審議会情報へ

中央教育審議会

2000/10/13 議事録
中央教育審議会  総会(第237回)  議事録

14:00〜16:30
ホテルフロラシオン青山3階
孔雀の間

1.開    会
2.議    題
「新しい時代における教養教育の在り方について」自由討議

3.閉    会

出席者
委   員
根本会長、鳥居副会長、小林委員、坂元委員、杉田委員、土田委員、
永井委員、長尾委員、松井委員、森 委員、横山委員

事務局
小野事務次官、徳重高等学校課長、矢野教育助成局長、工藤高等教育局長、
合田大学課長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官

○根本会長    それでは、時間がまいりましたので、これから第237回の審議を始めたいと思います。
  これまで5回ほどヒアリングをやりまして、10名の方から御意見を承ったわけでございますが、それらを踏まえて討議を行っていきたいと思っております。
  それでは、最初に配付資料の確認を事務局のほうからお願いいたします。

〈 事務局から説明 〉

○根本会長    それでは、皆さんの忌憚のない御意見を承りたいと思います。
○  まずどういう枠組みで議論をするかということでございますけれども、今までにいろいろ書かれたことなどを考えましても、新しい文言というのはなかなかうまく浮かび上がってまいりませんが、どちらかというと今までは、例えば「知・情・意」の中の「情」とか、そういう精神世界のところの教育をどうするのかということが、おろそかになったというよりは、迷いがあったように思います。そこのところで、精神世界をどう耕し、豊かにするかというカリキュラムの工夫を中心に考えていくのが、私たちの仕事なのかなと思います。カリキュラムは具体的にはもちろん教育課程審議会でございますが、その方向を出していくことが私たちの課題なのかなと思った次第でございます。
○  先ほどお話があったように、「知・情・意」というバランスを重視すべきではないかと私は前から思っております。ある意味では、大学で勉強しない学生もたくさんいるんですけれども、一般的には知識偏重になりすぎている。つまり、物事を知っているということと、前も言ったかと思いますが、教養があるということとはかなり違うのではないか。それはどこにあるかというと、「情」と「意」というところに何らの訓練がなされていないからではないかという気もするわけです。これを高等教育の中でどのようにしたらやれるかということは非常に大きな問題でありますが、一般的に教養あるいは人格の完成という抽象的な言葉を言ったときに、何をすればそういうところに近づいていけるかというときに、知識だけのことを言っていたのではだめである。そういうことだと思います。
  ですから、「豊かな感性」+「判断力」、あるいは「決断力」、あるいは「実行力」を伴うような訓練がないと、知識というものは単に知識で腐っちゃうだけで、有効な生かし方ができないということであります。そこのところをどう考えるかということが一般的にあって、それを大学生の生活の中でどのように訓練していけるかということが、次の段階の問題としてあるのではないか。これは私もお話しできる内容が今のところございませんで、申しわけないのですが、一般的にはそのように考えております。
○  教養ということを定義から見ますと幅広くとらえておりまして、いわゆる幼児期から大人まで含めて教養というものを考えていく場合、このベースには心というものがあるのではないかという感じがするわけです。その心ですが、前に心とは何だろうかと思って辞書で引いてみると、「心」というのは「知・情・意の総体」というようにたしか出ているわけでございます。そうすると、どうしても心にかかる部分をある程度論議していかなければいけないのではないかという感じがするわけです。非常に幅広く、窓口としてどこからいったらいいかわからないわけでございますが、何らかの形で精神的なものをかなり前に出していかなければいけないのかなという感じがいたします。
○  非常に難しい問題で、さっきから考えていたんですが、三つばかりあります。
  一つは、教養について、古今東西の学説を拝聴したり勉強させていただいたんですが、一人一人がそれをどう受けとめて、教養とは何かということを自分の言葉で語れるようにならないと、学習した効果がないと思うんです。そういう意味で、一人一人が「自分は教養をこう考える」ということを、次回あたりに提出することが、どうまとめていくかということと関係してくるのかなというのが第1点であります。
  第2点は、いろいろな学説とか、お話をお伺いしていて、キーワードになるような共通のタームが幾つかあったんですが、あまり多過ぎてもいけないので、何かに集約するとどうなるのかなと考えてみますと、結局、「知・徳・体」とか、「知・情・意」とか、「人間性豊か」とか、そういうことが言葉をかえ品をかえ言われている。今までの中央教育審議会の答申の中にも、「知・徳・体の中における知・情・意」の何とかとか、混線してくるんですけれども、そういう意味で、教養の中核になるキーワードは何かということ整理しないといけない。
