審議会情報へ

中央教育審議会

 1998/2 議事録 
幼児期からの心の教育に関する小委員会 (第13回)議事録 

       幼児期からの心の教育に関する小委員会(第13回)

    議    事    録

    平成10年2月17日(火)  13:00〜15:00
    霞が関東京會舘  35階    ゴールドスタールーム


    1.開    会
    2.議    題
        幼児期からの心の教育の在り方について
    3.閉    会

    出  席  者
委員 専門委員 事務局
有馬会長 明石専門委員 長谷川生涯学習局長
沖原委員 油井専門委員 辻村初等中等教育局長
河合委員 猪股専門委員 河村中学校課長
河野委員 佐々木(光)専門委員 富岡総務審議官
俵   委員 里中専門委員 杉浦政策課長
根本委員 佐保田専門委員 その他関係官
   平山専門委員   
   牟田専門委員   
   山折専門委員   


○  それでは、ただいまから、中央教育審議会の幼児期からの心の教育に関する小委員会、第13回を開催します。本日は、御多忙の中、本会合に御出席いただきまして、まことにありがとうございました。
  本日は、座長作成の「骨子案」について、引き続き御意見をいただくとともに、中間報告の文案についての審議に入っていきたいと考えています。
  なお、本日お配りしている「骨子案」は、前回お配りしたものと同様のものとなっていますが、「骨子案」についていただきました御意見は、適宜文案の中に反映するようにしておりますので、文案の審議の中で不十分な点がありましたら御指摘いただきたいと思います。
  それでは、これより討議に入りたいと思います。

○  大変に立派なまとめになっていると思いまして、私自身、身につまされる思いで、果たして自分が猛烈社員としてやってきて、今日まできた。そういう意味で、私、一つお願いしたいのは、これだけ立派なものをまとめられるんですから、日本人全部に読ませるというぐらいなPRの方法をぜひお考えいただけないか。これは何とか白書というような政府の出版物とは違う、もう少し編集を工夫し、日本人が全部読むというぐらいの思いでやっていただきたいということが一つ。
  それから、教育改革というのは言うならば教育社会改革で、総理の言われる6大改革の中でも一番大事なことだということを、繰り返し申し上げてきております。国会の施政方針演説で、経済、外交と同時に、教育改革について総理が掲げられたことは大変に結構なことで、この審議会の検討事項もまことに時宜を得たものと思いますが、できれば内閣に首相直轄の教育問題検討会議のようなものを御検討いただいて、これだけマグニチュードの大きいものですから、国民的なあらゆるバックアップのもとに進めていくというふうにお考えいただいたらよろしいのではないかということが第1点でございます。
  第2番目は、大人の責任についてです。幼稚園、小学校、中学、高校、大学と至り、その後会社に入りまして、会社に40年勤めると大学を10回卒業することになるわけです。むしろ今度は逆の発想といいますか、幼児期から始まって大学に至る方向と、もう一つは社会から始まって幼児に至る方向と、恐らくそういう双方向があると思うんです。基礎資料の中にもそれはいろいろと入れておりますが、私は自分たちの反省を込めて、本当は大人の方向から発信してあげなくちゃいけない。
  そういう観点から見ますと、二つほど申し上げたいのは、最近、市場万能主義のようなことを言われておりますけれども、これ自体が間違っているのではないか。結局、市場主義というのは欲望と欲望の交換によって成り立つものでございまして、これを推し進めていけば欲望が正義だという主張になってしまうわけです。それが子どもたちにもいろんな影響を与えてくるのではないか。したがって、特に強調したいのは、市場が円滑に動くためには道徳が絶対に必要だ。それによって秩序が保たれる。市場と道徳と秩序という三つのものが三位一体化して、初めて経済が成り立っていくということを経済人は肝に銘じて自省しなければなりません。先生方もいらっしゃいますけれども、アダム・スミスも本当は『道徳情操論』の哲学者であるわけでありますから、その辺を我々は自省していく必要がある。
  同時に、前にも申し上げましたけれども、学歴社会をもたらしてしまった企業側の反省は大いにやらなくてはいけないわけであって、最近、学歴社会についても、出身校を問わないような採用とかも徹底してまいりましたけれども、学歴社会を撃つということについて、社会の側が十分考えてみる必要があるのではないか。市場における人間疎外の問題や、情報通信社会になって虚構の世界に入り込んでいく。バーチャルリアリティーの世界に入り込むことによって、人間が疎外されていく。これから大きな市場主義と情報通信革命のもたらすマイナスの影の部分に対して、一体どうチャレンジしていくのかという問題意識を、常に持っていかなければならんと思っております。
  40年間というのは、大学を10回卒業することになりますので、企業も社員の人間形成に非常な責任を持っておると私自身は痛感しております。私の会社には「人間塾」という塾をつくりまして、そこで月に1回ずつ人をお呼びしたり、あるいはみんなで討議をするということで、そういう社会的な枠組みの中で、経済人が自省し努力していく。その背中を見て子どもが育っていくということについて、子どもだけにいい影響があるということでは全くないわけで、その点を考えなければならないことではないかと思っています。
  最後に、中高一貫教育というのを一つの選択肢として出しておりますが、私はこれは大変に結構なことだと思うわけでありまして、試験が多過ぎるというのは好ましいことではない。思春期、変化の時代に一貫教育をしていくというこの制度を、もっと広めたらいかがかと思います。
  もう一つ、学校を地域社会にもっと開放できないのか。つまり、アスレチッククラブとか、カルチャーセンターとか、ああいうところにお金を出してみんな行きますけれども、これについて、地域社会の自治という観点で、もっと学校の設備を地域社会に開放してあげる。そういうふうにすることによって、子どもと家庭と学校が一つの循環するような場になるのではないか。最近は学校も相当立派な施設を持っておられますから、何も先生がそれに参画することもないわけで、何かそういったようなものもお考えいただけないか、こんなことでございます。

