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中央教育審議会

2000/09/27 議事録
中央教育審議会  総会(第236回)  議事録

14:00〜16:30
霞が関東京會舘35階
ゴールドスタールーム

1.開    会

2.議    題
「新しい時代における教養教育の在り方について」
有識者からの意見発表及び討議

3.閉    会

出席者
委   員
根本会長、坂元委員、田村委員、土田委員、永井委員、長尾委員、
松井委員、森 委員、横山委員

事務局
鈴木総括政務次官、松村政務次官、小野事務次官、崎谷生涯学習局長、
御手洗初等中等教育局長、矢野教育助成局長、清水審議官(高等教育局担当)、
本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官

意見発表者
舘       昭  氏(大学評価・学位授与機構教授)
月尾  嘉男  氏(東京大学教授)

説明員
銭谷眞美内閣官房教育改革国民会議担当室長

○根本会長    お忙しいところを御参集賜りましてありがとうございます。前回に引き続きまして、本日は舘さん、それから月尾さんのお話を伺いたいと思っております。
  最初に、舘さんからお話を伺うわけですが、御経歴等につきましては、お手元の資料の中にございますので、御参照ください。そして、今日は討議が終了いたしましてから、教育改革国民会議の中間報告が22日に出ましたので、内閣官房教育改革国民会議担当室長の銭谷さんにその説明をお願いしたいと思っております。
  それでは、事務局のほうから配付資料の確認をお願いいたします。