  それはまた大学の教養だけではなくて、小学校・中学校・高校における教養、生涯教育論的に発達段階でどう違うのかということも、キーワードが変わってこないとですね。戦後の文部省のいろいろな答申を見ていますと、それが整理されているところもあるんですが、整理されていない面もある。例えば教課審の答申で、小学校・中学校・高校では「自ら学び自ら考える力」とありましたけれども、大学審議会の答申では、小学校の「自ら学び自ら考える力」の上に立って、初等中等の上に立って、大学では「物を見る目」、それから「自主的・総合的な考える力」とか、よく使い分けてあるようにも見えるんですが、ほかの答申等を読むとまた混線している。だから、文部省全体として小学校から大学までの教育課程でのキーワードの使い方が整理されていないのではないかと感じた点が一つあります。
  第3点は、これは簡単な御質問ですが、事務局にお伺いしたいんですが、平成11年の『高等学校学習指導要領』の全面改訂ですが、これの改訂の趣旨の最初に「豊かな人間性や社会性、国際社会に生きる日本人としての自覚を育成すること。」とあって、改訂の趣旨の1つとして「ボランティア活動や就業体験等を通じた勤労の尊さや社会奉仕の精神の涵養など」という、この「社会奉仕」という言葉が出てくるんですが、それまでの指導要領には「奉仕」という言葉があったのかなかったのか、ここで初めて出たのか、私は不勉強でわからないので、小学校・中学校の指導要領を通じてお答えいただけたらと思います。
○根本会長    ありがとうございました。
  今の御質問についてお願いします。
○事務局    「特別活動」の書き方の中に、「ボランティア活動など社会奉仕の精神を養う」ということが、平成10年の改訂の前からございました。そこは後ほどお知らせさせていただきます。
○  いつごろから……。要するに、「道徳」のところでも「社会奉仕」という言葉が出てきますよね。それから、「特別活動」でも「奉仕的行事」とか出てきます。高等学校では倫社で「社会性」とか、「自己実現や社会奉仕」とか、平成11年の高等学校指導要領の改訂で出てくるんですが、前から「特別活動」には「奉仕」は出たけれども、「道徳の時間」ところでは出ていなかったということですか。
○事務局    調べて後ほど説明します。
○根本会長  よろしいですか。それでは、後ほどお願いいたします。
○  大変難しいテーマで、考えがまだまとまっていないんですけれども、教養教育の重要性は、10人の方のヒアリングを含めて全体が一致しています。また、戦後教育の人格の完成を目指すという教育基本法の1条の目的・理念に照らして、臨時教育審議会以降も、そのことについては相当指摘をされていながら、実際には教養がなかなか身に付いていない。最近、経済界から官界から学校も含めていろいろな不祥事が起きていて、高等教育を受けた、一般的には社会的にも教養のあると思われている方が、実際はあまり教養が身に付いていない。
  最近、私も関与して進めてきている中央教育審議会なりの教育改革について、有識者の中から、全体ではないにしても、間違っているのではないかということで、今の改革の路線を改めろというようなことが相当強く言われている。きょうも「産経新聞」に大蔵省OBの方が、大島文部大臣の回答に対してまた反論みたいなのを載せておられるのを読むにつけても、あれは単に一個人の意見というだけではなく、教育学者の中にもそうした意見がある。
  したがって、この諮問の際に指摘されたり、根本会長からもよく言われているように、これまでの改革、特に教養ということに限ってでも、そういう視点から、重視してきたにもかかわらず教養というのが、特定のエリートでなくて広く国民に身に付いていないのかというところのレビューといいますか、検証を我々はすべきではないか。基本的にはどなたもおっしゃるように、目的は、突き詰めていけば中央教育審議会が言ってきている初等中等教育における「生きる力」、高等教育において大学審議会が言っている「課題探求能力」ということに尽きるのだと思うんです。しかし実際は、そのことがなかなか……。現実に成果を上げつつある面も私はあると思って、先に指摘した意見等については私も不快感を持っている一人ですけれども、しかしそういう議論がまだまだ相当程度あるということを考えると、近年の教育改革がどういう成果を上げてきて、あるいはどういう問題を残しているのかということを、教養教育ということから考えて、ひとつきちんとしたレビューをしていく。その上に立って、実際に教養が本当に身に付くような施策を考えていくことが大事ではないかということを感じております。
  2002年からの学習指導要領の改訂を全面的に撤回して、ストップしろという意見も一部の人の中にはあるんですが、私はその必要はないと思うんですが、この議論をするのであれば、そのことも含めて一定の反省総括といいますか、レビュー、検証した上で、教養教育の在り方について提言をしていくことが大事ではないかと最近強く思っているということを申し上げておきたいと思います。
○  いろいろな言い方をされておりますが、戦後の大学教育の中で一番重要視されたところは、教養教育なるものの推進でした。そのため、日本中教養のある人ばかりで溢れてしまったために起って来たのが今日の問題と皮肉な言い方をしたことがございます。
