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中央教育審議会

2000/09/20 議事録
中央教育審議会  総会(第235回)  議事録

14:30〜16:30
霞が関東京會舘34階
ゴールドスタールーム

1.開    会

2.議    題
        「新しい時代における教養教育の在り方について」
         有識者からの意見発表及び討議

3.閉    会

出席者
委  員 
  根本会長、内永委員、木村委員、國分委員、坂元委員、杉田委員、高木委員、
  田村委員、俵委員、永井委員、松井委員、森委員、横山委員

事務局
  小野事務次官、崎谷生涯学習局長、玉井審議官(初等中等教育局担当)、
  矢野教育助成局長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官

意見発表者
  野村  萬斎  氏(狂言師)
  中村  桂子  氏(JT生命誌研究館副館長)

○根本会長    それでは、定刻になりましたので、ただ今から第235回の総会を開催い たします。
  本日は、皆様御存じの野村さんと中村先生にお出ましいただきまして、お二人から率直 に今後の教養教育の在り方についてのお話を伺いたいと思っております。どちらかという と、恐らく野村さんの話は、御経験からしてマインドのほうにいくのかなと思いますし、 中村さんのお話はネーチャーに立脚しながらマインドへいくというような、それぞれ違う 立場からマインドとネーチャーの問題をどう融合させていくかという視点で、恐らく教養 問題をお話しされるのではないかと私は推測しております。お話を伺った上で、皆様の御 討議をお願いしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
  それでは、配付資料の確認をよろしくお願いします。

<事務局から説明>

○根本会長    ありがとうございます。
  それでは、最初に野村萬斎氏にお願いいたします。野村さんの御経歴につきましては、配布資料にございますが、先日のNHK「ようこそ先輩」はたいへん興味深く拝見させていただきました。
  本日は、野村さんのお立場での教養について、広い観点から御意見を承りたい。おおよそ30分程度でございます。よろしくお願いいたします。
○野村意見発表者    私は能楽に携わる狂言師と致しまして、文化庁の制度によりイギリスに一年間留学致しました。そこで考えましたことを、現在、主には「狂言ワークショップ」という形で実践に移しております。本日は、その経験を踏まえた上でご意見できればと思っております。
  私が留学しておりましたのは1994年から95年ですが、その間、日本では阪神大震災やサリン事件があり、社会的に不安定な状況でした。英国から帰って参りました直後、青少年の重大な犯罪が多いのを目にし、何か狂言で社会的な貢献ができないかと考えました。イギリスでは演劇が多少なりとも社会に機能するという状況が当たり前のようにあります。そういう意味で、日本最古の演劇とも言われております狂言が、何らかの社会的な意味を持ち得るのではないかと思い、色々可能性を模索しております。
  今回は、「教養について」ということで、私の勝手な解釈ではありますが、教養を以下のように考えてお話を進めたいと思います。つまり教養とは、いわゆる暗記をする知識ではなくて、体得をするもの。覚えたからどうとかと言うものではなくて、何かを思考するために身につけるべきもの、と定義したいと思います。
  狂言の教授方法は、師匠と弟子という関係で行われます。特に狂言の場合は、親子での伝承が多いために、親子がマンツーマンで、いわゆる「口伝」「口伝え」を致します。といって、知識として植え込むのではなく、1対1で親の真似をさせながら覚えさせていくのです。そもそも物真似というものが、狂言の中では一つのキーワードになります。つまり、物真似芸が狂言に発達したとも言えますし、狂言を体得するために先生の真似をするということもできます。そして、物真似というのは、自分ではない人になるという意味ですから、すなわち演じるという行為の根源になるわけです。物真似芸というと、声帯模写・形態模写などがありますが、その人本人になりきることは無理でも、他人というひとつの存在を借りて自己表現するというのが、演じるという行為なのかも知れません。
  人間が、声と体を中心にして真似をすることで覚えていくという行為は、単純に言えば、動物が身を守ったり餌をとったりすることを、親の真似をしてすべて覚えているのと同じ事であると思います。つまり、それは知識というのではなくて、手段・方法を体得させるという事なのであろうと思います。例えば、狂言の稽古の場合、師匠と弟子が向かい合って、「この辺りの者でござる」と先生が言うと、弟子がそれを繰り返して、一句一句つけていくわけですが、これは語学の練習方法と同じです。狂言の稽古は、面と向かってしますから、声を師匠である親からぶつけられてきます。本当にぶつけられるような稽古ですが、ぶつけられた事を自分の中で、ある感性を持って解釈し、それを再現して、親にぶつけ返すということを繰り返すのです。
  普通、声を真似するときは、五線譜的に上がったり下がったりする音程をどうとるかと考えると思います。しかし、音というのは、その音質、音色、音量はもちろん、エネルギー、全体のイメージなど、色々な形で分析できるのです。それをとにかく子どもにぶつけて、今やったとおり、感じたとおりを返させる。つまり、個性をいきなり出すのではなくて、親がやった通りをしてみせろということで、返させるわけです。
  そうすると当然、子ども自身の認識にない部分が出てきます。例えば、最初はどうしても音程だけをなぞってしまい、音程だけに気を使って、小声で「この辺りの者でござる」と返します。そうすると親から「声が小さい」と言われ、今度は声の音量に対して注文をつけられるのです。音程に加えて音量の部分でも真似て、大声で「この辺りの者でござる」と言う。そういう風にして、そこにある色々な側面から形を整えていくというのが、教えるという行動であり、また、そうやってあえて意識のないところを露呈させ、それを注意して意識させるというのが、狂言の稽古方法なのです。うまくできたことを盛り立ててどんどん伸ばすというよりは、上手くできないところは、やはり意識が足りないということなので、そういう部分を指摘してあげることで、子どもに意識を持たせるというわけです。
  声ですと分かりづらい事もあるかと思いますが、体についても同じ事が言えます。例えば、武道の構え、スポーツの構えなどと同じように、我々狂言師は「構える」という行為を致します。構えるということは、日本人であれば、腰を入れるとか、色々と抽象的に解釈できるわけですが、狂言における構えとは、「隙なく立つ」ということであろうと思います。「何故狂言は構えるんですか」という問いには、「隙なく立つためだ」と答えることができると思います。能舞台は、装置を使わない裸舞台ですので、お客さんの集中力に耐えうる一つのテンションを体が持ち続けなければいけません。狂言師にはそういう身体が求められるのですが、それを師匠が弟子に真似させるのです。
  しかし、親が子に教えると、大きさも全然違いますので、全体を真似させなければいけないのです。もちろん大人同士で教えるときも、例えば手の角度、ひじの角度だけを見せてはいけないのです。なぜなら、人間は二の腕、かいな、胴回りから何から、寸法が違うので、先生がうまく立っていたとしても、この角度は先生にしか対応しない角度なのです。ですから、親が全体的なイメージとしてまずやってみせたものを、子が真似して、構える。それを親の方は、やはりイメージとして、「君の場合はもっとひじを張れ」というふうに矯正していくのです。
  そうすると、勿論角度や背中の感じなどが目について参ります。例えば、背中に意識がない子が、背中までちゃんと親の形を観ないで、背中を丸めて構えているとします。すると親が、その部分をたたいたり、なでたりして、そこの神経を触ることで、そこに神経を持てという合図を送り、だんだん形づくっていくというのが、我々の稽古です。そういう風に、意識がないところに意識をちゃんと持てるように仕向けていくことが、教養ということなのかなと思います。
  例えば、コンピュータが今ポピュラーなので、それになぞって説明させていただきますが、我々の稽古のように子どもを教えるというのは、プログラミングするということに近いように思うのです。私共の言い方で申しますと「型にはめ込む」ということなのですが、そのようにプログラミングして、機能できるようにしていくことが、我々狂言の型を学んで、表現するということの在り方だと思います。プログラミングや型があって、その上で個性を発散する。そういう手段・方法をきちんと与えてあげることが一種の教養であると考えます。人体も一種のハードのようなもので、それを動かすソフトとしての教養を何か身につけさせれば、世の中に出てきちんと行動できるのではないでしょうか。人間の体の中で機能がきちんと果たせるように回路ができてしまえば、そこに集中したりエネルギ ーをそそぎ込むことで発散できるようになると思うのです。
  そういう意味では、「開発する」ということにもなり、スポーツの在り方にも似ているように思います。ただ、スポーツというのはどうしても勝敗や優劣を問うてしまうことになるのでしょうが、狂言は人に対してのサービス的な部分もあります。優劣と言うよりは「通じ合う」ことで、一つの発散が成し得るのではないかと考えております。
  もう少し具体的にお話しさせていただきますと、以前に出演致しましたNHKの「課外授業・ようこそ先輩」という番組をご覧頂けたならば話が早いのですが、あの種明かしを少しさせていただきたいと思います。例えば今、学級崩壊などで、教室をうろうろ歩き回ったりなどということがあるようですが、場に対する意識とか、普段の自分との隔絶感があまりないのではないかという気がしております。我々のお稽古というのは挨拶から始まるのですが、この挨拶というのが、普段の自分から稽古に身を置くということに切り替える一種のスイッチになっているという気が致します。能楽師はいちいちそういうことは考えないのですが、私は敢えてこじつけて考えてみました。普段の姿勢とは違って、狂言の姿勢なり、または様式・形式張った形に入ることで、普段の、または休憩時間の自分とさよならして、これから勉強するのだという意識になるのではないでしょうか。
  背筋を伸ばして正座もしてもらいました。そして普段のように背中が曲がった状態のまま授業をするのではなくて、1回その前に背筋を伸ばしてから、手をついて自分の首をキープする。それは非常に辛いことなのですが、そういう風にして延髄なり脳に対しても丸くせず、一本筋を通してお辞儀することで、体のテンションが変わるのではないかと思います。私が小学生の時に、「起立・礼」といって、座っている状態から立ち上がって礼をするということで始まったのは、意識を切り替えるという一つの行為だったのだろうと思います。
  ただ、どうしても伝統的にやることというのは形骸化する恐れがあり、学校の先生も「起立・礼」を何でするのかと考えたときに、挨拶をしてから始めた方が良いからだ、と思われているのかも知れません。でしたら「こんちはー」と言った方がフレンドリーでいいという考え方ももちろんあると思いますが、狂言的に考えますと、立つことによって、ひざと背筋を伸ばして、しっかりお辞儀させた方が、気は引き締まるのではないかと思います。あまり軍事的な感じがするのは嫌いですが、少なからず挨拶というものはきちんと背筋を伸ばして、びっしりと体にテンションを与えてから折るということでも、単純に意識が変わるのではないかと思います。
