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中央教育審議会

2000/09/12 議事録
中央教育審議会  総会(第234回)  議事録

14:30〜16:30
霞が関東京會舘35階
ゴールドスタールーム

1.開    会

2.議    題
        「新しい時代における教養教育の在り方について」
          有識者からの意見発表及び討議

3.閉    会

出席者
委  員 
  根本会長、内永委員、木村委員、坂元委員、志村委員、杉田委員、
  田村委員、俵委員、 土田委員、永井委員、横山委員

事務局
  鈴木総括政務次官、松村政務次官、小野事務次官、白川審議官(生涯学習局担当)、
  御手洗初等中等教育局長、矢野教育助成局長、工藤高等教育局長、本間総務審議官、
  寺脇政策課長、その他関係官

意見発表者
  田部井淳子  氏(登山家)
  助川      暢  氏(基督教独立学園高等学校長)

○根本会長    皆さん大変お忙しいところを御参集賜りましてありがとうございます。
  本日は、基督教独立学園高等学校の助川校長先生においでいただいておりまして、この学校は山形にございますが、私も参りまして、つぶさに学校の中を拝見させていただいて大変に感銘を受けたわけでございます。ぜひともいい話をお伺いしたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
  また、登山家の田部井淳子さんにもおいでいただいておりまして、私から御説明するまでもなく、アルピニストとして万丈の気炎を吐いておられます。我々もよく山には登りましたけれども、先生のいろいろな御経験談、貴重なお話をお伺いしたいと思っております。
  特に私どもが問題意識として持っておりますのは、教養教育の在り方について今学習しているわけでございまして、ただ本を読んだり、そういった狭い理解ではなくて、もっと広範な人間教育の一環としての教養について、山登りとか、あるいは山形の山奥における子どもたちの教育とか、そのような視点からいろいろ御意見があるかと思いますので、ひとつよろしくお願いしたいと思います。
  次に、新任の委員の御紹介でございます。9月7日付で新たに二人の方が委員に就任されました。
  初めに、日本アイ・ビー・エム株式会社常務取締役の内永ゆか子さんでございます。大学では物理学の勉強をされたそうでございますので、大いに期待しております。どうぞよろしく。
  次に、静岡県教育委員会教育長の杉田豊さん。どうぞよろしくお願いいたします。「初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会」の専門委員としても御尽力を賜りました。どうもありがとうございます。
  それでは、配付資料の確認をお願いいたします。

<事務局から説明>

○根本会長    それでは、最初に田部井先生から御意見を承りたいと思いますが、おおよそ30分ぐらいをかけましてお話を伺いまして、その後、10分ぐらいの質疑応答を行いたいと思います。よろしくお願いいたします。
○田部井意見発表者    田部井淳子と申します。こういうところでお話をするとはまさか思ってもみませんでしたので、申しわけないんですけれども資料も何もございませんが、皆さんにお聞きいただければ幸いです。私が体験してきたことを踏まえてお話をさせていただきたいんですが、まずは自分自身の幼児期の体験、そしてヒマラヤでの体験についてお話をしたいと思います。
  私は、東北の福島県にあります三春町という小さな城下町で生まれました。三春というのは、梅と桃と桜の花が一度に咲くので、三つの春と書いて三春町といいます。そこは本当に小さな城下町で、周りはずうっと山に囲まれておりましたので、私にとって山というのは、いわゆる木の生えている、畑のある、緑の山という概念しかありませんでした。
  ところが、小学校4年のときの受け持ちの先生が非常に山が好きな先生で、その先生の夏休みの全く個人的な山登りだったんですが、「自分はこの夏休みに山に行くけれども、一緒に行きたい人はいるか」と言ってくださいまして、その先生についていったのが栃木県の那須山というところです。そこで旭岳という山と茶臼岳という二つの山に登ったんですが、1,900メートルあります。今と違ってケーブルも何もございませんでしたし、あの当時は自分でお米とか野菜なんかを持っていかなければ泊めてもらえない時期だったので、小さなザックに自分の着がえ、お米、みそなんかを持って出かけました。
  そこで非常に驚いたのは、那須山というのは火山です。ですから、草も木も全くなくて、砂と岩と硫黄でできていました。そのことが10歳の私にとっては強烈な驚きだったんです。「ウワッ、こういうところがあるのか。山なのに草も木も全くない。砂と岩でできている。こういったところは一度も見たこともないし、来たこともない」と思いました。川というのは水しか流れていないと思っていました。ところが、そこではお湯がドウドウとなって流れておりまして、そのお湯の川をせきとめたところが、私たちが泊まった宿の野天ぶろ。「ウワーッ、お湯の川だ」と思いました。そして、夏というのは暑いものだと思っていたのが、そこではとっても寒かったんです。そういうふうに学校の黒板とか、教科書を通して習ったものではない、本当に自分の足で歩いていった、自分の目で見た、自分の肌で感じたその体験というのは強烈なものでした。
  私は小さいときから体も小さくて弱くて、毎月のように高い熱を出して休んでいる弱い子というイメージを持たれた子どもだったものですから、体育の選手になったというのは一度もなかったんです。ですから、運動会はとても嫌いな行事だったんですが、山登りというのは「ヨーイ、ドン」といって競争して登るものではないということ。どんなにゆっくりでも、自分が歩いていけば頂上に立つことができた。みんなと同じように喜びを味わうことができたというこの達成感もすごくよかったし、一歩一歩が本当に苦しい登りだったんですが、あの苦しみがあったから、この喜びがあるんだということを肌で感じることができた、とても貴重な体験でした。でも、どんなにつらくともだれも選手交代をしてくれないということも、山で得た貴重な体験だったんです。
  そのときに先生が教えてくれた中で、途中でトイレをしなければいけないんですが、いわゆるトイレというのはない。そのときに、「水源地から離れたところでしなさい」とか、「この川の水はずうっと流れていって、町にいき、そしていずれは海にいくんだから」という話から、山と海というのはすごく関係が深いんだということもわかりました。また、お握りを分けたりするときにも、昔ですから、いろんな入れ物がないですから、葉っぱの上に御飯をのっけるときに、笹の葉っぱは殺菌作用があるから、笹の葉っぱならいい。でも、庭に咲いているダリアとか、そういった葉っぱは毒があるから、そういうのにのっけてはいけないとか、トチの実がなっていればトチの実の渋の出し方とか、そういったことも歩きながら教えてもらって、今それがすごく役に立っているんです。
  例えば病気になったとき、おなかが痛くなったとき、山でどういう対応をするか。そういうときにも、山にはいろんな薬草があるということも教えてくれました。ゲンノショウコを飲むとか、ドクダミというのは殺菌作用があるので、虫に刺されたときには、それをもんで張っておけばいいとか、そういったこともその先生から教わりました。そういった意味では、私にとって自然体験というのは本当にいいチャンスだったし、自分の知らないことを知るという刺激的な体験は本当に印象深いもので、「ああ、自分の知らないところがもっとたくさんあるんじゃないだろうか」という一種の好奇心に満ちた気持ちを持たせてくれたのは、それが最初だったと思います。そのことが今でもずうっと残っておりまして、いまだに知らないところに行きたいという気持ちがすごく続いています。
  その先生は、山に連れていってくれるだけではなくて、普通の授業のときもそうだったんですが、三春町の小学校というのはお城の下にありました。小学校のすぐ後ろにお城山という、約10分ぐらい歩くと丘があって、桜が咲いてとてもきれいなところなんです。「きょうのお昼はお城山で食べよう」と言ってくれます。子どもですから、喜んでついていきます。あの当時は、まだお弁当は新聞に包んでいました。その新聞を取り出して、ちゃんとたたんでおしりの下に敷いて、その先生を囲みながらお弁当を食べます。
  そのとき、先生がいろいろな話をしてくれました。その話は今考えると、小学生にとっては随分難しい話だったと思うんです。例えば「アンネの日記」であったり、島崎藤村の「夜明け前」であったり、「破戒」であったり、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」だったりという。そういう話をかみ砕いて話してくれて、その話を聞くのがまた楽しみで、先生が「お弁当を食べにお城山へ行く」と言うと、それがとても楽しみだったんです。中学校、高校に入って、自分で実際に本を読むようになって、「アッ、この本があの先生が言ってくれた本なんだ」という、本との出会いというか、読書というおもしろさを教えてくれた一つの出会いだったと思います。
  お弁当を食べる。私も子どもだったものですから、食べ終わった途端に、「先生、うんち」なんて言ったことがありました。その先生は男の先生で、その当時27歳ぐらいだったと思うんですけれども、本当に子ども好きの先生で、「じゃみんなから離れたところにおいで」というので、石で穴を掘ってくれまして、「ここにしなさい」と言ってくれたんです。そこにして、「先生、紙がない」なんて言いましたら、「じゃ、その辺の葉っぱでふいておきなさい。でも、ウルシはだめだよ」と教えてくれました。あの当時は、葉っぱでふくというのはあんまり抵抗はなかった。終わると、「先生、終わった」って、子どもですから何でも言うわけです。
  そのとき、先生がやってきて言ってくれた言葉が、私はすごく残っているんですが、「ああ、いいうんちだね」って褒めてくれたんです。「これはものすごく大事なことだから、よく見ておきなさい」と言われました。さっき食べたお弁当の御飯が自分の体の中で消化・吸収されていって、かすだけがずうっと腸の中にためられていって、その腸が何メートルもあるということも後で知ってすごく驚いたんですけれども、ある一定の時間がくれば圧力が加わって、出てきたものがこれなんだ。「これはものすごく大事なことなんだから、しっかり見とけ」って言われたんです。私もそれをしっかり見て、そのとき先生が「これはすごく大事な作業だけれども、実はこういったことを全部やってくれるものを、あんたはこの小さな体の中にみんな備わっているんだから、人間の体というのはすごいもんだね」という話もしてくれました。
  「もし食べて、出すだけの機械をつくるとしたら、丸ビルぐらいの大きさになる」と言われたんです。その当時、丸ビルがどれぐらい大きいかわからなかったんですが、とてつもなく大きいものになるという想像はつきました。「でも、それには魂も精神も入ってないんだ。なのに、あんたのこの小さな体、友達一人一人の小さな体の中に、そういったことをみんなやってくれるものが備わっているんだから、人間の命っていうのはすごいもんだね」って、そういうふうに話してくれたときに、私は何か自分がものすごく誇らしいものを持っているという気持ちにもなりました。決して理科の時間でも保健体育の時間でもなかったんですが、人間が食べて、出していくという、そういったプロセスにも私はすごく興味を持つことができました。そういった意味で、今でも、山から自分のものはおろしてこようとか、南極には何にもないんだから、自分の排泄物は持って帰ろうとか、そういった発想につながっているのは、この先生のその話のおかげかなと思います。
  そういった意味で、学力がある、知識がある、礼節があるといったこと以上に、好奇心を持つということ、そして一歩一歩の苦しさに耐えるということ、この耐える力を持つということが、今、すごく必要ではないかと感じています。
  その先生の話になりますが、朝の光を体いっぱいに浴びることの大切さをすごく教えてくれましたし、山では五感を働かせろと言われました。特に都会にいるときは私はあまり働かないんですが、山の中では自分の身を自分で守らなければいけないという本当に基本的なことなんですが、そのために注意するのは、きょうみたいな雲の動き、風の動き、光、そういったものに感覚を研ぎ澄ませておかなければいけないということも、山を歩きながら私は学ぶことができました。そういった意味で、自然体験というのは非常に大切な要素であったと思います。この自然体験の多い人が実は教養のある人と言えるかもしれません。