<事務局から説明>

○根本会長    ありがとうございます。
  それでは、舘さんからお話をいただきたいと思いますので、よろしくお願いします。
○舘意見発表者    舘でございます。座ったままで報告させていただきます。
  教養について、アメリカの研究をしている立場から少し話をしろというふうに受けとめましたので、「リベラルアーツからの示唆」ということで話をさせていただきます。参考文献として、玉川大学出版部から出版しています「大学改革 日本とアメリカ」と「アメリカの大学・カレッジ」の2冊からの引用を用意させていただきました。
  まず話の流れとしては、教養という概念とリベラルアーツの関係。リベラルアーツとアメリカで言われているものが何なのか。振り返って、日本の教養教育への示唆的なものは何かという筋でお話しさせていただきたいと思います。   まず、「リベラルアーツ(liberal arts)」でございますけれども、よく「教養」と訳されるわけであり、「大学改革 日本とアメリカ」の28ページにも書いてありますが、「リベラルアーツ」と「教養」というのは同義語のように話されるわけであります。しかしながら、辞書などを引いてみますと、英語の訳は「culture」、ドイツ語では「Bildung」でありまして、「リベラルアーツ」という言葉がいきなり出てくるわけではありません。そういう意味では、cultivate、文化からきている言葉でありまして、教養というのは文化を身に付けるというような概念だと思います。日本語の語感がそうであると思います。そういうことになりますと、教養というのは必ずしも大学で教えるものなのかとか、文化というようなものですと、それを身に付けるのは一生の仕事だとか、そういうことにもなってくるわけです。そういう意味では、必ずしも教えられないとか、カリキュラムにならないものだという議論も当然出てくるのが、教養という概念だと思います。
  しかし、リベラルアーツという概念は必ずしもそうではない。ある意味ではカリキュラムになるものだということであります。リベラルアーツというのは、自由人のための学芸、技芸です。それもアーツで複数形ですので、複数の技芸であるとイメージできる概念でありまして、本来、リベラルというのはローマ時代から出ていまして、生産的な職業ではなくて、自由人の芸ということから出てきた概念であります。直接には職業的ではないものという意味であります。そういう諸芸というのはカリキュラム化できるものというようにこの概念はイメージされるものであります。
  そもそもリベラルアーツとは何なのかということでありますけれども、くわしくは「大学改革 日本とアメリカ」の34ページを後で見ていただければと思いますが、もともと「TRIVIUM(3学)」「QUADRIVIUM(4科)」と言われまして、中世では「文法、修辞、論理」「算数、幾何、天文、音楽」の知的技術を身に付けることを「リベアルアーツ」と称したわけであります。内容的には、3学のほうは「文法、修辞、論理」でわかりますように、意識的に言語を駆使する能力を身に付けることであります。4科のほうは数理的な技芸、「天文、音楽」が入っておりますが、これは芸術としてやるというよりは、音楽自体が数学的なものだと考えられていたということであります。西洋音楽は御存じのように音符になりますので、そういう意味で数理的なものだと考えていたようでありまして、それを身に付ける。
  中世の大学では、医師と法曹と神職者の専門家を養成するために、その前提としてのリベラルアーツを身に付けていないといけないというところから発生したわけでありますが、内容面では、それに言語能力の養成を中心に人文的な知識を身に付け、それから聖書の知識を身に付けるという形で起こってきたものであります。
  それがアメリカに入りまして、近代的な大学、高等教育の中で変化し、それが今のアメリカにおけるリベラルアーツを形づくっているわけであります。もちろん言語と数理は欠かせないものとされまして、それに加えまして、近代では科学的な知識と芸術的な表現――単に数理的に音楽、芸術をとらえるのではなくて、芸術的な表現もこのジャンルの中に入ってくる。科学については、それを新しい認識法としての方法面と、内容としては自然科学の勃興に合わせまして自然科学的な内容、そして社会も科学的にとらえた社会の知識ということで、それが加わる。日本で一般教養教育を今は必ずしもそういうジャンルで区切らなくなりましたけれども、人文、社会、自然と区分したのは、こういう流れから来たもので、もともと知識の内容としては人文だったものが、自然と社会に対しての知識も近代では入っていったわけであります。
  さらに現代では、これにコンピュータ・リテラシーのようなものが加わるというふうになっていると思います。これがアメリカで言われるリベラルアーツ――教養一般、文化一般というよりは、リベラルアーツの中身だと思います。
  ではアメリカで文化的な意味の教養とは何かといいますと、こういうものを通じて文化的なものを身に付けるという意識もありますし、加えてアメリカの場合、今でもエリート教育は寄宿舎制をもとにしますので、寄宿舎制での人間関係あるいは教員と学生との人間関係ということで、こういうものも大学ではぐくむとなっておりますけれども、それは必ずしもカリキュラム化できる内容とはなっていないと思うわけであります。
  そこで、「大学改革 日本とアメリカ」の35ページに書いてありますが、アメリカの学士課程レベルの学問で、何がリベラルアーツと言われ、何が職業的なものかということの区分でありまして、リベラルアーツは、人文、社会、自然に渡るものがあります。文学的なもの、社会科学系のもの、芸術的なものということであります。先ほど、申し上げましたように、リベラルアーツ、自由学芸の専攻というのは、端的な例でいうと、物理学というのはリベラルアーツだというわけです。直接職業に役に立つわけではないという意味で、リベラルアーツだというわけであります。そういう意味では、近代的なリベラルアーツの代表でありまして、古典的なものを背負っているリベラルアーツの代表が語学系、あるいは数学ということになるわけであります。
  次に、リベラルアーツの中身でありますけれども、今申し上げたように、方法としては言語、数理、そして科学的な認識法でありますが、内容的には人文、社会、自然であります。それがどのようにあらわれるかということでありますが、「大学改革 日本とアメリカ」の38ページ、39ページにありますのが、アマースト・カレッジのメージャーであります。アマースト・カレッジというのはアメリカで最も有名なリベラルアーツ・カレッジです。大学院の課程を持っていないと言っていいと思いますが、リサーチ・ユニバーシティーの形をとらずに、質の高いリベラルアーツ教育を行う代表の大学であります。
  リベラルアーツ・カレッジではそんなに多様な専門は持っていないわけでありますが、地域研究的なものから、文学、自然科学的なもの、芸術的なものと並んでございますが、一応右側につけましたように、先ほどの分類でいって、基本的に自由学芸に属するものがほとんどで構成されていることがわかります。
  次に、「大学改革 日本とアメリカ」40ページのほうはハーバード大学です。アメリカと言うと必ずハーバード大学を挙げるのはどうかということはありますけれども、わかりやすいという意味ではわかりやすいので、ハーバード大学を挙げます。ハーバード大学の場合はリサーチ・ユニバーシティーですので、大量の専門を用意することができます。ハーバード大学のような総合大学は、中にリベラルアーツ・カレッジを持っています。先ほどのアマースト・カレッジはリベラルアーツ・カレッジが基本的に単独である形でありますが、アメリカのほとんどの総合大学は優秀なリベラルアーツ・カレッジを内部に持っているわけであります。
  これが間違いやすいところですが、リベラルアーツ・カレッジという場合、単独に存在するものと、リサーチ・ユニバーシティーの中にしっかり置かれているものと両方あるわけです。ハーバード・ラドクリフ・カレッジというのは後者の例でありまして、リサーチ・ユニバーシティーを背景に持っておりますので、大量の専門を用意することができます。しかし、そこで「リベラルアーツ専門」と「職業専門」とで区別しますと、ハーバード・ラドクリフ・カレッジで用意している専門は、リベラルアーツ系のものがほとんどだということになります。
  ただ、ここから言えることは、リベラルアーツ専攻というのは、自由学芸のいずれかを専攻すること。例えば物理学専攻の方が、リベラルアーツ専攻という言い方をするわけであります。なぜこういうことを申し上げるかといいますと、教養という概念について、「リベラルアーツ」をただ「教養」と訳して、アメリカに教養大学がある、教養学部があると言ってしまって、日本語の教養という語感で、文化的なもの、総合的なものという意識で見てしまいますと、リベラルアーツ・カレッジにちゃんと専門があるというところが見えなくなってしまうものですから、あえて教養とリベラルアーツを切り離して説明しているわけです。
  リベラルアーツ・カレッジでも、初期の1、2年のうちは、どれを専攻するか決まっていない学生に対して広い教育をしますが、徐々にどれかの専攻を選ばせるという形をとるわけであります。その場合、ごくまれに、「リベラルアーツ専門」の中に、「マルチ・学際研究」というのがあります。こういう形で、最後に一本に完全には絞らないで勉強するものもありますけれども、4年制大学を卒業する場合に、マルチ型で卒業する方が非常に少ないことは事実です。数字は別に持っておりますけれども、今は申し上げませんが、非常に少ない割合であります。多くに例えば、生物学を専攻するとか、そういう形で出ます。生物学を専攻して出た人がどうするかといいますと、かなりの部分が医学部を受けます。アメリカの医学部というのは、御存じのように大学院レベルに設定されておりまして、生物の知識は既に持っている人が、そこでプロフェッション教育を受ける。プロフェッション教育を受ける前提として、このリベラルアーツ・カレッジが使われるという形になるわけであります。そういう意味で、多少の専門性をそこで持って、次に進むという形でリベラルアーツ・カレッジが使われるわけであります。
  今、リベラルアーツ・カレッジの中で多少専門を持つということを申し上げたんですが、一方で先ほど申し上げましたように、1、2年次は広い教育を受けるわけでありまして、そこの部分がどうなるかということであります。「アメリカの大学・カレッジ」の107ページにある「一般教育の科目必修要件」について、調査のデータで見てみますと、英作文、体育、数学、芸術、哲学云々と、こういうものが専門でなくて、一般教養的なリベラルアーツとしては課されているということです。それから、西洋文明とか、こういうものになってくると内容的になってきまして、また、だいぶ古いデータですが、「コンピューター・リテラシー」が1970年から1985年には1%から21%まで上がっているとありますが、これは今やたぶん100%近くなっていると思います。
  一方で、リベラルアーツというのは、個々の物理学とかそういう専門だと申し上げたんですけれども、その専門はどのように教えられるかというと、これは専門家を養成するために教えているのではないというのもまた事実です。そういう意味では、「アメリカの大学・カレッジ」の112ページ以降にもありますが、科目というよりはそこで何を学ぶのかということで、言語、芸術、伝統、制度、自然、仕事、自己認識を教科を通じて修得する。リベラルアーツの内容としては、この本では、非常に普遍的な整理でございますが、1.言語は不可欠な絆、2.芸術は美的経験、3.伝統は現在に生きている過去、4.制度は社会的な網、5.自然は地球の生態学、6.仕事は職業の価値、7.自己認識は意味の探究として設定されています。
  言語能力というのが重視されているのは、使える言語能力ということで設定されています。それから、あらゆる勉強をする基礎だということで、言語が重視されている。
  芸術は、美的経験、表現として身に付けるべきものとして言われています。
  伝統が「現在に生きている過去」という設定になってございますが、ここでは実際の科目としては歴史学とか、哲学とか、そういうものが当てはまるのでしょうけれども、そこで学ぶべきものは、専門家になるためというよりは、こういう伝統を身に付けるという意味で使われる。
  それから、制度が「社会的な網」ということは、社会科学の知識ということで、人間はちゃんとした制度、仕組みの中で生きていかなければいけない。トラブルを解消するには裁判とかそういうものがあるということでありまして、そういうものを身に付けるという意味で、社会科学を教えるというよりは、社会科学を使ってこういう内容を教えるということでございます。
  そして、自然についても、自然科学を使って、自分は地球の一部であるということを身に付けるということを言っているようであります。
  また、現代の人間が身に付ける重要なものとして、仕事に対する態度、価値観を身に付けるということがあります。
