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中央教育審議会

1997/3
中央教育審議会第2小委員会(第19回) (議事録) 

         中央教育審議会    第2小委員会(第19回)
                    議    事    録

    平成9年3月11日(火)13:00〜15:00
    東海大学校友会館  33F  望星の間

      1.開    会
      2.議    題
          「一人一人の能力・適性に応じた教育の在り方と教育上の例外措置」
            について
      3.閉    会

      出    席    者
        委  員
          木村座長                          草原生涯学習局長
          有馬会長                          辻村初等中等教育局長
          市川委員                          工藤審議官(教育助成局担当)
          薄田委員                          雨宮高等教育局長
          江崎委員                          佐々木体育局長
          河合委員                          富岡総務審議官
          川口委員                          その他関係官
          河野委員
          國分委員
          小林委員
          坂元委員
          田村委員
          俵  委員
          土田委員
          永井委員

        専門委員
          青木専門委員
          シェパード専門委員
          中  専門委員
          山極専門委員
          増井専門委員
          牟田専門委員

○  それでは、第19回第2小委員会を開催させていただきます。よろしくお願いいたし ます。
  本日は、「一人一人の能力・適性に応じた教育の在り方と教育上の例外措置」という問題につきまして、前々回、2月12日の会議において私がお示しいたしました「座長素案」に対し、皆様からいただきました意見を踏まえて、さらに修正した文案をもとに御議論いただくことになっております。これに基づいてまた御議論をいただきますが、その前に、お配りしている日本数学会からの要望書をごらんいただきたいと存じます。

[日本数学会からの要望書について座長から説明]

  本日は、今の数学会の要望書等について御議論いただくとともに、できれば二つの点について  ―もちろんそれだけでなくても結構ですが―  御意見をお願いできればと思います。
  まず、習熟度あるいは進度の遅れた子供への配慮についてもう少し具体的な方策を御提案頂きたいことが一つ。
  次に、特例措置について、受け入れ方法でありますとか、受け入れ大学の条件、具体的な実施方法、そういうことについて御議論いただければと思います。

○  この審議会は、大学に入学するのが18歳でなければならないということを緩和するという精神でいいのではないか。ある子供が大学に入るためには、何かきっかけが必要で、そのきっかけとして数学あるいは物理にフォーカスをこの際合わせて、その能力に優れている子供が必ずいるわけですから、そういう子供たちに刺激を与える。その子供たちに合ったような教育をすることが重要で、その子供が18歳にならなければ大学に入れないというルールをやめようじゃないかと。それはいろいろ問題はあるでしょうけれども、18歳で大学に入る子供たちも問題はたくさん持っているわけですから。
  例えば、「数学の研究のオリジナリティーは若手だけに支えられているものではない」と。こんなことはあたりまえのことで、物理の研究でも、何も若手だけにオリジナリティーが支えられているわけではない。比較的言えることは、ほかの分野と比べると、数学とか物理というのは若手が大きな役割を果たしている。そこだけは文学とかそのほかの分野と比べると違うわけで、その点は認めなくては。
  「日本の数学研究のオリジナリティーに関する国際的評価は高い」と。これも高いといえば高いですし、あまり客観的な評価じゃないようにも思うんです。
  もう一つは、外国の人を呼ぶということについても関係するんですが、僕の知る限り、アメリカあたりでは「高校3年」という表現じゃなしに、「12th  grade(トゥエルブス・グレード)」という表現をしているんですね。ですから、高等学校3年のうち2年ということになると、これはもう大変なことといような感じなんだけれども、12年やっているうちの1年を飛び級というコンセプトで、イレブンス・グレードで入るということですから。
  もう一つ言えることは、大学というのが非常に大衆化したわけですから、その中で、できる子供たちに特別なルートをつくっていくことも、当然考えていい問題のような気がするんです。かつては、旧制高校というのは、たぶんそのときの学生の2%ぐらいしか高校に行かなかったわけですが、現在のように50〜60%行くというようなことになりますと。
  私自身も昔の中学の4年から高等学校に入りまして、今で言ったら1年飛び級ということに相当するんですが、その当時、飛び級した人は、ほかの方もいらっしゃると思いますが、今まで何ら問題はなかったように思うんで、今、急に問題が飛び出してくるというのは、ちょっと理解に苦しむ。つまり、できる人間に応じた教育をするというプリンシプル、それにフォーカスを合わせていいんじゃないかと私は思うんです。

○  数学・物理がよくできる子供の才能を伸ばすことに賛成ですが、学習の進度の遅い子供に対しては、むしろ好きな科目をやりたいだけやらせるという方式ですね。つまり、万遍なくやっていくと、全部遅いということになりますが、やはり何か好きなものがあるに決まっていると思うんです。例えば、音楽とか、美術というようなものを含めましてね。ほかはできないけども、何かそういうものに興味を示したら、それを積極的にさせるような体制でいくと、ある時期に自信を持って、ほかの科目もやり始めるということが大いに考えられます。特に高校までの科目の場合は、一般的にみて選択性というのは薄いわけですから、そういう仕方で、片一方で数学ができる人はずうっと伸びていけるし、遅れた生徒でも自分の好きな科目は伸ばしていく可能性がある。
  もう一つは、年齢とか、飛び級にこだわるということもあるんですけども、高校でも、中学でも、あるいは小学校でもそうだと思うんですが、自分の好きな科目というか、できる科目だと、一般の平均よりもたくさん取れる。数学ができれば、中学校1年生でも3年生のクラスに出られるような、そういう配慮がむしろ必要ではないでしょうか。ですから、科目は一律に全部やっていかなくちゃいけないという考えでは、進んだ者にはかなり上のほうをさせて、遅れた者は徐々にやる。大学だと、1年生のときに取れなかった単位を4年生になって取り返すということがあるわけですが、そういう配慮のほうがむしろ大事だと思います。