  また、ヒマラヤへ行ったときに、幾ら緻密に計算して、綿密に計画を立てていっても、予測できないことが起きるのが自然です。そのときに、じゃどうすればいいか。一番困ったときにどうすればいいかということを考えられる力がすごく大事だと思いました。ヒマラヤでもそういったことは何回か経験したんですが、例えば上のテントに行ったときにコンロが壊れてしまったとします。コンロというのはものすごく大事で、あれがなかったら食べるものはできないんですね。今はボンベに変わってしまいましたので、そういったことはなくなったかと思うんですが、まだまだボンベは高いものですから、持っていけないことが多いです。でも、今から25年前のエベレストのときには、私たちはまだ石油コンロとか、ガソリンを使っていました。上のテントで、例えばコンロが壊れてしまったときに、「どうしてこれが壊れてしまったの」「壊れたコンロを持ってきただれだれさんが悪いんだ」とか、「こういったコンロを用意した装備係が悪いんだ」とか、はては「こういうコンロを売ったあの店が悪いんだ」というふうに、つい相手を責めてしまいます。でも、相手を責めてコンロが直るかといえば、それは絶対直らないです。
  何か物事をやっていて失敗しとき、その失敗した本人が一番「しまった」と思っているわけです。そこにもってきて、「あんたが悪いんだよ」「あんたのせいだよ」ということをうーんと言ってしまいますと、やはり気持ちがすごく落ち込んできて、だんだん萎縮してしまうんです。そうすると、どうすればいいかということを考える前に、「ええ。どうせ私はばかですから」ということになってしまうんです。
  ではコンロが壊れたらどうすればいいか。コンロが壊れる一番の原因は、インドとか、ネパールというのは、ガソリンとか、石油の成分がすごく悪いですから、まず詰まってしまうのが1番です。その次はパッキングといいまして、皮の部分があるんですが、それで圧力をかけるんです。非常に使いが激しいですから、皮が摩滅してしまってエアが入らないということはよくあります。もしそれだけの故障でしたら、登山の用品というのはどこかしらに皮を使っています。ピッケルのケースというのは絶対皮でできています。それをほんのちょっと切って、真ん中にナイフで穴をあければ、十分パッキングの用はなすんです。ところが、コンロ用のパッキングがないから直せないとか、スパナがないからできない、工具がないからだめだ。この直らない条件ばかり言ってくる人がいますが、これは問題解決にはならないです。ではどうすればいいかということを常に考えられる、一番困ったときに前向きに考えられる人が、本当にやる気のある人なんです。
  特に長期に外国の山へ行っていますと、食料品というのもすごく大事な要素です。私たちは一所懸命いろいろなものを考えて持っていくんですが、日本人というのは食事が終わった後はお茶が飲みたいという人が多いです。私がそれを全部やる係だったことがあって、お茶というのも書いておいたんですが、実際に買い物をする暇がなくて、実際の買い物を友達に頼んじゃったことがありました。頼んだ相手は山の経験がすごくある人だったので、安心して頼んだんです。私のうちに持ってきたときに、「田部井さん、忙しいと思うから、ちゃんとパッキングしておいたよ」というので、段ボール箱に入れられてしっかりととまっていたんです。私もそのまま持っていきました。
  「お茶」と書いておいたんですが、山で飲むんですから、急須なんか持っていかれないわけです。今はティーバックに入ったお茶があるんですが、「ティーバック入り」という注釈をつけなかった私も悪いし、出発前に点検していかなかった私が悪いんですが、5,800メートルの第1キャンプに着いて、みんなが「お茶を飲みたい」と言い出したときに、「あ、私が持ってるわよ」というので、初めてその箱をあけたんです。そしたら何と中から出てきたのは、普通の家庭で使っている茶筒に入ったお茶がそのまんま入っていて、「ウワッ、これはまいったな」と。後で帰ってきてその人に言ったら、「いや、ティーバックのがいいというのはわかってんだけれども、予算が足りなくなって買えなかったから、自分のうちにあったのをそのまま入れた」という大変ありがたいことだったんです。「いや、それを言うのを忘れてた。ごめん、ごめん」って言うんです。でも、私は山でそんなの知らないですから、「いや、困ったな」と思ったんですが、いいやと思いまして、雪をとってきて雪を解かして、それがグラグラ煮立ったので、そこへお茶っ葉をバッと入れました。
  そのときテントの中には男の人が4人、女の人が3人いたんですけれども、その4人の男の人が4人とも「どうやって飲むの」と言うんです。鍋じゅう葉っぱだらけなわけです。でも、私はそのとき方法があると思ったんですが、「そんなことないわよ。親からもらった歯でこせばいいんじゃない」って言ったんです。ほかの女の人たちは「いや、大丈夫よ。もうちょっとすると葉っぱはだんだん下に沈んでいくんだから」とか、「あなたのコップによそうときには葉っぱがいかないように、ちゃんと割りばしでせきどめしてからよそってやる」とか、「いや、そんなことしなくても、おたまでグルグル回しているうちに、お茶っ葉は周りにいっちゃうんだから、その間にすくっちゃえばいいんだ」とか、いろいろ言ってくれました。
  私は、医療用のマスクを多目に持ってきたことに気がついたんです。あれはガーゼでできています。あれを広げると結構大きいんです。ですから、それを一つつぶして、茶こし専用にしちゃえばいいなって思ったんです。そのときに、何で急須を持ってこなかったのとか、相手を責めるタイプの人がいますが、責めたって急須は届いてこないんです。ですから、そういう一番困ったときこそ、こうすればいいんじゃないって言ってくれると、テントの中がホッとした雰囲気になるんです。こういう困ったときこそ常に明るく、困ったときこそ前向きに考えられる力が、山ではすごく大事なことだと思いました。
  そういった意味で、ヒマラヤでのいろいろな経験、また幼児期の経験からしますと、自然というのは男女を全く区別しません。女だからといって風が弱くなるものでもない。雪が少なくなるものでもないといったことがありますので、自然体験を男女ともに幼児期にさせてもらったということが、今の私につながっていると思います。
  本当の教養というのは何かといえば、私が思っているのは、困難を乗り越える力、苦しみに耐えられる力、それと意志の力。この意志というのは、本当にやろうと思ったことをずうっと続けていくことだと思うんです。私たちがエベレストに登ろうと決心したのが1971年、実際にネパール政府から許可が出たのが72年、実際の登山は75年というふうに、かなり長い期間の準備がありました。エベレストを登るために1,400日の準備期間があって、実際の登山期間はその1割にも満たないわずか130日です。そして頂上はたった1日、ほんの数分歩いた末の一瞬の出来事でした。でも、普通の方ですと、エベレストの頂上に立って、日の丸を掲げた写真を見て、「ウワーッ、すごいな」とか、「あ、女もやるな」と思った方がいらっしゃったかもしれません。でも、私にとってあれはほんの一瞬の出来事でした。そのほんの一瞬の出来事のために、1,400日という長い間いろいろな地域で、いろいろな職業を持った女の人たちが、それをずうっと準備してきたんだという、そのことのほうが私にとってはうんと貴重で、とても大事なことだったと思えるんです。そのようにして登ったんだということを、むしろ多くの人に知っていただきたいと思いました。これができたのも決して体力とか、技術が優れていたからできたのではなくて、本当にやろうという意志が強かったからこそ、長い準備に耐えられたと思うんです。この意志というのはお金で買うこともできないし、親とか、第三者がつくってあげるものでもないし、本当に自分自身の心の中から何か燃え上がるようなファイトがわいてきて、初めて意志となるわけで、それだけに非常に貴重なものだと思います。そういった意味で、私は登山を通して、「ああ、意志こそ力だな」と思いました。
  まとめますと、耐える力、困難を乗り越える力、困ったときこそ明るくという前向きさ、そして意志の力、これが必要なことではないかと思います。
○根本会長    どうも大変に感銘深いお話を手際よくお話し賜りましてありがとうございました。
  それでは、皆様のほうから御意見を賜りたいと思います。
○  今の田部井さんのお話には大変感銘を受けまして、本当におっしゃるとおりだと思うんです。困ったときに自分で解決法を考えられる力というのは、とても大切だと皆さんそう思うと思うんです。しかし、パニックになったりしたときに、どういうふうにしていけばそのように考えられるのかが大切です。私どもでもいろいろビジネスをやっていて本当に困ったときとか、だれかが失敗してとんでもない状態になったときに、一番最後のところで腹をくくって、そこからどう持っていくのかと考えることがとても大事だとは思うんですが、それはなかなか難しいですね。その辺、どうしたらそのような能力が身についてくるのか何か心がけていらっしゃることとか、周りの方がたくさんいらっしゃると思うんですけれども、そういった方々に日ごろおっしゃっているようなことがあれば教えていただきたいと思います。
○田部井意見発表者    これも山登りの経験の中から自分が会得できたことかなと思うんですけれども、山では自分一人で行動していながら、自分一人ではないわけです。二人でザイルをつないで登っていくわけですけれども、自分の失敗は相手の失敗につながっていくし、自分が落ちたら二人とも落っこって大けがをするか、あるいは死んでしまうという、非常に際どいところで行動しなければいけません。そういった行動を何回も何回も繰り返す。例えば、ほかの人が落ちて、さっきまで生きていた人が物体になってしまうということは、本当はなるべく経験したくないわけですが、そういったことを目の前で見たり、そのときの動きについて自分はどうすれば一番いいのか、今降りたらいいのか、登ったらいいのかという、そういうせっぱ詰まった状況を私は何回もくぐり抜けてきました。
  そういう体験を皆さんにしろということではないんですが、山登りというのはそういったことが体験できる場ではあります。例えば、子どもたちを山に連れていく場合も多いんですけれども、集団登山というのはいい面、あまりよくないというところもあって、全く全部がよくないわけではないんですが、森の中、あるいは山の道を子どもたちを一人ずつ歩かせる、5分置きに間隔をおいて歩かせる。そうすると、いつも一緒に行動していたのが、たった一人になった場合、しかも山の場合、パニックになるお子さんが非常に多いです。でも、そういったことを何回か経験させることによって、この道に沿っていけばいいんだ、道から外れてはいけないんだということを体験していきます。子どものうちに自然の中でのパニック状態をつくる。パニックと言うと言葉はあまり適当ではないかもしれませんが、一人で森の中を歩いていくという体験が、その人の心をすごく強くしていく一つの要素にはなるかと思います。
○  大変感銘深いお話をありがとうございました。二つ質問をさせていただきます。  一つは、他の委員の方がおっしゃったことと重なるかもしれないんですけれども、困ったときに前向きに考える力、耐える力、困難に打ちかつ力とおっしゃって、そしてただ今の委員の御質問に対しては、山登りの体験の中からどのように学び取り、培っていらしたかというお話だったと思います。私が山登りにあまり縁のない凡人だからかもしれませんが、山登りとか、身体的なこと以外の御経験で、そういう力を培うのに特に役立ったとか、心がけられたとか、我々みんなが心がけてできることとか、お聞かせいただけたらと思います。
  もう一つは、山にお登りになることで培われたそういう力を、山以外の日常の生活とか、人とのつき合いで生かされたというお話を伺えたらと存じます。よろしくお願いいたします。
○田部井意見発表者    山以外でどういうふうにして力をつけたかと言われますと、こういうふうにしてつけましたという明確な答えはできないんですが、私自身、東北の福島県から東京に出てきたということで大変劣等感があって、まず言葉に方言があったということ。デパートに行って「これください」と言いましたら、たったその一言で「あんた、福島県の出身でしょう」と言われた。それがものすごく大きなショックで、どうしてわかったんだろうと思って、ものすごく打ちのめされたこともありました。劣等感をうんと持っていたときに山に行って、山を歩いたとことで、人と接しなくても、自分は生きてるということをすごく感じられて、自分が計画していることを実行しているということが、また自分の自信につながっていったということなので、山以外のことでは落ち込み、落ち込みの連日で、あとは涙を流して本を読んだというそのぐらいの体験しかないんです。私にとっては山は非常に大きな活力を与えてくれた場であり、自信をつけさせてくれた場であったと思います。
  それから、山以外のところでどう生かされているかということについてですが、私は「もうこれでだめか」と思ったことが3回ぐらいありまして、それは全部雪崩だったんです。ここで自分は死ぬかもしれないという体験の後で、例えば自分がすごく困ったり、あるいは疲れたり、肩が凝ったり、眠れなかったりというときに、「いや、これは生きているという証拠だ。生きているからこそ悩むんだ。生きているからこそこうやって痛みを感じるんだ。だから、文句を言ってはいけない」という、非常に愚痴のない生活になりました。また、4,000メートルとか、5,000メートルの水道もない電気もない、そういった高地で女の人たちが、例えばブータンとか、チベットとか、モンゴルとか、そういったところで子どもを産んで育てている、あの力強い女性たちの生活を目の前にしたときに、蛇口をひねればお湯が出る、電気がつく、炊飯器のタイマーをセットすれば御飯ができている、毎日、新聞が入ってくる。こういったことは実はすごく恵まれたことなんだということをすごく実感するようになりまして、価値観もそれから変わりました。物を大切にするようになったし、物に感謝するようになったし、愚痴も少なくなったし、子どもの成績もそれはいいと。あれは単なる数字だと思えるようになったという意味では、いろいろな点で価値観を変えさせてもらったと思うんです。
