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中央教育審議会

 2000/7 議事録 
中央教育審議会第233回総会 (議事録) 

 中央教育審議会

総会(第233回)

  議  事  録


平成12年7月19日(水)10:00〜13:00
霞が関東京會舘        34階      ロイヤルルーム


    1.開    会
    2.議    題
          「新しい時代における教養教育の在り方について」
            有識者からの意見発表及び討議
    3.閉    会


出席者

委  員
根本会長、鳥居副会長、木村委員、小林委員、志村委員、木委員、土田委員、永井委員、松井委員、森  委員、横山委員
事務局
大島文部大臣、小野事務次官、近藤官房長、崎谷生涯学習局長、御手洗初等中等教育局長、矢野教育助成局長、工藤高等教育局長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官

          意見発表者
            阿部  謹也  氏(共立女子大学長)
            寺島  実郎  氏(株式会社三井物産戦略研究所長)


○根本会長  それでは、定刻になりましたので、第233回の総会を開催いたします。大変お忙しいところを皆様方御参集を賜りましてありがとうございます。本日は、文部大臣も御出席になりますが、後ほどお見えになるということでございます。
  本審議会の中島元彦委員におかれては、7月12日付で東京都教育長を退任され、御本人の申し出によりまして委員を辞任されましたので、御報告いたします。
  本日は、御高名な阿部謹也共立女子大学長と、寺島三井物産戦略研究所長のお二人から教養についてのお話をいただいた上で、皆様の自由討議をお願いしたいということでございます。
  それでは、今回の配付資料の確認を事務局よりお願いいたします。

<事務局から説明>

○根本会長  それでは、最初に阿部謹也先生を御紹介いたします。先生の略歴については、お手元の資料(※1)のとおりでございます。一橋大学の学長をされまして、現在は共立女子大学長を務めていらっしゃいます。それでは、先生、よろしくお願いいたします。