○  ある大学で調べてみたら、大学へ進学した動機について答えられないのが、90%以上であったそうです。ほとんどないと。ですから、こういう特別措置をやれば、「何かをやりたい」という子供達を入れられるじゃないかというご意見の方が学長先生の中にいらっしゃいますが、今、先生が言われたとおりのような気がいたします。

○  先程の御意見に全く賛成でありますが、一つつけ加えるならば、遅れている子供にとっては、学校というのは非常に憂うつな場所なんですね。何をやっても、点数評価されたときに低い点をもらう。これは非常に憂うつなことです。私自身は中学の1、2年のとき、成績が悪かったので、学校というのが非常につらかった思いがある。そういうことを考えますと、今のような御意見で、一つ加えることは、遅れた子にも楽しい、やっぱり学校へ行きたいという気持ちを起こさせることが、教育上非常に重要である。これをつけ加えていただけるとありがたいと思います。

○  非常によくまとめていただいたと思います。まず、進度の遅い人と早い人と両方への目配りをしていただいていますし、経済とか、科学技術へも目を向けていただいて、「学問の新しいフロンティアを開拓する可能性」というところで、数学者になるだけが対象者ではないということを言っていただいています。多様化に対応するいろいろな手だてへの配慮がなされておりますし、エリートを育てるんじゃなくて、入試改善の方向と一致している。さらに、外部評価がある。しかも、当面であって、最初に少し柔軟なところへおずおずと手を出して、それからだんだんとパイロット事業等、その他の実験的な成果の情報を集めながら、広げていこうということ。非常によくまとめてあると思うんです。
  アドバイザーのところも大事ですが、アドバイザーというのはこの種の子供たちだけじゃなくて、すべての子供たちに必要なわけで、その中の一つとしてこれを位置づけたほうがいいような気がします。
  それから、数学会のことなんですけれども、IEAの数学の学力の調査があって、これは日本は1、2、3位ぐらいをずうっと占めてきて、トップクラスなんですけれども、その中で、内容を細かくごらんになったときに、計算力を主とするところはトップクラスだけれども、記述的な問題のところがグーッと下がっているということですね。このことが非常に問題であって、それを何とか解決するように、数学教育学界の先生方は頑張っていただきたいと思うんです。
  私、この声明を拝見して、よくお考えいただいてありがたいと思うんですけれども、何か数学のよくできる子供は、数学界の範囲の中のものであるよという印象を受けますので、そうじゃなくて、これは日本の宝であり、世界の宝である。すべての人が宝なんですけれども、新しい文化を創造するという意味で、宝だという配慮をしていただければ、数学だけでなく、情報であるとか、物理であるとか、天文であるとか、数学のよくできた才を新しい分野の開拓にうんと生かしたいという分野がいっぱいあると思うんです。ですから、数学研究者だけのためにこの特例があるというふうに何か思い込まれている節が感じられます。そうじゃないということが、座長素案を読みますと十分書かれていて、恐らく数学会がいろいろ御要望になったことの答えは、これをごらんになれば、「あ、全部お答えになっているな」とほとんど思われるんじゃないかと思うのが1点。
  もう一つ、先ほど来お話が出ていますように、教育の機会均等対教育の個に対応するということが、対比概念じゃなくて、統合概念だというとらえ方をすれば、いろんな問題が解決すると思うんです。教育は機会均等である  ―例えば音楽を学ぶときに、ピアノとか、ドラムとか、いろいろあって、それは機会均等で、どれを選んでもいい。私はピアノを選ぶ、私はドラムを選ぶ。ピアノを選んだとすると、バイエルのところだ、チェルニーのところだ、ハイドンのところだ、ショパンへいっている、ベートーヴェンへいっている、いろいろあれば、それに応じて指導の仕方が異なるし、トリルができるとか、シンコペーションだとか、いろんなところで対応した教育ができる。
  機会は均等に与えられるけれども、その機会を選択した後には、方法とか、内容とか、程度は個に応じて展開できるわけなので、そうしたいろいろな対応への道の一つとしてこういう方式を取って、それが今までパイロット事業等で実験を積み上げて、非常に慎重にして、いろんな御反論等々があるので、それを踏まえた配慮をして、当面、17歳段階で、かつ数学・物理から始めて、だんだんパイロット事業を積み上げれば、情報であるとか、いろいろ広げていける道筋がよい。そして、海外ではそれをやっていますし、日本でもかつて中学4年、小学校5年とやっていたわけですから、そちらの方向へ少し日本の教育体制を柔軟にして、コチコチに固まった学校制度を自由な方向へ少しずつでも向けていく。一気に向けると混乱を起こしますので、そういう方向への第一歩として、私は大変大きな意義があると思っております。以上です。