  最後に、自己認識(アイデンティティー)ということで、自分の内面を形成する。これには心理学とか、宗教という科目が使われるんでしょうけれども、内容としては心理学の専門家になるというよりは、自己認識を高めるためにこの科目を使うということを意味しているということでございます。
  以上がアメリカの、カリキュラムにできるリベラルアーツの内容、カリキュラムにできる教養の内容ということでございます。「カリキュラムにできる教養」というのを「教養」と呼ばせていただきますと、大学でカリキュラム化する場合の教養に対してどのような示唆があるかということで、締めくくらせていただきます。
  既に申し上げてしまったことになりますけれども、教養という概念で大学のカリキュラムのことを議論するのはなかなか難しいのであります。先ほど申し上げましたように、教養というのは文化一般ですと、これは大学で身に付けるものなのか、一生かかって身に付けるものなのかということになります。よく戦前の旧制高等学校について、あれは教養教育の場だったという議論がされるわけですけれども、カリキュラム上は法規上も高等普通教育の場、普通教育を施す。したがって、普通教育ですから、専門化しない理科、文科の諸科目を教えるところだったわけで、むしろ教養性というのは、旧制高校は寄宿舎制、寮制でありまして、カリキュラム外で培ったものをどうも指しているようでございます。そういう意味でも、大学のカリキュラムの議論をする場合は、教養一般というよりは、アメリカで言っているリベラルアーツの議論をしたほうがいいのではないかということであります。文化一般の意味ではなくて、リベラルアーツの議論をすべきだろう。
  それから、私の印象では、アメリカのリベラルアーツの在り方、特に学士課程段階のリベラルアーツを見ますと、これは内容面というよりは、方法を身に付ける、見方を身に付ける、態度を身に付けるところに重点がある。研究者になるわけでもなく、専門家になるために直接やっているわけではありませんので、内容的な研究的な意味での高さというよりは、態度まで含めた方法を身に付けるところに重点があるべきだろう。
  一つアメリカの説明のところで飛ばしてしまったんですが、アメリカでこういうリベラルアーツ教育がどこで担われているかということであります。「大学改革 日本とアメリカ」の21ページにあります図1の私立研究大学型と書いている大学のモデルは、これは実はハーバード大学であります。ハーバード大学では、「文理学部」と訳している「ファカルティ・オブ・アーツ・アンド・サイエンス」という学部、専門としては職業分野ではないものの集合でありますけれども、それがあります。ハーバード大学のようなところは、職業分野の専門というのは大学院レベルでしか持っていないものですから、上に上がっているという格好になります。そういうリベラルアーツ教育というのは、「ファカルティ・オブ・アーツ・アンド・サイエンス」が管理しているところの「ハーバード・ラドクリフ・カレッジ」、ここでは「文理カレッジ」と訳しておりますが、ここで担当しているということであります。必ずしも1、2年生用の日本でいうような教養部ではなくて、総合大学の場合はグラデュエートスクール・オブ・アーツ・アンド・サイエンスまで同じファカルティが管理しますところの文理学部(ファカルティ・オブ・アーツ・アンド・サイエンス)がカレッジも管理して運営するということであります。その結果として、ハーバードは先ほどのような非常に広い専門を提供もできるという形になるわけです。アマースト・カレッジのような場合は、この文理カレッジが単独に存在するという形をとるわけであります。
  そういうことを前提に、「『教養』教育への示唆」において、「担当は特化した『教養部』ではなく、自由技芸を担う学部自体が中心に」としましたが、これは最近、日本もかなり解消しましたけれども教養部のようなものではなくて、自由学芸全体を担う学部が中心となることが示唆されるということであります。
  それから、自由学芸専攻の展開は、今、教養教育の重要性が見直されてきておりまして、それがしっかりアメリカのリベラルアーツのようにできたといたしますと、そうした基礎教育を受けた学生を受け入れられるようになるため、専門大学院のような形で構想されております専門職の大学院が、基礎教育の負担から解放されて、職業教育に打ち込んだ形で展開できるのではないかということが示唆されると思います。
  これはちょっと余計なことでありますが、研究にもよい効果があるかと思います。
  それから、最後にちょっと余計なことを盛ってしまったんですけれども、アメリカでも職業の分野のほうは直接の有効性がはっきりしているものですから、職業教育のほうが一般的には目立ってしまうとうことがあります。しかし、リベラルアーツ教育が非常に重要だということも一方でありまして、リベラルアーツを何かの形で奨励する策がいろいろ講じられている。そういうことを参考にしますと、日本でもリベラルアーツに関しては何らかの奨励策、あるいはコンテストという余計なことを考えましたが、教材のコンテストのようなものを実施して、そういうものをサポートすることもあるのではないかということを書きました。
  以上、御報告いたします。
○根本会長    ありがとうございました。
  ただ今の御説明で、教養の概念、リベラルアーツの概念について、かなりはっきりした御意見を承ったわけでございますが、どなたからでも質問など。
○  どうもありがとうございました。アメリカのリベラルアーツの概念の御説明を、教養というものの構造の中に位置づけて明快にお示しいただきまして、いい勉強になりました。
  三つほど御質問を申し上げたいんでございますが、カリキュラムになるリベラルアーツというものの中で、現代のほうでは「近代リベラルアーツ」+「コンピュータ・リテラシー」とおっしゃったんですが、21世紀を目指したリベラルアーツに、「コンピュータ」+αの何かが加わるとすればどんなものかというのが、第1番目にお教えいただきたいことでございます。
  第2番目は、カリキュラム化していく場合に、今、コンテントとおっしゃったんですけれども、全大学が一律に標準化したカリキュラムで教える。つまり、国民的素養ということであれば、それぞれの中身、生活の中での生きる技能とか、知恵とか、ディシプリンに関する内容としてリベラルアーツに位置づけられているものの、それぞれのカリキュラムを標準化して、共通なものにして教えるほうがいいのか。それは各大学なり必要とする集団がそれぞれ固有の考え方に従って、バラバラなカリキュラムといいますか、独自のカリキュラムで教えていいのか、その辺が2番目の質問です。
  第3番目は、教養の中で、リベラルアーツのようにカリキュラムによらないで身に付けなければいけない部分があって、それと寄宿舎制であるとか、もう一つ人間関係というところで培われるものがあるというお話をいただいたと思うんです。今の日本の大学では旧来の学力の見方で見ると、勉強するのに必ずしも適した能力を持っていると言えないような学生がたくさん入ってきて、そういう人たちには国民的素養としての教養のカリキュラム化がされない部分の、例えば人間関係を上手にするとか、寄宿舎で営まれた人生を生きる手立てをカリキュラム化して教えていく。それが現代というか、新しい教養教育という気がするんですけれども、アメリカでいうカリキュラム化されない部分をカリキュラム化していけるのか。いけるとすれば、どのような中身のものかということをお教え賜ればと思います。三つで欲張って申しわけございません。
○舘意見発表者    1番目の問題は必ずしもよく考えてきたわけではないのであれですが、逆に言うとちゃんと答えるほどの内容がないので最初に答えさせていただきますと、そこには「コンピュータ・リテラシー」とか、資料に引っ張られて書きましたけれども、広い意味のコンピュータから起こっている、よくいう情報革命といいますか、情報というようにくくられる、あるいは大きく影響しているマスコミとか、そういう広い意味の情報的なものに対してどういうものを身に付けるかということが大きいと思いますので、そのあたりかなとは思います。
  2番目の必要な内容を標準化するかということでありますけれども、「アメリカの大学・カレッジ」の著者のボイヤー先生自体は残念ながら亡くなっておりますけれども、研究の中心となったのはカーネギー財団です。カーネギー財団というのは、そもそも20世紀の初頭には高校の単位制を打ち出して、日本で今、高校の単位制とか言っていますが、たぶん起源はカーネギーです。そして、大学で「リサーチ・ユニバーシティ」という言葉もしきりに使いますけれども、この概念自体も1960年代にカーネギー財団が開発した大学分類で使っている言葉でございまして、内容的にはアメリカの高等教育関係の文部省みたいな役割を果たすところであります。アメリカは御存じのように、連邦教育省自体は教育権限を直接持っているわけではありませんので、こういう機関が大きな役割を歴史的に果たしてきました。そういう意味では、代表性のある書物であります。
  そこで、こういう形で、いわば学士課程、学部教育で身に付けるリベラルアーツ、それも普遍的な部分、専門化しない部分ということで、御紹介したような言語から自己認識までというのは、こういう形で整理すれば、なるほどこれは全部ちゃんと身に付けるべきものだと納得されてしまうと思うんです。ただ、これをどういう形で教えるかという意味の標準化というのはたぶん必要ない。ただ、内容としてどういうものが必要かという意味の――それは標準化とは言わないと思うんですが――議論はまとめていく必要がたぶんあると思います。それを標準カリキュラムというような形ではなく、こういう要素を含んだカリキュラムをつくればいいという意味だと思います。
  それから、カリキュラム外の教育の部分まで、ある意味ではカリキュラム化する必要が起こっているのではないかという御議論でありますが、一応整理のために申し上げましたけれども、例えば旧制高校でも、教育された語学を使っていろいろな本を読んでいたでしょうし、要するに無関係ではない。それから、寄宿舎制度自体も仕組んでいるといえば仕組んでいるわけです。そういう環境を仕組んでいるわけです。ただ、科目として教えていないということと、環境として仕組むということは別でありますが、環境としては仕組んでいるということであります。
  先ほど寄宿舎制とか、人間関係だけ申し上げましたけれども、学生の文化活動とか、エクストラ・カリキュラムと言われる部分も大学のほうで仕組むことが多いわけですから、科目として教えるということと、そういう仕組みをつくるということの組み合わせでいく。にもかかわらず、たぶん先ほどのボイヤーの本で言えば、「仕事」でしょうか、職業倫理の価値とか、こういうのは昔の考えからいうと、カリキュラム化しない部分だったと思います。特にリベラルアーツ・カレッジのようなところではカリキュラム化しなかった部分だと思います。アメリカはこの時点で、御質問ような意味の学生も受け入れちゃったような段階になっております。そういう意味で、部分的には含まれる部分もあって、カリキュラム化しても解決できる部分。それも結局、大学個々の抱えている状況で組み立てていくということだと思います。水準という意味で標準化されるものではないと思います。
○  今、委員の方のおっしゃった1番につきましては、私は生命とは何かということを根源的に、しかも最先端の生命科学を深く議論しながら、リベラルアーツの中で徹底的に教えるべきなのではないか。これはこれまでのアマースト・カレッジとか、そういうところに乗っているカリキュラムと比べると、欠けている部分ではないか。そして、21世紀にはぜひとも必要なものではないかと私は思っております。
  もう一つは、リベラルアーツ・カレッジと言った場合に、カレッジというのはカリキュラムだけではなくて、生活全体を指しているのではないか。つまり、共同体生活をやっている。そういう中での一部といっても、80%ぐらいかどうかわかりませんけれども、それがカリキュラムの形で表れているのであって、それ以外にカレッジの先生がきちんと指導をするとか、あるいはカレッジで御飯を先生方あるいは学生諸君が一緒に食べるとか、そういうトータルな人間としての教育をやるのがカレッジではないか。そういう観点で、単に授業カリキュラムだけを見て、リベラルアーツ・カレッジあるいはリベラルアーツを論じているのでは少し不十分なのではないかという感じがしておりますが、その辺は舘さんはどのようにお考えになっておられますでしょうか。
○舘意見発表者    最初の生命という問題は、そのとおりだと思います。
  それから、リベラルアーツという概念では、例えば寄宿舎でやること自体はリベラルアーツではないと思います。アーツというのは、何度も申し上げたように複数の技芸の1個1個でありまして、これをしっかり身に付けないことには、漠然と教養というのは育たないわけで、最低限の物理的な知識とかそういうものがなければ、自然をちゃんと見られないわけであります。普通は人が宙に浮いたりしないということは、重力の法則とかかわります。写真で浮いているからといって、浮いている証拠にはならないというのは、写真がどのように現像されるかとか、そういう科学的な知識を持たないでは教養の根本はないわけですので、物理学の知識とかそういうものが必要なわけです。それはちゃんと身に付けなければいけない。そういう意味で、アーツだと思います。
