人社会を含めた社会全体の意識改革の一環であるという考え方が必要ではないか。政治の姿勢とか、あるいは経済界でございますが、頻繁に不祥事件が起きております。そういった経済あるいは政治の在り方も、子どもたちの社会に対するインパクトを考えますと、大人がしっかりしなかったら、子どもたちに自分たちの後ろからついてこいというようなことは言えないわけでございます。我々は大人社会の問題を教養教育の一環として取り上げるべきではないかというのが、私のまずスタートポイントでございます。
  では、いかにして今の日本の社会を品格ある日本社会にしていくのか。その過程としてそこに学習社会、つまり揺り籠から墓場まで、日本人が幼児からおじいさん、おばあさんまで、みんなが学習をする社会に持っていくべきではないかと思っているわけでございます。その背景には、人間性疎外の克服ということを書いてございますが、先ほどカフカのお話がでましたが、日本でも村上春樹が『ノルウェイの森』で書いておりますように、真っ暗なノルウェーの森の中に迷い込む青少年たちという表現で、あの有名な小説を書いたかと思うんでございますが、人間性が疎外されていく現象をいかに克服するか。
  20世紀の前半は、1億の人が亡くなった人類最大の悲劇の時代でございましたが、その後半、世界は復興に復興を重ねてまいりました。日本が世界第2位の経済大国になる過程で、日本人が失ってきたマインドの問題を一体どうするのか。また、21世紀に向かってIT革命、あるいは遺伝子革命といったようなものが控えておりますけれども、これも注意しないとバーチャルリアリティーの世界にのめり込んでいってしまう。また、経済の立場からしますと、抑制なき市場主義はまさに欲望のための欲望を追求するということになるわけでございます。20世紀の後半に抱えた我々の文明史的な問題、マインドの問題が、21世紀においても非常に大きな問題として増幅していく可能性があるのではないか。そこを我々がいかにして克服するかという問題かと思うんです。
  これにつきまして、アメリカにおける教養教育についての代表的考え方として例えば、私がずっと読んできたものの中では、シカゴ大学の哲学の教師をしておりましたアラン・ブルームが、1987年に『アメリカンマインドの終焉(The Closing of the American Mind)』という本を出しまして、当時、70週間ベストセラーになった本でございます。内容的にはややこしい本ではございますけれども、結局この中で彼が警告しておりますのは、60年代に入ってアメリカも非常に変わってきてしまった。特に青少年たちのニヒリズム、それから無感動、あるいは無神経、アパシーの世界が非常に大きくなってきてしまった。このようなアメリカの状況を打開していくために、一般教育、特に教養教育の必要性を彼は口を酸っぱく言っているわけでございます。
  一方、アミタイ・エツィオニという方ですが、御存じかと思いますが、ジョージ・ワシントン大学の先生をしておられる方です。ことしの1月の末にダボスでワールド・エコノミック・フォーラムがございまして、そこでお会いいたしましたが、この人の指摘も、60年代を境に危機に直面した。要するにアメリカの社会のコアとなる価値に対する新たなコミットメントが必要だということを言っているわけでございまして、問題意識は我々と全く同じなんです。
  そして、ずっとまいりまして90年代、アメリカにとって一番大事なことは何かというと、社会的無秩序、家族の崩壊の進行を食いとめることが模索されなければならない。特にここで言っているのは人格教育でございます。つまり、これは教育基本法が掲げた人格の完成、キャラクター・エデュケーションを非常に強く言っているわけでございます。家族の安定感、そしてコミュニティに対するコミットメントが必要だと。最後に、セルフ・ディシプリンとアパシーの対極にあるエンパシーが非常に大事だということを言っておるわけでございます。
  日本が今直面している時代認識と同じようなことを、アメリカの識者は感じている。ですから、ビル・ゲイツとか、ソロスとか、そういった時代の先端を行くような方たちがおられますけれども、本当にアメリカの将来を心配している人たちは、こういったものを拝見しますと、我々と同じような問題意識を持っているのではないか。それを克服していくためには、学習社会、イギリスで始め出しましたラーニング・ソサエティーを日本もつくり上げていく必要があるのではないか。その骨格をなすものが教養教育、つまりそれは人格の完成ということに尽きてしまうのではないか。
  まさにハウツーの問題になりますけれども、まず何といいましても、天然の摂理、自然体験を通して天然の摂理を学ぶ。それから、人類の膨大な遺産を継承する意味で古典に学ぶ。それから、人間の一番オリジナルな行動形式である勤労の意義を学ぶ。それから、社会奉仕、そして芸術によって感性を磨き、ハーモナイゼーションといいますか、バランス感覚を理解していく。そして、スポーツをやってフェアプレーの精神を十分涵養するというような、いわゆる哲学とか、歴史といったような限られたものではなしに、もう少し全人格的な広範な教養教育が必要ではないかと思うわけでございます。その目指す問題点というのは、日本の教育基本法とか、あるいはその後の臨時教育審議会の中でも、「個性の重視」ということを言っておりますが、この「個性の重視」というのは自分の個性ばかりではなくて、他人の個性も重視するというのが本当の意味だと思うんです。そのことは既に夏目漱石が「私の個人主義」の中に明確に当時から言っているわけでございまして、どうも他人の個性も重視するという教育が徹底していないのではないか。
  それから、先ほど来、お話のございましたグローバライゼーションの時代に入りまして、それぞれの地域の持っている伝統、価値観というものがあるわけでございまして、我々は多元的な価値をまず尊重する。一つの一元的な価値で押しまくらない。そこには忍耐と寛容の精神が必要だと思いますが、そういった多元的な価値の中から、より普遍的な、共有化できる価値を引き出して、それを皆さん地球上で追求していくということでございまして、そこには当然日本が誇るべき伝統的な美徳が幾つもあるわけです。そういったものを掘り起こして、日本的価値あるいは伝統を反映させていく必要があるのではないか。
  それから、構想力の涵養ということでございますが、この構想力というのは英語で言えば「イマジネーション」ということになるのかと思いますけれども、歴史意識あるいは国際認識力といったものをもって、物事の事象の判断を行うときに、実証的な立場で、しかも複眼的な立場で、奥行きのある視点をもって物事を判断していくというパワーを養う必要があるのではないか。それから、我々が20世紀から21世紀に入る際に、一体どういう価値を追求していくべきなのかということが、教養教育の行き先を示す一つの道しるべになるのではないか。
  そこで、これは私の考え方でございますが、先ほど申し上げました家庭、そして町や村の共同体といったものの価値の上に、自由と道徳的な規律と、それをハーモナイズする調和の三位一体の考え方をもって、21世紀に向かっていくべきではないかという考えを持っております。
  最後に、モラル・サイエンス。このモラル・サイエンスというのは道徳的科学というよりは、もう少し人間の精神にかかわる科学というふうに解釈すべきかと思いますが、それとナチュラル・サイエンスというものは、かつてそうであったように、一つのものにあるところで融合していくべきであって、それは今後、日本が科学立国を目指す場合においても非常に大事なものではないかと思っております。
  経済学をおやりになった方は御存じかと思いますが、例えば20世紀の巨大な経済学者のケインズのケンブリッジにおけるいろいろなあれを見ましても、彼は最初、ファカルティー・オブ・モラル・サイエンスの非常に熱心な生徒でございまして、彼はその後、科学のほうで相対的な考え方から確率論をまず書くわけでございますけれども、彼のベースになっているのはモラル・サイエンスなのです。その上に立って経済学、かの有名な『雇傭・利子及び貨幣の一般理論』というものをつくっていったわけでございまして、この辺の視点がどうもアメリカの数量経済学とか、そういうようなものに皆さんがかなりなびいていっちゃって、本来あるべき科学の在り方がやや偏向をしているのではないかと私は思っております。