○  私は一つ一つは実によく分析しておられると思っております。ただ、これをどういう配置にしたり並べかえたりということがあれば、より効果的であるか、インパクトがあるかということで、少し工夫をしたほうがいいのではないかと思いました。
  そして、これが家庭に踏み込むということでございます。家庭への提言ということであるならば、これは第二次答申でかなり触れましたけれども、学歴偏重の問題をやっぱりぶつけるべきではないかという気がしております。かなり強烈に家庭に向けてぶつけて、親の意識改革がそこで行われないと、いいことみたいになってしまって終わってしまいかねないと思うんです。ですから、その辺のところを工夫していただけないかなと思いました。
  例えば、これは私の持論ですけれども、「人の迷惑にならないように」という教育が、ちょっと間違っていたと思うんです。というのは、そう言うと、子どもたちは必ず「迷惑かけてないよ」と言うんです。だけど、かけてるんですよね。ただ、迷惑をかけないということで生きようとすると、実に消極的な生き方といいますか、積極的な生き方につながっていかない。ですから、我々の親たちが言いました「他人(ひと)様のお役に立つような人間になってね」という言い方のほうがずっと正解だったような気がするんです。それが国のお役に立つとか、そういうことに重なることによって、我々は避けてきてしまったような気がいたします。そういう意味で、「他人(ひと)のお役に立つ」という発想のほうが、「迷惑をかけない」という発想よりも正解であるということを申し上げたいわけでございます。
  それから、文明の問題ですね。その「功罪」の「罪」の部分をしっかりと柱立てして書くべきではないかと私は思っております。今、スポーツで世の中は感動の嵐でありますけれども、スポーツにしか感動できないのかと私は思うんです。いろんな感動がもっと満ちあふれていいはずなのに、スポーツには感動するけれども、ほかのことには感動しない子どもたちがどうも増えちゃったような気がしてならないわけです。それはスポーツにはプロセスがあり、スランプや挫折があり、それをクリアできたときに得られる感動でございますけれども、手間や時間をカットしていくような方向の世の中で、そこに育っている子どもたちはそういうことを味わえないまま大きくなってしまう可能性があるので、今、文明というものは「功罪」の「罪」のほうを持っているんだということをしっかり基本に書いたほうがいいのではないかという気がしております。
  そして、スポーツというのは実に大きいということですよね。ただ、今までスポーツに関して審議会では積極的ではなかったような気がいたしますけれども、自然体験、それからボランティア体験  ―これは言うならば社会体験でありますが、これらと並べてスポーツ体験も特記するべきです。今まで青少年が徐々に病んできている部分があるわけですけれども、この「徐々に」で済ませられたのは、スポーツというものが一つあったから、スポーツを通して主張する人たちがいて、そういう人たちが一つの抑制力になってきている部分が大きいのではないかという気が私はいたしますので、その辺のところもひとつよろしくお願いします。