  挨拶の後、子ども達に体育館の雑巾掛けをしてもらいました。雑巾掛けにも、ただ単に掃除させるという意味もありますが、もちろん自分たちが勉強する場所を清めると言う意味もあります。それからみんなで一緒にやることで、一体感も持てますし、ゲーム感覚が出ますので、スピード競争などをすることができ、高揚感が生まれます。そして何より、自分の体重を知るということがあの中では重要だったのです。靴の文化に押されている今、我々がすり足を教えるとき、いきなり足の裏がどうこうだとは教えられないので、手の平にかえて教えてみるのです。これは私がイギリス人に狂言を教えたときに、すり足をいきなりやって見せても何だか良くわかってもらえなかったという経験から考えたことです。手で自分の体重を感じて、重力というものを感じる。そして、手で起こっていることを足でやらせるのだという発想の転換をすることで、重力を感じながら演じるという狂言の特質を理解してもらえるのではないかと思ったからです。雑巾掛けは、辛い体勢ですので、掃除するだけのことならば面白くもないわけです。しかし、辛いけれども、スポーツ感覚やゲーム感覚を盛り入れることで、子ども達は随分喜んでやってくれました。
  「くさびら歩き」というキノコに扮する技術があるのですが、これもやってもらいました。ウサギ飛びの格好をしたまま歩くのですが、非常にハードで、皆さんがやると、恐らく股がパンパンに張ると思います。実は、姿勢をうまく保っていないと動けません。それこそ背中に物差しを入れたようにピンと背筋を伸ばしていないとできませんので、やる方はとても辛いのです。人が辛いことをしているのを見るのは面白いものですが、いざ自分がやってみると、辛いということが非常に良く分かります。おちゃらければ人は笑ってくれるかも知れませんが、このくさびら歩きというのは、ふざけてやるとちっとも面白くないのです。きっちりとやることで、人は楽しんでくれるという事も教えたかったわけです。これはすり足ができるようにするための一種のステップアップの材料でもありまして、キノコの歩き方を教えた後にすり足などを教えます。
  すり足を大人に教えると、十中八九みんな人の足をずっと見ながら歩くのです。こういうことが知識から入ることの恐ろしさだろうと思うのですが、すり足というのは足をこすりつけるだけではなく、全身のテンションを保ったまま平行移動することであるという言い方もできるわけです。あるテレビ番組で、父・万作が、タレントのきたろうという方を始め、三人の方にすり足を教えるということがありました。3人いた中の2人は、確かにずっと足を見てすり足をするのです。しかし、きたろうさんだけは、狭い舞台のところをすり足していって、危うく落ちかけるというギャグをしていました。これは非常にうまいギャグだなと思ったのです。
  つまり、すり足というのは、すり足と言うぐらいだから足の事かと思ってしまうのですが、実際には構えたまま平行移動していますので、足元も見ないようにスーっと動くのです。ですからきたろうさんが、狭い舞台で段差も気づかないで、そのまま落っこちてしまうと言う捉え方をされたのはさすがだと思いました。つまり、言葉のイメージに幻惑されてしまうと言うことがあるのでしょうが、物の本質からすると、構えをキープしたまま平行移動するというイメージの方が本当のすり足なのですが、そういうことがわからずに何となくすり足を教えると、形が違ってきてしまうのではないかという気がいたします。
  例えば、イギリス人にすり足を教えても、その人が能や狂言をやるわけでなければ、意味がありません。ですから、足をこすりつけたりすること自体は本当に無意味なのですが、舞台の上で皆さんの視線を集めて、集中させ得る一つのテンションを全身に持って居続け、そのまま移動できるということが、すり足の優れたポイントであるという考え方のもとで、すり足を教えるということが大切なのだと思います。これがただ単に、「能・狂言ではとにかくすり足をしますから、皆さんすり足をして下さい」ということでは、伝わることが違うのではないかと思います。
  それから、リズム感とか、笑うということの方も教えましたが、伝統とか、習わし的に来てしまうと、それが形骸化して、何のためにやっているのか分からなくなっている部分があるので、それは何のためにやっているのかということをきちんと教えれば、時代に即した教え方に変えていって、全然問題ないのではないかと思います。伝統というのは権威的に働いてしまいますので、今まであったやり方を崩す、というのは非常に冒険心がいることなのですが、ちゃんと本質を押さえている人間は、新しいことをやったとしても決して道は踏み外さないと思います。いかにも伝統を守っている顔をしている人の方が実は分かっていなくて、形骸化した伝統意識になるということもあるような気がいたしました。
  そういう意味で、今、邦楽教育が問題になっているようです。今朝も能楽協会理事長と少し話をしまして、能楽協会が実際にどの程度邦楽教育についての活動をしているのかなど、FAXなどで資料を見させていただきました。協会としては、いろいろと対応を考えているようですが、そこで聞こえてくる話は、いきなり楽器を買おうということで、邦楽楽器屋さんが売るためのチャンスだと躍起になっているとか言うことでした。情けない話だと思います。邦楽楽器を買う買わないと言うことは、確かに重要な問題であるとは思うのですが、要は単に楽器を教えるわけではなくて、日本の音楽にある精神であるとか、リズム感であるとか、そういうものを教えることが重要なわけですので、楽器を買うことだけが重要ではないと思うのです。楽器を買ってしまうとそれだけで満足して終わってしまいそうだと言うこともありますし、それよりも何か違ったやり方で教えることの方が重要な気がいたします。
  私は、ヨーロッパと日本の音楽とは随分違うなと思いました。オーケストラピットに中枢機能を担うコンダクターがいるという形式の洋楽に対して、アジア的な音楽というものは囃子方なのです。すなわち、巫女さんのような人物が真ん中にいて、その人たちに対して囃し立てると言うことが一つの音楽の形態なわけです。同じ音楽でありながら、洋楽と邦楽というのは在り方が違うと言うことが言えると思います。
  今の日本の音楽教育というのは、西洋のお仕着せと言うこともないのでしょうが、西洋音楽の在り方からのアプローチしかないわけです。1拍、2拍、3拍、4拍というのは、全部同じ時間の長さであるというのが当たり前に考えられていますが、日本の音楽というのは、実は1拍、2拍、3拍と拍の長さが違うのです。その拍の長さの違いを埋めるために、また、他の人とその場の空気を共有するために、「ヨオォーッ」などとかけ声をかけたりするわけです。そうやってかけ声をかけて、みんなでリズム感を作っていき、一つの宇宙観を作っていく。こういうリズムがあるから、それにみんな従わなければいけないというのではなくて、みんなでキーを合わせていって、一つのリズムが伸縮しながらつくられていくというようなことが、日本の音楽の特長だと思います。
  そのあたりが芸能としての日本の演劇関係の物の在り方なのだと思いますが、私と致しましては、そういう部分をぜひ教えていただきたいと思っています。三味線を買うのになんとかかんとか、鼓が本物だとどうせ誰も扱えないから、などと言っているのであれば、道具を使わずに、手拍子で教えればいいと思います。手拍子で、例えば謡のレコードの合わせて拍子をとってみるとか、そう言うことで十分じゃないかと思うのです。ただ、現場としては洋楽の先生しかいないので、なかなかそこまでは教えられない。そうすると、表面的に楽器という物に触らせればそれで終わってしまうと言うことにどうしてもなってしまいがちなのですが、何か具体的な感性に訴える部分で教えていかなければ行けないと思っております。
  話が音楽教育の方に逸れてしまいましたが、最近、世田谷パブリックシアターなどで狂言のワークショップをよくやらさせていただいております。その中で「笑い」の型もやらさせていただきました。笑ったり悲しんだりという感情表現は、西洋的には感情があった上で起こる行動と考えるのが一般的です。しかし、狂言の場合は、おかしくなくても笑えるのです。型というものを使うと、スイッチが入ったように笑えるわけです。おかしくなくても、とにかく大きな声を出して笑う型をすると言うことで、自己を発散することを覚えますと、自然と気持ちよくなって、おかしくなってくるのです。物事の順序というのはいろいろな経路があると思いますが、先程申し上げましたプログラミングということに近くなりますけれども、いきなり意味や何かということではなくて、その手段を教えると言うことで、教わってしまえば、だんだんそれを使いこなした人間の物になって、機能するということになるかと思います。
  とにかく今、キレる子どもたちが非常に多いという事実がありますが、キレるというのは自己を発散する機会がないからなのではないかという私の勝手な解釈で、笑うという型を使ってとにかく大声を出したり、エネルギーを出したりして、何か表現する楽しさを教えられないかと思っております。
  私は、筑波大学附属小・中・高等学校と出ましたけれども、カリキュラムの中で、表現することを教える授業というのはほとんどなかったと思っております。たまに体育の授業で舞踊の先生がやっていらっしゃったので、動物の真似をしたりということもありました。それから、女子教育の中で創作ダンスというのがありましたが、それが唯一表現することの授業で、後は知識を植え込む事の方が多くて、表現することを教えていないなというのが、私の感想です。
  ですから、表現するということをただ知識で教えるのではなくて、体を使って発散することを考えて、ワークショップを遂行しているのです。日本の古典芸能は現代社会から何となく無縁のもので、好きな人だけが見るというイメージがあるかも知れませんが、洗練された手段を持った一つの文化ですから、これを日本で使わない手はないと思っております。
  私の父もよく、前は素読という授業があったのが、今は目で読むだけで、声を出して国語の文章を読まなくなってしまったために、言葉を耳で聞いても分からなくなっているのだと嘆いておりますが、私も同感です。今、テレビを中心とした視覚の時代に突入しており、且つ文字テロップがテレビの中でたくさん流れるということで、これは末期的な症状だという気が致します。人間は視覚ででしかものを考えられなくなってしまったのかと憤りを覚えます。能舞台では、視覚に訴えるものは動きだけで、言葉は聴覚で感じ取るしかありません。また、日本には琵琶など、語りを聞かせるものも数多くあったわけですが、そういう「聞く文学」を読んで味わっても仕方がないのではないかという気が致します。聴覚的な授業の在り方が一つ重要になってくるのではないかと思います。
  また、昨今、ボキャブラリーが貧困になったと言われて久しいですが、例えば「赤」の色を「真っ赤」と言うか、「真紅」と言うか、「紅」と言うか、「赤ーい」のか、それは言葉によって表現は可能なのですが、そういう遊び言葉すらも忘れられてしまっているのではないかと思います。文字にしてしまうと全部単純化してしまうような気も致します。ですから、「超ー」とか「ウッソー」などと、少ないボキャブラリーに何とか表現を盛り込もうとして、今、言葉が変になっているという事もあると思うのです。実際の粋な言葉の使い方というものが世の中にないから、そういうことになってしまうのではないかと思っております。