  ただ、私も申し上げたように、広い意味での教養には人間関係とか、そういうものが含まれているということでございます。アメリカでもリベラルエデュケーションというときはそこまで入っていると思います。若者といいますか、人間を文化的にするという意味でありますので、リベラルエデュケーションと言った場合は入っていますが、リベラルアーツという場合は、しっかりとした基礎を持ったものだと言えると思います。
  私は、寄宿舎ばかり言ってしまったのであれですが、アメリカの大学では半数以上の大学がコミューターという概念がありまして、アメリカの大学の基本は寄宿舎制ですが、寄宿舎制をやって成り立つ大学は必ずしも多くはありませんで、これは学生のほうにもお金がないとできないわけであります。日本は通信制に対してすべての大学で通学制といっていますけれども、アメリカで通学制、コミューターというと、これはカレッジ制について言うわけです。通学する学生たちにもリベラルアーツがありますし、学生の文化活動とか、そういうのを通じたリベラルエデュケーションもあるわけであります。
○  いつも舘さんにはいろいろ刺激的なことを教えていただいてありがとうございます。今日も大変すばらしいお話でした。
  具体的なお話になって恐縮なんですが、今、アメリカでかつてたどった道を日本がたどっている。それは大学へ通う学生の問題でございます。アメリカもかつてエリート教育だった大学がマス化し、ユニバーサルになってきた経緯があって、50年代ぐらいから約50年かけてそういう現象が起きてきた。その間に例の『アメリカン・マインドの終焉』という本も出て、大学教育の質の問題が議論された時期がございました。これから日本では大衆化が始まるわけですが、その際にアメリカの経験を参考するときに、御指摘のようにリベラルアーツ型の教育を大学の中に積極的に導入することが、大学教育の質を支える非常にいい方法だと認識をしておられるかどうかということです。従来のように日本型のやり方でやるのか。つまり、根本的には違うんですが、日本ではアメリカでいうところのリベラルアーツのかなりの部分を高等学校で、優秀なところはやっているわけです。今度はできなくなってくるという話になるんですけれども、その辺のところをどう整理したらいいかという感じがあって、教養教育との組み合わせで、大学の質の低下をどうやって防ぐかというか、大学の多様化を乗り切るかという話になるんだろうと思うんですが、その辺についてよろしければ御示唆をいただければと思います。
○舘意見発表者    難しい御質問で、うまく御質問の内容をとらえているか分かりませんが、アメリカのリベラルアーツの議論を日本に持ち込む場合に、これはエリートに限った教育の話と捉えられがちですが、私も寄宿舎の話を持ち出してしまったので悪かったのですが、これはアメリカ中の大衆化した学生に対してリベラルアーツといっているのであって、先ほど申し上げましたが、言語、芸術、伝統、制度、云々というのは、全学生に対しての話です。まさにこの本が出たのは、アメリカの学力低下、それから目先だけの職業志向が出てきた時期でした。
  言語を「不可欠な絆」といっているのは、基礎的な言語をちゃんと使えなければ、最初からどうしようもないという意味でありまして、今までの日本ですと、高校で大学受験までに身に付けたような内容も含めて、ここに盛り込んでいるわけです。そういうことでありまして、ある意味では高校までの内容をもう1回出しているようなところもあります。ただ、先生がおっしゃるように、日本の場合も必ずしも高校でそういうレベルになっていないということもありますので、言語とか、自然とか何とか言っていますが、今、日本で補習教育が必要だとか何とか言っているものを、もう少しきれいに整理しているというふうにも見えます。
  一方で、日本の高校教育でこういうものができていたのかといいますと、正直言って科目の内容は覚えていたかもしれませんけれども、ここで私が強調しているように、方法として本当に使えるようになっていたか。どうしても知識の高さだけ見てしまうんですけれども、素粒子論を知らなくても別に人が宙に浮くということにはだまされないようになるわけです。逆に生半可に素粒子論をやると、あいまいな世界があるみたいに思ってしまうんですけれども、飛行機が飛ぶような段階では、そんなあいまい性があったら飛行機が落っこちてしまいますから、そういうのはないわけです。そういう意味で、基礎的といわれている知識も身に付いたものだったのか、使えるものだったのかといいますと、怪しい。
  たぶんこれからの学士課程教育で重要なのは、研究者から見ての知識の新しさ、高さではなくて、人間がこの社会で生きていく上で使えるような形で、リベラルアーツといわれている知的な技芸を最低限身に付けていくことではないかと思っています。
○  簡単な質問で、技術的なことですが、「大学改革 日本とアメリカ」の2ページに大学の図が出ておりますが、先ほど図1はハーバード大学とおっしゃったんですが、参考までにあと3つの大学を教えていただければというのが1点です。
○舘意見発表者    すみません。作ってから間がたってしまったので、修士大学のほうは特定の大学名がすぐ浮かばないのですが、公立研究大学は医学部をつけているから、UCLAが該当すると思います。私立型と何が違うかというと、公立研究大学の場合は、職業学部のほうに学士課程の学生を抱える傾向があります。そこが私立のいわゆるアイビーリーグ系の研究大学と違った構造になります。それから、私立修士とか、公立修士というのは、数としては多くありまして、図4の公立修士型はカリフォルニアの例でいいますと、UCLAというのは「ユニバーシティ・オブ・カリフォルニア」という研究大学群を指しておりまして、「カリフォルニア・ステート・ユニバーシティ」とくくられる、20ほどある修士までの――カリフォルニアの場合は大学院まで持っているUCとステート・ユニバーシティという修士までとコミュニティ・カレッジと3層ございますが、その2層目に当たる大学がほとんど図4の形でございます。
  図3は、アメリカにある私立大学のほとんどの格好でございます。大学院まで充実して持っていないけれども、ちらちら持っている。一部には博士課程まで持つ。州立大学のような計画性がございませんので、こういう形でつくられると認識しております。
○  その質問と関連してお伺いしたいのは、教養というのは大学によって多様であっていいということですね。アメリカはそうだということですね。そうすると、21世紀の教養という話が先ほど出たんですが、歴史的にリベラルアーツが変わってきているように、教養も変わるんですが、大学が多様化すれば多様な教養があって当然のことですけど、それをアメリカでは証明していると、そのように理解してよろしいんでしょうか。
○舘意見発表者    そうですね。先ほど言われましたように、要素としては言語能力がなければいけないとか、いろいろな要素が入っておりますけれども、科目の水準、内容のとらえ方は非常に多様でございます。先ほどの必修も、当たり前の必修が100%になっていないことでもわかりますように、そういう状況にあると思います。
○  先ほど専門家を養成しない専門が教養だとおっしゃったんですが、この四つの図でいくとどれになるでしょうか。図3ですか。
○舘意見発表者    そういう意味では、図1で言いますと、「文理学部」と訳しているのが、教員集団の「ファカルティ・オブ・アーツ・アンド・サイエンス」を指しておりまして、専門家として勉強しないのが文理カレッジ、これがハーバード・ラドクリフ・カレッジに当たりまして、この中に先ほど本文の中で示したようなメージャーはあるけれども、それは別に専門家用というわけではない。例えば、このメージャーで生物を取った方は、たぶん多くは医学部を受験しているだろうと考えます。
  それから、ロースクールも大学院レベルでございます。ロースクールの場合、例えば工学部出身の人が受ければ、工学的な知識をもって法のトレーニングを受けた人が生まれるという形になります。
○  中央教育審議会は一貫して、たくさんのことを教えるというよりは、そういうことを軽くして、全体の文脈を読み取るということを主張してきたのではないかと思うんです。そういう意味では、今、世間から一方では批判があるわけです。ただ、舘さんは高等教育の御専門ではいらっしゃるんですけれども、子ども観というのもお書きになっていらっしゃるので、お伺いするんですけれども、そういうことでグラグラしている向きもあるかと思うんですが、教養、リベラルアーツをどう解釈するか。技芸は多様であるということもあるんですが、そういう観点で、初等中等教育あたりも基本的にそう考えていっていいのかどうか、その辺の関連の御感想をお聞きしたいと思います。
○舘意見発表者    今日御紹介しました「アメリカの大学・カレッジ」は実は姉妹本でございまして、その直前に「ハイスクール」というやはりカーネギー財団が出したものがあります。こっちのほうが実は教育界では有名でございます。例の「ネーション・アット・リスク」のころに、アメリカが学力低下、倫理観の低下で悩んでいるときに、教育改革に乗り出します。そのときにカーネギーとしてのアクションがハイスクールとカレッジだったわけであります。日本と条件が違うところもありますけれども、似たところもありまして、基本的にアメリカの場合は日本より先にといいますか、日本では大学紛争のときにカリキュラムが緩んだわけではないんですけれども、アメリカはあの時期に徹底的に緩んでしまって、選択だらけになります。ところが、それは時代の背景もあって、昔のようなゴチゴチのカリキュラムではできないということもあったわけです。それから、高校のほうもブロードなものになっている。最低限の、しかし教育内容としては、彼らは「アカデミック」という言葉を使いますけれども、基礎的な内容が重要であると。それは量というよりは、方法的にとらえた上で、アカデミックな内容が重要だということで、昔のようなゴチゴチという意味ではないんですが、基本の部分が必要だということで、高校改革と大学の整理ですね。ですから、科目名を挙げるというよりは、こういう内容があってほしいという形の標準化といいますか、統一化をしている。この科目を置かなくてはいけないということではなくて、こういう内容は人間として当然身に付けているべきだ、あるいは国民として身に付けているべきだという議論の表現だと思います。
  日本の場合も、選択制を広げるとかそういうのは意味があったと思いますけれども、一方で、その中で重要な筋は何なのかという議論が今起こっているのかなと、外からは見ております。
○  舘さんが最後におっしゃいましたことに関連しますが、多様なあるいは枠を広げた自由度の高い教育を目指しているわけですが、根底に戻ることも重要と存じます。今日は大学、特に大学院にも触れておられましたが、大学におけるリベラルアーツは何かという御議論と理解しております。アメリカのカリキュラム、あるいは高校のカリキュラムを詳しく勉強しておるわけではありませんが、その根底を流れるところへ視点を移してざっと見ましただけでも、国語教育が徹底しているんです。それはどこの国もそうなんですが、日本と比較してみますと、日本のほうが割当時間が少ないように見えます。日本語の教育といいますか、国語教育ですね。英語の国ですと、英語が国語ですが、そのような根底に帰った問題と、今のリベラルアーツとは深い関係があると思います。その辺は、先生のお話に出てこなかったように存じます。この点の御見解を少しお伺いしたいと存じます。
○舘意見発表者    先生が御教示のとおりだと思います。今日のところには触れませんでしたが、アメリカで選択とか自由度が広がった中で、何を共通に求めていこうかという動きの中で、「アメリカの大学・カレッジ」では言語が1番に挙がっている。この言語は英語です。ただ、アメリカの場合、スペイン語が相当使われているとか、いろいろな問題がありまして、その辺はいろいろ議論がありますけれども、英語自身はしっかりやっていこうということであります。それから、「アメリカの大学・カレッジ」の107ページにありますように、西洋文明という概念が、ここでは70年からわずか5ポイントしか上がっておりませんけれども、自分たちの歴史的に置かれている位置は何かということを認識しようと。これは一方で多元文化ということも抱えておりますので、単純ではないんですけれども、自分たちが置かれているものは何か。だから言語の問題と歴史観の問題は、リベラルアーツの中身としては重要な問題で、御指摘のとおりであります。
  日本の場合、それが国語であります。ただ、「自分たちの言語」=「国際語」の国民と我々とは少し違う面があると思います。しかし、我々の文化自体は言語でできているわけでありますので、それは御指摘のとおりで、アメリカの文脈でもそういうことが出てきていると思います。