○  大変具体的でわかりやすくて、本当にこれはすべての家庭で大いに参考になる面があると思いました。
  一つ気になりましたのは、家庭の在り方を問い直そうということですが、はじめのほうは夫婦二人と子どもが一人か二人ぐらいの、非常に典型的なモデルの中で、こういうことが参考になるという形で進んできていて、私はそれを聞いている間じゅう、お父さんしかいない子とか、お母さんしかいない子、それからおじいちゃん、おばあちゃんに育てられている子はどうなるのかなとちょっと不安に思っていて、最後に「ひとり親家庭」がある。これは大変大切なことで、この欄を設けられた意味は大きいと思うんです。でも、この分量ではちょっとフォローが足りないような気がします。あまりに夫婦二人いるということが前提のモデルのことばかりが書かれていますが、ひとり親家庭に関しても夫婦二人のモデルと同様、より具体的で、より何かわかりやすい工夫とか参考になる話などが充実したら、さらにいいのではないかという感想を持ちました。

○  この報告書の基調は、親自身が自律性があって、自分たちの力で家庭づくりをきちんとやっていけるという前提が流れているような気がします。それはそれで大変結構なことですが、非常に失礼ですけれども、必ずしもそういうことがきちっとできていないと思われるような親御さんもいないわけではないですね。そこら辺のフォローは、書きにくいでしょうけれども、どのようにしてカバーしていくのかという点が問題の一つとしてあります。
  そのことと関連して二つ目は、相互に子育てについて学び合っていく姿勢というか、他のものを学んで新しいいいものをほかから取り入れて、自分の家庭づくりをしていくという姿勢が必要なのではないかという気がするわけです。各家庭がそれぞれ孤立しないで、開かれた家庭づくりを行ってほしいと思います。
  というのは、親は一生懸命やっているつもりでも、第三者から見ると間違った子育てをしているかもしれない。そういうことを確かめ合っていく、あるいは学んでいくという視点が必要なのではないかということです。自分たちも不完全で、子どもを育てながら親も成長していく、それから他の親からも学んで成長していくという方向性もつけておいたほうがよいと思いますので、御検討いただければ幸いです。

○  注文が二つほどありまして、一つは、これをどういう形で世間にアピールすればよいかです。これを読む方は国民全体で1割ぐらいかと思います。できたらせめて7割ぐらいの方が読めるかたちにしてほしい。そのためには、このスタイルを基本的に保ちながら、もっとわかりやすくする。
  これは調査レポート、研究レポートとしては、非常にわかりやすい論理構成になっております。しかし普通の方には、そういう細かな事実は知りたいけれども、何が問題で、どうしたらいいのかということをまず前に持ってきたほうがいいと思います。そして少し余裕のある方にはさらに根拠になるものを読んでほしいというのが1点です。
  もう1点は、例えば家庭の在り方を問い直そうということですが、それはプラス志向なんです。しかし、それより細かい部分になると、してはいけないという否定的な文言がちょっと出てくるんでございます。できましたら家庭の場合も、否定的な文言はやめていって、「こういうことができるんですよ」というかたちに変えてほしい。日本の学校の校則は「何々してはいけない」「持ってきてはいけない」というネガティブな校則が多くて、アメリカの校則は「こういうことが権利であります」というプラス的な校則があるんですけれども、家庭の中でも否定的な小見出しをやめて、肯定的な小見出しにしたらどうですかということが一つの注文です。
  もう一つは、今の子どもたちは元気がない。元気のないところの一番基礎・基本は夢を持っていないことが考えられます。家庭で育てることは、いろんな基本的なルールもやってほしいんだけれども、夢を育てる自信を与えるのが家庭教育の基本であると思います。私個人はそれを「夢育(むいく)」と言っています。「徳育」「体育「知育」と同じように、夢を育てる「夢育」という言葉を提案しているんですけれども、学校社会で勉強が入ってくると、なかなか夢は描けません。せめて家庭と地域社会で夢の基礎をつくっていくことが大切かと思います。

