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中央教育審議会

1997/11
幼児期からの心の教育に関する小委員会 (第6回)議事録 

       幼児期からの心の教育に関する小委員会(第6回)

    議    事    録

    平成9年11月7日(金)  13:00〜15:30
    霞が関東京會舘  35階  ゴールドスタールーム


    1.開    会
    2.議    題
        幼児期からの心の教育の在り方について(ヒアリング及び討議)
    3.閉    会


      出  席  者

委員 専門委員 事務局
木村座長 明石専門委員 長谷川生涯学習局長
沖原委員 油井専門委員 辻村初等中等教育局長
河合委員 猪股専門委員 御手洗教育助成局長
川口委員 佐保田専門委員 北村審議官(体育局担当)
土田委員 末吉専門委員 廣瀬調査統計企画課長
牟田専門委員 徳重小学校課長
和田専門委員 富岡総務審議官
杉浦政策課長
その他関係官


    意見発表者
      1  金  井     肇    氏(大妻女子大学教授)
      2  堀  内  虎  満  氏(千代田区立九段小学校長)
      3  津  田  知  充  氏(町田市立町田第一中学校長)


○  それでは、ただいまから中央教育審議会・幼児期からの心の教育に関する小委員会、第6回を開催させていただきます。
  本日は、お忙しい中、本会合に御出席を賜りましてまことにありがとうございました。本日も、3名の方からヒアリングをお願いする予定でございますので、通常の会議時間を30分ほど延長させていただいて、15時半までとさせていただきますので、よろしくお願いいたします。
  昨日、「子ども・保護者と語り合う会」開催のため、千葉県佐倉市へ伺いました。場所は佐倉幼稚園と佐倉小学校でした。11名の委員・専門委員の方々に御出席いただきまして、本当にありがとうございました。おかげさまで幼稚園及び小学校の子どもたちやその保護者の方と自由闊達な議論をすることができました。もしこの会に関連して、参加された委員・専門委員の先生方で御意見がございましたら、会議後半の討議の際にあわせて御発言いただければと存じます。
  ヒアリングに先立ちまして、「道徳教育の現状」および「諸外国の学校教育における徳育」について事務局から説明をお願いしたいと思います。
(事務局から資料に基づき説明)

○  「道徳教育の現状」及び「諸外国の学校教育における徳育」について御説明いただきました。委員・専門委員の皆様方、御質問もあろうかと思いますが、まずはお三人のヒアリングを優先したいと思います。その後、御質問がありましたら、あわせて討議のときにお願いできればと思います。
  それでは、早速でございますが、最初にお願いする金井肇先生を御紹介申し上げます。金井先生は大妻女子大学の教授でいらっしゃいまして、道徳教育の問題について専門に研究されておられます。本日は、「我が国の道徳教育の現状と課題」につきまして、20分ほど御意見を伺い、その後10分程度、恒例によりまして質疑応答を行いたいと存じます。  それでは、よろしくお願いいたします。

