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中央教育審議会

1998/1
幼児期からの心の教育に関する小委員会 (第10回)議事録 

       幼児期からの心の教育に関する小委員会(第10回)

    議    事    録

    平成10年1月20日(火)    13:00〜15:00
    虎ノ門パストラル  新館1階  鳳凰西の間


    1.開    会
    2.議    題
        幼児期からの心の教育の在り方について
    3.閉    会


    出  席  者


委員 専門委員 事務局
江崎委員 青木専門委員 長谷川生涯学習局長
河合委員 明石専門委員 近藤審議官(初中教育局担当)
河野委員 油井専門委員 御手洗教育助成局長
高木委員 安藤専門委員 北村審議官(体育局担当)
俵   委員 猪股専門委員 富岡総務審議官
衣笠専門委員 杉浦政策課長
佐野専門委員 その他関係官
佐保田専門委員
シェパード専門委員
末吉専門委員
那須原専門委員
平山専門委員
牟田専門委員
山折専門委員
渡邊専門委員
和田専門委員


○  それでは、ただいまから中央教育審議会の幼児期からの心の教育に関する小委員会、第10回会議を開催します。本日は、御多忙な中、本会合に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。
  本日の討議は、「論点整理メモ」に基づいて討議を行いたいと思います。
  これから討論を行います。これまで出されていなかった御意見も含めまして、自由に御意見をいただければと思います。

○  「論点整理」の各項目についてでありますが、一つ一つはまことにもっともな御意見ばかりだろうと思いますけれども、とにかくものすごい情報量ですね。これでは全体にわたって、重点的とは言いましてもなかなか議論できないだろうと思います。よく見ると、削ってもいい論題がかなりあるという気がいたします。集中的で、濃密な議論を展開するためには、重要課題を二、三ページにまとめるぐらいのほうがいい。その方が本質的な議論ができると思います。まず最初に、項目を削る作業からやる必要があるような気がいたします。
  それに連関しての問題でありますけれども、これは「幼児期からの心の教育の在り方」についてというテーマの会合ですね。そういたしますと、このテーマに沿ったものと、必ずしも直接沿わないテーマがかなり入っていると思います。そういうものは、さしあたりこの委員会の討議からは外していくということでもやらないと、大変ではないかという気がいたします。

○  今の発言に関係しているんですけれども、割に本質的なことと具体的なことと、これをどういうふうに皆さんで論議していったらいいんだろうかということを考えるんです。恐らく答申の前段あたりでは、かなり本質的なことが述べられたほうがいいと思いますが、私も再三提言しておりますけれども、今の文明の問題ですね。文明の問題というところが根っこにないと、我々、将来を先見することがなかなか容易ではないと思います。そのあたりを皆さんはどのように考えておられるのか。そのあたりの論議をしていただけたらいいなと思っております。
  私は、文明という問題を考えていくときに、まず身体的な影響といいますか、これは確実に目に見えてきているわけで、本によると、有害物質とか、そのほかの合成化学物質によって、身体的にかなりな影響が出てきていて、精子が50年前の半分になったということがわかってきているわけでございます。そういう文明による身体的な影響、それから精神的な影響の問題が、我々の考える分野だと私は思っております。文明が利便性を求めて、ずうっと走ってきた中で、それによって人間が本来持っている能力が退化していきつつあるという現実ですね。それに対して我々はどういう対応をするべきであるかというあたりが、最も本質的な問題ではないかという気がいたします。そういう面での論議をしていただきたいという思いでございます。

○  第一次答申では、いわゆる「生きる力」の中で、「自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など」というふうに、心にかかわる部分の重要性を指摘しているわけです。それに基づいて、今、教育課程審議会ではそれを取り入れた学校教育の改善ということで審議を進めているわけです。とすると、この委員会で「心の教育の在り方」を誰に提言するのか。学校教育ということであれば、教育課程審議会で具体的に、例えば道徳教育の進め方等の話は進めているわけです。誰を対象としてこの委員会で提言するのかということをお伺いしたいんです。

◇事務局   整理していただきまして、答申なりの形に持っていっていただくわけでございますが、その内容によりますけれども、例えばその内容が、国民全体、あるいは社会とか、家庭とかに呼びかけるという内容で構成していただきますと、そういう提言の仕方でしていただく方法も一つございます。
  もう一つ、先生からお話がございましたように、カリキュラム、あるいは教育課程審で今議論しているようなことにかかわりますことの御提案といいますか、御意見をまとめていただく部分が相当部分に上るとすれば、現在、教育課程審議会が答申に向けて進行しておりますが、仮に道徳教育のほうを中教審で今回何らかの御指摘をしていただきますとすれば、当然、教育課程審議会の審議に反映していただくということになっておりますので、教育課程審議会のほうとのつなぎは、そういうような共通理解を持っていただいていると思っております。多少こちらのほうが先行していただく必要がありますので、これだけの回数を重ねていただいているところも一つございます。

○  ちょっと気になるところ、あるいは私の知っていることで補足したいことを、一、二申し上げさせていただきます。
  「遊びの不足や、食生活の変化に伴って、子どもの骨折が増えている」という表現がありますが、これは文部省の外郭団体の学校保健会などが、子どもの骨折の調査をしております。一ころマスコミを通して、骨が弱くなっているというようなことが言われたことがあって、気にしていろいろ調べていただいたデータも拝見したことがあるんですが、骨折が増えているということは、子どもの骨が弱くなっているということはないようでございまして、栄養の影響等よりも、むしろこのときに議論になりましたように、子どもの運動機能ないしは身のこなし方のほうに問題があるというように、理解しております。
  それから、「小柄で肌の色が良くない」子どもたち等々、「気になる乳幼児」というお話もありまして、これは現場でそういう感じをお持ちなんだと思いますけれども、全体としては今の乳幼児に、こうした体の面の異常があるとは思っておりませんので、そういう目でこれからまた考えていきたいと思っております。
  もう1点、「母子手帳は母親を対象とするものだが」、父親対象にする必要があるという趣旨のまとめがございまして、これは私どもも全くそのとおりだと思いますが、現在の「母子健康手帳」は妊娠中の母親の健康状態とのつながりでつくられております。そういう意味で、歴史的に「母子」ということでございますが、内容的には父親の参加を強く求めていると思いますし、「母親学級」という言葉も「両親学級」という言葉に変えたりして、一応気にしているところでございます。
  むしろ今の「母子健康手帳」が学校へ入るところまでで切れてしまう。学校保健とのつながりがないというのを小児科あたりの学会などでも大変気にしておりまして、いわゆる児童生徒の健康手帳とのつながりをうまくできないか。自分で持っていられる健康記録という意味での、生まれたときからのつながりができないかという希望が強く出ております。
  ただ、現在の「母子健康手帳」をそのまま学校へ持ち込むというのは、妊娠中の記録など、かなりプライバシーにかかわる部分が入っておりまして、そのまんまでは持っていけない。そのために、現在の「母子健康手帳」のうちで、学校への情報につながるような、例えば発育とか、予防接種の記録というような部分を取り外せるようにしようかなどという議論がかなり前から出ておりますが、まだ実現できないでおります。
  一つ、私が聞いていて気になるのは、児童生徒の健康手帳というものを学校保健会あたりでも案としてはまとめられたそうですけれども、学校側のほうで、要するに養護教諭さんの仕事が増えるという意味もあるんでしょうか、なかなか取り上げられないということを聞いていまして、この辺も今後の問題点になるのかなと思います。
  それから、学校で地域との連携をよくとるためにという意味もあって、学校側と地域との関係者の方々が集まって一緒になって子どもの心身の健康を考える学校保健委員会が、一応決まっているんだけれども、強制されていないために、十分実行されていない、あるいは実効が上がっていないということで、東京都あたりでも学校保健審議会の場で問題になったことがございます。
  そういう意味で、地域の育児機能の取り戻しという意味での学校と地域との連携、あるいは地域の家庭への支援、その辺についてさらに議論を深めていただくとありがたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