○  大変な内容でありまして、多くの委員が自分の思っていたことと言っていたことがそのとおりここに書いてあると錯覚したのではないかと思う部分が多いのではないかと思います。それだけ当然といえば当然というあたりまえの内容です。したがって、世間は「ああ、新味がない」なんて言う人がいるかもしれませんが、だがしかし、こういうことを大勢の人たちが一つの共通認識として持ち、それから系統的にペーパーにしたことは今までなかったようにも思いますので、大変な意味があると思いますので、この点で私は感激しております。
  それから、表現の方法は私はこれで十分ではないかと思うような気もするんですが、もっとわかりやすくするためには、これをいじるというよりも、漫画読本みたいなもので、保健所や小学校や父兄に配れるような別冊で、簡単なインパクトのあるものをつくればいいと思います。本物は読まないで、そっちばかり読まれていく可能性が今では十分あります。それは保健所、幼・小・中学ぐらいまでは非常に役に立つのではないかと思います。
  それから、中身についてですが、家庭が心の安全基地であるということは、特に夫婦仲良く、家族仲良くということでもあるので、幼稚園、つまり子どもが小さい家の親というのは比較的素直な人が多いんです。中学生、高校生になると若干変わってきますが、幼稚園とか、子どもを持ちたての父母は比較的素直でありますので、やはり保健所、幼・保、小学校等で大いに呼びかけられるようにしていただきたい。そのためにも副読本があるとなおいい。
  それから、子どもの個性を大切にしていくということと、それから平均値や相対的な順位にとらわれることをやめようということですが、例えば高校入試や大学入試に失敗すると、現実には褒められないわけです。したがって、そういうところで失敗しても人生の勝負に負けたのではないのだということを、はっきりここで理解させるような1行を入れたらどうでしょうか。そうしないと、どうしてもここは受験とのかかわりも出てまいりますので、非常に難しい問題があろうかと思います。片一方では個性重視と言いながら、我が子には受験成功を求めていく親が相変わらず多いわけですので、大学へ行ってもいいし、行かなくても大丈夫だということを、みんなにわかるようにしてあげる文章が必要かなと思ったわけでございます。
  それから、家庭内の年中行事や催事を見直そうということですが、これは私もいつも言っているわけで、「家庭で我が家の記念日なんかつくったら」なんて言っているのですけれども、地元で行われる例えば神社のお祭り、それからお寺のお会式だとか、いろんなものがあるわけです。昔は子どもは喜んで、何宗であろうと参加したわけです。花祭にも参加したし、教会のクリスマスにも行きましたし、神社にも行きました。そういうときに、今、学校で授業が行われているので、これは教育課程審議会との関係でもあるわけですけれども、そういうものが地元であるときには学校を半日にするとか、そういうことを大いに各学校が物理的に自由にできるようにさせてあげなければいけないのかなと、そのように思いました。

○  皆さんがおっしゃるように、本当にすばらしい、感動さえ覚えるような表現がところどころありまして、つまり自信を持ってこうしようと。せっぱ詰まった雰囲気もないではないんですけれども、「すべきだ」とか、「したほうがいい」とか、「しよう」という積極的な言葉が随所に見られて感動いたしました。
  これまで多くの委員が発言なさったこととちょっと重複してしまうんですけれども、親がしっかりすればすべて大丈夫かというとそうではないわけで、何人かの委員がおっしゃったように、自分さえよければいい、自分の子どもさえよければいいどころか、自分の子どものことさえ考えることのできない親もたくさんいるわけですね。そして、子どもにはいろいろなことを求めておきながら、人に迷惑をかけなければ何をしてもいいというのは、親たちもこういう人がいるわけで、例えば自分の体を大切にしない、つまり売春行為などは自分の勝手だという子どもたちが日本に多いというわけですが、実はその相手をする大人たちも多いということなんですね。そういうおじさんたち、最近はおばさんたちもいるかもしれませんけれども、家に帰って親の顔をしているというこの恥じらいのなさという、一種の倫理観の欠如。これは日本人の宗教観が薄いということもあるんでしょうけれども、大人の問題でもあるということが希薄な気がするんです。そして、親のいない子ども、祖父母のいない子ども、親が全くこういうことに反応を示してくれない子どものためにも、親と子の関係について盛り込むばかりではなくて、大人たちと子どもとの関係についても随所に入れていっていただければ、もっと完璧なものになるのではないかと思いました。
  つまり、たとえ子どもがいなくても、社会の構成員としての責任が大人にはあるわけで、これからの社会を構成していく子どもたちの先輩であるという責任感と使命感を持って、次世代の子どもたちとつき合っていってほしい。何らかの形で力をかしてほしい。そういう意味で、子どもがいようがいまいが、大人の役割という中に、自分の子でなくても果たさなければいけないことはいっぱいあるわけですね。また、子どもたちから見ましても、自分の親とか、家族、あるいは自分が属している学校や地域だけに期待するのではなくて、社会全体に期待していいんだよという、広い範囲で子どもたちを受け入れるところがあるという雰囲気を伝えるためにも、親と子というところにプラス、「地域」とか、「社会全体の大人」「国全体」というのが入ると、心細い子どもたちにとってはもっと夢のあるペーパーになるのではないかと思います。
  細かいことですが、親の姿はすべて子どもに反映するかというと、そうでもなくて、親が反面教師になる場合も結構あるわけですね。子どもというのは結構小さいときからそれなりの自分の価値観がありまして、親の姿を見て、〈こういう人間にだけはなりたくない〉と思って一生懸命考える子もいるわけですので、〈親の姿〉=〈子どもの姿〉とあまり決めつるのはどうかなと。ただ、子どもにある種のイメージとか、生き方のパターンを示すという意味で責任がある。
  特に感じましたのが、親の差別的な意識は、その言動を通じて、子どもの心の中に再生産されてしまうということですが、そのように決めつけるのは、どうかなと。ひどいことを言う親を持った子どもは、〈これはないんじゃないか〉と思って育つ場合もありまして。だから、こう決めてしまうと、「あの人の子どもだから、おまえはこうだろう」みたいなのにつながらないかなと、ちょっと心配になりました。だから、「……再生産されてしまう場合が多い」とか、細かい言い方ですが、そのほうがいいかなと思いました。

