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中央教育審議会

 2000/5 議事録 
中央教育審議会第231回総会 (議事録) 

 中央教育審議会  総会(第231回)

  議  事  録


平成12年5月29日(月)14:00〜16:00
アジュール竹芝          14階          天平の間


      1.開    会
      2.議    題  
              諮問について
      3.閉    会


出席者
委  員
根本会長、鳥居副会長、河合委員、川口委員、木村委員、小林委員、田村委員、永井委員、長尾委員、松井委員、横山委員
事務局
中曽根文部大臣、佐藤事務次官、小野官房長、富岡生涯学習局長、御手洗初等中等教育局長、佐々木高等教育局長、石川私学部長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官



○根本会長  それでは、お忙しいところを皆様お集まりいただきましてありがとうございます。
  ただ今から231回の中央教育審議会総会を開催いたします。
  これより諮問をいただきたいと思います。
  最初に私のほうから申し上げたいと思いますが、昨年の12月に私どもの中央教育審議会で、「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」という大臣からいただいた諮問に対する答申を出しまして、本年の4月には「少子化と教育について」の報告を河合委員が座長として取りまとめていただきましたが、本日、新たな諮問をいただくこととなりました。
  それでは、これより中曽根大臣から諮問をいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

○中曽根文部大臣  次の事項について別紙理由を添えて諮問します。

  新しい時代における教養教育の在り方について
      平成12年5月29日
                                                        文部大臣  中曽根弘文
  どうぞよろしくお願いいたします。

          〔中曽根文部大臣より根本会長に諮問文を手交〕

○根本会長  ただ今、大臣から諮問文をちょうだいいたしました。これをまず事務局で読み上げていただきたいと思いますので、よろしくお願いします。

○事務局  本文は今中曽根文部大臣が読み上げましたとおりでございます。理由につきまして、補足して読み上げさせていただきます。

(理由)
  文部省においては、昭和60年から62年に出された臨時教育審議会の答申及びそれを踏まえた中央教育審議会等の答申を受けて、個性化・多様化、生涯学習体系への移行、国際化・情報化等変化への対応という視点に沿って、その後の状況の変化にも柔軟に対応しながら積極的に教育改革を進めてきた。中央教育審議会においては、これまでの教育改革の成果を踏まえ、昨年12月に「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」の答申において、初等中等教育と高等教育それぞれの役割を明確に整理し、それを踏まえた接続の改善についての御提言をいただいたところである。
  来るべき世紀の社会を展望するとき、産業、雇用、科学技術などあらゆる分野で急速かつ激しい変化が起きることが予測され、こうした時代に個人としての主体性を失わず、しかも新しい社会の在り方と調和した判断ができる能力が求められている。本年4月に開催されたG8教育大臣会合においても、知識社会への移行に伴って教育の在り方の見直しが必要なことが共通に認識されたところである。さらに、地球環境問題や人口・食料問題など地球規模での取組を必要とする課題が多くなっており、こうした課題に取り組む意欲と知識を持った人材を育てる必要性が高まっている。
  こうした状況を踏まえた教育の在り方として、昨年12月の中央教育審議会答申においては、「学問のすそ野を広げ、様々な角度から物事を見ることができる能力や、自主的・総合的に考え、的確に判断する能力、豊かな人間性を養い、自分の知識や人生を社会との関係で位置付けることのできる人材を育てる」という教養教育の理念・目的の実現のため、教養教育の在り方を考えていくことが必要であると指摘されたところである。これは、直接には高等教育に関してのものであるが、今後、社会の高度化・複雑化が進む中で、このような教養教育の理念・目的は、人間として身に付けるべき社会規範なども含め、初等中等教育においても、また、生涯を通じて行われる学習においても重要である。
  その際、既に高等学校への進学率が約97%に達し、国民のほとんどが高校教育を受けていること、大学についても高等学校卒業者のほぼ半数が進学しており、専門学校も含めれば3人に2人が高等教育を受けているという実態に沿って初等中等教育段階から高等教育段階までの教養教育の在り方を考えていく必要がある。
  したがって、こうした観点から新しい時代における教養教育の在り方について考えるために、これまでの教育改革を振り返り、検証するとともに、その結果を踏まえて、今後の教養教育の在り方について、何をいつ、どのようにして教え、どのように身につけさせるのかといったことも含めて幅広く検討する必要がある。

  以上でございます。

○根本会長  それでは、誠に恐縮でございますが、中曽根文部大臣から御挨拶を兼ねまして諮問理由の御説明をお願いいたします。

○中曽根文部大臣  本日は、御多忙のところを御出席いただきまして大変ありがとうございました。
  第17期の中央教育審議会におかれましては、昨年の12月に「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」答申を、また、本年の4月には「少子化と教育について」の報告を取りまとめていただいたところでありまして、皆様方に厚く御礼を申し上げる次第でございます。
  さて、来るべき世紀の社会を展望するとき、産業、雇用、科学技術などあらゆる分野で急速かつ激しい変化が起きることが予測されています。こうした時代にありまして、個人としての主体性を失わず、しかも新しい社会の在り方と調和した判断ができる能力が求められているのではないかと考えます。
  このように高度化・複雑化し、急速かつ根本的変化を遂げつつある社会における教育の在り方として、中央教育審議会「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」の答申におきまして、教養教育の在り方を考えていく必要があるとの指摘をいただいたところでございます。
  私といたしましては、この答申で御提示いただきました、教養教育の理念・目的は、人間として身に付けるべき社会規範なども含め、初等中等教育、高等教育、生涯学習を通じて達成されるものと考えております。また、今後、社会の高度化・複雑化が進む中で、このような教養教育の考え方はさらに重要になってくるものと考えております。
  こうしたことを踏まえまして、これからの社会に求められる教養とは何か、教養をいつ、どのように身に付けさせていくかなどについて、中央教育審議会に新たな審議をお願いする次第でございます。
  また、文部省におきましては、これまで積極的に教育改革を進めてきたところでございますけれども、こうした教育改革の成果などを、改めて教養教育の視点から検証していただき、今後の課題をお示しいただきたいと考えております。
  以上、検討をお願いしたい点につきまして申し上げましたが、詳しい諮問理由の説明につきましては、後ほど事務局から朗読をさせたいと存じます。
  会長、副会長を初め、委員の皆様におかれましては、引き続きの御審議となり、誠に恐れ入りますけれども、以上のような趣旨を御理解いただきまして、何とぞ十分な御審議を賜りますようにお願いを申し上げます。どうぞよろしくお願いいたします。