  御参考までに、英国の場合ですが、イギリスのロード・デアリングさんの「デアリング・レポート」は御存じのとおりでございますが、彼に今年お会いしましたときに、彼からの説明として、ラーニング・ソサエティーを束ねるものを何にしようかといろいろ考えたけれども、それは「シチズンシップ」であると。この「シチズンシップ」をどのように翻訳するか。私は私なりに「市民道」という、「道」ですね。「武士道」の「道」。そのように翻訳してもいいのではないか。これについての考え方というのは、社会の一員としての責任を養うためのスピリチュアル(spiritual)、モラル(moral)、ソシアル(social)、カルチュラル・デベロップメント(cultural development)を、社会全体でやっていかなければならないということでございます。これが学校のほうでは2002年の8月からナショナル・カリキュラムの中に入れられるということでございまして、イギリスも苦悩しているなという印象を持ったわけでございます。
  これを総まとめいたしますと、今の日本の置かれているシチュエーションというのは、日本だけではない、文明史的にいって先進諸国が抱える問題だ。そういったものに対して彼らがどうチャレンジしているのかということを頭に入れながら、我々の取りまとめも進めていただいたらよろしいのではないかと思っております。
○  ただ今、一つの提案という形をとって、教養教育の位置づけについての考え方が示されましたので、できるだけそれにかみ合うような形で若干意見を申し上げたいと思います。
  まず、一つは、諮問自体が、たしか「新しい時代の教養教育の在り方」という提起であったと思いますけれども、その新しい時代なり、これから迎える新世紀の社会というのは、今までもいろいろな方がおっしゃいましたけれども、変化のかなり激しい、ある意味では先行きが必ずしも見えない不透明な状況ですが、いずれにしても国際化が進み、高度情報化社会になることははっきりしているわけです。そのような中で、特に会長も指摘されたように、経済を中心としたグローバリゼーションがかなり進展するだろう。それは人間性が疎外される。このまま歯止めをかけなければ、社会的にも弱者という人々が、情報の上のデバイドの問題と同時に、知的な面、いろいろな意味で経済的格差が生じて、教育の面からそういった格差をどのように改善していくかということを考える意味で、今委員の方が人間疎外の克服を強調されることについては同感であります。
  また、先ほど他の委員の方からも、我々は従来型の教養でない、新しい教養を考える場合に、訪れる社会がどういう社会かというのを一定予測をしながら、そういう社会に適合した教養を考えるべきだという趣旨の御発言があったように聞き取ったんですけれども、私もそういう意味では、価値観が多元化していくことは避けられないだろう。尊重ということを言えば言うほど、グローバリゼーションの中で、もちろん個の確立は大事なんですけれども、それと同時に価値観の違うそれぞれの個がそれを認め合って、それぞれの個の差異を認め合った多元的な、しかも共生といいますか、それが支え合って生きていくといいますか、社会的統合性とか、あるいは今の社会では社会的な一体感が――個は確立されつつあるんだけれども、その個と個を結ぶ社会的な一体感が欠落しているという意味で、社会的な規範とか、市民道徳が欠如しているということも言われるわけです。私は「共生社会」ということをよく言っているんですけれども、そういう社会を目指していかなければならないという意味で、単なる知識の量だけでなくて、総合的な洞察力、判断力といいますか、他との関係における社会との結節点を常に自覚しながら生きていくような人間を育て上げていく必要があるのではないか。そういう意味で、教養教育がこれから非常に重要だということについては、皆さんの意見が一致しているのではないかと思います。
  たしか、意見発表していただいた広中先生がおっしゃっていたように、教養教育という場合の教養を、かつての旧制高等学校というのは、昭和5年ぐらいですと、就学率は3%ぐらいですけれども、かつての3%とか1割ぐらいの人のいわゆる社会のリーダーになるようなエリートの教養を考えることももちろん必要でしょうけれども、97%が高等学校へ行くという状況の中では、国民全体の基礎的教養といいますか、そういうものをきちんと身につけるというか、レベルアップしていくことを我々は考えていく必要があるのではないか。特定の限られた人の教養教育というよりは、国民全体の教養教育をその際考える。
  中身として、いろいろな方が言われているのが私も最近気になっているし、新聞記事でしたが、日本人が日本語を読み書き話すということの力が非常に衰えているということを、マクドナルドの社員教育を例にしながら書かれていましたけれども、根幹にあるのは日本語を正しく書き、読み、話すということが、最近、いろいろなデータを見ると十分行われていない。自分も教員の経験があって、なぜそうなったのかということを反省しているんですけれども、実態としてそういうことですから。特に教養教育の基礎は、野村萬斎さんが言われるように、基礎・基本を義務教育の段階では重視をした教養教育を我々は求めていく必要があるのではないかということを感じております。
  それから、教養教育を戦後、新制大学では重視してきたんですけれども、必ずしも成果が上がっていると言えない面があるということについては、阿部先生、その他からもいろいろお話がありました。そのことについてとやかく言うことは必ずしも前向きではありませんからあれですけれども、幾つか言われている中に、新制大学ができた当時は、まだおそらく大学進学率は1桁の数%だったと思うんですけれども、1960年に10.3%ぐらいで、75年には37.8%ぐらいになって、今は49.1%くらいと、大衆化してきている高等教育の中で、従来型の古典的な教養主義で、西田哲学の本を読んでいないとか何とかいっていたって、実際問題としては活字離れしている中で、大学でも京都大学でされているというような少人数の学習集団で、一方通行の講義でなくて、双方向で教育をして、体験重視の教育をしていくようなことを、教育の方法論としては重視をしていく必要があるのではないかということで、京都大学の例はいろいろな本になって出されています。
  これからはいずれにしても教養教育が重要だということで、いかにして教養教育を身につけていくかというところについての、「why」、「what」の部分は相当議論されていますが、これからまとめていくにあたり、そういう面についても一定の方向性を示さなければと思っています。
  最近、人によりましては、「教養立国」というようなことをおっしゃったり、「心の糧としての新しい教養教育」ということをおっしゃっていますし、この前、他の委員の方からは「人生の座標軸としての教養」というようなことが、一つのキャッチフレーズといいますか、ネーミングとして、そういうことを打ち出したらどうかということがありましたけれども、「科学技術立国」とか、「教育立国」とか、いろいろありますけれども、きょう他の委員の方からもありましたが、学習社会ということで生涯にわたって教養を高めていくのは、一つの心の糧としての新しい教養教育の在り方ではないかと思います。
○  まず最初に、他の委員の方々に対する質問といいますか意見を申させていただいて、その後で私の考えを申させていただきます。