  以上、今の教育現場への私の疑問点など申し上げましたが、総括致しますと、教養を身につけさせるということは、手段・方法を身につけさせてあげるということなのではないか。その上で、その子がそれを使いこなせば、後から個性はどんどん出てくると思いますし、使いこなせる手段を持っていれば、そこに邁進できます。素直に集中して、自己発散の道ができるのではないかと思います。
  ですから、いちいち思案して、「あ、こうしなきゃいけない」というのではなくて、体得していれば、物を考えずに自然にそういうことができる。そういうようなことを身につけさせることが教養なのかなと思います。知識ではなく、体で覚えて、当然そうなると言うようなことを何か教えてあげれば、キレたりしないのではないかと思います。
  また、ついこの間は、東京大学の教養学部に非常勤講師として呼ばれ、テレビでやったワークショップと同じようなことをやり、大学生にも大変喜ばれました。表象文化論という講座ですが、文学などを研究なさっている方々が、知識として芸術を語ったり教えることはできるかもしれませんが、表現するという実際の楽しみまでは教えられないので、私のような実技者を呼んで実技を体験させるという主旨を持っております。この試みは、大変評価されるべきで、こういった授業がもっといろいろな形であるべきではないかと思います。
  私は、出身でもあります東京芸術大学の講師もしておりましたが、狂言が未だに邦楽科にあるということも不思議ですし、演劇学部がないということも問題があるような気が致しております。何か見つめ直す機会を持ったりとか、意味を遂行していくというのが、伝統芸能をしていくことの私の一つのポリシーでもあります。教育というのも、一種のパターン化しやすい現場なのでしょうけれども、パターンの中で意味を失わずにしていくことが重要なのではないかと思います。
○根本会長    どうも大変おもしろい話で、ありがとうございました。
○  ただ今のお話、大変おもしろく、また興味深く聞かせていただきました。プログラミングとか、体がハードで、ソフトが教養でというお話は、私のようなコンピュータばかりやっている人間にも何となくよくわかるような気がしまして、ありがとうございました。
  いろいろな質問があるんですけれども、たぶんいろんなところで委員の方々から御質問があると思いますので、私は一つだけお伺いしたいと思います。野村さんがおっしゃるように、今までの学校教育を私自身もひっくるめて考えますと、机の上で教科書を見ながら、知識を覚えるということはずっとやってきました。しかし、体の中のいろんな神経や、筋肉や、そういうものを実際に使って、それを自分の体の中で体得するということは、私の小学校のときから考えてもほとんどないことなんです。
  これは変な例えになるかもしれません。私は物理の出身なんですが、物理に二つあって、理論物理と実験物理とあります。理論物理というのはどうもそちらのほうであって、実験物理というのはそれを実際に実現して、結果を見てという、両方が重なって、一つの真理が出てくるのではないかと思います。教育の中で体得するということを、どうすればできるのか、私には具体的な方策がなかなか見つからないんです。野村さんは英国にいらしているんですが、海外で具体的にそういうことをやっているような例がもしありましたら、教えていただけたらと思ったんです。
○野村意見発表者    僕自身が具体的に受けたわけではないのですが、動物園に行って、動物をよく観察し、普通はスケッチしたりするものでしょうけれども、みんなの前でその動物のまねをするというようなことを、鴻上尚史さんという劇作家・演出家の方が習ったと言っておりましたけれども、それはおもしろいなと思いました。人間同士で観察するよりも、動物のほうが単純に違いがわかる部分があるんでしょうね。人間の生きているリズム感であるとか、何となく腹が緩んで重そうなカバが寝ているとか。自分が腹が緩んでいるという意識はふだんあまり持ち得ないのを、カバを見ることで、腹が緩むというのはどんな感じかというようなことを意識させるということを聞いたことがあります。それは自分から自発的にすることもあるかと思いますが、我々狂言のやり方では、指導していって意識を持たせるということになると思います。
○  表現が大変貧弱で申しわけありませんが、目からうろこが落ちるような話をありがとうございました。
  一番最後におっしゃった、教養というのは、手段・方法を身に付けさせることだという点については、私も全く同感です。能の世界、狂言の世界、歌舞伎の世界、それから職人の世界でもやり方は同じだと思います。しかし、最近は、子どもたちがそういうやり方を受け付けなくなっており、これを続けていくことが非常に難しくなっていますね。今の教育はそこの所から逃げよう、逃げようとしているような気がして仕方がありません。もちろん教える側に非常な能力があって、子どもを自家薬篭中のものにしてしまえばそのようなやり方も可能だとは思うのですが、多様化といいますか、いろいろな子どもたちが出てきていて、そういうことができない状態になっていますね。私はエンジニアですが、エンジニアリングを支えるテクニシャンレベルでそういうやり方がほとんど不可能になってしまっています。私は、その辺の状況が最近のエンジニアリングのいろいろな事故につながっているのではないかと思っております。今お話の手段・方法を身に付けさせるやり方、つまり最初にかなりつらいことをやらせなきゃいけない。そういうことをどうやってやったらいいのか。今後そのようなやり方が続けられるのだろうかということを、感想として感じた次第ですが、その辺、いかがでしょうかね。
○野村意見発表者    僕はあえてつらいことから始めるんです。雑巾がけも、くさびら歩きも非常につらいんです。つらいけど、つらいことをやった後の快感、またそれなりの成果がちゃんとあるんだということがわかると、素直になってくるんだと思うんです。そこら辺は我慢大会だと思うんですが、一緒につらいことをやってあげることで、先生も一緒につらいことをやってるからやろう、と言って、子どももやってるような気がします。
○  長くなって恐縮です。最近、テレビで、私は、二つの番組を見ました。一つは「はぐれ雲の会」という非常に難しい子どもだけを集めて、それを世の中へ出していく夫婦の話です。今のお話のように、指導者が実際に自分で子どもと濃密に接触し、子どもを変えていくのです。二つ目が「おっちゃん」という番組です。無人島に子どもを連れていくのですが、絶対に子どもに「こうやれ」と言わない。自分でやって見せる。子どもたちは、初めは「コンビニがないから帰りたい」等と言ってたのですが、いつの間にか引っ張り込まれる。結局、いい指導者を育てる以外に方法はないのではないかというわけです。それを小さなプライベートなグループだとこのような指導が可能ですが、公教育で可能かという点、そこが一番大きな問題ではないかという気がするのですが。
○野村意見発表者    冒頭に申しましたけれども、物まねさせることが重要だとするのは、よき指導者がいて、それをまねして体で覚えていくから意味があると思います。まねする対象の人がやるとおりのことがうまくできると、本当に自分の肉となり血となるわけですね。我々の場合は、1対1であったり、徒弟制度があって生活まで一緒にするからまたわかり合えるようなことがあるので、そういう意味では恵まれているんでしょうけれども。つらいことも遊び心をちょっと加えたり、みんなでやることでそれが解決できるという部分を子どもたちに実感させることで、少人数のグループから徐々に人数を増やすことができないかなという気がいたします。
○  2点、御感想を聞きたいと思うんですが、本題からはそれるかもしれませんけれども、先日の「ようこそ先輩」を拝見し、今日のお話を伺いまして、附属といういわば特別の学校ではありますし、それからちょっとお話に出た東京大学の教養学部というのもまた特別な学校かもしれませんので、あまり平均的ではなかったかもしれませんけれども、あるいはそのほかワークショップでいろいろなあれがあると思います。端的に言って、狂言師という立場もありましょうし、それ以外の立場で、現在、学校現場にさわってみて、何かここがおかしいんじゃないかとか、あるいはここはこうしたらいいんじゃないかという点があるかどうか。例えば、テレビの中で、子どもたちをしかりつける場面がありましたね。意図的にやったんだというふうにあそこでおっしゃってましたけれども、しかりつけられた後の子どもの反応がどうだったのか。それから、終わって、その学校の先生方はどんな感想をお持ちだったか、というのが一つの質問でございます。
  もう一つは、狂言を修得していくために、親子でマン・ツー・マンで徹底的に模倣から始まるというお話でしたけれども、学校の場合には1対1というのはなかなか難しいわけで、1対20とか、1対30とか、あるいはもっと多い場合もあるわけです。しかし、マン・ツー・マンのよさも当然あると思うんです。完全な意味のマン・ツー・マンではないかもしれないけれども、マン・ツー・マン的な教育の仕組みを現在の中で生かす工夫が、何かここにあるいはあるかもしれないということがありましたら教えていただきたいと思います。
○野村意見発表者    あの状況は生徒がだらけていたので、活を入れるようなつもりで大声を出しました。流れや、リズム感や、緊張感を呼び起こすためにそういうことをいたしましたけども、生徒はそこで奮起したなという気は大変いたしました。一度だらけて集中の糸が途切れたら、もう1回集中しようというときに、人間は誰しもだらけたくなってきちゃいますから、だれかが悪役を買って出なければいけない。決して悪意で僕がどなったというふうにはみんな思わないわけですし、あの後すぐ課題がクリアできたので、みんなに納得してもらえたと思いますし、あれで逆に随分信頼してもらえたなという気もいたしました。ただ単に何か御機嫌をこっちが伺っているようですといけないと思います。やっぱり真摯に向かい合うことが重要だと思います。
  学校の先生はあまりあの現場には出てきませんので、反応はわかりませんでした。後日、『教育研究』という冊子のインタビューに載ったので、興味はお持ちになったのでしょうけれども、あまり具体的には実はわかっておりません。
  それから、マン・ツー・マンのことですが、ワークショップですと、みんなに同じことを自由にやらせる時間を15分ぐらいつくって、その中で僕がちょっとずつ回って見るわけです。例えば2人組にでやらせて、そういうペアが15組ぐらいあるところを転々と回っていくということで、指導者と生徒が個人的にかかわる時間をつくったりするのは、全体を教えている中でもいい関係ができるなという気がします。
  そして、みんなにやらせた後、実はみんなの前で発表させていたんです。この間のテレビの中では出ていないんですけれども、雑巾がけとか、キノコ歩きもみんなにやらせた後、みんなの前でやってみたい人はまずやってみなさいということで非常に効果的な気がいたします。ただ全員に同じ時間だけ与えて、「ハイ、もうクリアしました」というのではなくて、その結果をだれかに代表させて発表させる。その子が下手でもあまり問題ではないんです。あいつのあそこは下手だったなとかみんな思ったり、うまいところを褒めてあげたり、頑張ったなということで拍手が起こったりという、連帯感を持たせるために、私のワークショップでは発表の場を設けております。