○根本会長  それでは、引き続きまして、事務局のほうから諮問理由説明をお読みいただければと思います。

○事務局  それでは、文部大臣諮問理由説明について朗読をさせていただきます。
  二つ目の段落から読ませていただきます。

  我が国が活力ある国家として今後とも発展していくためには、あらゆる社会システムの基盤となる教育の役割が極めて重要なことは今更申すまでもありません。
  文部省においては、昭和60年から62年に出された臨時教育審議会の一連の答申及びそれを踏まえた中央教育審議会等の答申を受けて、個性化・多様化、生涯学習体系への移行、国際化・情報化等変化への対応という視点に沿って、その後の状況の変化にも柔軟に対応しながら積極的に教育改革を進めてきたところであります。また、中央教育審議会においては、「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の答申をいただいて以来進めてきた改革の残された課題である「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」昨年12月に答申をいただいたところであります。この答申においては、初等中等教育と高等教育それぞれの役割を明確に整理し、それを踏まえた接続の改善について御提言をいただいたところであります。
  さて、来るべき世紀の社会を展望するとき、産業、雇用、科学技術などあらゆる分野で急速かつ激しい変化が起きることが予測されます。
  例えば、高度情報通信社会の到来、特にインターネットの飛躍的発展により、誰もが情報の発信源となることができるようになる一方、反社会的あるいは有害な情報を含むありとあらゆる情報が氾濫するといった現象が生じています。また、これに加えて衛星通信や有線放送の普及により、放送局・放送番組が一挙に増加し、受け身型の情報摂取や断片的知識の無批判的吸収といった傾向が生じているとの指摘もあります。
  さらに、情報通信革命や生命科学をはじめとする科学技術の飛躍的発展が産業構造やビジネスの在り方を根本から変革する一方、倫理上、宗教上の課題を惹起するとともに人間関係や社会の在り方を規定してきた規範やルールを脅かすような問題も生じています。
  また、企業活動が国境を越えてグローバル化し、国際的な産業競争が激化する中で、企業においても年功序列型の終身雇用の慣行が問い直され、一人一人の能力・業績が激しく評価される実力主義の時代となっています。
  こうした時代にあって、個人としての主体性を失わず、しかも新しい社会の在り方と調和した判断ができる能力が求められているのではないかと考えます。本年4月に開催されたG8教育大臣会合においても、知識社会への移行に伴って教育の在り方の大幅な見直しが必要であるという認識で一致したところであります。
  さらに、地球環境問題や人口・食料問題など地球規模での取組を必要とする課題が山積しており、世界の先進国として我が国もこれらに取り組む意欲と知識を持った人材の育成に積極的に取り組む必要性が高まっていると考えます。また、グローバル化に伴って流動性が高まる中でどのようにして社会的な統合を維持していくかといった問題や急激な情報化の進展の中で生ずるデジタル・デバイドの問題をいかに解決していくかといった、教育に大きなかかわりを有する問題も数多く生じています。
  このように高度化・複雑化し、急速かつ根本的変化を遂げつつある社会における教育の在り方として、中央教育審議会「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」の答申においては、「学問のすそ野を広げ、様々な角度から物事を見ることができる能力や、自主的・総合的に考え、的確に判断する能力、豊かな人間性を養い、自分の知識や人生を社会との関係で位置付けることのできる人材を育てる」という教養教育の理念・目的の実現のため、教養教育の在り方を考えていく必要があるとの指摘をいただいたところです。この指摘は直接には高等教育の役割について整理した部分で述べられていますが、教養教育の理念・目的は、人間として身に付けるべき社会規範なども含め、初等中等教育、高等教育、生涯を通じて行われる学習を通じて達成されるものであります。また、今後、社会の高度化・複雑化が進む中で、このような教養教育の考え方はさらに重要になると考えます。
  こうしたことを踏まえ、これからの社会に求められる教養とは何か、教養教育をどのように充実していくかなどについて中央教育審議会に新たな審議をお願いする次第であります。
  次に具体的な検討事項について御説明申し上げます。
  まず、これからの社会に求められる「教養」の内容についてであります。教養が重要であるという点については、おそらくほとんど異論はないものと思われますが、その具体的内容については、様々な御意見があろうかと存じます。例えば、地球、国家、社会の一員である人間としての生き方・在り方という視点で規範的、倫理的な面を重視する意見もあると思います。また、哲学、歴史、文学といったいわゆる人文学的教養を重視する意見、環境問題、南北間の経済格差問題、人口・食料問題など地球的規模の現代的な課題に取り組む基盤となる学際的教養が重要という意見もあると思います。
  このため、これからの社会に求められる「教養」とは何か、「教養」の具体的内容は何かについて御検討いただき、今後、教養教育を充実させていくための参考となる視点をお示しいただきたいと考えております。その際、既に高等学校への進学率が約97%に達し、国民のほとんどが高校教育を受けていること、大学についても高等学校卒業者のほぼ半数が進学しており、専門学校も含めれば3人に2人が高等教育を受けているという実態に沿って、初等中等教育段階から高等教育段階までの教養教育の在り方を考えていく必要があると考えます。初等中等教育段階については、これまでの中央教育審議会の答申に基づき、自ら学び自ら考え主体的に判断し行動する力や豊かな人間性などの「生きる力」の育成を目指して学習指導要領の改訂を行うなど改革を推進しているところであります。このような経緯を踏まえて高等教育段階における教養教育の在り方と初等中等教育段階における教養教育の在り方の一貫性を図る観点から御検討いただきたいと考えております。
  次に、教養教育の視点から見たこれまでの教育改革の成果についてであります。
  文部省においては、これまでも社会経済の変化等に対応して教育改革を進めてきたところであり、特に臨時教育審議会の発足以来、その四次にわたる答申やそれを踏まえた中央教育審議会、大学審議会、生涯学習審議会などの答申を受けて着実に教育改革を推進してまいりました。
  こうした教育改革の成果については、中央教育審議会「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」において、第2次世界大戦後の後期中等教育及び高等教育の成果を量的側面を中心に分析・評価しているところです。また、各審議会においても、それぞれの分野における改革の成果の評価を行っていただいておりますし、文部省においても平成11年度の「我が国の文教施策」(教育白書)の特集の中で取り上げるなど教育改革の成果の全般的な検証を行ってきたところであります。教養教育の在り方を考えるに当たって、改めて教養教育の視点からこれまでの教育改革を振り返り、その成果を検証し、今後の課題をお示しいただきたいと考えております。
  次に、教養教育をいつ、どのように行うかという点であります。
  初等中等教育段階では、どのように教養教育を行っていくべきか、また、高等教育においては、どのように取り組むべきかをお示しいただきたいと考えております。さらに、教養を育むことは、学校教育だけの課題ではなく、社会人、職業人として生涯にわたって学び続ける中で培っていくことも重要であります。こうした観点から、生涯学習における教養教育の在り方についても併せて御検討いただければと思います。
  最後の段落は省略させていただきます。
  以上でございます。