  まず、知っているだけではだめだ、体でわからなければいけないと。私もそのとおりだと思うんです。学校教育で「5分の1+5分の1=5分の2」で、できているので丸をやっていたんだけれども、「ところで、5分の1とは何か」と聞いたら、「わかりません」と言った。これが有名な「できる」と「わかる」の違いです。私はそれを聞いて、すぐ逆もあると思ったんです。「わかる」と「できる」の違い。わかっているけれども、できない。わかっているつもりで。それが他の委員の方のおっしゃったことではないかと思います。俳句というのは五七五で、だれでも知っている。じゃ、すぐつくれるかというと、つくれない。わかっているけれども、できない。本当は知っているということは、できるということを含めて知っているというんだと思うんですが、我々はそれを分化して考えているのではないかと思うんです。そういう意味で、本当にわかれば、自分の言葉で言えるはずだというのが私の考えです。ですから、前回、最後に、委員一人一人が教養とは何かということを簡単に3行以内で発表してみる、それによってその人の教養がわかるということを提案したんですが、定義というのは簡単にしなければいけないのではないかと思うんです。
  それから、ケンブリッジで音楽とかをすごく知っているのがいる。ひところ「T型人間」から「π型人間」へと言われたことがあります。専門と教養はTで、しかしもう一つ専門が必要なので、これはπ型だということで、そんなようなことかなと思っていろいろ聞いておりました。
  それから、ドイツ語の「ビルドゥング」が一番近いとおっしゃった。私もそうだと思うんです。百科事典で「教養」を引いてみると、英語で「カルチャー(culture)」、ドイツ語は「ビルドゥング(Bildung)」。ドイツ語に「クルットゥア(Kultur)」という言葉があるのに、なぜ「ビルドゥング」になっているのかということで、その辺を分析しないとわからないのではないかと思うんです。
  それから、学生が国立市を歩いて発見したという、小学校の生活科みたいなことを大学でやっているんだなと思ったんです。それは何のことはない、川喜多二郎さんの「KJ法」をやっているんだなという印象を持ったんです。
  それから、一番お伺いしたいのは、以前に「教養教育」つまり「人格の完成ということに尽きてしまう。」と言っておりましたが、究極的には私はそうだと思うんです。そうすれば、これは教育基本法第1条で、教育の目的は人格の完成と言っているんですよね。なぜ教養教育と言わなければいけないのか。私は教養教育の議論が始まってからいつも思うんですが、教養というのは非常に幅広い概念ですから、それぞれ考えていらっしゃるイメージが違うんです。ですから、概念があいまいなほど流行するんですが、中央教育審議会が言えばまた「教養」というのがパッと流行すると思うんですけれども、「人格の完成」が目標なら、それをズバリ言ったらどうなのか。別の言葉でいいと思うんですが。それが第1にお伺いしたかったことです。
  「人格の完成」というのは理念で、何を言っているのかわかりませんので、具体的に言う必要があると思うんです。「自己実現」というのも一つの方法でしょうし、他の委員の方のおっしゃった「自他合一」とか、「エンパシー」ですか、そういう感じでもいいと思うんですが、わかりやすくしないと……。教育基本法の議論で私は思ったんですが、正義とか、平和とか、いろいろ言っているんですが、正義をだれも反対する人はいないんですが、正義がちっとも実現しない。そういう現場に影響のないものをいつまでも飾っておいて、「正義、正義」と言って、「これは理想だから変える必要がない」と。どういう考えなのか私わからないんですね。そうすると、現場に影響のある表現をしなければいけないのではないか。そうすると、ただ正義ではいけないので、それは善悪のけじめをつけようとか、わかりやすくしない限り……。平和にしても、「戦争をしないことが平和だ」と、それだけ教えていてもわからないので。そういう意味で、「人格の完成」というのは賛成なんですが、もう少しかゆいところへ手が届くようにしていただけたらということが一つ。
  それから、モラル・サイエンスということをおっしゃったんですが、これはモラロジーというのが全国的にございますが、まさにモラル・サイエンスを意図しているんですが、ちょっと気になったんです。
  私は話をお伺いしながら、全く同じことを考えていたということに気づいたんです。それは武士道のことですが、「過去の武士道、未来の……」、何かいい言葉がないかと考えていたら、「市民道」とおっしゃった。「あ、これはいい」と思ったんです。「過去の武士道、未来の市民道」。なぜそんなことを言うのかと申しますと、過去しか見ない人が非常に多いということを常々思っているわけです。例えば、「奉仕」ということを言いましたら、それは「勤労奉仕ですか」「国への滅私奉公ですか」と、過去しか見ていないです。だから、未来形の奉仕というものをどうして考えられないのかといつも思っていたものですから、これはいいことを聞いたなと思って、早速「過去の武士道、未来の市民道」としたんですが。
  以上、お話を聞いて学ばせていただいた点でございますが、これから私の教養ということを少しお話しさせていただいて、教養のないところをさらしたいと思うんです。私は、何事も基礎・基本があると思うんです。教養の基礎・基本というのは何だろうか。物事すべて基礎・基本があると思うんです。大学生レベルで教養の話をしているのと、小学生に教養の話をするのと随分違ってくると思うんです。教養の基礎・基本というのは常識ではないか。アメリカの話のときにもありましたけれども、常識がない人に教養があるのかなと思うんです。常識を進歩させ、進化させて、発展させといいますか、常識を知的武装したものが教養ではないかというのが私の考えです。ですから、絶えず進歩してなければいけないのではないかと思うんです。
  「生きる力」という言葉もだいぶ普及しましたが、巷間いろいろ説かれておりますが、私の「生きる力」の定義は、ただ生きているだけではしょうがないので、進歩する力だと思うんです。進歩してなければ意味がないんで。私は進歩ということにハッとさせられたのは、大山名人の言葉なんです。これはどこかで最近しゃべったので、前回言っているかもしれないんですが、それを忘れているかもしれませんが、大山名人は「年をとると進歩がおくれる」とおっしゃった。私は年をとると退化していくと思っていたんですが、年をとっても進歩していらっしゃるんだなと思って、ハッとしたことがあるんですが、これこそ「生きる力」だなと思ったんです。
  そういう意味で、私の教養というのは、常識を絶えず進化させる。それは知的武装でもいいですし、モラルでもいいですが、ともかく核には常識がなければいけないのではないか。常識をどう教えるのかというと、私は常識というのは人から教えてもらうものではないと思うんです。おのずからわかるのが常識なのではないかと思うんです。ちょっと矛盾したような言葉になりますけれども。そのように常識を何かで武装したものが教養だとすれば、トフラーが本の中で言っていたのを思い出したんですが、「教養のある人として死にたい」と言った77歳の老人の未来学会での話、未来研究会に77歳の老人が来たので、この人は21世紀まで生きていないのに、何で来たんだろうとみんな思っていたというんです。これは1960年代の話です。自己紹介が始まったら、この人は「私は77歳でシュタインといいます。仕立屋をやっています。皆さん私がここへ来ていぶかしげに思われたでしょう。私は21世紀まで到底生きていません。しかし、私の死んだ後、21世紀、世の中がどうなるのか、気になって死ねないんです。だから、私が死んだ後どうなるか知りたい。そのためにきょうは来たんです。死にきれないんです」と言われて、一同しーんとしたという感動的な場面の紹介があるんです。未知への興味といいますか、そういうものを持って絶えず進歩するのではないかと考えて、「教養ある人として死にたい」と、これも泣かせる言葉だなと思ったんです。
  何を言っているかわからなくなりましたが、3行以内で言えと言われれば、常識を進化させたもの、あるいはそこから創造性を生み出す知の源泉といいますか、それが教養ではないか。