  ですから、子どもの反抗期も大変な問題ではあったんですが、それも死ぬことを考えれば、今、これを乗り越えていけるなと思いまして、死ぬということまで言ってしまうと大げさかもしれませんけれども、生きているからこそ味わえるこの苦しみだと思えるようになったのは、やはり山を通してからです。
○  本当にいいお話をありがとうございました。やはりすてきな先生に出会うことと、自然を体験するということは、大事だなというか、それが答えかなと思うぐらい感銘を受けました。今ちょうどお子さんのお話が出たので、プロフィールを見るとお二人お子さんがいらっしゃるということで、何かお母さんとしての子育ての中で考えてこられたことがあったらお聞かせいただきたいんですけれども。
○田部井意見発表者    子どもを置いて山に行くということに対して、25年前のエベレストのときですけれども、まだ3歳の娘だけだったんですが、その当時は「あんな小さな子どもを置いて、エベレストへ半年も家をあけて行くなんて、なんて非情な母なんだろう」と言われました。ところが、その娘が3年前に結婚しました。そしたら、あなたは本当に好きなことをやって、しかも娘さんを結婚させて、なんて器用な母なんだろうと言われました。わずか25年で非情な母から器用な母へと、日本の女性の立場も変わったなと私は実感したんですけれども、子どもがいるということは、結婚しただけでしたら、ある程度自分で自分の時間もつくれるし、できるんですが、子どもをほっぽっておくことはできないですから、どちらかが残っていなければいけないです。そういった点では早くカレンダーに予定をつけたほうが勝ちというのがうちのやり方でした。お互いに山が好きな者同士ということもありましたので。
  非常に困ったことは、エベレストが終わってから、私自身はそういうことを目的として登ったわけではないんですが、非常に脚光を浴びた。そのおかげで、「ほら、見てみて、あれが田部井さんとこの娘さんだよ」「息子さんだよ」ということで、親のことのために子どもが言われる。そうすると、子どもはそれがすごく嫌なわけですね。「お母さんがこういうことをやってるから、私が言われるんだよ」というので、大変反発しまして、学校でもそうだったんですけれども、学校の先生方からも「おたくのお子さんはこけしみたいですね」と言われました。こけしのようにかわいいというのではなくて、表情がないということなんです。それは言えば言ったで何か言われる。泣けば泣いたで言われる。だから、あまり目立たないように、そっと生きていようということで、自閉的になりまして、人の目を見ないで話すとか、中学校は行かないとか、高校はやめるとか、そういったことではものすごく苦労しました。
  でも、今考えますと、「ほら、見てみて」と言っているお母さん方に、「それを言わないでください」と私が頼むことはできないんです。いつかきっとわかるときがくる、いつかきっと自己改革があると思って……。子どもは「お母さんがこういうことをやってるから、僕が言われるんだ」ということを、ほかの人には言えないから、家で私に反抗する。それを私はしっかり受けとめなければいけないと思いましたし、ほかに行って暴れられるよりは、私に向かってくれたほうがいい。でも、これは必ず時期がくればおさまると思ってたものですから、30過ぎて暴れられるよりは16、7で暴れられたほうがいいかなと思って、非常に苦労しました。確かに高校もやめましたし、私なりに「本当にこれでいいのかな」と思うことも随分あったんですが、今は「お母さんも大変なんだね」と言うようになって、やっとトンネルを抜けてきたものですから、こういうふうに話はできるんですが、その渦中にいるときは、一番悩んでいる人は何も言えないということです。一番悩んでいる人は意見が言えない。そういった人たちの悩みにこたえてあげられるような何か示唆があったらいいかと思いますが。ちょっとお答えにならないかもしれませんけれども、子育てでは随分苦労もしました。
○  男性の立場から申し上げますと、恐らく田部井さんはすばらしい御主人を持ってらっしゃるんじゃないかと推測いたしまして、御主人も山にお登りになるわけですか。
○田部井意見発表者    はい。サラリーマンですけれども、山が好きで、山で知り合いました。
○  ああ、そうですか。それじゃ御理解が非常にある。
○  皆様の質問と違うことをちょっとお尋ねさせていただきます。恐らく私もまだ経験したことのない死ぬかもしれないという御経験をなさったということで、そのことからお伺いしたいと思います。今現在、生きていらっしゃるわけですから、そのときに御自身を救ったといいますか、そのときは御自身の前向きの意志がそうしたとお思いになるのか、それとも何かの偶然とか、そこに神とか、信条とか、何かおありになりましたでしょうか。
○田部井意見発表者    今振り返ると運がよかったということは言えると思うんですが、1度目の雪崩はエベレストで、これは全く予期せぬ真夜中の雪崩だったんですが、幸いシェルパと報道の方が助かったものですから、掘り出してもらえたんです。
  2度目の雪崩は予感がありました。これは絶対雪崩が出るという。それは斜面があって雪が降っていれば、なだれてくるのは当たり前のところですが、そこのところで行動していまして、これは下におりたら埋まってしまうので、上に行ったほうが助かる確率が高いという、動物的な直感が山ではすごく働くんですけれども、これは絶対に上に行くべきだという判断で上に行ったんですが、それでもやはり自分たちが動いたことで誘発した雪崩に乗っかりまして、約600メートル、雪崩と一緒に落下しました。それでも生きていたということはすごく運がよかったと思います。その中でも何とか助かりたいというか、何とかしなくちゃという本能的な力がすごく出まして、埋まらないようにすごく体を動かしていたので、表面に出ていた。だから助かったということがあります。運ももちろん大きな作用だったと思います。
○  運というのは何でしょうか。
○田部井意見発表者    これはいけないと思う直感というか、動物的な感覚。今ここは通ってはいけないと思ったりする。それは、何回も何回も自然の中で行動したことによって、ちょっとした物音で熊がいるかもしれないという、そういうものがあって、「あ、ここは危ない」というふうに、自分の中に五感が働いてくるんです。そういったものを養ってくれるところが、都会ではなくて、私にとっては自然だったんです。
○  せっかくの機会なので、田部井さんに一つお尋ねをしたいと思います。先ほどの話を私も感動的に伺ったわけでありますが、田部井さんは10歳のときの一つの山登りの経験がきっかけになりまして、今がずっとあるというようなお話ではなかったかと思います。私どもも小中学生、高校生を見ておりまして、今の子どもたちにはいろいろな意味で好奇心を持ってもらったらいいなとしみじみ思うんです。田部井さんはいいきっかけがあったというふうにも私は理解したんですけれども、田部井さんも山だけを生きがいにしてきたわけではないと思うんです。その間、いろいろなことがあったんだろうと思うんです。これは先ほどの他委員の方の話とも関連してくるんですが、何か山以外でもこういうところに強い好奇心を持って、プラスアルファにしていったということがあれば、お聞かせいただきたいと思います。
○田部井意見発表者    私は音楽が好きなものですから、小さいときからコーラスはやっていました。それと筝曲、お琴を弾きます。自分がうんと悩んだりしたときに、浄瑠璃とか、謡曲とか、お琴が、自分を慰めてくれ、平常心に戻してくれました。そして山ではその音楽が外国の人との対話になり、言葉が違っても、音楽を通して相手と仲良くなるということがすごく助けになったと思います。
○  大変いいお話をありがとうございました。今の他の委員の方のお話と関連があるんですが、今は率直に言って、小学校・中学校・高校・大学といった子どもたちの山登りというのはあまり熱心ではないんです。見ていましても、危ないという意味でお母さん方がとめるケースが非常に多いんです。ワンダーフォーゲルとかいうことでごまかしてやっても、すぐわかっちゃって、もう登らせないという話が出てくるわけです。何かそれについて先生のお考えというか、どう対応したらいいか。危険と言われちゃうと、こっちとしても言えなくなっちゃうものですから、お考えがあれば……。
○田部井意見発表者    山では不可抗力の事故というのは非常に少ないです。都会にこそ多いのであって、自然の中では自分の判断が間違わない限り、不可抗力は防げると思うんです。そういう意味で、山の事故の報道が、危険だというのを誘発するのかもしれませんけれども、私は山では不可抗力の事故は非常に少ないと思っています。ですから、山では何かあったっていいんです。死ぬようなことがなければいいんです。けがしたっていいんです。ただ、それが自分の責任ではないところにいってしまう。山でけがしたら自分の責任だということが親もわからないし、もちろん子どももわからない。
  そういった点で、今、できるだけ小学校・中学校・高校の子どもたちと山に行く機会をつくっています。でも、「お米を研いできて」と言われても、「研ぐ」という言葉がわからない。「研ぐ」というのは、刀を研ぐとか、ナイフを研ぐということで、「お米を研ぐって何?」って言われて、「お米を洗うんだよ」と言ったら、お米の中に洗剤を入れて洗われて、ブクブクと泡が出てきて、大変びっくりしたことがあります。ワカメも、水につけたらどれぐらいの量になるかということがわからなくて、大変びっくりした経験もあるし、親が知らないがゆえに、お子さんに持たせる山の道具がバスタオルであったり。何で山にバスタオルが必要なのかと思うんですけれども。そういった意味では、子どもだけの責任ではなくて、今、お子さんを育てているお母さんたちの自然体験が少ないがゆえの弊害も非常に多いかと思います。
○  非常に感銘深いお話をありがとうございました。私、大変興味を持ちましたのは、田部井さんが啓発をお受けになったという先生のお話です。田部井さんと同じクラスにいらっしゃったお子様で、田部井さんのようにおなりになったというか、その先生の影響を非常に強く受けた人はほかにいらっしゃいますか。
○田部井意見発表者    山ではないんですけれども、それはたくさんおりまして、例えば先生は演劇がすごく好きな先生だったんですけれども、台詞を言う役だけが主役ではない。例えば、木を持っている人、鐘をたたく人、私は鐘をたたく役だったんですが、鐘をたたくときのタイミングがすごく大事だということを教えてくれたし、木のある舞台と木のない舞台を見せて、「ほら、あんたが持っている木があるがゆえに、この舞台はものすごく映えるんだよ。あんたの役はものすごく大事なんだよ」と、そういったことを教えてくれた先生ですから、みんなで一つのことをつくり上げていくということの大切さ、人はみんな平等であるということの大切さをすごく教えてくれたので、そういった仕事に就いてる方、教員であったり、養護で面倒を見たりする、そういった方々が非常に多く出ました。
○  多分そういうことであろうと思っておりました。私の親戚にそういう経験を持つ子が一人おりまして、その子のクラスはほかのクラスとは全然違うということをしょっちゅう聞いております。この年頃の子供達にとっては先生の影響というのは非常に大きいんだなとあらためて認識させられました。
  もう一つついでにおうかがいしますが、その27歳の先生と田部井さんの相性も多分非常によかったんじゃないかという気がするんですけれども、いかがですか。
○田部井意見発表者    10歳ですから、これが相性だというのはわからなかったかもしれませんけれども、今でも交流はありますので、どこに行っても「あ、こういういい風景を先生に見せたいな」と思いますし、実際にネパールにお連れして、先生がヘリコプターの窓に鼻がつぶれるほど乗り出して、エベレストに見入っている姿を見て、「ああ、やっと恩返しができたかな」と思いました。
○  お伺いしたいことは一つだけなんですが、田部井さんがおっしゃった自然体験が多いのが教養のある人というのを大変感銘深く伺いました。ちょっと短絡的で申しわけないんですけれども、渋谷とか、いろいろな街に行きますと、スーパーの前にしゃがんで、一日たらんこたらんこしているようなのがいますね。そういう人たちに、例えば昔なら野戦訓練というか、自然の中へほうり込んでいろいろなことをやったわけです。田部井さんは御自身で体験されたんですが、ある程度人工的にでも自然に対するセンスとか、感覚が育つような気もするんですが、そういうトレーニングの方法は効果がありそうでございましょうか。