  よく考えてみますと、実は一番根底に在る問題です。宗教がないとか、宗教の欠如が絡んでいるとか、御意見はいろいろあります。また事実そうだと思いますが、人間の生きざまといいますか、現代的サイエンスや社会システムのお話と関連させても、昔からの人倫と申しますか、人の在り方は、2000年前から東西に関係なく本にもいっぱい書いてあります。孔子の教義もそうですし、キリストや釈迦とか、あるいはマホメットもそうでしょう。それに、ヘブライもそうかもしれません。最近は明治に戻って教育勅語をもう一遍考えたがよいのではとの意見もあります。素人わかりがするといいますか、誰でもわかる形式で言うと、そういうことなんだろうとは思いますが、少し格好をつけてなくてはというところで、私ども中央教育審議会としては少し頭の痛いことになったなと存じております。   しかし、会長が前から強く主張しておられた不易といいますか、反語としての流行との相関をどう考えるのかという話題に帰着します。今までのものを全部否定して、すべてを新しく生み出そうとするところに大変な無理があるのではないか。認めるべきところは素直に認めてしまって、思いつくまま申し上げますと、非難あるいはあるべきでないと否定することは簡単ですが、ではそれに代わるものはどうあるべきかについて個々の御提言はあるものの、一向に強い説得力というか、迫力をもって私共に迫ってくるところがないわけです。むしろ2000年前の思想が昨今、一番身近に感じられると言ったら非常に皮肉な言い方になるでしょうか。
  それはそれとして私どもは今、一体どのように結論づけたらいいのだろうと思うわけです。戦後半世紀を経て世界も社会も変わりました、サイエンスや私どもの生活様式も著しく変化しております。人間の本性とか、具体的肉体的あるいは知的思考の問題もほとんど大差ないという見方も一方にあります。したがって、教養問題の焦点を一体どこへ定めて教育内容に取込んでいくか、学校という場で一体どう実践させるのか。そこをじっくり考えて、そう簡単ではないのは勿論ですが、急いで結論を出さなければいけない。
  私も非力ながら整理を始めていて、何か申し上げる資料にしたいと思いながらも、まだそこまでまとまっておりません。今日は結論でなしに、むしろいかに迷っているかを申し上げることになりました。この本日の発言とさせていただきたいと存じます。
○  新しい時代における教養教育の在り方ということでありますけれども、この審議会を進めるに当たりましては、まず、ここでいう「教養」とはどういうものかという御議論からなされることがよろしいのではないかと思います。
  これは全く別の例でありますけれども、よく「教員の資質」とはなにかと私どもは問われますけれども、教育職員養成審議会がかつて、時代の変化にかかわらず、不易なものとしての教員の資質を示してくださったことがありました。これは非常にわかりやすく、参考になったことを思い出します。今回のこの教養教育の在り方につきましても、ここでいう「教養」というものはこういうものを指しているということを、スタートでやっていただけると私どもにはわかりやすいかと思います。
  私は心情的には、小学館の「国語大辞典」の「学問、知識などによって養われた品位。文化に関する幅広い知識」などが、今までの抱いていたイメージに近いのですが、しかしこれだけの言葉で表現するということは大変難しいわけであります。その辺の議論が少しあればと思います。
  これは先ほど委員の方からも御発言がありましたけれども、大学における教養教育も、やはり小学校・中学校・高校と経ての大学教育であるわけで、発達段階に応じた教養もいろいろ考えられるだろうと思いますし、そういうことにも触れながら議論がなされると有り難いかなと思ったところであります。
○  今まで勉強させていただいて、特にヒアリングの先生方の生の声をお聞きして、それを分類してみますと、それぞれの方が知・情・意を総合した総合力、それから社会文化という、そこにカテゴライズされるような御意見をおっしゃったかと思います。例えば、教養だとか、修養だとか、知識は多くの方がおっしゃっていただいたし、言葉とか、論理が大事だという知の面、それから情の面では、相手を思いやる心とおっしゃった方がいますし、意志では困難を乗り越える力というようなことをおっしゃっております。それから、総合する力としては、未知への対応とか、未知への創造を、いろいろな方がそれぞれ触れられたような気がします。
  それに加えて、国際化、情報化に対応した生き方とか、コモンセンスとか、そうした社会を配慮に入れた、集団所属のこともおっしゃった方がいましたし、それに文化として7領域とかそんなことで、それを総合するのが「生きる力」かなと思うんです。
  ただ、ここでどう扱っていいかわからないことが二つございました。一つは、第235回中央教育審議会総会のときのヒアリングで、中村さんが、時間とかプロセスを考えろと。今の知・情・意とか、社会文化のカテゴリーの中には入らないような気がするので、その辺をどう考えていいかちょっと迷っております。