○  二つ申し上げたいと思います。
  一つは、たびたび申し上げるように、早熟型の子と晩成型の子はある程度分けて教育をすべきである。
  ただ、お母さんやお父さんが、分けられることに対して非常に抵抗をされるので、そこのところをどういうふうに注意していったらいいか。特に晩成型だというふうなクラスに入れられると、大変御不満があるかもしれませんね。その辺をどう工夫していくかということを、ここに書けるかどうかわかりませんけれども、一つ心配です。
  非常に優れたものを持たせながら、遅れているところ、ゆっくりしているところを手伝って進めていくことが必要だろうと思います。塾の中ではそういう塾があるので、落伍している子供たちを教えるという塾が今でも盛んですので、その塾に行かなくても済ませるようになればありがたいと思います。
  それから、1年、2年  ―私は1年、2年というくらいに思っておりまして、別に1年だけ早くしなくたって、もっと早くたっていいほうの主張です。戦前や戦中は三つぐらい早く世の中へ出ておられる人もいるけれども、極めて常識豊かです。私は大丈夫だと思いますね。
  ただ、一つ考えていただきたいことは、大学の教育が、早く進学してきた才能を伸ばす体制ができているだろうかどうだろうか。大学の教育についても少し言っておいたほうがいいんじゃないかと思います。
  それから、今、大学院へ行くのは3年から行っていいので、1年早く入って、大学院には3年から行くという道も開けますね。
  もう一つ、数学ができたり、物理ができたりする子は、かなり医学部なんかへ行きたがるんですね。医学部とか、それから工学部なんかもどんどん行きたがる。そういう意味で、理学部の数学だけに行けるんだというふうなことにならないほうがいいと思うんです。だから、大学に入るのは、ものすごく数学がよくできたりして入ったけど、その後は、やはりその本人が、割に早く自分は医学者になりたいんだとか、自分は工学、特に計算機をやりたいんだというときに、そっちに向けるようにしてあげておいたほうがいいんじゃないかと思います。

○  今の点は、私は個人的にはいかがなものかという気がいたしますね。その点については、「学問の新しいフロンティアを開拓する」ということで、当該分野の高度の研究者を育てるのだと私は理解したんですけども、これが医学部へ行ける、工学部へ行けるということになると、まさに受験競争を激化しかねないような、そういうコースをねらうような人たちが出てくるんではないでしょうか。今のシステムを、医学者の養成とか、工学者の養成とかについて、支障が生じているのかなという気がして、デメリットのほうが多いんじゃないかなと私は思います。
  それから、どこの大学でも勝手にやったら困るというようなことを私が申してたため、博士課程を有し高度の教育研究活動を実施しているという歯どめをかけたんでしょうけれども、今日、博士課程を持っていて、休眠状態のようなところもあるやに聞いているんで、果たしてこれで歯どめになるのかどうか。確かに難しいところですけど、もう少しここのところを書き込む必要があるかなという気がします。

○  全くおっしゃるとおりで、色々難しい点はありますが、私は外に向かってはかなり強烈に、17歳入学というのは、日本の硬直したシステムに風穴をあけるために必要だと頑張って主張しているのですが、その一方で大学のほうの受け入れは大丈夫かと心配している面もあります。
  それから、全部の大学がやるのではないか。休眠状態のところも博士課程さえ持っていればできるじゃないかという点についてですが、それを心配しているからこそ、一番最後のほうに「外部評価」というのを入れたんです。要するに、大学の都合だけでやられては困るということなんです。博士課程を有するだけでなく、高度の教育研究活動が現に実施されていることが大事だと認識しています。

○  何も理学部の数学だけが数学者を育てるところじゃなくて、工学部にある応用数学というか、あるいは物理工学なんていうのは、今、非常に活躍しているんです。だから、数学者や物理学者を受け取る側が、理学部物理教室とか、理学部数学科だけではなくて、せめて工学部ぐらいには開いていただけるとありがたいという気持ちです。

○  数学会の要望も、それから今の議論も、ちょっと一般化され過ぎていると思うんですが、いわゆる「稀有な才能」ということですよね。ですから、神童とか、天才とかいう人たちなんで、これは今おっしゃったように、一般的に受験が楽になるというような方向じゃ全くなくて、たぐいまれなる才能をいかに損なわないで開花させるかということが主眼ですから。工学部に行きやすいとかというような議論とは全く違うレベルの議論だということはちゃんと明記すべきだと思います。
  それは私は全国的に見て、そんなにたくさん天才がいると思いませんから、各地で、「これはすごい」という生徒が出てきたとする。例えば小学1年ぐらいで、5年ぐらいのことが全部、また中学ぐらいのことがわかっているような生徒が時々出てくる可能性があるわけで、そういう生徒は各地から御推薦いただいて、例えば面接試験をする。面接試験をして、例えば大学でも、A大へ行けば何でも開花するなんて全くないわけですから、この人の才能は、むしろA大とかB大へ行けばつぶされるから、C大学に行きなさいとか、D大学に行きなさいとか、そういうふうにアドバイスまでするべきだと思うんです。確かに、大体天才でノーベル賞をもらっているようなレベルの人は、いい師にめぐり会ってやっていますね。それがうまく人や場所と合わんとめちゃくちゃになるわけですね。
  もう一つだけつけ加えると、現在は数学、物理学の「稀有な才能」のことが言われていますが、例えば世界的に有名なバイオリニストの話ですが、13歳ぐらいでニューヨーク・フィルと共演して、今や大天才、世界をリードする大バイオリニストですけれども、これがやっぱり日本で育ってなくて、ジュリアードに7歳かそれくらいで行っているわけです。
  ただ、私、非常に残念だったのは、その人は十五、六歳ごろにアメリカのNBCか何かの朝のトークショーにゲストとして出てきて、「何をしたいか」と聞かれたときに、バイオリンはもちろんするんだけれども、同時にカレッジに行きたいと言っていました。それはハーバード大学とかそういうところに行きたいと言っていたんですが、途中でバイオリンが忙しくなって、それを放棄したというのを、後年インタビューで言っているんです。これはものすごく残念なことで、ハーバード大学を受ければ受かるだろうと思いますしね。
  それから、中国系の大チェリストの話ですが、この人はやはりハーバード・カレッジを出ているんです。ハーバード大学はそうした才能を受け入れ、開花させるだけのキャパシティーがあるわけで、もちろん音楽学科もありますし、といって音楽だけじゃなくて、文学から何から全部教えるわけで、それをちゃんとやらなくちゃいけないわけですが、そういう一般教養を深く得て、人間としても音楽家としてもますますバランスが取れるということですから。やはり芸術とか、そっちのほうの才能の特例も考えるべきではないかと私は思います。例えば、10歳ぐらいでも芸大に入れるようなコースがあっていいですよね。日本では今、入れないでしょう。それはやっぱり両方を考えないと、単なる理科教育偏重で文化知らずの経済大国になってしまうんで、日本全体がバランスのとれた社会となる必要がある。芸術文化と自然科学のバランスを取る必要があると思います。