○  どうもありがとうございました。一つだけお伺いしたいんですが、お師匠さんのまねをするということからの総合表現学みたいな学習が起こったような気がするんですが、言葉、それが音質だったり、音量だったり、しぐさであったりというふうに、身体全体を使った表現につながる。先生のお話の中で、学校時代に表現を教えるのは創作ダンス程度なものというお話もあったんですが、今の学校教育で、国語とか、社会とか、算数とか、いろいろ分かれていろんな学習を子どもたちはしているんです。そのときに、例えば今の狂言なんかの場合ですと、言葉とか、しぐさとか、それに表現という形からいけば絵を描いたり、ダンスをしたり、いろんな形の表現があります。そういうものを国語とか、図画工作とか、それから家庭科で食物の飾りつけとか、衣服のデザインもあります。それを統合するような表現学、あるいは現象を理解して表現するということから言うと、その二つを合わせたコミュニケーション学というんでしょうか、そういう教科みたいなものが新たにできて、今の国語とか、コンピュータまでも含み込んじゃって、人と人とのコミュニケーションをして自分を表現するものに関するあらゆるものを入れたような科目が、子どもの発達段階に応じてカリキュラムがうまく組めるとすると、今までの教科とそういう教科ができたときの子どもの学習に対する影響に関して野村さんはどのようにお考えになりますでしょうか。
○野村意見発表者    演劇の授業をしたらどうかなと思います。お芝居一つつくるということになれば、当然、文章も関係しますし、単に演じるだけではなくて、セットをつくったり、洋服をつくったりとか、そういうことから始めれば、色々な要素がクロスする授業ができるという気がいたします。狂言や能を一つとっても、総合芸術と言われるところを網羅していますので、衣装のデザインもおもしろいですし。事実、イギリスの劇団は、演劇のワークショップを積極的にやっています。今、学校の中でお芝居を見せるということがどの程度行われているのか。お芝居を見せるといっても、ありきたりの巡回公演というだけではなくて、場合によってはセットを組み立てるところから見せるとか、着がえるところから見せるというのもおもしろいかなと思います。
○  先ほどの話に関連することでありますけれども、今の学校教育の現状は、どちらかといいますと型から入ることに消極的な状況があるのではないか。子どもたちの自主性とか、主体性という言葉が優先されているように思います。私は個人的には学習の発達段階に応じて、時には教え込まなければいけないという気持ちを持っております。先日のテレビを拝見しまして、まさにそのとおりだなという感を持ちながら、一方で、教え込みのような時代といいますか、野村さんの話ですと、まねている段階すなわち基礎・基本を学んでいるときからいつか脱却していくのだろうと思うんです。野村さんたちも親御さんから学ぶ中で、やがて自分の個性を生かしながら、新たな自分の芸を拡げてきたのではないか。そういう時期が恐らくあったのではないかと思うんですけれども、その辺の経過といいますか、移り行くときの様子について、何かお考えがございましたらお尋ねをしたいと思います。
○野村意見発表者    古い言葉で「学ぶ」というのは、「まねる」という意味もありますよね。私はずっとそういう教育を受けましたけれども、けいこの段階までは、非常に型にはめ込むというか、様式のことをとやかく言われましたけれども、本番に関しては「うまくやれ」ということは決して言わない教育でしたね。ですから、身に付いたことを信じて、あとはやったことを信頼して、やることに集中し、発散する。特に子どもに対しては、舞台へ行く前に必ず父に「大きい声でやりなさい」と。つまり、発散しろと。だから、うまくやれとか、あそこはよくできてなかったから、あそこは気をつけろとか、そんなことは絶対言わないわけです。ある程度教えるほうの責任で、ここまでやったら、あとはもうその子に任せてしまうんです。でも、ふだんの教育ですと、本番と稽古というふうには機会が分かれないかもしれませんね。
○  今伺いまして、最終的には教育の営みというのは指導者にあるのかなということを改めて思いました。大変参考になりました。ありがとうございました。
○  私は、野球をやるんですが、お話を聞いていて、ボールを投げる、受ける、打つ、滑り込む、やはり同じことが言えるなと感想として持ちました。そのときに、学校現場でもすべての人が、例えば野村さんがおっしゃったようなことを見せてあげられるわけでもないし、自分でやっていないことは教えられないみたいなね。そういう意味では、やってみせられないという問題を、今のようなストーリーなりお考えとどう結びつけるのか。やってみせられる人を学校現場にできるだけ多くということしかないんだろうと思います。その辺が一つの隘路かなと。感想みたいなことですけれども。
○  一つだけ。今の委員の方のお話ともちょっと関係があるんですが、今、子どもたちといろいろな場面で接していて、小学校・中学校・高校、共通の問題ですけれども、漫画がすごくはやっているんです。これは大人もそうらしいんですが、とにかく漫画、漫画という形で。表現をするという姿形、あるいは音というものを通して何か伝えるという作業ですと、私どもが考えると、例えば「美しい少女」という文章ですと、読んだ人間はいろいろ想像します。だけど、絵で見せられちゃうと、全然想像がなくなるわけです。美しいというのはこういうものだという形になります。その辺のところを非常に気にしていまして、なるたけ文字を読めということを言っているんです。
  同時に、今お話をお伺いしていて、それだけではいけないんだなという感じを率直に持ったんですけれども、ではどうしたらいいかという辺ですね。結局、指導者の問題になっちゃうのかなとも思うんですが、どうしたらいいかなというところがあるんです。おっしゃられたお話は、本当になるほどと思ったんですが、同時に実際に生徒たちと接しているときに、漫画を読まないようにしたいわけです。そこのところの説明というか、納得の仕方をどのように持っていったらいいか。
○野村意見発表者    そういう意味で、専門家の力を発揮させるようにしていただければと思うんです。子どもにはやはり実力行使していかないと、ついてきてくれないという気がしました。私もイギリスで精神的障害を持った子どもを教えなければいけないときがあったりしましたが、狂言をいきなり見せても、嘲笑でしたね。最初は文化的違いを受け入れられないで、すごく大笑いするんです。屈辱的な感じもいたしましたけれども、体操で言うならウルトラC的な技をみせた途端に、みんな一瞬、ゴクリとつばをのみ込むような感じもありました。例えば、聞く文学といったときに、実際に生のものを聞かせたり、例えば、やれるかどうか分かりませんけれども、教室で平家を語っていただくということをやれるといいと思います。単にテープで聞けば済むかというと、そういうものではないと思うので、邦楽楽器奏者とかそういう人が実際の現場に行けたらいいなと思いますね。
○  テレビも今日のお話も大変おもしろかったです。野村さんみたいな先生が各学校に一人ずついればすばらしいなと思ったんです。実際お父様が先生でいらして、それ以外に、ビデオの中でもスポーツをしたり、音楽をしたり、あるいは教育の現場の学校で生徒でいたときに、印象に残る先生はいらっしゃったのですか。
○野村意見発表者    僕は結構問題の多い子でしたから、掃除なんかも、普通の掃除ですとまずしない子だったんです。先生が監督してないとやりゃあしないという子で、そういう子が5人ぐらい集められて特別班というのを担任の先生につくられまして、その先生は道徳教育の先生でしたけれども、特別班はリヤカーを引いて学校じゅう練り歩くわけです。噴水とか、校庭の池のどぶさらいとか、みんながしないことを奉仕的にするんですが、リヤカーを引っ張っていることにある種花形的な誇らしさもありつつ、でも何か汚れているみたいな。子どもってエネルギーを持て余しているので、それを発散させてあげると、非常に喜んじゃうのではないか。その矛先をうまく見つけてあげる。それがまたうまく機能するようにしてあげる。ただ単に押さえ込むのではなくて、その子に合ったように、手の平で遊ばせてあげると、お互いにお互いが納得できたりして。「何でおれたちはこんなことをしなきゃいけないのか」と思いながら、その先生には随分痛めつけられた覚えもありますが、その先生がいたから少しは真っ当になったなという思いもあります。
○  大変ありがとうございました。私も「ようこそ先輩」はずうっとテープで録ってみておりまして、大変感動いたしておりました。今回のお話を聞きまして、五感という問題ですね。これが、今の学校教育の中で不足しているのではないか。すなわち、先ほど野村さんは、職業の中での徒弟制度、マン・ツー・マンの中でマイスターを目指して、五感を使って体得した。それが教養のもとになっているという。確かに一芸に通ずるといろいろなところの教養が増えてくるという感じがしたわけでございます。日本の場合、大衆教育というか、教育が大衆化されるときに、教育の媒体が人ではなくて、例えば教科書とか、マニュアルとか、そういうものを通じての教育がだいぶ多くなってきた。すなわち、五感を通じた教育がだんだん薄れてきている。その中において、いろいろな問題が起こってくるのではないかと感じたわけでございます。先ほど野村さんも、文字化することによって狭くなってくるというお話をされたわけでございますが、まさに文字化ということは五感のうちの一つしか使っていない面がありますので、芸術などについては五感があらゆるところに発揮されていると思いますが、そこら辺のお考えはどうでございましょうか。
○野村意見発表者    一緒の舞台に立っていて、父が興奮する姿を間近に見ると、自分も興奮を覚えたりしましたが、先生が実際に五感を使わないと子どもには伝わりづらいということはあるかもしれませんね。先生も含めて生徒と一緒に体験すること。ただ単に先生が教えるだけではなくて、生徒と同じように初めて取り組むことをしてみるというのも、そこでのその先生の処し方で大人の生き方も学ぶこともできるかななどと思いました。そういう意味で、聴覚に優れた人の声を聞かせるだけでもいいんじゃないかと思います。
○  今、教育現場というのは教え方について迷いがあると思います。そういう意味では、伝統芸能の教え方の中に一つの鍵があるのかなと。ジャンルにもよりますけれども。そういう意味では、大変興味深く拝聴いたしました。
  ただ、恐らく非常に教養のあると思われる方々も、今、若い世代では伝統芸能から遠くなっておりまして、非常にびっくりしたのは、「太郎冠者」と言っても通じないんですね。そういうテレビのキャスターなどもおられます。狂言を教えられる人口というのはどのぐらいおありですか。つまり、ある種のレベルでということです。
○野村意見発表者    狂言を教授するということですね。能楽協会というところに属している人は100人ちょっとですけれども、本当にそういう意味で人に教え、プロと言われる人は半分に満たないのではないかと思います。ただ、僕のやったワークショップなんかは本当の狂言師がやらなくてもできるのではないかと思っているんです。狂言とか、日本の古典芸能は難しいと思われがちですが、特殊な技術ではなくて、意外と単純なんですよね。ですから、怖がらずにやっていただいて、補足的にビデオを使っていただいてもいいし。笑いの型などは、みなさんがやっても十分できるのではないかと思います。うまくやらなくていいと思うんです。