○  私もちょっと気になっていたんですが、こういう子が増えていると書いてあるんですが、本当に増えているのかどうか。目立つから増えているように思うけれども、実際はそうでない場合もあると思います。

○  「最近の生徒は、校内暴力など外側に現れる行動は示さないが」とありますが、これは逆で、文部省の発表では増えているし、今、ジワジワ増えています。
  「とらえどころのない生徒が増えている」というのは説明の一つの観点としてわかりますが、これを出す場合に、一委員の意見という必要があると思います。

○  乳幼児期からの問題が重要ということを言われていますけれども、卵が先か鶏が先かという感じで、だれでも親になるわけですが、親になる準備性の教育について触れていただきたいと思います。それは中学、高校、大学も含むと思います。一番気になっているのは、保育者や、幼稚園の教員の養成の在り方は、ここでは話題にならないのかということです。
  乳幼児期の異変については、数量にこだわらず、数少ない現象にも敏感になり、早朝に予防的に対応することが肝要と思います。

○  先ほどから若干論議されておりますが、「心」と言われると、ちょっととらえがたいですね。「心」にも「マインド」という英語と「ハート」という英語がございまして、夏目漱石の『草枕』ではありませんが、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。」、その「智」のほうを重視するのか、「情」のほうを重視するのかという問題を、若干整理していく必要があるのではないか。
  それから、先ほどちょっとおっしゃったんですが、形式的なことを問題にするのか、本質的なことを問題にするのか。形式的なことというのは、先生に心で尊敬する、しないにかかわらず、ともかく先生に会ったら丁寧にお辞儀しろと教える。あるいは心の底からほとばしる本質的なものを重視するのか、その辺の論議も必要ではないかと思うんです。
  それから、「心」の問題というのは、先ほどカリキュラムについてのお話がございましたが、例えば、入学試験というものは、御存じのようにマルペケ式のもので、「心」の問題を何ら問題にしないわけですよね。これはどこの国でも若干そういうところがあるんですけれども、やはりインタビューをして、心の問題を含め人物を確かめて大学に入れるのが当然でしょう。例えば、インタビューなしに企業が採るということは考えられないことなんです。企業というのは、「心」の問題か何か知らないけれども、人物というものを見るわけです。日本の大学の基本的な問題は人物というものは見ないというのがポリシーのように思われるんで、そういう国から人物が出てこないのは当然なんで、その基準がない。
  それから、単身赴任というのがたくさんいるんです。あれはほかの先進国にはない現象で、たぶんアメリカだったら離婚になるか、そういう形態は許されない。これは子どもの問題だけを論議しておりますが、夫婦の問題も当然論議するべき問題です。確かに、アメリカでは父親が、より子どもの教育には参加しております。しかし、反対に働いている母親がアメリカには多うございますから、母親の子弟の教育への参加はひょっとしたら日本よりは少ないのではないかと思います。
  それから、カウンセリングのことを書いてございますが、カウンセリングは大変重要ですが、アメリカの高校を見ますと、アカデミック・カウンセリングが割合盛んなんです。アカデミック・カウンセリングは案外重要ではないかと思うんです。日本ではアカデミック・カウンセリングがほとんどゼロではないかと思うんです。その反対に塾というものが、あるいはやっているのかもしれませんが。普通、高校生になりますと、どの大学を受けようかということをカウンセラーのところへ行って相談して、おまえだったらどうだ、滑りどめにはこの辺の大学を受けるとか、そういうものを含めたカウンセリングをやっておるように思うんです。
  もう少しいろんな角度から整理をする必要があるように思うんです。整理していただければ幸いだと思います。

○  今、おっしゃったことに賛成でありまして、これは外側から見た議論としては、網羅的に現代日本社会の変化についていろいろ書いてあります。非常に参考となるべき意見が沢山あるとは思いますが、「心」をどのように取り扱って教育に反映させるのかという、基本的な視点については何も書いていないです。ですから、委員、専門委員の皆さんがそれぞれ、「心」というのをどういうふうに取り扱ったらいいか、あるいはどういうふうに「心」をとらえるかということの御意見は、いろんな角度からおありになると思いますが、必要なことは、やはりそういうことを最初に述べることではないかと思います。あとは、こういう外側からの、こういうことが必要だと。その背景の社会的教育理論的説明、これはこれで非常に貴重だと思うんですが、どうして「心」というものをわざわざ問題にするかというその点が欠けていると思います。
  自分でも「心」というものをどうとらえるかという問題があるわけです。果たして「心」といったものがあるのかないのかという問題もあると思います。「精神」と「心」とか、いろいろと言い換えがありますが、  「心」というのは自分が大切にしている「自分の核」のようなものなので、それを外側からいじられることに対しては、比較的各人敏感だろうと思うんです。「心」がまさにでき上がってくるころの子どもたちですから、それを外側からの見方だけで果たしてとらえきれるのかどうか。カウンセリングとか、インタビューとか、いろんなやり方はあるんですが、それは「心」が何か変調を来して、逸脱性のある場合にそういう対象になるわけですが、もっと各人普遍の気持ちというものが生徒個人個人にあるわけですから、それを大切にするような交流ができないかと思います。「心」の在り方は各人で違いますから、その違いもちゃんと尊重するということが必要です。
  ここで私が思うには、今、私の考えている不完全なことを申し上げましたけれども、まさに列席の方々の自分とか、他人の「心」に対する見方が反映するような議論があってもいいのではないかということでございます。