○  先ほど風穴をあけるというふうにおっしゃられて、まさにそういうことではないかなという気がするんですが、現在、社会一般で個人の能力や適性に応じた教育という発想が、学年を1年早く終わるかどうか、1年早く入学するかどうかという形でとらえられいて、その背後にある広がりが視野から消えてしまっているような印象です。
  まさにこれは能力・適性に応じた教育の一つのきっかけといいますか、一番最初の話でして、それをベースにそれがうまくいけば、あるいは少し時間をおいて、ほかの分野でもそういう能力・適性に応じた教育をしていく、あるいはシステムを変えていくという印象を与えつつ、この議論をしたほうがいいのではないかという気がします。
  ですから、今回、飛び入学の話が前面に出ていて、ほかのことは今はふさわしくないという書き方になっていますけれども、これが未来永劫にそういうことはだめなんだという論理にならないように気をつけながら書かないと、本質的な議論のところがなくなってしまうという気がいたしております。
  その点から言いますと、スピードが遅い子供たちに対してどうするかということについても、むしろ能力に応じた教育の考え方の中で、例えば選択の幅を広げて、ある科目は取らなくてもいい、自分の能力があるものは深く取っていくというようなことも、もし書けたらいいと思いますし、今回は早いということでしたら、それも先に向けての検討の可能性として位置づけていったらいいんじゃないかと思います。

○  ただいまのお話に私も賛成です。数学会の要望書に対して、硬直している日本の教育制度、いわゆる年齢の枠を外して、柔軟性を持ち込みたいんだということに、全く同感でございます。
  ただ、この制度が導入されますと、高等学校でどうやって人材を発見するかということで、いつも心配するわけですけれども、そのことについても、随分具体的にお書きいただいておりますので、教育現場の御理解はいただけるんではないかと思います。
  ただし、特定大学に偏ってはうまくない。ある特定の大学にばかりそういう学生が入っていくんではまずいと思いますし、また地域性をある程度考えておかないと、特定地域に偏ってしまうんではないかという心配があるわけです。いろんな意味で恵まれている地域というのはあるわけですね。家庭的にも、あるいは地域的にも、いろんな面で恵まれているところがあるわけですが、できれば北海道から九州、沖縄まで人材が発見できるようなシステムにしていってほしいと考えているわけです。そんなことについてもちょっと触れていただければありがたいと思います。
  それから、好きなものをできるだけ多く学べるようなシステムにしていけばよろしいのではないかということには、全く賛成です。この審議会のメンバーの中に、現在開かれている教課審のメンバーの方もいらっしゃるわけですけれども、現在、高等学校では、3年間でどうしても学ばなければならない教科・科目の単位数は、英語を除いて、普通科で39あるわけです。1年間でいっぱいいっぱい勉強して30時間しかないわけですから、3年間で90と仮にしても、そのうち39は全員が同じように学ばなければならないという仕組みになっているわけです。従いまして、普通科の場合、現在の一年生のカリキュラムはどの高校も結果としてほとんど同じものになってしまうのです。ですから、ぜひ審議会のメンバーの方は、教課審の中で、それをどう厳選するかということを大いに発言していただきたいと思うわけです。必修科目についても、高等学校の場合は、ある程度生徒の自主選択に任せる。バランスをとって選択できるような新しい教育課程を考えていただければありがたいと思っているわけですけれども、その辺のところもぜひお願いしたい。今のことはこの審議会と直接関係ございませんけど、ぜひお願いしたいと思います。以上です。