◎金井意見発表者    御紹介いただきました金井でございます。それでは、与えられました課題に従いまして、「我が国の道徳教育の現状と課題」について、私のとらえている限りのことを申し上げたいと思います。
  要旨が4枚ございまして、最初の「1」でございます。「我が国の道徳教育の現状」でございます。「(1) 学校差、教師による差が大きい」というのが、現状の非常に大きな特色でございます。
  それを二つに分けて見てございますが、「1)」でございます。各教科・特別活動  ―特別活動は高等学校では特にホームルームでございますが  ―の道徳教育における差が大きい。ほとんど意識のない先生から非常に熱心にやっている先生までたくさんございます。教科におきましては、教科の中に、美しいもの、価値あるものに目を向ければ幾らでも向けられるものを見逃している教師もございますし、そこに力を入れて道徳教育として効果を上げている教師もございます。
  「2)」でございます。道徳の時間につきましては、大別して三つに分けられるかと思います。「ア」でございますが、人間らしい心、これはつまりは価値を大事にする心ですけれども、これを育てて、自分の生き方のバックボーンになっていると、卒業した後でそういうことを証言する子どもたちがございます。生き方の自覚と道徳的実践力を育てている優れた指導が極めて多いと言えるかと思います。
  別添資料の1番に、アンケート調査の結果がございます。この調査報告書にもございますが、青森県から九州までの幾つかの学校にお願いしてとったものでございまして、統計調査上のサンプリングによるものではございませんが、それを補うものとしまして、首都圏の大学生たち2,000人余りにとってございまして、これと比較することによりまして、ほぼ現状をとらえることができると思っております。
  資料の3ページでございます。調査表を省略しまして、分析によって申し上げてみたいと思います。3ページの「2」というところがございますが、道徳の授業を「楽しい」と感じている子どもが多い。この「楽しい」と感じている子どもと、それから道徳の授業が「役立っている」と答えている子どもが、ほぼ同じ数字でございます。
  そして、この傾向でございますが、小学校の低学年では92%余りの子どもたちが「楽しい」と言っておりますし、「役立っている」ほうもほぼ同じ数字でございます。それがだんだんと学年が上がるに従って減少してまいります。これは文部省の調査でも同じ傾向が出ております。
  「イ」のところでございますが、優れた指導は、発達段階が上がるにつれて減少する。したがって、優れた指導が一方にあるのに、それを教師が勉強していないという実態がある。しっかり勉強してもらえば、いい指導が全部に広がることができる。そこのところに問題があるかと思います。
  「ウ」でございますが、一方に、子どもの心に響かない形式だけの授業もございます。これはやはり資料に差し上げてございますが、大学生たちに自分の受けた小・中学校の道徳教育を振り返って書かせたものがございます。資料の「4―3」でございます。「4―3」のところに大学生たちの証言を  ―これは私の受け持っている大学生たちですが、その学生に書かせたもので、非常に役に立ったといいますか、自分の人生をつくってくるバックボーンになった、おかげであったという意味の感想と、それから「先生方は型どおりやっていただけで、ちっとも情熱を感じられなかった」というものがありまして、心を込めて指導しているかどうかということが非常に大きく影響しているということが出てまいります。
  「ウ」のところで、形式化した指導と申しましたが、道徳の授業を形だけつくって、一定の形に沿ってやればいいというふうに考えている教師もおりまして、そこに多くの問題があると言えると思います。
  「エ」でございますが、事実上実施していない学校、教師があるとございますが、これは資料1の調査表を御覧いただきたいと思います。資料の22ページを御覧いただきますと、左上に、大学生の調査で「問6」というのがございます。「問6」というのは、自分にとって道徳の授業が役に立っているかどうかというのでございますが、この4番に「記憶していないのでわからない」というのがございます。これは本当に記憶していない場合と、実質上やられなかったためにわからないというのとを含んでいると考えられます。そこで、実施していないのは最大限16.3%以内と考えることができると思います。
  例えば、「問9」では、この数字が12%台でございます。「問10」では13%ないし14%と出てきまして、記憶している内容による違いがございますので、実施していないのはほんのわずかだと言うことができると思います。
  これは学校調査ではたぶん出てこないのであって、教師の個人差がございます。優れた学校でも、やっていない教師があり得るわけで、そういう教師に指導を受けた場合に、このような答えになってくると言えるかと思います。
  「(2) 問題を生じている原因」でございます。
  「1)」ですが、教師の研究不足の問題がございます。学習指導要領では、これは下の「参考」というところにもございますし、「ア」のところにもございますように、「内面に根ざした道徳性」、つまり心を育てるということが目標になっております。それから、第3章の「目標」にも、「基盤としての道徳性」、行いの基盤としての道徳性、つまり、心の中によい行いないしよく生きるための基準を形成していくというのが学習指導要領ですけれども、これをいきなり、「こういうことはいいことだからやりなさい」という指導にしていきますと、子どもたちが受け入れてくれない、そういう現状がございます。
  それから、「イ」でございます。進学だけに目を向けている校長さんがいる。これも学校が活性化しない原因の一つになっております。具体例は時間的に省かせていただきます。ただ、進学に関しては、道徳教育に力を入れて心を育てた学校では、結果として進学成績が上がっているというデータがございます。これは今日はアチーブメント・テストが行われていないためにはっきり出てきませんが、アチーブが行われていたころにははっきり数字で出てきております。この辺、校長先生の研究不足があるということがございます。
  「2)」番ですが、これが一番大きいと思いますが、反対の動きの及ぼしてきた影響。これが直接間接に非常に大きいと思います。
  「ア」でございますが、実施しない学校や教師を生じさせている。これは反対してきた人々あり、その反対の直接の結果が、実際に行われていない教師を生じさせてしまっている。この問題がございます。
  「イ」でございます。教師たちが力を入れて研究しようとする意欲を持たないような効果を、反対の動きが生じさせてきた。これが非常に大きくて、先ほど道徳の時間について成果の少ない実態もあると申しましたが、その成果の少ない実態は、そういう反対の雰囲気があったところから生じた場合が多いと見ることができると思います。つまり、学習指導要領は子どもの心のを育てて、生き生きとした教育をすることができる、そういう内容でございますが、実際上それが生かされていない実態があるというところに最大の問題があるかと思います。
  「参考」としまして、学習指導要領がございますが、これは飛ばさせていただきます。
  2番目でございます。「道徳教育の今後の課題」でございますが、「(1) 道徳教育の十全な実施」が一番大事だろうと思います。といいますのは、学習児童要領に問題があったわけではない。なぜならば、優れた指導が  ―ちょっと振り返っていただきますが、先ほどの道徳教育の実態のアンケート調査の冊子の4ページを御覧いただきますと、「5」というところがございますが、中学生では約6割の生徒が道徳の授業が役立っていると考えている。そういう有効な指導があるわけでございますので、やればできるのをやっていない。ここのところに最大の問題があると言えるかと思います。
  したがいまして、「ア」ですが、子どもたちは自らの生き方を見出しかねて深刻に悩んでいる、こういう姿がありますが、それにこたえなくてはいけないわけでございます。お手元に差し上げてあります資料の中の「参考資料5」を御覧いただきますと、下のほうに意識調査のグラフがございます。このグラフを御覧いただきますと、円グラフの真ん中のところですが、自己評価の低い高校生が7割を超えております。なぜ自己評価が低いかといえば、その右上にございます「学校教育への期待」のところで、人格形成についての指導を多くの生徒たちが一番望んでいる。どれほど生きるということに悩んでいるかということがわかるかと思います。
  その上に新聞の投書が二つございます。中学生の生き方を見出しかねて非行に走っている心の中と、それから23歳の女性で、成人であるにもかかわらず、この投書の下の段の最初の3行を御覧いただきたいんですが、「価値観が多様化する中で自分だけの生き方を探していくことはつらい作業だ。」、自分の生き方がまだ見出せないと言っております。このことの非常に大きな問題は、資料の最後のほうでございますが、「補足資料3」でございます。
  「補足資料3」に、私が昭和58年に書いた本の中から、なぜ今の子どもにとって生き方が見出せないか、課題かということを書いたものを載せておりますが、このほとんどの部分は、この女性が自分の生き方を見出せないと言っている悩み、それを指摘したものでございます。
  レジュメに戻りまして、「イ」でございます。不十分なところがあるのは、特に反対の動きの影響が大きい。そこで、現在の道徳教育を変えていくことは、むしろ反対してきた人たちの思うつぼになっていて、道徳教育を実質上後退させていくことになるというふうに私は懸念いたします。
  「ウ」のところですが、「我が国の場合特に」と書いてございますのは、アメリカ等と比較しますと、アメリカでは御存じのように、人口の5%のエリート教育を確保すれば国家は安泰だという考え方をしておりますが、我が国はすべて平等の原則でございますので、道徳教育で人間らしく生きる力を育てませんと大変なことになる。そして、そのことをひそかに期待している人たちがいるのではないかとさえ思われる。このことは、国鉄がJRになったことを比較して考えたいと思います。国鉄の場合は、国民経済のお荷物になって、経済の足を引っ張っていた。教育の場合は、心をしっかり持った人間らしく生きる生徒を育てないことによって、我が国を弱体化させるという効果が生まれてしまう、そのことを非常に懸念いたします。
  「(2) 」番目でございますが、道徳教育の趣旨の徹底方策を再吟味する。今も研修その他で文部省の力を入れた施策がございますが、これをもっと再吟味していかなくてはいけない。
  「1)世論の喚起」が大事かと思います。世論のバックアップがございませんと、学校は世間から見えにくいという実態がございますので、効果の上がらない実態も生じてしまう。この問題がございます。
  「イ」でございます。学校教育を世間が常に注視していていただきたい。それから、学校教育を注視するということでは、教員の意識に学校教育を白紙委任されているかのごとき意識が結構ございますが、そうではないということをはっきりさせることになります。国民からある一定の条件を付して教育を委託しているのであることをはっきりさせる。このことをしませんと、教育は専門家であるおれたちが何をやってもいいという意識を持つ教師もいるということがございます。
  「ウ」でございます。家庭教育の着眼点を明示する。着眼点ははっきりあると言えると思いますので、ここでは触れませんが、そういうことを明示しまして、世の中全体が関心を持ってもらわなくてはいけない。
  その背景の上に、「2)学校における道徳教育の徹底方策」をさらに再検討していいのではないか。
  「ア」としまして、研修を一層強化していく必要がございます。このことは、「参考資料」の2番目に差し上げてございます、「中学校における生徒と教師の人間関係に関する意識調査」の中で、その分析ですが、2ページの調査結果の一番最初のところに「a」としまして、「若い教師に、生徒との関係に自信が持てない傾向が見られる」。これは生徒との関係で自信がないというふうに答えた教師たちの答えを集計したものでございます。20代で34.8%。これだけの教師が自信が持てないという状況にあっては、指導が徹底しない。つまり、内容的にはどれほど大事なことが文部省や教育委員会から提供されても、それを生徒になしきれないという教師がいる。この現状では、生徒との接点で有効な指導にならないと言えるかと思います。したがいまして、教師が学校に常にいることは大事ですが、自信のない先生がいるんだったら、何時間か何日かの研修をしてもらって、自信の持てる、指導力のある先生になって学校にいてもらわなくてはいけないと言えるかと思います。
  ちょっと時間を取りましたが、「イ」でございます。いじめ等、深刻な問題が生じた学校では、その学校に文部省が今までも調査に入っていると思いますが、その調査の一環として、直接の問題だけでなくて、教育課程の実施状況がどうであるのか、特に心を育てる道徳教育を具体的にどうやっているかという具体的な調査をやりますと、一つの学校にこういうことが行われただけで、全国に横に広がります。もし教育課程を十全に実施していない上で問題が起これば、当然、その学校の責任が問われなくてはならない。そういう意味で、一つの学校の調査をしただけで、全国に実施をさせていく非常な圧力になると言えるかと思います。
  あと時間の関係で省きますけれども、列記しましたような項目は、これからの充実方策の上で非常に重要になるかと思います。
  徹底方策の中で、「エ」のところを御覧いただきたいんですが、全教師が専門的な指導ができなくてはいけない。それは括弧の中に入れてございますが、例えば思いやりの心を育てる場合に、「思いやりの心を持ちなさいよ」と言えば持てるものではなくて、もっと人間として構造的にとらえていかなくては指導が定着いたしません。これは「補足資料」の中で、一つだけ後ほど御覧いただきたいと思いますが、中等教育資料からの抜粋がございます。
  「補足資料4」でございます。「命を大切にして生きる活力を育てよう」というところに、直接必要なことを教えれば身につくものというものではない、立体構造としてその能力を育てていかなくてはいけないという意味のことを載せてございます。例えばそういうふうに、実行が子どもたちに実現するレベルで、そのことが結果として生ずるように指導する。ストレートに教えて効果がないものならば、組み立てて指導することによって、結果として子どもに実現するようにしていくのが、教育の専門的な営みかと思います。そういう点をしっかり研修してもらう必要があるかと思います。
  「オ」でございますが、教師には教科中心の意識がある。特に中学校にはございます。子どもの教師である、このことが大事です。
  「カ」のところで、指導力を持ってもらう。道徳教育における指導力は、教科における指導力と意味が全く違います。そのことをしっかりわかってもらわないといけないということがございます。
  それから、「キ」として、校務分掌上の道徳主任の位置づけをもっと明確化したほうがいいと言えるところもあろうかと思います。
  「(3) 道徳教育の意味の理解の徹底」でございますが、これは時間的に「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」を省かせていただきます。精神的に自立する能力を育てているのが道徳性を育てるということの意味であるし、それから心の中に価値高いものを大事にする心が育ちますと問題行動に走らないで済むという実態も、幾つかの資料からございます。資料は省かせていただきます。
  「2)社会にとっての意味」、これは言うまでもないかと思いますので、省かせていただきます。
  3番目、本審議会の答申に御期待申し上げたいことがございます。
  「(1) 」番ですが、「心の教育」の内容を、例えば思いやりとか、正義感とかいうふうに示すよりも、むしろ現在の心の教育の内容をとらえ直し、教育が成立するように再構成しませんと、教育に直結することはできません。例えば、「正義感を持てよ」と言って、持てるものではない。したがって、正義感が子どもに結果として身につくためにはどうすればいいか。とらえ直しが必要でございます。そのとらえ直しの例ですが、「補足資料1」は、河野先生と私の名前で呼びかけたものでございますが、この1番の3枚目のところに、私がとらえ直し、再構成したものがございます。
  それから、「補足資料2―1」でございますが、これは高校教師向けに書いたものでございまして、心の教育をどうとらえるか。
  それから、「補足資料2―2」は、心の教育をどのように指導したら、答申が期待しているような内容が子どもの上に実現できるか、そういう指導の着眼点を書いたものでございます。
  そういった再構成することであるならば、再構成をして、きちんとした教育をしなさいという呼びかけをしていただくか、あるいは答申の内容そのものを、そこまで見通した内容にしていただく。そのほうが実効があると思います。といいますのは、思いやりとか、正義感とか列記されますと、教師の中にはそのまま「思いやりの心をしっかり持ちなさいよ」という指導をしかねない教師が結構ございます。
  そこで、そういう現状を見通しますと、教育論的な検討を経た上で、心そのものを育てる。心そのものは、我が国の学校教育では、特に「高等学校学習指導要領解説総則編」の63ページに端的に書いてございます。自由な社会で自由に生きる人間の能力を育てるんだぞという意味のことが書いてございまして、自分自身に固有な判断基準、行動基準を育てる。これはレジュメの1枚目の真ん中ちょっと下に「参考」としてございますが、そこに引用してございます。自分個人の主体的な価値観を育てるのだとございます。主体的な価値観を持てば、思いやりであるとか、国家観であるとか、世間で非常に大事にしなくてはいけない価値を、自然に大事に取り込んでいくという結果になるかと思いますので、そういう答申を御期待申し上げたいと思います。
  レジュメの4枚目でございます。「(4) 」、抜け道を生じさせないような学習指導要領の配慮も必要であろうと思います。「ア」「イ」「ウ」「エ」とございますが、体験等が今、子どもたちにおくれていると思いますので、体験を重視する教育活動は非常に大事かと思います。特に触れ合い体験とか、自然体験等が大事でございますが、特に「ウ」でございます。体験を通しての学習は、道徳の時間の外に増やすほうがいい。といいますのは、もし道徳の時間に体験活動を入れていいよとなりますと、現状の中に、スポーツをさせて道徳の時間をつぶしてしまうという実態もございます。そこに口実を与えて、ブラブラ散歩をさせて、地域体験ということにドッと流れていく恐れがございます。
  もう一つ、体験は心に受けとめる教育を伴うことによって、ようやく定着する。これは学説も今までもちろんございますし、それから実態としても、この前の阪神大震災のような際に出てきたもろもろの実態としても、そういうことが言えると思います。そこで、これを道徳の時間を実質上無化するような動きに利用されてはいけないと思います。
  時間的な関係がございまして、あと省かせていただきますが、「(6) 」番目でございます。新聞等に出てくる問題がございますが、学習指導要領が悪いというようなことを書いている例がございました。つい10月にも非常に高名な方が、学習指導要領が悪いと書いてございました。どうして悪いのか、そこのところは検討していないようですから反論しようと思いましたが、受け付けてはくれませんでした。そのように批判すれば、そのほうがマスコミには乗っていくというところがあるかと思います。そして、高名な方がそういうことを言いますと、学習指導要領は本当にだめなのかというアナウンス効果を持ってしまって、道徳教育の足を引っ張るという実態があるかと思います。そういう点まで含めて、審議会のほうから実効のある心の教育への教育論的な検討を経た答申を出していただければ、これが非常に大きな力になるのではないかと思います。