○  きょうもこれを見させていただきながら、つくづく考えるんですけれども、この会に参加させていただいて、あちこちに行きまして、周りの人に一番聞かれるのは、この会で「一体、何をしゃべっているんですか」「何を議論しているんですか」ということを、大勢の方に聞かれるんです。結局、私は、なぜこの会が必要なのかという問題が一番ではないかというふうにいつもお答えするんです。
  はっきり言いまして、ここに書いてある問題、例えば日本人の宗教観云々の問題を外しましても、昔は「恥の文化」というものが日本人の心の核の中にあったような気がするんですが、それが最近なくなったところで、心のこういう会議もしなければいけなくなってきたのではないか。
  そうしますと、ここでなぜこういう会議を開かなければいけないかということを、もう少し世間の人にアピールするような、なぜ必要かということですね。それぞれの家庭でしていただければ、こういう委員会は必要でないはずなんですから。そういう意味で、それぞれの家庭の方に持っていただくために、もう少しニュースが早く出るような方法が必要ではないか。これだけ会議をしていても、周りの人には一切見えていないわけです。そこで、「こういうことが、今、議題になっています」とか、「こういう問題について、こういうことを、各分野の人が話をしなければいけない。それはこういう現状のためです」というPRが少しあってもいいのではないかと思うんです。

○  この会に参加しておりまして、今までの御議論を伺っておりまして、ただいまの「心」の問題について、気がついたことがあります。その「心」の問題について、これまで大体三つぐらいの方面からの議論があったように思います。
  一つは、これは圧倒的に多かったんでありますけれども、心理学的な意味での心です。この議論がこの会では優勢を占めていたような気がいたします。これももちろん大事なことです。
  もう一つは、やはり道徳との関係での心といいますかね、道徳心といったような文脈でのお話が若干あったように思います。
  もう一つは、実はほとんど議論されなかった問題があると思うんです。一番大事な問題だと私は思っているものですが、「心」というのは、ほとんど日本の文化の根幹に深くかかわっているという問題です。日本人というのは1,000年、1,500年の長い間、この「心」の問題にこだわり続けてきた、そういう文化をつくり上げてきたと思います。例えば、神道では「清き明き心(きよきあかきこころ)」といいます。それが古い文献に出ていて、その後の日本人によってさまざまな時代で議論の対象にされたテーマでした。
  仏教が入ってまいりますと、平安時代から鎌倉時代に至る代表的な日本の宗教家のほとんどが、この「心」の問題にこだわって議論を展開しております。アジアには、仏教がひろがったさまざまな文化圏がありますけれども、同じ仏教圏でも「心」の問題にこれだけこだわり続けてきた民族はほかにはないと思います。
  それから、例えば15世紀になりますと、世阿弥が、「初心」という言葉でよく知られておりますように、「心」について実に洞察に富んだ議論を展開しております。これがその後の日本人の美意識とか、生命観に非常に大きな影響を与えているわけであります。
  江戸時代の「心学」がそうでありますし、先ほどお話が出ましたけれども、夏目漱石の「則天去私」という問題も、まさに「心」の世界の問題いわば彼の言葉で表現したものだと思います。
  近代批評の基礎を確立した例の小林秀雄さんにしましても、最晩年は「無私の精神」といったようなことを言っておりましたけれども、「無私」「虚心」といった問題とやはり「心」の問題は非常に深くかかわっている。
  これは近代以前にとどまらず、古代から、日本人が考え続けてきた問題なんですね。日本人は「心」が好きなんです。「心・技・体」なんていう、これなどはほとんど我々の皮膚感覚になったような言葉がありまして、芸道、武道、さまざまな分野においてこの「心」の観念を引きずってきているわけです。日本人のこの「心」好きは一体何かという問題ですね。
  よく外国から日本の文化を研究する方が日本においでになる。「〈心〉の問題を研究したい」という私の友人もおりましたが、結局、これは英語にならないんです。ドイツ語にもならない。その人は自分の論文を書くときに、「ココロイズム」という表現でこの問題を議論していました。ある意味では、私はこれは普遍的な問題、普遍的な意義や精神の問題だろうと思いますけれども、外国人の目から見ますと、やはり特殊な用語、日本的な個性語と映るようであります。その辺は果たしてそうなのか。特殊性、普遍性という観点から、この「心」の問題を考える必要がある。
  こういう観点からの議論がこの委員会ではほとんどなかったわけです。そこをやらないと、「心の教育」の議論が本来の軌道にのらないのではないか。戦後、さまざまな分野からの教育論議が行われてきました。教育改革がそれぞれの時代に行われてまいりました。そして、ここに来て「心の教育」という問題が浮上してきた。もしもそうであるなら、これは100年とか、200年のタイムスパンをも超えた、もう少し長い日本の文化や歴史を顧みるような観点から議論をしていくことが必要だという気がいたします。
  とすれば、そういう方面の専門家の参加がこの委員会にはもっとも必要だろうと私は思うんであります。冒頭に申しましたけれども、こういう「心の教育」というようなことを議論する場合に、例えばアメリカでも、ヨーロッパでも、そういう委員会を設立するときには、恐らく宗教家の参加が必ずあるだろうと思うんです。我が国ではいろんな事情があるので、これは慎重にやらなければいけない、それはわかります。それから宗教家を参加させたからといって、それで解決するという問題でもありませんけれども、しかし今のままではこの委員会の構成というのは、かなり異常な状況ではあるわけですね。哲学者、文学者も必要だろうと思います。
  今、「心」および「心の教育」の問題をどう議論するかというお話が出ましたので、日ごろ考えておりますことをちょっと申し上げてみました。