○  どうもありがとうございました。お伺いしたいことはたくさんあるんですが、時間がありませんので、一つだけ、どれを聞こうかさっきから考えていたんですが、一番興味がありましたのは、意識を持たせることが大切だと。学級崩壊は場に対する意識がないから、挨拶をさせるとおっしゃったんですが、そこですぐ思ったのは、挨拶する意識のない者にどのように意識を持たせたらいいのか。それはお答えいただかなくてもいいんですけれども、もっとお伺いしたかったことは、型に入れるということが大事だという話から――聞きたいことがたくさんあるものですから、絞りますと、「ようこそ先輩」というのは私も大変いい番組だと思いますし、あれを見ながらいつも、昔、宮城教育大学に林竹二という学長さんがいらっしゃって、全国で授業をなさったんです。これは非常にいいというので話題になったんです。そのときに林先生は学長さんだから、「今度、学長さんが来るよ」というので、子どもは緊張して聞くんです。それと1回限りなんです。同じ授業を全国でなさるから、だんだん上手になってくるんです。もし林竹二さんが365日、1年間のカリキュラムを教えたらどうなるのかなという質問も出ていたんです。
  「ようこそ先輩」を見ていて思ったことは、大体一流人、有名人なんですね。聞くほうも興味を持って聞いていると思うんです。それから大体1回限りなんですね。もう一つは、能狂言の場合ですと、お弟子さんには目的意識がありますから、最初から緊張しているんですが、普通の子どもは、学校へ親が行けと言うから行くという感じですから、あまり目的意識がないんです。だから、私も「ようこそ先輩」の方式を、これからの学校の道徳教育とか何かで、1回限りでやるべきだということをほかの会議でも言っていまして、非常にいいことだと思うんです。非常に失礼な質問なんですが、もし「ようこそ先輩」のように1年間教えていくことは、どういうことが問題になるんでしょうか。
○野村意見発表者    週に1回程度でしたら、芝居をつくったらどうかと思いますね。まず、どのお話を芝居にしようかということで、たくさん話を読む。みんなで討論したり、このお話をつくることになったんなら、どういう演出にしようか、どういうセットにしようかということて、美術的プランをみんなで模索して、例えばその模型をつくったり、衣装をどうするか。これも絵で描いてみたりとか。そして、そこに使う音楽はどうするか。それをなるべく自分たちの手づくりにするようなことでできるのではないか。許されるならばしたいと思いますけれども。
○  大変興味深い話をありがとうございました。私も「ようこそ先輩」を見させていただいて、感銘深く見たのは、一人一人の子が型を覚えて、その型の中で自分を発散するということと、もう一つ、みんなとの一体感をどう身に付けさせるか。その一体感を身に付けさせるところで、ちょっとだれたところに、野村さんが大きな声でという。個を徹底して磨いていくということと、その個がクラスならクラスとか、あるいは社会を含めて、どう一体感を持つのか。最近、一体感というか、コミュニケーション能力が非常に欠けているということがいろいろな場面で指摘されています。そういう意味で、個というものと一体感の調和、バランスがある意味で難しいと思うんです。みんなで「桃太郎」という狂言をつくるということの中で、それぞれの班ごとに一体感みたいなものができ上がっていったというふうに私は受けとめたんですが、そういう理解でいいのかどうか。
○野村意見発表者    一体感。しかし、中では実は分業もしているわけです。全員が同じことをやるというよりは、一つのことをみんなで分担しながらも、一つである。その中心になることは何かといったときに、演劇的にいうとリズム感だったり、そういうような気もするんです。そこの共通の部分と個ということをうまくまとめるのに、演劇とか、そういうことは有用ではないかと思います。人間得手不得手があるので、そういうところで分業が自然に起こってしまうので、そこをうまく割り当てられると……。たぶん30人の学級でいったら、そういうお芝居をするのにちょうどうまく人が分けられるのではないかという気も致します。
○  最後に、私、野村さんの御意見を伺いたいんですが、型にはめ込むというお話がございました。たしか芭蕉のことばを敷衍したものの「祖翁口訣」でしょうか、「格に入て格を出ざる時は狭く、又格に入ざる時は邪路にはしる。格に入、格に出て、はじめて自在を得べし」ということを言っているわけで、五七五の格があるけれども、そこから自らの意志において出てきて、それが一つの芸術として結晶していくのではないかと思います。野村さんの言われたのは、基本形というのがまずあって、それを教え込む。そして、その基本形をベースにして、今お話のあったような個々が自分の道を行くということではないかと思うんです。その基本に戻るということの大事さ、その発想を体感をもって感じ取らせるというお話であったかと思います。一番大事なのは、基本形というものをたたき込んで、そこから子どもたちが自由な一つの発想に立っていくという発想形式を教え込むことが、教養をさらに深めていく上で非常に大事なんだと、そういうふうに私は野村さんのお話を読みましたけれども、そういう理解でよろしゅうございますか。
○野村意見発表者    はい、結構かと思います。これは父から教わっている理念ですけれども、制約がないと、自由は本当の自由ではないというようなことで、例えば鬼ごっこをするにも囲いのない野っ原でしてしまうとつまらないわけです。狭いところほどおもしろかったりするし、また、そこで鬼ごっこのバリエーションとして手つなぎ鬼であるとか、そのように発想が膨らんでくる。制約があるということも別に不自由なことではないという意識。それから、基本形があるから、次に進めるという喜びが感じられたらばいいと思いますね。古語にしても、例えば文法だけをガミガミ言っていると、結局覚えるだけになってしまいますけれども、文法がわかった上で、どんどん古文が読みこなせるようになって、書かれている内容のほうに楽しみが感じられれば、古文の文章というのはおもしろいと思うんですけれども、今、書いてある内容のおもしろさなんか伝えないで、読み方だけを伝えてしまうというようなことになっていると思うんです。最初に文法を習ったりするのはつらいということがありますけれども、そのつらさの上にある楽しみも少しは教えてあげないと、人間ついてこないなと思います。
○  要するに、自由と規律という相矛盾する二つのファクターにどういうアプローチをするかというと、どちらかというと規律を先にして、それによって自由の意義がよくわかってくるというやり方もあると思うんです。それがどちらかというと、まず自由だと。その後、いろいろ影響するところが出てくるので、規律を守らなくちゃいけないという順番になるんですが。今のお話を伺っておりますと、基本形、あるいは規律というか、そういうものを相当徹底的に教え込む必要があると私は理解したんでございますが、大体そういう方向でよろしゅうございますか。
○野村意見発表者    そうですね。子どもは全く無の状態ですから、プログラミングしてあげるという言い方は、大人が責任を持ってそういうふうに仕立ててあげなければ、彼らの個性も保証されないという意味合いもございます。
○根本会長    ありがとうございました。
  それでは、次に中村桂子さんにお願いしたいと思います。御経歴については資料のとおりでございます。現在、JT生命誌研究館副館長でいらっしゃいます。それでは、よろしくお願いいたします。
○中村意見発表者    中村でございます。よろしくお願いいたします。
  さすが野村さんは表現者ですし、第一お声がすばらしく、ほれぼれして伺っておりました。私は御紹介いただきましたように、生物を自然科学的に勉強するということをやってきた者ですので、その立場からふだん考えていることをお話しさせていただきます。
  まず、教養について話せと言われたのですが、教養とは何かということがわかりません。実は、阿部謹也先生の「『教養』とは何か」での定義に共感しましたので、拝借しました。阿部先生は、「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のために何ができるかを知っている状態」が、教養がある。またはそこまでいかなくても、「それを知ろうと努力している状態」もよいとおっしゃっています。まさにこういうことだろうと思います。
  別の言葉を使えば、先ほど野村さんが宇宙観とおっしゃいましたが、自分の暮らしの中で世界観を持つということだと思います。今、子どもたちの教育現場で多くの問題があるとされ、10代の子の過激な行動があると問題になっています。子どもは、結局、大人の社会を反映しているわけですから、そういう状態を見ると非常につらい、なぜこうなったんだろうと考え込むわけです。そして、私たちが世界観をきちんと持つ状況をつくっていないからではないかと思います。
  世界観といってもそんな難しいことではありません。実はこの夏に、印象深い体験をしました。たまたま長野県の小さな町だったのですが、コンピュータ関係できつい仕事をしてくたびれてしまい、御夫婦でそこへ移り住んだ方がいらして、民宿をやっております。お隣にひとり暮らしのお年寄りがいらしたので、夜のおかずを一皿お裾分けした。その翌日、お皿が返ってきたわけです。その中に、夏に咲く黄色い花のきれいな野草ですが、ミヤコワスレの花束が入っていて、そこに白い紙があったので、見たら、「脱サラやみやこわすれの花の里」と書いてあったというのです。そのお年寄りは高等教育を受けた方ではないと言ってらっしゃいました。とても印象深く聞き、「これを教養というのか」と思ったのです。こんな感じの人々がつくる社会はどうやったらできるだろうというのが、今、私が思っていることです。
  これから先は、これが正しいかという主張ではなく、生き物の研究をしている者として考えていることとしてお聞きください。
  それはどういう社会か。ここから我田引水ですが、21世紀は生命が基盤になる社会になると思っています。これはどなたもおっしゃることです。教育でも、生きる力ですとか、共生が大事だとか、生命の尊厳と言われていますが、抽象的なことではなく、私が考えています生命の一番大事な切り口は時間です。
  生命と対照的に考えられる、今の社会が大事にしているのは機械です。機械が大事にするのは効率です。もちろん機械、コンピュータが要らないと言うつもりはありません。機械は大事ですが効率が一番の価値になりますと、人間も機械のように扱うようになるところが少し心配なので、機械は機械で結構なんです。
  実は、生き物は決して効率ではなくて、時間をかけます。プロセスこそが生きていくということなわけで、よく私は冗談に言うのですが、生き物に効率よくやれと言ったら、生まれたらすぐ死ぬのが一番効率がいいので、生きているという時間そのものは何ともむだだけれども、これこそ生きているということです。