○田部井意見発表者    あると思います。人間というのは、本能的な力というのは持って生まれていると思うんです。ですから、免疫もそうですけれども、例えば文化的なトイレといって、座ったままでボタンを押せば温かいお湯が出る、風が出る。嫌なもの、臭いものは見もしないでパッと流してしまうというトイレに慣れてしまえば、人間の肛門という部分は非常に免疫の強いところですが、その免疫がどんどん薄れていく。そういったことも承知の上でそういったトイレを使っているのか。そういったトイレが必要であるということもわかるんですが、野外でのトイレのマナーもすごく大事だし、いざとなったら自分のおしっこだって飲めるんだからねって、そういったことを教えていくのが、本当の生きる力になると思うんです。そういう意味では、ある程度は強制的にという言葉はよくないかもしれませんが、自然体験というのは人間が本能的に望んでいる能力というか、潜在意識だと思います。そういう場をたくさんつくってあげるのが大人の役目かなとも思っています。
○根本会長    よろしゅうございますか。
  大変貴重なお話で、文部省側では聞きたいことがたくさんあると思いますが、それでは、政務次官。
○鈴木総括政務次官    私は娘が一人おりまして、ワンダーフォーゲルをやっててよかったなと、今、つくづく思います。それはそれといたしまして、プライバシーにかかわることで申しわけないんですが、お許しいただく範囲でお話をいただければと思いますが、御両親はどういう方だったんですか。
○田部井意見発表者    私の家は印刷所だったんです。ですから、父も母も自営でやっていましたので、非常に忙しくしていましたし、私は7人兄弟の7番目ですので、非常に自由にといいますか、猫のしっぽで、何をやっても怒られない。あまり親の目が届かない範囲で行動していましたし、家の中には職人さんも住み込みでいましたし、15、6人がいつも一緒に御飯を食べるような家で育ちました。
○鈴木総括政務次官    何を教えていただいたと思いますか。何を受け継がれたと思いますか。
○田部井意見発表者    別に親が私に教えてくれた、これだとはっきり言えるものはないんですが、兄弟全部が体が弱くて、私以外は全部どこかで1年留年しているんです。小児結核であったり、肺炎だったりというので。私だけがまともに1年1年上がっていったものですから、健康ということにはものすごく注意されました。ですから、勉強をしろということよりも、早く寝ろということで、体さえあれば何でもできる、丈夫であれば何でもできるという、その父の言葉がすごく残っていて、今、それを私も実感しています。
○根本会長    大変貴重なお話をありがとうございました。
  それでは、次に助川暢先生にお話を承りたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
○助川意見発表者    今日は、田舎の学校のお話を先生方にさせていただくことができることを大変にうれしく、感謝しております。
  最初に、私たちの学校の簡単な紹介をさせていただきます。私たちの学校は、内村鑑三がアメリカから帰る時に、日本に帰ったら最も山深い地で働きたいということを考えておったそうですけれども、彼は次々と重い課題を与えられて、とうとう山形の奥の方まで来ることはできなかった。晩年になって、若い日の夢を青年たちに話された。その話を聞いて、1924年(大正13年)、二人の青年が夏休みに山形の小国の土地を訪ねた。まだ汽車も通っていない、道路も通っていないので、山道を30キロ、40キロと歩いて小国の地に入ったわけです。その中の一人の鈴木弼美という東京大学で物理の助手をしていた者ですが、自分はそこに住み着いて働こうということを考えて、1933年の冬からこの地で生活を始めました。
  電気もないので、まず発電所をつくることにし、電気の免許を取って、水を使って発電を始めました。この地区に電気がついたのが1946年ですので、どれほどの山奥の土地であったかということの想像ができるかと思います。1934年に半日働いて半日学ぶという、今でいう塾といいますか、そういう活動を始めました。そして、1948年に新制高校として再発足をいたしました。1学年26名という、小さな学校です。どうしてそういう小さい学校にしたかというのは、極めて単純でありまして、創設者が「自由と規律」(池田潔)を読んだら、パブリックスクールの生徒の数がそこに書いてあった。池田先生の学ばれた学校の校長は、人数を多くすることは生徒に責任を持てないということで、150名を理想とした。鈴木はそれを見て、自分はまだ経験が足りない。だから、伝統のあるパブリックスクールの半分がいいだろうということで、学年で25名、全校で75名ということにしました。現在は、入学定員を26名(男・女:各13名)にしておりますので、全学年で78名という生徒数であります。
  小さい学校ですから、運営がなかなか大変だったわけですが、まず創立のときに文部省の方では、こういう小さい学校は運営できないということで、法人格を与えることを渋ったのですけれども、当時の村山道雄という県知事さんが非常に教育熱心で、何度も文部省のほうに足を運んで下さって、1年おくれで、その少ない人数で法人を認めていただきました。何度かつぶれそうな危機もあったのですけれども、一昨年、創立50年を迎えまして、ことしで52年ですけれども、その50年の節目をたどった者として、現在は次の50年を目指して、今から50年後の人たちに喜ばれるようにどのように基盤を整備していくかを考え、ここ2、3年で新しいグランド、牛の放牧場兼スキー場、農場など約4ヘクタールの校地の拡張の努力をしているところです。今年の春に学校用地を、全体で約10ヘクタールにすることが出来ました。本学園について幾つか本も書かれたりしまして、例えば、山形新聞社で最近出してくれました「やまがた・20世紀」の中でも紹介いただいております。
  教養と教養教育という非常に難しいテーマを与えられまして、どのように考えたらいいのだろうか。私たちの学校のつながりのある方々がどのように考えたか、そういうところからたどることをいたしました。
  一つは、創立者鈴木弼実の師である内村鑑三がどういうことを試みたかをみたいと思っています。彼の名古屋学院の時の活動ぶりが「名古屋学院史」の中に出ているのですけれども、彼は「祈りつつ学び、感謝しつつ働く」という精神を生徒たちに養いたいと願い、自分で農場を開拓し、豚を飼ったりして頑張ったそうです。内村の門からは教育に従事した者が相当多く現れております。実際に学校をつくった人も何人かおりまして、その一人である井口喜源治先生は信州の穂高に小さな学校をつくられました。研成義塾といいまして、1894年の創立で、1938年(昭和13年)に閉塾しております。本当に一人でつくった学校でありまして、先生の御病気とともにこの学校は閉鎖されたわけです。
  井口先生がおっしゃられたことについては、「聖書と日本人」(大明堂発行)という本の「井口喜源治と研成義塾」を御覧いただきたいと思います。井口先生の門からは、評論家として大きな働きをした清沢冽とか、有名な彫刻家の荻原碌山とか、そういう方が出ているわけです。井口先生は、「偉い人になるよりも良い人になれ」と記しておられます。それから、「最も健全にして確実なる智識は、目または耳より来たらず、手と足とを通して来る。最良の教育は、信仰を以て行はる筋肉労働である。」と記しておられます。
  それから、関東学院をつくられた坂田祐先生は、学校の校訓として「人になれ、奉仕せよ」と教えておられます。
  同じく内村とともに札幌農学校で学んだ新渡戸稲造ですが、彼もまたアメリカへ渡って、日本に帰ってきたらどういうことをしようかといろいろ考えました。その一つは、貧しくて学校に行けない人の教育をやろうということでした。彼は、母校の札幌農学校の教授になりました。奥さんがアメリカの方でメリー夫人といいますが、メリー夫人の家で働いた方が亡くなられ、その方の遺志でたくさんのお金がメリー夫人に送られた。そのお金をもとにして、昼間働いて夜勉強したいという生徒たちのために、「遠友夜学校」という学校をつくられました。これは1894年(明治27年)に創立されて、1944年(昭和19年)に困難の中で閉校ということになるのですが、北海道の教育の中では輝くともしびとなっている学校であります。この遠友夜学校で新渡戸稲造は「学問より実行」ということを生徒の皆さんに教えておられた。後でまた新渡戸先生のことについては触れたいと思います。
  私が学生時代から訪問して教えていただいていた「北海道家庭学校」という留岡幸助先生が1914年(大正3年)に北海道の遠軽に築かれた学校があるのですが、先生は監獄で長い間働いて、監獄に入って来てから教育するのではだめだ、その前の段階で少年たちに教えようということで、ペスタロッチの教育理念に深く学び、子どもたちが小さな家に住んで学校に通う「北海道家庭学校」というのを始められました。そういう難しい子どもさんを受け持つわけですから、留岡先生は「教育の基本は祈りだ。目に見えないものに対する畏れの思いを養うこと」という思いを持って、そういう子どもたちの幸せのために働かれました。そういう先生の深い思いがこの言葉の中から伝わってまいります。先生のおっしゃられた言葉の中に「流汗悟道」という、汗を流して道を知るんだという大事な言葉があります。この学校の最近の様子を記した本として「教育力の原点」(岩波書店)という前校長の谷昌恒先生の本があります。
  私たちが7年前から交流しているドイツの「田園学舎」という、100年前、ヘルマン・リーツという方が創立された学校があります。その学校では、「頭と心と手のバランスがよくとれた教育」を目指しています。ここは1学年20名であります。このグループの学校が今ドイツに20校あるそうです。後でまたこのことに触れたいと思いますが、こういう学校を見ますと、幾つかの共通するものがあります。
  教養ということを考えて、特に私が繰り返して今回学ばさせていただきましたのは、研成義塾に学んで、穂高で生涯農業をやった斎藤茂という方の文章で、「各地に散らばっている義塾の門徒はことごとく平凡な農夫であり、商人であり、職工である。それらは多く自己の労働に勤勉で、誠実で、そして文明人として決して恥ずかしからぬ教養を身につけた凡人である。」という言葉に非常にひかれました。研成義塾から、先ほど申し上げたように、社会的に有名な方もおるわけですけれども、多くの人は無名の方々であります。
  教養という内容を考えるために、字引で少し調べてみたのですが、大体共通した、行き届いた説明がなされております。戦後、東大の教養学部の部長として教養ということを大事にされた矢内原忠雄先生の文章を見ますと、教養を「第一に学問的視野を広くし、学問の根を培養するという点で、総合的な頭脳を養うために教養が必要である。第二として、「人間性を陶冶して、いわば『人間』を作るという、人間性を培い養うものが教養である。」とあります。このように第二の方になりますと、今まで申し上げた方々と随分重なってくるだろうと思います。
  私はたまたま田部井さんと同じ福島県の三春町の県立田村高校を卒業した者でありまして、3年の担任の先生も同じです。戦後、貧しい時ですから、学校の帰りに魚屋さんに寄って魚のアラを持って家に帰って、鶏のえさにするとか、そういう生活をいたしました。私たちの高校時代には、旧制の中学からずっと続いて15年とか、私たちの担任の先生は19年働いてくださったですけれども、何人かの名物の先生がおられました。私はこのことは非常にありがたかったと思うんです。そういう教養のある先生方が長い間、公立学校でじっくりとこの地に根を下して取り組んでくださった。昔になりましたが、私たちの時代は伸びやかな、本当に自由な時代だった、と懐かしく思っております。
  次に、いろいろな問題のある今の時代ですけれども、今年の7月9日の「天声人語」に非常に教えられました。その中に、そもそも「思春期は、人生の危機である。多くの生きる意味を見いだしかねて立ちすくむ。とりわけ豊かな国の10代は、将来に夢が持てず、学校でのいじめや暴力、家族の間の葛藤で押しつぶされそうになっている。」とありました。私たちの高校時代、貧しいけれども、非常に伸び伸びとしていた。いま豊かな時代になって思いますことは、ジョン・デューイがシカゴ大学に大学附属小学校、後に「実験室学校」と言われましたけれども、その学校をつくった時のデューイの思いが私に重なってまいりました。アメリカの社会がものすごい変化、革命と呼ばれるべき変化をなしている。今までは家で親が働いていた。子どもはその後ろ姿を見ながら、一緒に働きながら生活できた。今は大工場で物が生産される。そういう社会の変化を深く受け止めて、デューイは学校の中に仕事(オキュぺーション)を入れるという試みをしました。考えてみると、今、私たちはデューイが受けとめた社会の大きな変化を上回る変化の中で学校を営み、そして子どもたちはそういう大きな変化をした社会で生きているのではないでしょうか。
  情報社会とか高学歴社会と言われています。田舎でも、子どもがゲームで遊んで、外で遊ばない時代になってきました。バーチャルリアリティーがしばしば現実とみなされるような時代になってきている。日本を代表する大企業のある地域に住んでいる方から伺ったのですが、そこでは有名大学を出た保護者が地方大学出身の小学校の先生を低く見ているような言動があって、悲しい思いをしているんだと、こんなことを聞くような高学歴を誇るような社会になって来ております。