○根本会長  それでは、引き続きまして、配付資料の確認をお願いしたいと思います。事務局からお願いします。

<事務局から説明>

○根本会長  それでは、早速でありますが、審議会の公開に関する方針についてお諮りしたいと思います。
  審議会の公開につきましては、昨年の4月19日の第225回総会で決定された「審議会の公開に関する対処方針」に基づきまして、議事録による公開を行うけれども、会議そのものは非公開とするといった方針により運営してきたところであります。
  私としては、今回の諮問に係る審議においてもこうした方針を踏襲いたしまして、議事録による公開を行い、会議そのものは非公開とすることについて改めて確認いたしたいと思います。会議を非公開とする理由については、今回の審議事項である「新しい時代における教養教育の在り方について」の審議に当たりまして、諮問の内容にかんがみて、審議の内容が個人的な価値観や人生観など、個人のプライバシーに深くかかわる事柄に及ぶことが十分あり得るということを考慮したいということでございます。
  そして、従来と同様、会議終了後に記者会見を行いまして、審議の概要を紹介し、その際にマスコミ関係者の参考用として審議の概要を簡潔に整理したメモを配布いたしたいと考えております。
  こういった方針で皆様よろしゅうございましょうか。

○根本会長  特に御異議ございませんですか。それでは、皆様の御了承を得ましたので、ただ今申し上げたような方針でいきたいと思います。
  それでは、大臣からいただきました諮問について、あるいはそれとは別の御意見でも結構でございますが、自由に皆様の御意見を承りたいと思います。

○  いくつかのお話をさせていただきたいと存じますが、一つは、「教養教育」と言うときに、何でも知っているという、知識の量を重視するのではなくて、知識を人類のため、あるいは社会のためにいかにうまく使うかという、その使い方に関してどうするかということをもっと重視する必要があるのではないか。つまり、「知を用いて善をなす」といいますか、いいことをしていくために知識を使うのであって、何でもかでも知っていることだけが必ずしも求められるものではないということを、私ははっきり申し上げたいと思っております。
  そのためには、やはり人間性に関する深い洞察をしなければならない。あるいは人間の持つべき道徳、倫理、精神性の問題を避けて通ることはできないのではないかということかと思います。「モラル・サイエンス」という言葉が言われましたけれども、サイエンスというのは価値中立の世界になってしまうわけでありまして、モラル・サイエンスではなくて、モラルそのものについて議論をする必要があるんではないかというのが、私の一つの考え方でございます。
  もう一つは、教養をいつ学ぶのがいいかということでありますけれども、生涯教育とかいろいろありますが、青春時代に自分とは何かということ、あるいは社会とは何かということに関して全く迷う、その時期にこそいろんなことを学ぶ、あるいは自分を探求する、そして人格形成をすることが大切であって、その時期を過ごしてしまいますと、教養的な知識というのは結局単なる知識で終わってしまうことになるんではないか。だから、若いある時期にきちっとそういうことを訓練することが非常に大事ではないかと思います。
  「教養科目の講義なんかは大変むだである。何を自分が先生方から習ったか全然覚えない。あんなのは効果があまりなかった。」というような話をよく聞きますけれども、それは潜在的な形で教養が自分の体についた形、自分の人格になってきているわけでありますから、目に見えてこれを学んだということがなくていいんではないか。つまり、逆に言いますと、むだな時間をきちっと費やすことが教養であると、そういうことも皮肉な言い方ですけど言えないわけではないので、むだな時間を費やすから、いいかげんな講義はいけないんだとか、そういう論法は正しくないんではないか。ある程度習ったということは、何らかの形で潜在的にその人の身に付いているということではないかと思います。
  もう一つは、教養に関しては批判的精神を持てるように訓練する。別な言い方をしますと、ある種のことについていろんな物の考え方ができるということを知ることであります。けれども、いろんな考え方ができるというだけではだめなんであって、その中のどれをチョイスするかということ、これは自分の人格にかけて決断できるという、意思の力を持たせることが必要ではないか。そのためには、自分の価値観を訓練して鍛えていく必要があるわけであります。
  そんなふうに考えておりまして、そういうことを実現するのには一体どうしたらいいかということについて、例えば私の大学ですと、3年前から少人数教育を徹底的にやるということを考えまして、たったの1科目ですけれども、ポケット・ゼミと通称しております科目を設定いたしました。この科目はどんなものかといいますと、全学の先生がボランティア的に自分はこういうことを教えたいんだということを申し出ていただきまして、それを学生諸君にアナウンスします。これは特に新入生を対象にしております。4月から7月までやります。
  1人の先生は10人以下の学生しか持たない。教室はもちろんそんなにたくさんありませんから、自分の教授室あるいは研究室でやっていただく。1週間の何曜日の何時間目と決まっておりまして、一斉にやる。一番最初一昨年は、90人ぐらいの先生がその科目をつくってくださいまして、500人ぐらいの学生が受講いたしました。昨年は120人ぐらいの先生がボランティアしてくださいまして、800人ぐらいの学生が受講いたしました。今年は今やっておりますけれども、やはり120人ぐらいの先生がボランティアしていただきまして、大体1,000人か1,100人ぐらいの学生が受講しておりますが、教授室へ10人以下  ―先生によっては自分は5人しか受け付けないという先生もいらっしゃいます  ―来させまして、ほとんどマン・ツー・マンにやります。
  例えば、京都の町並について建築の先生が、古い町並はどのようにしてつくられているか、それはどういう理由があるのか。そして、見学に連れていくとか、そういうことを通じて、学生にどんどん質問させます。フリーなカンバセーションを重視しまして、それでもって先生と学生とのコミュニケーションをよくする。それから、10人以下ですから、学生同士が自由にまた議論し合う。その学生諸君はどの学部に属している学生とかいうことは全く区別しておりませんで、いろんな学部の学生が1人の先生のところに集まってきます。農学部の先生は、例えば田植えをさせたり、草引きをさせたりするようなこともやったりしながら、それを通じていろんなことを教える。そして、学問というのがいかにして形成されてきたかということを身をもってわからせる努力をする。そういうことを通じて、先生の人格であるとか、あるいはいろんな人生の問題であるとか、そういうことも語り合うという形で、インプリシットな形で人格形成といいますか、教養的なことを身につけさせるということをやっておりまして、これは学生諸君に非常に高い評価を得ております。一挙に先生の数をなかなか増やすことができませんので、徐々に毎年少しずつ増やしていって、実質的にいい科目にしていきたいと思っております。
  そのほかには語学教育で、今までは50人クラスだったのを30人クラスに来年から絶対にするということで、現在、プランニングしておりまして、やはり人数を減らして、単に知識を相手に伝えるということじゃなくて、お互いに先生と学生が切磋琢磨をする、意見を闘わせるということを通じて、ヒューマニティーのレベルでもいろんなことがわかるようにしたいと、こういうことをやっております。
  ほかにもいろんなことでやるべきことはあるわけでありますけれども、現在はそういうことをやっているということでございます。