  生き物は体内に様々な時計を持っていることがだんだんわかってきました。リズムを刻んでいる時計もありますし、寿命を刻んでいる時計もありますし、脳の様々な働きを刻んでいる時計もあります。この様々な時計を大事にするということです。機械の時間は直線で流れますけれども、生き物の時間は循環します。そういう循環したものが蓄積してできていくのが歴史であり、生き物は、機械のようにだれかが設計してつくるものではなくて、歴史がつくり上げるもの、時間がつくり上げるものです。「命の大切さとは何?」というのはとても難しい質問ですけれども、はっきり一つ言えることは、こんなに長い時間をかけてつくり上げてきたもの、その重みということだけでも大切だということです。
  機械の論理で動いてきた社会で大変問題になったのが、例えば産業で言えば農業ですし、医療ですし、環境の問題です。それから、教育です。教育というのはまさに子どもという生き物を、機械のように効率的に動かしてしまったのが、様々な問題を起こしている。農業、医療、環境、教育というところに出ている問題を考えれば、これは生命という、時間という感覚を入れた価値観でもう一度考え直さなければいけないことがわかります。そういうところに目を向けていく必要があるのではないかと思うのです。
  それでは、そういう社会をつくり上げるのにはどうしたらいいか。これは難しい問題で、私が答えを持っているわけではありませんけれども、生物の側から考えると、こんなことがあるのですということを申し上げます。教育論議では、何を教えるか、どういう制度にするかということが主になります。しかし大事なのは、制度以前の人間の問題だと思います。野村さんのお話がまさにそうだったと思うのですが、受け取る能力のないところに何を与えても受け取れないと思うのです。これを「受容体」が大事と書かせていただきました。生き物、例えば人間の体は、全体として見事なシステムとしてでき上がっています。それを支えるには、情報がたくさん入ってきて、それを処理するわけです。成長ホルモンや男性ホルモンなどホルモンがありますが、ホルモンは血液の中をクルクル回っているわけです。体じゅうの細胞すべてに受容体があり、必要なものがきたらそれを受け取り、必要でないものは行き過ぎさせるわけです。受容体があらゆる細胞にあり、肺の細胞は肺の細胞らしく、心臓の細胞は心臓の細胞らしく外からの情報を受けとめるようにできていますから、全体がまとまりをもって働けるわけです。ですから、受容体をきちんとつくっておくことが重要であるわけです。
  教育もこれと同じで、自分に必要な情報を受け止める受容体をもつ人をまず作っておかないと、何を教えても入っていかないのではないでしょうか。
  ではその受容体をどのようにつくるのかということになるわけです。ここから先は、教育の御専門の方に後でコメントをいただきたいのですが、生物学者としてはこんなふうに考えています。人間は生き物には違いないのですが、非常に特殊な生き物で、でき上がって生まれてこないわけです。特に脳は、でき上がらないうちに生まれてしまいます。脳が大きくなり過ぎましたものですから、でき上がってからでは、お母さんの中から出てこられないので、早目に生まれてしまい、生まれてからでき上がっていきます。特に脳はそうなわけです。このごろ、脳の研究が進んで、生まれてから大体7、8歳ぐらいまでの間に、脳の様々な能力ができ上がっていくということがわかっています。
  その間に何をすればいいかということですけれども、このごろは早期教育というのがあって、小さいときから「知識、知識」なんですが、少なくとも学齢前は、知識ではないと思います。日本でしたら6歳になる前ですね。学齢というのはよくできていると思うのです。世界じゅうを見ても、私は全部の国を知っているわけではありませんが、3歳、4歳で学校へ入れる国もなければ、10歳まで学校へ入れない国もないのではないか。大体5、6、7歳ぐらいで学校へ行く。逆に言いますと、それまでは学校へ行かないということで、その間には知識ではなくて、全体的なものを磨く。それは自然だと思っています。
  自然といいますと、例えば東京にいらっしゃる方は、「子どもを自然とつき合わせるといってもできない」とおっしゃるのですが、私に言わせれば、人間がまず自然です。生き物が自然とつき合うときに一番大事なのは、自分の仲間とつき合うことです。おサルはおサルの仲間とつき合うことがまず大事で、それが上手にできたおサルさんがえさもとれれば、ほかのものともつき合えるということになります。東京は自然がないと皆さんおっしゃいますけれども、人間だらけなので、私に言わせれば自然がいっぱいある。両親、兄弟、それからお友達、近くの人というふうに人とのつき合い方をしていく。知識を教えようと思うと、「さあ、3時からお勉強ですから」って自動車でパッと連れていって、また自動車で連れて帰るということになりますが、そうではなくて、お母さんと子どもが人間の関係ができていて、一緒に手をつないで道を歩けば、子どもは小さいですから、我々よりもはるかに地面がよく見えて、草が生えていたり、アリが歩いていたりというのが見えるわけです。
  私ども、昔遊んだところへ行ってみると、「何だ、こんな小さなところだったのか」と思うことがよくありますけれども、ちょっとした公園があれば、子どもにとっては十分な自然です。その後、もちろん山へ行ったり、川へ行ったりすることが大事ですけれども、まず、身近なものとつき合うことが大事です。
  実はこのごろのいろいろな災害でもわかりますように、何よりも、最高級のコンピュータよりもはるかに複雑なのが自然だと思います。自然は本当は難しいものです。けれども、生き物はそれをスポッと受け入れる能力があるわけです。特に子どもはスポンジみたいなもので大きな吸収があると思います。そういうものをポンとそのときに入れておいて、その中にある複雑さや謎を、後で一生かけてゆっくり解きほぐしていくのが、知識を得るということの意味なのだと思います。最初、複雑なものをポンと入れておかないと、解く対象がない。何をやっていいかわからないというのは、そういうことなのではないかと思っています。
  それが終わった後どうするか。ますますここから先は教育の方に御批判があるかもしれませんが、そのように自然とのつき合い方が体に入ってしまえばほかの生き物はそれで十分なのですけれども、教養ということを考えるために、どうしても必要というか、人間に特有で、これこそ人間らしさというものを支えているのが言葉だと思います。普通、言葉はコミュニケーションの道具として考えられています。もちろんそれは大事です。第2公用語を英語にするなどという話があるときにも、グローバルな時代にコミュニケーションの手段としてということですけれども、もしコミュニケーションということに限るならば、これはあらゆる生物がやっています。植物まで含めて、ハチならハチ同士のコミュニケーション、もちろんハチと花の間でも、見事にお互いのコミュニケーションを十分やっています。
  人間が言葉を持っているからできるのは、考えるということだと思うのです。言葉なしでは考えられない。言葉の最も大事な役割は考えるということです。考えたことを言葉を通じてコミュニケーションし合うことはもちろん大事です。先ほどの野村さんのお話にあったように、聴覚は実は視覚よりも何よりも先に発達した感覚でして、眼は閉じることができますけれども、耳がずっと開いているというのは、非常に基本的な情報を取り入れる感覚なわけですから、聴覚が最初であることはもちろんです。人間は実はサバンナに出てきたものですから、チンパンジーなどに比べますととても豊かな視覚を持っています。聴覚、視覚だけでなく触覚などあらゆる感覚で得たものをもとに言葉を使って考えることが必要なので、きちんとした言葉を覚えなければならないと思います。言葉は変化するものであり、今の若い人たちの様々な言葉も、それはそれで構わないのですが、考えるということのためには、昔からある文法をきちんと学ばせて、論理的に物が表現できるような言葉をきちんと教えておかなければいけない。
  私は、初等教育は、これだけでもいいと思っているのは、論理的に考えるための言葉をきちんと教えるということではないかと思っています。それを展開していくときは何でも利用する。今、ビジュアルのものもありますし、何でもいいと思います。ただ一つ読書ということをここで申し上げたいのは、今、インターネットなどで情報がたくさんとれる。世界から何でもとれる。これはすばらしいのですが、本に入っている情報は、時代も場所も超えた、大きな情報だと思います。人間にとって何が大事かというと、先ほどイメージとおっしゃいましたけれども、考える場合、人間に特有で、とても人間らしい大事なものは、イマジネーションだと思うのです。教育ではよく創造力が言われますが、私は創造力は100%想像力から生まれてくるものではないかと思っていて、それが大事だと思います。
  もう一つ生き物にとって大事なのは、これまた我田引水なんですが、私は生命誌が専門でして、後でちょっとお話しさせていただきますが、物語性がとても大事だと思っています。人は一生をどうやって生きるかというと、やはり物語を紡いでいるのだと思います。だれでも1冊は本が書けるとよく言われますが、物語を紡いでいくので、物語性を身に付けることが大事なのではないか。これは最後にお話ししますが、今、環境問題とか、いろいろありますけれども、人間が生き物の一つとして生きていくためにも、この物語性を持っていることが大事だと思っています。
  一つアイテムを抜かしてしまったのですが、それは「仕事」です。言葉を覚えて、自分で考えることができたときに、表現が大事です。自分が表現できなければ、生きている価値はないとまで思うのですが、最大の表現は、自分の仕事を持つ。その仕事は別にどういう仕事でもいい。子どもを育てることもみんな含めての仕事です。
  実は私、生物学をやっていまして、高校生に接するのですが、大好きなのが農業高校です。そこへ行くととても楽しいのです。午前中は、黒板の前でちょっとつまらなさそうに勉強しているのですが、午後になると、実習です。このごろはバイオテクノロジーの簡単なものもやれますから、非常におもしろいことをやって、シクラメンを育てたり、ランを育てたり、牛を飼ったりしている。で、牛を飼っている子で、365日学校へ来る子がいる。先生が「来なくていいよ。お正月は私がかわりにやってあげるから」と言っても、どうしても来ちゃうのだそうです、牛が心配で。算数を学びに365日学校へ行くという子はあまりいないと思うのですが、牛だと行ってしまう。そういう生徒に接しているといいなと思うのです。そういう形で、何か仕事につながることが与えられると、そこで表現にまでつながり、自ずと教養を身につけて、それが自分らしく生きたということになるのかなと思います。
  最後に、私の仕事場でありますJT生命誌研究館のリーフレットの表紙に書いてあります扇ですが、どういう意味かといいますと、扇の端が現在です。現在、5,000万種類ぐらいの生き物たちがこの地球上に生きているのですが、それは扇のかなめである40億年ほど前に生きた一つの祖先から全部出てきたということが、DNAの研究からわかってきております。そこで、現存の生き物のDNAを分析することで、人はどのようにして人になったか。さっき狂言でキノコになるというお話がありましたが、キノコはどうやってキノコになっていったかというのを調べていきます。そうしますと、キノコも人間も途中まで同じところを歩いてきたのです。ですから、DNAで比べると、キノコと同じところが人間にあるんです。ですからキノコ歩きは上手にできるはずなんです。そうやって、40億年かけて生き物たちがどのようにしてできてきて、どういう関係にあるかという物語を読むのが生命誌という仕事です。この物語の中に人を位置づけたいと思ってこのような仕事をしています。