○阿部意見発表者  皆さんおはようございます。
  今日は、教養についてお話しするのですが、時間が短いものですから、三つの点に絞ってお話ししたいと思います。
  一つは、教養概念というものが従来は個人を中心として考えられておりましたが、必ずしもそれだけではなくて、集団の教養もあり得るという点。
  もう一つは、大学に関係があることでありますが、一般教育と言われるものがなぜうまくいかなかったかという点について、これまで十分に指摘されていなかった部分について指摘したいと思います。
  そして最後に、集団の教養とは何かという問題に触れたい。この三つの点についてお話ししたいと思います。
  まず、現在流布している、あるいは一般に皆が考えている教養概念とはどういうものかといいますと、これは『広辞苑』を見るのが一番よろしいかと思いますが、『広辞苑』においてはこう書いてあるんです。「単なる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。その内容は時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる。」と言っているのですが、「単なる学殖・多識とは異なる」という点は同感でありますが、「一定の文化理想を体得し」というところでは、その文化理想が何かということが示されていないので、「それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識」という言葉がかなり抽象的に聞こえてくる。また、「内容が時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる」と言われると、では現在の我々はどういう文化理念のもとで生きているのかということについての説明がないと十分には理解されないと思うわけでありますが、どこの辞書においても似たり寄ったりで、この程度の説明しかありません。
  したがって、各大学で教養とは何かということを考える、つまり平成3年の大綱化以来、教養教育の大きな変革を起こそうとしているんですが、一番大事な教養という概念についての十分な検討がなされないままに、制度いじりに終始している。大学改革のほとんどは制度いじりであったわけで、制度ではなくて、学問の内容の変革だというところまで進めないと、大学改革にはならないと思います。
  そして、一般に「教養」という言葉についての理解も非常にあいまいで、ほとんどは一般的には「知識」と並べられています。例えばダンテの書物、『神曲』なら『神曲』を知っていて、例えば何らかの事件の際にその一部分を引用することによって、教養がある人という名が流布したりするということはいくらでもあるわけであります。そういう個人の知識が教養であるとすれば、それはある意味でコンピュータによって代替できるものであるわけです。
  そうではなくて、教養概念というものは、個人が、あるいは個人ではなくて集団でもいいんですが、自分あるいは自分たちの生き方を自分で考えるということ。そして社会との接点をどのように結んでいくか、あるいは見出していくかを考えてゆくということだと思います。
  少し古い時代にさかのぼってお話ししますと、まずプラトンが『パイドン』という本の中で、人間は死ぬときにあの世に二つのものを持っていくと言っています。プラトンの場合は、人間の魂は死なないという説ですから、彼はあらゆる本を通して魂の不死ということを証明しようとして、うまくいってないんですけれども、その中で、死ぬ際に二つ持っていく一つは、自分が培った「性格」なんです。もう一つは「教養」と書いてある。日本語の訳では「教養」になりますが、「知」という意味でもよろしいわけです。「教養」を持っていく。死ぬときに持っていく教養とは何か。これは大学人には大変関心があるところであります。
  プラトンには様々な神話がいっぱいありますが、その中で、死後にどういう世界を経めぐるかということについての説明があり、それを見ますと、これは『国家』の第10章にあるんですが、死んだ後かなりの年月を経て、生のモデル、つまりこれから生きていく上での生活のモデルがずらっと並んでいるところにきて、くじ引きで、その中からどれか一つを選んでいいという場面にくるわけです。そこで、死者の魂は、自分が生きていたときの経験を踏まえて、例えばアガメムノンは王様として暮らしたのですが、「もう王様は嫌だ。飽きちゃった。これからはワシの生活を選びたい、ワシのように空を飛んでいたい。」といって、ワシの生命を選んだと言われています。そういうふうにして、動物や虫も含めた様々な生命が選べるとプラトンは書いています。
  その際に彼が言っている教養とは何かというと、現世で生きていたときの生き方を自分で反省しながら、新しい人生を選んでいると解釈できるわけです。
  私も、「教養」という言葉を考える際に、ヨーロッパで個人が成立した時点までさかのぼるべきだと考えていて、これは現在の通説では12世紀です。12世紀になぜ個人が成立したのかという話をすると、時間をとりますが、一言で言ってしまえば、内面が発見されたこと。つまり、それまで人類は生きてきたわけでありますが、内面を重視した生き方が強制されたと言ってもいいんですが、1215年のラテラノ公会議で告解が全信徒に義務づけられた。告解というのは、自分が冒した罪を司祭の前で事細かに述べる。それに対する償いを課されるという儀式で、今でも行われているわけであります。この告解が一般化していくことによって、それぞれが自分の罪を意識し、それを司祭の前で語る。そして罪の償いを果すという道が現在まで続いたわけです。これが一つ。
  それと同時に、当時、都市ができまして、それまでは農村で父親の職業を継ぐしかなかった人々、例えば次男、三男といった息子たちが町へ出ていって、職人になるか、あるいは教師の卵、いわば司祭の卵になる道ができたわけです。言い換えれば、新しい人生を自分で選ぶ可能性が出てきた。この二つが背景になって、個人というものの萌芽が生まれたわけです。
  しかし、個人は一瞬に生まれたわけではなくて、12世紀に内面と職業選択の可能性を背景として生まれたわけですが、個人が生まれますと、個人はやがて神と対等というところまで成長していきますから、当然のことながら国家、社会と対立する。国家、社会の側は、新しく生まれてきた個人を取り込んでいく、あるいは押さえ込んでいく必要が出てきます。こうして各国政府あるいは社会は、イギリス、フランス、ドイツ、ポルトガル、スペイン、イタリア、全部違うんですが、それぞれ個人に対して対応策をとってきたわけです。それが大体600年ぐらいかかっているわけです。6、700年かかってヨーロッパ全域でそれぞれのスタイルで個人が生まれてきて、やがて人権宣言にまで至るわけでありますが、こういう個人概念の問題があるわけです。
  ついでに言いますと、最初に都市に来た連中は、自分がどうやって生きていくかということの道筋も十分にわかっていない。当時のフランス語、ドイツ語という俗語の文献にはそういう知識は一切なかった。そこで彼らは仕方がなくて、古代末期のラテン語、あるいは場合によればギリシャ語の書物を読むしかなくて、そこにはボエーティウスの『哲学の慰め』といったようなものもあって、彼らの生き方に指針を与えてくれた。ボエーティウスという人は無実の罪で処刑されるんですが、処刑されるまでの間に、短い時間ですが、自分がなぜ無実の罪で処刑されるのかということを、自分の運命について全面的に考えた人で、この人の書物は今でも読むに値するものになっている。こういう本を読むことが比較的多かったために、古典を読むことが教養の出発点だと言われるようになったわけであります。
  さらに、個人はやがて芸術の分野で創作活動の担い手として登場してくるときに、ルネサンスにぶつかり、ルネサンスの中で個人が生まれたというのが通説となる。それは今では否定されてはいませんが、12世紀にさかのぼっているわけです。
  次に、日本の大学の一般教育についてお話ししたいと思います。一般教育は戦後かなり長いこと、大体において1、2年生を対象に行われてきたんですが、これがあまりうまくいかなかったという点については、皆さん一致していると思うんです。大綱化以来、これについて全面的な改組が行われているわけで、これからその調査も始まると思います。つまり、何が失敗の原因であったかといえば、一つには教師が専門家であった。専門家の教師が一般教育という新しい分野について説明するときに、十分な研究が行われていなかった。さらにまた、教師の身分、地位が、かつての話ですが、学科目教官という形で位置づけられていて、学部教官とは違っていた。そのために心理的な微妙な問題が生じた。また、高等学校の教育との連係プレーがうまくいってなくて、高校教育の繰り返しであるということから、学生側の関心を引きつけられなかった、ということはかなり指摘されています。
  私はそれよりももっと重要なことがあると思っています。今までほとんど指摘されておりませんが、どういう点かというと、人文、社会、自然という3系列があって、この3系列を学ぶことが一般教育の主たる目的だったわけですが、残念ながら人文、社会、自然の三つを担当する教員が、来年度4月以降、どういうふうにして講義するかということについて、担当者同士の間での話し合いが行われていないのが通例です。おそらく全く行われていなかったと私には思われます。
  その背景として、これは日本社会全体の問題にかかわることですが、明治以降の文教政策があります。つまり、文科、理科を分けた。これは後進国としては仕方がなかった面がありますが、少なくとも富国強兵、殖産興業を急速に展開するためには、文科、理科を分け、帝国大学の中に工科大学、工学部をつくるという独創的な手法を使いながらも、先進国に追いついていく必要があったために、文科、理科を区分した。この区分したことの大きなツケを今我々が払わされているわけです。
  例えば、国文学の教師が『万葉集』の話をするとします。そして、天文学の教師が暦とか、時間論とか、あるいは宇宙について話をする。この両者の間は全く無関係だとみんな思っている。学生もそう思っている。そして、社会も、先生方もそう思っている。全く別な分野の話が並んでいる。一番大事なことは、一般教育においては、学生を発奮させることであります。学問の世界に目を開かせ、そして自分もそこに加わっていきたいと思う気持ちを起こさせることが一番重要でありますが、それができなかった。それはなぜかというと、個々の分野の中に安住していると言ってしまうと言い過ぎになりますが、先生方がそこから飛び出す自由を持っていなかった、あるいは飛び出そうとする気持ちを持っていなかった。
  これは一つの例にすぎませんが、例えば白川静さんの『初期万葉論』という本があるんですが、この本の中に、柿本人麻呂の有名な歌があります。「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」。これをカルチャーセンターなどで講演する先生方は、個人の感慨を述べたものとして解説する。そうすると、そのように読めるわけです。一般に『万葉集』はそういうふうに理解されている。しかし、白川さんは中国の漢文あるいは中国語の世界の研究者でありますから、その観点から『万葉集』を読み直してみる。すると、彼の『初期万葉論』では、この歌も含めて、大体呪歌としてよまれているという結論が出てくるわけです。つまり、季節あるいは気候の変化などの自然を描写した叙景歌ではないんだと。我々は何となく叙景歌として「東の野にかぎろひの立つ見えて」というのを歌い、その場面も想像できるわけですが、そういうことを彼は呪術的世界の出来事、つまり、あるべき自然の姿として解釈した。
  もっとおもしろいことは、これはだれか研究者の名前は確認できませんが、この歌がいつできたかということを東京天文台に問い合わせたそうなんです。すると、東京天文台からきちんと返事が返ってきて、この歌ができたのは陰暦692年(持統6年)12月31日、午前5時30分ごろだと。これはなかなかのことでありまして、もし私が1年生の学生であったら、これを聞いた瞬間に背筋が震えただろうと思うんです。つまり、全然関係ないと思われる東京天文台が『万葉集』について一見解を示したということは大変なことであります。これは天文台に限らず、天文学と『万葉集』の研究は非常に深い関係があるということであってこの例だけではなくて、ほかの例にも言えるし、この問題はもっと広がります。
  どうしてかというと、一般にヨーロッパの古代文学あるいは古代の研究者は、個人がいないところには叙景歌は成立しないと考えています。景色というものを詠む、歌うということは、個人が成立してからのことだと。ところが、12世紀以前に個人はいなかったというのが現在の通説でありますから、日本では例外だということになります。そこのところは大変おもしろい問題で、私は私なりの解答を一応持っておりますが、今日はそこまでは広げて話をいたしませんので、ここでとめておきます。
  いずれにしても、自然科学、あるいは社会、あるいは人文科学が相互に深い関係があるんだということ。この相互の深い関係を学生の目の前で展開してみせるということが、一般教育あるいは教養教育の中で学生を発奮させる一番大きな材料ではないかと思うのです。
  もう一つ例を挙げますと、私は数学が苦手だったんですが、パターンなどを覚えて受験勉強だけは何とかなったんですが、大学に入った瞬間に非ユークリッド幾何学の中で、一辺が1センチの立方体の中に宇宙全体を込める操作について問うという問題を発見して、このときも興奮した記憶があります。もちろん、非ユークリッド幾何学を勉強すれば、これは最初に出てくる問題で、1対1対応の問題なんですが、学生を発奮させる講義、研究というものは、教師自身が発奮させられ興奮していないところにはできないと私は思います。これが第2点です。
  最後に、個人の教育というものが、先ほど言いました個人が成立して以後、ヨーロッパでまず生まれ、そしてヨーロッパの大学もやがて整備されていきまして、特に18、9世紀にベルリンのフンボルト大学が教養大学として成立していくわけです。これは観念論哲学を背景にし、細かい技術的なことは勉強しないでいい。それよりも宇宙とか、自然とか、社会について、全般的に考えるべきだという線でありまして、その思想あるいは考え方は日本の旧制高等学校に受け継がれたんです。そのために、我々より年配の方々の中には、旧制高校における教養教育はなかなか立派なものであった、したがって、それに戻るべきだという、アナクロニスティックな意見が今でも出るようであります。これは財務センターの天野教授が詳細に分析していますように、旧制高校の哲学、英語等々の教育は、水準から見るとそんなに深いものではなくて、ただ彼らには現在の生徒とは違って、3年後に受験を控えているということがなかった。当時の大学はほとんど入れましたから、この3年間は自由に自分のしたいことができたという意味で、教養教育になったということが指摘されています。
  同時に、個人の存在が12世紀以後、ヨーロッパを席捲するというわけでもないんですが、ヨーロッパのいわば中心課題になり、個人をどう取り込むか、個人をどう伸ばすか、どう押さえ込むかということが大きな問題になったんです。日本の場合は、明治17年に「インディビデュアル」という言葉の訳語として「個人」という言葉が生まれます。そして、「個人」という言葉が徐々に定着するんです。しかし、一番大事な点は、「個人」という言葉が「インディビデュアル」の訳語だということは明確なんですが、今、我々が使っている「個人」という言葉が、ヨーロッパやアメリカやフランスの「個人」とは全然違うということ。いろんな意味で全然違うということを我々はほとんど自覚していないで、特に評論家がそうですが、日本の問題について議論するときに、「個人がまだ未発達だ」「個人を確立しなければならない」と言っているんですが、個人が確立するとはどういうことかという状況の分析が日本に即してなされていない。
  日本の場合は、「個人」はどういう形でそれまであったかと言われると、私はその話をここで敷衍できませんが、「世間の中の個人」という形で万葉の時代から位置づけられていたわけです。したがって、その「世間」は今でも生きているし、今でも存在しているけれども、少なくとも教育や社会学等の分析の対象にはなっていない。いわば言葉の世界、会話の世界にとどまっている。けれども、政党の派閥、大学の学部等も含めて、そういうものはまだ生きている。そういうものの中に根を持つ「個人」がいるにすぎない。したがって、その「個人」は、「自己責任」なんていう言葉が出てきても、責任を十分とれるわけではない、そういう「個人」になっている。しかし、インテリはヨーロッパの「個人」が日本に実現していると思い込んでいて、そこに大きなズレがある。
  ところが、先ほど言いましたように、個人というのは社会との接点、自分が生きていくその生き方が、社会とどういう結びつきを持っているのか、社会に対して何を働きかけ、何を受けとめているのか、これを自覚しながら行動していくものが個人だとすれば、そういう個人はいっぱいいたわけです。例えば、個人が成立するはるか前から、農民もいたし、漁民もいたし、手工業者もいた。彼らは自然を相手にしながら集団で行動し、例えばイナゴがあまりに増えて農作物がだめになれば、それの対応を考える。ニシンが獲れなくなれば漁場をどこかに移動する。こういうときに自分たちの生き方を考える。そういう習慣は前からあったわけです。そういう意味では、彼らは当然必要な教養を身に付けていたわけです。
  したがって、教養というのは、例えば職人のわざを見てもわかりますように、社会との接点を自覚して生きるという点で言えば、文字とか、言葉とか、そういうものとは直接関係しない分野もあるわけです。それは体の動きとか、あるいは手工業とか、歌とか、踊りとか、そういうもので表現される教養もあった。そういうものを我々はどこかで見落としてきて、文字とか、数字とか、あるいは書物とかというものに限定された教養概念に終始している。これが現状ではないかと思います。
  ですから、我々が教養概念について徹底的に勉強しようとすれば、明治以降の日本の教育の中で、個人というものがどう位置づけられてきたか。これは西欧の模倣でありますが、しかし日本の場合は、ハードの面の様々な制度は輸入しましたが、人的関係、親子の関係、兄弟の関係、あるいは先祖との関係は、ヨーロッパからの輸入ができませんでしたから、そこだけは日本的な形でずうっといまだにやっているわけです。それが今の日本社会の非合理性の根っこにあるわけで、この点についての見識を持たないと、今後の日本の教育はうまくいかないと私は考えています。そういう面も含めて、教養教育について徹底的に考えることは、今、とても大事だと考えています。
  はっきり言いますと、社会との接点、関係を自覚して生きるという意味では、農民も漁民もちゃんとやってきたわけです。そして、彼らはそれなりの生活を営み、私の感じでは、かなり立派な顔をして死ねる。しかし、サラリーマンが机に向かってデスクワークをしながら、立派な顔で死ねる保証はあるかというと、ないんですね。それは自然現象を対象としていないからということだけでなくて、一般の職員、社員等が対象としている社会が見えないままに行動しているからです。現代の社会はかなり複雑でありますから、簡単には見ないという説もありますが、そうではないんです。現代の社会がどういうところで動いているかということに対する見識を持って、それに対して自分はどの程度貢献し、どこでそれを押さえ、どこでそれを促進するかということを自覚しつつ行動することが教養のすべてであります。
  したがって、教養というのは決して知識ではなく、そしてまた、単なる地位確立のための手段でもない。生き方にすぎない。生き方を考える場だというふうに考えると、大変重要な問題を含んでいる。
  個人と集団の問題について言えば、私はたまたま2期にわたって東京商船大学の外部評価委員をやってまいりましたが、そこで教養教育について担当したときに、東京商船大学のような大学こそ、集団の教養ということを教育の側面でもっと生かせるのではないかと指摘しているわけです。つまり、船に乗って、そこで何日も集団で暮らす中で、リーダーを養っていくわけですが、その際に一人の教養というものではやっていけないところがあります。集団の教養、しかも船には外国人が多いんです。日本人は一人しかいないかもしれない船の中で、全体をまとめ上げていきながら、全体が満足して仕事ができるようにしていく、そういう教育はやはり教養教育として行われるべきだと考えています。
  これは東京商船大学に限りません。一般の社会の人も、また普通の大学の学部でも同様でありますが、個人教育ということに終始し、そういうところにだけ視野を向けていると、集団の教養を見失う。これは小学校・中学校・高校の問題にもかかわってきて、皆さん御存じだと思いますが、あるテレビ番組で、「ようこそ先輩」というのがあるんです。これはその小学校を卒業した先輩で、著名な文化人等をお呼びして、一日、二日、生徒の前で実際の授業をしてもらうわけです。こういうことはテレビで見る限り、非常にうまく成功している。これがもしあらゆるところで行われたら大変なことになるくらいに、立派な実験だと思いますが、そういうことが日常的にやれるわけです。つまり、そこでは常に体を動かす。経済学をなさったのはたしか佐和先生だったと思いますが、小学生に経済学を教えるというのは容易なことではないんですけれども、実際にお店を張らせて、そこで様々な説明がなされていき、体を動かしながら学ぶ。こういう点が初等教育では一つ問題になるだろうし、場合によれば大学教育だってそれが必要になるのではないかと思います。
  いろいろと言うべきことはあるんですが、これで主とした論点は大体お話ししたと思いますので、終了いたします。