  そういう中、私たちの学校でやっていることはどういうことなんだろうかということを考えたのですが、「学校要覧」にもありますように、私たちは労働というのを非常に大事にしておりまして、ジャージー種の牛を13頭ほど飼っていますけれども、ミルカーを使わないで手で搾る。田植えや稲刈りも手でやっています。教育のために動物を飼うということは非常に大事だと考えるようになりました。特に神戸の中学生の殺人事件のことからそのことを強く思うようになりました。私たちの場合はブタを飼っていますけれども、ブタの屠殺後、学校に持ってきて、生徒でそれを解体をします。自分たちはこのようにして命を保たれているんだということをじかに体験する。あるいは、種子を播いて野菜をつくる。それが生徒にとってはものすごい感動なんです。
  生徒たちがどのような思いで生活しているかということを見ていただくために、今年の6月の2年生のクラス便りの中で、彼らが俳句や短歌を通して自分たちの生活を親に伝えているところを引用してきました。  
  「青々と しげる緑が 超うれしい」。
  これは俵委員の影響が随分あるような俳句という感じがします。
  「朝おきて 朝園いそぐ 毎日だ」。
  朝園とは、朝の園芸作業です。
  「夏休み おすし屋さんに 連れてって」。
  6月からそういうほほえましい予約をしているのがあります。
  「朝5時半 牛の小屋へと 走る日々」。
  「くみとりで 女のいじを 出してやる」(作業にて)。
  私たちはコップ一杯で排泄物を流すクリーン水洗というのをやっておりまして、腐熟槽で腐熟したものを畑に持っていく、牧草地に持っていく、そういう作業をするんですが、意外と生徒はこれを一生懸命やります。
  デューイの言葉を引用させていただきますが、「作業は、子どもたちを受動的で受容的なものにするのではなく、敏捷で能動的にする」というのは、本当にそうだと思います。よく生徒は動きます。大変自発的になり、働きながら一緒に協力する、そういう協力関係も養いますし、働くことを通していろいろ困ったときに対処するようなセンスを養う。単にマニュアルに従うのではなくて、田部井さんのお話にもありましたように、臨機応変の力を養うということがあるのだと思います。
  デューイの学校と私たちの学校が違うのは、デューイの学校では教育活動の中に「仕事」を取り入れているのですが、私たちの学校では山村の生活ですので、自分たちの生活のために働かなければならないということから、生活の必要としての作業であり、労働と教育が一体化しているという違いがあります。
  「学校要覧」の「労作教育」というところに、私たちの学校の基本的な考えを述べておりますけれども、勤労・労働というのは教養の土台である、教養の基本要素であると私たちは考えております。そういうことを通して、生活の上に立った教育を実践しております。
  今の教育の状況として、「学力をしっかりつけさえしていればよい」という教育観が強くなり過ぎているのではないだろうか、そんな思いをしているものであります。つまり、私たちは学校というところで、生徒が自分の家では体験できないようなことをなるべくいろいろ体験させる。そのような活動をとおして、生徒たちに充実した生活を送らせよう、そういうことに学校として取り組んでいるということです。
  「村と学園」というパンフレットを作成していますが、私たちと地域とのかかわり合いは、例えば春は田植の時に秋は稲刈りにも手伝いに行きます。そこで働く喜びを味わうと共に、仕事の仕方や対人関係の持ち方、礼儀など多くのことを教えていただいております。運動会や文化祭も、小学校、中学校や各地区ぐるみで行われていますが、私たちもその中に共催者の立場で参画しています。修学旅行(東北・北海道18泊19日)の時には1週間、酪農家で朝から、みんなと一緒に働きます。そのときの牧場の炊事の仕事は全部生徒が受け持ちます。ですから、牧場の奥さんたちは、私たちが修学旅行に行くのを楽しみに待っています。そういう歩みをずうっと30年ほどしております。修学旅行ですけれども、これは文字どおりの今言われている「総合的な学習」でありまして、なるべく多くの体験するということで、先方との連絡とか、会計からあらゆることを全部生徒が企画し、実施しております。
  先ほど自然体験ということがあったわけですが、私たちは山村にあるものですから、新入生が入りまして5月になりますと、連休を1週間ずらしまして、少し暖かくなるのを待って2泊3日ないし3泊4日で、上級生が1年生を連れて、近くの春の山の登山やカモシカの観察などを体験します。春山では雪の上での滑落が怖いですから、必ず山岳会の方に春山の注意、講習を受けてから出発します。明日、2年生が2泊3日で朝日連峰(1870m)のクラス登山に行きますけれども、クラス単位以外にもグループでいろいろな山に行く機会を多くすることにも取り組んでおります。
  体験学習というのは、自然の体験あるいは働くことの体験、いろいろあると思いますが、自然体験には、危険に対応する指導や身近な所でのキャンプなどの野外活動を重ねて行う訓練などの準備が必要なことはいうまでもありません。労働体験で生徒が喜んで迎えていただけるような日ごろの訓練が大事なことです。受け入れ先が「ああしなさい。こうしなさい」と細かい指示をしながらやる体験学習ではなくて、少しの指示で働けるように準備して、受け入れ先が喜んでくださるような体験学習をしたいと思います。この前の土曜日、9月9日には夏休みのいろんな体験学習の報告会がありました。グループや個人で行ったことのいろいろな体験で学んだことの共通の分かち合いをしております。
  教養と教養教育ということでいろいろ考えたのですが、私は「相手を思いやる心」が教養の大事な要素なのではないだろうかと考えさせられました。小さな学校ですので、卒業式は、一人一人が卒業に当たって、3年間で学んだこと、あるいは卒業に当たって思うことを述べるのですが、今年のある生徒はこんなことを言ってくれました。
  「自分は農業をするのが嫌いだった。親と一緒に畑へ行くのが嫌いでした。それがだんだん3年間で変わってきた。今は農業をしていきたいと思うようになった。自分が受け入れられなかったものが、この学園の3年間を通して受け入れられるようになりました。嫌いだったことが今では好きになって、それをやって行きたいと思う。」
  私はこのスピーチに大変感動しました。親の努力を理解し、尊敬できるようになった。自分も一緒にやろうということで、今彼はその準備をしております。相手の努力を理解し、尊敬する。悩んでいる者とともに悩み、喜びもともに喜ぶ。そこに教養を学んだ者の姿があるように思います。
  昨年の生徒の中には、こういうことを卒業式に言った生徒がいました。お父さん、お母さんに対して、中学校の時に盗みをした。家族の財布からお金を盗ってゲームセンターに行った。それを卒業式で謝ったんです。彼は2年の冬から、自分は卒業式にみんなの前で両親に謝るんだということを私たちに言っていました。こういう心を、3年間を通して育ててくれたことをうれしく思っております。
  そういうことを通して、教養教育ということに関連して思いますのは、今の日本の教育行政の問題として、教員の異動が多すぎる、ということです。卒業して、自分の通った学校に行っても、知っている先生が次々といなくなっている。生徒と教師の深い心のかかわり合いというのは、先生方が長く働くことが大事なのではないだろうか。教員が一つの学校にじっくり腰を落ちつけて当たってほしいと願っております。
  教養ということに関連してヒルティの一言を引用させていただきます。
  「教育の秘訣は本来、学生を導いて一方では彼等の仕事(勉強)にたいする愛好心と熟練とを得させ、他方では適当な時期に、なにか偉大な事柄に生涯をささげる決意をいだかせるように仕向けることだ、とわたしは思うのである。」(「幸福論1」岩波文庫)
  このように、どう生きるかということを考える、それが大きな要素なのではないでしょうか。私は、「教養と教養教育の中心は、“心の目覚め”にある」のではないか、「心がゆれ動く思春期の時に『いかに生きるべきか』というヴィジョンを育てるところに、教養教育の中心があるのではないだろうか」、と思います。いかに生きるかという思いを掘り下げていって、たとえ小さくても自分の大切な目標を目指して歩み続けるという「心の習慣」を持ち続けていくときに、その人の教養は深まっていくのではないでしょうか。私は先ほど読みました斎藤茂さんの文章をそういうところに重ね合わせて大変教えられています。
  新渡戸稲造は亡くなる3年前、国際緊張が高ぶって、アメリカと日本の間が非常に緊張していた時に、愛する遠友夜学校に行って話をいたしました。そのお話の終わりのほうで、「世の中は美しい。自分一個のためだけ考えたのでは、世の中は存在しない。人のためを思えばこそ楽しい。世のため、人のためになるように勉強してほしい」と言っています。こういうところに教養教育の大事な点があるのではないでしょうか。そして、ペスタロッチの「頭と心と手の陶冶」という、教育理念を受け継いでいる先ほど田園学舎のことを申しましたけれども、初等中等教育の教養というのは、「頭と心と手をバランスよく働かせる」そういうところが大事なのではないかと思うのです。
  それとあわせて申し上げたいと思いますことは、今、例えば世界のトップランナーを育てる教育というのを新聞で見ることがありますが、私は、初等中等教育の本流はそうではないのではないか、と思います。社会的に上に登ることを今あまりにすすめすぎていると思います。その人はその人なるがゆえに尊い。どんな職業も大切なんだということを教えなければならないと思います。自分が平凡なることを喜べるような教育、そういう腰を低くした教育が初等中等教育の本道なのではないだろうかと考えています。そういうところに腰を落ちつけるときに、人に仕えることを喜べるようになります。それは世界のどこに行ってでも役に立つ生き方なのではないでしょうか。それは、どういう重荷や困難も喜んで担っていこうという積極的な生き方を生んで行くだろう。そのような線上に、一生学び続け、自ら考え、自己教育を大切にし、主体的に判断し行動する人生が広がっていくのではないだろうかと思います。
  そんなことで、私が考えます学校の在り方というのは、いろいろなことを体験・経験できる場所であって、共に生きていく生き方を尊んでいく。そして、卒業した生徒たちが心のふるさととしていつも帰って来れるような学校でありたいと思うのです。私たちは、卒業した者とともに歩み続ける学校でありたいと考えております。
  次に「教育への取り組みに対して取るべきスタンス」について、かいつまんで申し上げたいと思います。山形のような地方でも授業ができない、崩壊している学級がありまして、そういう問題は身近に感じております。そういうことを前にしますときに、自分あるいは自分たちの学校が困難な問題に立ち向う力がいかに乏しいか。そして、本来、一人の生徒の心を育てる、変えるということは簡単なことではなくて、難しいことではないか、ということを考えさせられています。私も担任をして生徒との関係がうまく行かず、非常に頭を痛めたことがあります。教育というのは根気の要る、簡単にできない難しいことなんだということを思うがゆえに、それだからこそ校長は少なくとも一つの学校に5年以上勤めるべきであると思うのです。今、多くの学校で3年でかわる。3年はあっという間に過ぎていきます。教師の力を発揮するためには、一つの学校に5年以上は集中してほしい。教員の異動周期が短くなっていることが、学校の教育力を弱くしていると思っています。
  8月の山形県の教育懇談会で、私は30人学級の希望を申し上げました。40年、50年前の学校と、今は非常に違っています。私たちの高校の時には、授業に遅れたときは最敬礼をして教室に入りました。そのような秩序が学校にありました。ドイツでは1945年から、小学校から高校まで25人学級にしているそうですけれども、今の困難な小中学校の状況を見ますと、先生方の教育を援助する、そのためにはクラスを少なくすることが必要だろうと思います。北海道家庭学校の留岡清男先生が、「両手に入れられる子どもの数の12名のクラスが理想」と言っておられたことを思い出します。これは教護院の教室のことですけれども、学級崩壊に苦しむ現在の学校に示唆するところの多い言葉であると思います。
  今私たちはこういう難しい状況の中におりますので、それに伴って自分たちの学校をいろいろと変えていかなければいけないわけです。実は新渡戸稲造が「札幌農学校」という本の中で、既にそのことを言っています。周囲の環境に学校を変えていかなければいけない。そうしなければ長く持続できない。自分の愛する母校に、彼はそういうことを言っております。そして、政治が教育に干渉することを新渡戸稲造は危惧しておりました。干渉ではなくて、今の困難な状況にある学校に本当に力になる政治の応援があるように願っております。
  かいつまんで申し上げましたが、以上で、私の話を閉じさせていただきます。
○  それでは、まず助川校長先生にお伺いしたいのは、今、各学年はおおよそ25名でございますか。
○助川意見発表者    そうです。
○  そうすると、学校でおよそ75名。それに対して先生は講師の方を含めて34名おるわけですね。