○  私が多少外から観察をしておもしろく思うのは、かなり年齢にこだわっていることですね。ちょっと驚きます。なぜそんなにこだわる必要があるのかなとつくづく思ってますが、この文章の中に反映しているものは、エリート教育ではなくて、あくまでも今の仕組みの中に柔軟性を与えるということじゃないかと思うんです。ですから、何歳のときに卒業したかとか、17歳だからちょっと進学するのは難しいんじゃないかとか、それにこだわるのは、私の観点からは非常におかしいなと思ってしまうんです。
  それはいろんな背景とか、日本の教育制度の長所の中にも反映されているんじゃないかと思いますけど、もしエリートコースでしたら、率直に言うとアメリカでは幾らでもあるんですよね。シアトルにある高校で、こういうことがあるんですよ。数学だけじゃなくて、一般の学生のためのレギュラーコース、LDとか、少し遅れている子供たちのコース、それからこれはちゃんと試験を与えて合格した人のためのコースですけど、普通よりちょっといい、何といいましょうかね、2級コースといいましょうかね、その上にまた、ある意味では全くエリートコースみたいな、だからエリートというのは、学問的に非常にできる子のためのコースが、同じ高校にあるわけなんです。そういう仕組みは、確かにエリートという言葉で批判されるかもしれませんけれども、現在中教審で審議しているものは絶対にそれではないんですよね。
  ですから、私の観点から見ますと、日本の教育制度の中で一番必要なことは、フレキシビリティーを与えることではないかと思います。そんなに年齢にこだわらなくてもいいんじゃないかと思いますよね。ということは、一つの学校から二人か三人ぐらいの子供たちが、例えば大学のコースを受けるとか、それだけで日本の教育制度の秩序が壊れてしまうとか、そういうおそれがあるように聞こえるんですけど、絶対にそんなことはないと思いながら、逆に一人一人の能力・適性に応じた教育を与えるためには、最初からそういうことを与えるべきではないか。私はちょっと考えが甘いかもしれませんけれども、簡単にそう思っております。
  アメリカの感覚では、高校1年の学生たちが全員同じコースを取るとか、そういう感覚がないんですよね。大体そうなんだけど、中にはそうじゃなくて、例えば9年生とか、10年生が普通取るコースでなくて、私みたいに夏に通信コースでやってしまった人もいるわけなんですよね。だから、たまたま15歳でシニアコースを取っている人とか、中にはいるわけなんです。まあ、ほかの人に言われるかもしれない。「かなり若い人が一緒にいるからおもしろいな」とか、そういうことはあるかもしれないけど、それで問題になることはほとんどないと思います。

○  私は、これはこれで十分じゃないかと思います。ただ、御心配になっている「学習の進度の遅い子供に対しては」というところなんですが、逆に留年するということに対しての方法も考えられればね。だから、スピードの問題だというふうに考えられがちですけれど、このねらいはスピードではなくて、タイミングではないかと思うんですよね。その人に合ったタイミングのときに、スッとそこですごろくがもっと先に行くような問題であって、全体のスピードということから考えると、1年や2年というふうに私は考えてしまうわけで。逆に言えば、遅いほうのこともそういう形で書いていただければ、だいぶ違うんじゃないか。
  そうすると、それは決してエリートとかそういう問題ではない、早い人はそこを早く行く、遅い人は遅く行く、両方のやり方があるんではないかという形になるんじゃないかという気がします。

○  やっぱり楽しくやるのが非常に大切だ、まさにそうだと思いますけど、それと同時に、効果のある教え方、教授法もなければならない。LD児の教員についてアメリカのある学校では、一般の教科を課程の中に入れようとするのではなく、英語でいうとスキルズ・オリエンテッド・カリキュラムといいまして、読み書きでしたら読み書きばかりをやって、ほとんど読み書きと、算数だけでした。ある意味では実験心理学的なやり方で、本当に段階的で、例えば数学でしたら、一つの数学の課程を学習すれば、次のステップに行く。非常に集中的なプログラムで効果的でした。
  ポイントは、一緒に楽しく学習していくということも非常に大切だということです。同時に、どういう教授法を使うか。やっぱり効果のあるものを使うことが非常に重要だと思います。遅れている子供たちに対応すべきだと。既に遅れている子に対して、教員は世話をしていると思いますけど、その上にLDの子供たちに何か特別の、これも例外措置と言ってもいいかもしれませんけど、対応ができるように何かするべきではないかと思います。アメリカでも、日本でも、いろいろと実験していると思いますけど、その中で効果のあるものと効果のないものがあるんです。一つ、LDの子供たちが非常に難しいのは、さまざまであるから、LDの子供たちがこうであるということは非常に言いにくい。

○  遅れがちなということについても、多くの先生方からいろいろと話があって、そのとおりだと思います。この前提になるのは、第一次答申でも言っているように、今までのようにすべて量でもって競い合っているものから、もう少し質の違い、あるいはもっと言えば個人差というものをもっと認めていく、そういうことが前提になっていく。これはかなり国民としての意識改革になると思うんです。それがないと、習熟度に応じた学習といっても、日本の場合に、例えば習熟度といっても、クラスの中で習熟度に応じた場合もあるし、外国なんかでやっているように習熟度に応じた学級編制なんていうのもあるわけですね。だけど、日本の場合には、そういうことをすると、差別だというような感じで、非常に問題である。もちろん、発達段階に応じてあまり早くからそういうことをするのも問題でしょうけれども、一人一人の違いというか、個人差といったものを、一次答申にあるようにもう少し認めていく。その上で、習熟度に応じた学習も非常に効果がある、それなりに大事なんだということだと思います。
  それから、教課審にもかかわるかもしれませんけれども、例えば教科の目標を立てる場合でも、あまりにも各学年ごとの目標ギチギチということもあるでしょうけれども、例えば複数学年で目標を書いて、場合によっては2学年ぐらいにわたって目標に到達するようなことも、教科にあってしかるべきかなと考えます。