○根本会長  ありがとうございました。それでは、質疑応答に入らせていただきます。質問が二つほどございます。阿部先生によりますと、その人の顔を見れば教養があるかないかわかるというふうにおっしゃられているわけで、誠にそうかと思います。今、我々が問われている時代精神といいますか、それが何かということを教養問題と関連して考えますと、人間性が疎外されていくような現象を我々がいかにして克服するかという非常に大きな課題があると思うんです。戦後、日本が経済的に豊かになっていく過程で、いろんな意味で人間性が疎外されるような社会ができてきてしまった。特に家族の崩壊とか、あるいは地域社会の崩壊。
  今、21世紀に直面いたしまして、今度の沖縄のサミットもそうですが、IT及び遺伝子革命というのを皆さん喧伝されているわけです。ところが、これには影の部分が当然あって、バーチャルリアリティーのもたらす弊害がまた人間性を疎外していく。それから、グローバライゼーションと言われていますけれども、これも市場主義に立っているわけです。市場主義というのは究極のところ、欲望と欲望の交換によって成立していると思いますので、そこに抑制の効いたモラルがなければ、市場も崩壊してしまう。
  したがって、今までの日本社会の変質の上に、世界の大潮流がやってきて、よほどしっかりしないと、日本社会の人間性という問題が非常に大きな問題になってくるのではないかという危機意識といいますか、クライシス・パーセプションを私は持っているわけです。そこで教養問題が出てくる。
  今、御指摘の人文科学と自然科学との融合というのは、誠に私そう思っておりまして、阿部先生は一橋大学の総長をやられたわけですが、例えば市場主義の最初としてアダム・スミス。スミス自身もモラル・サイエンスの先生であった。『道徳情操論』と『富国論』を書いたわけです。したがって、彼においては今の自然科学と人文科学というものは融合というか、統一されておった。その後出てきたマーシャルとか、ケインズを見ましても、彼らもある意味では本当のモラル・サイエンティストであった。それがだんだん分化してきて、最近の日本の経済学者は、私はある意味では堕落しているのではないかと思いますけれども、景気がどうとか、構造改革とか、何とか言っておりますが、自然科学と人文科学、その人文科学をモラル・サイエンスと言うのかよくわかりませんが、その融合がいかに大事か。大学もそれに沿って教育をすべきであって、この点、欧米、特にヨーロッパの大学がどういう配慮をしているのかという点について、何か情報があればお伺いしたいというのが一つ。
  もう一つは、何も外国に学ばなくても、我が国においても明治の半ばから大正、そして昭和の初期、日本が戦争に入っていくまでの過程において、日本が独自の力で一つのリベラリズムというものを養ってきたと思うんです。それが途切れちゃった。途切れた後にアメリカが来た。ところが、アメリカの教育というのは、残念ながら今のような点に対する配慮がなかったのではないか。アメリカも今、景気はよろしゅうございますが、社会の実態からすると非常に悩んでいる。ですから、外国の実例で参考になる面もあるかもしれないけれども、日本においても夏目漱石をはじめとして、鈴木大拙とか、西田幾太郎とか、当時いろいろおったわけでございます。そういう人たちの生きようというか、考え方を、この際しっかりともう一度見直してみる必要があるのではないか。それが日本人に対する自信を与える一つの契機になるのではないかと思いますが、その辺、いかがでございますか。

○阿部意見発表者  最初の問題については、ヨーロッパ、アメリカの大学では、日本の例えば文科、理科という観念は通用しません。つまり、日本人は「私は文系の人間です」「理系の人間です」と平気で言って、それで通用している。しかし、例えばMITなどは、工科大学と日本語に訳せばなりますが、大変著名な経済学者をたくさん抱えています。そして、文科、理科という区分があるかのような幻想はないわけです。つまり、自然科学と人文社会科学は常に同居しているわけです。
  それは先ほど言いましたけれども、日本の国策が明治以降、とにかく強力な国家体制をつくるというところから、理科、自然科学優先、特に工学優先になった。その全体を見直す必要があると思います。
  例えば、科学技術庁の問題とか、いろいろありますね。原子力発電所の事故とか、こういうことについても、もしそこに社会科学者がいたら  ―非常に優秀な人が科学技術庁にも原発にもいると思うんですが、しかしそういう人から見れば大した事故ではない。ただの漏れにすぎない。しかし、社会科学者だったらそういう問題について反応するわけです。日本人は一種の核アレルギーがあるから、こういう問題が後でちょっとでも出てくると大騒ぎになることを知っていますが、自然科学者はそれが一遍、二遍大騒ぎになると、それで懲りてしまうんです。こんなつまんないことで一般の庶民は騒ぐんだということで、そこでむしろ隠蔽する方向にいく。ということも含めて、自然科学と社会科学がきちんと共存していないために、いろいろな損をしている面があると思います。これが前半のお答えで、ヨーロッパ、アメリカでは文・理というものをはっきり分けてはいないということです。
  次の問題は、私はおっしゃることに基本的には賛成ですが、例えば日本の文化は明治以降、翻訳文化になっている。例えば非常に重要な問題に「公共性」という問題があります。これはこの席だったら通用しますが、一般の人々に「公共性」と言っても、日本の場合は「官」と「公共」の区別がつきません。「公(おおやけ)」というときに、国のもの、政府のものと、そうでないものとの区別がないわけです。ヨーロッパで「公共性(パブリシティー)」と言えば、それは国家ではないです。そういう意味では、日本の場合、例えば「公共性」という言葉をいきなり使って、そこで議論をする学者の世界がかなり遊離しちゃっている。そういう意味で、今、日本で一番必要なのは学問論だと思っているんです。
  例えば、これも余計な話になりますが、国立大学の独立行政法人化問題でいろいろと話をしてまいりましたが、国民がこの問題にほとんど関心を持っていない。国民の関心は、自分の息子や娘を国立大学に入れるところまでは関心があります。その大学で何が行われているかにはほとんど関心がない。したがって、独立行政法人化になった場合、どう変わるかも関心がない。その理由は、国立大学の先生たちの教育というものが、先ほど経済学についてお触れになりましたが、国民の要望に根差した研究になっていない。国民のインタレストを代弁していない。
  例えば、国からも膨大なお金が、様々な資金源から自然科学に流れていますが、その報告書すら一般に解説されていない。それが国民の役に立っているかどうか。アメリカはそこはタックスペイヤーが重要な役割を果たしていますので、必ずそういう人が出てきて、この研究は何にも国民の役に立たないということをはっきり言ったりするんですが、日本の場合はその審査が十分に行われていない。報告書はあっても、ほとんど知られていない状況という問題があって、やはり日本独自の様々な視点を総合した評価が行われるべきだと考えています。
  例えば、公共性の問題についても、翻訳を使わなければ公共性の問題が論議できないのかどうか。これは吟味すべきことだと思います。

○根本会長  どうもありがとうございました。

○  日本の場合は、世間の中の個人のことしか考えないというあたりが、私の関心を呼んだところでございますが、欧州の場合は、神と個人というようなことで、個人というものを相当意識化するという歴史が長いところから、そのような問題を考えるのではないか。これは阿部先生の御専門の領域でございますけれども、日本としてはこのあたりをどう考えるかというあたりのヒントをいただければと思います。

○阿部意見発表者  日本の問題点は、「世間」というのが明治以降、学術用語の世界でも、教科書でも登場しない。つまり、隠れちゃったわけです。全体としてハードの面は制度化、ヨーロッパ化が進んだわけです、鉄道から教育制度に至るまで。しかし、教育制度の中でも「世間」は一切教えられないし、存在していないかのような扱いを受けてきている。しかし、実際には政党の派閥も、どんな会社にも、いくつもの世間があるような形で  ―世間が実際はあるんですけれども、それは隠されている。見えないものとしている。そして、学者たちの社会学の論文も、そういうものは存在しないかのごとき前提の上で、個人が社会を動かしているというヨーロッパ的なスタイルで描かれている。したがって、世間というのが実際には大きな役割を果たしていることは、汚職などが出た場合、すぐにわかることなんですが、日本人はあまり見ようとしない。
  むしろ逆にヨーロッパ、アメリカの研究者が、私の書物にどこかで触れて、日本における世間の研究に乗り出しつつあって、今、ウィーン大学の学生が一人、ドクター論文を書いています。私は10年ぐらい前からこのことを宣伝しているのですが、日本では学者の関心を全く引いていないわけで、学者はそういうものの存在を認めない。要するに、もっと西欧化した世界で暮らしているのが学者です。

○  三つほどお伺いしたいんですが、教養は知識でないというのはよくわかります。単なる物知りではないと私もかねがね思っていますが、今日のお話は非常にわかりやすくて、高邁な研究に基づくと思います。ただ、先生の御説に従えば、これを国民にわかりやすく言うにはどすればいいかということをずっと考えていたんです。そのとき、私は単純に、教養は知識ではない、知恵が必要なんだと。生活の生き方を自分で考えるのが社会との接点ということでおっしゃったので、知識と知恵の総合といったように教養を考えていいのかということが、第1点です。
  第2点は、日本人は個人としての個性よりも、集団としての個性が非常に強い国民ではないかと思います。ただ、その集団の中身が、先ほどおっしゃった明治以降、教育制度のハードは欧米から輸入したけれども、人間関係、親子兄弟関係は非合理的なままであったとおっしゃったんですが、そうすると人間関係も欧米のようになったほうがいいとお考えじゃないと思うんですが、どうすればいいのかということを2番目にお伺いしたいんです。
  3番目の問題は、具体的な問題ですが、「ようこそ先輩」というテレビを私もなかなかいいと思って見ているんです。あれはあらゆるジャンルの人が出てくるんですが、今、私たちが別の会議で考えているのは、道徳教育を「ようこそ先輩」のように、そういう立派な人でできないかということを考えているんですが、それについて何かアドバイスをいただければと思います。
  最後は、どうでもいいことですが、公共性についての英語の翻訳のことがありました。一般教育について一般教育学会というのがあって、私も入っていたことがあるんですが、そこである高名な方が講演なさいまして、「一般教育」と訳したのは誤訳である、それも華麗なる誤訳であると。今でも覚えているんですが、それが失敗のもとだったとおっしゃったんですが、それについて何か。これは感想めいたことで、お答えをいただかなくて結構なんですが、もし何か御意見がありましたら。

○阿部意見発表者  最初の知識と知恵の総合というのは、私は全く賛成で、知恵という場合は知識と違って、例えば集団で暮らす、規模は様々ですが、私は最大で1万人ぐらいの規模の集団の中で平和に暮らすということが大事で、争いを避け、平和に暮らすための知恵が教養の試金石になると考えているわけです。これが一つです。
  次に、日本人が集団としての個性を持っているということはおっしゃるとおりだと思います。ただ、集団としての個性というものは、外から見ればあるだろうし、また日本の中でも見受けられますが、集団としてそれぞれ世間を構成し、この世間はある意味で差別的で、しかも排他的な性格を強く持っています。そのために、その中で必ずしも皆が対等であるわけではない。特に若い人の場合は、そういう世間というものをまず知らないで育ってきて、ある段階で世間を知る。親は「世間」を解説することができません。「世間」という言葉はみんな知っている。体験はしている。けれども、「世間」を説明することができない。それは教育にも問題があります。「世間」というものを対象としていませんから。
  ですから、学校の中で小学校の教師が一番難しい立場なんですが、世間の中で起こっている差別等々についても、欧米流の個人と正義、例えばワシントンの幼少時の事例などを出して、「正しいことは最後まで言え」とか、そういうことを言って、私もそういう経験をしているんですが、そういうことを言った教師が、常にそういうことを言い続けているわけではなくて、家庭に戻れば普通の世間の常識に従って生きている。要するに、分裂して生きているわけですけれども、そのことを生徒には伝えていない。ですから、生徒があるとき、世間に直面し、そこで学ぶわけです。
  そういう意味では、日本の集団というものの中で、個人というものがもう少し濶達になるべきだ。世間の中に埋没している、あるいは世間の中で不自由な状況にいるということが、ある面ではプラスになる面がないわけではないので、私は「世間」という言葉を全面的に否定するつもりはありませんし、また否定もしきれないと思いますが、しかし個人をもう少し濶達にする道がないかということを考えています。
  それから、道徳教育を「ようこそ先輩」みたいな形でやることは、大変結構な試みだと思いますが、私はヒントなどを差し上げられませんけれども、「教養」という言葉を考える中で、教養というものは知識ではない。しかし、どこかで「人格高潔」という言葉が入りそうなんです。それが非常に嫌なんですね。人格高潔なんていう人は、私は65年生きていて会ったことがないので、そんな人はいないんだと思うんです。いない人を目標に掲げてもぐあいが悪いので、みんな欠点はあるんだけれども、周りと協調してやっていくんだということが道徳教育の中に入るならば、私も大賛成で、そういう試みに期待をしたいと思います。
  また、「一般教育」の名称その他については、私はあまり深く考えておりませんが、名称そのものではなくて、先ほど言いましたように、やはり教師の側にあまり自信がなかった。そして、教師が本当は専門化の教育をしたかったけれども、専門教育の前段階を教えなければいけないということからくる制約とか、いろいろなコンプレックスをしょっていたために十分なことができなかったという面がありますが、名称についてはあまり深く考えておりません。