○  どうもありがとうございました。
  ただいまの御発表に対して御質問等ございまいたら、お願いしたいと思います。

○  お話を聞きながら、私のこれまで教育界にいた経験からいたしましても、そういうものを実現していくためには、相当の力量を持った教師がいなければいけない。今の教師がそうでないというわけではありませんが、今のような充実した内容を踏んまえて教育ができるという教師は、そうどこにもいるのではないと、思いました。
  そこでこれからは、教師の養成を充実させる必要があるのではないか。そのためには、教員養成の課程でのいろいろな勉強や実習が大切です。しかし、教育実習はあまり重視されていないかのようであり、出身校へ行って教育実習を受けるというような面もあります。  少し本論からそれましたが、教員養成を少し考え直す必要があるのではないかと思われます。

◎金井意見発表者    私も今、省きましたけれども、要旨の4枚目の一番最後の「(5) 」のところに、教員養成が重大だという認識がございまして、御指摘のとおりに私も思っております。
  それから、ちょっとつけ加えますと、道徳教育の研究という科目が教員養成用の科目にございますが、大学によりましては、その教師本人の十分な吟味を経ない反対論  ―反対論というのはよほど学問的な吟味をしないとできないはずですが、それから吟味をしたら反対論はとても出せなくなるはずですが、そういうことをやって単位を与えている大学もあるということを聞いておりますので、これはだめであって、むしろ実践的に教室でどう指導するかということを勉強してもらわなくてはいけないと思います。

○  道徳の授業を数年前までやっておりましたので、現場の立場から少しお話をさせていただきます。今、教員養成の問題が出されましたが、養成課程の中で、道徳教育あるいは道徳の時間について、恐らくほとんどの学生が学んできていないという現状があるのではないかと思います。というのは、教育実習生の様子を見ておりますと、自分の教科についての指導案が書くこと、1時間1時間の授業を構想していくことで精一杯の現状がございます。しかしながら、私たちは2週間という実習期間の中で、道徳の授業だけでなく学級活動の授業も実習させております。先ほど若年教師についての貴重なお話がございましたが、まさにそういう現状があるのではないかと思います。
  一人前の教師としての育成を図っていくためには、何といっても教科に強くなっていくことが一番大事でありますし、子どもとのかかわり、子どもに対する指導力を身につけていくことが優先されます。お若い先生方は、なかなか道徳の時間にまで手が回らない。その場で行き当たりばったりの授業をやらざるを得ないという現状があります。
  このような現状の中で、各学校では教師の組織力でもって、お若い方々への支援を行っております。例えば、道徳の時間の指導略案をお互いに交代で作成して、それをもとにみんなで道徳の時間の授業を行う。また、遠足や宿泊訓練がある時には、これらの体験とかかわらせた道徳の時間の授業を実践する。学校・学年の研修の中で、互いに指導力を高め合っていこうという実践を行っているところもございます。
  道徳の時間の授業をきちっと先生方が行えるようになるには、かなりの時間がかかります。それは、子どもたちが本音を出し合って自分の生き方についての内省を深めていくことができるような学級づくりが土台となるからです。お若い先生でも子どもとの信頼関係をつくっていくのが上手な方もおりますが、一般的には道徳の時間の授業の難しさというものを抱えながら実践が行われているのではないか。
  教員養成の段階でもって、道徳教育や道徳の時間に関する勉強や、よりよい対人関係を築く資質を身に付ける活動を行うことがこれから非常に重要になるのではないかと思います。

◎金井意見発表者    今の御指摘のところがかなりあると思いますが、実は教科指導は、道徳の指導ができるような子どもの見方がないと、本当のいい指導ができないという実態がございまして、相互関係でございます。
  もう一つは、力がなくてはいけないわけですが、差し上げました「参考資料1」から見ましても、かなりの先生方がいい指導をなさっている。それから、説明を省きましたけれども、「参考資料4―1」と「4―2」でございますが、生徒がこういった手紙を元担任に書いているわけです。つまり、人生をこの先生によって救われたという、そこまでとれるような、優れた指導がございます。
  もう一つ、相模原の中学校の生徒たちが、1年間を振り返って書いたものが「参考資料5」にございます。
  教員養成においても、例えば「参考資料7」は、私の道徳の授業を受けた後で、学生が書いたものでございますが、こういったことができるわけでございます。きちんと筋道、原理を踏まえてやってもらえば、これができる。これはお世辞で学生が書いたかといいますと、先輩からも聞いていますということが二、三出てまいりますから、決してお世辞とは言い切れないと言うことができる。できることなのだから全部の教師にやってもらわなくてはいけない。これが現状の一番の課題かと思います。

○  まず初めに、先生がいらっしゃる前に御説明を伺った文部省の資料5の「道徳教育の内容」のところを拝見しまして、それから先生のレジュメの「2」の「(3)   道徳教育の意味の理解の徹底」という、道徳教育の意味のところを拝見しまして、一つ思いますのは、これからの日本にとって必要なことを考えたときに、道徳教育の内容がもっと抜本的に変わるべきではないだろうかという印象がございます。
  一つは、たぶん名前も変えないといけないんじゃないだろうかという気がするんです。その意味は、例えば今の選挙の投票率の低さ、あるいは政治に対しての無関心、あるいは、基本的には社会秩序をつくっていくのは一人一人の個人であって、個人が能動的に社会に対して働きかけることが、これからの日本の社会がいい社会になっていくために必要だと。これは規制緩和の意味でもあると思うんですけれども、そういったことがないと、これからの日本社会は国際社会の中で大きく変化を遂げ、発展していくことができないだろうと私は私の立場で思うわけでございます。
  先生のお話は、あるいは表側しか読んでいないかもしれませんけれども、そういった社会に対して能動的に働きかける部分が、若干触れられているように見えるところもありますけれども、基本的に心の問題を中心におっしゃっていらっしゃると思いまして、それだけでは十分ではないんではないだろうかという気がします。文部省の資料の小学校高学年、中学校のところをずっと読ませていただいたんですけれども、基本的に集団の中に自分があって、その中でどういう役割と責任を果たすかということでありまして、その属する集団をどういうふうに変えていくか。変えていくことが自分の責任であり、義務である、あるいは権利である。それが民主主義社会のベースなんだという部分がないんじゃないでしょうか、という気がするんです。その点について御意見をお聞かせいただけるとありがたいと思います。