○  今まで伺ってて考えていたんですが、二、三点あります。
  風穴論があるわけなんですが、答申は、ここで書いてある範囲かなという気もするんですが、分野とその年齢について、「当面」ということで書いてある。これで十分読めるんですが、広く理解を得るためには、それだけではなくて、対象も年齢も、将来ともこれに限っているわけじゃないんだということをはっきり書くかどうかという問題がある。そこまで今回は書かなくてもいいという御意見が多ければ、それはそれでいいんですが、ちょっとその辺の迷いがある。そこまではっきり書けば、全体像というか、考え方がかなりよくわかってくるという気がいたします。
  それから、受け入れ大学の問題が、歯どめは大丈夫かというお話があったんですが、それに関連して私もちょっと気になるのは、大学側のことをよくわからないままに言って恐縮なんですが、いろいろな形での歯どめは構えてはあるんですが、実際に動き出して、どっかの時点で、これを一部の大学がPR的な意味で乱用する危険性はないかなという、その辺の歯どめが大丈夫かなというのが気になります。
  それから、学習の進度の遅い子供ということで、ここに目配りをしているのは、全体のバランス上いいと思うんですが、進度の遅い域を超えているというのが、今の高校の実態として一部にあるんだろうなと思います。これは全国的にも事実上、今、全入に近いことで高校に入っているわけですから、どうしても何校かに1校、10校に1校かもしれませんけど、いわゆる困難校というのは全国的にある。
  例えば、数学の話がだいぶ出てますから、数学で言いますと、こんなことを聞いたことがあるんです。高校で採用されて、ある高校で数学の先生をしている。ところが、実際問題として、「私も数学を教えられる学校に異動したい」と。つまり、今いるところでは、とても高校の数学を教えるどころの話じゃないという。これは一部といえば一部なんですが、そういうところまで目配りするかどうかということになる。
  ここに書いてあるのは、どちらかというと、個々の子供をきめ細かくという教育方法論というものが、そこにある。もう少し広く捉えて得意なこと、好きなことをやらせるということがいいんじゃないか。これももうとっくに走り出している問題なんで、高校の多様化の一ジャンルというのはそういうことなんで、同じようなことを教えるというんじゃなくて、高校までは行きたい、行かせたいという要望が非常に一般に強い。ですから、高校であっても、実際には学問的というよりも、はるかに実技的なもの、体験的なものに重点を思い切って置くような、あるいは職業教育的、あるいは専門的ということをもっと広く捉えて、高校の多様化をさらにはっきりさせて、それぞれの個性に応じた子供を入れていくというようなことがむしろ基本なんじゃないのかなと思います。
  ここに書いてある、「一人一人の個性に応じた」ということでの教育方法論というのは、ある程度のレベルのところまで行っている子供たちを対象にしているのかなという気がしないでもないわけです。ただ、今言ったことを、教育上の例外措置のところで書くかどうかというのはまた別の問題なんで、これはこの辺でいいのかなという気がするんですけれども、思いとしてはそんなことがあるんで、一次答申との全体を見て、そういうふうになっているかどうか、もう一度よく見てみたいと思っています。

○  一人一人の子供の能力・適性に応じた教育と言いながら、させる側というか、こちらから何か仕組んで、あんたの特性はこうなんだから、こっちへ行きなさいよというようなことが強く感じられるので、個を大切にするということであれば、相手に自分で「こうするんだ」という意識を持たせるような方策があってもいいんじゃないかということ。子供の個性を尊重するということは書いてあるが、意志を十分に尊重するようなことがここにあってもいいような気がしてなりません。これから見ると、こういうふうになると、こうなっていくんだ、こうなっていくんだというのではなくて、自分で本当にそれを選んでいく。例えば、そういう能力があっても、別にその道に行かなくてもいいんだということもあるわけですので、稀有な才能を持っているから、そっちのほうに進むんだというようなことがあまりにも強過ぎると、本人の意志とはまた別のものになってくるような気がしてなりません。そういう才能を持っていても、その面を全然別の分野に生かすこともできるんだということもあるのではないかと思います。
  次に、年齢についてということで、同質性を求めている現代の日本の子供たちから考えてみますと、はっきりと自分で、違うんだということがわかるような方法をとってやることが、一番手っ取り早いのではないかと私は考えます。例えば、いろんな論議を進めていますけども、大学入試においても、本当に自分で入りたければ入る。そこで何年苦労してもいいんだというようなことがあれば、年齢の問題は全く関係なく過ごされてしまうんではないか。幾つで入ったとしても、それに追いついていかなければ、そこではゆっくり進まざるを得なくなってくるし、幾つで入ってもそれをクリアしていけば、どんどん早くいってしまうということになるんではないか。それも自分で選択ができるという形であれば、そしてその責任も自分でとるということであれば、もっと大きな風穴になるんではないかと思います。

○  この「教育上の例外措置」の案は大変よく書けてまして、感心して拝見させていただきました。大賛成です。
  国際競争といいましょうか、国際社会の中での学問の在り方という部分で、その辺を強調した書き方をもうちょっとしたほうがいいんじゃないかと思います。形式的な平等を重視するということが書かれていますけれども、これは我が国の発達段階において、必要があってそうやってきたわけであって、それは非常に意味があった形式的平等主義だったわけで、それがために、今日、我々の今の状態があるわけですから。ただ、国際的な状況の中では、それじゃあだめなんだということがはっきりして、方針を変えようという話ですから、この辺をちょっとお書きになっておかないといけないんじゃないかという気が1点いたしました。
  それから、やり方としては教師の意識の変革以外にないんじゃないかと思っています。つまり、教師が、できる子はいい子で、できない子は悪い子だというふうに思うからいけないんであって、それは間違っているんだよと。国際的には、そんな考え方でやったら、日本人はそんなに増えないんだし、あとは減る一方なんですから、一人一人育てるということを考えると、学校の勉強ができる程度で、いいなんて思われるのは大間違いなんで。つまり、相対評価を絶対評価に切りかえていくというのは、まさにそういう流れなんですから、ぜひひとつその辺のことも書き込んだ上で、この方向で進めていただければ間違いないだろう。できれば数学や物理だけではなくて、どんどんこういう方向が広がっていくということを示唆されたほうがいいんじゃないかと思います。