○  ただ今の阿部先生のお話については、先生のご著書を少し読んでおりましたので、私が持っていた印象と、大体同じでありましたが、2、3新しいことがあって大変参考になりました。
  先ほど先生は「欧米」という表現をされまして、MITの例を出されましたが、たぶんハーバードなんかも同じだと思うんですが、文学部、理学部が主体で教養教育をやっていますね。
  ところが、英国では、大学ではいわゆる日本でいう教養教育みたいなものを全くやっていない。例えば、オックスフォード、ケンブリッジ、その他主要な大学を見ましても、1年生へ入ったときから、例えば工学部ですとゴリゴリの工学といいますか、エンジニアリング・サイエンスみたいなものをやっている。しかしながら、日本人と彼らを比べると、先生のおっしゃった個人といいますか、その辺のところが非常にしっかりしていますね。どうしてなんでしょう。高等学校のカリキュラムを見ると、ややこの違いが理解できるのは、先生がおっしゃったように、高等学校で文とか理というものを殆ど意識させない点ですね。意識するのは大学へ入るためのAレベル試験の段階ですね、そこで始めて選択してそれぞれの分野に進んで行く。
  それから、一度大学へ進学してからもスワップオーバーがごく普通に起きる。工学をやっていた人が突然歴史をやったり、そういうことが起きる。ただ、最近は大学のレベルでは、今、英国は日本よりももっと専門教育に偏ったような教育をしているような印象を持っているのですが、その辺について何かコメントはございますでしょうか。

○阿部意見発表者  おそらく家庭と初等中等教育に問題があると思うんです。現在はあまりはっきりしないかもしれませんが、普通の家庭では10いくつかになりますと、「今日からおまえは大人だ」と。ドイツ語やフランス語では呼び方も変わるんです。「おまえ」という呼び方から「あなた」になるんです。これは非常に大きな変化で、昔だったら、そうなれば夜会に出られるんです。お父さん、お母さんが着飾って行くときに、家で留守番してなければけなかったのが、今日から行かれるというので、成人式みたいなものですが、そうなっていく変化。その際に、「そのかわり自分の行動は自分で全責任を持て。親としてああしろこうしろはもう言わない」という段階があって、大人になることがはっきり承認される。しかし、そこでは全部自分の責任で行動する。
  また、高等学校までの教育の中で、個の教育というものが徹底して行われますので、大学で一般教育でそれを教える必要はないと思うんです。もちろんパブリックスクールその他では徹底して責任の問題などが教え込まれますので、そういう違いがあると思います。
  また、大学の場合も、日本のように入学したらすぐにそのまま授業に参加するのではなくて、例えば1年間海外に行って何かをしてくるとか、そういうゆとりがあります。そういう意味では、個人の教養を広げる可能性があるので、大学に入った者に改めてそういう基礎教育をする必要がないんだろうと思います。

○  どうもありがとうございました。私は少し別の観点から考えているんです。現実の問題としては、日本の大学生は我々が漠然と考えているいろんな意味で教養がないことは間違いないし、それから我々が想像している理想の人間像から見るとレベルが低くなっていることも間違いないです。一方では、それを改革しようと思うと、かつての教養を担当した教員の諸君を全員首にするわけにはいきませんので、彼らを活用しながら、そして彼らが抵抗を感じないやり方の中で、学校を改革していかなければならないということを考えているんです。
  そこで、今、私の頭の整理としてはこんなふうに考えているんです。まず一番欠如しているのは、あらゆるものに対する畏敬の念、ワーシップ(worship)です。例えば、ナチュラルワンダー、自然に対する畏敬の念とか、親とか祖先とか、あるいは神とか仏とか、そういうものに対する畏敬の念が欠如している人種になったのではないか。それをどうやって回復するかということを、学校の教育の中でいろんなところへちりばめようと。それをやろうとすると、ナチュラルワンダーへのワーシップ(worship)は回復しやすい。教える必要はないんだけれども、何かのきっかけを与えることはできますが、神、仏になると今の教育制度の中では誠に難しい。そこで、結局、ある種の欧米の神と仏の概念とか、あるいは中国や日本における神や仏の概念を教えつつ、中にはそれが信仰になっていくものもあっていいという形をとらざるを得ないと思っております。
  それから、問題は愛なんですけれども、人間に対する愛というものが体の中からわいてこない状態になっている。この間から私のところでもずっと実験しているのですが、小学生が同級生同士でも挨拶しない。友達としての親愛の情を感じないんです。この間から実験しまして、うちの小学校の6年生を全部1年生と同居させてみたんです。そうしたら、2ヵ月ぐらいで非常に親しくなりまして、最近はやりだしたのがおんぶごっこなんです。1年生が、親におぶわれたことがないらしくて、生まれて初めておんぶしてもらった。これが快感なんです。一方、6年生にしてみると、人をおぶったことが一度もない。それが初めておぶってみて、うれしくてしょうがない。今、おんぶに関する作文が次々と提出されてきているんです。とにかくそれが私はスキンシップ、愛だと言ってるんです。もっとやれと言ってるんです。おんぶごっこがはやっているんです。そういういろんなものを導入して、愛というと少し大げさなんだけれども、人間としての親愛の情のようなものを学校でもやはり入れるしかない。本来家庭でやってくれればいいことですが、できませんので、学校に入れる。
  肝心の大学の教養の先生たちにおける教養の実践なんですけれども、今、私が考えているのは、先ほど阿部先生が、職人の芸とか、わざとか、それから漁法とか、農法というのも本当に大事な教養なんだとおっしゃいましたけれども、全くそのとおりです。自分が生きていく上で必要な環境との対応関係をつけるということを、私のところではリプレゼンテーションと呼んでいるんです。自分が受けた刺激に対して、頭の中でどう社会との対応関係をつくりだすかということをリプレゼンテーションと呼ぶことにして、それ全体が教養だと。それの1コマ、1コマを、とにかく教員が自分の発案で担えという研究所をつくろうとしているんですけれども、そんな方向で、現実には今まで抱え込んでしまったすべての教員たちを活用するしかないという感じを持っておりますが、先生、もし何か御感想があったら……。

○阿部意見発表者  教養教育を現有の教員で、例えば教養教育担当教員がいるとして、もう一遍組織するというのは大変なことだと思いますね。理想的な形ですが、学問が基礎になければいけないとすれば、それがなければまた別ですが、やはり全面的に改組して、例えばその学部で最も高名な世界的な学者を中心にして、ほかの負担を減らしても、教養教育を行うべきだと思っています。そういうことによって、学生は発奮させられるわけです。もちろん全員というわけにいかないかもしれませんが、最初は15名ぐらいを核にして、その先生と1年間過ごす。その際に、教養教育というのは、先生が教えるのではないということです。先生が与えるのではなくて、生徒たちが出してくる問題、自分の生き方とか、将来の進路とか、そういうものについて、先生方が自分の経験に基づいていろいろとサジェストする。そういう道が一つあり得るのではないかと思います。
  ですから、教養教育の現担当先生を、例えば研修なんかに参加させて変えていこうということは、一つの方法ではありますが、あまり大きな効果を生まないのではないかと考えています。それよりもその学部における最も優れた先生数名を教養教育の先生として、新入生と接触をしてもらう。その代わり、学部長とか、そういう負担はできるだけ遠ざけていただいて。そのくらい重要な分野だと思います。学生はそういうことに非常に敏感です。勉強しない学生でも、一所懸命やっている教師のことがわかる。そういう意味では、学生評価というのは大変大事です。どうしてかわかりませんが、学生側は非常によくやっている先生は理解する。敬意を持つわけです。そういう先生が直接当たることが一番理想的な形だと私は考えています。

○根本会長  ありがとうございました。それでは、引き続きまして寺島さんにお願いしたいと思います。ご案内のとおり、寺島さんはまさに教養人の中の教養人ということで、平素から大変精力的に、商社の方としては誠にユニークな活動をしておられまして、大変に尊敬しております。時間は限られておりますけれども、ひとつ寺島さんのお考えを御披露賜りたいと思います。どうぞよろしく。