◎金井意見発表者    今の社会形成能力に関してどうかということですが、これは先ほど口頭ではちょっと申し上げましたが、社会に奉仕するとか、国家を大事にするとか、正義感ということは、それをストレートに教えて、子どもが受け取ってくれるとは限らないということでございます。
  したがって、もっと別に言いますと、自分が生きる希望があって、自分の人生が大事であれば、その生き方を保障してくれる場としての社会や国家が大事になる。自分の人生が大事だと意識されるかどうかを抜きにして、「国家観が大事だぞ」「秩序が大事だよ」と言っても受け止めてくれない。例えば小学校4年生が、平成6年に厭世自殺した例が栃木県でございました。自分の人生が見出せない人間には、秩序はほとんど意味がなくなる。それから、ある本の中で、自分の生きるという方向を見失ってしまった人間は、善悪の判断すらもつかなくなるということについて、具体例を挙げられております。私はそれは非常によくわかります。そこで、まず自分が生きるという希望が持てるような、自分の生き方をデザインできるような能力を育てていく。そうすると、当然に国家、社会は大事であるし、人類の平和も大事であるしというふうになってくると思います。
  そこで、立体的に組み立てていくべきであって、まず生きる希望のあるような子どもを育てて、それから生きる場として、自分たちがどういうふうにしていったらいいかということが出てくると思います。
  先ほど、文部省から御説明のありました内容項目でございますが、内容項目は四つの視点によって組み立てられております。「主として他の人とのかかわりに関すること」、これは子どもたちはほかの人といい関係をつくっていきたいという望みを持っているわけで、私どもも同じでございますが、ではどうすればいいのという目で、この内容の括弧書きの項目を見ていただきますと、子どもたちがほかの人といい関係をつくっていくために必要なことが書いてございます。「集団や社会との関係」ではどうか、ここに川口先生が御指摘の社会を形成し、能動的に秩序をつくっていく、そういう問題を含めて、社会における義務とか、責任がございます。「社会の中で自分が立派に生きていくとしたら、どういうことが大事なの」という問いかけから考えますと、この項目が大事になってくる。そういう関係にあるかと思いますので、先生の御指摘の内容は、子どもに実現することが必要な能力を実際に持ってほしいというレベルでは、先生のおっしゃるとおりでございます。それを教育論的に言うと、今申したような組み立て方が必要かと思いますので、内容的には先生のおっしゃるとおりかと思います。

○  我が意を得たりという部分がかなり多く、大変ありがとうございました。実はこれを考えましたときに、幼稚園の教育要領をよく見ますと、すべて先生のおっしゃったようなことを踏まえているんです。というのは、小さい子どもに「悪いことをしちゃいけないよ」と言っても、いいことと悪いことがわからないわけです。口で言ってもなかなかわからない。これをわからせるためには、教師と子どもが一緒に生活をして、その中で覚えていくわけです。そうすると、幼稚園には教科というのはございませんで、領域というのがございますけれども、その領域すべてが生活そのものなんです。ですから、幼稚園の教育要領を中・高の先生たちが十分理解をすると、この問題は半分ぐらい解決できるんじゃないかと思います。それから、幼稚園の現場もそうですから、教育実習のときに、当該学校だけではなくて、幼稚園、保育園ぐらいは行ったほうがいいように現実に思います。幼稚園の教科は生活科があるのみです。ただし、よく考えますと、物理にしても、英語にしても、社会科にしても、それは何のために教えているかというと、人間の生活の拡充のためですから、広い意味では生活科の一部であります。ですから、あらゆる教科の中で生活をともにする部分をつくり、それを通じて、子どもに感づかせる部分をつくることが大事だなと思いました。そのキーワードになるのは「幼稚園の教育要領」であり、幼稚園の生活と、こういうふうに言いたいわけであります。

○  基本的に金井先生と私のスタンスで同じところと違うところがございまして、道徳の教育をやらなければいけないということは基本的に賛成でございます。問題は、道徳教育のありようを考えていく場合に若干違うかと思います。道徳の時間という教科はこのままでいいんだろうか。もう少し見直してはどうか。例えば、「生きがい科」とか、「ボランティア科」とか、そういう形で。要するに、ほぼ40年たってまいりますと、いろんな制度疲労を起こしている。いろんな動きもありましたけれども、先生も頑張っていますけれども、まだまだ不十分だ。例えば、道徳の授業の名人がいない。社会科と国語というのは名人がいるんでございます。理科でも、数学でも。なぜ40年たって、道徳授業の名人がいないのかということ。
  もう一つは、先生も御指摘されていますけれども、道徳主任とか、特別活動主任のなり手がいないんでございます。最後はくじ引きで、残った方がやっているような現状がある。特別活動の場合はなおさら主任のなり手がなくて、市教研とかのレベルでは部会が成立していないところもあると聞いております。そういうふうに考えますと、教科指導の得意な方は多いんだけれども、道徳の授業というのは、先生御承知のように、発想を大転換しなければいけないんだと。そうすると、今の教員たちに道徳の授業を任せてもいいんだろうかなという懸念をしております。
  それで、できましたら、授業の構成はうまいんだけれども、中身としては地域人材の活用あたりをお願いして、もう少し社会に開いて、例えば45分の授業をやる場合に、40分間は地域の方にやってもらう。あとの5分のまとめあたりを教師にやってもらうとか、今の授業の在り方を変えてはいかがかという感じがしております。
  もう1点は、体験活動を導入すると、例えばスポーツのほうに持っていかれるような危惧があると。確かにそれはあるだろうと思いますけれども、今までの私の印象ですが、道徳の授業は座学の授業が多過ぎた感じがします。もう少し教室とか、学校という範囲を超えて、例えば地域社会に行く、自然の体験学習をするという中で、道徳のありようを提案していきたいと思っているんです。私は、もう少し地域と自然の第4領域と申しましょうか、そういうところまでも踏み込んだ道徳の授業のありようを考えているんでございますけれども、いかがでしょうか。

○  私もよく似たような感じを持っているんですが、やはり学校外の人材をうまく利用できないかなと思っています。ただし、それは先生のおっしゃったように、自分が逃げるために使ってもらったんでは全然だめで、自分はできないからだれかに任しておこうというんじゃなくて、その先生が、どうしてもあの人に来てほしいとか、それからその先生が実際にスポーツを見ておられて、あんな選手にうちの子どもたちに話をしてほしいというような、先生の心の中から出てきたことと学外からの人との気持ちが一致するといいますか、そういう格好で導入してもらったら非常にいいんじゃないかと思います。これは恐らく生徒も喜ぶし、先生としても一緒に聞きたいというか、先生も質問もしたいというか、そういうふうに持っていかれたらいいんじゃないかと思います。

◎金井意見発表者    今、おっしゃいましたように、先生が逃げるためではなくて、この人を活用するという地域人材の活用は大事かと、私は個人的には思います。それは進路指導でそのようにやって、非常に効果を上げている学校がございます。地域人材の活用は大変大事だと思います。
  それから、道徳の名称の問題でございます。これは道徳の調査によりまして、イメージカラーをとっておりまして、若者ほど道徳に「明るい」とか、「人間らしさを感ずる」という感じ方がございます。年齢別に道徳のイメージも違っております。私なんか古い年齢ですけれども、私どものイメージとは違った道徳のイメージがかなり出てきている。このことをとらえて考える必要があるということが一つでございます。
  もう一つは、「期待される人間像」が出されましたときに、あの中身は至極当然で、民主主義社会に生きていく人間にとっては、全くすばらしい理想的な人間像だと思いますが、あれを国が提示したということで反発があった。としますと、結果としてああいう人間が育つように仕向けていけばいいのであって、同じことは名称でも言えると思います。例えば、「心の教育」とか、「人間科」というふうにしても反対をしてくる人はいるので、名称は慎重に御検討いただきたいのですが、名称そのものだけでは片がつかない問題が底流にあると思います。その問題をどうするか。これが先ほどの体験の問題でもございます。ここで議論されているような方向に全部の学校がやってくれれば、体験というのは道徳の時間の一部に入ってきても意味があるかもしれません。ところが、大部分は流用されてしまって、体験でいいということになったからというそこのところをテコにして、流用してしまって、実質上「道徳の時間」を無化していくことになることは、これまでのいきさつから見て明らかだと思います。
  そこで、体験活動は道徳の時間の外で実施して、そして道徳の時間の中でそれを深める。これは「参考資料」の中にも実践例がございます。もう時間がございませんから、例を引きませんが、小学校での外で行われた体験活動を活用した道徳の時間の実践例があって、非常に優れた成果を上げております。そういうふうに活用するほうがいい。そうでないと、また大変なことになって、事実上無化していくということを恐れるわけでございます。
  それから、道徳教育の名人がいないという御意見がありましたが、これは後のお二人の会長さん方がたくさん事例をお持ちだと思いますし、私も知っております。実に名人がおります。名人がいますから、生徒たちから後になって感謝の手紙が来るような、こういう実践があるわけでございます。中学生でも6割はある。名人ではないかもしれませんが、非常によかったというのが6割もございますので、名人はたくさんおります。