○助川意見発表者    はい。
○  そういう意味では、とても贅沢な学校になっているわけです。学生も先生方も全部一緒に住んでおるわけですか。
○助川意見発表者    はい。今、2名ほど外から通っている教師がおります。
○  あとは現地に住んでおると。
○助川意見発表者    それから講師が3名、それだけは外から通って、あとは中に住んでおります。
○    子どもたちは全寮制と、こういうことですね。
○助川意見発表者    はい。
○  先生方のお給料ですけれども、これはどんな体系でございますか。
○助川意見発表者    小さい学校ですので、どういう給与にするかというと、全員同じ給料にしております。それでは子どもを上級学校に上げたりするのが大変ですので、家族手当を多くしています。上級学校が終われば、もとの給与に戻るということで、もちろん最低賃金法がありますので、それをクリアした額で、月額16万0,000円だったと思います。
○  要するに平等ということでやっておるということでございますね。
○助川意見発表者    そうです。私の場合は夫婦でやっていますので、その2倍の給与になります。そういうことで、山形県の学校経営状況では、経営の一番安定した学校ということです。県内には15校あるんですけれども、経営の研修会のときに、私学の経営の先生が来られて、山形県の高校の経済分析を表にして出されてびっくりしたんですが、経営状態が一番健全な学校ということになっております。
○  卒業生は、8割ぐらいが上級学校へ進学でしょうか。
○助川意見発表者    ほとんどそうなっています。
○  これは推薦で行っているわけですか。
○助川意見発表者    はい、推薦が多いです。
○  最初に簡単なことからお尋ねしたいんですけれども、今、他の委員の方の質問で学校の状況は大体わかったんですけれども、経営が非常に安定しているということで、授業料が山形県内の他の私学と比較してどうなのかということが一つ。
  次に、「教育課程(2000年度)」で、1年、2年、3年のカリキュラムは、普通の公立高校などと比較して、その他の欄「聖書」、「英語讃美歌」の時間が1時間ずつあるという以外は、さして普通の高校と変わらないようなカリキュラム構成になっていると思うんです。ただ、労働を非常に重視された取り組みをなさっているということですが、労働の関係とか、農作業は、カリキュラムの中ではどのような時間帯の中でこなされているのか、教えていただきたいというのが2番目です。
  3番目に、校長先生は最低5年、一般の先生も10年以上ぐらい、できるだけ長いローテーションで勤務されたほうがいいという、先生の学校の場合は全く独立した私学ですから、そうだと思うんですが、一般の教員に対してそういうことを望みたいという趣旨のことをお話しされました。これは私もいろいろな経験があるんですが、確かに長いことがいい場合と、あまり長く同じ学校にいると意欲をだんだんなくしていったりする。特に今の給与体系で、基本的に16万0,000円という最賃をクリアする程度ということになると、どうしても給料のいい学校に行きたいとか、ある程度努力をすればそれが報われるシステムを、長く勤めれば求めるということがあると思うんですけれども、先生は校長先生をなさっておられて、そういう人事管理上の問題はほとんどないのかどうか、その辺のところを教えていただければと思います。
○助川意見発表者    学校の納付金としては、山形県内の私学の授業料とあまり変わりはありません。施設設備費を8,000円いただいているんですが、ほかの学校ではそれよりもっと高いところがあります。それから、寮関係の納入金は6万4,900円になっていますが、これはほとんど実費でありまして、全寮制を私たちはとっているわけですけれども、ほかの学校で見ると、寮制をとっている学校は10万前後ではないでしょうか。そういう学校からすると、私たちのところは授業料は少し安いと思います。これは山村につくられている学校ですので、やはり地元の方が入りやすいようにというのが創立以来ございます。
  それから、カリキュラム、労働とかそういうことですが、「寮の生活」は、6時起床、そして消灯が10時ということになっております。朝作業というのがあります。家畜を飼っておりますので、どうしても朝早くから家畜の世話をしなければいけない。ですから、畜産部というのがありますが、牛の世話をする人は、5時半から牛の方に行くということです。
  それから、作業のほうは、1人1週間に3回、4時から5時半まで1時間半の作業は全員の義務になっております。ところが、その義務だけでは牛は飼えないわけです。それから、畑、田んぼをつくるのにもそれだけではうまくつくれない。そういうことで、課外活動の中で畜産部とか、園芸部とか、米部というクラブがありまして、例えば畜産部に入った人は、一週間朝晩ずうっと続けるようになります。人数が多いので、A班とB班というふうにしまして、1週間交代で牛の世話をしたり牧草づくりなどをしています。これがうまいぐあいに、希望者がちょうど必要な数が毎年集まるんです。そういう意味でクラブ活動を生産活動という点でやっているというのが特徴かと思います。
  カリキュラムと作業との関係ですが、今申し上げた作業は寮生活での作業です。共同生活をしていますとこれだけでは回り切れないことがあり、隔週ですが体育の時間を2時間振向けて、体育作業という時間割に入れた作業をしています。一学年単位で動けるので、まとまった作業をするのに大変役立っています。
  それから、勤務年数と給与のことですが、一番長い方は49年間おります。結局は、楽しいからやっているんだと思います。田舎の生活というのは非常に苦労が多いというふうに一般に思われるんですけれども、考えようによってはとてもぜいたくな生活です。今、一番長いのが、桝本華子先生という方ですが、79歳で音楽を教えています。どうして49年間おられたか。結局、楽しいから、とうとう49年間になったということです。
  山の中にいると、寂しくないかとか、そう思われるのですけれども、ある意味でいつも若者と接していられますし、それから私たちの方に多くの方々が来てくださるんです。東京にいてもなかなかそれだけの出会いができないぐらい、私たちのところはお客さんが多いのです。例えば、もうお亡くなりになりましたけれども、「コタンの口笛」を書かれた石森延男先生は、3年置きにいつも来ておられました。ハスの大賀一郎博士などは、毎年来て下さっていました。南原繁、矢内原忠雄などの先生方も生徒に話しに来て下さいました。私たちは大きな講演会としては1年に3回します。創立記念日、クリスマス、それから卒業のお祝いに講師を呼んでお願いしています。山の中にいてすぐれた講師から本当に深いお話を聞くことができる。そういういろいろの出会いをいただいて、長く続いているんじゃないかと思います。それから、本物の教育に取り組んでいるのだという“手応え”が励みになっているように思います。
  人事管理ということでは、みんなが協力者でありますので組合はなく、今まで教職員の方から賃金を上げてほしいという要望が出されたことは一度もありません。理事会としては、具体的な努力をいつもしております。生活面では、水道は自前ですから一銭もかかりませんし、住居は学校でしております。電気代と食費だけあれば生活できるわけで、食費も学校で出来る野菜があり牛乳などはたっぷりありますので安くなりますし、取り立ての新鮮なものを食べれるという利点もあります。米も自分たちでつくったもののほか、地元で生産された有機米の最高においしいものを食べています。
  職員間の議論は、教育上のことや生徒指導の具体的課題などが中心となっています。
○  大変勉強させていただきました。学校の御様子を伺わせていただきまして、一つの理想的な教育という、まさにそういう名で呼べる学校なんだろうなと、私は伺ったことがありませんので、そういう感想を持ちました。
  寮生活というのは、もしかすると都会の子どもたちを解きほぐす一つのキーワードかなと思っておりましたが、必ずしも御校のような高校でなくても、一つあるかなという感じはしておりました。具体的に伺わせていただきたいんですが、こういう学校はどの程度入学の希望があり、支持されているのかということですけれども、どの程度の倍率なのか。それから、失礼でございますが、不登校というようなものがないのか。やめていくようなお子さんはないのか。それから、必ずしもキリスト教信者でなくてもいいと書いてありましたけれども、その辺の宗教との関係はどうなのか。
  それから、私は最近、あるテーマで一緒に書きましたが、若い研究者というか、臨床医のような方ですけれども、私も自然体験とか、自然の中で培われる教育とか、哲学とか、考え方が非常に大事だというトーンで書きましたら、その若い先生は「今ごろそんなことを言ったって、自分の経験に照らして物事を書くのは間違いだ」と書かれまして、大変ショックを受けたんでございます。私は今まで自然の中で学ぶものがまだあると思っておりまして、そういう中で学ぶ機会を子どもたちにつくりたいと思っているわけです。それを今ごろ都会の中に暮らす若い人たちにそういうことを言ってもむだであると、堂々とおっしゃる若い研究者の方もおられるんです。そういうことをどのように考えたらいいのか。そのあたりのことをお伺いしたいと思います。
○助川意見発表者    まず倍率ですが、昨年は27名採ったんですが、59名の応募です。私たちのところは豪雪地帯なものすから、雪が降る、あるいは寒くなると、試験をするのが大変ですので、9月にやってしまう。応募期間が1日から13日で、明日が締め切りになります。いわゆる新聞に出すとか、雑誌に出すとか、そういうことは一切しておりません。全く口コミだけです。以前、私たちの書道の先生が「うめ子先生―100歳の高校教師」という題でテレビに出まして、そのときは129名の応募がありました。そうすると、試験が麻痺的というか、大変なんです。なるべく私たちはこっそりじゃないんですけれども、ひっそりとやろうとしています。入学試験は私たちの悩みの種です。山の中の学校ということで願書を出す段階でよりわけられていますから、59名から26名選ぶというのは大変なんです。試験が終わると、本当に申しわけなくなって、縮む思いなんですが、特に卒業生の子ども、在校生、卒業生の妹、弟が相当量を占めるんです。自分の出た学校に自分の子どもを入れたい。それで志願した。私たちは採りたいんですけれども、そういう場合もやむを得ず落とさなくちゃいけないという現実があって、入学試験では非常に悩んでおります。人数の関係で、落とせない生徒も落とさざるを得ない。ある意味で、入学のことについてはぜいたくな悩みをしているという状況です。
  入学者に信者、未信者は問いませんが、聖書を教育の土台にしておりますので、聖書を学ぶ意志のある者というようにいたしております。「読むべきものは聖書、学ぶべきものは天然、なすべきことは労働」という内村鑑三の言葉を本校の三本柱にしております。
  自然体験をさける傾向があるということは、それは食わずぎらいが多いからだと思います。今の子どもたちの生活が、あまりにも人工的なものにとり囲まれて、自然から離れすぎているのではないかと考えています。四季ごと山々の美しい変化を体で味わい、生きた自然に触れる感動を少年時代に持つことは、とても大切だと思います。
  それから、理想的な教育というお言葉がありましたが、私たちにはそのような意識は全然なく、あくまでも当たり前のことをやって行こうと考えてやっております。
○  やめられる方は少ないですか。
○助川意見発表者    やめる方はやはりあります。今年も、既に一人やめているんですが、私たちも初めての体験ですけれども、入学試験の結果の発表は昨年10月だったのですが、その後体調が悪くなり食物アレルギーであることが分かりまして、やはり共同生活は難しいということで夏休みで退学しました。それから、何年か前には、やはり自分は受験準備でバリバリやりたいということで、やめていった人もおります。ほとんどは卒業してくれます。
○  今の入学のことですけれども、志望は、口コミとおっしゃいましたけれども、子どもたちが自分から希望してくることが多いんですか、それても親御さんの意向とか……。
○助川意見発表者    口コミということについてですが、私たちの学校の卒業生と大学で友達だった人がその卒業生の話を聞いて自分の子どもを私たちの学校に入れようと思っていたとか、親戚の子どもが私たちの学校に入学していて、そのいとこたちがつぎつぎに入って来るとか、卒業生が私たちの学校のことを紹介し希望して来られるとか、人を仲立ちにして知って下さることが多いです。また、私たちの学校について書かれた本を見て希望して来る人もあります。入学志願者を多くするための新聞などのPRは、一切しておりません。
  試験は2段階にしておりまして、書類選考がありまして、2次試験があります。2次試験は15人のグループで、一晩泊まりでしてもらいます。入学試験は在校生と同じように起床6時、同じように朝の作業に出ます。そして、食事も一緒にして、英語と数学と国語の学科試験をするのと、あと面接を3回します。一人の面接と、親子でする面接と、グループでやる面接と、3度です。それから、生徒が英語や数学の試験をしているときに、保護者の方とも面接をします。そういうことで、今おっしゃられたように、本当に自分が志願しているのかを確認するようにしています。本人は行きたくないけれども、親から行けと言われたというのがありますので、そういうところを面接などを通して、本当に志願しているのかどうかをよく確かめながらやっております。