○  私に対する質問の見識が一つございましたので、お答えいたしますと、基本的に人間として備えるべきもの、これが人格だと思うんです。その人格というのは、知・情・意・美と申しますか、そういったものがウェル・バランスされているものを人間として備えなければならないと思うんです。それを完成していくというのは、まさに他の委員の方が言われたドイツ語の「ビルドゥング」。つまり、「ビルドゥング」というのは英語の「ビルド」と同じでございますから、そういったものをいかにして形成していくのか。それが教養教育の目指すべきものではないかと私は思っているわけです。
○  今日、電車に乗っていたら、30歳ぐらいの女性の方が、地下鉄でございますけれども、やおらパンみたいなものを取り出して食べていました。それを見ていて、ああいうのは教養というのは、道徳というのは、何ていっていいのかわからないので、ずうっと考えてきたんです。
  昨日、たまたま本を読んでいたら、昭和40年代、学生時代に買った本で、古い本だったんですけれども、220円の本で、小林秀雄先生と岡潔先生の対談で、対談する前に車に乗って、大文字山の篝火を見ていて、小林秀雄先生が「すばらしいですね」と言ったら、岡先生が「私はあれは嫌いです。自然を焼くのは嫌いです」と。私は「アレッ?」と思ったんですが、やはり取り方がいろいろあるなという感じがしたわけです。
  そういう中で、意識改革を考えた場合、価値観の共有の問題が出てくるだろう。どのレベルの価値観でもって最低限の共有ができるかというのは非常に大きな問題があると思うんです。教養というものをとらえた場合、いわゆるリベラルアーツから含めて、学問としてとらえた場合の狭い意味かもしれませんが、大変難しい教養の分野もある。それを全部がコンセンサスを持つというのは非常に難しいものであって、それを共通認識として全体でというのはなかなか難しいものである。そうなったとき、いわゆる幼児期から大学までの学校教育以外のものを全部含めて、大人社会での教養というものを考えたときに、本当に実現できるような教養の最低限というのは何なのか。すなわち、実現できないと意味がないという立場に立つと、それは何だろうかということを考えるわけでございます。
  たまたま、心というのは知・情・意の総体だと言っておりまして、夏目漱石の『草枕』の中に有名な言葉があるわけです。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」漱石自体がわからなくて、絵画の世界とかあっちのほうへ行ってしまうわけでございます。そう考えていくと、岡先生も何か言うときに、「知・情・意をもって……」という言葉を使ったんですけれども、知・情・意というもの、心というものがいわゆる教養とか、生き方の中でもしとらえられるのであるとすれば、私は心のありようをまさに教養と呼ぶのではないかと思ったわけです。そうすると、心のありようというのはそれぞれ違いますので、そこら辺がまた難しい問題になってくるという感じがしております。とにかく教養と教育を一つに結びつけるもの、いわゆる学問として教養をとらえるのか、あるいは自然体の人間の生き方として教養をとらえていくのかということによって、また方向性も違ってくるのではないかという感じがいたします。
○  大変示唆に富んだお話をたくさん伺ってまいりました。私が最初にお願いしたい気持ちでおりますのは、先回他の委員の方が御提案になりましたように、今回の報告書は3、4ページでも良いのではないかという御指摘がありました。この考えは重要だと思います。全体を一所懸命読んでいきますとみんな書いてあるんですが、意味がよく分からないという結論は世の中へのアピールに無理があります。
  今日も各委員の方からの御説をちょうだいできまして、うれしく楽しく伺いましたが、結局するところ、教養問題は教育の大問題の一つでございます。確かにボーダーレスの時代で、国際化をはじめ難しい問題も多いのですが、人間社会を幾つかの文化集団に分けてみますと、それぞれに先哲がおられ、違った立場から具体的なお話を固めておられます。これは宗教ということでしょうか、いろいろなお話は今日まで生き残っておりまして、それぞれを特徴づけた形になっております。もちろん兄弟同士でありましても文化の相克も確かにございます。ですから、平和でないという意見もあります。実態は、クリスチャン社会でも、仏教、道教、儒教その他でも結構ですが、古くからの教義にはお互いの相克がございます。しかも、お互いに共通点もたくさん持っており、そこにあるのが本当の人間の知恵ではないかと思うわけです。
  我が国が大変難しい時代に遭遇している事実は認識しておりますが、簡単なことの一つは、小さな子ども、幼児から学童という類かと思いますが、幼児期にどういう取り扱い待遇を受けたか、どういう教育といいますか、何も教育なんて難しいことを言う必要はないので、じいさん、ばあさんでも、兄さん、姉さんでも誰でもよい、要するに自分より年上の人たちからの接触の仕方、だっこも必要、食事をさせるのも大事だと思います。そういう日常の体験の積み重ねを通じて仕込まれ、はぐくまれていくところが、欠けてはいないかという反省も必要です。
  私はいつも言っておるのですが、幼児から、うそを言うなとか、他人の物を盗むな、どんな理由であれ人を殺しちゃいけないと。これは正直にも通ずるわけですし、哀れみの心とか慈愛、自分が慈しまれて育つということは、逆に人に対して温かく接したり、憐憫の心を持つことができるわけで、これらは幾ら教育しようと思っても、理性が勝っているときはよろしいが、一つたがが外れますと、これはなかなか難しい問題が起こってくるわけです。
  それと幼児期の体験のもう一つの大きな問題点は、偉大なる存在があるということの認識ではないでしょうか。それは何も天だとか神様とか、必ずしもそういう言葉を使う必要はなくて、お父さんお母さんでもいいし、お兄さんでも、お隣のお姉さんでもいいわけです。何でもいいんですが、言葉でなく自分にとっての絶対的存在を感知する、そういう幼児体験の積み重ねが人間形成の一番基本になるのではないか。まず第1番に現在は、それが欠けてはいないか。幼稚園とか、保育所とかで取り扱っていただく場合に、時に粗雑な扱いもあるでしょう、手厚い看護もあるでしょうが、現在ではこれもお金と引き換えという現実もあるわけですから、誰しもが同等ではないわけです。昔はそうではなかったのですが、今、立派になっている人は一体どうなんだろうという反省もあるわけです。
  それと例えば、一緒に育っているから、同じ考え方で対応できるかですが、これもなかなか難しい話で最近の話題に触れますと、日本に居住の外国人に選挙権をという話題もあるわけですが、国家の基本原理とは一体どう相容れるのかということも考えなければいけません。
  また、新聞で見ますと、校長に逆らったので処罰とか、日の丸を教務主任が引きおろし、それを3回も繰り返したという事件もあったとの報告があった。どこかおかしい、世の中が狂っているせいかと思うのですが、本来これは簡単な話なのに、簡単に扱えなくて大騒ぎをしているので、一体日本の将来はあるのかと余計な心配までするわけです。
  高等学校、大学で、ボランティアなど新しい言葉がかなり出てくるのですが、これらが教育あるいは教養を高めるという議論もあります。確かにそれも効果はあるでしょうが、本質論ではないのではないか。
  幼児教育についても、例えば日常会話の中で、温かみを持った会話展開ができているか。学校などの教育機関、社会環境すなわち地域社会ではどうか、もう一つ重要なのは、結果的に自己主張、つまり自分の意思を伝えるということで、赤ちゃんの「アー」「ウー」という声から、だんだん明確な言語体系になってくるのですが、今日では自然発生的訓練を欠いているのではないか。ですから、単に国語教育の時間を増やせばというわけでもないのです。この意味での手当てはどうしたらよいのか。学校では全教科にわたっての認識や説明を通じての強化が重要で、いずれも非常に大きな問題です。
  例えば、童謡、童話、あるいはもっと昔からの楽しいおもしろい、こっけいな伝説や神話が幾らでもありますが、そういうお話は最近の子どもの本にもありません。「かちかち山」とか、「桃太郎」のお話の中にも寓話を通じての倫理が受け入れやすい形でいっぱいです。そういう意味で幼児期教養の土台といいますか、まず下地をどうするか。