○  それでは、引き続きまして、堀内虎満先生と津田知充先生でございます。堀内先生は、現在、千代田区立九段小学校の校長先生でいらっしゃいまして、小学校道徳教育研究会の会長をお務めでございます。それから、津田先生は、町田市立町田第一中学校の校長先生でいらっしゃいまして、中学校道徳教育研究会の会長をお務めでございます。お二人の先生から、本日は小学校と中学校それぞれにおける道徳教育の取り組みの現状と課題についてお話しいただきたいと存じます。
  それでは、まず堀内先生、よろしくお願いいたします。

◎堀内意見発表者    御紹介いただきました千代田区立九段小学校の堀内でございます。よろしくお願いいたします。
  私は、「小学校における道徳教育の取り組みの現状と課題」につきまして、三つの視点から申し上げます。
  第1は取り組みの現状、第2は研究組織の活動状況の一端、第3は課題であります。
  第1点目ですが、豊かな心は、学校、家庭、地域社会の好ましい教育環境、条件のもとにはぐくまれますが、中でも学校における道徳教育の果たす役割は極めて大きいものがあると考えております。学校における道徳教育のかなめでもある道徳の時間は一層の充実が期待されており、学校はその期待に強くこたえることが必要であると考えます。そのためには、学校として今、何をすべきか、何についてどのように取り組むかなど、道徳教育推進と充実のためのプログラムを再構築することが急務になっています。
  それでは、小学校における道徳教育充実のための取り組みについて何点か申し上げます。
  第1は、道徳教育の指導計画の確立です。学校における全教育活動を通して行う道徳教育の重要性を全教職員が認識し、学校における道徳教育の全体計画や年間指導計画、学級における指導計画を作成したり、時に応じて改善したりしています。現代社会の課題や学校・家庭・地域社会、さらには児童の実態などの的確な把握と考察、それに基づく改定、重点的な指導、他時間扱いを考えた改善であります。
  第2は、道徳授業の充実であります。これは現在、週1時間の道徳の時間を確実に実施することであり、それは子どものための子どもを主体にした授業実践にほかなりません。学級担任の教師一人一人が、道徳の時間の大切さをしっかりと自覚して、確実な資料のもとに指導方法を工夫し、効果的授業の展開であります。道徳の時間数の確保は当然のことであります。
  第3は、家庭・地域社会に対しての道徳教育に関する啓発です。道徳教育は、家庭・地域社会からの強い支持が必要であり、そのためには学校としましては、保護者会、地域懇談会、学校通信、授業参観などで、道徳教育やいわゆる心の教育の大切さについて十分啓発し、理解・協力を依頼しなければなりません。また、学校での道徳的実践の状況を知らせたり、毎週行われております道徳授業の内容を家庭に連絡したりしながら、道徳教育は身近なこと、保護者自身の問題でもあることの十分な理解を図ることだと考えております。しかし、家庭教育がなすべき部分まで学校が立ち入ることは困難な場合があります。家庭の教育方針というのは十分尊重しなければなりません。ここでは道徳性の育成について共通な基盤に立つということを大切にしております。
  第4は、道徳教育に関する校内組織の充実です。教務、学年、生活指導、各主任、専科、それから学校行事、保健室、教育相談など、各組織が機能的・能動的に作用しなければなりません。道徳教育の充実という大きな目標に向かって、全教職員で取り組むことが大切になっています。そのためには、校長のリーダーシップ、あるいは推進役としての道徳主任の役割が重要になっています。
  第5は、道徳教育を進めていく上での基礎・基本です。それは教師の児童理解です。学級経営の視点から、一人一人の子どもが今何を考え、何に悩み、何をしているか、また、しようとしているかを把握して対応することです。家庭との連携をも含め、保護者との好ましいコミュニケーションを成立させておくことが大切になっています。
  最後に、道徳性の評価です。指導の結果に対する評価は当然であり、評価のない指導はあり得ません。授業に関しての評価と、指導計画や指導案に関する評価が必要です。指導要録にある行動の記録は、道徳性の評価の一つの目安になっております。
  それから、大きな2点目ですけれども、これは資料にございます研究団体組織の活動と取り組みの一端です。道徳教育推進にかかわる主な研究組織として、そこに掲げられているような研究団体があります。
  一つは、全国小学校道徳教育研究会でございます。これは全国組織であり、毎年、全国大会を開催しております。本年も九州・福岡市において、10月に四つの会場で2日間にわたって行われました。大会事務局の集計では、延べ2,700名の教師がこれに参加しております。
  また、各地区別の大会がございます。北海道地区旭川大会、これは昨日と本日行われております。東北地区の宮城大会、これは既に仙台で行われました。それから、関東地区ですと千葉大会、これは11月に袖ケ浦市で行われます。近畿地区の京都大会、これも11月に京都で行われます。中国地区の鳥取大会、これは米子市で6月に既に終わっております。九州地区福岡大会、これは全国大会と一緒でございます。そういうふうな各地区の協議会による道徳教育の実践、あるいは研究大会が開かれております。
  それ以外に、各都道府県の小学校道徳教育研究会というのがございます。これは各都道府県ごとに、それぞれ実践に基づいた研究発表、あるいは研究協議が行われております。
  そのほか、さらに区市町村段階になりますと、そこでもやはり道徳教育研究部会というのがございまして、関係する先生方がそこでそれぞれの学校の実践を持ち寄り、研究を深めております。
  それから、大きな3点目ですけれども、これもお手元の資料にございますが、小学校における道徳教育実施上の課題です。これは先ほどお話ししました全小道研(全国小学校道徳教育研究会)の関係者約450名からのアンケートでございます。
  何が必要かということでございますが、多い順に並べてございますけれども、まず一つは、道徳教育研修会の充実。道徳教育の基礎・基本、それから実際の現場の先生方の授業実践の研究、あるいは1時間の指導法の工夫、これらを中心とした研修会が一層必要であるということ。
  二つ目は、道徳教育の重要性を再認識しなければいけないということ。特に管理職のリーダーシップ、これが必要ではないかということでございます。
  三番目は、道徳の時間の指導資料の開発でございます。より楽しい充実した授業をするためには、道徳のよい資料、それから副読本の採用、それから活用が大切になります。
  四番目は、道徳の時間の確保でございます。週1時間でございますけれども、年間35時間というのはきちんと行うということが、まず量的な面からも必要ですし、さらに内容面からもこれは充実していかなければいけないと考えております。
  五番目は、学校・家庭・地域社会と連動した道徳教育の推進でございます。特に先ほどもお話がございましたけれども、地域の人材の活用、あるいは地域にある優れた道徳的な地域教材の開発、これらは道徳の授業を充実させるためにも非常に大事なことであると考えております。
  六番目は、実践的な道徳指導の充実でございます。特に道徳的な体験活動、あるいは実践の重視、教室での授業と相まって実践的な道徳の指導、いわゆる体験活動、実践指導を充実しなければならないと考えております。