○  素晴らしい内容と感じております。学校間の接続、大学入試、大学の入学年齢の問題、それから、稀有の才能をどう見分けるのか、それはどの分野でどのように定義するのかなど、いづれも開連して大変重要で、御議論も出尽くした感じも致します。しかし、根本に高校の在り方の変革推進が、現在謙論されているこれら問題点の解決に不可欠とも考えられます。私には具体的体験がありませんので、高校教育の実態をよく知りませんが、申し上げる見解が当たっておりましたら、高校教育の改善推進について、答申に書き加えていただきたいと存じます。
  高校の単粒制の実態が単位制の良さを充分に実現していないのではないか。朝登校したら生徒はホームルーム(HR)から、各人が登録している教科目・教室へ移って授業を受けるなどの学習に入る訳で、充分の自由度があれば外国語、倫理、数学、歴史・・・という具合に分かれて勉強することになります。このことは同じHRに所属している生徒達は.どの時間を取っても、数名あるいは10名以下に分散する筈です。しかし、本当の実態は違うのではないか。つまり、大きく組替えと分散が起こるのではなく、殆どの生徒がHR単位で学科目を勉強しているのが現状ではないのかということです。この場合は単位制ではなく、クラス毎に決った時間割で授業が行われている、つまりクラス単位で固定した学習になっていることになります。外国との比較を言う必要はないのですが、もしそうだとすれば理想から随分離れている。本来の単位制は生徒の自由度を大きく認めるものですから、単位制が徹底しますと、先生が考えているある水準にまで到達していないのではないかという疑間もおこりますし、逆に生徒側からは、節度を保ち乍ら新しい雰囲気で自分の好きな勉強ができる楽しい毎日となります。このようにしますと自然に個人の学習進度の差も明白となり、個性  ―これは、個人の能力、才能、性格、気質のことですが―  も教師が掴み易くなります。結果的には自然に能力別編成にもなる訳ですし、稀有の才能も具体的に把握し易くなります。具体的には生徒の志望の動き、教員数、教室数など対応に経済間題もからんで実施には困難も生じます。
  実はこのような学習形態の徹底は大学進学者にとっても、勿論大切なことです。しかし、半数、つまり50%の進学しない生徒にとってはもっと重要なことです。これにより生き甲斐を感じ、生きる力を育み、能力適性に応じた教育の在り方を確立するための高校版としても重要と考えます。大学進学の生徒、各種の分野での稀有の才能  ―これは、広い意味での生活基盤も含めたすべての分野、狭い意味での芸術、スポーツ、科学や技術に限定しないが、特殊の基礎科学分野での例外的取扱いの強調や推進は時機に応じてあった方が良いのですが―  を伸ばしてゆくための教育、加えて、人間としての尊厳や倫理感を涵養する重要な仕上げの場ともなる筈ですし、生涯教育の原点ともなると考えます。
  高校に在学する生徒が同年齢のほぼ100%に達する現状に鑑み、困難もあるかとは存じますが、本来の単位制を徹底できる方針を高校教育で強力に推進していただきたいと存じます。できれば全国的視野で実験高校を設置することもあって良いのではないか。これで一挙に懸案が解決するとは思いません。しかし、どの方法よりも根本的な対応ではないでしょうか。
  現行教育の問題点を着実に解決して、新しい方向を打ち出してゆくためには、少し先を見据えた方法論の実践が大切と思いまして提案させていただく次第です。

○  一人一人の適性・能力を伸ばすという論理の上に乗っかるとすると、そもそも年齢と学年を結びつけるという考え方は矛盾しているわけですね。ちょっと迷っていらっしゃると思うんですけども、それを一応書いて、そして、「今できることは」という考え方で、17歳からというのを書いていったほうがいいんじゃないか。そうでないと、この論理の上に、稀有な才能に特別な措置をするということが乗っかっているわけですね。だから、それを書かないと、何か筋が通らないというか。
  もう1点ありまして、芸術とスポーツはほかのところでできるからという言い方は、やっぱり、はてなという感じなんですね。メソッドの確立した教育機関のない点が舞台芸術分野では最大の課題なのですが・・・。

○  簡単に我々の能力は知性と感性というものがあるとしますと、大学、学校は知性、アカデミックなタレントを重視するわけです。
  確かに楽しくするということは絶対に必要で、それができればそれがエフェクティブな教育ということになる。楽しくするということは、感性のようなものを刺激されると、我々は大変楽しくなるんじゃないか。知性を刺激して楽しくさすということは、できないことはないように思うんですが、若干難しいように思われる。
  もう一つ、これはちょっと違ったことなんですが、数学、物理ということで、これは決して数学者なり物理学者を育てるというんじゃなしに、数学、物理をやっている人たちは、いろんな分野に貢献できるんで、それをもし閉鎖してしまうような、つまり、おまえは数学ができるから、数学者になれという道を大学で選ばせるんだったら、これはその人の将来をかえって束縛することになるように思うんです。これは確かに大学の問題で、大学の中にそれを受け入れるようなものをどうしてもつくらないと、これをエフェクティブには運用できないように思うんです。