○  かなり哲学的なことになってきましたが、こういう話になると、人間の実存といいましょうか、我々人間のために何が必要であるか、何が一番基盤になっているものであるか。先ほど、そういう意味での「心」は、欧米のほうではどういうふうに表現するか、それに相当する概念の単語があるのかということが出ましたけれども、どうでしょうか。英語で「ハート」と言いますと、いろんな意味があり、もちろん肉体的な「ハート」。それから、「full of heart 」という表現もあって、「ゆとりのある人」という意味でしょうか。親切な人、full of heart 。
  また、どうしても「ソウル」という言葉が出てくるんです。これもまたアメリカのほうではいろんな使い方があって、「We have to think of our soul」という表現でしたら、我々のかなり本質的な存在、実存。それとちょっと対照になるのは、特にアフロアメリカンの中で「ソウルフル」という言葉もあるんです。「ソウル・ミュージック」というのもあります。どうして「ソウル・ミュージック」と言うのかというと、本当の気持ちをあらわす、感情をあらわすようなものだということですね。
  ですから、「心の教育」について、実際に我々の討論の中でどういう意味を与えるかということは、皆さんがおっしゃっているとおり、もっと議論するべきではないかと思います。私が今指摘したところの中では、「自分の心」「自分のソウル」「自分の存在」の中で何が一番重要であるかという話になると、「自分の哲学」ということです。私としては、「人間と人間の間の愛」。それはどういう意味なのかというと、お互いに尊敬し合うこと、認め合うこと。その中で、やはりしつけというものも重要でしょう。そういうことから出発するのではないでしょうか。
  ある意味では、宗教的なこと。宗教的であることでありながら、一方、「愛」というものが実現しないとあまり意味がない。だから、教育の中でそれをどうやって実現するかということが、我々のテーマなのかなと思います。

○「心」の問題は、確かに哲学、宗教、みんなかかわってきまして、非常に深い問題がありますので、なかなか難しいですね。しかしまた、我々が議論してきたように、非常に実際的なことにもかかわっておって、そういうこともやっぱり言いたい。といって、全く中心的なものがなくて、事実だけバーッと書くというのは残念ですので、このとりまとめは非常に難しいと思っているんです。

○  先ほど、だれに向かって議論しているかというお話がありましたけれども、文部省にはいろんな審議会があって、教育に関する個別的な技術的な問題について、専門的に高度な御議論があると思います。ただ中教審みたいなところで話すというのは、日本の教育あるいは文化の哲学の部分ではないかと私は思うんです。
  これを見ると、教育技術的な問題にあまりにも中心が移っているんですね。ここでわざわざ何か意見を言うのは、現代日本において「心」というものをどうとらえるか。ちょっと抽象的で、ある面ではすぐ教育に反映されないかもしれないけれども、そういうことを日本の文部省、中教審というところでそんな問題を論じているということは、これは文明国としての資格だと思いますし、そういう問題を高度に深く論じる場を中教審のような場に設けるということが国家としての見識ではないか。ずっとここに出ているんですが、技術論が中心になっているので。技術論はもっと小さな部会で議論したほうがいいと思いますよね。中教審の特性が生きるような議論をやったほうがいいのではないかという気持ちを改めて抱きました。

○  今までの流れから見ますと、ヒアリングが多くて、皆さんのそういう意味での本質論みたいなことを発言するチャンスがなかったと思うんです。ですから、例えば軸になるものを何にしようかという論議を一遍やってみるとか、そういうことの中で、いろんなことが出てくるのではないかと思うんです。ヒアリングは随分いっぱいして、いろいろインプットしたわけですけれども、そのヒアリングを何を基点に使っていけばいいのか、基点が定まらないというか、その辺のところではないかという気が、今、皆さんの話を聞いていていたしました。

○  幼稚園で子どもたちに指導するのは、「なぐっちゃいけない」とか、「盗っちゃいけない」とか、「汚れたら掃除しておく」とか、いろんなことを教えます。その根幹はどこにあるかというと、やはり日本文化もありますし、西洋の文化もありますし、いろんな英知があるわけです。幼稚園教育は、宗教法人立の幼稚園がいっぱいできたことからもわかるように、宗教的精神との関わりが深い。まず身近なところをきれいにする。心をきれいにする。明るくする。日本の神道に「清明心」というのがあるわけです。この流れも幼稚園教育には受け継がれているわけです。これを大きく解釈すれば、地球環境の汚れもなくさなければいけないというところにまで広がるわけです。
  それから、宗教法人立の幼稚園にはキリスト教系もございます。「愛は奪わず」「愛は殺さず」「愛は裏切らず」、そういうすばらしい、いろんな人間らしい価値観というものがそこにあるわけです。もちろん、仏教系の幼稚園もあります。「こだわらない心」とか、「広い心」とか、それから「慈悲」などというすばらしい言葉がございます。
  そうすると、私どもが子どもたちに幼稚園で教えている「心」というのは、いわば人が支え合っていく「人間らしい価値観」というのが根本になっているのではないかと思っております。これは、もともと人によっては多少ズレがございます。それが今、さらに揺れてきて、大変ずれてきて、ガタガタになってしまったから、もとへ戻そうではないかという状況があるような気がいたします。
  この間、ある方とちょっとお話ししたら、その方は、「私の愛読書は『菜根譚』だ」なんて言っていましたけれども、あれは四書五経を後の人がダイジェスト版にしたようなものであります。私どもの父親、祖父の代の人の多くは、四書五経を読んでいた。ところが、我々の年代から、四書五経を読んだ人は少ないわけです。四書五経どころか、『菜根譚』も読んでいないし、それから『南総里見八犬伝』の「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」なんていう、ああいうおもしろおかしく書いたものを読んでいる人も少なくなってきている。そういう伝統的文化等の中で培われたものも大事にしていかなければならない。
  また、「日本の政治は〈和治〉だ」という話もあります。「和をもって治めているんだ」と。それから、中国の政治は、「人治」だと。孔子様がこう言った、毛沢東がこう言ったということで治めている。それから、アメリカはいろんな人種の人たちがいるので、「法治」だと。法治国家、法律で治めている。それから、最近なくなった国は、「あれは〈力治〉だ」、力で治めていたから破滅しちゃったんだというのです。日本の「和治」なんていうのは、和を持って貴しとなすという言葉に象徴される価値観をみんなで探り合っていこうというようなところが感じられます。
  さらに、具体的に、親となるための準備教育というようなものを学校教育の中に少し入れられないものかという気がいたします。「人間らしい価値観」というか、世界観というものを築くために、四書五経なりああいうものも参考になるわけです。ただ、あれをみんなが一生懸命学んだからといって、その国がきちんとした国になったかというと、そうでもないわけです。やはりいろんなところがある。だから、決め手にはなりませんけれども、参考にはなる。人間には蛇蝎奸詐といって大変忌まわしい心がいっぱいあるわけですから、そんなことを絶えず考えていてちょうどいいぐらいに思います。
  まとまりませんけれども、日本の古い伝統文化と、四書五経の世界を勉強したいなと、自分自身に言い聞かせる感じで、御意見として申し上げたわけです。