◎津田意見発表者    大方、小学校のお話と同じなんですが、5年ほど前に、文部省の全国調査が行われて、その発表が平成6年3月にありましたので、それをまず取り組みの現状ということで挙げたいと思います。
  この調査結果によると、で道徳教育の全体計画や年間指導計画が、98%を超える高い率で整備はされている。このことは第1回の全国調査の結果から文部省のほうからも指導があって、そういう結果を生んでいると考えております。しかし、全体計画を受けて、具現化した学級における指導計画を作成していると回答があったのは65.4%です。65.4%というのは、まず間違いなく学校挙げて道徳の授業がきちっと行われていると受けとめられます。ただし、学級における指導計画をつくらないけれども、道徳の時間をきちっとやっているという実績も多いわけです。
  その次に、平成4年度の1年間に道徳の授業がどれくらい行われたのか、学級別で調査したものがあります。ここで考えなければいけないところは、19時間以下の学級が7.6%、あるという点です。この中には、全く道徳の時間を行っていないというのも含まれているわけです。
  7.6%という数値の意味には、中学校の場合子どもたちの生活態度の改善や学校行事等で、どうしても学活の時間だけでは対応していけない事情が含まれています。週に1時間学活がありますが、生徒会行事、文化祭、運動会等が近づいてきたときには、学校全体が取り組めるのは道徳の時間と学活ということで、どうしても道徳の時間を学活に充ててしまう、学校行事としてやってしまう、そういうことがありますが、それがこの中に含まれていると考えております。
  そういうことで、文部省の今から5年ほど前の調査はこういう状況ですが、学校で全く道徳の時間を無視しているというのは本当に少ないのではないかと思いますが、毎週、毎週やっているところは、非常に厳しいということも言えると思います。
  次に、私どもが所属している全日本中学校道徳教育研究会のことに触れたいと思います。全国を八つのブロックに分けて、全国大会は毎年、一応ブロックの輪番を原則としてやっておりますから、小学校の大会と大体同じです。去年は北海道で、小中学校が一緒になってしまったんですが、地域によっては小・中が一緒の組織体がありますから、やむを得ないということで一緒に。
  それから、きのう、きょうと関東甲信越大会を神奈川県でやっており、そのように各ブロックごとに大会を持っている。県として全国大会と別にそういうふうにやっているところがほとんどです。
  そのような活動を通して、やはり全国大会をやって言えることは、やることによって、道徳教育の推進や啓発に大いに役立っているということが言えます。私がこの数年かかわっている徳島大会、岡山大会、福岡大会、北海道大会、ことしは宮城大会ですが、その後の情報ですと、特に若い先生が大会後、各校とのつながりを持ち、そして授業への関心、取組、当然研修活動になっていることが顕著にあらわれております。
  そして、きのう、きょうの神奈川大会では、2年間の研究を経て発表になったんですが、若い先生が、子どもが見えてきた、その結果、子どもたちが落ちついてきたと。先ほど金井先生も言われましたが、道徳の時間と教科は相互関係が強くて、道徳の指導もできない教師は、教科の指導も教師主導型の考え方が強くて、旧態依然としたパターンで、暗記とか、教え込むとか、そういう形から抜けきれずにいる。そういう意味での名人はいると思うんです。
  しかし、子どもが自分にとってこの教科は本当に大事なんだと。自分はこれができるんだ、またはやりたいんだという意欲や関心がわいてくるような授業を考えた場合、すぐにティーム・ティーチングとか、選択教科という授業で行われておりますが、そうなると、まさに道徳の時間とその指導の在り方は同じなんです。教師は子どものことがよくわかり、そしてよりよい人間関係ができていなければそういう指導は成り立たないということで、まさに若い先生方の中に子どもが見えてきたということは、自信を持ち始めたということで、全国大会等の開催県や発表校になったところの若い先生方により多くあらわれていることからも、はっきり言えると思います。
  最後に、課題のところですが、資料の順番は意味ないんですが、子どもの心や体と書きましたけれども、人間の発達段階というのがあります。例えば、既に中学生ですから、思春期を迎えていますが、思春期の前には、児童期があり、幼児期があり、乳児期があるわけですから、そういうことを教師はしっかりと知りながら、親とのかかわりや、連携を深めての教科や特別活動や道徳の時間の指導が行われていかなければ、学校教育の目指す実は熟さないと思っております。そういう意味で、人間の発達段階を多面的に理解しなければいけないということを考えております。道徳の研究活動を通して言えることは、子どもが見えてきたという思いの中には、今まで自分の考えに子どもを当てはめようとしていたことの誤りに気づいて、子どもと一緒に学び合っていくというところから、子どもが教師を信頼し始めたということです。
  次に、これは道徳教育に限りませんが、学校教育は家庭や地域とのかかわりを具体的に持たないと、学校だけで子どもが育っているわけではないということを、本当に遅いくらいですが教師が再認識していかないと、閉鎖性の脱皮というんでしょうか、教師の中には学校という狭い社会に身をおいていますと、子どもの前でお山の大将的な気分に陥り、他の声に耳を傾けようとしない教師がいるわけです。そこにはよりよい人間関係なんて少しもないわけです。
  3番目の望ましい人間関係がなければ、道徳の時間の指導はまずできない、子どもが見えないわけですから。そういう意味では、中教審の答申で言われた「生きる力」の意味することが、ここにあるように思います。
  4番目に、社会の変化が著しい時代を迎えているとき、子どもに「生きる力」をはぐくむことが、学校教育の重要な課題である。これは最近では言い尽くされているわけですが、この課題にこたえていくためには、子どもが学校は自分にとってこんなに大切なところなのかということを認識できるか、そこまで子どもとのかかわりを持っていく必要があるし、そためにも道徳教育は非常に大事な部分を占めていると思っております。
  その他は、日ごろから考えていることをちょっと書きました。
  そういうわけで、教科では一生懸命やる先生はいるわけですが、教科がさらに深まっていく、確かなものになっていくためには、道徳の時間の指導ができるかできないか、教師の人間性が子どもとのかかわりで実れば、それは教科にも反映されると思っております。ですから、いじめでも、不登校でも、また何か行事をやるときにもやりたがらないという子どもがいるというのは、それは教師が信頼されていない。教師が信頼されていないから、仲間もみんな敵、味方ということで、安心できない。そんな学校に行きたくないという思いが、今は素直に言える時代だから、逆に私ははっきりしてきていいんじゃないかという考えを持っています。10年ぐらい前までは、それでも学校へ行かなきゃいけないという子が多かったと思いますけれども、今、そういう意味でも、学校教育の真価が国民から迫られているのではないかと思っております。

○  さっき金井先生のお話で、本当のことが子どもの心に響かない道徳の授業展開をしているという表現がされましたが、そういうような実態というのはどの程度にあるのか、差し支えなければ、小学校で教えていただければと思います。

◎堀内意見発表者    心に響かない授業はどうかということなんですけれども、結論から言いますと、心に響く響かないというのは子どもの主観になりますので、「あなた、響きましたか、響きませんか」ということは聞くことはありません。ただ、道徳というのは1時間、1時間、これが積み重ねられていき、よく「醸成」という言葉を使うんですけれども、ワインが発酵して澄んだお酒になるように、そういうふうなことなんです。やはり1時間、1時間の効果が出る場合と、長い1年間あるいは6年間を通して子どもの心にそれが蓄積される、そういう両面があるんだろうと思います。

◎津田意見発表者    自分の学校を挙げれば一番わかりやすいんですが、全国的にどうかというと、まず心に響かないというのは、道徳の時間はやっているけれども、子どもがそれに対して反応しない、喜びを持たないということでしょうが、道徳を知識の伝達のようにやってしまう先生方がまだまだいますので、そういう場合には、子どもは道徳の授業に興味を持たなくなります。ただ子どもの協力で授業が成り立っているというか、そういう授業が多々あると思いますが、身近の例では、教師がそういう響かない授業をやっていることがわかりますから、続けられなくなる。私どもは道徳の時間に教室を回ります。回ったときに、ごまかしているというんでしょうか、道徳の時間のように見せて、実はそうじゃない。お説教みたいになっていたり、人間としての生き方を一生懸命教えている場面に出会いますが、そういう場合には、ごく簡単な方法で、その先生と話を交わしながら改善を図るということで……。
  先ほども小学校のほうで言われましたが、管理職がそういう意味での責任、リーダーシップを持てば改善は早いと思うんです。そんなに難しい問題じゃないように思うんです。響かないような授業を行っている教師はつらいですから、それはやめてしまうだろう。何か詭弁というんでしょうか、教科指導とか、行事があればすぐそちらに飛びついて、それを理由に道徳の時間がなかなかできないというようなことは言うでしょうけれども。
  それから、反対の影響ですが、これは実際に情報交換を  ―きょう、ここには載せなかったんですが、情報交換を全国の集まりのときにやりますが、大体出席するのが校長先生たちとか、熱心な先生方ですから、そういうところではなかなか情報を得られないんです。四、五年前あたりまでは受験競争の激しいところの話ですが、道徳の授業をやっていると親から苦情がでるという情報がありました。大阪のほうの様子はわかりませんが、東京でも受験でもって名の通った公立中学校の中には、そういう厳しいものがあるようです。
  それから、職員団体が活発に活動している地域とか学校には、教科や行事で道徳性を養っているから、道徳の授業をわざわざやるのは価値の押しつけになるという考えを持っている人がいるようにと思います。道徳の授業は、教科や行事等で養われた道徳性を補充・深化・統合していく時間だから、学校として計画的、発展的に指導していくことが大切なんだと話をしても、相手になかなか理解してもらえないという現実があります。要するに、「人」という字を考えたとき、教師は子どもを下から支えて、早く自分の力で立ち歩んでいけるようにするのが仕事であり、教師としての使命感なのだと語っているのですが……。