  もう一つは、今、他の委員の方もおっしゃったけれども、私も品位とか、高雅なる本性というのが字引のどこかにあったんですが、これが教養だなと思っていたんですが、ヒアリングの中でたぶん出てこなかったような気がするんです。やはり品位とか、高雅なる本性を我々としてどのように表現したらいいのかなというのが、ちょっと宿題かなと思っております。
  全体が「what」と「how」で、今のところは「what」です。つまり、教養とは何かということに関する論議ですけれども、もう一つ、私たちは教養をどうはぐくむかという「how」の面を考えなくてはいけない。「how」の面は、受容性というふうに、自然にとか、自然と接触とか、労働とか、伝統を体得するとか、きちんとしたカリキュラムとか、幾つかの可能性をお示しいただいておりますので、その辺の整理をして、「what」と「how」を組み合わせるのがこれからの仕事かなと思っております。
  その際に、私がもし考えるとすると、今までこういう資料があったものの、教養としての不変的なものは何か。これは先哲以来のすごい知識の流れがございますので、それをレビューしていく。これは不易の面とか、不変のものとしていく。それを現在の時点で扱いますときには、グローバル化時代において不変的なものがどうあらわれるかという観点と、もう一つは社会のセキュリティーが危険に瀕している。例えば学校が荒れているとか、心が崩壊しているとか、保険金殺人であるとか、事故がいろいろ起こるとか、社会のメカニズムが危険に陥っていることに教養の不足がかかわるという、そういう二つの観点から、現時点で不変としての教養があるとしても、それがグローバル化時代と社会セキュリティーが崩壊しようとしている現在の中で必要な教養は何かという、そこを強調する必要があるだろう。
  それを踏まえて、今度は「how」の面で、不変のものを育てるとともにですけれども、現代に特に必要な教養とか、品位とか、その中身を育てるための学校教育の在り方、これは他の委員の方がおっしゃってくださったように、初等教育から生涯教育に至るまでそれぞれ違った取り扱いをする必要があると思いますので、その教育の方策についても一旦レビューをして、そのレビューは本文中に書き込む必要はないと思いますが、その上に立って、不変的な教養教育の仕方はこうだけれども、それは現代の社会ではなかなか成り立たないとか、実現しにくい。だから、今の私どもの21世紀初頭の数年の間で、どのような対応をしたらいいかという観点からのまとめが必要かなと思います。今の段階では、これから議論を進めたり、まとめていく方向について、こんなことかなというのを感じているというだけで、失礼させていただきたいと存じます。
○  教養が今まで教育に欠けているところがあったから、教養が足りないことが目につくのか、今までの教育は特に悪くないんだけれども、社会的な問題として教養というものがなくなるような社会状態が起こっているのか、その辺のところについて皆さんはどうお考えになるのか。私は、教育そのものはそんなに悪くなかったと思うわけです。
  ほかの委員の方が皆さん、「知・情・意」ということをおっしゃって、私も全く賛成なんですが、問題は「知」というのは教えやすいわけです。「情・意」というのはそう簡単に、「心はこうだよ」ということを教えられるのか。教えられるとしたら、非常に偉い方か、とんでもない人だろうと私は思うので、その辺のところをどう考えるかは慎重に議論をしていただきたいと思います。
  私は先般ヨーロッパでいろいろな国の人に聞いて回ったのですが、重大なことは日本でも同じで、その国の国語能力の低下です。別の表現をしますと、国語の劣化だと思います。これは認めざるを得ないと思うんです。物を考えるとき、私は少なくとも英語でもフランス語でも考えないで、日本語で考えて、それを頭の中で同時通訳機械でもって外国語でしゃべっているわけですから、やはり日本語がしっかりしていないとだめではないか。
  そこで、カリキュラムを見ますと、国語、あるいは古典、漢文が減ったと思うんです。これはフランスに聞いても、ラテン語、ギリシャ語がうんと減って、できなくなった。同じことが起こっているわけです。同じことがいろいろな国で起こっているということは、理由なしに減らしたわけではないと思います。しかし、これは問題ではないかという気がしています。日本人が少なくとも立派な日本語を話せるような教育をすることは、教養教育の一番の根幹であり土台であると思います。
  その次は、今までいろいろなことがたくさん指摘されているんです。こういうことを言うと、不謹慎だと後でお怒りになるかもしれませんが、あえて申しますと、日本という国は非常に親切に、悪く言えば過保護にいろいろなことをいう社会です。これだけ山のような答申が臨時教育審議会以来あって、それでもうまくいかないのか、そうではないのか。
  ですから、この次に出す答申も、あらゆる問題を全部洗い尽くして並べ立てて、結局何をしていいんだかわからないようにならないで、重点を絞って、今の状態はいいと思うとか、こういうところをつけ加えるべきだとか、少し簡略に出したらどうかなと思います。