○  中教審では、戦後50年の教育のありようを見直すチャンスだと思っているんです。それで、「心の問題」よりも「心の教育」ということでやらないと、本当に袋小路に入る危険性がある。
  50年間どうきたかと申しますと、大ざっぱですけれども、昭和33年に「心の問題」を学校教育に依存したんですね。特設道徳の設置であります。今、それがかなりうまくいっている場合と、いっていない場合がある。私にすればうまくいっていないと思うんです。この第16期中教審では、「心の教育」の問題は学校だけではだめですよと問題提起しているのです。そのとき、家庭という  ―ある種のタブーですよね。家庭の中にも入り込んでいいのか。入り込む場合に、どこまで入り込めるのかという問題が生じますが、意外と地域社会には入りやすいのではなかろうかと思うんです。
  もう1点思いつくのは、テレビ・ラジオ、マスメディアというのがあります。マスメディアにおける「心のありよう」の教育の効果を見直したいのです。これをたぶん戦後50年間無視してきたと思うんです。そういう意味では、この委員会で、マスメディアは目に見えないんだけれども、「心のありよう」にどのような影響を与えているかという問題も議論していかないと、次の21世紀にはうまくいかない。私個人としては、戦後50数年間の日本の教育の中の「心のありよう」の見直しができるかなと思っています。それでマスコミを中心に騒然たる教育論議を興していければなという期待を持っております。以上です。

○  確かに、家庭に「これをせよ」とか、「こうすべきである」というふうなことはもちろん絶対に言えないわけだけれども、アピールするのは構わないですよね。呼びかけるのはいいと私は思います。

○  私も先ほどの委員の意見に大変賛成でございまして、この審議会では、訴える相手として国民全般といっても抽象的過ぎて、学校教育としてこういうことをやる、家庭にはこんなことをお願いしたい、また企業にはこんなことをお願いしたい、また社会全体、マスコミ等を代表するものにはこういうようなところの配慮を願いたいというような、対象を多少絞りつつ、それぞれに具体的にやっていただけるようなこと、注意していただきたいというようなことは盛り込むことができるのではないかと考えているわけでございます。
  今、私どもは家庭とのかかわりの中で、文部省の事業として家庭教育学級がずうっと社会教育関連の中でやっていますが、こういうもので機能しているところ、機能していないところもありまして、これらの整備も大事でしょう。学校では「道徳の時間」を中心にして道徳教育は推進していますが、御批判をいただくような場面もあるというようなところの見直しを考えていかなければいけないかなと思っています。
  子どもたちの言葉や行動に「心」があらわれてくるというふうに、おおまかなとらえ方ですが、そうした子どもたちの現象に対して、事前の段階でどのように育てていくことができるか。あるいは、出てきた後にケアができるかということを、その仕組みの中である程度考えていくことができればいいのかなと思っております。日本という国は、いろんなものについて、必ず「道(どう)」というものをつけるという我々の精神性は大変いいのではないかと思っているんですが、こんなところは今後またいろいろ教えていただきたいと思っております。以上です。

○  戦後50年の教育を見直すというのを契機にして、整理をするのも一つの方法論だと思いますが、今、日本国民が、特に親が、ある種の「心の教育」、あるいは自分たちが育ててきた子どもたちがいろいろ起こすことに関して、自信をなくしている。自信喪失ですし、ある意味ではお父さんにしてみれば父権の崩壊といいますか、勘当を言い渡せないおやじといいますか。そういう意味で、特に父親は、男の子に対して男を教えることができなくなっているという思いがいたします。小学生、中学生がいろんなことを起こす、あるいは起こさせられているかもしれませんが、そういう現象があり、オウムの事件もございました。あるいは、女の子も含めていろんな犯罪等々があります。
  そういう意味で、自信をなくしていて、それをどういうふうに一人一人の国民としてとらえたらいいのかということについて、押しつけるということではなくて、多くの人たちはある種のサジェスチョンといいますか、プレゼンテーションといいますか、そういったものを求めているんだろうと思うんです。
  ですから、あまりある一面だけに特化しないで、余計なお節介だと感じられることが若干あってもいたし方ないぐらいで、もちろんあまり間口を広げてもいいかどうか程度問題だろうと思いますが、そういう答えの一例を出すことが求められているのではないかと感じております。

○  これをいろんな場面で英語で表現しなければならないことがあると思いますので、恐縮ですけれども、英語で「エデュケーション・オブ・ザ・ハート」という表現は、どういう意味を示すのかということを一言申します。
  今まで何回も取り上げたことをまた確認のため申し上げますが、「心の教育」という意味は、学習か、学校の知識教育に対しての概念だと思いますが、英語で「エデュケーション・オブ・ザ・ハート」というのは悪くないかもしれません。「エデュケーション・オブ・ザ・ハート」と言うと、それでたぶん一般的にアメリカ人が思い浮かべることは、「センス・オブ・ザ・ハート」だと思います。「センス・オブ・ザ・ハート」と言いますと、学問的なことでなくて、学習でもなくて、やはり愛情とか、他人に対しての態度とか、価値観という意味です。たぶん今私たちが議論している日本語の表現での「心の教育」というような意味合いに近いのではないかと思います。

○  戦後50年の我が国の発展は教育に負うところが多かったと思う。トーマス・ジェファソンは、「国民が教育されてはじめて民主主義が成り立つ」という意味のことを言っています。我が国の平均寿命も1900年の初めは大体45歳だったのが、今、80歳近くになっています。これは医学の進歩とか、いろいろなものがあってそうなんですが、どんどん平均年齢が上がっているということは、日本人は肉体的にも精神的にも一応よかった面もあるわけです。しかし、もちろん問題もあるんですが。
  ここで、先ほどの話を聞いてちょっと思うんですが、これからの世の中はグローバリゼーションの世の中になっていくわけです。いろんな意味で国境がなくなる。バーチャルな交流かもしれないけれども、インターネット、その他で交流する機会が日本人は非常に多くなる。そうすると、先ほど、我が日本の「心」は大変訳しにくいというお話があって、全くそのとおりなんだと思いますけれども、これをどういうふうに訳すかということも必要なんです。つまり、私なんかが国際学会に行ったりしまして、例えば「謙譲の美徳」というようなものを発揮していると、話にならない場合があるわけです。ちゃんと主張するべきものは堂々と主張する。つまり、日本人の価値観と違ったものを使うといいますかね。〈これは人がこう思ってくれるだろう〉というようなことは、だれも外国の人は思ってくれないとかね。エシックスという問題も国際的に考えていただかなくてはいけない時代であるように思います。
  ナショナリスティックな「心」はこうだ。別にそれを変える必要はありませんが、それと西洋の「心」はこうなんだというところまで踏み込んでいただく時代を迎えたのではないかと思います。
  ちょっとお聞きしますが、「マインド」というのはどういうふうな日本語になるんですかね。「ハート・アンド・マインド」ということをよく使うように思うんです。もちろん、「ソウル」も。今回のものは「エデュケーション・オブ・ザ・ハート」ですね。「マインド」というのは、もう少し理性的な心なんですか。