○寺島意見発表者  寺島でございます。今、根本会長から御紹介がありましたように、経済の現場で物を考えているということで、たぶん海外から日本を見る機会が多いというのが、私の議論のポイントだろうと思っております。1987年から97年まで10年間、アメリカの東海岸、ニューヨークとワシントンで仕事をしてまいりました。今、16歳になる娘がおりますけれども、彼女が10年間、アメリカの人種のるつぼみたいなところで教育を受けるのと並走してきたという思いがあります。帰ってまいりまして、今、早稲田大学の大学院大学と県立宮城大学で客員教授という形で講座を持って、集中的にやっております。
  そういう立場で、教養教育というのが今日のテーマですけれども、私なりに教養教育について考えることを、御参考までに申し上げさせていただきます。
  10年の間を置いてアメリカから帰ってまいりまして、若い人たちと改めて接してみて、二つ、ものすごく気になる言葉が目立ち始めてきた。一つは「むかつく」という言葉と、もう一つは「別に」という言葉なんです。「むかつく」というのは、何か自分が許容できないものに出くわすと、すぐむかつく。それが臨界点に達すると、「きれる」と言う。「超むかつく」なんていう表現をする子もいます。それから、「別に」というのは、何か感想を求めたり意見を求めると、「別に」と言う。さしたる感動もないというイメージです。「別に」と答えている子どもに、「そんなことないだろう。世の中にはもっとおもしろいことがあるはずだ」と問い詰めていくと、「うざい」という表現なんです。面倒くさい。うざったい。要するに、今の若い人たちの精神状況を象徴する言葉が、この「むかつく―きれる」という関係と、「別に―うざい」という関係だと思っています。
  そういう中で、教養教育って一体何だろうかといったときの教養ということですが、僕は「社会人としての自己制御を支える知性」というふうに自分なりに表現しています。自分自身をセルフコントロールして、バランス感覚よく生きていく知性を、私なりに教養というイメージで凝縮しています。
  今、IT革命の時代ですから、若い人たちも含めて情報技術に対する関心はものすごく強いし、情報に対する欲求はものすごく多様で、高いのですけれども、南方熊楠が言っていた「脳力(のうりき)」、いわゆる問題の本質を見抜く力といいますか、問題の本質を考え抜く力というのは相当程度に弱って、いわゆるテレビを見る態度に象徴されているんですが、「ザッピング(飛ばし見)型」というんです。一つのチャンネルにさえ落ちついていられないというか、カチャカチャ、チャンネルを動かして常に見ているような、軽い分裂症型の精神構造に近づいてきているというのが実感としてございます。
  そういう中で、教養教育の基本というのは一体何だろうかということを考えると、さっき委員の方もおっしゃった点が一つが入ってくるんですが、一つは自分の相対化といいますか。私は講座を始める前にアンケートをやっているんです。尊敬する人物はだれかとか、物の見方の基本を確認するためのアンケートをやってみて感ずるんですけれども、自分も一かどのものとか、自分らしくとか、自分なりにとかといって、自分も相当なものだとまず思っているんです、出発点から。ところが、相当なものでもないということを思わせることがすごく大事です。自分を客観視できる力を身に付けさせるのが教養教育の基本だと思うんです。「客観的自画像」と書いてあるのは、そういう意味です。
  それはどういうことでというと、結局、歴史の中で自分たちはどういうところに立っているんだろうかという相対認識と、それから世界を見渡して、空間軸の中で自分たちが置かれている状況というのは、結局どういうことなんだろうかということを理解させる以外に、思考の重心を下げさせる方法はないというのが私の実感です。
  重心というのは、例えば世界には同じような世代の人間がどういう状況に置かれているのかということを、的確に、かつ正確に、現実的に、具体的に認識させていくということです。
  もう一つは、先人の足跡といいますか、歴史軸の中で自分たちがどういうところに立っているのかということ。しかも、歴史教育というテーマに入っていくと、必ずそういうことになるんですけれども、自分たちだけが悪かったのではないという自己正当化の議論とか、あるいは一方で東京裁判史観のような一種の自虐史観みたいな、両方に引きちぎられがちなんですけれども、私は日本近代史の二重性というか、自らも植民地にされるかもしれない危機感の中で開国して、悩みながら、結局、「親亜」が「侵亜」のほうに座標転換していった歴史の悲しみみたいなものを直視しながら、この国の歴史を正しく認識させていく。開かれたナショナリズムというか、自分だけを正当化するナショナリズムではなく、つまり近隣の人たちにも正面きって自分を説明できるようなナショナリズムを正しく注入して、歴史軸の中で自分たちが立っていることを伝えてみることによって、自分で考えてみる瞬間を提供することが必要なんだなということを、最近、つくづく考えています。
  2番目は、委員の方がおっしゃっていた、「大人社会への尊敬の気持ちの醸成」ということと同じ意味でございまして、「畏敬の念」という表現をさっきされておられましたが、わかりやすく言うと、若者は時代とか、社会とか、大人社会というのをなめてるんです。なめるにふさわしい社会でしかないんですね、現実に。それは何かというと、要するに「尊敬に値する『ごまかしのない大人社会』」なのかといったときに、必ずしもそうでもない現状という部分について、これから申し上げるわけです。
  わかりやすく言うと、一体どんな大人になれば、この社会では大人として認知されるのかというメッセージがものすごく揺らいでいます。敬愛される大人というのはどういうものであるのかというイメージが、具体的にわかない。自分の両親とか、先生とか、先輩とか、社会人で動いている人たちを見てても、この国ではどういう大人が大人として認知されるのか。こんなものは原始共産社会化の常識ですが、大人の要件というのは稼ぎと務めというふうに世界的にはよく言われます。要するに、経済的自立と、社会的貢献、務めですね。どんな共産社会でも地域社会に貢献してない人間が大人として認識されるわけがないという、ごく当たり前の事実ですけれども、稼ぎと務めをしっかり果たしている大人が見えないから、どういう大人になればいいのかという映像が揺らいで、敬愛の念も起きない、こういう状況になっているだろうと思います。
  そこで、私の立場で皆さんにお伝えしたほうがいいと思うテーマが2番目のところです。現実に経済の現場で起こっていることです。つまり、別な言い方をすると、学生たち及び若者たちは、自分たちを待ち構えている社会がどういう状況になっているのかというのを、それほど愚かじゃないですから、直感しているということです。直感している状況というのは何なんだろうかということです。これは根本会長が日ごろからよく言われていることでございますが、今、我々が直面している時代というのは、いろんなエコノミストがいろいろ解説していますが、「新資本主義」という時代の潮流に直面しているらしいということで、日経新聞が「新資本主義がきた」なんていう特集を去年やっていました。「サイバー資本主義」という言い方をする人もいますけれども、いずれにしても、因数分解するとだれもがそれほど難しいことを言っているんじゃないんです。わかりやすく言うと、〈IT革命〉×〈グローバルな市場化〉という流れを「新資本主義」という名称で表現しているにすぎない。
  この〈IT革命〉と〈グローバルな市場化〉というものが雇用環境にどういうインパクトをもたらしているのか。これは〈IT革命〉の本質について、さっき光と影という言葉がございましたけれども、一つだけ雇用にITが与えるインパクトについて認識しておかなければいけない点があると思っています。
  今度の沖縄サミットでもITがテーマになるわけですけれども、ITが日本の未来を開くキーワードだみたいになってきて、分析レポートを見ると、IT産業によって創出される雇用と、IT化、効率化によって失われる雇用とをネットで考えると、プラスになるというレポートが大体は出ているんです。ただし、問題なのは仕事の量ではないんです。仕事の質なんです。仕事の質についてしっかり考えておかなければいけないことがあるというのが、私が申し上げたいポイントです。
  それは何なのかというと、IT革命が企業経営をどう変えるかということについて、いろんな議論がございますけれども、凝縮して一言で表現すると、中間管理職は要らないという経営になっていくということです。どうしてかというと、ITは中抜きなんです。中抜きというのは、様々な意味で中抜きなんですけれども、わかりやすく言うとこういうことです。
  一つだけ例を挙げて説明します。流通の最先端、スーパーマーケットのレジを思い浮かべていただいたらわかります。アメリカにおいてIT革命が先行した理由というのは、軍事産業の技術基盤をベースにインターネット革命が主導したからだという部分がありますけれども、もう1点、IT革命がアメリカで進行したのは社会学的な理由があるんです。それは何かというと、労働の平準化の必要があったということです。多民族、多言語、あるいは教育システムにアメリカはアメリカなりのものすごい悩みがあります。そういう中で、表現は悪いですけれども、慎重に表現すれば「フールプルーフ(foolproof)」ということなんです。これは日本語で訳すと「ばかよけ」になっちゃうんですけれども、「ばかでも大丈夫」という仕組みが必要だったから、IT革命が進んだ。
  どういうことかというと、流通の最先端で、日本で読み書きそろばんのできない人がレジに立っているなんていうことは考えられない。そういう人は雇わないで済む。だけど、たとえそういう人が現場にいても、システムとして展開できるという方向を目指すから、IT化というものが軌道に乗ってくる。何かというと、流通の現場でのバーコード。あらゆる商品にバーコードをつけて、それを光学読み取り機でなぞる。それをオンラインネットワークで管理するというのがバーコードシステムです。これは「フールプループ(foolproof)」のシンボルマークみたいなものです。
  つまり、だれでも計算間違いが起こらない、入力の間違いが起こらないシステムとしてのバーコードシステムは、IT革命のシンボルみたいなものですけれども、それが定着してくるとどうなるか。
  中間管理職というのは「情報の結節点」ということで飯が食えた。これは製造業の現場だろうが、流通だろうが、金融だろうが、行政だって同じです。中間管理職というのは、「おれはこの会社に10年いる」とか、「15年いる」ということで成り立つ右肩上がりの仕組みの中で、集まってきた情報を束ねて、結節点として、付加価値と称するコメントを1枚表紙につけて、現場はこう動いていますというレポートを出せば飯が食えたのが、極論すると中間管理職の仕事だったわけです。
  ところが、IT革命というのは、情報のダイレクト化なんです。直結なんです。もし私が優れた経営者ならば、サプライチェーン・マネジメントがどうのこうのと言われている時代において、情報システムの設計者を呼んで、自分の問題意識を伝えて、毎日会社に来たら、コンピュータの画面に一次分析・二次加工した形で、現場がどう動いているかという情報が凝縮されているシステムを設計してくれと言ったら、今日、そんなことは難しくなくなっています。それがIT革命の潮流なのです。
  そういう中で、何が起こっているかというと、労働の平準化。アメリカでは、ついこの間までは日本的経営というのが喧伝されていたわけですけれども、今、アメリカの経営のシンボルマークになっているのがスピード経営。スピード経営というのは、単純化してすっきり言ってしまえば、経営のシステムの中に年功とか、熟練を価値としない経営なんです。つまり、余人をもってかえがたいという人が支えていたらコストがかかるから、ITを使って労働を平準化していこうと。
  したがって、例えば金型の設計なんていうのは30年の熟練を要して、生真面目に現場を支えているいぶし銀のような先輩というのが価値だったんです。ところが、今、コンピュータ工学をやって、入社3ヵ月の女性がコンピュータの三次元のCADCAMを使って、瞬く間にキャッチアップしてくる世界というのがITの世界なのです。
  私は今、一部誇張して、単純化してわかりやすく言っているわけですが、いずれにしてもあらゆる職場でIT化という流れの中で、今、スピード経営のシンボルマークはこうなっています。戦略的企画力のある経営の専門家と経営者、その周りを取り巻くカーキカラー(情報システム設計者)が、中間管理職一切なしに、ストラテジック・ビジネス・ユニットと言われているそれぞれ個性的な戦闘目的を持った組織をダイレクトに管理していくことができたならば、経営として一番効率的だという道を目指しているのがスピード経営です。
  そういう潮流の中で何が起こっているのかということです。要するに、高度な判断業務と単純なマニュアル労働という労働の二極分化が明らかに起こってきています。この流れは、IT革命の中でますます加速されると思います。ですから、働くことに創造的な喜びを見出せなんて言ってみても限度がみえてます。一番わかりやすいのは、今、フリーターという人が150万人を超えたという数字がこの間出ていましたが、フリーターというのはコンビニエンスストアの売り子をやって月に13〜14万円のお金をもらっている人が大部分です。コンビニの売り子というのは、未熟練の未組織の低賃金労働者だと言われていますが、じっと見ているとわかります。コンビニ型のシステムというのは、今日A子さんがふてくされてやめていって、翌日やってきたB子さんが、マニュアルも引継書もなく、研修を受けなくても、何事もなかったかのようにトランジッションしていける経営だったならば一番効率的だ、それで現場が支えられれば最高だということなんです。そういうような労働の大きな潮流の変化が起こっていることをまず認識しておかなければいけないです。
  もう一つは、グローバル化がもたらす雇用水準のボーダレス化・平準化と言っているのは、国境を越えた競争が怒涛のように入ってきますと、価格の体系がグローバルなある水準に平準化していく。例えば、ホテル宿泊料なんていうのも、日本の一流ホテルの宿泊料とニューヨーク、ロンドンのホテルの宿泊料は、かつては日本が目の玉が飛び出るほど高いというイメージでしたけれども、だんだんある体系に平準化されていくというのと同じようなイメージです。例えば、雇用の水準も、今、日本の企業がこぞって導入している新人事制度というか、人事制度の変化を見ていますと、その仕事でアメリカなり欧州で得られる雇用体系に平準化していくという流れの中にあると言っても間違いないと思います。
  例えば、マイクロソフトの人と議論していると、マイクロソフトの日本の社員がアメリカに転勤するというときには、同じ能力の人間をニューヨークで調達するといったら、一体幾らで雇えるかという判断で、もしその給料でおまえ満足するなら行くかということで、海外に駐在させる。例えば、三井物産なんかだとそういうわけにいきません。1人派遣すれば20万ドルだと言われています。だけど、例えば現地で、語学力、教養、リーダーシップ、あらゆる面で同じスペックの人間が、7万ドル、8万ドルで雇えるとしたら、「君、七、八万ドルで現地に行くか」というのと同じ流れというイメージです。いずれにしましても、今、グローバル化がもたらす潮流変化の中で、雇用水準が世界水準に平準化していくという流れに入ってきているということです。
  そういう中で、私が申し上げたいのは、若者が自分たちを待ち構えている社会、つまり働く現場がどういう方向に向かっているのかということを、若者なりにじっと見ているということです。先ほど阿部先生もNHKの番組を触れておられましたけれども、NHKの番組で「何となくフリーター」というドキュメンタリーをこの春やっていました。これはある都立高校の卒業生の5割以上の人が、進学も希望しなかったし、就職もしなかったというんです。何をやっているのかというと、卒業してフリーターをやっているわけです。若者は「自分探しの旅」って表現しています。実際に自分がやりたいと思うことが出てくるまで、とりあえずフリーターで食いつないで、自分が本当にやりたいというものが発見できるまで、しばらくこうしてるんだと。そのように思っている若者の予感は、理解できなくもない部分があるわけです。
  その番組の中でも、親は自分の息子に、「手に職をつけなきゃいけない」と。それから、「しっかりした企業に入って、安定的に生きていかなきゃいけない」「自分を磨いて生きていかなきゃいけない」って垂訓をしているわけです。息子は夕方からコンビニにフリーターとして働きに行くんですけれども、その前の時間におやじは家にいるわけです。おやじは「会社、会社」って興奮してたけれども、結局はリストラの対象になって、家にゴロゴロしてるじゃないか。だから、息子から親を見てたら、親の言ってるようなシナリオで生きていくことが自分にどういう意味を持つのかということになっちゃうわけです。「甘っちょろい」ってどなればそれまでなんだけれども、彼らが持っている不安とか、働くというものに持っているイメージが変わらざるを得ない、大きな雇用環境の変化が起こっていることも認識しなければいけないということを申し上げているわけです。
  そういう中で、「社会工学的アプローチの重要性」ということですけれども、日本のサラリーマン社会というのは、階層型社会の中での幸せ観で生きてきたわけです。つまり、右肩上がりの経済の成長の中で、比較的安定した会社に入って、中間管理職になって部下が増えて、またさらにその上の階層によじ登って部下が増えてというのが、自分にとっての幸せだという、ある意味では人生観の中で、大部分のサラリーマンというのが今まで生活してきた。
  ところが、今、メガトレンドとして起こっていることは、あらゆる業態を超えて  ―私の言っているのは単純化してはいますけれども、大きなメガトレンドとしてはいくらでも検証できるんです。アメリカの労働統計の中にしっかりあらわれてきている傾向ですが、今申し上げたように中間管理職は要らないという大きな流れが起こっているから、高成長環境下でリストラが進行する。つまり、失業率は下がっているけれども、レイオフは減らないという雇用統計になっているんです。そういう中で、階層型社会の幸福観で描かれてきた設計図が雪崩を打って変わりつつあるということだけは間違いない。
  そういう中で、例えば会社は、そうは言いながらも、さっきの委員の方の話ではないけれども、首にするわけにいかないから、社内失業だの余剰人員だと言われながら、やわらかく人事制度を少しずつ変えながら、さっき申し上げたように世界水準に雇用水準を落としながらでも、中間管理職は雇用としては持ちこたえています。ところが、それが若い人にしわ寄せがいっています。つまり、新卒の採用を絞り込まざるを得なくなって、20歳代の失業率10%を超すなんていう構造になっているのは、その構造の中から起こっているんです。
  結局、階層型社会での幸せ観を再設計しなければいけなくなってきた。会社も社員の異常なロイヤリティーを期待してマネジメントしていくような、つまり、やがてあなたも管理職になるんだからという期待感の中で引っ張っていった人事管理も変えていかなければいけなくなるし、従業員のほうも、会社が自分にすべての幸せを与えてくれるんだという幻想、例えば帰属している組織が自分の人生の幸せを与えてくれるんだという幻想の中で生きていくことを変えていかなければいけなくなります。
  そこで私が申し上げたいのは、社会工学的アプローチと言っている意味は、社会的な雇用の創造みたいなことに対するものすごくしなやかで、やわらかい構想が要るということです。それは何かということで、いっぱい例があるんですけれども、一つだけアメリカの例で申し上げているのは、あれだけ競争主義、市場主義が吹き荒れているように見えるアメリカでも、今、よく言われていますが、120万団体、1,000万人の人がNPOで働いているということです。
  NPOに1,000万人という意味は、もちろん失業率を下げているという意味があります。同時に、社会政策のコストを下げているんです。例えば、税金でもしそれを賄っていたならば、福祉だとか、地域活動だとか、環境保全だとか、そういう社会的目的性の高いことの問題をすべて税金で賄うという方法論だけを準備していたら、幾何級数的に投入する税金を増やしても賄えない時代になってくるわけです。それを綱引きのひもを長くしてみんなで引っ張るようにする。NPOというのはボランティアではないです。御承知のように、非営利団体で、年収平均3万ドルぐらいもらって働いているというイメージです。つまり、社会的目的性の高い仕事に3万ドルぐらいの水準で汗を流している人が1,000万人もいるということは、社会政策のコストを下げているという意味があります。
  もう1点は、今申し上げてきた文脈との関連で、特に重要だと私は思ってますけれども、人間というのは時間を切り売りして、生活の糧のお金をもらえばいいというだけではない。働くということに喜びとか、働くことを通じて社会的に尊敬されるとか、自分自身を満足させるということがすごく大事になってくる。だから、ある種の健康なバランス感覚として、1,000万人の人がNPOで活動しているということは、宗教が背景にあるからだと説明している人もいますけれども、私はそれだけだとは思わないです。競争主義とか、市場主義のシステムだけでは、社会的な安定とか、発展というのはあり得ないというところで、NPO型のシステムが一種の社会工学の産物として機能しているから、それだけの人たちが情熱を燃やして働いているんだろうと思います。
  私がここで申し上げたいのは、官による規制と、公による制御は違う。この問題意識は、阿部先生がさっきおっしゃっていたことと全く一緒です。パブリックという概念をどうやってこの国に根づかせるのかというのが私の問題意識でもあります。そのために、社会工学ということを私が発言しているというふうに御理解いただければと思います。
  それから、一体どういう人間を我々は期待しているのか。つまり、新しく企業社会に入ってくる人間というイメージですけれども。それに対して、企業側の採用とか、人事評価、人材評価の見直しなんていうことが、これから経済社会にとって大変重要になってくると思います。というのは、例えばNPOだとか、ボランティアで活動してきた実績みたいなものを採用においてものすごく重視するだとか、それ自体が我々がどういう人材を欲しているのかということに関するメッセージであり、若い人たちが自分はどうしていったらいいのかということを考えるときのヒントだという意味なんです。ボランティア休暇制とか、いろんなことを導入している会社もありますけれども、単なるガス抜き的な発想ではなく、社会的なシステムとして、会社の中核人材としてどういう人材を育てていきたいのかというメッセージを明快にしていくことが、経済社会そのものに与えられている課題だろうと思います。
  もう一つ、先ほど全く同じことを議論されているなと思ってお聞きしていたんですけれども、学校の制度のことについて私は全く触れないできたわけですが、教員のやわらかい再リクルートの仕組みも、一種のソーシャル・エンジニアリングという意味で、社会工学的な知恵の出しどころだと思います。例えば、現場体験を踏んでジャーナリストとして何十年か活動してきた人、あるいは官僚として活動してきた人、あるいは金融マン、商社マンとして活動してきた人が、自分の見てきた世界を子どもたちの世代にフィードバックしていく。これが一種のソーシャリゼーションといいますか、社会化の大変大きなカギであることは間違いないわけです。
  そういう面で、例えば学校教育の現場に、体系的なシステムとして、公募して競争させてやっていく。極論するならば、数人の事例研究ではなくて、千、万の単位で、システムとして社会的に体験を踏んだ人の教育の現場への再リクルートという仕組みについて、それだけの価値のある人かどうか試験をしてやるというぐらいのことを、社会工学(ソーシャル・エンジニアリング)として日本は実験してみるべきではないかと思っております。