○  今、子どもたちに伝えるときに、言葉で伝えることが非常に難しくなっているということと、今の子どもたちが感動を持つという機会が非常に少なくなっているんじゃないかと思うんです。そうすると、どうやって子どもたちに感動をあげられるか。もし感動をあげられれば、心の奥に刺さる部分があるわけですから、そういう状態の中で子ども自身がいろんなことを発見したり、自分というものをつくっていくことができると思うんです。
  道徳そのものに関して、道徳という時間が週1時間であるということですね。例えば「道徳」という名前ではなくてもいいんじゃないかと思うんですけれども、週1時間であるならば、まとめの時間であるということでいいと思うんです。ですから、それ以外の時間をどうやって使えるか。例えば、体験をしましょうということになると、それだけではそれが全部つぶれちゃって、何時間分も使って体験へ行くみたいなことになりかねませんし、それ以外の時間との連携というのかな、その辺のところがこれからの研究課題じゃないかと私は思います。
  総合的学習の時間という時間ができそうでございますし、そういう時間でまたいろんな試みをする、体験をしたり、いろいろなことをしていく中で、それを今の「道徳の時間」と言われる時間の中で整理したり、子どもたちからの感想を聞いたり、そういう中で、先生御自身が一緒に活動をなさっていれば、それは子どもとの間で大きな共感とか、そういうものが得られると思うんです。そういう形にしないと、単独に道徳という時間があって、そこだけで何かしなくちゃならないという状況では、どうもうまくいきそうもないなという気がしているんです。
  そういう意味で、例えば道徳の時間に宿題として、こういうことで、こういうことを調べてきて、それはどうだと思う?  みたいな形で、その時間にそれをまとめていくとか、いろんなやり方があると思うんです。
  私は今、一言でどういうふうに先生方にお願いできるかということなんですが、感動をあげられるにはどうしたらいいかという、その辺のところを突っ込んでいただくと、そこで自然にいろんな問題が先生の中で熟成していくというか、固まっていくというか、そういう状態になるんじゃないかと思うんですけれども、いかがでございましょうか。

◎堀内意見発表者    まさにおっしゃるとおりだろうと思います。道徳の時間というのはまとめの時間、いわゆる補充・深化・統合というふうにお話ししていますけれども、ほかの全教育活動で行われている道徳性、あるいは道徳教育に関するようなことを、道徳の時間に、資料をもとにしながらですけれども、展開の段階、あるいは終末の段階で、想起しながらそこでまとめていく、そういうふうなことが現在行われております。
  もう1点の感動ですが、まさに私は道徳の時間というのは感動と感化の時間だと思います。それには大事な資料、いわゆる感動資料というのがございますが、この資料を使ったときに、子どもは本当に感動いたしますし、そういう機会をいろんな時点で子どもに与えること、これが非常に大事だろうと思います。
  ただ、道徳の時間に、行事とかいろんなことも含めまして、体験を道徳の時間でやるということは、内容的にも、時間的にもこれは困難ですから、いろんな場合、例えば移動教室で行って、すばらしい自然に接したときだとか、あるいは新聞とかニュースで、すばらしい話に出合ったときだとか、そういうところを取り上げて、子どもと一緒に、教師も感動するということだろうと思います。子どもだけに感動しなさいと言っても、これは無理です。それから、道徳の時間すべて感動するというのは難しいわけです。教師と子どもが一緒に感動し、まさにそれが共感ということになると思いますが、大事な御指摘だと考えております。

◎津田意見発表者    きょう、関東甲信越の大会の講師のお話の中で、大学生には言葉がないと言うんです。要するに、会話が会話になっていないということを言われていましたけれども、感動もあわせて、まず教師が正しい言葉を使い、言語環境を整えていくことが大切でしょう。まず、教師自身が感動を持った生き方に努める。そういう意味で、豊かな心を教師が持たなければいけないと思っております。そして、豊かな心は地域や家庭とのかかわりで育っていくもので、三者一体で、その中で補充・深化・統合ではありませんけれども、学校ではやや意図的にできるんではないかと思っているんです。
  道徳の時間は、年間を通して計画的に位置づけてやっておりますから、そういう中で、例えば友情の大切さを学習するとき、  ―いじめとか、不登校とか、学級にそういう課題があった場合には、相手を思いやるためには、一体、自分はどういう考え方、生き方をしたらいいのかに気づかせるような資料を使ったり、深く考えさせていく時間として、道徳に時間はなければならない時間だと思います。家庭でいえば、昔の一家団らん、親子水入らずで何でも話せる。そんな中から家風が子どもに伝わっていくような時間が、学校では道徳の時間のように思っております。

○  これは津田先生の発表にありましたが、若手の教師が関心を持っているというのがありましたが、これは確かにさっきの反対勢力ではないですけれども、50代、60代の者は、ちょっと道徳ということにアレルギーみたいなものがあるんですね。何か急に反発したくなるようなところがあるんですが、若い人はこれは自由になってきていると私も思っております。
  私は、ある大学の先生に相談を受けて、その人がやりだしたんですが、「考える道徳教育」ということで、学生と一緒に考えようというふうにやると、非常に受講生が増えてきたそうです。人気番組みたいになりましてね。同じ学生がまた次の年も取りに来る。というのは、これはみんなで考えるんだから、年ごとにちゃんと変わっている、決まったやつでないからいいというので、どんどん増えてきたそうです。
  そういう点で、今、先生方がおっしゃっている道徳教育というのは、つまり上から説教するんじゃなくて、子どもと一緒に考えていきたいという姿勢が色濃く出ていると思うんですが、そういうことがまだまだ全国的に広がっていないんじゃないでしょうか。まだ古い道徳教育のことを考えて反発している方が多いように思うんです。
  関連して思うんですが、道徳教育の副読本というのが、まだやっぱり、ちょっと古いといいますか、何か見え見えなのが多いんですね。「これ、読んでどう思いますか」と言ったら、だれでもこれは「親切というのはいいことです」と言わずにおれんようなのがありましてね。風呂屋の看板と言っては悪いんですが、あれを少し変えていく努力をなさってほしいです。せっかく先生方が研究会なんかしておられるんですから。今、感動資料というのを言っておられますね。これは私も知っていますが、ビデオなんかでも非常にすばらしいのがありますね。そういうのがだんだん増えてきておりますので、副読本も変えていただくとか、あるいは若手の先生方が実際に道徳教育をやられて、今までのいわゆる説教タイプじゃないのをどんどんやっておられるので、そういうものをもっと発表してもらうとか、せっかく起こってきている新しい動きが社会全般に伝わるような努力もしていただきたいと思っております。

○  それでは、少しまだ時間が残っておりますので、先ほどの文部省からの資料の御説明、それから昨日、小学校、幼稚園へ行かれた委員の方、感想等ございましたら、御質問等あわせてお願いいたします。

○  きのうは佐倉へお供させていただきましてありがとうございました。
  大変すばらしい幼稚園、小学校でした。そして子どもたちも、御父兄の方も、とてもしっかりしておられ感心いたしました。いつも考えることですけれども、このような場に積極的に来て話をしてくださる方々は、すべて問題のない方々ですが、こちらへ向いてくださらないところに、多くの問題が含まれているということです。そのことを念頭に置いて、どのような具体的な施策を立てるかということに苦心しなければならないと感じました。  それから、きょうのお話は大変勉強させていただきましたけれども、今のお話を承っておりまして感じることは、子どもたちに接する人の全人格というものが、人を育てる、感動の機会を与えるということにつながる。自然にしてもそうだと思います。やっぱり本物とぶつかったときに初めて心が動くという感動の場面があるだろうと思います。
  そうしますと、先ほどからのお話の中で、伝記やビデオなど教材にも随分工夫もされているようでございますけれども、ここで検討してみる必要はないのか。人格と人格のふれあい、人格で訴えるというような教材の開発、あるいはその伝達手法の開発。それを先生が伝えるのか、あるいは今まさに情報の世界でございますから、ビデオもありますでしょうが、インターネットなど学校に整備されてきていますから、もっとリアルタイムに、子どもたちにとって非常に影響力があると思われるヒーローや、ヒロインに直接語りかけてもらうというようなことも、今後、研究できないんだろうかということを、今、お話を聞きながら感じました。
  それから、先ほどから先生方のお話の中で、これはぜひとも実現してほしいなと思うのは、地域の人材の活用です。先ほどから言っている人格と人格がぶつかるということになると、メディアを使うよりは、まさに肉声で話していただく、ふれるほうがいいわけですから、そういう場面をつくる工夫をしてほしい。その人の人生を語る、耳を傾けるという場面が出てくるとすばらしいのではないか。私たちが求めているものがそこから生まれてくるのではないかと考えますが、いかがなものでしょうか。

◇  そこは、教員免許という問題は、もちろん社会人からの教員免許ということもありますけれども、それよりはむしろ、きょう、3人の先生からそういうお話があったのは、特別活動や道徳の時間、あるいはいろんな授業の時間に、例えば今は学校医さんとか、学校の薬剤師さんなんかのお話を聞く機会なんか時々あるわけですけれども、それ以外にいろんな意味で非常勤の形で、地域のいろんなリーダーの方なりを、いろんな時間にお呼びしてお話を聞くとか、協力を求めて授業活動をやるということの手法だと思うんです。ですから、免許の問題は、これは少し長いスパンでずっと教えていただく先生のことでしょうけれども、そういう折々の教育活動に、いろいろ外部の人の御協力を得るという手法は、いろいろあるんだろうと思います。