○  今度の中央教育審議会に教養教育の在り方について諮問されるということを1週間ぐらい前に新聞の報道で見たときは、具体的にどういうことをイメージして諮問されるのかなということで、率直なところは少し戸惑いを感じました。もちろん今日の諮問理由や諮問文を読ませていただいたり、特に根本会長の「教育百年の計」という一種の提言みたいなものを読ませていただいて、昨年の12月、初等中等教育と高等教育との接続についての議論の中で、教養教育の重要性といいますか、教養教育の理念・目的みたいなものを提起したことの意味合い、改めてその必要性や重要性について、なるほどという感を今深めているところであります。
  ただ、自分の受けた大学の教養教育ということからどうしても考えるものですから、人文、社会科学、自然科学という三つの系列から、たしか12単位ずつ36単位を2年かけて取る。そのほとんどが、戦後間もないころということもありますけれども、経済なら経済の専門の先生が、教養のときには何か入門的な概論みたいなもので、多少片手間に時間をつぶすというようなことがあったような感じも受けて……。もちろん中には非常に印象に残っているし、そのことが幅広い教養知識を身に付けることにつながったなという感もありますけれども、えてして戦後、新制大学の一つの特徴はリベラルアーツということにあって、確かに全国、ある意味で大学というのは一律に36単位、教養科目を取ったということです。
  その一つの反省みたいなものから、大学紛争の後、そして平成3年ぐらいですか、大学審議会の答申を受けて、いわゆる設置基準の大綱化が行われて、教養学部とか、教養課程が、ある意味では逆に専門科目のほうに大きくシフトするような形に流れてきているという一つの歴史的な背景があって、あえてこの時期に教養教育というのは、意味合いとしてはよくわかるのですけれども、既に指導要領も小学校・中学校・高校を含めて「生きる力」ということと、高等教育における「課題探求能力」という、一つの教養教育を結ぶキーワードみたいなものがあるわけです。それを受けた指導要領が2002年からスタートする。それが間違っているというか、これだけ社会の変化が激しいときですから、一般的な教養が重視されなければいけないという意味合いについてはよくわかるし、それはそうしていかなければなりませんが、現実の今の小学校・中学校や大学を含めて、学習指導要領の改訂で総合的学習の時間も含めて、それを準備している段階に、新しい何かを教養教育ということで、どの時間帯にどういうことをやるのかというのは、実際現実問題として考えると非常に難しい側面もあるんじゃないか。しかし、やらなければならないということは、今日の諮問の説明を聞いて、特に根本会長の御意見を読むと、その感を強くしています。
  したがって、これまでの教育改革の歴史を振り返って、そのレビューをしながら、なぜ今あえて教養教育が重要かということをかなり時間をかけて議論しないと、頭の上だけを観念的に通り過ぎていく、そんな感じで、現場が戸惑いを感じるのではないかということをちょっと考えました。そうは言っても、私も他の委員の方以上に、教養教育の在り方について十分議論していかなければならないと思っています。
  なお、ちょっと最近気にかかるのは、これは中央教育審議会について言っているわけではありませんが、いろいろ報道される教育改革国民会議のテーマとか、それから分科会ごとの検討の中で、例えば臨時教育審議会以後の教育改革、特に「ゆとり」の中で「生きる力」をはぐくむという一つの改革の進め方について、これが一人一人の子どもたちの能力や学力を低下させて、子どもをスポイルし、日本をだめにしたのはこういった改革路線だというふうなレポートが報道されましたから、正確にそういう報告があったのかどうかということで、教育改革国民会議の事務局に行きました。それを受けてこれからどう議論されるかは別ですが、そういうレポートを出されているし、逆に中央教育審議会のこれまでの議論を受けて、それとは異なる角度からレポートをされているということもお聞きしまして、その意味では意を強くしています。
  最近、これまでの臨時教育審議会以後の教育改革、中央教育審議会の特に第15、16期の改革が間違いみたいなことが、文章で公表されるということになると、この議論を含めて、そういうところについてきちっとしたレビューをする必要があるんじゃないかという感じを強く受けていまして、2回目以降のときにまた機会を見て発言させていただきたいと思いますけれども、今日の諮問を受けた率直な私の感想にかえさせていただきます。