○  ますます哲学的なことになってしまいました。オーバーラップしているところがあるでしょうね。日本語の「心」とか、「精神」とか、「魂」とか、そういう言葉もありますけれども、間違いなく英語で「マインド」と言う場合には、「脳」というものだけではなく、それを示すこともあれば、もうちょっと広く「心」または「ソウル」を示す場合もありますね。

○  「グレート・マインド」という表現がありますね。

○  「グレート・マインド」の場合には、主にそれは優れた能力というか、知恵も含まれるでしょうね。「Someone has a great mind 」、その人は知的に非常に優れているということです。

○  今、おっしゃったことで思い出したことは、世界で最も権威ある哲学雑誌の名前は、イギリスのロイヤル・ソサエティーから出版されています『マインド』という雑誌です。恐らく『マインド』に載る論文というのは最高級の哲学論文が載るんでしょうが、その場合の「マインド」というのは「哲学」なんです。「インテレクチュアル・マインド」なんです。だけど、それは「情動」まで入っていますから、もちろん感情面を考えたら全部考察するわけですね。この「マインド」の用い方はかなり象徴的なことかなと思います。
  もう一つ思い出したのは、アメリカの有名な社会学者のロバート・ベラーが10年ぐらい前に『HABITS OF THE HEART 』という本を出しました。これは『心の習慣』として訳されています。現代アメリカ人のさまざまな階層の人たちへのインタビュー調査を通して、その生き方、どういう価値観で生きているかということを調べた、大変立派な本で、現代アメリカについて知る上で大変有益な本だと思って、私もゼミなんかに使ったことがありますが、「心の問題」とはむしろ「ハビッツ・オブ・ザ・ハート」みたいな意味が近いかなと思ったりします。
  ただ、一言つけ加えますと、哲学の専門家とか、宗教の専門家が別に「心」の問題について語れるというわけではないし、それから父親論議というのがよくありますが、父親の復権とかいうのはもっと慎重にやるべき議論で、何か非常に復古主義的な、儒教的な父親みたいな、戦前のあれがよかったという形の議論になりやすい。現代日本の実情に全く沿っていないです。そういう意味では、今では母親のほうがはるかに父親的な役割をする家庭もいっぱいありますし、それから、父親はもっと母性的な形でふるまう場合もあって、それを急にまた父親だと言っても、かなり時代錯誤的なもので、子どももそんなものは求めていないですね。ですから、そういう点では、もっと実情を「ハビッツ・オブ・ザ・ハート」として考えた議論が必要ではないか。その上で、父親の父権とかをいうのはいいんですが。父権とか、母権とか、母権社会というものは昔ありましたけれども、そんな時代ではないと思います。もちろん立派な議論はたくさんございますので、全部否定するわけではないですが、そういうふうに言われると、何となく納得というようなところがあって、それはだれも納得しない議論ではないかと私は思います。ここで申しましたのは、一般にマスメディアなどの「父親の復権」などと言われる議論を指してのことです。

○  子どもというのは、オギャーと生まれたときは何も知らないんです。寝ていて、だんだん目が見えるようになって、周りの人の動き、お母さんの動きを目で追っていくわけです。その言葉を心にしみ込ませていくわけです。それから、次にお父さんです。それから、家族。ちょっと長じてくると、近所の人。何にも知らないのが周りの言動をしみ込ませて育っていくわけですから、やはりお母さんの役目というのは  ―母原病なんていうのは信じておりませんけれども、影響力というのは大なんです。そうやって育った子が、やがて大きくなって社会を動かすわけですから、日本国なんていうのはまさにお母さんの蓄積の上に成り立っているみたいな部分があるわけです。
  だから、そのお母さんをサポートする父親、父権というのが大事なんであって、上座で威張っているお父さんがいいなんていうのは、だれも言っていないのではないかと思いますので、お母さんを支えるお父さん、お父さんを支えるお母さん、そういう家庭の在り方をどうするか。親になるためには、子どもがどうやって育つかを知らなければいけないとか、親となるための教育が必要だと私が言っているのは、それでございます。以上です。

○  話が少し変わってしまうかもしれませんが、私が子どものころ、元旦になりますといつも祖父に促されて、まず家の神棚を拝み、それから仏壇を拝みます。外に出て太陽に向かって拝み、さらに氏神さんを拝みます。祖父はなぜかということは一言も言わないんですよね。このような神仏混交の中で育ったのですが、今になってみると、「ああ、こういうことだったのか」と。人間というものは多くの人々に支えられ、あるいは自然の中で生かされているんだ。いろんなものに対する感謝の気持ちを忘れてはいけないんだなと。祖父が亡くなり、中学・高校時代にかけて、このような意味があったんだろうなということを考えたりしたものでした。
  今、私は、「ありがとう」・「ありがとうございました」という言葉が、本当に心から言えるように、自分自身もなりたいし、子どもたちにもなってほしいと願っております。
  ところで、先ほど、技術論が中心になっているというお話がありましたが、「論点整理メモ」で少し感じたことをお話しさせていただきます。青少年の発達課題につきましては、「児童期(6歳〜11歳)の発達課題」と、「青年期(12歳〜18歳)の発達課題」と書かれているわけですが、ここを青年前期と青年後期に分けて書いていただくとか、児童期においても心の発達にかかわる課題について、もう少し分析的に、一般的な在り方を書いていただけたらよいのではないかと思いました。
  それから、学校に関するところで、スクールカウンセラーにかかわる記載が大変多くあります。また、養護教諭の在り方が述べられております。しかし、現実問題、心の問題も含め子どもの様々な問題に学校の中でどのように対応しているかといいますと、小学校では生徒指導主任(教頭がかかわる場合も多い)、中学校では生徒指導主事が中心的な役割を担って、校長・教頭との連絡、学年主任・養護教諭、担任との連携のもとに、即対応をいたします。
  「生徒指導・教育相談について」とありますけれども、生徒指導主任、生徒指導主事との連携についても、ここに少し触れておく必要があるのかなと。そのまま読んでみますと、スクールカウンセラーが即生徒指導主事的な仕事も行うような意味合いで書かれている部分もあるので、ちょっと気になりました。