○根本会長  どうもありがとうございました。特に日本の社会の変化という非常に大きな問題、それに関連して教養教育はいかにあるべきかという視点であったと思いますけれども、どなたでも結構でございます、何か御意見なり御質問がありましたらお願いします。

○  大変興味深くお伺いしたんですが、専門外なので、場違いな質問をするかもしれませんが、お許しいただきたいと思うんですが、2点ばかりございます。
  一つは、IT革命は中抜きで、スピード化だということをおっしゃったのですが、なるほどと思ったのですが、私は教育のことを考えていまして、教育は中抜きというわけにいかないのではないかと思います。やはり階段は1段ずつ上って、2段目、3段目と。そういうときに、ITと教育の関係で、いろいろ考えているんですけれども、現状はますます子どもたちがオーバー・チョイスになっていくのではないかと思うんです。これは20数年前に未来学者が指摘したとおりですが、それが教育の場合にはどう考えたらいいのかということをお伺いしたいのが第1点です。
  第2点は、企業のほうでは中抜きになれば、トップが朝出社して現場を即座に見れるとおっしゃいましたが、トップはますます忙しくなるのではないかと思うんです。まさにマイケル・ヤングがだいぶ前に言いました、未来社会はIQの高い人がますます忙しくなって、低い人は先ほどのフールプルーフではないけれども、だんだん普及する。そういう社会になっていかないように、社会工学的アプローチということをおっしゃったんだと思うんですが、私は社会工学的アプローチは現状適応主義のような気もするんです。確かに必要だと思うんですが。事後的にそれで切り抜けるというのも一つの行き方かと思うんですが、教育というのは、企業が期待する人間像というのも大事ですが、人間としての人間像といいますか、阿部先生がおっしゃったような個人と社会とか、そういう観点からの人間像をどのように考えたらいいのか、わからないのでお伺いしたいんです。