○  私がリベラルアーツ・カレッジとかそういうことを言いましたのは、リベラルアーツという学問というか、教科というか、カリキュラムだけを取り上げてやると、それは知識を教えることだけに偏重してしまって、知識を山ほど持っているということと教養とは全く関係ない話であるはずなんです。その知識というものが身に付いて、つまり、「使われ方」というように舘さんは何度かおっしゃいましたけれども、まさにそのことでありまして、うまく使われるためには、それは訓練を伴わないといけないわけであります。それがカレッジの生活の中で身に付くという、両方がうまく調和した環境をつくらない限り、リベラルアーツのカリキュラムだけを見ているのでは全くおかしなことが起こってしまうのではないかと思うんです。国語教育は非常に大事だ、力を入れていると言われていますけれども、それはアメリカで国語教育をやっているときに、英語の文法をガチガチ教えているわけでも何でもないわけです。日本人の大学生のほうが英語文法をはるかによく知っているわけです。何をやっているかというと、自分たちの言葉を使って自分の言いたい内容をいかに発言していくか、どういうときにどういうふうに発言をし、文章をつくるかという、行動に結びつけていっているわけです。そういう訓練をする時間をたっぷり取って、知識ではなくて、知識を自分が活用できる訓練をする。そういう世界を展開しないと、教養的なところにいかないわけでありますから、両面を常に考えながら進む必要がある。
  教育改革国民会議で、何か仕事をさせるとか、いろいろあるようですけれども、そういうことを現在の大学の中でどのようにして実現していくことができるかというのが、私どもにとっては一番の課題でありますが、我々の置かれている環境の中でできるささいなことといいますのは、やはり少人数教育で先生と学生がお互いにコミュニケーションしながら、いろいろな科目を学んでいって、トレーニングを受ける。そういうことは工夫すれば何とかできるんですけれども、それ以上のことを現在の日本の国立大学でやるとすれば、どうしたらいいかというのは私もわかっていないところです。
○  今もいろいろと御意見が出ておりましたが、教養教育というのは幼児期から始めるべきだと考えているわけでありまして、今日の話は高等教育にかなり特化したお話になっているわけです。大学の目的は、第1は人格の完成、第2は専門教育、第3は研究、第4は社会に対する貢献、大まかに言いますとその四つぐらいがあると思うんです。
  その中で、今、他の委員の方もおっしゃっておりましたけれども、やはり一番基本になるのは人格の完成だと思うんです。専門教育、研究の分野について考えますと、私ども見ておりまして、ナチュラルサイエンスとモラルサイエンス――モラルサイエンスというのは人間の精神にかかわる学問――の分野がかつては一体化しておったのが、どんどん分離していってしまいまして、ナチュラルサイエンスのほうのコントロールがきかなくなってきている。そうなりますと、学生諸君がモラルサイエンスとナチュラルサイエンスをどう考えるのかという、これは専門教育の分野でも、研究の分野でも非常に大事だと思うんです。同時に、人格の完成という分野から考えても、今の教養教育は大事だということになるわけです。そういう観点から、私は教養教育を一層重視しなければならないという考えを持っているんです。
  私は旧制高校を出たのですけれども、今振り返ってみると、あの生活は非常によかった。全寮制で、もちろん御指摘のようなカリキュラムでいろいろございましたけれども、その半分ぐらいは学校のカリキュラムを離れて、自分たちで読書をし、自分たちで考え、自分たちでスポーツをやり、自治会をつくって自治をやっていくという環境でした。大学では、先ほどの他の委員の方のお話ではございませんが、10人ぐらいのゼミナールを2年ぐらい続けまして、それも非常によかったんです。ですから、戦前の日本の教育制度の中の一つの傑作だと思うんですが、それが今のように高校を出た人の半分ぐらいが大学へ行くという環境の変化の中で、一体これをどうやっていくのかという非常に大きな問題になるわけです。
  そういう観点からして、今日はヨーロッパの話が出ておりませんけれども、ヨーロッパ、アメリカ、そして日本を比較したときに、日本はこうあるべきだという御意見が恐らくあると思うんです。今日のお話でも、教養専門の大学も何校かある。ハーバードの中には、専門教育のほかに文理学部というものもあって、教養もやっておる。その辺がかなり多様化されまして、大学院へ行く前に教養課程だけをやるのか、あるいは「教養課程」+「専門課程」をやるのか、大学院に行ったときには専門課程だけでいいのか。いろいろなチョイスがあると思うんです。そういったことを俯瞰しながら、舘さんとしてはどうあるのがいいのかというお考えがございましたら、お伺いしたいと思います。
○舘意見発表者    ちゃんと答えられるかあれですけれども、せっかくの御質問ですのでお答えしますと、まず旧制高校では、確かに私は経験も何もないわけでありますけれども、いい教育がなされていたのだと思います。それはアメリカのリベラルアーツ・カレッジ、先ほど委員の方もおっしゃるような寮生活とかそういうものも含めたものであるわけです。ただ、違いは、旧制高校の場合、理科、文科とか、中でちょっと差があったと思いますけれども、あれが現代ですので、さらに生物専門とか、そういう意味でリベラルアーツ専門をやっています。たぶん理科、文科で、4年ありますので、もう少し深いところまでやって、そのまま医学部へ行こうとか、そういう形になることはあると思います。
  日本の場合、それほどすっきりした形ではありませんけれども、今、実際上は大学院に行く方は、結果的にそういう勉強になっている部分もあると思います。ただ、単独の大学でもそういう機能を果たすものがあっていいのではないかということもそうでしょうし、一方で、寄宿とかそういうことができない方たちも、当然大学に行く必要があります。その方たちにリベラルアーツが必要でないかというと、やはり必要であります。それは寄宿できなくても何かの手立てが必要でしょうし、それから社会人の方も学士号を取ろうとする。そういう意味では多様になると思いますけれども、内容的にはそういうものが必要でしょう。
  我田引水で申しわけないんですが、一方で、例えばリベラルアーツが物理学だというと、物理学の内容的な知識だけということになってしまうんですが、先ほど委員の方がおっしゃるように、それが使えなければ仕方がないわけです。そういう意味で、使えるものだというのは、やはり見せないといけないので、私が最後に提案しておりますリベラルアーツの教材、ただの物理学の教科書だけではなくて、方法まで含めてこれを学んだら、広い認識とか態度を含めて修得できる教材を開発することを奨励していただいて、それに研究費以上の奨励を与えるとか、そのように社会から見える形で奨励していくことが、ただの物理の知識でなくて、それが使える知識になるきっかけになるのではないかと勝手に思っております。
○根本会長    それでは、まだいろいろ御意見があるかと思いますけれども、舘さんにはどうもありがとうございました。
○根本会長    月尾さん、お待たせいたしました。恐縮でございます。先生の御経歴は資料のとおりでございまして、皆さん既によく御存じのことと思います。
  それでは、よろしくお願いいたします。
○月尾意見発表者    このお話をいただいたときに、ここで議論されている教養は、カルチャーとか、ビルドゥングとか、リベラルアーツとかであり、全く違う視点から教養を考える必要があるだろうと思いまして、引き受けさせていただきました。
  何のために教養を身に付けるかということについて、三点申し上げます。一つは、特定の集団に帰属するための手段が教養だということです。特定の集団というのは、小は家族から、大は国家とか世界ですが、そういうところへ帰属することが、人間にとって必要になるわけです。そのためにはその集団に帰属を認められるような知識、それから「知・情・意」と言われるようなものを身に付けなければいけない。例えば、小さい子どもであれば、親を尊敬するということが必要でしょうし、もう少し上になれば、集団で使われる言語を習得することも必要でしょう。もっと上になれば、その社会で使われている制度を習得することが必要であって、何らかの集団に帰属するために必要なものを人間は持っていなければいけないのですが、そういうものが教養だろうと思います。
  例えばヨーロッパへ行くと、日本では全く必要のないオペラの該博な知識がなければ、社交界では教養があるとは思われないということになりますし、アメリカへ行けばフットボールについてのある程度の知識がないと、教養があるとは評価されないということになるわけです。
  つまり、教養というのは、自分がどういう集団に属するかによって、もちろんそれは一つという意味ではなく、幾つでもいいわけですが、それぞれの集団に帰属するための手段として必要だと考えたほうがいいと思います。
  それはなぜかというと、中央教育審議会でこういう議論がされるというのは、集団が日本の国では崩壊していることを憂慮されているからだと思います。例えば、家庭が崩壊した状態にあるとか、地域社会もほとんど残っているところは少なくなり、特に大都会では少ない。国家というものもあいまいな状態になっている。それらを維持する必要があるかどうかは別の議論ですが、現在はまだ維持しようという社会的な意向があるようですから、そういうものを維持するために、ある年代で何を習得すべきかということを考えるというのが、教養の一つの重要な役割だろうと思います。大学でリベラルアーツを教育するというのは極めて限られた議論であって、あらゆる年代にわたる教養を考えるというような思考方法が必要ではないかと思います。
  教養の2番目は、未知なるもの、つまり経験しないもの、それから経験したことのない変化に対処するときに必要な手段です。危機的な状況であったり、突然の変化であったり、これまで見たこともないことに対するときに必要なものが教養だと考えるべきではないかと思います。
  それはなぜかということから先にお話しさせていただきますと、日本だけではありませんが、特に日本の社会は20世紀の最後から21世紀の初頭にかけて、これまで経験しないような変化に直面しております。例えば、社会が右肩上がりから右肩下がりになっていきます。人口が増えないとか、経済もどんどん衰退しているわけです。人口が減っていく、労働者が減っていくという変化は、少なくとも明治以降だれも経験したことがない。そういうときに、何を根拠にして変化した状況に対応するかというときに必要になってくるのが、教養だと思います。
  来年の省庁再編で役所が本当に変われるかどうかわかりませんが、制度的なことで言えば、名前を変えた以上の変化はないのではないかと思います。それはなぜかというと、役所に本来の教養というものがないからです。全く変化した状況に対処する組織としての知識とか、情熱とか、意志とか、情緒がうまく組み込まれていないということです。それはなぜかといえば、私も含めてすべての方々が、必ず増大していくという社会を前提として教養を身に付けてきたからです。ところが社会が突然違う方向へ進んでしまうと、それに対処する方法がわからない。そのときに役に立つのが教養と言われるようなものだと思います。
  例えば、自由民主党も公共事業の見直しをすることになったわけです。これは明治以降、開発ということのために特定の産業分野が急速に成長してくるという社会を構築してきまして、そのために地方の制度も国の制度も財政制度もできてきたという状況です。それが不必要になるということがだんだんはっきりしてきた。そうなると、一体どちらの方向に向っていくかというときに、より広い視野なり、より広い基準をもとに考える基礎が教養だと考えるべきだと思います。
  もう一つ、最近話題の大きな変化は、モノを中心とした工業社会から、情報を中心とする社会に変わるということです。そうすると、社会の基準は大きく変わることになるわけですけれども、それに対処するのに一体どうしたらいいかというときに、やはり教養が要るわけです。例えば、現時点で教養と呼ぶかどうか別ですが、モノというものは同じものが幾つかあればあるだけ価値が増大するというのが一般的な傾向です。例えば、自動車が1台よりは2台、3台のほうがその価値が増えていくということです。しかし、情報の価値というのは、唯一のものには価値があるけれども、2番目以降には価値がない、もしくは価値が非常に軽減するという面を持っているわけです。
  これまで身に付けた知識が、工業社会での価値観で構築されていれば、突然、2番目以降には価値がないという社会が出現すると、どう対処していいかわからない。そのときに役に立つのが教養というものです。そういう意味で、社会が180度方向転換するという時代に、教養というものが重要になってくる。その教養は何かということを検討することが恐らく必要で、リベラルアーツでは対処できるようなものではないと考えなければいけないと思います。