  また、宗教が大事だと言いますが、それぞれ宗教の蘊奥を極めた議論というのは高遠な哲学でありまして、決して否定する必要もないし、そうかといって無節操にそれを体得すればということでもない。私は自然科学分野の勉強をしておりますので、それに毎日の時間を費やしております。宗教とは違うのかというと、私自信はそうは思っていない。むしろ自然科学自体がある意味で宗教ではないかとも思うんです。未来にわたっての宗教や哲学は、サイエンスそのものと言っても良い、現代は科学の技術が大きく踊り出してきて、何とかこれを解決しなければということです。
  現実問題の社会問題も別な言葉、例えばアセスメント、つまり未来技術の評価予測が声を大にして繰り返されております。例えば干拓の問題、あるいは自然林の中に自動車道路をつくったために、野生動物の絶滅を招くという話もあります。しかし、現代は、人間そのものが地球の王者であり、人間の存在、あるいは人間の文化のために、植物も動物も絶滅に瀕している。これをどうするのか。これが教養で片づくかどうかは別としまして、とにかく問題はいっぱいあるわけです。そのときに先ほどは言葉を端折って申し上げましたけれども、幼児教育ということでチラッと申し上げたいくつかの事柄が、成人になった昔の子どもが、幼児期にはぐくまれた考え方や心の広さ、温かさ、隣人への思いやり、その他が結集して出てくるわけで、自然発生的にアセスメントを必要とする発送が出てくる状態、あるいは社会体制になっている必要を申し上げたい。
  そう言いましても、派手な話ではありませんから、そんなことはわかってるじゃないかとの常識論で覆され、だれも一顧だにしない。してみますと、今日お話のありました、一番重要なのは常識なんだという御意見を承り、私は我が意を得たりという気持ちがいたしましたので、ちょっと触れさせていただいたきました。
  これからの私どもはどちらの方向に向かうべきか、右か左かという言い方でなしに、もっと人間の本質に立脚した思考といたしまして。間もなく地球人口は100億にもなります。食糧問題だけでも大変です。農業の拡張だけでは到底不可能です。短絡した話ではなくて、社会的、経済的、その上人間的な破滅にも直面しているという事実を考えたときに、我々はどうあるべきかを方向づけとして示していかなければならない。
  そのときに、情操といいますか、あるいは常識、方向づけといいますか、具体的な形でそれらを示せるなら今度の中間報告、あるいは最終報告にぜひまとめたい。しかも、それは長い言葉ではなくて、短い項目だけでもよいのではないか。なぜかと申しますと、続いていろいろなところで解説書をおつくり頂けるだろうと思うからです。そういう意味で先般からの各委員の方の先般の御提案について、言葉と対象を絞った形でまとめていきたい。そう簡単にはいかないとは存じますが、取りまとめの努力をともにしていきたいと考えております。
○  私自身、「教養」という言葉の定義が十分にできないままに発言をするということで、いささか気も引けるわけでありますけれども、私などが「教養」という言葉をイメージしたり、あるいは使うような場合には、今まで大人を対象にして言ってきたような気がするわけです。教養のある人というとき、これは成人をイメージしたような使い方をしてきたかと思います。
  先ほど来のお話を伺いまして、私自身、自分の考えと非常に近いなと思って、そのことについて申し上げてみたいと思ったわけであります。実は、教養というのは、大人の世界にばかり存在するのではなく、子どものうちから、成長の段階に応じた教養というのはあるのではないかと思っているわけでございます。言うなれば、不易なものとしての教養と流行としての教養があるのではないかと思っております。不易に近い教養というのは、別の言葉で言えば常識に近いものです。ちょうど教科に基礎・基本がありますように、不易に近い教養というのは、人間としての基礎・基本に近いといえるのではないでしょうか。そういうものに対しまして21世紀に求められる教養であるとか、あるいは時代の変化とともに求められる教養というのは、流行としての教養。こういうものを意識しながら提言していったらどうか。そういう観点から、私は学校現場にずっとおりましたこともあり、子どもとして身につけておきたい教養というものをイメージしてみたいと思っているというのが一つであります。
  教養と常識との関係でもありますけれども、先ほど伺っておりまして、「常識」という言葉が出ましたときにふと思い出しましたのは、漱石のお孫さんで松岡陽子マックレインさんという方のことでございます。この方が日本にある時期帰ってきまして、1冊の本をあらわしていきます。正確に今覚えていませんが、『アメリカの常識/日本の常識』、こんな本を書いておりまして、日本の若者の電車に乗る風景にも触れていたように思いました。アメリカ等で通ずる常識というのは、やはり日本の明治か大正のころのおじいちゃん、おばあちゃんたちの振る舞いを見ていれば間違いないだろうと、このようなことを言っておられたかと思います。私はそこにイメージされている一つの常識が教養という言葉に通ずるものではないかと、今、他の委員の方のお話を伺いながら感じたわけであります。
  私が子どものうちから教養にもう少し着目をというのは、実は教育基本法の第1条の中にはそういう趣旨も含まれているのではないかと思ったりもするからであります。これは他の委員の方の「教養教育から人格の完成」という言葉がありましたけれども、私が最初に思っておりましたのもこのことに非常に近いわけであります。教育の目的が人格の完成であるというとき、私たちは普段の学校生活の中で児童・生徒にこういうものを身につけさせたいと思っているわけであります。しかし、そのままでは学習が成り立っていかないので、一つずつ砕いて具体化し指導していくわけです。
  その次の段階としては、例えば道徳の時間では、基本的な生活の習慣、しつけのようなものとだんだんおりていくわけです。そういうものの一番基本になりますのが、常識なのかなと思っております。この辺はまだ自分の考えも定かなものになっておりませんけれども、少なくとも常識というものは子どものうちから身につけておいてほしいものではないか。こういうことを学校においても身につけさせていく教育がこれから必要なのではないか。そういうことを意識した教育をもう少ししていくことが必要ではないかと思ったりするわけであります。
   実はこれとは少し話がずれるんですけれども、私は最近、規範意識の希薄化とか、責任感の欠如というような話題が出ますときに、これは小さなときからそういうことを身につけさせてこなかったためだろうと思いまして、今、小学校・中学校・高等学校の先生方には、そういうことを我々が意識してぜひ教育をしましょうという呼びかけをしているわけでありますが、教養というのもそういうのと根っこが似た部分がありはしないかと思っているところです。
○  先ほど来、「常識」という言葉が出ていますが、これは英語で言えば「コモンセンス」ですね。「コモンセンス」というのは、「そんなことを言うのは常識よ」と、つまりみんなが知っていることだという意味と、もう一つは「そのコミュニティを維持していくために最低守らなければならないもの」という意味と、私は二つあるんだと思うんです。先ほど他の委員の方が言われた、盗んじゃいけないとか、あるいは過ちはいかんといったような、言うなればモーゼの十戒のようなものが、まあコモンセンスだと、そういう意味でございましょうね。「そんなのはもう常識よ」と言っている意味の常識ではないということではないでしょうか。
○  知っているのは頭で知っているだけで、実行していないんです。そこが問題です。
○  頭で知っていて、実行していない。
○  ですから、知識として体得していないといいますか、体で覚えていませんから。お年寄りに席を譲るのはいいことだとみんな知っているんです。ところが、私は譲ってもらったことがないです。考える場合も同じですね。考えたら実行するはずなのに、実行してないことを考えたと言っているんです。そこの認識の違いだと思うんです。