○  本日の話題は、一つは遅れた子供と進んだ子供という問題、もう一つはある領域に非常に優れている子供と総合点で優れているという子供の問題と、二つあると思うんです。
  私は人文科学をやっている者として、ある領域に特異な才能の人というのは、やはり数学、物理におられるわけですが、人文科学はあまりそういう人は評価してないわけで、総合的に優れた人でないと、学問は発展しないような気がする。現在、学問が非常に専門化して、総合的視野のない、個別専門の非常に優れた人文社会科学というのが出てくるところが問題だという御発言が前にありました。また第1小委員会の入学試験の改善のところとの整合性になるわけですが、総合的に優れた人間と、総合的に入試の点を高く取る人間が一致しているかどうかというところが、入学試験の改善の問題であると思います。ここでは「受験エリート」という言葉が出ているのですが、受験エリートというのは、点を片っ端から取っていく人。これが本当に優れているのかという問題があるとは思いますけれども、それは別にして総合的に優れている人間というのはここではあまり認められてなくて、みんな受験エリートの中に分類されているので、私は、1科目においては特異な才能はないけれども、広い視野を持った総合的に優れた人間というのは非常に大事だと思います。
  ですから、ここの「受験エリート」というのを読みますと、何か総合的に優れている人間は受験エリートになって、いんちきなという印象を持たれると、私はちょっと不満なことがあるので、この辺のところをちょっとお考えいただきたいと思います。

○  本日の討議の99%までが高等学校以上の話題でして、義務教育関係のものは残りの1%ぐらい。特に一番最後の部分、「飛び級について」というところで、いわば関係してきて、こういう問題に対する中教審の、この委員会の見解がここに出てきているわけです。最後の3行で、もう少し書き込んでいただけないかなという気がするんです。要するにここのところで、こういう例を受けて、教育に対してこういうふうに考えるという見解が示される。
  「習熟の程度に応じた指導などにより、個に応じた指導を行っていく」、すなわち、習熟の程度に応じた指導で代表される個に応じた指導。これは教育の方法論ですよね。ですから、方法論でとめないで、これを通して理念論まで展開していただきたい。すなわち、ここで言うと、個性を生かした教育を特にこれから重視してやっていく教育観というんですか、これは第一次答申を受け継ぐものですから、そこまで発展して、「これを受けて、小・中学校はしっかり教育をやってください」というところに展開をしていただきたい。何となく義務教育では、「あ、ここは関係ないや」で受けとめてしまっているような風潮がちょっと感じられますので、この辺をお願いしたいと思います。

○  芸術に関して、音楽に関しては特に以前発言しましたので、重複になりますが。音楽家の方にリサーチしたお話だったんですが、先程の有名なバイオリニストの場合は、日本で開花できなかった残念な例というのではなくて、日本で生まれても、音楽の世界ではこのように世界で活躍できる道があるんだという、大変すばらしい例なのではないかと思います。そのような人が日本に生まれたために、才能が開花できなかったという状況なら大変問題だと思うんです。音楽の場合は、三、四歳ぐらいが勝負で、しかも、ほとんど今、音楽というと西洋音楽を対象にしていますので、いきなり世界が土俵なので、あまり日本だ、世界だという区別は、音楽の世界の方は持っておられないような、そんな印象を持ちました。

○  数学や物理ができる子が、医学部や工学部に行けるのはいかがなものかという先程の私の意見は「当面」という意味で、将来ともという意味ではないことを念のため申し上げておきます。  それから、具体的なことですが、「専門分野のみに偏らないバランスの取れた履修などその者の全人格的」云々というのがございます。せっかく稀有な才能を伸ばそうというのに、いろんなのを履修させるというのはどうもおかしいんで、例えば幅広い読書活動であるとか、クラブ活動の奨励とか、そういうのは結構ですが、履修をさせるというのは、いかがなものでしょうか。また、高等学校の3分の1がなくなってしまうのではなく、小学校から計算すると12分の1なんですね。それによって大きな影響を受けるとも思えませんし、建前は別として、現実を見れば、高校の3年生というのは、むしろこういう制度がなければ、人格形成を阻害するような実態にあるわけで、それがなければむしろ幅広く読書活動やら部活動などをやって、かえって人格的に成長するんじゃないかというくらい、これは極論ですけれども、そう思うわけです。

○  もし人間としてのバランスの問題について言うならば、生涯学習みたいなところへ結びつければいいのではないでしょうか。
  それでは、今後の日程及び次回の予定について御案内申し上げます。次回の第2小委員会は3月24日、月曜日でございます。前回申し上げましたとおり、「高齢社会に対応した教育の在り方」について御議論いただくことになります。次回も私のほうで「検討課題のメモ」を準備させていただいて、これをもとに御議論をお願いするということにいたします。
  それから、15期と16期の関係が非常に複雑になっておりまして、15期の任期は、正確に言うと4月9日となっています。ということで、「教育上の例外措置」については、15期としては本日が最後の審議になることになりますが、引き続き第16期において、細部について締めの審議をする予定です。
  次回は、先ほど申し上げましたように、3月24日、月曜日、13時から15時まで。35階でございますので、よろしくお願いいたします。
  本日はどうもありがとうございました。

(文部省大臣官房政策課)
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