○  五つほど申し上げたい。まず第1に、教養とは何かということについて、過去5回ヒアリングをやりましたが、その中で大事な教訓を得たと思います。私の得た教訓は「人として生きるための座標軸」ということに要約できます。阿部謹也先生や寺島実郎さんのお話を引用しますと、阿部先生は、「個人あるいは集団が、自分の生き方を自分で考えること、それが教養だ」と。寺島さんは、「社会人として自己制御を支える知性を身につけることだ」とおっしゃいました。私の言葉では、「人として生きるための座標軸」ということになります。
  「人として生きるための座標軸」は、時代とともに変わると思います。ただし、その変化は、過去から将来に向けて連続的に変わっていくべきものであり、実際今までそうだったと思うんです。過去に我々が生きるための座標軸として大切にしてきたものがたくさんありました。中教審の歴代の答申に列挙されている数々の言葉は、全部それを伝えていると思うんです。問題は次の時代へ向けてこの連続性をどう維持するかということではないかと思います。
  次に、現代の教養問題というのは二つに分けられると思うんです。一つは、「人として生きるための座標軸」の進化のプロセスの連続性が断たれているのが現代の状況ではないかと思います。我々が本当に心にかかる多くの事柄、例えば、善悪の判断、あるいは知・情・意の総体としての心、あるいは自然への畏敬の念や宗教といった、人間の存在を超えた高いものへの畏敬の念、そこから出てくる生き方のルール、精神とは鍛えるものだという通念を我々は大切にしてきたはずなのに、忘れらている。物を考える訓練、あるいは体の鍛錬、いろいろな鍛錬が昔からあったのに、今はそれが突然断絶して、だれも鍛えようとしない。
  それから、我々は社会の中で生きているわけですから、コモンセンス、エチケット、礼節を大切にしてきたはずなのに、それが突然大切にされなくなってしまった。挨拶ができなくなった。人にぶち当たっても「ごめんなさい」が言えなくなったという断絶が起こっている。終戦直後には我々の世代は、文部省著『民主主義(上)』『民主主義(下)』というテキストを使って、民主主義というのはどういうものか徹底して教わったはずなのに、現実の社会を見てみれば、あの教科書に書いてあることとははるかに違うことが起こっている。民主主義はどこへいっちゃったんだとさえだれも思わない時代になっている。歴史の軽視や偏りが存在している。どれを見ても、どこかで断絶が起こっていることが現代の教養の最大の問題なのではないか。
  もう一つ、次の時代の教養ということを考える。考えなければならないのは新しい時代がくるということです。新しい教養への進化が必要だということだと思います。例えば、科学技術は、インフォメーション・テクノロジーや生命科学に代表されるように、全く新しい時代に入っておりますし、産業構造もものすごい勢いで変わっています。しかしその背後で脅威を感ずる現象も起こっています。例えば飛行機産業は、世界中200以上の国のうち、わずか数カ国でしか飛行機はつくれない。自動車は2、3か国でしかつくれない。産業構造がものすごく偏っているのが現実です。どんなに欲しくても、自分の国の産業として持つことができない産業、ほかの国に持っていかれてしまった産業がたくさんあるわけです。その中でどうやって競争的に日本人が生き残るかという状況にたたき込まれている中で、生き方の座標軸が必要になっています。環境も変わっています。人口、資源、食糧、安全保障、どれを見ても日本は決して安全ではないのに、みんなまだ安全だと思っている。その中で、突然これらの問題が現実の危機となったときに、私たちの座標軸は何れかを今から考えるという問題を抱えているのではないかと思います。
  それから、社会の存立原理も、自由、競争、平等、公平ということを追求してきたわけですが、その結果は、必ず競争に破れるたくさんの敗者を生みますし、いろいろな問題を生むわけで、その中で「人として生きる座標軸」が必要です。このように生きる座標軸としての教養という問題は新しいところへきたと思います。
  最後に、教養の教育、教養の涵養の基本をもう一度考え直してみると、二つだと思うんです。一つは、自己相対化という考え方をあらゆる教育段階でもう一度見直させるということ。それから、教養というのは、実際こうやって考えてみると、自分の外の世界で見たこと、聞いたこと、感じたこと、直面した問題を心の中に取り入れて、それを自分の心で考え直し、頭で考え直して、再表現して外へ出すという動作を正確に行うことができる。英語で言うと「リプレゼンテーション」。「表象」という言葉があてられます。私は以上のように考えております。
○  これをどういうふうにまとめていけるのか私もわかっておりませんけれども、教養あるいは教養教育というのは、何のために議論しているのか、何のためにそういうものはなければならないかということを書かなければ、世の中はたぶん納得しないのではないかと思うんです。教養教育というのは何かのための道具であると考えていいのかどうかという大きな問題があるだろうと思うんです。例えば、国際社会でいろいろ活躍していくために、教養がないとだめだとかいうのは、経済人の方々がいろいろおっしゃる。あるいは、適切な判断をして何かするために、教養が必要であるというようなことがいろいろあるわけですけれども、それが経済活動あるいは拝金主義といったものにつながっていくような教養教育であるというような印象を与えるようなものであっていいのかどうかということが、私としては少し心配な感じがいたします。