○寺島意見発表者  最初のほうのテーマから申し上げると、ITというのはあくまでも技術なわけで、それ自体がポジティブな問題をすべて解決していくという手段でも何でもないわけで、冷静でなければいけないわけです。中抜き現象というのがありとあらゆる局面で起こっても、だからこそITを使って  ―IT教育って、パソコンを使いこなすという程度のイメージのものになってしまうわけですけれども、本当はそんなことでは悲惨なんです。私はすごく大事だと思うのは、宮城県の活性化のプロジェクトに深くコミットしていますが、例えば今やパソコンを学校に配るなんていうインフラの議論は当たり前ですけれども、問題はそれをどうやって使いこなすのかということについて、若いアカデミズムの現場にいる先生たちが、使いこなす手法だけではなくて、コンテンツ、つまり物事を考えて、新しい問題解決型の手法としてそういうものを使い切っていくことを一緒になって考えていくということを、仕組みとして設計しなければいけないだろうと思います。
  今、世界の元気な地域というのは、地場のアカデミズムと地場の初等中等教育と地場産業とが連携しながら、一つの方向性を模索しているところが非常に元気だということです。そういう面で、日本においてはITを使って何をどう変えていくのかということについての実験みたいなものが、一つずつ成功体験として出てくる必要がある。そうすると、それをヒントにしてまた頑張るところが出てくる。ITというと、何か自分に関係ないと。産業の現場でもそうですけれども、ごく特殊な分野がITに関係があるんだという認識の人が多いわけです。例えば、産業的にいうと農林水産業からサービス業までITにもちろん関係があるわけですし、教育の現場も、ただ単にパソコン教育を早めたほうがいいなんていう問題ではなくて、ITが何の問題を解決し、どういう影の部分も起こしてくるのかということも含めて、現場でIT教育の在り方をしっかり実験してみなければいけないところにきているだろうと思っています。
  もう一つ、企業のほうは、効率的で、便利で、使いやすい人間を、一種の部品的なものとして、効率性を重視して採用していけばいいなんていうことを全く考えもしないというか。要するに、労働が二極分化していく中で、おっしゃっているように、よく言うのは労働から解放されて、単純労働みたいなものは機械が代行して、創造的・知的な分野に人間の関心が向かい得るんだと表現する人がいるんですが、それほど単純なものでもないんです。エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』ではないですけれども、自由というものが与えられて、時間が与えられて、人間はそれほど創造的なのかといったら、大部分の人間にとって苦痛であったり、迷いが起こったり、精神的に不安定になったりすることが起こってくるわけです。だから、フリーターの人が一番幸せなのかといったら、そうでもないというところに行き着くわけです。
  そういうのを企業の中で考えたときに、今までのマネジメントのスタイルではモチベーションを高めていけなくなってきていることは確かなんです。わかりやすく言うと、100人の部があるとします。今、「アウトソーシング経営」とか、「スピード経営」というキーワードの中で、例えば30人ぐらいは派遣の人だったり、あるいはアウトソーシングした会社からの逆出向だったりする人たちが組織を固めているわけです。昔だったら会社のブランドイメージで結束せよと言って垂訓をしていれば、縦社会のリーダーシップはとれたわけですけれども、今、三井のブランドにロイヤリティーを感じて戦えなんて言ったって、半分ぐらいの人は三井の人じゃない人が座っているような組織で戦わなければいけないという状況になってきているわけですから、横社会型でフラット化していく中で、人間観とか、リーダーシップ観というのが全然変わってきてしまっているんです。
  例えば、ジャングルファイターみたいな英雄待望で、おれについてこいというタイプの経営者はむしろうとんぜられて、横社会型で、私はオーケストラの指揮者型というイメージです。要はそれぞれの持っているパーツの能力を十分に引き出せて、しなやかにコーディネートしていけるようなタイプのリーダーシップでないとですね。今、例えば専門性で武装してきたような若い人たちというのは、我々の感覚から言えば生意気だし、態度も悪いです。だけど、そのいい部分を生かしてやって、その中から、さっきおっしゃっているような人間としての人間像をも含めて、自分の専門性を深めながら、企業に貢献したり社会に貢献するというのはそういうことなんだぞという実感を与えていくように引っ張っていかないと、ネガティブな部分をたたきつぶして、垂訓を垂れていても始まらない。それぞれのよさをコーディネートしていけるタイプのリーダーシップでないと、これからますますIT革命等で高度化していく専門性の高い人間を使いこなしていけなくなるだろうというのが、これから企業がとるべき人間観だろうと思っています。

○  非常に興味深い、説得力あるお話を伺ったんですが、実は私は寺島先生のお話を伺っていて、大変悲観的になってしまいました。これは雇用体制の空洞化どころではない、社会の空洞化に我々は突き進んでいるのではないかと思いました。NPOで3万ドル程度の報酬で自分が社会のためにやりたいことをやるというケースを御紹介くださったんですけれども、大多数の人というのは、自分の全力を尽くしてできる最高のことをやって、それに対して少なくとも今までは大体においてその努力に見合う報酬もまた満足の一部であったわけでございます。これからはそういうものがすべて崩れてしまうのではないか。そういう中で、単にNPO活動を奨励したり、社会工学的アプローチで対応できるのか。
  そう言いながら、IT革命とか、グローバル化という一旦始まった動きをとめることは不可能だとは承知しておりますけれども、それを何とか制御すべきときにきているのではないかという、非常な危惧の念があります。それについて寺島先生からコメントをいただき、それからもしできましたら阿部先生にも、先ほどこれからの方向について、目指すべき方向を示していただいたと私は感じたんですけれども、寺島先生から伺ったお話に基づいて、何かコメントをいただけると大変ありがたいと思います。

○寺島意見発表者  おっしゃっている問題意識というのは本当によくわかります。ただし、産業革命期のラッダイツ運動みたいに、機械打ち壊し運動という形の方向にいっても、大きな潮流の中には対応できない。そこで、おっしゃるように、高度学習社会という言葉はいいですけれども、高度学習に立ち向かっていけるようなストレスに強い人間であれば、それを超えてより大きな機会が得られると思うんです。例えばNPOで、アメリカで私の友達の中に年収15万ドルぐらいだったやつが、3万ドルだけど、熱帯雨林の保存運動におれは3年間行ってくるぜといって、あるとき子どもの教育にお金がかかるようになったら、また戻ってきたといって、その経験をも生かしながら、また新たなビジネスに立ち向かっていくようなビビッドな人間だったら、こういう時代環境にも対応していきますけれども、受け身でこの時代に対応していこうとしたらものすごくしんどいというか、おっしゃるとおりだと思います。
  アメリカという社会と日本の社会の違いを聞かれたときに、自分の娘の教育を通じて思うんですが、アメリカという国は、ものすごく才能に恵まれて、チャレンジングな人間にとっては、こんなおもしろい社会はないです。頑張れば、性差別も日本みたいなものをはるかに超えて、チャンスにめぐり合えることもものすごく大きい。だけど、普通程度の能力で、普通程度の努力しかしない人間にとっては、4,000万人の人が健康保険にさえ入れない苛烈な競争社会のストレスはものすごいものです。
  日本は、いい意味でも悪い意味でも富の分配構造が平準化して、中間層を厚く持っている国としてのよさを持っています。ですから、この国に帰ってきたらほっとするという部分もあります。私はこの部分は大事な部分だと思います。これをぶち壊していけばいいなんて思わないです。アメリカ型モデルをただいたずらに礼賛するということでなくて、〈IT〉×〈グローバル化〉というものに対して一定の距離をとりながら制御していかなければいけないという問題意識をお持ちだったら、私は共感するし、私自身も盛んにそのことで、具体的にどのようにしていったらいいのかということを構想しようとしている立場です。だからこそ欧州型モデル、つまりアメリカの競争主義、市場主義に一線を画そうとしているユーロ社民主義だとか、EUの統合という欧州の実験も右に重要です。
  日本はどうしていくのか。どちらをまねしていくという意味ではなくて、主体的な問題意識がものすごく問われる。そうでなかったら、先生がおっしゃるような、いわゆるアメリカ化という潮流の中にのみ込まれて、ものすごく極端にストレスの高い社会の中に立ち向かっていかなければいけないようなことになるだろうと思います。
  私が社会工学といっている意味は、我々の知恵の出しどころだという意味で申し上げたいんです。そういう学問分野をつくるべきだとかという意味ではなくて、知恵を出して、企業システムも変えていかなければいけない。教育もそうでしょうし、社会システム総体を変えていかなければいけない。総合設計図を書き直していかなければいけないところにきているんだということを、エンジニアリングという言葉で言っていますが、エンジニアリングというのは多様な要素を持って問題を解決していくアプローチという意味で私は使っています。
  例えば、アメリカ人と議論していると、我々はよくからかわれます。日本というのは不思議な国だと。技術も持っている。金も海外に対して1兆ドルの貸し方になっている国です。国内では財政の赤字だとか言っているけれども。で、人材もいる。だけど、総合設計力がないから、経済的にも低迷しているし、混迷を続けている。その総合設計力というところで、その一つのブランチとして社会工学がしっかり位置づけられなければならないということを申し上げたいんです。

○根本会長  阿部先生、何か御意見ございますか。

○阿部意見発表者  私は、たまたま最近、都知事に頼まれて、東京都の青少年問題協議会というところで、様々な暴力的な描写をした雑誌とか、あるいは性的なヌード写真がいっぱいあるような書物とか、例えば痴漢をどういうふうにして実際に実現するかといったような本があるんですね。こういう本について、東京都はほとんど条例で対応していないという問題について審議する機会があるわけです。
  そこで直面している問題を申し上げますと、各県はそういう条例をかなりつくっておりまして、例えば一つの雑誌にヌード写真が3分の1以上ある場合は対象とするとか、量的に規制しているんです。機械的に規制していて、何ページ以上とか。そこで、例えば17歳の少年たち、あるいは14歳の少年たちの犯罪についての最近の研究動向を見ていきますと、御存じだと思いますが、大体において郊外型あるいは地方都市型といわれているわけで、東京都を中心とした少なくとも大都市ではあまり起こっていないということを主張している方がおられて、大変興味深いんです。つまり、地方都市の静かな、そして清潔志向というところでは、例えば新宿の歌舞伎町みたいなところはないわけです。
  そういう中で、例えばそういう雑誌の自動販売機の高さが問題で、120センチのところに人間の視線は大体いくわけです。ですから、青少年に見せたくない雑誌の自動販売機の高さは150センチ以上にすべきだとか、そういう条例もたくさんあるんです。最近の子どもは身長が伸びていますから、150センチでは間に合わないかもしれない。要するに隔離する、少し区分するという方向が今出つつあって、そういう方向で議論が進んでいるのですが、私はそれに対してやや疑問がありまして、まだはっきりとした意見は述べておりませんけれども。
  つまり、東京で起こっていないということは、ある意味で東京では匿名性で子どもも含めて生きられる。例えば新宿の歌舞伎町をブラブラ歩いたって、そのこと自体ではそんなに大きな危険はない。欧米人が危惧するような危険はないわけです。夜遅くてもそんなに危険はない。店に入ればいろいろ問題があるだろうと思いますが。そういうものがあるがゆえに、むしろそういう方向に走らないという可能性もある。ところが、地方都市の場合、あるいは郊外型の場合は、家族ぐるみ、つまりお父さん、お母さんのほうの問題もあって、これは人によって意見が違います、私もあまり賛成ではないのですが、世間がないという考え方の方もいらっしゃるわけです。少なくとも他人の子どもに対して「そういうことをしてはいけないよ」と言って注意を促すような姿勢はゼロだ、郊外型あるいは地方都市型の場合は。こういうことが指摘されています。
  そうなると、例えばわいせつな雑誌とか、そういう書物が、自動販売機も含めて  ―東京にはほとんど自動販売機の雑誌はないそうですが、地方都市には非常に多い。ということも含めると、これは全体に社会の構造との関連があるわけで、決して道徳的な観点からの指示とか、あるいは教育では済まない社会構造上の問題があると私は考えています。都市というものの構造にも深い関係があるという意味で、寺島先生のお話を十分理解したわけではないんですが、社会工学的な考え方というものは今後重視されなければいけないと思っております。
  ただ、その問題については、例えば20歳以上の男性、女性は、そういうものを読む権利がある。そして、そういうものは存在しなければいけないという根拠もあるようでありますが、その辺をどう考えていったらいいか、いまだに迷っているところです。ことしじゅうに条例をつくるそうでありますが、どうも東京都の場合はいろいろな意見があって、自動販売機の業者にも来てもらって話を聞いたりしていても、必ずしも営業権と表現の自由とのはざまにあって、なかなか難しい問題があるわけです。
  ということを考えますと、今後の社会の在り方等について、そんなに希望が持てるわけではありませんが、この問題については、一番問題はIT、例えばインターネットを通じて、自由にどんどん入ってくる。したがって、自動販売機などの規制をしてもたかが知れているという問題が既に起こっているわけで、その辺のところをどう考えるべきかは、まだ私としても決断がついていないところなので、委員の方の触発にもかかわらずお答えできなくて大変恐縮です。