  卒業生の子どもや弟、妹、在校生の弟、妹などが、昨年では27名の合格者の中で17名でした。卒業生が子どもを連れて受験させることの意義の大きさを感じています。それは教育という営みは、世代を重ねて営まれるべきものであるということを、卒業生が立派に育った子どもを連れて受験に来る姿を見て強く思っています。
○  どうもありがとうございました。実は私、1970年代に御校をお伺いしてものすごいショックを受けて、その当時、確か1万円前後だったですね、先生方の給与が。こんな学校があるのかというので、本当にびっくりしまして。きょうは久しぶりにお話をお伺いできて、写真を見ると校舎もすごくきれいになったんですね。
  それはそれとしまして、一つお伺いしたかったのは、中学生を教育するということはお考えにならないかということが一つです。
  それから、勤務年数を長くしろという具体的な御提言があったんですけれども、もう少し普通のといいましょうか、いろいろな学校に参考になるような、こういう点を考えたらどうですかというお話が、勤務年数以外に何かございましたらお教えいただければと思います。
  それから、「心の習慣」というのを取り上げておられて、私も年来主張していましたので、非常にうれしかったんですが、何か具体的にそういったことを学校の教育の中で取り上げておられるでしょうか。学校で実際にやる作業の中で、「心の習慣」につながるようなことを意識しておやりになっておられるでしょうか。そんなことをお伺いさせていただければと思います。
○助川意見発表者    今、中高一貫ということが大変言われておりまして、私たちにも「おたくでは中高一貫を考えないのか」と言われることがあるんですけれども、寮生活というのはなかなか大変なんです。私たちの場合、家に帰れるのは1年に3回だけです。春休みと夏休み、冬休みです。これが紀伊の国子どもの村のように毎週帰るとか、そういう形態がとれればまた別ですけれども、私たちは雪深い山村におりますので、1年に3遍帰る形態をとっています。そうすると、高校生でも家を離れることに非常に負担を感ずる人がおります。また、親の方が大変負担を感ずる場合もあります。そういうことで、私たちのような場合は中学生は無理なのではないか。それで高校生だけと考えております。それだけに、短期集中の教育をしなければと思っています。中学生のためには、ちがった生活形態を考える必要がある、と考えます。
  それから、勤務年数を長くするということ以外に、何か一般の学校に対してアドバイスということですが、やはり私は小さな単位にするというのが一番大事なことではないかと思います。それから、働くこと――今、教育改革国民会議のほうでもそういうことを提唱されていますけれども、これはなかなか実際は大変なことです。でも、それを恐れてはならないんですが、それをどのようにしてやるかという準備が大変だと思います。実際に毎年、生徒はけがをします。一番多いのはフォークで足を突くんです。精米の作業も生徒がやります。精米部というのがありまして、各学年から一人ずつ出るんですけれども、2年生が去年の冬、精米機のベルトに指を挟みまして、薬指を骨折し、小指の端のほうを飛ばすけがをしました。それから、今年の修学旅行では、北海道で農作業中にまき割り機械に手を挟まれて、女性の子が親指をけがしました。そういうことがどうしても付随します。もちろん学校から保護者に謝りますけれども、ありがたいことに、今までそういうことで保護者から批判されるということは全然ありません。ご父兄はそういうけがを伴うことは、承知で入学させておられます。このように大変協力的にやっていただいております。大けがさせながらも労働体験を大事にしているわけです。普通の学校でも社会の多くの方に協力していただいてよく準備して、やろうと思えば、いろいろ工夫はできると思います。
  それから、自然体験というのは、それぞれの学校でどんどんやって行けばいいのではないかと思います。自然の美しさに感動するとか、自然に触れるというのはいろいろあると思います。私たちの場合は、ブナ原生林を歩いたり、カモシカに遭ったり、熊に遭ったり、それは小さな一つの出来事かもしれないけれども、これらが子どもたちの一生の大きな感動で、それがどのようにその人の人格に働きかけるか、言葉ではなかなか表現できないかと思いますけれども、そういう自然との触れ合いはたしかに大きいと思います。しかし、先ほど申し上げたように、鉢や畑に種をまいて、芽が育って、大きくなり実が育つことも大きな喜びになりますので、それはどこでもできることではないかと思います。
  それから、「心の習慣」と学校のやり方ですけれども、これは本当に大きなテーマでして、根気強い人間をつくれればということを願っています。そういう点では、クラス全体で山登りをするとか、私たちの場合の労働の量は相当ですから、そういうものが一人一人に役立っているのではないかと考えています。
  また、私たちの学校の立地条件がその面で大変有効に働いていると思います。12月から翌年の4月まで、雪を楽しむと共に雪とたたかいながらの生活になります。大雪がつづくと、予備日を使って校舎や寮、畜舎、職員宿舎などの除雪作業を終日行なわなければなりません。そのような厳しい数ヶ月が、学校生活の締めくくりになります。若者がここで生活するために、いろいろのがまん、辛抱が伴うことはとてもよいことだと考えています。洗濯は、風邪を引いた時とかシーツなどの大物の時とか以外は、皆手洗いです。手洗いして脱水は洗濯機を使っています。山村ですので携帯電話も使えません。このようなきびしい環境が、生徒たちの「心の習慣」をつくるのに大変有効に働いていると考えています。
○  大変おもしろいと言うとあれですが、興味深い学校のお話を伺いまして、私は寡聞にしてこれまで御校のことを全然存じ上げなかったものですから、特に日本のように、とかく教育の面でも、そのほかの面でも、画一的だと思っておりましたので、こんなにも個性のある学校があって、それが成立していることに非常に感銘を受けたんでございます。
  「学校生活の約束」にある「契約の書」で特に強調していることで、「もし破った場合、ここでの共同の生活ができなくなります。」ということは、そのうちの一つでも一度でも破ればということかどうかは知りませんが、基本的にはこういうことが守れなかったら、退学ということだと思うんでございます。その中身は、特に高校生として、お酒を飲まない、たばこを吸わないということは、妥当なことであるかと思いますし、そのほかのは人間としてだれにとっても目指すべきことであるということは異論はありませんけれども、こういう契約を破ったらここにはいられませんよという形で求めるということの教育的な意味をどういうふうにお考えなのか。
  それから、これだけではなくて、もちろん労働を重視なさるとか、共同生活とか、いろいろ特色のある教育をやっていらっしゃるわけですけれども、そういうことを通して、もちろん生徒さんは一人一人個性がありますが、共通した人間像、こういう卒業生を育てたい、こういう人になってもらいたいという何か目指しているイメージがおありになるのか、お伺いできますでしょうか。
○助川意見発表者    非常に難しいことを御質問いただいたんですが、思春期の男性と女性が寮生活を土台とした学校で秩序ある生活をどういうふうに整えていくかというのは大きな問題です。自由と責任とか、そのように言うこともできると思いますけれども、私たちは基本的に学校を非常に自由な雰囲気でやっていきたいと考えています。私たちの学校においでくださった方は、「生徒が明るい」と共通しておっしゃいます。いわばその場所に楽におれる、自分の居場所がある、そういう場所でありたいと思っています。それにはやはり、こういう基本的なことはみんなで守るということがないと、それができない。特に男女関係の問題が伴いますと、それが非常に難しくなります。例えば、その中で個人的な交際をしたいというのが必ず出てきます。
  入学試験の時には、1晩泊まりでやってもらう、体験入学みたいな形です。この学校はこういう学校なんだ、それでもこの学校がいいですかということを、必ず面接のときに聞きます。それとともに、受験する場合には、なるべく学校を見学に来るようにお願いしています。その見学会のときに、このことは繰り返して言います。この学校はこういうことを大事にしていきます。これは高校生として当たり前だと思う。でも、今、当たり前のことができなくなっています。当たり前のことを私たちの学校としては大切にして行こうと思いますので、受験に当たってはこのことを一番大事に考えてくださいと、そういうふうにいつも言っています。にもかかわらず、問題が起きる。一昨年の場合は、アルコールの問題で大変な苦しみをしました。場合によっては、もう一度「契約のやり直し」をやる場合があります。
  それから、さっき退学の話が出たんですが、そのときにこのことを申し上げればよかったんですけれども、私たちの場合の退学は、男女交際のことで退学しているのが創立以来何例かあります。昨年ですけれども、私が校長になって初めてあったのですが、これはどうしてもやむを得ないということで、退学させました。私は非常に苦しみました。そこで、原則を大事にして退学させたことがよかったか悪かったか、これは私がこれからもずっと一生負っていかなくちゃいけないことなのですけれども、夏休みにどういう状況でそういう深い、性的な関係になったのか。よく考えてみると、やはり家庭の問題なんです。私たちは寮生活をしていますので、どういうところで生徒の生活がうまくなくなるかというのは、ほとんどが家庭問題なんです。親子の問題、あるいは両親の仲が良くない。それで子どもの体調が悪くなる。ある意味で、寮の生活をしているので、通学の学校よりも、より保護者の実態がわかるということがあります。
  その後、両方の家庭ともそのことで深く考えられまして、今、女性の方は農業の実習をしまして、今年は田んぼを1反5畝、実験田でつくったので、私たちのほうに稲刈りに応援に来てくれないかという依頼がありました。3年生の女性を3人送ることにしております。そのように退学した生徒のためには、それからも私たちは非常に心を遣います。その女性も今一所懸命やっていますし、それから在校生も今度3人そこに応援に行きます。そういう形で、ある意味でほかの生徒以上にきずなが強くなるということがあります。アフターケアという言葉は平凡になりますけれども、そんなことを心がけながら、共同生活をする責任の重さというか、そういうことは十全に受けとめながら、そして、柔軟さを大切にした学校の運営をしていきたいと願っています。あくまでも自由な雰囲気を大事にしながら、けじめはつけて行くということを考えております。そういうところで、私たちがダラダラ妥協してしまうと、どんどんけじめがつかなくなっていって、泥沼になっていくのではないだろうかと思います。
  この点は、私は河合委員の「思春期の子どもに対しては、ここからは絶対にだめだという『壁』が必要だ」(「臨床教育学入門」岩波書店)という考え方に共鳴しております。私たちの長い取り組みの中で学んだことが、臨床教育学・心理学の見方とも重なっていることを知ってうれしく思っています。
  後、めざしている人間像としては、裏表のない人間、仕事を安心してまかせれる人間、青年像としてはこのような人物と結婚したいと望まれるような男性・女性を育てたい、そういうことを考えています。
○  先生の理想とされる教育というのは、少人数で、寄宿制で、労働体験学習が大切で、それらがキリスト教の哲学に支えられていると伺いましたが、そういう条件にない子どもたちが非常に多くいるわけです。例えば都会のコンクリートジャングルに住んでいる子どもとか、それから田舎であっても僻地であるがゆえに、小学校であっても通学バスで通って、せっかく自然に恵まれていながら、自然と接触しないで、うちへ帰ってゲームをしているという状況の子どもたちが大変多いんです。
  二つ御質問を申し上げたいんですが、一つは、労働は農業とか、自然を相手にした労働でなければ、先生の理想とされるような教育は難しいのかどうか。つまり、都会というような環境の中で行われるサービス業のような形の労働でも、労働というものの価値とか、その効果があるのかどうか。これが1点でございます。
  もう一つは、例えば自然での体験が大事だとしますと、昔は林間学校とか、夏の学校とか、いろいろあったんですけれども、牧場学校とか、農業学校とか、漁業学校のようなところに、都会の子どもたちが行って実習体験をするという、短期間の体験が子どもに対してどのような効果を持つか。やはり長期にずうっと泊まり込んでしないとだめだとお考えかどうか。その2点です。