  生き物は大事だとか、ほかの生き物とは仲間だとか、ずうっと言われてきて、それは直観的にわかっていたことですけれども、幸い現代の生物学が、私たちが直観的にわかっていた生き物としての人間の地球上での位置づけについて、事実としていろいろ明らかにしていますので、教育の場でも生かしていただきたい。別にそれはDNAで人間を説明するなどということではありません。これはとんでもないことで、そんなことではなく、「ああ、人間もこんな位置づけなのか」ということを、人間を考える基本に置いていただくとありがたいと思います。
  実はこのごろ、大学教育の中で言われているのは、今、生物学が大きく進歩しているので、アメリカではMITやハーバードで、人文系の人も社会系の人も全員が生命科学を勉強するのが必須になっている。これは事実なんです。実はこれはとてもいい教科書なので、私が日本語に訳したんですが、“Essential Molecular Biology of the Cell”という現代生物学のよいテキストがありまして、それが必須のテキストになっている。それを日本でもやるべきだというのが、今、大きな声になっています。それは大変ありがたいんですけれども、それだけを勉強しても教養にはならない。先ほど申し上げたような自然との接触により受容体をつくっておいた上で、現代生物学を入れないと意味がありません。現代生物学は実は機械論の上に成り立っていますから、これだけを取り入れるとある意味ではとんでもないことになって、人間をどんどん機械のように扱っていくことにもなりかねない部分を持っています。そういうものを入れた上で、MIT、ハーバードが必須だから、日本も、というのをそのまま取り入れないで、今申し上げたような延長上でそういう知識を使っていただければありがたいと思っております。
  教養も教育も専門でない者が、自分の日常のことから勝手なことを申しましたので、いろいろコメントがあると思います。是非伺わせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。
○根本会長    どうもありがとうございました。
  40数億年かけて、生物は5,000万種類でございますか。
○中村意見発表者    実を申しますと、わかっておりません。3,000万種類と言う人もいれば、5,000万と言う人もいれば、8,000万と言う人もいれば、株ではないので、上げてもしかたがないのですが。実は名前がわかっておりますのは150万です。つまり、何もわかっていないというのが正直なところです。
○根本会長    非常に壮大なお話で、おっしゃられたことは全く同感だと思っております。
○  私も中村さんがおっしゃったことについては全面的にうなずいて、もっともだと思って伺った次第ですけれども、どのような「社会」をつくるのかということで、おっしゃったことの中で、今の社会は機械といいますか、効率が優先されるという社会で、その結果として、農業とか、医療とか、教育もいろいろな課題が出てきているという趣旨の御発言がありまして、日ごろ私もそのように思っているんです。ただ、一方で全く効率性を考えないというのは実際問題としてなかなか難しい。ただ、最近、規制緩和とか、市場原理ということで、ある意味で公教育も含めて、いろいろな分野で効率がまた重視される。それが行き過ぎていろんな問題が発生してきていると思います。中村さんがおっしゃった教育における効率の問題について、もう少し具体的に何かお考えがあればお聞かせいただければと思います。
○中村意見発表者    例えば自動車をつくる際の効率はいけないなどと言うつもりは全くありません。ただ、社会すべてが効率になり、生き物として扱わなければならない場所まで、全部同じ価値観でやってきたことを問題にしたいのです。例えば、自動車産業と農業とを同じ効率という物差しで比べたら農業の生産性が低いということになるのは当たり前ですね。農業は生きものを扱うので、お米は1年に1回しかとれないということを承知した上で、どういう農業をやるかということを考えなければいけないわけです。
  教育でも算数の時間で、5分でどれだけの問題が解けるかということだけが評価の値になるというのではなくて、その問題を解いている間に、その子が何を考えているかということを見てやらなければいけないという意味で、プロセスを見ていただきたいと申し上げました。
○  大変興味深く教えられたんですけれども、一つだけお伺いしたいと思うんです。人間は効率ではなくて、時間だと。人間の中に、私は体内時計があると思うんですが、この前議論していましたら、時計の歴史は、日時計、水時計よりも先に腹時計があるという話が出たんですが、それはともかくとして、人間の生体リズムがあると思うんです。それは夜寝ることだと思うんです。ところが、文明とか、効率は、夜寝ないように、寝ないように、24時間サービスをやっているわけですけれども、そういうことをどのように考えていったらいいのか。生命を考えるなら、人間が住みよいというのは、今日のお話ですと、自然との対話が一番いいみたいですけれども、幾ら人工的な自然をつくってもいけないので。アークヒルにも人工的な自然があるから、遊びにこいと社長からよく言われたんですけれども、私は「不自然の中の自然か、自然の中の不自然かわからないじゃないか」と言ってたんですが、一体、これから21世紀、人間はどうやっていくのか。夜、静かに眠れるような社会でないと人間はだめなのか、それとも人間は適応していくものなのか。24時間か25時間かの体内リズムがありますが、それとの関係で生命というのはどうなっていくのかということをお伺いしたいんです。
○中村意見発表者    生物学の立場から申し上げれば、体のもつリズムが優先ですよね。しかも、それがどういう過程ででき上がってきたかというと、40億年の歴史を持っているわけです。それを変えるのは……
○  40億年かかるということですか。
○中村意見発表者    40億年かかるとは申しませんが、その間に組み立てられてきたシステムですから、そう簡単には変わらないと私は思っております。夜も明るいという実験をし始めてから、まだ時間が短いので、それをやると一体何事が起きるのかということは、答えはまだ出ていませんから、ここで正確にお答えできませんけれども、そう簡単にはこのリズムは変わらないだろうと思います。
○  貴重なお話をありがとうございました。効率と時間という関係で、時間をかけて醸成されるものの大切さということはわかったわけですけれども、プロセスこそが生き物の歴史の中に大きく位置づけされているということですが、脳の発達を考えていくと、6歳、7歳ぐらいが重要だということの御指摘があったわけでございます。時間とタイミングといいますか、わずか人間は100年の中で――40億年の話ですとわからないんですけれども、例えば人間の一生の100年というものを考えた場合、時間と人間としての基本的なタイミングはどのように考えていったらよろしいんでしょうね。
○中村意見発表者    生物としては、卵から始まって、体の中で細胞が分裂し、形ができていく。その中で脳ができ、また脳の中で神経のネットワークができるというタイミングが正確に決まっています。私たちは人間ではなく、鳥で研究しておりますので、21日たったら生まれてくるのですが、5時間たったらこうなる、10時間たったらこうなるというのは、ほとんど個体差なく進みます。そこの時間はきちんと決まっております。生まれてきた後、そこへどういう情報を何を入れるかということは、今度は脳ですね。脳の研究は最近始まったばかりですが、だんだんそこもわかってきて、ネットワークが何歳ぐらいでできるか。例えば、言葉などの基本的な情報はこの時期に入れなければいけないというタイミングはあります。基本的な脳ができていくところは学齢前のあたりなので、そこを大切にしたい。ここは文部省のお役目ではないところかもしれません。親が一番関わるのでしょうけれども。そこでとても難しいことをしなければならないということではなく、普通に育てればよいという意味です。自然と接していただきたい、人と接していただきたいということは、特別なことをあまりしないのがよいということです。特別というのは断片的な知識という意味で、実は断片的な知識よりは、虫や花のように、何となく入っていきながら、実はとても複雑な情報を入れておくことの方が将来のためにも大事だと思います。
○  キーワードが生命だというのは、本当に共感させていただきました。確かに今の医療なども、看護というファクターを加えますと、命というところもわからなくなってきまして、これであと何ヵ月と医者から言われた人がよみがえるということもあります。そういう意味では、教育というのも一つの謎のような気もして、それで私たちもいろいろ論議を積み重ねながらも、非常に悩んでいるところだと思います。
  質問をさせていただくとすれば、キーワードの「受容体」ですね。確かに何を受け取るかということなんですけれども、これと自然との学齢期前のつき合い、つまり40億年の知恵を持っているところと関係するということですね。
○中村意見発表者    そこでやっておけば受容体ができると思うという意味です。今、悩んでいるとおっしゃったんですけれども、教育や医療には、おそらくただ一つの答えというのはないんだと思うのです。先ほど機械について、私は効率ということだけ申し上げましたけれども、もう一つ、機械の世界は答えがある。必ず答えがあるという世界なんです。生き物を見ていますと、答えのないことだらけです。ちょっと違う見方をすると、こうかな、ああかなという、いろいろなことが考えられて、それをみんなでディスカッションし合うというところがあるんですね。教育は、機械でなく生き物の見方でやっていただきたいということの一つは、答えは必ずしもないということがあるんだよというほうがいいのではないかと思いまして。
○  だから、多様で個性的なんですね。
○  大変おもしろいお話をありがとうございました。初等教育で論理的に考える言葉を身に付けるということが一番大事だというお話だったんですけれども、論理的に考える言葉を身に付ける上で有効なトレーニングというか、どういうふうにすることでそういう言葉が身に付くかというのは何かありますでしょうか。
○中村意見発表者    私はこういう仕事をしていましたから、詩などは、余裕ができたときに遊ぶものだと軽く考えていたのですが、このごろ脳のことなどがわかってきますと、詩は非常に本質的なものだと思うのです。まず詩が出てくるのではないか。その証拠に、子どもたちのいう言葉って、みんな論理ではなくて詩ですね。だから、うっかり「うちの子は天才じゃないか」とつい思うんですけれども、うちの子ではなくて、子どもは全部天才だという証拠だと思うのです。その能力は全員が持っていると思うんです。だから、詩を教えなくていいというのではないんですけれども、国語の教育では論理より詩的なもののほうが必要ではないかと思いがちですが、それはもともと持っているので、むしろ文法をきちんと教え、論理的に伝えられる、考えられるようにする。だから、国語の教科書に取り上げるものも、もちろん物語や詩はいいのですけれども、それが子ども向きだと思わずに、きちんと論理的な文章を小さなときの国語に入れてもいいのではないか。これは素人の勝手な発言ですけれども、そんなふうに思うのです。