○根本会長  どうもありがとうございました。

○  教養ということで大変迷ったわけでございますけども、たしか私も大学のときは教養学部みたいなのがあって、少し勉強したのですけど、そのときに覚えているのはあまりなくて、専門のほうへいって、経済学のときにいろいろな勉強の中で、ゲーテの『ファウスト』を読めとか言われて、そのときのものが今記憶に残っているわけです。
  学校を出て、私、外資系の企業に長年勤めておりますので、そちらのほうへ行っていろいろ会話するときには、専門的な会話以外にそういう会話が非常に多いわけですね。それでもって、私、年がいくにつれて、「ああ、教養がないんだな」と思って毎日悩んでいるわけです。いろんな判断をするときに、自分がいろいろ体験したことから判断することとか、あるいは尊敬する先輩が体験したことを聞いて判断するとか、あるいは本を読んでそれから判断するとか、いろいろあるわけでございます。そういうときに教養というか、判断の基準として一つの大きなものが何か人間の底にないと、むなしいなという感じがするわけでございます。
  教養教育と教養とはちょっと違うと思うのですけれども、教養教育というのはリベラルアーツと言っているようです。教養というのは英語とかフランス語で何と言うのかわかりませんので。ただ、根本会長が「教育百年の計」の中で書いている、「武士道のノーブレス・オブリージエ」という言葉があるわけでございます。これは他の委員の方にお聞きしたいのですけれども、普通の人の持っている徳とか、道徳とか、倫理観、普通の一般の人が持っているものがフランスあたりでは教養という位置づけをされているのではないかという感じがしているわけです。そうしますと、普通一般の人が持っている徳とか、あるいは道徳を教養とするというのであれば、今回の諮問の中で、初等中等教育、すなわち幼児期からのこういう教育というのは非常に重要になってくる。まさに人間の生き方の中の根本になる。いわゆる「生きる力」の中の非常に大きなウエートを占めるという感じがするわけでございます。
  教養の定義というのはどうなのかというのをもし教えていただければありがたいと思いますし、今回、一番重要なことは、幼児期からずうっと教養と取り組んでいく。今までどうかすると、ハイレベルでもって教養を考えるような形があった感じがいたしますけれども、そうではなくて、今回は道徳、倫理も含めて、いわゆる幼児期からずうっと生涯学習の中でもってこれのレベルアップを図ることが重要になってくるのではないかと思います。

○  教養問題を論じると伺ったときの私の最初の反応は、非常に重要な問題であると思うと同時に、困難な問題だと思いました。その困難というのは、なかなか言えないわけですけれども、教養というのは定義しろとおっしゃられると非常に難しくて、いわく言い難しとか、フランスでは「忘れた後に残ったもの」が教養だという定義もございます。
  というふうに、実体がございませんので、例えば法学部の授業は、存在する法の講義をするわけで、存在しない法律についての講義は一切ございません。また、存在する法律について、今年は商法はやめておこうというわけにはいきません。そういう点で、法学部とか、あるいは医学部も同じで、存在しない病気の講義はあり得ない。教養の場合は、実体がございませんから、非常に難しい。しかし、大学人の間でも教養がなくなったという言葉があって、私も実は大学人として非常に厳しく受けとめております。私自身、教養もあまりないわけですけれども、そういうお考えは私にもよくわかるところがあります。
  ちょっとそういう研究レベルのことを申しますと、今日ここへ来る途中に他の委員の方と話をしながら参ったわけですけれども、そのときに私が議論を出したのですが、最近の研究者というのは研究が深まっておりますけれども、同時に狭い専門で、広い視野のある人がどんどん減っていくような気がしています。教養がなくなってきたんではないかという気がするのです。微に入り細をうがった細かいことは論文に書くのですけれども、後から来る研究者あるいは研究者以外の専門でない方に読んでいただいて、「なるほど、これはおもしろい」と思わせる論文の数が減っているような気がします。それはやはり学問に教養がなくなってきたんではないか。そういう意味では、今、学問の世界では危機があると認識しております。
  どこに危機があるのだろうかと考えるのですけれども、私、そういう知識について考えますと、ずうっと昔の1600年ごろですか、「知は力なり」と言った哲学者がいるわけです。それ以来、今日まで知っているということは知らないより強い。少なくとも間違った判断をしないためには、知る必要がある。「知は力なり」というのがあったと思うのです。これはよくわかりませんけれども、近代日本をつくるためには、当然それは非常に生きた言葉だと思うわけです。しかし、その後、いろいろな問題が出まして、それは会長がお書きになったものに見事に表現されておられると思いますが、知っていれば強いというだけではなくなってきた。知の使い方の問題も起こってきた。そこで、改めてもう一度、教養という問題が起こってくるのではないかと思いました。
  教養について、実は重視したのは臨時教育審議会であり、教養というものは知っているということだけでなくて、その知識を理解する「理解力」、それを見抜く力「洞察力」、批判する力「批判力」、それから自分はどう考えるのかという「判断力」、それをまたしっかりとした言葉でほかの人がわかるように表現する「表現力」であったと思います。そういったような力というのは、現在の教育でまさに必ずしも十分ではない部分ではないかと思うのです。
  私自身、教養学部という学部に長いこといたわけですけれども、今はその学部の後輩の教員たちは教養学部教授、助教授と言わないで、大学院総合文化研究科教授というので、何となく教養学部、教養という言葉は消えてしまった。もちろん国立大学で教養部がどんどんなくなっていったわけです。これは既にいろいろな方が御指摘のように、教養は大事なんだけれども、教養教育の在り方にいろいろ問題があって、これをやるくらいならば早く専門をやったほうがいいという専門教員の要請と、学生もまた早く専門に触れてみたいという要望があって、教養教育というのがだんだん縮まっていっているのが現在の状態ではないかと思います。これをもとに戻すかどうかということは問題ですけれども、何かの形で専門の知識を教えるということのほかに、先ほど言いましたように知識を理解する、洞察する、批判する、判断する、表現するというようなことを、必ず専門教育の中に含めることが一つの突破口になるんではないか。
  先ほど伺いましたある大学でのポケット・ゼミとか、語学を少人数クラスにするとか、そういうことを一つの具体案として既におっしゃっておりますけれども、やはりいろいろな工夫が要る。それから、今回は大学だけではなくて、小学校・中学校あたりから、人間の幅を広くする。さっき言った理解するだけではなくて、判断する、表現するというようなことを、小学校、中学校、高校でどうやって重視していくかという問題になるのではないかと考えております。これは私が今日考えたことでございますので、また誤りがあればいつでも訂正していただきたいと思いますが、そういうことを考えております。
  教養教育というのはリベラルアーツでありますが、教養って何だろうというのは、これは「文化」と同じ単語で、「カルチャー」「キュルチュール」ではないかと私は思いますが、いかがでございましょうか。