○助川意見発表者    労働というのは、私はどんな労働でもいいと思います。「流汗悟道」という資料で、北海道家庭学校の谷先生がお書きになっている中にあるのですが、ある若者が父親の代わりに店を手伝うことになって、配達をする。そこでいろいろ苦情を言われる。それは大事な体験です。いろいろ苦情を言われる、文句を言われる。お父さんはこうやって生きてきたんだなということをお子さんが受けとめた。すばらしいことだと思います。どんな労働でも大事な労働ですから、いいと思います。ただ、私たちの場合は、山村にあり、思春期の育ち盛りですので、できるだけ筋肉労働をさせたいという、私たちの置かれている場ではそういうことを考えていますけれども、どういう労働でも大事な労働だと思います。
  それから、林間学校とか、もちろんそれも大事な体験だと思います。ただ、先ほど委員の方から、「心の習慣」との関係はどうなのかということを言われたんですが、やはり持続してやる、相当長期間やる、そして体に覚えさせるということが、私たちの心を整える上で大事な役割があるのではないだろうかと思います。でも、いろいろな機会を活用するというのは、もちろん私も大賛成です。
○  先ほど、御説明いただきました中に教養と教養教育というのがありますが、先生のお話では、教養と教養教育は頭と心と手のバランスを働かせるということで、「そこで営まれる教育は、エリートを目ざす競争ではなく」云々という文言がございました。私はもともと教員でして、先生の話を伺いまして、大変感動的な学校があるんだな、理想のような里があるんだなということを改めて思いながら、一方で日本という大きな視点で考えますと、リーダーとしての養成もまた必要ではないかと思ったところです。もちろんいい意味でのエリートということですが、先生も決して否定されているわけでもないと思いますけれども、その辺のことにつきまして、先生のお考えがございましたらお尋ねをしたいと思います。
○助川意見発表者    日本を引っ張っていくリーダーを養成したいという気持ちは私もわかりますし、それも非常に大事なことだと思います。公の問題を、我が事として受け止める人物が必要で、今の若者にそのような面に目覚めてほしいと思っています。現実に私たちの場合、どういうところでエネルギーを使わせられるかというと、今、私たちが腐心していますのは、1年生の女性ですけれども、お母さんは芸術家一家、お父さんのほうは学者一家です。お姉さんは国立大学の医学部でものすごくできる。自分は全然だめだと劣等感を持っている。その子どもの対応で今非常に時間をかけています。そういうことで、私たちが今やっているのは、その子どもをどうやってこれから3年間ここで過ごさせるかということです。ですから、そういう生徒が喜んで生活できるようにすることが、私たちにとっての大きな課題だと思っています。このような個々の生徒に心を込めて対応することによって、クラスの結束力も高まり、学校の教育力も向上することになります。日本の教育全体を考えた上でも、むしろそういう問題が非常に大きな問題ではないでしょうか。
  うまくリーダーにどんどんなれる人、大企業とか、官庁とか、そういうところに入ろうということを学校でどんどん教えて、それに乗っていける人はいいんですけれども、乗っていけない人がどんどん出てくる。そういう人がいろいろなところで欲求不満が高まり、学級崩壊の原因にもなっているとか、あるいは家庭の中で親に反抗するとか、そういう問題は教育上ものすごく大きな問題です。初等中等教育という段階は、まず、人間形成の土台をつくることが大事なのではないでしょか。リーダーとかいうのはどんどん厳しくやって、たたき上げるというか、上の段階でやるべきことなのではないか。私たちは初等中等教育という下の段階での営みをどうさせるか。一つの学校でいろいろな課題があるけれども、今申し上げたように自分がうだつが上がらない、それをどうやって安定した人格にさせるか、そういうようなことを大切に受け止めたいと考えています。そのためには、思春期の子どもたちにいろいろの生活体験させることが大切である、と思っております。
  そこで、私は、生徒たちが自分が平凡であることを喜び、感謝することが大切なのだと、そう思っています。自分は何と恵まれているかということを生徒がわかるようにしたい。それにはリーダーとか何かというよりも、どういう職業でも大事で、尊敬すべきものだということを、まず私たちは生徒に知らさなくてはいけない。みんながそれぞれの務めを大事にしなければいけないのです。どんな立派な研究をする人にとっても、米をつくる人は必要だし、道路をつくる汗を流す人が必要です。みんなの仕事、どの仕事も大事だ。自分はそういう中で、こういうところでやって行こうということで、いろいろな人間が育っていくわけです。むしろ、基本的にどういう職業も大事で、尊敬すべきことだということを教えることが、今の教育に欠けているのではないだろうかと思っているのです。このようなことが分かれば、自分の兄弟が勉強ができて医者になって、自分はそうなれなくても、安心して自分自身であることができる。他とのつながり(連帯)と自分であることを大切にすることを学ぶ、私たちは高等学校ですから、そういうことに重点を置いてやって行けばいいのではないかと考えています。そして、このようなことを深く受け止める人物が土台となって社会を支え、そのような中から本当のリーダーが育って来るのだ、と思っています。
  また、私たちの場合、入学式、卒業式、その他のすべての学校行事には生徒の計画委員が出て立案し、実施しています。寮生活でも、寮のリーダーが2ヶ月毎に交代してやっています。その他いろいろの係があって、誰もがリーダーになることが学校の生活で求められています。それは社会人となっても、ずい分役に立っていると思います。
○根本会長    大体よろしゅうございますか。
  大変に貴重なお話をありがとうございました。きょうはたまたま三春町の2県人の方から有益なお話を伺いましたけれども、結局、内村さんの言われたことは、読むべきものは聖書だ、学ぶべきものは天然であり、なすべきことは労働と、こう言っておられるわけです。そうすると、田部井さんのお話は自然というか、天然、それから労働も入っているんだろうと思うんです。我々一般のクリスチャンでない人々は、聖書にかわるものとしては、我々の先人の古典とか、あるいは歴史、哲学といったものを読むべきであるというふうにも解釈できるわけであって、そういったような三つのものが、ここにはスポーツは入っておりませんが、音楽なんかを含めまして、一つの教養であると解釈してもよろしいわけですね。
○助川意見発表者    そうですね。私も同感です。若者が、それぞれに人まねでなく、深く考え、自分の足で立てるように育てることが、今私たちにもっとも求められているのだ、と思っています。
○根本会長    私、この前行きましたときに驚きましたけれども、校舎の中に立派なパイプオルガンがありました。そして、非常にレベルの高い合唱を小一時間聞かせていただきました。卒業生のつくった歌も歌ってくれました。それが山にこだまして、実にいい雰囲気だなと感銘を受けました。
  学園内に納骨堂というのがあるようですが、どなたを祭ってあるわけですか。
○助川意見発表者    これは私たちの関係者です。
○根本会長    先生方。
○助川意見発表者    先生方と、それからどこにもお墓のない人でも、ここに葬ってほしいという方の遺骨をここに入れているということもあります。
○根本会長    創設者の鈴木さんもここにお入りになっていらっしゃる。
○助川意見発表者    そうです。お墓にノートを置きまして、生徒や卒業生はそこで亡くなった先生方に手紙を書いたりして、いわば学校のカウンセリングルームみたいな役目をしています。私たちここで生活している者にとりましては、お墓も準備しているから、最後までここで安心して働けということになります。
○根本会長    そうですか。どうもありがとうございました。
  それでは、これで先生方のお話を終わらせていただきますけれども、どうもありがとうございました。
○  それでは、ヒアリングが一応終わりましたけれども、なかなか皆さんにお会いできませんので、この機会に私のほうからお話を申し上げたいんですが、先週、先々週とヨーロッパへ仕事がありまして行っておりまして、その際に、ウィーンとロンドンで教育関係の方とお会いしました。そのときの教育に関するポイントだけを申し上げたいと思うんです。
  ウィーンではシュンペーター学派のシュティーフェルという経済史の教授でございますけれども、この方と会いまして全般的な話をしました。彼が非常に強調しておりましたのは、19世紀は金持ちの自由主義の時代であった。20世紀に入りまして、第1次、第2次世界大戦があって、ロシアの革命は失敗に終わった。今や大衆化した自由主義の時代に入った。主人は消費者とマーケットであるという説明です。ところが、大衆化した自由主義が放任された場合に、人間疎外の傾向になってしまう。これは責任が伴うものであると自分たちは思っている。ウィーンはハプスブルク王朝の首都であったわけでございまして、自分たちはしっかりした伝統と文化を持っている。アメリカには共通した文化はない。そして、そこにあるのは拝金主義と個人主義だと、このようなことを言っておりました。
  シュンペーターというのは、ご存じのとおり高名な経済学者だったわけですが、この人は人文科学とか、社会科学、歴史学についても大変に造詣が深かったわけでございまして、特に経済の問題について、こういった人文科学の分野を総合的に考えていく時代に入ったと痛切に思っている。それから、21世紀について、悲観論、楽観論、いろいろある。しかし、私はやや楽観論的な考え方で、最大の問題は人の心の問題だということでございまして、文部省が「生きる力」とか、あるいは人の心の問題を一つのテーマとしてつかんでおられることは時宜を得ているのではないかと思った次第でございます。
  英国でロード・デアリングという人が、1997年に来るべき20年間のイギリスの高等教育の在り方について「デアリング・リポート」というのを出されたわけであります。この人には前回も会っていますが、今回またお会いいたしまして、最近では彼は「エデュケーション・レスキュアー(Education Rescuer)」というようなことを言われて、新聞でも随分いろいろなことを言われております。結局、イギリスが今後向うべき方向はナリッジエコノミーであるという問題意識を持っている。そこのかすがいになるものは、やはりシチズンシップ・エデュケーションだという説明でございます。ただ、このシチズンシップ・エデュケーションは非常に難しい。世の中の習性は、読み書きそろばん、インフォメーション、テレコミュニケーション、こういったような方向にどうしても傾いていってしまって、モラルの問題等の教育について手が抜けてきてしまっている。イギリスにおいても、親に対する尊敬心が薄れてきておるそうでございます。また、シチズンシップ・エデュケーションを強調すると、それぞれの教員の政治的価値観を押しつけるようなことにもなりかねないので、なかなか難しい。
  そこで、彼はジョナサン・サックスの言った言葉を引用いたしまして、要するに法による規制と、成文化されない義務――彼の表現としては「アンリトゥン・コベナント(Unwritten Covenant)」という言葉を使っておりましたが、成文化されない義務ないしは誓約、他人を尊重する、あるいはグループ・バリューを共有する。それがシチズンシップ・エデュケーションのかなめだと自分は思っているということでございます。
  教員については、評価制度を相当厳しくやっているのは御案内のとおりでございますが、結局、我が国でも家族の価値、あるいはコミュニティの価値の再生が、教育の大前提として必要だと思っている。彼は最後に「イソップ物語」の本を私によこしまして、「汝の隣人を愛せ」というキリストの言葉があるけれども、結局、教養の行き着くところはそういうことではないかという彼の個人的な意見を言っておりました。
  それから、ケンブリッジ大学へ行きまして、ホマートンカレッジで、学長のケイト・プレティー博士にお会いいたしました。彼女の言っておりましたことは、とにかく多様性が激しくなってきて、かつスピードの時代になった。これに対応し得る教員をどう養成するかというのが大変な問題だ。ただ、その中で、専門性と普遍性といいますか、そういうバランスのとれた教員にしなければならないので、体育、音楽、美術といったような分野についてもカリキュラムに入れて教育をしているということでございました。そして、「デアリング・リポート」で指摘されているシチズンシップの目的は、結局は個人と社会の関係を再構築することである。教員にとって絶対的に必要なものは道徳的な規律だと思いますと、こういうお話でございます。結局、心の問題、それから生きる力、これはイギリスにおいても全く同じようなとらえ方をしているわけです。
  最後にケンブリッジのホマートンカレッジの建学の精神といいますか、子どもたちを教えていく上で何かないですかと言ったら、特段のミッション・ステートメントはない、ただ、子どもたちには、「ベストたれ。ただし、協調せよ」ということを言って教えている、というお話でございます。
○根本会長    何かほかに御意見はございませんか。
  それでは、よろしければ、これにて本日の会を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。


(大臣官房政策課)

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