  結局、そうなると、先ほどからおっしゃっております人として生きる座標軸が徐々に変わっていくわけですが、次の時代、21世紀の前半の社会における一般的な価値観がどういうものであるか、あるいはどういうものであるべきかということを相当よく考える必要があるのではないか。それが教養あるいは教養教育と密接に関係があって、次の時代の一般的な価値観の設定、あるいは何に価値を置くべきか。これは日本だけではなくて、地球全体、人類全体にとってどういうものであるかという、広い視野におけるそういうものを考えて、それをよりよきものにするために我々はどういう人格形成をやっていかなければならないのかという論旨が必要ではないかという気がいたします。
  それから、過去の教養というのは、ある意味では上品なそういうこともあったでしょうけれども、これからはひ弱な教養ではなくて、世の中、地球世界すべてにおいてものすごく厳しい時代でありますから、そういうことに打ちかっていける、耐えていけるような、力強い意味における教養を相当考えていかなければならないのではないか。そういう意味で、新しい社会をもう少し見通したような議論が必要ではないかという気がいたします。
○  私は、意見発表の中で、月尾嘉男さんのおっしゃった、中身よりも発表のされ方に感動したということを申し上げたんですけれども、中身にも同意するところがたくさんあるんですが。つまり、月尾さんの発表は、最初に、教養はなぜ必要かということをおっしゃっているんです。「why」をおっしゃっているんです。次に、教養は何かということをおっしゃっているんです。最後に「how」をおっしゃっているんです。日本語をきちんとと。私は「how」のところが一番聞きたかったので聞きましたら、ちょっとそこはまだ……とおっしゃって、言葉のことをおっしゃって、そこは同意するんですが。
  つまり、何か新しい言葉が出てくると、「生涯教育」という言葉が30年前に日本に登場したときに、ほとんどの人は「生涯教育はなぜ必要か」というwhyばかりやってきたんです。というのは、「what」がわからなかったんです。「why」で「what」を言ったことにごまかしていたんですが、最近、ようやく「how」にきて、フェスティバルとかいろいろおやりになるわけです。教養の場合には昔から教養があるのに、今現在混乱しているのはなぜだろうかということを考えていたんです。私は、教養とは何かということを中央教育審議会で考えると言われたときに、すぐ頭に浮かんだのは、何かというところだけの連想ゲームで、カントの『啓蒙とは何か』というのがどういうわけか頭に浮かんだものですから、昔読んだ本をまた探したんですが、見つからなくて、また買い直して読み直してみたんです。そうすると何となく自分で暗いトンネルを脱する力とか、そんなようなよくわからないようなわかったようなことが書いてあったんですけれども。必要性も書いてあったんですが。
  そういう意味で、月尾さんの意見発表のスタイルで、「why」、「what」、「how」をやらないと、国民の皆さんは「なぜ今ごろ?」となるのではないかと思うんです。そういう整理の仕方も一つあるのではなかろうかという気がいたします。それが一つ。
  それから、先ほどの社会奉仕のことをもしお伺いできたらお伺いしたいと思います。
○事務局    大変失礼いたしました。いつの時点からあったかということは、資料を今調べておりますので、後ほどにさせていただきたいと思いますけれども、「道徳」におきましては、小学校、中学校段階でそれぞれ「奉仕」という言葉がございまして、小学校では「働くことの意義を理解し、社会に奉仕する喜びを知って公共のために役立つことをする」、中学校では「勤労の尊さや意義を理解し、奉仕の精神をもって、公共の福祉と社会の発展に努める」とされています。今回の改訂で入れたところではございませんので、以前からあったと思っています。
  高等学校につきましては、総則のほか「特別活動」のところで小学校・中学校・高校共通して、「ボランティア活動など社会奉仕の精神を養う体験が得られるような活動を行う」と記述しております。今回の学習指導要領の改訂では、特に体験活動とか、ボランティア活動、就業体験などを重視しておりますので、そういう意味で社会奉仕の精神の涵養をさらに重視をしていると考えております。
○  実は、教養教育が今、非常に大切だと強調する理由として、世の中がおかしくなってきたという、とりわけ若い者がおかしくなってきたという視点がおありと思いますけれども、それは私どもが年寄りの集団だからでしょう。私は必ずしもそう思わないんです。確かに挨拶の仕方もできない。私も定年になりましたけれども、最後のころの教師のときに、私の前にぼやんと立って、何を言おうとしているのかわからない学生とか、そういう学生が増えてきたことは確かです。