○  一、二、私の考え方を申し上げたいと思うんでございます。我々も民間企業としてIT問題というのは、社内に戦略本部をつくりましていろいろやっておるわけです。ただ、私が言っておりますのは、確かに寺島先生が御指摘のとおり、ITは一つのメディアであって、道具なんだと。だから、バーチャル・エンジニアリングの問題と従来型のリアル・エンジニアリングの問題をインテグレートしなければ、絶対にベターな効果は出てこない。そのインテグレーターとしての役割が従来の中間層にも要求されているわけであって、決して積み木の中抜きのように中間層がポーンと飛び出さなければやっていかれないような社会ではないよと。だから、君らはとにかく両方をベースにしたインテグレーターとしての役割ということで頑張ってもらいたいということを、私はしょっちゅう言っておるんです。
  ことしの1月末から2月にかけましてスイスのダボスで、ワールド・エコノミック・フォーラムがございまして、私もそれに出ていろいろな討論に参加してまいりました。そのときに、世界各国から集まった1,000名の経済人、もちろんビル・ゲイツとか、あるいはソロスも来ておりました。政治家ではクリントンをはじめ各国のトップが来て、300ぐらいのセッションに分かれてディスカッションをやったわけです。その中で、結局、今お話のあったITとグローバライゼーションの流れは、これはもう避けがたい。しかしながら、そこに何らかのモラル・スタンダードあるいはエスカル・スタンダードがなければ、世界はえらいことになるぞと、こういう警告がございましてね。その一つは、パウロ2世からメッセージがきておりました。会議の皆さんが問題意識として持ったのは、そこでございました。したがって、あまり悲観的になるのではなくて、まさにその点が我々の21世紀に向かっての教養教育に問われているのではないかと、私個人は思っておるわけです。
  ITとグローバライゼーションという一つの産業革命を上回る大変革と同時に、アメリカにおいては、今、NPOのお話がございましたが、週に4時間社会奉仕をしているボランティアの人が9,500万人おるそうです。つまり、アメリカの社会は、IT、グローバライズだけではなくて、やはり人々が、先ほど他の委員の方の言われたような愛というか、そういった人間社会の基本的なものに対してセンシティブに、9,500万人の人が週に4時間社会奉仕をしておる。その中で、NPOが出てきているというようなことでございます。
  それでは、我が国はどうかということを考えますと、日本にもかつては模合の運動がございましたし、みんなが地域社会で、町や村で子どもたちの面倒を見る。その傾向は沖縄に現在残っております。特に沖縄の島しょ地域には、東京などから嫁に行った人が、大体3人から4人ぐらいの子どもをつくっている。結局それができるということは、隣のおばあさんやおばさん、おじさんたちが、子どもができると、「よし、わかった。それじゃうちでちょっと面倒見てやろう」とか、あるいは「夕飯をつくったから、これ食べなさい」というような、一つのコミュニティーのよき面が日本にもかつてはあった。
  ダボスのときに私が参加したパネルは「第3の道」というものでございまして、私もパネリストになりましたが、そこにアメリカの社会学者が出てきておりまして、彼が強調しましたのは、今のアメリカ社会にとって一番大事な問題はコミュニティーの問題だと。つまり、コミューナル・ソリダリティーというか、家族を含めてそれをしっかりやらなければアメリカの社会は崩壊していくというような指摘がございました。これはかつてアラン・ブルームという有名なシカゴ大学の哲学の先生が『ザ・クロージング・オブ・アメリカン・マインド』という本を出して、70週間ベストセラーになりましたけれども、あれを読みましても、結局、アメリカの社会が相対的ニヒリズムの傾向にいってしまう。それは学生に対する教養教育が徹底していないからだということで、アメリカの連中もそういう警告をしているわけでございます。
  そういう意味では、教養教育というのは21世紀に向かって非常に大事な問題ではないか。私は、阿部先生が言われたように知識ばかりではなくて、天然の摂理、古典、勤労、芸術、それからスポーツといったような、総合的な教養教育が必要ではないかとかねて思っているわけでございます。私は旧制高校の出身でございまして、あの3年間はよき時代であったといまだに郷愁を持っておりますけれども、まあ一言で言えば、自律的でかつ自由であった。そして、いろいろな書物を読むにせよ、教師がよかったですね。先生が非常にすばらしい人たちがおったということでございます。

○  先ほどの委員の方のお話にちょっと近い印象なんですが、例えばアメリカの雇用とNPOの関係についてです。今、委員の方が大熱弁をふるわれましたが、アメリカの社会のバックグラウンド、土壌、コミュニティーといったものの生成のされ方の中で、ここで言えばアメリカ社会の社会工学的な努力というようなおっしゃり方なんですが、日本経営者団体連盟も日本の雇用の活路の一つはNPOだとおっしゃるんです。一方で、そういう土壌の整備なり条件の整備等も遅々として進まず、結局、自分たちが雇用を吐き出しておきながら、その免罪符を探そうとする、平たく言えばうさんくささみたいなものを、僕らのような仕事をしていますと感じてならないわけでして。寺島さんはアメリカの社会を長く御経験になられ、お書きになられたものも何冊か読ましていただたりしておりますけれども、ここでおっしゃった社会工学的なアプローチなるものが、日本で本当に根づくとお考えになっておられるのか。あわせまして、根づかせるためにはどんなことをしなければならないのか。まさにここでいう社会工学的な、別な言い方をすれば社会的にインフルエンスを広げていく状況化政策というんでしょうか、そんなことを含めまして、うさんくさく聞かないために、どう考えたらいいのか。私らは労働組合の仕事をしておりますけれども、まさにその辺が私どもの一つの悩みなんです。単純なマニュアルの作業に従事させられていく側を主としてフォローしている運動体としてのジレンマみたいなものがあるわけです。

○寺島意見発表者  よくわかります。例えば、極めて具体的なケースで、商社の業界団体に(社)日本貿易会というのがあるんです。今までの日本の企業がつくっている業界団体というのは、自分たちの権益とか、主張を官公庁にどなり込んだり、予算をとってきたりするような役割が、業界団体みたいなイメージだったですね。去年1年間、私も委員をやっているんですが、(社)日本貿易会でNPO委員会というのをつくりまして、NPOを一つつくったんです。業界団体NPOの一つの参考までに申し上げているんです。
  何をやろうとしているかというと、商社マンとして例えば中高年に差しかかっている人の中で、第2宮澤構想なんかとリンクしているんですけれども、人材派遣プログラムというので、アジアとか、アフリカとか、中南米とか、今まで自分たちが商社マンとして活動してきたところに、第2の人生、要するに夫婦2人で300万、400万のお金をもらえれば、企業年金もあるから、チャレンジしようという人がいるだろうということを想定して、そういう人たちの活動の受け皿になるようなNPOをつくったんです。今、三菱商事から私と同い年の男がわざわざ手を挙げて出向していっていますけれども、約500人を超す人が手を挙げて、第2の人生をそういう仕組みの中で挑戦してみたいという人が、現実にレジスターしているわけです。
  私が言いたいのは、何も精神作興運動をやっているのではなくて、NPOみたいな仕組みというのは、例えばNPO法をもっと整備しろとか、もっと企業が寄附をしたり、個人が寄附をしたりすることが、簡単にできるようなシステムにしろとか、こういう制度論的なものももちろん大事ですけれども、知恵比べなんです。やはり自分たちで知恵を出して、そういう仕組みをどんどんつくっていかないと、今おっしゃっている意味で、かけ声だけならうさんくさくなるでしょうし。例えば、労働組合なんていうものに期待されている社会的役割も、IT革命の中でドラマチックに変わっているんだということを考えないと、企業がメガトレンドとして中間管理職は本能的に要らないということをだれもが予感しながら、雇用体系を断ち切るわけにいかないからといって、ギリギリの制度調整で、さっき申し上げたように中間管理職を持ちこたえているものだから、逆に若い人の雇用機会を奪っていますよね。つまり、20歳代の人の失業率が10%を超すなんていう国になっちゃっています。それは企業が企業内失業だとか、窓際族だとかと言いながらも、何とか雇用体系を維持しようとしていることの反動みたいなものです。
  私は、企業が断ち切ればいいなんてちっとも思わないです。今まで日本的経営というのは人間重視なんだからって喧伝してきていたのが、じゃ右肩上がり時代のあだ花みたいな話なんですかというところに立ち返ったら、人間を大切にする経営ということの本質が問われているんだから、会社として今支えている人たちを、あるいは今まで支えてきた人たちを大事にしなければいけないということはおっしゃるとおりで、私自身もそういう立場で議論しています。
  ただ、こういう高度学習を前提にしながら、IT革命だって言われている時代に、与えられた幸せの喜びの中だけではどうも生きていけないということだけは確かなんです。立ち向かわなければいけない。ただ、根本会長なんかといつも話をさせていただいていて悩ましく思っているのは、高度学習社会という中の一つの先行モデルとして横たわっているアメリカが、「ITとFTの結婚」と私はよく言っているんですが、インフォメーション・テクノロジーとファイナンシャル・テクノロジーのドッキングの中で、極端な金融工学を肥大化させてマネーゲーム型のIT革命を進行させていて、要するにITを使って金もうけをする。つまり、ITを産業の現場に落とし込んで、効率化して、次の時代の幸福を描くという立ち向かい方ではなくて、とにかく瞬間風速でITを目印にして、IPOかけてたくさんのお金を調達して、売り抜く資本主義というやつです。事業を育てるという資本主義ではなくて、安値で買ったものを高値で売り抜いていくというタイプのマネーゲーム型の資本主義にIT革命が傾斜しているという部分に対してはものすごい批評眼を持つべきだと僕らは思います。だから、産業の現場でどうやって実体のあるIT革命を推進するのかというのは、本当に悩ましいところです。
  アメリカ型モデルを追っかけていくと、お配りしている資料の中に「『正義の経済学』の復権」という妙な『中央公論』に書いている論文がございますが、これはさらに今議論を膨らませているんですが、MBAとか、弁護士が増えてくるにつれて、ひねりにひねったマネーゲームだけが先行している経済社会になっていることに対して、我々は相当な注意深い問題意識が必要です。今起こっているのは、実体経済と金融経済の乖離なんです。根本会長がいつもおっしゃっているやつです。実体経済に意味のあるIT革命を推進していかないと、時価総額主義だとか、あるいはITを使って金もうけするやつがヒーローなんだというタイプの社会状況を日本も間違いなくつくっていっているんですね。それに対して制動をかけなければいけない。さっきおっしゃっていましたけれども、どうやって制御するのかという発想です。規制ではなくて、制御するのかという発想は、我々がこれから本当に立ち向かっていかなけれはいけないテーマだろうと私も思っています。

○根本会長  どうもありがとうございました。
  最後になりますけれども、阪神大震災のときに100万人の若い連中が集まって、一種NPO活動を行った。ですから、人間社会の原始感情というのでしょうか、愛とか、あるいは奉仕とか、そういうものは、先ほど「きれる」とか何とかという御指摘もありましたけれども、いろいろな連中が集まってきて、とにかくやらなくてはいけないと。こういう日本社会の中にあるいいものを、どうやって引っ張り出していくのか。これは文部省も大いに頑張ってもらわなくてはならないわけです。その辺と、もう一つは阿部先生も御指摘のとおり、これまた優れて大人社会の問題で、寺島さんも言っておられましたけれども、子どもたちは「大人はどうするの」という、大人の背中を見ていくわけでございまして、大人社会がウェルビヘイブしなかったら何もならない。これは単なる教育改革だけの問題ではなくて、国民運動でもございましょうし、社会改革というか、これは国民の一人一人が、あるいは我々自分自身が自己を改革していかなければ、日本というものはよくならないのではないかという感想を持っております。
  それでは、会議を終了いたします。両先生に感謝の意をささげたいと思います。どうもありがとうございました。


※1  この資料については、文部省大臣官房総務課広報室にて閲覧できます。

(大臣官房政策課)

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