○  教養についてのテーマで、中央教育審議会が審議をするということで、いろんなお感じをお持ちになったと思うのですが、私は大変時宜を得た、大事なことを始められるなという感じに受けとめております。それはつまり、教養教育というのは、私も経験がありますが、新制大学になって、教養学部で、私も法学部だったのですけれども、教養のときに何をやったかなと思い出しますと、数学を教えた先生がベルトのかわりに荒縄を締めていたというのが唯一の記憶であります。他の委員の方がおっしゃられた、「忘れたところに残ったもの」というのは、もしかすると「ああ、これだな」と今思い出しました。何を教えられたか全然覚えてないのですが、荒縄をして、ズボンが下がっているのを全然気にしないで一所懸命教えていられる。こういう人がいるんだなというのは、すごいショックだったことを覚えております。これもおそらく教養教育だったと思うのです。
  今回の教養というのは、全然違う部分も含んでいると考えます。それはどういうことかというと、実は外国の学校はすべて小学校あるいは幼稚園の段階から、教養という時間があります。宗教が基盤になっている学校の場合には、そこで宗教を教えています。キリスト教のカソリックであればカソリック教義を教えるわけです。それ以外の学校はいわゆる教養という時間があって、そこで命とは何だとか、人間が生きている価値とは何だとか、そういうようなことを小さなうちから教えている。
  それから、小さいときに一流のものを見せるということをやっています。一流のものを見せるというのは、どうせさっきの数学の先生の荒縄みたいなもので、何にも残らないかもしれないけど、一流のものを見せるというのはすごく大事なことではないか。外国へ行くとよく見ますけれども、これは本当に考えなきゃいけないことかなと思っております。これは必ず後で効いてくるような気がするのです。
  そこで教養を考えた場合、日本でどうしてここで非常に大事だということで登場してきたかというと、やはり日本の社会が大きく変わってきたことがその最大の原因ではないかという気がします。つまり、基本的には1960年代の終わりから1970年にかけて、日本は完全に欧米に追いつき、あるいは1人当たりの所得ですと1972年にイギリスを追い抜くわけですが、それ以降どんどん豊かになっておりまして、大変豊かな社会を現出したわけです。その後の10年、20年にわたる高度成長もあって、1991年以降バブルが崩壊するのですけれども、しかしこの間に大変豊かな社会をつくり上げた。
  結果、どういうことを失ったかというと、もう御存じのことでありすが、繰り返して整理して申し上げると、子どもたちの世界から、まず一つは人と人の関係が大事だということを体験する機会が失われてしまった。これは貧乏な時代ですと、農業を考えるとすぐわかるのですが、みんなで協力して家じゅうで農業を支えないと、あしたの食べ物が手に入らないわけです。一緒に協同することが大事だなんてだれも教える必要がなくて、子どもたちはそれを知識として、あるいは体験として持って大きくなっていく。人と人のつながりが大事だということを体験することを通して、命のいとおしみとか、大切にするということを、体にしみ込ませて大人になっているわけです。今の子は、食べ物は冷蔵庫をあけるといつでもありますし、なければコンビニへ行けば24時間簡単に手に入るわけでありまして、そのことを体験するという機会をごっそりと失ってしまった。
  2番目に、これも大きな問題ですけれども、我慢するというチャンスをすべて失ってしまった。これは豊かさが当然のこととしてもたらしていることだろうと思います。
  3番目に、これは非常に大きな問題点でありまして、会長の文章にぜひこの部分をつけ加えていただきたいと思うのは、想像力(創造力)を失ってしまった。つまり、現状は豊かで満足できるわけですから、新しいものを考え出すという必要性を感じないのです。ですから、よくおっしゃられるように、今の若い人は、言っていることはよく言うことをきいてやるけれども、自分で考えてやろうとしない。こういう人間が続々と出てくるわけです。想像力(創造力)を失ってしまったということは、これは社会にとって大変な問題ですけれども、それを回復させるためには教養以外にないのですね。
  小さいうちから教養教育という柱を一本立てて、他の委員の方が御指摘になったように、実は2002年の学習指導要領が決まっちゃっているのですけれども、しかしやり方はいくらでもあると考えております。例えばイギリスでも今度、ブレア首相が言っている教育改革のテーマで、学校の授業の中に6%だったかな、8%だったか、一定のパーセンテージを提示して、その中でいわゆるシチズンシップ教育をやれという指示をしているわけです。これは人間関係をつなげることとか、その内容はいろいろあるんだろうと思うのですけれども、それをやらないと例のナショナル・カリキュラムでがっちりやられるというようなことで、イギリスはそれに向けて今進んでおります。
  ですから、教養教育というテーマを出されて現場が困るのは、日本の学校というのは教科主義ですから、教科を学んでいって、それが深くなってくると教養になるんだという習い方をしてきているわけです。ですから、大学へ行って教養教育というんで、自分が考えているような科目とは関係ないような科目をやりなさいよと言われても、関心が持てるわけがないんだろうと私は個人的に思っているわけです。だから、数学をやるつもりがないのに、大学へ行って数学をやらされているという感じですから、荒縄しか覚えていないという話になるんだと思うのです。
  例えば、法律をやろうと思えば、大学へ行ったら法律を勉強したい。法律を突き詰めていけば、教養が身に付くというふうに小さいうちから私たちは習ってきているわけです。だから、その部分をどうするかという議論はちゃんとここでする必要があると思いますし、これは非常に大事なことで、中央教育審議会でないとできない話だろうと思います。今回の教育改革を実体化するためには、この部分をちゃんとやらないとどうしようもないだろうと思うわけです。
  最後に一言だけ。要は、これから日本の国が国際化の中で生きていくためには、一人一人の人間が自分の人生を決めるという自由を行使するために、自分で自分を律するという精神的な自律をはぐくむ文化を教養に求めるというような目標で、このことに取り組む必要があるのではないかと思います。ヨーロッパ社会ではそれはおそらくキリスト教がやっていることだと思いますけれども、私たちの国ではそれを教養というものでやる以外にないんではないかと考えるわけです。