  いくつかの例で申しますと、私は屋外にいる時間が長いほうであり、毎週末のように、海とか、山とか、雪の中へ行ったりしております。そういうときに経験したことのないような状況に遭遇する。例えば、カヌーで海の上を渡っていくとき、従来経験した程度の波とか風であれば、必ずしも教養を必要としなくて、経験で対処できるわけです。しかし、これまで経験したことのない大きな波が次々にくるとか、強い風が吹きつけるとなったときには、その中で一番能力のある人が、それこそ「知・情・意」のすべてを駆使して判断します。例えば、雲がどうなっているかとか、波の音がどうかとか、ふだんは気にしないようなことをすべて吸収して判断をし、どちらへ行くとか、避難するとかを決める。雪山へ行っても、同じ状況になれば同じことが必要になる。そういうものは教養と言わないのかもわかりませんが、これこそ本当の教養だと思います。そこにいるメンバーのだれも経験したことがないような状況に遭遇して、どう判断するかというときに、「知・情・意」を総合したものが必要になる。これが教養と呼ばれるものであって、そういうものを国民が身に付ける必要がある。それはなぜかというのは、これまで経験したことのない社会にだれもが突入していかなければいけないという状況に直面しているからです。
  私の知っているある友人で、教育程度も決して高くない会社経営者がおりますけれども、その人はバブル経済が絶頂のときに、自分は不動産に絶対投資しないということを明言しておりました。理由は本人にもはっきり説明できないけれども、過去の経験とか、様々な知識を総合して判断すると、バブル景気というのは異常なことであって、これは絶対破綻するということを予感して、投資をしなかったということで、現在になると健全な経営をしているという例があります。
  未知の状況に遭遇したときにあらゆるものを駆使して、対処できる能力を身に付けることが、教養教育の2番目の目的になると思います。
  3番目は、未知なるものを創造するための手段が教養に相当するのではないかと思います。芸術的なものを創造するとか、新しい学問分野を開拓するとか、従来存在していなかったものをつくり出す。例えば、新しい解くべき問題を発見するとか、自分が解決すべき問題を作成するというような能力。与えられたものに対処するということではなくて、何を自分が解決すべきかということを新たに発見し、つくり出していく能力が、教養というものに期待される3番目のことではないかと思います。
  私が憂慮しておりますのは、大学で教育しておりまして、この10数年間の傾向を調べると、東京大学での理科系の分野を中心とした経験ではありますけれども、与えられた問題を解く能力は年々向上しているのは確実だと思いますが、それに反比例するように落ちていっているものが、問題をつくり出す能力ではないかと思っております。
  私の研究室は何を研究してもいいという方針にして、修士2年生になった春のときから、毎週、君は何をやりたいのか、社会に対してどういうことを君がやったら、高等教育を受けた結果として役に立つかということを聞いています。しかし、多くの学生は10月とか、11月になっても、的確な問題を発見できない。何に対して自分が貢献すべきかということを発見できないような状況になっております。最後は「こういうことをやったらどうか」ということになるわけです。この能力の欠如は、単に大学の問題だけではなくて、国という単位とか、地域という単位でも大きな問題になっていくと思います。次の時代に対してどういうことをやることが必要かということを自ら発見できる能力がないということは、ある集団の将来にとって大変憂慮すべき事態ではないかと思います。
  教養ということについて具体的に何をすればいいか、特に明確な考えがあるわけではありませんが、まず一つは、組織に自らが帰属することを達成するために得るべきもの、それから従来経験しないような状況に遭遇したときに、自分が得たあらゆるものを統合して対処できる能力を与える、これも教養である。それから、さらに新しいものをつくり出していくための能力が教養だと考えてやるべきであって、アメリカでこういうリベラル教育をやっているから、日本でやれというような議論はぜひやらないでいただきたいというのが私の希望であります。アメリカの社会に日本が植民地として参加するわけではなくて、日本独自の社会を構築していくので、日本独自の社会に帰属するために何が必要かというふうに考えることが重要であって、ほかの国が何をやろうがそれは関係ないと考えなければ、教養として何が必要かということは議論できないと思います。
  旧制高校の時代から考えれば、確かに教養は喪失されていると理解するのが一般的だと思いますが、なぜ教養というものが社会の中から喪失してきたかということを、いくつかお話しさせていただきたいと思います。
  まず一つは、ストックというものを尊重した社会から、産業革命以降、フローというものを極めて重視する社会に移行してきたことが大きな問題だと思います。特に大量生産で同じものを大量につくることによって、我々は消費を加速しております。大量消費して、しかもそれを大量廃棄することが、社会の発展になるという構造が、日本で言えば明治以降つくられてきたわけです。その中で、蓄積を高く評価して、それを身に付けるということを重要なこととして意識しない社会がこの百数十年間つくられてきたのではないかと思います。私は経験があるわけではないのですが、旧制高校では例えば漢文を勉強するとか、漢詩を勉強するとか、日本の古典的なものを勉強するとか、西洋であっても古典的なものを勉強するための時間が随分使われていたようなことを聞きます。そういうストックに対する評価、重視、尊重があった社会だと思います。しかし、特に戦後、ストックを軽視するような社会ができてきたわけです。
  現実の例で申し上げますと、私は建築が専門であったわけですが、いろいろな地域へ行きますと、何百年にわたって蓄積してきたような景観とか、町並みと言われるようなものをあっさりと壊して、何の変哲もないコンクリートに変えてくるということをやってきました。それは大量生産、大量消費、大量廃棄という流れの中では、極めて妥当なことであったわけですが、一方そこでは大きなものを失ってきたと思います。
  もう一度、家庭、学校、地域、どういう単位でもいいのですが、一体何を蓄積しているのかということをその構成員が知ることが重要です。ストックを知ることが、ある集団に帰属する大事な手段であると考えて、もう一度組織が蓄積してきたものをはっきり意識する教育を考えるべきだというのが1番目です。
  2番目は、自然というものに対して人工というものがあまりにも大きな比重を占め過ぎるような状況になったと思います。我々は技術によってつくられた人工的な環境に生活しているわけです。しかし、その限界として、人工的なものにはそれを構築した人間が創造し得た以上のものはないということだと思います。バーチャルリアリティーという疑似自然が象徴的だと思いますが、人間に対してそれらしいものを与えることが可能です。最近は音響はもちろん、味覚、嗅覚まで刺激するようなバーチャルリアリティーさえ研究されているわけですが、そこで与えらえる疑似自然はあくまで疑似であって、それを構築した人間の創造力の範囲を超えることはあり得ないということだと思います。もちろんその刺激を受けた人がさらに何かを考えだすという程度のことはあるかもわかりませんが、詳細に探索しても、コンピュータの中にあるプログラム以上のものは出てこないという世界です。
  ところが、自然というのは深いものであって、人間が抽出し損なったものが幾らでも自然の中には残っている。現在、そういうものを体験するチャンスが極めて減少してきたと思います。日本は海洋日本と言われながら、海洋スポーツをする人が圧倒的に少ない希有な国家でありますけれども、本当の自然に直接挑戦という言葉が適切かどうかわかりませんが、少なくとも体験するということが限定された社会で、多くの人々が生活しているわけです。
  いろいろな例がありますけれども、例えば水洗便所ではないトイレへ行くと、途端に便が出なくなるような人は、大人でもたくさんおります。私が山とか海へ一緒に友人などを連れていくと、そういう環境に行った途端に、生理的な現象さえ変わってしまうという人もたくさんいます。それは日常生活の中で、自然というものから得る刺激、もしくはそこから発見するチャンスを喪失してしまったことが、大きな原因ではないかと思います。
  これから教養を得るための一つの手段は、曾野綾子さんが書かれた、ボランティア的に山で木を切るのを体験する以外にも、いろいろな方法はあると思いますけれども、自然を体験する機会、それも管理された自然ではない自然を体験する機会をつくることが、教養をつくる一つの重要な要素になると思います。
  もう一つは、最近ですと、「グローバル」という言葉が使われたり、「ユニバーサル」という言葉が使われたりして、普遍的なものがいいという概念が一般的に流布しております。しかし、ドメスティックなものとか、ローカルなものがはるかに重要だという意識を持つことが大事なことだと思います。もちろん日本の人々の中にもオペラがヨーロッパ人のように歌えるとか、ヨーロッパ人のように指揮ができる人がおられないわけではありません。それは限られた数の人でありますし、本当にそれがドメスティックな環境から出てきた教養であるかというと、そうではなくて、別の世界の教養を身に付ける努力を営々とした成果ということです。それが悪いとは言いませんけれども、それ以前に自分の帰属社会での文化を身に付けることが必要であり、先ほどどなたかが御指摘されておられましたように、日本語教育はもっと真剣にやるべきであって、その背景さえあれば、手段としての英語は幾らでも身に付けられると思います。
  話題が変わってしまうかもしれませんが、英語公用語論について私は大反対しているわけですが、英語というもので思考して、日本という国家なり日本人という存在がきちんとした帰属意識を持てるような集団を構築できるかと考えますと、これは大変疑問です。ドメスティックであるとか、ローカルであると言われるものをきちんと理解する、例えば、日本語というのは本来の姿で使えるようにすることが重要です。言語は極めて流動的でありますから、本来というのは大変難しいのですが、正しい表現ができる能力を身に付けることが教養であり、日本の音階を理解できることが、教養の一歩であり、その教養から発展した形でオペラを歌っても、西洋料理をたしなんでも、それは悪いことではないと思いますが、それがなくて、ワインだ、オペラだというような生活は、決して教養ある人間の生活とは思われない。それは日本で評価されるかもわかりませんが、本来の国へ行けば何のこともないのです。
  以上、勝手なことを申させていただきましたので、反論もたくさんあると思います。ぜひ御意見をいただければと思います。
○根本会長    どうも月尾さんありがとうございました。
  非常に斬新な切り口で、大変参考になったと思います。
○  日ごろの切り口と異なった観点から月尾さんのお話があって、私は大変興味深く伺いました。最初におっしゃられていました、何のために教養を身に付けるかということの中で、基本的に月尾さんのおっしゃったことに私も全面的に賛成なんですけれども、1番目の特定の組織なり集団に帰属する、そのために必要なものを身に付けるという観点は、確かに大事だと思うんです。ただ、一面で組織は組織を持続していくために、一定の組織の論理がそれぞれの既存の組織にあると、自分のこれまでの65年間の生活体験から感じるんです。それを維持しつつも、時代の変化に合わせて組織自体が変わっていかなければならないという側面が、最近、必要だなという感じを持つんです。その要素を全面的に否定するつもりではありませんが、今、政党にしても、いろんな組織が一つの転機に立たされている。もちろんその組織自体を維持していくために必要なことを身に付けておかなければ、それを乗り越える論理は生まれてこないのかもしれませんけれども、その辺のところを……。ほかの2点については全く同感ですけれども、やや異論というほどでもないんですが、その辺について月尾さんのお考えがあればもうちょっとお聞かせいただきたいと思います。
○月尾意見発表者    おそらく御指摘はそのとおりだと思いますが、それは2番目に申し上げたような教養が打ち破っていくということだと思います。既存の体制とか、既得権益を維持することはまずいという判断ができるというのも教養です。それが安易でいいと思ってしまうことは、御指摘のように問題ですが、そのためには従来の既得権益では組織が維持できないとか、無理に維持することが弊害を及ぼすということを自ら知り得ることもおそらく教養だということです。御指摘のとおりですが、2番目の教養でそれを打ち破っていくことになるのではないかと思います。
○  どうもありがとうございました。三つばかりお伺いしたいと思います。