○  だから、知っていると。要するに、そんなことは当たり前のことじゃないのという意味ではないんですな。それは実際にやらなくちゃいかんし、そういう意味でしょう。
○  今の御意見を伺っていて、常識というのが教養の基礎であるという点について少し確認させてください。先ほどおっしゃったように、常識というのはとても広範囲で、例えばアメリカ人にとって常識のことが、日本人にとっては常識でなかったりします。また昔では常識だったとしても、今では違ってくる。たぶんおっしゃっていることは、そういう常識ではなく、モーゼの十戒のように、人間としてあるべき姿という基本的なところを、常識という言葉で表現されたのかと思うのですが。極端な例をあげると、江戸時代に身分制があったのは常識だが、今そんなことを言うと、それは常識じゃない。だから、時代とともに、背景とともに変わってくる部分があり、そこは教養のベースではないんだということを、念押しされたと理解しているんですが。
○  私はそういう意味で言ったんですけどね。
○  言葉の範囲があまりにも広いので、「常識が教養ですよ」と言うとちょっと誤解を生む部分が出てくるなと感じました。そして常識というものがあって、それが育っていったものが教養であるということについてですが…。
○  それを基礎にして、進化させたものが教養ではないかと言っているんです。
○  この常識というのは、一般的に言われる「それって常識よ」というものまでが教養に進化していくベースになるということではなく、もっと根っこのところの部分ですね。
○  そうそう。それは当然そうです。ですから、日本の常識はアメリカの非常識というのは私はおかしいと思うんです。コモンセンス、人類共通のコモンでなければいけない。それがモーゼの十戒のようになったりするわけですから。
○  私も多少アメリカに滞在しましたが、「コモンセンス」という言葉はほとんど聞かなかったように思います。「コモン」という言葉の意味合いは、もっと重いですよね。「常識」という意味ではないと思います。
○  そうです。日本の常識とは違いますよね。もっと普遍的な意味がある。
○  「コモン」という言葉は非常に重いと思います。英国へ行きますと、何とか「コモン」という共通の広場がありますね。そこへはだれもが入っていいのですが、そのかわりルールがあって、してはいけないことがたくさんあるんです。ですから、「コモン」という言葉は非常に重い言葉で、日本の「常識」とは違うんですね。そういう意味で言うと一番いいのは、「センシブル・シングス・トゥ・ドゥ」という表現ではないでしょうか。他人に対して人間としてやるべきことという意味でしょうか。英国では「コモンセンス」という言葉は全く聞いたことがないですね。日本で言う「そんなの、常識よ」というのとはかなり違った意味合いを持っているんじゃないですかね。
○  広中先生は、飛行場におりたら、「コモンセンス」と大きく書いてあったとおっしゃっていましたね、報告で。
○  アメリカの独立のときに、「コモンセンス」という有名なパンフレットが配られているんです。「コモンセンス」というのは、意識とか、知識というよりは、「習慣」に近い。つまり、行動が伴うときに初めて「コモンセンス」になるんです。ですから、日本で「常識よ」というのは、知っていればいいというところがあるわけですけれども、そこはちょっと違うと思います。それは本当に「コモンセンス」と書いてある飛行場がありますよ。私は見たことがありますから。それは行動が一緒になっているということではないでしょうか。日本での知っていてもやらないというのは、それは常識とは言わないんですね。
○  そういう意味では、英語の「コモンセンス」というのと、委員の方々がおっしゃったものとは非常によく似ている。むしろ日本語の「常識」というよりは、英語の「コモンセンス」によく似ているというふうに解釈してよろしいでしょうか。そうだとすると、私もそうだなと思います。日本語の「常識」と言ってしまうとちょっと広がりすぎる感じがします。
○  そうです。日本語はあいまいなことが多いですね。 ○松村政務次官  それでは、私も一言仲間に加わらせていただきたいと思います。きのう、日経新聞を見ましたら、1面に教育の問題を取り上げていて、諸外国に比して日本は知とか、教養教育について、取り組みがおくれているのてはないかという記事がありまして、ハッと気がついたんですが。日本の場合、今、あまりに教育の欠点といいますか、負の部分が目立ってきておりまして、17歳の犯罪とか、あるいはテレビ等を見ておりましても、本当に非常識なお母さんといいますか、お父さんで、あんな家庭で育っていたら大変だなと明らかにわかるような家庭とか、それから学校の先生が成績中心で採用になる。今、特に生徒の数が少ないので、倍率が何十倍ということになりますと、県の教育委員会ではどうしてもペーパー中心で、成績で選ばないといかん。そうすると、落ちこぼれといいますか、今の難しい子どもがいる現場の教育になじめないで、脱落して、持て余しているというのが、学校の先生の問題。そういうことがいろいろ目につきますと、先ほど来いみじくもズバリ指摘されました幼児期の教育とか、そこに致命的な欠陥があるのではないか。
  そうしますと、こういう欠点の中で育った子どもに教養といっても、今さら人に対して哀れみとか、いたわりとか、そういうものがない人に、幾ら教養を与えても身につくはずがないんで、そういう負のことがあまり目につきますので、前向きの発言ができない。そこでさっきの新聞にありますような、委員の方がおっしゃるような古典とか、芸術とか、そういうようなことをどんどん押し込んでいくということが、日本の場合には言うをはばかられるといった部分があるのではないかと感じます。
  最近、私、ある新聞の記事を読んでおりましたら、家庭裁判所の調停委員で少年を見ている人が、最近の子どもというのは、結論から言うと、あの人たちの行う犯罪というのは目的がない。何か犯罪をして金銭を得ようという目的がない。自分たちが優等生としてずうっと今の教育の中で育ってきて、思春期になったときに、今の世の中は難しいな、どうして生きていったらいいのかなというときに、考える力を今まで全然与えられてこなかった。行き詰まってしまって、道が発見できない。そこで、自分が滅びるんなら社会も道連れにして滅びようという、社会との心中が現在の17歳とかの犯罪だと、その方は書いてありました。少年が一人でも自殺したら大変な時代だなと、40年以上前に思ったんですけれども、それが日常茶飯事のように自殺やら殺したりというのは、この教育はあまりに負が大き過ぎるものですから、そういうことで育った人に教養というものがなじむのか、また前向きの話ができないといった点があるのではないかといったことをちょっと感じます。
○  今、いろいろお話を伺っておりまして、教養と実践、実行力が時々対比されて、教養が邪魔して実行できないということがあるわけで、そういうことになりたくないとまず思いました。
  私どもに対しての諮問というのは、新しい社会での教養教育ですから、現代に位置づけて教養教育を考えなければいかん。特にターゲットは、御議論にありましたように、国民一般がターゲットだと思うんです。そうすると、御理解をいただかなくてはいけない。立派な教養に満ちあふれた大きな冊子が出たけれども、一般の国民は読んでいただけない。評論家とか、解説者とか、学者が原稿を書いて稼ぐそのネタになるだけではもったいないなということで、読んでもらえるような短さにできませんかと申し上げたら、他の委員の方が賛成してくださったんですが。
  私の場合は、なぜ今教養教育が必要かというのが1ページぐらいある。それから、一般的に言われている、古今東西不易としての教養とは何か。これは倫理学の専門家のお仕事なんでしょうけれども、それの集大成みたいな形で。それで今の時代の教養とは何か。それが2ページ、2ページぐらいあって、あとどうしたらいいかが4ページあって、最後のまとめが1ページで、10ページぐらいのものにして、後ろに教養豊かに深い付録・資料がいっぱいついている。絵入りでわかりやすくなんていうのがイメージでございまして、型から入っちゃったんです。教養の中身は十分に、今までのこの中にいっぱい入っているし、先生方の御議論でもいっぱい出ているので、それを今の時点で整理することのファンクションが割と大きいのではないか。これは議論をして、ここにあるよりも上のすばらしいものを出すというのは至難のわざではないかという気がして、どのようにうまく整理して、現在の状況にピタッとするような提言ができるかということを考えていたわけです。