○  宗教の問題については、取り扱いや表現も難しいと思います。しかし、私どもが生きていく、生活していく上で、一つのよりどころ、自らを律するものがそこにはあるのではないかと思います。信教の自由は保障されていますので、何を信ずるかは個人の問題ですけれども、信ずるものを各家庭で教える、学ぶ、育てるといいますか、そういうことをもっと奨励するというのか、信ずる心をどう育てるかということ。人として生きていく上で、自らを律する基本となるものを、我々は今までどのように育ててきたか。その辺が、今、問われているのではないでしょうか。
  日常生活の中でそれをどう育てていくか。その辺のことは如何なものかと思います。

○  先日15日に、私の娘が成人式を迎えまして、そのときに娘の友達たちといろいろ話す機会がありまして、将来、どういう仕事、どういう方向に進みたいのかということを聞いてみたんです。今の子どもたちはしっかりしていまして、将来の仕事とか、それからやってみたいこと、海外ではどういうことをしたいとか、そういう希望をたくさん持っておりました。
  ただ、「二十になって選挙権を持ったんだから、これからどんなふうに日本にかかわりたいの」という話をしたときに、それに関する答えはあまりちゃんとした答えが返ってこなかったんです。そのときに、私たちが子どもを育てるときに、いい子に育ちなさい、お勉強を一生懸命しなさいというのをやってきたように思うんですが、日本の国というものをどんなふうに子どもたちに教えてきたか。私たちは、子どもたちに日本の国というものをもっとしっかり教えるべきではなかったかなということを実感させられまして、子どもたちが「心の教育」の中で、自分の国というものをしっかり学んで、その上で、どういう国にしていくかというのをきちんと考えていくようにすべきではないか。これが二十の子どもたちと話していて感じたことでしたので、ぜひ日本の国をもっと大事にしてほしいと思います。

○  「心の教育」ということを考えたときに、一つ、読書の大切さというか、そういうことをどこかで強調できたらいいなと思います。
  「朝の10分間読書」ということを熱心に進めている先生がおられて、その運動もかなり広がってきていることをちょっと聞きました。それが子どもたちに大変いい時間になっているということが、10年近い活動の中で出ているそうです。それは本当に単純なことなんですが、朝のホームルームの時間に、先生も読みたい本を持ってきて、生徒たちも好きな本を、ただ10分間読む。それで終わりなんですね。ですから、課題図書とか、読んだ後に感想を書けとか、そういうことは一切なしで、読みたいものをとにかく持ってきて読む。ただ10分間読む。そういうシンプルなことだから長く続けられるとも思いますし、そういう読書する習慣は子どもの心を育てる上で大変大切なことではないかと思いますので、自然体験とか、さまざまな体験的な活動とともに、読書をする習慣というか、読書のすばらしさを伝えるというか、そういうことをどこかに盛り込めたらいいなと思っております。
  普通にアンケートなどを取って、新聞社が調査なんかをすると、この1ヵ月に1冊も読まなかったという中学生、高校生が随分いるらしくて、それはゆゆしきことだなと感じます。

○  今、「心」というテーマでいいお話を伺いながら、こうした論議をすることがとても大事だなと感じました。家庭で、教室で職場でと、あらゆるところで、「心って何だろう」ということが論議されるよう、その雰囲気づくりをすることが大事で、この会がそのきっかけになればよいとも思います。
  この会に初めて参加させていただき、今、子守歌が消えている、短調がなくなっている、悲哀というものが、「心の教育」にとってどんなに大事かというお話を伺ったときに、現場の人間として体が震えるぐらい感ずるものがありました。
  子どもたちは、技術的には高度な歌をどんどん身につけていってはいるのですが、ハートに触れるようなものが減ってきているということを感じます。そこで、報告書には、このあたりのことにも触れていただきたいと思います。今、早急に求められていることは、子どもたちが動物としてあたりまえに育つために、あたりまえの環境が保障されることだと思います。今は様々な人工的な力が加わりすぎて、それを窮屈にしているわけですから、いかにして人工的な部分を整理するか、という論議でもいいのかなと思ったりしています。

○  読書に関連してなんですが、数年前にある新聞社で小・中学生の読書感想文コンクールというのがありまして、今でもやっているのかどうかわかりませんが、その応募者を対象に調査をされたことがあります。「あなたは、今、熱中していることがありますか」とか、「本を読むのは好きですか」という調査でした。当然、感想文コンクールに応募するような小・中学生ですから、本を読むのはほとんどの子が好きだったんです。「熱中していることがありますか」という問いかけには、100%の子が「熱中していることがある」と答えているんです。その熱中しているものは何ですかというと、百人一首だったり、一輪車であったり、ブラスバンドであったり、山登りだとか、つまり文武両道なんです。
  それで、「いつごろから本に触れて、何がきっかけで本を読むのが好きになったと思いますか」というのには、幼稚園か保育園の時代にお母さんが読んでくれた、それから小学校の低学年のときにお母さんが読んでくれた、それから小学校の中・高学年になりますと、先生が紹介してくれたというのが多いんです。つまり、お母さん、小学校の先生が子どもに対して本に親しませるように仕向けると、文武両道のきっかけになり得るということがあるわけです。
  そのときに、新聞社が一緒に行った同世代の子どもたちの調査と比べると、片一方は何も熱中することがないなんていうのが6割ぐらいいるんですけれども、片一方は歴然とした差があったんです。私たちが子どものときに本ばかり読んでいると、腰が重いとか、文弱だとか言われたんですが、今は文武両道のきっかけになるような気がいたします。
  ですから、「国民への呼びかけ」等の中で、「お母さん、子どもに絵本を」とか、そういうものを入れたらいいかなと気づいたわけであります。