  実は私、小学校4年生の教科書に、「体を守る仕組み」という文章を書いていますが、これは免疫といって、大学生でも難しい内容なんです。理科では、高等学校でも免疫は教えてはいません。学習指導要領で。ところが、小学校4年生の教科書にそのことを書きますと、たくさん手紙がきます。それはとてもよくわかっています。だから、理科では高等学校でも教えられないようなことを国語で書けば、わかってくれる。ですから、もっと論理的な文章を国語で入れてもいいのではないかというのが、勝手な私の気持ちです。
○  教科書も、冒頭に詩が大抵あって、物語というか文学的な文章が確かに多いというのは感じますね。ありがとうございました。
○  大変いいお話をありがとうございました。一つだけお伺いしたいのは、ハーバードとか、MITで教えている現代生物学の教科書の根本が機械論にあるということをおっしゃられたんですが、生きているということの時間に意味があると先生がおっしゃられる背景として、宗教をどうお考えになっているか、御意見をいただければ大変ありがたいんですけれども。
○中村意見発表者    科学から宗教を語るというのは、危険ですし、私は典型的な日本人で、特別にこれを信じておりますという宗教があるわけではありませんけれども、日常生き物の研究をしておりますと、何か大きな力を感じないわけにはいかないことがよくございます。それが一体何なのかと、そういうことを深く考えることもなしにしておりますけれども。例えばDNAは単なる物質なのですが、それがやっている見事なはたらきを見ると、これはもしかしたら神様がそっとどこかに置いていったものかもしれないなと思うことがあります。それは宗教という難しいことではなく、なんとなく思うんです。そういうことを感じることは、生物として接しているとたびたびあります。それが宗教というまとまったものにつながるかどかは別として、そういう感覚を持たざるを得ない場面によく出会います。
○  それは教育のところではどういうふうに伝えられるべきだと考えられますか。
○中村意見発表者    正直申し上げて、例えば生物学を教える場面でそれを伝えることは本当に難しいです。自分が研究をしている、実験をしているときに、実感としてわかってくるんです。例えば、細胞やDNAは、現実には目に見えません。けれども、一所懸命やっていると、イメージとして見えてくるんです。でも、それは口で伝えても伝わりません。これはどうしていいか、ここがとても難しいところです。それを何とか共有したいと思って、身近にいる学生やそういう人には、身ぶり手ぶりで話したりいたしますけれども、例えば100人の授業でそれを伝えろと言われると、これはなかなか難しい。そこはおっしゃるとおり、大変難しいところです。萬斎さんのように動いてやれるといいのかもしれません。体で伝えられるといいなと、先ほどお話を伺いながら思っていました。
○  教育は生き物の論理でというお話などは、私も大変共感を覚えたことでございまして、ありがたく思いました。お話の中で、学齢前の子どもたちのはぐくみ方として、自然を相手にすることが一番いいのではないかというお話は、私自身もそう思っており同感であります。しかし就学をしますと、教育という営みは計画的で、意図的で、ある意味では自然と両極にあるとは言いませんけれども、自然に対して人工的で、人為的であるようにも思うんです。今、世の保護者の方などはそういうことを見越して、本来は自然の大切さを思いながらも、次にくる人工的な営みのために早目、早目に行動に移しているのではないかという思いがするんです。その辺のところについて、先生が「私はこんなふうに考える」というのがありましたら、お聞きしたいと思います。
○中村意見発表者    今の世の中で、三つ四つのときに英語塾へ送り込んだりしたくなる、そういう状況であることは、私の周りを見ていてもわかります。生物学でそんなことはまだはっきりわかっておりませんので、私の感覚だけですけれども、先ほど申しました受容体ができていないとだめで、最後にどういう人間に育ってほしいかということで違ってくると思うんです。最初に申し上げましたミヤコワスレということがわかるような人間に育ってほしいと思いますと、最初にそれを入れておかないとその受容体がまずできない。そして、知識は、それが基本にあればあとからどんどん入っていくと思うのです、受容体さえあれば。ですから、あわてなくてもいいのだということが、もっとはっきり言えるデータとか、そういうものが出てくるといいのですが、まだそういうものがございませんので、直感でしか申し上げられませんけれど。先に知識を入れるよりも後から入れたほうが効率がいい。「効率」という言葉を使えば、効率がいいんだろうと思っております。そういう感覚を皆が共有しないと、何でも早く入れたほうがいいんだろうと思うと、人よりも一日でも早くになってしまって。今はそういう中にありますから、一人一人のお母様に「それはだめです」と言うのは難しいです。だから、全体の考え方を変えないとできないと思います。
○  今、先生のお話を伺ってすごく感激しているんです。私自身は、コンピュータの仕事を29年やっております。今の技術の進歩のスピードを見てみますと、大変な勢いで進んでいます。人とコンピュータがチェスのゲームをだいぶ前にやりまして、コンピュータのほうが勝ったというのがありました。そのときのコンピュータの能力はトカゲの脳みそぐらいと言われています。あと数年でゾウの脳みそぐらい、2010年ぐらいには人間の脳みそまでいくかいかないかというのが今の予測です。少なくとも非常に高いレベルの能力を持つことが出来ると考えています。その力を使ってゲノムを分析するとか、また、眼の網膜のところにコンピュータのチップを埋め込みますと、眼の見えない人がコンピュータの力によって眼が見えるようになるとか、技術は本当にどんどん進むんです。そういう世界に身を置いている人間としては、このまま技術革新がどんどんいくと、とても恐ろしいことになるのではないかという不安があります。しかし、今のようなお話、何十億年もかかって出てきたプロセスというものは、たかだか数十年のコンピュータにとても負えるものではないといったこと、また、命のすごさを実感してもらう、そういったことを若い人たちとか、小さい子に教えてあげることによって、自分たち人間というのはすごいものなんだという感覚をぜひ持って欲しいと思います。私は今日、自分自身でも感じて感銘を受けています。何かそういう機会を作ることはないものか、ぜひ御意見をお伺いしたいと思います。
○中村意見発表者    私は今、生命誌研究館を運営しているんです、研究所ではなくて。研究館というのは、私のつくった言葉で「リサーチ・ホール」です。ホールですから、コンサートホールと同じで、4階建てで、3階と4階では研究をやっているのですけれども、1階と2階は、皆さんにいらしていただいて、私たちがやっていることをビデオにしたり、現物をお見せしたりして、いろいろな形で共有していただいているんです。そういうことを一人でも二人でも多くの人と共有したいという気持ちがあります。研究所ですと閉じこもったところでやります。今おっしゃってくださった「命がすごい」というのは毎日感じていまして、それを共有したいので、ホールにしました。本当に小さなところで、ささやかにやっています。こういう場所がもっとどんどん増えて、そういうことが多くの子どもたちにも伝わっていくといいと思っています。
○  一つお伺いしたいと思います。人間の発達にレディネスとか、タイムリネスという概念がございます。例えばおはしを子どもが使えるようになるのに、ある年齢にきたときに教えるとすぐできちゃうけれども、それより前だといくら教えても大変苦労して、できるけれども、むだになるという。先ほどの他の委員の方の質問とも関係しているんですけれども。言葉についても、脳の発達のレディネスとタイムリネスというのがあるような気がするんですが、現代生物学の立場から見て、早期教育にはある程度ネガティブでいらっしゃるのかどうかというのが一つ。
  もう一つは、教養みたいなものも、「いずれあいつは物がわかるようになるよ、ほっとけよ」というのと、あるいは教養を身に付けるためには、トレーニングだとか、何か教育的な働きが必要だというようなこと。レベルがちょっと違うかもしれませんけれども、レディネス、タイムリネスの関係について。
○中村意見発表者    それは先生が御専門分野でずっとやっていらっしゃったことで、先ほど私が申し上げたことは、そういうことがあるのではないかという素人の考えです。それは生物学のほうでも少しずつ脳の働きとしてわかってきたので、それを生かしていきたい。心理学ではずっとやっていらした成果と重ね合わせて考えていきたいということを申し上げたつもりです。部分的知識の早期教育には疑問をもちます。
  それから、教養ということですが、教養とは何かというのは、先ほど申し上げた阿部先生のおっしゃっているのが私は非常に好きということで考えました。これが正しいかどうかはわかりませんが、今日私が申し上げたようなことを幼児期にやっておけば、あとは今はもう情報の時代ですから、どこからでもいろいろなことが入ってまいります。こういう準備がない中で、断片的な情報が入ってきても、自分の中で物語がつくれないと思うのです。こういう準備をしておけば、入ってくる様々な情報で物語を組み立てられて、自分の世界観をつくることができると思いますので、これが教養の基本だと申し上げたつもりです。
○  最後に先生の御意見を承りたいんですが、先ほど野村さんの話を伺っておりまして、基本を子どもにたたき込むことがいかに重要かということを伺ったわけであります。その基本とは何かというと、今日のお話を伺いますと、天然に学ぶといいますか、そういうものが一つあって、読書をするということは、恐らく古典的なものを含めてだと思うんです。それから、仕事ということは、我々の世代からいうと一種の勤労観です。そういったものをしっかりと、幼児、小学校、中学校というふうに段階的にしっかり教え込む。そこで大事なことは、先生の言っておられることで、イマジネーションという言葉がありました。これはおそらく構想力ということだろうと思うんですけれども、そういったものをとにかく養うことが教養の上で大事だと私は読み取りましたが、大体それでよろしゅうございますか。
○中村意見発表者    そうでございます。先ほど紹介いたしませんでしたが、レジュメには、皇后様のお言葉を書かせていただきました。子どもの本の会のオープニングのときのメッセージの中で言われた、読書は「根っこと翼」をつくるというのはとてもいい言葉だと思うんです。根っこを持っていて、翼を持つというのが、人間としてはそれが教養ではないかと思います。根っこがなくては生きられない。――今、荒れたり、どうしていいかわからなくなるのは、根っこがないからですね。根っこがあるからといって、それを規制してしまって、あなたはこれなんです、これなんですと決めつけてしまうのは、また生きていることにならないので、一方では翼を持っていくらでも広げられる。「根っこと翼」というのは見事なお言葉だなと、私はあのときに感激して伺ったんです。
○根本会長    大変にいいお話で、本当にありがとうございました。
  それでは、これで審議を終えることにいたします。
  どうも今日はありがとうございました。


(大臣官房政策課)

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