○根本会長  今、言われた「ソウゾウリョク」というのは、「creation」よりも「imagination」のことを言われたわけですか。

○  それは両方を含めて。

○根本会長  あ、両方含めてね。どちらかというと構想力というか、我々の世代が学んだやつは構想力。アイン・ビルディングス・クラフトというんですかな。

○  それは両方とも、今、若い人は欠いておりますよね。夢もないですね。ですから、両方含まれていると私は考えているのです。

○根本会長  それから、イギリスの最近のシチズンシップ教育は、自由と規律、それから人権思想というようなものをベースにしながら、子どもたちに六大宗教が一体どういうものかというようなことを教えることにしているようですね。ですから、キリスト教、ユダヤ教、回教、仏教、ヒンズー教、シーク教というのは一体どうなってんだというようなことを、子どもたちにも教えるということのようでございますね。学校によっては、朝、校長先生のお話があって、そのときに今のキリスト教教育ではないですが、必ず毎日、『聖書』の中の一句を読んで、モーゼの十戒を毎朝、小学校の子どもたちに読ませている。だから、日本とはだいぶ違うなという感じがしております。

○  審議のプラットホームになればと思って、整理をしてみたいのですが。教養教育の重要性を考えるとき、大切なことは、幼年時代、少年時代、青年時代における人格形成には、教養が非常に重要であるということを、国民全部に理解していただく必要があり、特に学校で教育に携わる教員に理解していただく必要があると思います。
  次に、教養の中身ですが、私なりの勝手な割り切り方をして、精神作用の7つのカルチャーをあげたいと思います。「カルチャー」というのは元々「耕す」という意味で、そこから「教養」という意味にもなります。
  教養の第1番目の要素は、ワーシップ即ち畏敬です。自分の力を超えた高きものに対する感謝の気持ちや、尊敬や愛情を持つことが、ワーシップです。感謝、尊敬、愛の対象となるのは、父や母、祖先、それから社会、先生であったりナチュラル・ワンダー即ち自然のすばらしさに対する畏れの気持ちです。それらが発展して宗教の信仰もある。こういうとらえ方が日本ではなくなってしまったと思います。
  2番目は、アスレティック。自ら健康に保ち、剛強な体をつくり、美しい体をつくる。自分自身の健康と身心を鍛え、管理することを教えることは教養の大事な、2番目の要素だと思います。
  3番目は、ディシプリンです。身なり、姿勢、立居振まい、挨拶、出処進退、別の言葉で言えば行儀と礼節といいましょうか、それは教養の非常に重要な部分だと思います。
  4番目は、感性だと思います。美しいものを美しいと感ずるチャンスをできるだけ多く与えることによって、幼年時代、少年時代、青年時代に感性が磨かれると思います。感性を磨くためのもう一つの方法は、創作だと思います。
  5番目は、思考力です。論理的に物を考える能力を養うのには訓練が必要です。深く物を考えるのには訓練が必要ですし、他人との議論の中で考える訓練も必要だと思います。これは教養の一番大事な部分だと思います。
  6番目は、レトリック(修辞学)です。美しい言語を聞き、読むことによって、美しい言葉の話し方、書き方を身につける。それから、ダイアローグ即ち対話とカンバセーション即ち議論の技法を学ぶ。それらを通じて一番大事なことは、プロトコール即ち人と人が接する際の約束ごととしての儀礼です。日本では哲学としてのプロトコールも、日常の挨拶儀礼としてのプロトコールも教えていないというのが現状です。
  7番目は、自己を相対化することだと思います。例えば、市民としての自分、環境の中での自分、家族や学校や社会という舞台の中での自分を認識して、自分を演出したり参加するということを教えることが、今の教養教育では欠けているのではないかと思います。
  次に、教養の具体的な内容ですが、四つの広さを知ると考えてみたらどうかと思います。
  1番目は、古典を通じて思想の広さ、深さを知ること。
  2番目は、歴史の深さを知り時代をさかのぼることができるようになること。
  3番目は、世界の広さを知る。外国の歴史や地誌や文化を知ること。
  4番目は、この世のあらゆる現象、森羅万象の広さを知ること。
  この四つの広さを知ることが教養の基本ではないかと思います。
  最後に、そういう教養が自分の血となり肉となる、血肉と化すためのメソッドというのは、昔からあったと思うのです。第1は、レシテーション(暗唱)です。ところが、日本では暗唱という大事な教養修得方法を放棄して、かわりに暗記によって一方的に子どもの頭の中にすり込みをやるという教育方法に置きかえてきたような気がしてなりません。
  第2は、思索、思惟といいますか、思いにふけることが重要です。これを繰り返しやらせることです。思索というのは、一つは考える(シンク)ことと、もう一つは先ほど会長がおっしゃったイメージすることだと思います。
  3番目のメソッドは、プレゼンテーション、表現です。プレゼンテーションは独創ですが、独創は無からは生まれない。やはり形式を教えなければ、表現は実はできない。一切の形式を無視することが独創的であるという今の考え方は、どこか間違っているんじゃないかと思います。
  4番目は、感ずる、鑑賞する、そういう機能をできるだけ高めてやることです。
  5番目は、自己制御、自分をコントロールすることを教えることです。
  こういうことを繰り返し繰り返しやることによって、幼年時代、少年時代に教養なるものが血肉と化していくのではないかと思います。
  以上は私の独善的な整理ですが、何かこういうプラットホームを用意して,それを具体的にどう実現するかという議論の仕方をしないと、議論が拡散してしまいます。

○  今のお話をお聞きしていて、これは申し上げなきゃいけないと思っていたことを落としていましたので。今、ロー・スクールとか、ビジネス・スクールということが言われます。ですから、エデュケーショナル・スクールでもいいし、リベラルアーツ・スクールでもいいのですけれども、このことを本格的にやる学校があっていいんじゃないかと思うのです、大学で。そこで学んだ人が、全国のいろんな学校に行って、教養教育の中核になっていくという仕組みが考えられないものだろうかという気がするのです。私立でやってもいいんじゃないかと思うのですけれども、どんなものなんでしょうか。結局、今、何にもないのですね。

○  今、「日本の高等教育を考える会」というのがありまして、そこが中心になって教養大学設立プロジェクトみたいなのが具体的に動き出しつつあるらしい。いろんな動きが出てきていると思います。