  教養の必要性ということを三つの観点からお話しになって、なるほどと思って聞いていたんですが、途中で「2」のところで、未知なるものへの対応ということで疑問が起きてきて、未知なものに事後的に対応するだけでいいのかと思っていましたら、3番目で、いや、新しいものを創造するんだというように、月尾さんのお話は疑問を起こさせておいて、答えるという、誠に教育的な話だった。前半の必要性だけではなくて、私たちが問題にしたいのは可能性なんで、WhyではなくてWhatだったんですが、WhyがわからないとWhatがわからないのかなということで、後半はWhatの何たるかに触れられたわけで、大体わかったんですが、その上で三つばかりお伺いしたい。
  一つは、必要性、可能性と分けますと、後半の可能性のところで、甘やかされない自然に接するとか、日本語の教育が大切だとか、具体的な提案があったんですが、そのほかにどういうものが考えられるのかということが第1点です。
  第2点は、新しいものを創造するのが教養だということですが、過去の新しいものを見ますと、公害を生み出すとか、原爆とか、我々にマイナスの影響を与えるものもあったわけです。つまり、新しいものには新しいリスクがあるということです。そうすると、公害を生み出したのも教養、それに対応する対策も考えるのも教養となると、何かわからなくなってくるんですが、その辺でアセスメントが教養として重要になってくるのではないかと思うんです。80年代にテクノロジー・アセスメントと言われたのが今や影をひそめているわけですが、それ以前に、公害は人間が生み出したわけですから、そういう人間を教育した教育が悪いのではないか。だから、エデュケーショナル・アセスメントが必要だ。それが教育改革ではないかと思っているんです。2番目は、新しいものには新しいリスクがあるということと、教養との関係。
  第3番目は、私の個人的な意見ですが、教養があるかどうか見分ける一つの目安は、ユーモアではないかと思うんです。ユーモアというのは、教養と連想力がないと通じないし、人の心を傷つけないのがユーモアで、皮肉とは違うんですけれども、冗談が通じないとか、ユーモアが通じないのを分析すると、やはり教養と連想力。日本のタクシーは神風だと。ドイツ人は「ミリメーター・ファーラー」と私に言ったんですが、そのときに「ニュートンの第一法則の実験もやっている」と言われて、笑うか笑わないかなんですけれども、そういうものが教養かと思うんです。月尾さんは教養について、1番目の質問と重なるんですが、具体的にどういうことをするのが教養教育でいいのかということを、もう少しお話しいただければと思います。
○月尾意見発表者    1番目については明確にアイデアがあるわけではありませんが、一つは、初等教育などで、教科書での勉強ではなくて、歴史の現場、三内丸山遺跡でも吉野ヶ里でもいいのですが、人間が蓄積してきたものに対する接触を進めることが重要だと思います。普通の言葉で言えば、先人の努力を評価し、追体験しろということです。そういう人為的な蓄積とは別に、自然的な蓄積、普通にいう自然を体験しろというのが、先ほど申し上げたことです。維持され、蓄積されてきたものを、抽象的な概念、つまり教科書に書かれたものとか、映像であるとか、そういうものでない形で体験することが重要なことではないかと思います。
  第2の御質問の、公害とか、原爆とか、科学技術がもたらした災害は幾らでもあります。これは深い教養があれば防げたかもわかりません。アメリカが原子爆弾を開発するときに、科学者の一部は非常に強く反対をしたわけです。アインシュタインをはじめパグウォッシュ会議のメンバーなどは、原子爆弾の持つ危機を極めて憂慮して、大統領に書簡などを出した。そういう人々は確かに教養があったと思います。しかし、実際の開発に携わった人々にそこまでの教養がなかったという結果、原子爆弾が実現しました。それを科学技術に限りませんが、人文科学も含めて、あらゆる研究をしている人に要求するのは大変なことだと思います。
  それはなぜかというと、人間の将来を洞察する能力はせいぜい数年分しかないのではないかと思っているからです。辛辣な言い方でいうと、一番短い期間しか予測できないのは経済学だと思っております。昨日までのことは予測できるけれども、今日から先は一切予測できないというのが、経済学だと思います。それから、政治という分野の学問もせいぜい何ヵ月程度のことしかできない。科学技術というのは、多少先まで予測しているようですが、これはよくよく考えてみますと、ある目標を立ててから、それを達成するまでに10年とか20年かかるので、一見、十分予測したようですが、それはすぐ実現できなかったから、たまたま予測が的中したように見えるのだと評価しておりまして、長い間の予測は本来はできない。
  御質問から話がずれるかもしれませんが、何とか人類が達成しなければ大変だといわれるのは、地球規模の環境問題をどう解決していくかということです。長期的なシミュレーションが出されていますが、大体100年から300年間のプログラムに忠実に沿っていかなければ地球環境問題は回避でないというようなシミュレーションが出されております。中国の全人代で長期経済計画をつくりますが、これは5年計画です。ロシアが計画経済をやっていたときで、長いものでも10年しか計画していなかった。それもほとんど達成されておらない。日本で国土計画は大体10年ごとにつくりかえてまいりましたけれども、それも途中で修正しているということを考えると、これまでの人間の得てきた教養の耐用年数は、よく評価しても10年ということになります。しかし、本当に地球環境問題が来るとすれば、少なくとも100年は耐え得る教養を身に付けないと、人類にとっては大変な問題が起こるということだと思います。そういう時間単位での教養をこれからどうしていくかということはぜひお考えいただくべきだと思います。
  ユーモアについては、おっしゃるとおりですが、それはどういうことかというと、ある集団に帰属していないと、そのユーモアは通じないということです。ニュートンの力学の法則の知識がない方にはそのユーモアは全く通じないということですから、それを拡張して解釈すれば、集団に帰属するための知識とか、情緒とか、意志を持っている人の間で通ずる表現がユーモアと考えますと、私が1番目に申し上げたような教養を身に付けた状態で初めてユーモアが有効なものになるのだと思います。
○  どうもありがとうございました。教養を学問としてとらえていくのは寂しいなという感じでずうっときたんですけれども、月尾さんのお考えを聞きますと、大変示唆がありまして、例えば教養とは生きる力であり、生き方のような感じもしました。そうであれば、我々が日常的に生活している中でも、いろいろ教養を学ぶ場が結構あるのではないか。特に先ほど月尾さんが、特定の集団において帰属するときの手段という形で、道徳とか、言葉とか、発達段階とか、あるいは家族とか、国家とか、集団の重要性の中でもってそういうものを体得していくという重要なことをおっしゃったわけでございます。教養というものをいわゆる生涯学習でとらえた場合、まさに生き方の問題にかなり大きなウエートが置かれているのではないかと思います。
  そういう中で、今まで新幹線の上に乗っていたという意味ではなくて、小舟でもって大海を渡るようなものでございまして、変化に対応するような生き方を身に付けなければいけないということは、今までの教育改革の中でもいろいろ言われていることでございますし、まさにそれを私は再認識したわけでございます。
  前にジェームス三木さんに会ったときに、自分はドラマの主人公を書くときに二つの観点から考えている、一つは問題解決能力、それからその人が自分の人生を持っているかどうかということで、ドラマの主人公を選んで書いているんだという話をされていました。まさに生きる力、生き方というものがベースになれば、教養というものを集団とか、家庭とか、地域の中で実践できるのではないか。学問としての教養でなくて、実際の生活としての教養が身に付くのではないかという感じがしました。
  もう一つ自然の重要性がありまして、例えば、埼玉では、私どもが主催しまして、豊かな子どもたちを育てるための「五つの触れ合い」というものをやっております。自然との触れ合い、人との触れ合い、本との触れ合い、家族との触れ合い、地域との触れ合いということですが、まさにこの中に教養を身に付ける場所がいっぱいあるなという感じがしまして、大変うれしかったわけです。
  そこで、一つ教えていただければと思うんですけれども、今後、教養というのが集団の中での帰属の一つの手段として論じられたときに、例えば21世紀に向けていったときに、教養の摩擦とか、教養の衝突が将来起こり得る可能性があるのかどうか。範囲は狭い意味でも広い意味でもいいわけでございますけれども、そこら辺はどのように考えていったらいいんでしょうか。
○月尾意見発表者    御質問は、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』のような思想を背景にしたものだと思いますが、アングロサクソン的な覇権主義的発想があると、おっしゃるようなことが起こると思います。『文明の衝突』というのは、まさに武力が終わって、文明とか、文化とか表現するものが21世紀の最大の争点になることを明示したものですが、それが紛争になるかどうかというのは、民族性とか、国家の方針によると思います。
  日本を前提として考えれば、日本はそういう観念があまりにもなくて、多くのものを受け入れて、なおかつ流すべきものは流してしまうということをやってきたわけです。一つの典型的な例は、世界の国々の中でキリスト教の布教が失敗した唯一の国が日本だと言われております。一時は多少布教に成功したのですが、それ以降、東洋の中でも唯一1%台しかキリスト教が布教しなかった国です。織田信長の時代は過激なことをやりましたが、現在の社会でどうしているかというと、それを否定するわけではなくて、まちの中に教会が土地を取得するのも自由にしているが、自分がそれに積極的に関与はしないという態度でありまして、民族性というのは一通りではないと思います。日本のような民族性であれば、教養の衝突は起きにくいと思います。一方、フィリピンでモロ民族解放同盟が反抗していたりするように、そういう民族、文化を持った人々もおります。
  日本としては何が必要かというと、アングロサクソン的な覇権主義で文化を利用しようと考えている組織とか、フィリピンとか、インドネシアとか、いろいろな国々で、宗教が社会を維持するために重要だという立場から、他の国へも関与してくるような状態に対してどう対処するかということを、国として考えなければいけないことだと思います。正確なお答えになりませんが、我々が衝突を積極的に始めることは極めて少ないと思いますが、衝突になるような影響が外から及ぶということに対して、どうするかということは考えていく必要があると思っております。
○  お話を伺っていて、フローよりはストックとか、人工よりは自然、そして土に根差した伝統ということは非常に大事な考え方だと思います。それは価値教育みたいなものにつながるのかなと思いますけれども、具体的にそういう教育のイメージをお持ちでいらっしゃいましょうか。
○月尾意見発表者  価値を押しつける必要はないと思っております。そういう環境を提供すればいいと思っています。私は文部省がやろうとしておられるコンピュータ教育に批判的であります。先生が教えられないから推進できないという形で、文部省はコンピュータ教育をお考えになっておりますが、先ほど申し上げました未知に対処するということからすると、過去に十分蓄積を持った人が新しいものに戸惑いながら教えるのがいいのか、過去のことに経験がない人が直接対処したほうがいいのかという問題です。わかりやすく言えば、コンピュータを教えるときに、先生が手とり足とり教えるのがいいのか、子どもに自由に使えと言ったほうがいいのかという問題に帰着すると思います。
  人類なり、日本なり、ある地域なりが蓄積してきたものを子どもが体験するというときに、最低限の、こうすれば死ぬとか、こうすれば危ないということは教えるにしても、それ以上のことを教えないほうが、教養が身に付くと思います。それは回り道で時間がかかるという面もありますが、逆に言えば、それによって発見されるものも多いわけです。こういうふうに歩けば安全だと教えられると、その手法しか身に付けることができないけれども、死ぬほどの危険を避ける程度のことを教えれば、そこから新しい歩き方とか、新しい船のこぎ方とかを覚えるのだと思います。
  教育というものを、先に生まれた人が後から生まれた人に伝達するというふうに考えないような仕組みが、教養教育のようなところでは必要ではないかと思っております。
○  ありがとうございました。大変示唆に富んだいいお話で、ほとんど月尾さんのおっしゃるとおりだと思ってお聞きしていたんですが、一つちょっとわからないものですから。ユニバーサルとドメスティックなものの取り扱い方で、日本の大学は日本語で授業していますよね。私はそれはちょっと異常ではないかと思っているんです。そのことについてどうお考えになりますか。