  一方、神戸で大変な震災が起こったときに、続々とボランティアが出てきた。あれはたぶん若い人が多かったろう……。どんなボランティアかは見ておりませんから、あまり勝手なことは言えませんが、これは奉仕というのを学校で習ったから出てきたのか、いや、やはりデモクラシーというのがある程度身に付いてきたのか。人道とか、人権が身に付いてきたのか、どっちだかわかりませんけれども。それからまた、ああいう震災が起こったときに、どのくらいどろぼうが出たかどうか、これまた知りませんけれども、少なくともロサンゼルスの地震のようにスーパーが襲撃されるというような事件はあまり起こっていないわけです。そういうことを考えますと、私は今の若者もそんなに捨てたものではないので。そうすると、どこをどうしてあげればもっと立派になるかということを考えるので。それで先ほど国語ということを言いましたが。
  もう一つ、教員の資質というのは非常に大事だと思うんです。これは文部省の審議会ですから、立派な人が先生になるように、社会の中から人材を集めることを何か考えないといけない。現在だって立派な先生はたくさんいるわけですけれども、もっともっと立派な人が教員になりたくなるようなことを少し考えなければいけないのではないかと思うんです。
  最後に一つ、もしも世の中が多少おかしくなったとするならば、それをどう思うかについて一言申しますと、日本という国の価値観の中に、文化価値と経済価値というのがあると思う。一般的に社会の中で経済価値は生きるために必要で、私どもは日ごろお金がなければ物が買えない、食べられないとか、着られないということですね。それ以外の文化価値というものがあると思います。この50年間に、日本は経済価値を重視し過ぎたのではないかと思われます。特にこれは若者においてよりは大人において、もう教育が終わってしまった人たちが、経済価値優先できてしまったということの反省が、教養というのを新たに見直すときに、私は必要ではないかと思うんですが、皆様はいかがお考えでしょうか。
○  今の意見に反論ではないんですが、ちょっとお伺いしたいんですが、震災のときに若者がボランティアに行くのは当然のことで、困ったときに人を助けるというのは当たり前のことなんで、大事なことは、ボランティアの日常化ではないかと思うんです。日常生活の中でどのくらい思いやりとか、奉仕的な行為をしているか。震災のときにおれはボランティアに行ったんだから、電車の中で年寄りに席を譲らなくてもいいというのでは困るんで。そういう意味では、私は他の委員の方がおっしゃるように、今の若者はと言いたくなるんですが、これは歴史はみんなそう言っているんで、大きな流れから見れば大したことではないのかもしれませんけれども、日常生活におけるボランティアということで、道路の空き缶をみんな拾っているとか、たばこの吸い殻を拾っているとか、むしろ捨てているほうが多いんで、それはまちの清掃に奉仕していると思うんです。そういうことで、意見があったものですから、発言させていただきました。
  それから、教師に立派な人をとおっしゃいましたけれども、それも昔、私は考えたことがあるんです。アメリカの心理学者マズローが、自己実現のできたような立派な人は、ほぼ人口の1%しかいないと言うんです。日本には約1億2,000万の人口ですから、120万人立派な人がいることになるんです。ですから、阪神大震災でみんな集まったら大変なことになるんですけれども、それはさておき、日本の教師というのは、保育所から大学を含めれば100万人以上いるわけです。ですから、そういう立派な人を全部教員にすれば、30年後には日本国民は全部立派になるという仮説を立ててみたんです。そうすると、文部省や官庁や企業は全部つぶれてしまう。だから、文部省にも立派な人は1%、学校の先生も1%、タクシーの運転手さんにも1%。それは悪循環なので。そうすると、どうすればいいかというのが、まさに生涯教育の課題ではないかと思います。ちょっと余計なことを言いました。
○  私は今の委員の方とやはり意見が違うと思う。あれだけの震災にボランティアが出たのは日本の歴史では初めてだったわけです。関東大震災に何も出なかったわけです。あべこべのことは出ましたけれども。ですから、世の中は、急速には進歩していないけれども、ゆっくりとは進歩していると、私はオプティミストですからそう思います。
○  それはおっしゃるとおりです。
○  今回の諮問は非常に奥深いし幅が広いので、答申にまとまった場合に大部のものになる可能性もあるし、それもできると思うんですが、たぶん多くの人は読んでくれないだろうと思うので、できるだけ短いほうがいい。例えば10ページぐらいにしてしまう。一番最初に、「なぜ今教養が問題なのか」、1ページ。「教養とは何か」というのが2ページ。「今の教養とは」、2ページ。「教養をはぐくむには」を4ページぐらいにして、あと「まとめ」を1ページ。そのぐらいにコンパクトにして、そのかわり後ろのほうの参考資料をうんとつける。つまり奥は深い、幅は広い。だけれども、品位のある答申なんだということを希望……。そういうふうになるかどうか、できればそういうインパクトのある短いものにおまとめ賜ればうれしいなと思っています。これは個人の希望でございますので、よろしくお願いいたします。
○  よろしければ、私一人だけ残りましたので、一言コメントさせていただきたいと思うんです。
  一言で言えば、物質的には我々の社会は非常に豊かにはなりましたけれども、心の面で、先ほど来のお話のとおり、なかなか豊かになっていない。この貧しさをいかにして克服するのかということではないかと思うんです。