○  先ほどある委員から、マスメディアの在り方にメスを入れる必要があるのではないかというお話がありましたが、私も同感で、そのことについて「論点整理メモ」の中に出ているんですが、こういった問題点があって、これをどういうような方向へ持っていくのがいいのか。仮にとりまとめが出たとして、そのとりまとめの中に、そういうことについてこういうふうに考えるといいという表現で出ていて、それを読んだ人が〈ああ、やっぱりこういうことは必要だな。こういう方向で行きたいな〉と思うようなまとめ方が欲しいと思っているんです。
  同じような趣旨で、家庭教育の在り方について、意見を述べたほうがいいのではないかということもおっしゃったんですが、これは4ページに出ていると思います。家庭はこんなような方向で、こういうことに今後気をつけていく必要があるのではないかという趣旨で表現できるといいなと思います。
  そのほか、学校教育においても、学校の中で「心の教育」について、今までこれはまずかったのではないかという部分があると思うんですが、このようなものについても、こういうことが欠けていたから、今後はこういうことに重点を置いてやっていく必要があるのではないか、そういう提案の形になっていくといいなという気がしております。
  例えば、高等学校で「心の教育」で一番欠けていたなと思いますのは、知識をできるだけ子どもたちに蓄えさせることに一番の重点を置いて教育がなされてきたと思うんです。しかし、人間形成に与えるような、例えばホームルームの活動とか、あるいはクラブの活動とか、そういうことをやる学校というのはあまりいい学校とみなされていないような傾向が、今まであったと思うんです。高校でいいますと、人間形成に与えるようなことにも相当な力を入れてやるような学校になりたいとか、そういう方向で行ければいいなと思っています。いわゆる「いい学校」のイメージを変えることが必要だと思います。
  もう1点は、さっきある委員がおっしゃった宗教的な心をどう扱うかというのは、私は非常に大事な観点ではないか。これをどういうふうに表現するのがいいのかというのは私はよくわからないんですが、これは大事な観点で、中教審ではそのことについて、こういうことが大事ではないかということが盛り込まれるといいなという希望を持っております。

○  3点ほど申し上げたいと思います。
  「心」の中身については、門外漢なんですけれども、確かに非常に重要な問題で、15期の中教審のキーワードに「生きる力」というのがありましたけれども、私自身は「心」そのものではなくて、「自立」というようなことで考えてはいるんですが、宗教心とか、非常に重要だと思っております。
  私自身も、今でも田舎へ行きますと、80歳の老親がおりますけれども、老親に挨拶する前に、仏壇に行って手を合わせるんです。親がまずそこへ導きますから。つまり、かつては仏壇があり、神棚があり、玄関に出ればお天道さまが拝めたんです。今、私の東京の家には仏壇も神棚もありませんし、玄関に出ればマンションの日陰になっておりますから、どうしようもないわけです。
  つまり、「心」というのは何であったかということですが、100年、1,000年の歴史の中で、日本の「心」というのが育てられてきた。それはしかし、当時の中教審のようなものがあって、「こうしたら……」ということではなくて、その時代、その社会の状況の中で育てられてきたんだろうと思うんです。その社会が今変わっている。そういう意味では、私自身は、社会が、今、変わっているんだと。お話にあったグローバリゼーションというのは、その一つであると思います。
  そして、社会の状況を考えて、変化どきは困ったときでなくて、しめたときだ。困ったときはしめたときだ。変化するというのはいろいろ混乱が起きますけれども、しかしながら、いろいろ考える。変革するには非常に好機であるということで、いろいろ考えていくスタンスが必要ではないだろうかと思っています。ですから、今の社会状況、あるいは日本人が育ててきた大事な「心」がなぜ失われたか。それは社会状況が変化した中で、いろんな要因がそこに入っているんだろう。そこをやっぱり考えていかなければいけないだろうと思っております。
  そのスタンスから、最近のエピソードで2点だけ申し上げますと、センター入試が2日前にありました。私の知り合いのある大学が試験会場になりましたけれども、親から電話があったそうです。うちの息子、娘が受けているだろうかと。朝、受けるといって出ていったんだけれども、本当に受けているかどうか教えてくれと。こういう電話が1本、2本ではないと言うんです。これはつまり、母支配といいますか、親支配といいますか、そういう形で、我々が「心の教育」あるいは「家庭教育」と言ったときに、より一層子どもをいじろうとかということではなくて、そのかかわり方というのは慎重にしていかなければいけない。父親がかかわろうといったときに、タコつぼ化している母と子、そのタコつぼの中に父親が入っていって、父・母・子というタコつぼをつくってもらっても、やっぱり子どもは一層息苦しくなるという問題があります。ですから、「自立」という意味では、親の問題が非常に大きい。
  これは「幼児期からの」ということですけれども、では、どうするのか。文部省でやることは何か。すぐには思いつきませんが、例えばある大学では、昨年4月から、学生には親の保証なく銀行ローンを、大学が保証して借りさせる。在学期間は大学が利子を払うということをやっております。「自立」の一つの指標というのは、高等教育費をだれが払うか。子ども自身か、親か。日本の場合は親が非常に多いんですけれども、技術的な話ですが、自分で払おうとする子どもに対する対応が何かできるのではないかと思います。
  もう一つ、「家族」ということで言いますと、形と内容というお話がありました。やはり「家族」ということで言いますと、内容を置き忘れて、形だけ。「箱物行政」というのがありますけれども、「家族」についても形だけを大事にしてきたのではないかという気がいたします。例えば、この正月の1月1日の新聞に、日米比較の世論調査がありました。その中で、いろいろおもしろい調査をしておりますが、「不倫」というのがありまして、「不倫」はアメリカのほうが拒否的です。日本のほうは「まあ、いいんじゃないか」という割合が高いんです。これはなぜかというと、アメリカ人は、不倫するぐらいだったら、離婚して、その不倫した相手と再婚する。不倫ではなくなる。日本の場合には、家庭内離婚とか、あるいは不倫とか、あるいは結婚の場合の3高とか、形を求める。内容を置き忘れてきたのではないか。
  少年非行の戦後の三つの波というのがありました。貧困とか、一人親とか、そういう形が初期は問題だったんですけれども、今は形は整ったけれども、中身を忘れている。そこら辺を考える必要がある。「家族」の分野ではそのように考えております。

○  きょうは自由に発言していただきましたので、多様な意見が出ました。これをまとめるのは大変なことではないかと思います。あんまりあれをせよとか、これをせよとか、規制をしないほうが心は育つわけだから、そういうことも考えながらとりまとめるのがいいのではないかと思いました。
  それでは、今後のスケジュールでございますが、次回は1月29日ですが、「早期教育の問題」についてヒアリングを行うとともに、有馬会長からの御提案を踏まえて、「小さな親切運動」の関係者からもヒアリングを行います。その後、今回に引き続きまして、「論点整理メモ」に基づいての討議を継続します。
  次回は、1月29日、木曜日、13時から、霞が関東京會舘・ロイヤルルーム、34階でございます。 

(大臣官房政策課)
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