○月尾意見発表者    それは思考するということに対して日本語を使うことがよくないというお考えですか、発表、伝達という意味ですか。
○  つまり、日本文化というのはおもしろい文化で、外国からきた思想なり価値観なり、そういうものをすべて日本語に直して教えています。直せないのではないかという部分がかなりあると思うんです。それは大学の方が一番よく御存じだと思います。それをあえて日本語にして、それを平気で教えている。どうしてそのまま教えないのかという気がしてしょうがないんです。これは中国やインドの人に聞くと、日本の大学は日本語でしか教えていないと言うと、不思議そうな顔をするんです。私はその点については、本当にそうだなと思っているものですから、その点についての御意見を。ほかは月尾さんに全部大賛成なんですが、そこだけ一つ。
○月尾意見発表者    明治以来日本がやってきたように、進んでいると判断したものを日本に移すことを主要な目的にしている教育であれば、おっしゃるようなことをやってもいいと思います。物理学というのは全部英語で教育するということがあってもいいと思いますけれども、新しくつくり出す分野を考えたときに、それが適切かどうかということだと思います。数学にしても、物理学にしても、化学にしても、連続した学問かというと、長い目で見れば決してそうではないのです。アラビアの化学があったり、日本の和算もあったりということで、数学といってもいろいろなものがあったのが、ユニバーサルという概念で全く一本に統一されてしまったところが、世界全体の文化の問題だと思っております。
  アングロサクソン系の思考方法による学問が、ユニバーサルという概念で普及し過ぎたことが、世界を非常に狭い社会にしていると思っております。明治の初期のように、進んでいると判断したアングロサクソン系の学問やゲルマン系の学問を導入するときは、おっしゃるようなことをやってもいいと思います。明治のころの東京大学の教育などを見ると、そのまま原本を使ってやっていた時代もあったわけです。ただ、これから多様な学問をつくっていくことが人類にとって重要なことだと考えますと、日本は日本語で教育したほうが、学問の多様さをつくり出すためにはいいと思っております。
○  月尾さんには、いつも目がパッと開かされるようなお話を伺っておりまして、今日もそうで、本当にありがとうございました。
  コンピュータ教育についてのコメントと、それから御質問を申し上げたいことがあるんです。おっしゃるように、コンピュータ教育について、日本の先生が教えなくちゃいけないかというと、必ずしもそうではないと思います。いろいろな教科書があって、先生がすべての知識を知っていて、それで学習指導をすることに慣れていましたので、先生方は自分がコンピュータができないと子どもに教えられないという感じを、多く持っていらっしゃることは確かだけれども、情報教育の先生方は自分がきちんと知識を知って教えるということをやられるんですが、社会科の先生とか、理科の先生とか、算数の先生あたりですと、自分が教科に自信を持っていらっしゃって、教科の先生だから、「コンピュータの使い方をわしは知らん」し、生徒のお父さんにいい方がいれば、「おまえ聞いてこい」とか、「これはわかんないけど、おまえどうだ」という形で、かなり柔軟に子どもを動かして教えている部分が相当あるものですから。また月尾さんから御反応があるかもしれないけれども、コメントをさせてもらいたいと思います。
  今日のお話に対しての質問ですが、ある部分お答えいただいているんですけれども。最初におっしゃった三つの、一つ目は集団の規則でございますけれども、現在の日本の集団の中では、何が集団に帰属するということの内容かということ。後のお話を踏まえると、ストックであるとか、ローカルなものを持ち込むということで、ある程度お答えいただいているんですけれども、現在の日本の初等中等、高等教育で、集団に帰属するということに対しての教養としての内容は何かということが一つでございます。
  そのときに、集団というのは、チーマーとか、ヤクザとか、暴走族とか、いろいろな集団がございます。その集団に所属する教養をその方たちは持っていて、すごくかたまっている。しかし、今、問題になっているのは、良識ある大人というのがいいかどうかは知らんけれども、そういう大人の集団がその人たちの集団に対して、道徳教育だの、教養教育だのという、これはさっきおっしゃった覇権になるかもしれないんだけれども、覇権的な扱い方をしようとしているのかもしれないのです。そこをどのようにしてその人たちに大人の社会の教養を身に付けてもらうかというと、第2におっしゃったようなところでそれはクリアできるというお答えをいただけるかと思いますが、そうなのでしょうかということ。チーマーなり暴走族の人たちをそのままその集団の存在意義を認めて、受け入れてあげていくのがいいのか、大人の集団のような形に変えていってもらう必要があるのかということ。これが第2の御質問です。
  第3は、第2の未知への対処のところが、具体的な教養の内容が1番目の集団と知的な創造のところに比べると、はっきりつかまえられなかったんですが、感性とか、判断力といったような能力なのかなと想像して伺っていたんですが、それでよろしいのでしょうか。問題はそれをどう育てるかということで、これは私も答えがないと月尾さんはおっしゃったんだけれども、実はなぜ教養が消えていったかということで、ストックの問題とか、古典を例に引かれました。それから、自然を大事にするとか、ローカル。これはどう育てるかのお答えをいただいたと思うんですが、そう解釈していいか。その場合に、ストックだの、自然だの、ローカルだの、これは三つとも非常に大事だと思います。それプラス、何かがもしあったら、月尾さんのお考えをお教えいただければと思います。
○月尾意見発表者    1番目は、正確に理解できなかった面もありますが、教養を学校だけで教えるという大それたことは全く考える必要がなくて、それは害毒だと思います。たまたま世界全体にアンケートをした統計がある雑誌に書いてありましたが、大抵の国で集団に帰属させる知恵をつけるためには家庭のほうが大事だという意見です。あまりにも学校に期待し過ぎている日本の状況が、初等中等教育での教養教育を難しくしているのだと思います。もう少し分担して、いろいろな機会に、いろいろな場で教養を獲得するような体制のほうがいいと思います。
  それから、暴走族のような集団をどうするかということについては、私はそれが国家が決めている制度に違反しない限り何の問題もないと思います。殺人をすれば、その人を逮捕すればいいし、道路交通法違反であれば阻止すればいいのであって、そういう集団があること自体は、社会の多様性という観点から見たら健全なことであって、ごみ一つ落ちていない社会は異常だと思ったほうが健全だと考えております。国を維持するためのいろいろな制度があるわけですが、それに違反しない範囲では、いろいろな集団があってもいいし、現実に動き出さなければ反体制的な思想を研究するグループがあっても、それは全く問題ないと思います。
  最後の具体的にどういう方法があるかということについては、私も深く考えていたわけではないので、ぜひここでお考えいただきたいと思います。
○  どうもありがとうございました。
  1945年に太平洋戦争が終わりまして、それから55年たっているわけです。もちろんその過程で光の部分もございましたが、影の部分も出てきている。その影の部分にどう対応するかというのが、今、ある意味では国民的な課題になっているのではないか。それを社会的に集約いたしますと、結局、人間性の疎外という問題だと思うんです。これはマルクスが百数十年前に取り上げた問題でございますけれども、この人間性の疎外という大きな波が21世紀に向かってさらに拡大するのではないか。その理由は、市場主義をとっておりますけれども、これに抑制が効かなければ、欲望と欲望の交換が限りなく行われていくわけでございます。また、先ほどお話のございましたIT革命、あるいは遺伝子革命、それもバーチャルリアリティーの世界である。そういたしますと、新しい流れを受け入れていかなければいけないわけですが、そこには影の部分として人間性が疎外されていく可能性がかなりあると思うんです。
  そういたしますと、人間性疎外の大問題をいかにして打ち止めていくのかという大変な課題を負わされているわけでございまして、これは単に教育改革なんかでできる問題ではない。むしろ社会全体の一種の文明史的な問題ではないかと私は個人的に思っているんです。この人間性疎外の問題を打ち止めていくには、そこに一つの追求する価値観を鮮明にしていく必要があるのではないかと思いまして、月尾さんの先ほどの幾つかの処方せんの中に、天然の摂理に学べとか、あるいは普遍よりもローカルなものの中に大変な意義があるという、幾つかの処方せんがございますけれども、アメリカとヨーロッパは全然別の問題でございまして、21世紀に向かって日本の社会が追求すべき価値を、一言でおっしゃっていただけないかということでございます。
○月尾意見発表者  人間性の疎外ということで言われた意味を正確に理解できない部分もあるのですが、私は人間性はもっと疎外すべきだと思っております。つまり、人間性を尊重し過ぎたルネッサンス以降の社会が、現在のような人間社会をつくってきたと思っておりまして、環境問題は、あまりにも人間を重視し過ぎた結果だという意見が強くなっております。21世紀に日本がやることは、人間性の疎外と言うと反感も持たれるかもわかりませんが、人間性というのも自然の中のほんの一部だというような位置づけをするという新しい哲学をつくるべきだと思っております。
  ヨーロッパ、アメリカでまだラディカルな思想と思われておりますが、ディープエコロジーという概念が急速に浮上しております。従来のエコロジーは、人間が発展するために自然を管理するエコロジーであって、それでは地球を救えないということで、人間も大自然の中の一部だと考えろという新しい思想が浮上してきています。これは日本の原始宗教のようなものです。アニミズムと言われているようなものは、それに近い思想です。そういうものを、1945年という年になくしたということが、日本にとっては問題だと思っております。
  人間性というものを過大に評価しない社会を構築していくことが重要であって、世界の主要な国々の中で、日本がそれをやれる一番近い位置にあるというのが私の意見です。ただ、それを強く言うと、日本の文化の逆覇権主義のようなことになって、神道を世界に広めるということになりかねないので、表現は難しいのですけれども、人間性というものを優先し過ぎた過去400年ぐらいの世界が、我々が直面している問題の原因だと解釈すると、今おっしゃったのと逆のことをやったほうがいいのではないかと思います。
○  ちょっと私が申し上げたのと違いましてね。確かに自然と人間という対立軸で考えればおっしゃるようなことだと思うんですが、私が申し上げましたのは、拝金主義とか、過大な欲望肥大とか、それから思考方法におけるニヒリズムとか、そういったものが人間の命を、まあ、子どもたちが親をバットでなぐり殺しちゃうわけですね。そういう意味の人間性の疎外現象、これは大変にゆゆしい問題でございます。これをやはり我々は、アメリカの場合は銃が自由ですから、もっとひどいことになっているんだろうと思うんですけれども、これを乗り越えていかなくてはいけない。そのときの一つの価値観をどのように持つべきか。そういうことについての先生のお考えなんです。
○月尾意見発表者    そのような視点で言えば、人間というものは、自然だけではなく、人間がつくり出した環境の中の一部だということを理解することが重要だと思います。私の個人的な経験で言えば、一番早い方法は本当の自然の中へ行くということです。あっという間に、自分が何ほどのものでもないということが理解できます。制御された環境の中にいますと、何でもできるような錯角を覚える。そこがまずいわけで、過酷な自然を体験させることが、人間性疎外現象に対する最大の防御策というか、教育策になると思います。
○根本会長    私の会社は、船会社でございまして、今、新入社員を帆船に乗せておるん です。帆船教育をやれと。おっしゃるような、とにかく人間はちっぽけなものだと。すばらしい大自然に遭遇したりして、えらい感激をもって帰ってきましてね。先ほどのお話は全く同感でございます。どうも本当にありがとうございました。
○  月尾さんが最後におっしゃった人間性疎外の考え方というのは、私も前から言っておりまして、特に日本のそういう考え方をもっとしっかり自覚する必要があるのではないかという気がします。
○根本会長    それでは、銭谷さん、すっかりお待たせして申しわけございませんが、ひとつよろしくお願いいたします。今日は御説明ということで、それでは、お願いいたします。

<銭谷内閣官房教育改革国民会議担当室長から説明>


(大臣官房政策課)

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