  これをやや仰山な言い方をしますと、文明史的に回顧してみますと、20世紀の前半というのは御案内とおり戦争の時代でございまして、社会革命の失敗もございまして、1億人近い方がそれで亡くなっていったという、人間性が問題にされた悲しい前半だったと思うんです。そして戦後になりまして、みんな一所懸命に復興に努力いたしまして、日本の場合は所得倍増も行い、かなりのところまできて、アメリカに次ぐGDPの国になった。ところが、そこでバブルが崩壊。
  そこで翻って考えてみますと、一番の問題は、人間性というものが疎外されていく。これは人類が何回も何回も繰り返してきた文明史的な問題でございまして、人間性崩壊病と申しますか、人間性疎外病に日本もかかってしまった。
  ここまで参りまして、21世紀を展望いたしますと、先ほど来諸先生も御指摘されておりますが、IT革命、あるいは遺伝子革命、それから最近のグローバル・マーケッティズム、これらのものの根底に、光の部分はもちろんあるけれども、我々が恐れなければならない影の部分がある。これは何かといえば、バーチャルリアリティーといいますか、そういったものがもたらすであろう人間性の疎外の問題でございます。したがって、今まで我々が悩んできた問題が、ここでせきとめていかないと、さらに増幅していくのではないか。ですから、21世紀というのはバラ色であると同時に、かなり難しい時代に入ってくる。そういったときに、我々がそれに対してどういう答申を出すかということでございまして、この答申は大人社会に対する警告というような意味合いをも持つべきではないか。それは政治及び経済、そういった日本の在り方に対する警告的な意味合いを持ったようなものであるべきだと、私は個人的に思っております。
  そこで、それでは学校の問題だけ、教育の問題だけかというと、必ずしも学校だけの問題ではない。学校で解決する問題ではない。これは我々大人社会、家庭の問題であり、そして町や村の地域社会の問題でもありまして、そういった全体的な中で、果たしてそれでは学校はどういうことをすべきなのか。保育園から大学まで全部、学校という一つの概念の中に入ってくると思うんでございますが、そこで結局、教養ということが問題にされるのではないかと私は個人的に思っております。
  しかも、これは知・情・意とか、あるいは知育・体育・徳育といったようなお話もございましたが、知というものだけに限らず、ここにございましたように、天然の摂理を学ぶとか、あるいは先ほど来他の委員の方からもお話のあった、古典の膨大な人類の遺産に学ぶとか、あるいは先ほど質問がございました勤労の価値とか、あるいは既にこの中に含まれておりますが、芸術による人間の生活におけるハーモナイゼーションの在り方とか、あるいはスポーツといったように、広範にわたった教養教育でなければならんと思っております。
  その結論は、要するにホワイトヘッドさんがうまいことを言っているわけで、何もあまりにもたくさんのことを教えるべきではない、しかし教えなければならないことは徹底的にやれと。これは全くそうであります。今までに出してきた答申などの中には、極めてビューティフルな提言がちりばめられているわけですが、それを1回、他の委員の方も言われたようによく整理してみて、私がさっき申し上げたような視点も踏んまえて、どう整理すべきかということをお考えいただきたい。
  一つ御参考までに、9月に私がヨーロッパへ参りましたときに、ケンブリッジ大学に行き、また「デアリング・レポート」を書かれたロード・デアリングさんともお会いいたしましていろいろな話をしましたが、今、イギリスもこの問題について大変に頭を悩ましておりまして、結局彼らは小さいときから大学の卒業までに至る学習社会、あるいは生涯にわたっての日本で言っている生涯教育というよりは、もうちょっとコンプリヘンシブな感じでございますが、イギリスがこれからサバイブしていくためには、国民の一人一人が小さいときから生涯にかけて学習をしていかなければならないと。その学習社会を束ねる、先ほどお話がございました価値の問題、彼らはシチズンシップというところにその価値を置きまして、シチズンシップの内容というものは、市民社会の一員として個々人の責任感、また個々人の自信を養うために、精神的(スピリチュアル)、道徳的(モアラル)、社会的(ソシアル)、文化的(カルチュラル)な発達を促すのがシチズンシップだと規定しております。これを2002年の8月からナショナルカリキュラムに組み込むというようなことを言っております。この考え方は、私どもがここでずうっとお話をしている考え方とかなり類似なものではないかということでございます。
  私は個人的には、価値というものは家庭と共同体というものの価値の上に、自由と道徳的規律、それをハーモナイズする調和の三位一体化されたものが、21世紀に向かっての一つの価値観としてあらわれてくるのではないか。これは何千年来、人類が追求してきた問題とほとんど違うところはございません。
○根本会長    それでは、きょうは活発な御意見を承りましてありがとうございます。
  次回、できましたらもう一度御参集賜りたいと思います。どうぞよろしくお願いします。


(大臣官房政策課)

ページの先頭へ