  なぜ今教養が必要かというのは、二つの角度からとらえられると思うんです。一つは、政務次官がいみじくもおっしゃってくださったように、社会が崩壊しているということで、とにかく社会はえげつないですよ、下品ですよ、独善が多い。自己の権利ばかり主張する。そういうことから、バットで人を殺したりとか、保険金詐欺が出てきたりとか、いろいろなことが起こっている。そういうマイナス面をプラスにというか、ゼロに戻すというような必要性で、教養というものが貢献するという言い方は難しいんですけれども、教養の欠如からそういうのが起こっているので、今、教養が大事だろうというのが一つのとらえ方です。つまり、負をゼロに戻すとか、プラスに向ける。
  もう一つは、プラスをより伸ばすということで、例えばグローバルな社会で、あの方は品位のある方だ、教養豊かな方だ、あの人が出ていけばもめごともおさまるよというような風格、品位で、あの人が説得すると、とげとげしてぶつかり合っていたものが、丸くまとまってしまう。それこそ教養に満ちたというか、故事来歴とか、いろいろなものを引っ張って説得することもあるでしょうし、人柄で説得することもあるかもしれない。そういう風格、品位。これは国際会議であろうと、いろいろなところで風格ある日本人が求められている。子どもでも、あの子が出て言うと、何かいろいろなことが丸くおさまって、チームワークがうまく進むよという子どもに大勢の子どもがなってくれればいい。小さな段階での教養は、何だか我々が考える教養とは違うかもしれないけれども、そういうビヘービアをする子どもがいるわけです。そこを分析して、それが小さな子どもの教養ではないか。大人になりますと、国際社会で品格のある行動がとれるとか、そういう形になるのでしょうけれども、そういうプラスの品格、風格があって、他人の立場がわかって、社会に貢献できるというような人間が必要なんだということと、マイナスのものが起こっちゃいけないよという、その両面の必要性を簡潔に絞ってまとめられればいいのではないかという気がします。
  では教養というのは何かというと、出てきているキーワードがいっぱいあります。私も「コモンセンス」だと思って、「コモンセンス」と「風格」と「第三者の立場がわかる」というようなものを総合して、「道」というのを私も考えていたんです。柔道とか、剣道とか、いろいろな道がある。「市民道」というのは、なるほどなと確かに思いまして、私は「生活道」かななんて思っていたんです。時々、「生きざま」とか。「道」という概念が日本にあるので、道とか、風格とか、品位というもので、今あるキーワードをハイアラーキーというか、系統化して整理をしちゃうという形で、教養とは何かというのが、この会でまとめられればすばらしいのではないかという気がします。
  その上に立って、今のグローバル社会とか、ネットワーク社会で、どこかで起こったことがたちどころに世界中に広がってしまうというようなグローバルな社会、それから世界中で社会崩壊が起こっているような社会に必要な教養は、先ほど一般的に定義した教養の部分から、どういうウエートを持った、どういう特徴を持ったものかというのが出てきてほしいなと。私は、人の立場がわかるとか、いわゆるモーゼの十戒とかゴールデンローですね。人にしてほしいことは人にしてあげる、人にしてほしくないことは人にするなという事柄が、一般的にもそうだし、ネットワーク社会ではますますそうなるんです。ネットワークでそんなことをやったら世界は壊滅してしまいますから、それが情報倫理になってくるし、コミュニケーションのルールですよね。
  コミュニケーションというのは言語だけのコミュニケーションではなくて、映像を使ったり、ゼスチャーを使ったり、そこへつくり出す生産物であったり、音楽とか、芸術とか、スポーツとか、あらゆるものが自己表現をするし、他人を理解するために使われる。そういう言語以外の、全身を使い、物を使う、そういうコミュニケーションの能力が、現代の新しい教養ではないかと。そういう教養を身につけるためには、学校教育から普通の社会教育からいろいろなカリキュラムを考えたりしていかなくてはいけないんだろうと思います。
  現代の教養というのは何かというものがうまく浮き出してきて、コミュニケーションを通して異文化の理解をする。異文化理解というのは自国文化理解ですから、日本を理解しなければほかの国の理解はできない。日本と他の国との違いを明らかにすることによって、他者の存在を認め、自己の存在を認め、お互いが地球上に存在して立派に尊重すべきものであるぞということになれば、世界平和に通じるわけです。そういう他人の立場がわかる能力があると、ゴールデンローが成り立つわけです。ゴールデンローが成り立てばそちらができる。どっちが因果関係かわかりませんけれども、そこら辺がどうも今の教養としてあるのではないか。
  どうするかということになりますと、他の委員の方が言っていたような、天然、古典、勤労、こういうものを全部やることが効果的だと思いますが、今のお話をいろいろお聞きすると、労働とか、ボランティアとか、芸術とか、いろいろなものを組み合わせていくんでしょうけれども、できればコミュニケーションを中心に置いたカリキュラム、これは教育課程審議会ではありませんから、学校教育でそういうカリキュラムをつくれということはできないけれども、そこまで言うのは行き過ぎかもしれませんが、他人を理解するためのコミュニケーションを全身を使って、あらゆる素材を使ってやるような能力を、幼稚園・小学校・中学校・高校・大学と通して育てるような手だてを、現代社会のグローバル化したICの社会では相当ウエートを置いて考えていっていいのではないか。いわゆる従来型・伝統的な教養を勉強する形のものも大事だけれども、何か現代に合ったような教養教育が幼稚園・小学校・中学校・高校・大学、企業内教育、社会教育を通して見つけられないか。そうなればすばらしいし、読んでもらえるし。ただ、それでも教養人の言うことであって、実行は難しいなという批判を受ける面も出てくるかもしれないですが、それをやりながらぼつぼつというか、行政の力とか、ジャーナリズムの力とか、我々も努力して、教養が邪魔をしないで、教養があって初めて実践ができる、教養と実践が一体になるというような世の中に進んでいけばいいなと思っております。
○  最初に、日本社会は別に崩壊はしていないと思うんです。私も年寄りですから、お互いここにいる方はある程度の年齢の方なので、その年齢の人から見ると、若い人を見ていると、これは崩壊するのではないかと思うんですが、仮にここの委員が全部40歳以下でしたら、たぶん崩壊するという人は一人もいないと思います。そこが問題なのだと思うんです。他の委員の方もおっしゃったように、60年代から道徳とか、日常の振る舞いとか、そういうものについての行動の規範といいますか、型といいますか、従来のものが崩れてきているという認識は私も確かにありまして、これは先進諸国に共通の問題であると思うんです。
  ただし、アメリカの場合を皆さんよく比較なさるんですが、私はアメリカのようになったら大変だと思っている人間の一人で、日本では16歳の殺人とか、学級崩壊とか、大騒ぎしているわけですけれども、日本では殺人とか、強盗とか、スキャンダルの報道が大好きで、報道されるんですけれども、アメリカでは一々殺人なんか報道していたら、殺人で紙面がいっぱいになってしまうのであって。アメリカのキャンパスへ行った私の大学のときの同僚が、所々に電話があるので、何をするんだと言ったら、夜、女子学生が暴行されたら電話をするためについているんだと。幸いにして我が国の大学にはそういう電話は1個もなく済んでいるわけなので、あまりアメリカをモデルにしないほうがいいと私は思っています。