○  今、他の委員の方々がおっしゃったことは、本当によく考えておられて、私は不覚にも今日諮問されるのが何だというのをよくつかんでいなかったものですから、はっきりしたことを申し上げられないのですけれども、幼児からのということで教養、カルチャーということだと、人間がそういうものを感受する時期というのは生理的に限られた期間なのですね。間脳への刺激によって感受性というのはかなり決まると言われておりまして、おそらく中学3年ぐらいまでで何を鑑賞してきたかというようなことで、いろんな感性は決まるというふうに、これは経験的に言われていることなのですね。教養教育というのは、初等中等教育からということですので、その辺でやらなければならないことは、おのずと決まってくるであろうと感じております。
  先日、私は埼玉の芸術劇場に行きまして、蜷川幸雄さん演出のシェイクスピアの「テンペスト」というのを観てまいりました。これは彼の作品の中では代表的な作品でございますが、プロスペローという虐げられて追放された人間が、ある孤島で、その島に伝わる魔法を身に付けて、昔、自分に災いをなした人たちに復讐するというストーリーです。その島は音楽や芸術に満ちた島だということになっておりまして、それを日本で上演するときに、彼はどこでやろうかということを、数ヵ月にわたって考えたあげく、それは佐渡だというふうに思いついたわけです。すべての音楽を能楽と太鼓でやるわけです。そのことによって、私たちはシェイクスピアというと英語圏の物語ですし、「テンペスト」というのは表現するのに難しい作品なのですが、日本人にとって非常に親しみやすいものになった。それは蜷川幸雄という人の古典に対する教養がすばらしいクリエーションを行ったのだと思います。
  新しい創作というのは、いろいろなことから考えますと、必ず古典というツールを通じて出てくるのですね。ですから、そういうものが前から私は必要だと思っておりまして、日本にこれだけすばらしい、フランスなどよりももっとはるかに昔からすばらしい伝統的な芸能がある。こういうものを今の若い人たちはさっぱり知らないというのは非常に残念なことだと、私の分野のことで申し上げればそういうことが言えるわけです。これは以前の答申の中でも一部ちょっと出てくるのですね。「新しい時代を拓く心を育てるために」というところでも、チラッとは出てくるのですけれども、そういうことをぜひやっていただきたい。それは知るということではなくて、行うということの中で血となり肉となるのですね。そういう部分はきちっとやれる部分ではないかと感じております。それが表現するということにつながると思います。
  それから、教養ということですけれども、日本の場合は本当に知識を授けるということが主ですが、フランスの例えばアンリ・キャトレなんていうところの教室に行きますと、教えるんではなくて、考えなさいと言いますね。その時間の中で、あなたはどう考えるか。教えるんではなくて、考えさせるということをやっています。そういうことも授業時間の中ではなかなかやらないというか、やれない先生が多くなっているのかなという感じがいたしまして、考えることを通じて血と肉と化すのが、おそらく教養となり得るものであろうと思います。
  それから、プラットホームをいくつかつくっていただきまして、その中で述べることなのでしょうけれども、私がもう一度学校に行けるならばぜひやりたいと思うのは、やっぱり体系的に宗教学、あるいは哲学というものを  ―思春期のあたりにいろんな価値判断で自分が迷うのですね。生きるか死ぬかということもありますし、それから恋愛などでどうするかということも迷う。その迷う時期に、哲学というもの。哲学の延長で、仏教なんか哲学に近いと思いますけれども、自分の価値判断基準を学ぶというところが、今まで思想的な傾きを恐れるということで、やらなかったところではないかと思うのです。そういうことはぜひもう1回、どうやるかというのはなかなか難しいのですけれども、これからの若い人にぜひやってほしいなというところの一つでございます。

○  『ソフィーの世界』が100万冊を超えるベストセラーになって、あれを読んでいる青少年もいるんですね。スカンジナビアでああいう先生が青少年に対して地道に講義をしているというのは、これは非常な脅威というか、おっしゃるようなことと大変関連していると思います。

○  先ほど会長から英国社会における宗教の話が出ましたが、英国人自身は、英国社会における宗教の影響は極めて微弱であるということを言っています。私も多少住んでみてそう思っております。子どもたちを3年程英国に置きましたが、宗教の話を聞いたという話は一遍も聞いていないように思います。そこのところは少し認識を改めたほうがよろしいんじゃないでしょうか。多くの英国人がこの点については、完全に日本人の買いかぶりだと言っていますので、我が国の宗教教育についてはかなり独自のものを考えていく必要があるんじゃないかと思います。

○  最近、随分、いろんな人たちが入ってきて、そういう異文化に対する理解という意味で、そういった六大宗教のある程度の概要を子どもたちに教えるということを、私、デアリング卿とお話ししましたときに、デアリング卿が言ってはおりましたけれども。

○  先ほど来、委員の方々がおっしゃることを関心を持って伺わせていただきまして、いろいろ触発されることがあったのです。それで今思っているのは、「教養」という言葉に発想が束縛されているんではないだろうかというのが一つです。
  もう一つは、先ほど私は大学のときに教養学部で勉強しなくて損をしたと思っていると申し上げましたけれども、にもかかわらず、同じような立場にあった私の友人たちが、それなりにちゃんと自分の足場を持った立派な人間になっている。というのは何だろうかと思って考えますと、前に地域と家庭との連携という話がありましたけれども、学校だけではなくて、社会・家庭でかなりのことがなされて、それが残っているんではないだろうか。そういう意味では、本日いただきました諮問は「教養教育」となっていますけれども、私としては「教養教育」という言葉を、先ほど申し上げたような広がりを持って考えたいと思っております。

○  「知識は身に付く」という言い方があるのですけれども、教養というのは身に付かなかったら話にならない。そこが一番難しいんじゃないでしょうか。必要だからって押しつけると、全然身に付かない。そこが非常に難しい。先ほど紹介のありました大学でポケット・セミナーをやっておられるというのは、やっぱり受けようと思う者の主体性がありますね。これをおれは受けたいというか。教養教育を受ける側の主体性を生かすということを我々は考えないと、大事だから皆に押しつけようというふうにやると、同じことになるんじゃないか。それを思います。

○根本会長  ありがとうございました。これで本日の会を終了したいと思います。

(大臣官房政策課)

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