○  先程から出ていることですが、もっと見やすいものにするために、小見出しの文が非常に長いので、もう少し端的に短くすることはできないだろうか。例えば、「相互に思いやりのある明るい円満な家庭をつくろうー子どもたちが真にそれを望んでいる」は、「明るい円満な家庭をつくろう」だけでいいのではないか。読み手を引きつける工夫が必要だと思います。
  「まとめ」は全体としては、外来語をできるだけ少なくしてわかりやすく述べられていると思います。ちょっと気になったことは、「自己同一性」という難しい言葉が使用されていますが、一般の親が理解しやすいように注を付けていただくと良いのではないかと思いました。
  もう1点は、問題を持つ子どもを抱えている家庭や親御さんに対して、「ここに書かれているようなことに心がければ、今からでも、大丈夫、子どもを立派に成長させることができますよ。」という激励の言葉をどこかに書き入れることはできないでしょうか。
  最後に、「遊びの重要性を再認識しよう」の小見出しの「知育に偏った早期教育は、心の成長を歪めることに気づこう」は大変重要です。子どもの学習や子育てを外部産業に依存してしまう傾向があります。特に、若いお母さん方は、学習塾や稽古塾の執拗な勧誘合戦に遭遇し、知育面での早期教育が必要ではないのかという気分にさせられてしまいます。我が家も子どもが小学校のころに、随分いろんな電話や自宅への勧誘を受けました。家庭で本来やるべきことを失い、思いっきり遊ばせる時期に子どもを塾に通わせたり、高い学習材を押しつけてしまったりします。このような現状についても、触れていただけたらありがたいと思います。

○  家庭というのは必ずしもいつもここに書いてあるような健康な子育てを十分にできる状況にあるということにはならないと思うんです。時には親あるいは家族が病気になったり、失職したり、経済的に困ったり、いろいろ心理的な葛藤も抱えるような状態もあると思うんです。ですから、問題なのは、そういうときに家族のメンバーが、特に夫婦が一致してそういう事態を乗り切っていくことが、子どもの発達なり成長にいい意味をもたらすのではないかと思うわけです。
  家庭あるいは家庭が困ったときに何とか一致して頑張りを発揮してもらいたいという趣旨を述べるのはどうでしょうか。

○  これは言ったら一種の理想像が書いてあるわけでして、自分のことを考えると、読んでいるうちに自分は駄目だと思うようなところもあるんです。ひとり親のこととか、親のない話がいろいろ出てきましたですね。だから、これは一つの理想で、これになるようにみんなで努力しよう。それはいろいろ大変なときもあるけれども、というふうな前文を書けばいいのではないかという感じがしていますけれども。うまくいかないときはだれだってあるわけですからね。ただ、こういうことを知らない、あるいは、忘れている人がいるというか、やろうとしない人がいる。そのためにヒントを与えているわけで、というふうに書き方を持っていけばいいのではないかと思います。
  ここは家庭のこととして書いてあるわけですから、「父」とか、「母」というのも、言うならば「父親役」というか、「母親役」というふうに読みかえたらわかりやすいと思うんです。おじいさんがされてもいいし、おじさんがやられてもいいし、ひとり親で両方やる方もおられるしというので。だから、今皆さんがおっしゃったようなニュアンスがうまく入るような文章をどこかに入れられるかどうかということになると思います。

○  それでは、時間の関係で、討議はここまでとさせていただきます。
  今後の審議のスケジュールについては、次回は2月27日、子どもの心に影響を与える有害情報について、放送、ビデオ、出版の各関係者からヒアリングを行い、その後、今回に引き続き中間報告の文案について討議を行う予定です。
  それでは、これで本日の会議は終了いたします。
  次回は、2月27日、金曜日、13時から、霞が関東京會舘・ロイヤルルーム、34階でございます。
  どうもありがとうございました。 

(大臣官房政策課)

ページの先頭へ