  ただ、先進国の共通の問題として、他の委員の方が「シチズンシップ」とおっしゃったのは、非常な卓見だと思うんです。といいますのは、私は、この前ちょっと申しましたが、ストラスブールの欧州評議会で41ヵ国の教育大臣会議というのが先週ございまして、その準備会に私はオブザーバーで出ておりましたが、まさにシチズンシップをどう教えるかということがそこでは重要議題として出ております。ヨーロッパの欧州評議会というのは、トルコ、アゼルバイジャンまで入っておりまして、41ヵ国の教育問題を、行政官が主ですけれども集まって、随分長い間議論をして、先週、宣言文と決議文を採択したはずなんです。そこには非常に大きくデモクラティック・シチズンシップをどう教えるかというのが入っております。こちらも一つの柱ではないかと思っております。
  また先ほど「武士道」という言葉が出ました。実は『武士道』という本を書いた新渡戸稲造という人がほとんど忘れられているときに、1968年、69年ごろから、南原先生、高木八尺先生に頼まれて、私は一番若いメンバーとして新渡戸全集を編集いたしました。その時に「武士道」を私なりにいろいろ考えたんですが、『武士道』という本は、実は「武士道」が滅びたから出た本なんです。ですから、今また「武士道」を持ち出すと、時代錯誤になるのではないか。「市民道」ということをおっしゃったんですが、「道」にするとどうも押しつけがましくなりますので、私はやはり「シチズンシップ」というのは、「市民の在り方」とか、「市民精神」とか、そういうふうに置き換えて、「道」でないほうがいいと思うんです。
  一つ、教養とは何だという問いに、皆さんそれぞれお答えになったので、私も一言。前に実は引用したわけですが、日本の教育は知識を教えているけれども、考えることを教えなかった。あるいは、知識があっても、実践しなかった。これは2000年以上前に孔子が「学んで思わざれば則ち罔し。思うて学ばざれば則ち殆うし。」とちゃんと言っているわけです。これが教養の基礎だと私は思っております。これではいささか古すぎますので、現代的に考えますと、他の委員の方の意見でありましたが、1つ目は「広い国際的視野と、人類的視野で物事を考えることのできる知識と能力」、2つ目に「異文化と意志疎通のできる語学力、表現力、国際的な礼儀作法、知識、教養」、3つ目は「国際社会において日本の歴史、伝統、文化社会などについて、説得力のある自己主張のできる広く深い日本認識などをもっていること」など出ていましたが、簡単に言うと、国際的視野を持つこと、それから異文化と意思疎通できる力を持つこと、そして日本の歴史、伝統、文化をよく学ぶことということです。このことを説得的に書いたほうがよろしいと思います。
  初歩の初等教育では、やはり日本語をきちんと書くことが非常に大事で、思考力、表現力のためには大事だろうと思います。専門教育、つまり高等教育では、一言で言いますと、「教養」という名前の授業を出してもだめで、専門を通じて、その専門の位置をしっかりと考えて専門を学ぶことが、一番教養が身につくのではないかと思うわけです。
  最後のまとめとしては、他の意見の方がおっしゃった揺りかごから墓場までの学習社会を目指そうということをうたって、何かの形でまとめたらいかがかと思います。
○  最後に一言、私から申し上げたいことがございます。この討議を通じまして、宗教教育についてのディスカッションがあまりなかったんです。「新しい時代における……」ということは、世界的に見ましても、現に回教が10億ぐらいになって、ますます増えていくわけです。地域紛争も恐らく21世紀はもっと激しくなる可能性もある。そういう時代に出ていく若い人たちをどうするかという視点も必要なわけでありまして、教養教育の中で宗教というものをどのように教えるのか。これは何も特定の一つの宗教を信ずるようにという意味ではなしに、主な宗教というものは一体どういうものがあるか。イギリスでは、この前申し上げましたけれども、キリスト教、ユダヤ教、仏教、回教、ヒンズー教、シーク教の六つを教える。我々の場合は、そのほかに儒教というものがあるわけですな。武士道や何かのもとになっているのは儒教ないしは道教だと思いますし、特に北東アジア、朝鮮半島、日本、中国というものは、この儒教をネグレクトはできないじゃないか。そういたしますと、いろいろなことを教えていく中で、宗教教育というものは教養教育の中にとって欠くことのできないものではないかと私は思っておりますが、その辺を今後どのようにお考えになるかということでございます。
  何人かの先生から、シンプル・アンド・クリアにいけというようなお話がございましたが、結局、マインドとネーチャーの問題であって、教養教育の問題は優れてマインドにかかわる問題だと思うんです。私は経済人として「人間の顔をした市場主義」、あるいは「人間の顔をしたグローバライゼーション」ということをキャッチフレーズに掲げまして、国際的にも主張しておりますけれども、日本が目指すものは「人間の顔をした社会」、そういった人間性の回復といいますか、そういうものを問題意識として持つべきではないか。1945年、戦が終わったときに、私は旧制高校にちょうど入った年でございますが、あのときに社会全体が問題にいたしましたのは人間性の回復でございました。ですから、歴史は繰り返すではございませんけれども、豊かにはなったけれども、我々が失いつつあるマインドの問題をどのようにしてあれして、しっかりとした子どもたちに導いていくのか、その辺が教養教育の目指すべき分野ではないかと私は個人的に思っております。これはワーキング・グループの方にいろいろお考えいただいてやっていただきたいと思います。
  また、ワーキング・グループのほうから、あるいは中間的に御意見が出てくるかもしれませんが、それはまた次の機会に討論をしたいと思っております。
○  先ほど他の委員のおっしゃるとおりだと思うんですが、「道」にこだわるんですが、昔、「武士道」、今、「人道」。「人道主義」とか、「人道的支援」と言っていますので。それをちょっと思いついたので、一言だけ余計なことを言いました。
○  今の委員の方と同じく、別に反対するという意味ではないんでございますが、日本の国がすばらしい国だということを上から宣伝するということは全然考えておりませんで、実際すばらしいものがあるんだという。例えば今の百人一首なんかも、シンガポールの代表がうちの学校へたまたま来たときに、生徒が百人一首を授業でやっていたんです。それを見てびっくりしまして、「あ、こんなのがあるんだ」といって感動して帰ったんですけれども、そのような話で出てきている話でありますので。しかし、先生が御心配になることはよくわかりますので、十分に考えなければいけないとは思っております。
○  本日はいくつかの委員からポイントが出てきたと思います。私は、前回の意見発表者の舘教授が言っておられることが非常に大切だと思っております。どういうことかといいますと、カリキュラム化するということを考えなければいけないということです。もちろん教養教育のフィロソフィーも重要ですが、そんなものは幾らでも書けるわけです。ただし、それを書いても世の中は相手にしてくれないと思います。カリキュラムとしてどうするかということに持っていかなければいけない。そういう意味で、他の委員の方から御指摘のあった、教養には二つあるのではないかという点が重要だと思います。まずは国民全体の基礎的な教養ですね。もう一つは、エリートのための教養ということで、その両方について考える必要があるのではないかと思います。いずれにしてもそれらをどうカリキュラム化するのかという点が問題だと思います。
○根本会長    全く同感でございまして、これをいかにして実際にどういう方向であれしていくのかという点を含めて、一つの道しるべをおつくりいただきたいと思います。
   それでは、きょうは大変活発な御意見をいただきありがとうございました。


(大臣官房政策課)

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