◇  原則を申し上げますと、要するに教科の授業をきちっとやりますよという場合に、きちっと免許状を出しますということにしてありまして、あと特別非常勤免許状を出す場合には、例えば教科の一部、専門領域でいいますと、家庭科の調理の部分を1年間にわたって調理の専門家の方にやっていただきましょうと、そういう長いスパンでやるときに、社会人の方に特別非常勤免許状を出していく、あるいは臨時免許状という形で出していくということでございます。
  実際に一つの、例えば道徳の授業の時間、あるいは社会科の授業の時間、国語の授業の時間に、一般の社会人の方に一人であろうと、二人であろうと入っていただいて、そこでいろんなお話を教師とともにやっていただく、そういった授業形態についてお入りいただくことについては、全く制限はございません。言ってみれば、指導者と言うよりも、アシスタントといいますか、あるいはこう言っては失礼でございますけれども、生の教材ということで考えていただければ結構でございます。要するに、実際の教授法、指導方法の開発とそのシステムをどうつくり出していくかということだろうと思います。

○  先ほども出ました、非常勤講師というのが生きる場合と生きない場合があるんです。大学でもそうです。呼んできた人が、それに真剣にコミットしている場合は大体うまくいくんです。これに対して、まあ、こんな人に話してもらおうというのは、大体うまくいかないんですね。学生は非常に敏感でしてね。先生が本当にきちんと考えたような方の講義には集まってくるんですけれども、そうじゃない場合は、もうどうもうまくいかないというのが実態です。

○  私は今、「ボランティア論」というのを大学で講座を持っていますが、3人ぐらい、私は障害のある人を呼んで、彼に語らせると、私が同じことを語るよりも、ずっとずっと子どもたちに入っていくんですね。ですから、効果的な人材活用というか。
  それから、私は今、ボランティアということを「体験的倫理学習」と位置づけております。ですから、体験的に倫理を学ぶ。それは対人間だけではなくて、対自然との倫理ですね。というふうにボランティアというのを考えております。その伝え方として、どうもいいこととか、そういう形で子どもたちに伝えると、それたけで反発というか、偽善的であるとか、そういう考え方が子どもたちなりに出てくるんです。だから、いいことじゃないというところで、人間としてこれは当然なことである、それからまたそういう学習は必要なことであるという伝え方をしております。そういう意味で、これからも多角的な授業があったほうがいいんじゃないかと私は思います。

○  先ほどの地域の方々がその人生を語るということですけれども、今お話を承ると、制度的には別に問題はない、今でも十分実行できるということなんですが、今、実際どれぐらいそれは活用されているのか。活用がされていないとすれば、そこには何が問題なのか。学級を持っている先生のほうにそういう意識の切りかえができないのか、あるいは自分が持っている授業の中に入ってこられると、困るのか。その辺を改善するためにはどうすればいいのか。このような方法を現場に定着させるというのは、大変なことだろうと思いますが、何かお考えがありましたらお聞かせください。

◇  確かにそういった考え方は、学級王国であるとか、あるいは教科中心であるとかという形で、伝統的に学校の中に専門的な免許状を持った専門職である教師が、すべて教育をやるんだと。長い伝統、またいい部分でもあったと思いますけれども、それではなかなかということで、一番典型的な例が、10年ほど前から、もっとになりますか、ALTですね。外国の若い方々が今5,000人くらい入ってきておりますけれども、そういうのを入れるときに、これははっきり申し上げて、現場の専門気質の部分があって現場に外部から入ってくることを嫌う。
  実際に入ってきますと、地域も、父兄も、子どもも、非常に喜んでいるということで、だんだんそういった抵抗感は薄らいでおります。今、ALTが入ってきて、これを反対するという学校を私は聞いたことはございません。
  そういったことで、文部省のほうでも、地域の古老のお話を聞きましょうということで、研究指定校やそういった形で、多少の予算を研究開発につけていく、あるいは実践校ではそういった予算を多少つけていく。
  免許状のほうも、63年にその辺のところをはっきりさせましょうということで、特別非常勤講師制度というものをつくりまして、いわゆる教師の免許制度の訓練を全く受けておらない、ごく普通の私ども、皆様方でございますけれども、教壇に立てるよと。そのために心配であるんであれば、県教育委員会が特別免許状という形で出したらどうか。出して、ある程度長いスパンでやれるとか、あるいはコンピュータあたりで民間の方、SEの方々に来ていただいて、何時間か直接指導していただくとか、そういったようなことも免許制度で。
  それから、特別非常勤講師についての予算制度も、3年ほど前から始めまして、伝統的な高等学校のお茶とか、お花とか、体育とか、音楽とか、そういった部分だけではなくて、小学校まで含めましてかなり増えてきております。小学校も、今までは音楽とか、体育とか、そういう特別な教科に限られておりましたが、この7月に教養審の答申をいただきまして、教科の制限を小学校もなくして、国語であろうと、算数であろうと、社会科であろうと、特別非常勤講師という形でやっていただく部分もあっていいじゃないかということで、来年の通常国会で免許の改正をやろうということで。多少、潜りじゃないかという部分をきちっとするために、免許状を緩やかに活用して、教科のある一部であれば、責任を持って1年間続いてやっていただけるというような形の免許状もつくりましょうと。これは制限はございません。どんな方でも出せるような仕組みにしてございます。
  それと先ほど申し上げましたように、教師がいて、そこにいろんな方々が複数だろうとお一人だろうと、常時お手伝いいただいて、いろんな授業をやる。これはまた別の問題ということで、それは全く制度とは関係なく、教師が自分で責任を持って授業を進める上での一つの指導方法ということで進めております。その辺の考え方も、特別非常勤講師ができることによって、非常にしっかりしてきたと考えております。あとこれをどういう形でシステム的に、行政的に、あるいは学校の中で進めていくかという問題だろうと思います。

○  先ほど紹介いたしました道徳教育の推進状況の調査で、地域の保護者の協力、地域社会の協力をどんな感じで得たかということのアンケートをしておりますけれども、例えば道徳性を養う学校行事等に、保護者や地域の人たちの参加を求めたという学校は、小・中平均しますと33%ぐらいはあります。そのほかに、道徳教育に関する講演会を父母に参加していただいて開催したとか、あるいは全校的な道徳の授業参観も行ったということで、だんだん外に道徳教育の授業も開かれてきているということがございます。
  もう一つ、先ほど文部省の事業で申し上げました伝統文化教育推進事業でございますけれども、これはまさに伝統工芸とか、産業の技術を持つ方にじかに学校に来ていただいて、子どもたちに指導していただくということですから、こういう事業だけではなくて、いろんな体験とか、技術をお持ちの方を、学校教育にどんどん活用していただくことは重要なことだろうと思います。

◎金井意見発表者    お聞きしていまして、ちょっと私の説明が十分でなかったところがあったと思いますので、補足させていただければありがたいと思います。
  子どもたちの心を非常に打つような指導方法がいろいろあるということを申しましたけれども、もう一つ、心にしみない指導があるということを申しました。心にしみない指導が委員の先生方の中からたくさん出てきておりますので、ではどうすればいいかということについては、私の要旨の3枚目でございますが、3枚目の真ん中辺に「(3)   」というのがございます。「(3) 」の「イ」という項目がございます。そこに(ア)(イ)(ウ)と3点挙げてございます。
  (ア)のところは、各教科や特別活動における指導を補充・深化・統合するというこれを具体化して、立体化して指導するというやり方で、子どもの心に迫っている、受け入れられているやり方が一つございます。
  (イ)のところでは、建前だけでお説教するのではなくて、価値そのものが心に結びついていって、それが総合化されるという取り組み方になりますと、これが子どもたちの、特に年齢の高い子どもたち、大学生にまでもしっかり受け入れられる、喜んで受け入れられるというのがございます。これにつきましては、私の「補足資料5」のところに、どういうふうにすればいいかということを具体的にしてございます。その中に、きょうは添えてございませんが、先ほどお話のございました感動を教育にどう活用することができるか、教育論的にはどうすることがいいのかということもございます。
  それから、(ウ)でございますが、そのほか、先生方がいろいろな工夫を広げて、すばらしい指導をつくっているということがございまして、これが先ほど最初に申し上げました、優れた指導をつくっている人たちの実態でございます。以上でございます。

○  小学校の低学年や、幼稚園の子どもに、道徳教育というのは難しすぎるという気がします。文字で書いたものはそれほど役に立たなくて、例えば、昔ラッパを吹いていた絵があったと思いますし、郵便袋を雪の中に置き、自分のマントをかけ凍死してしまうという絵とお話がありました。これは修身か、国語だったか忘れましたが、責任感ということの説明です。
  たぶん後で聞いたと思いますが、木口小平という名前は、子ども心に〈変な名前だな。こんな名前あるのかな〉と思ったのを今でも覚えております。進軍あるいは退却のどっちのラッパだったか、記憶にありませんが、とにかくこれも個人の責任感の話で、このラッパの音が大勢の命を救った話です。
  つまり、先生が絵とうまくマッチさせてお話いただくだけで子どもの感動を呼ぶことができるのではないか。今でも同じような課題はたくさんあるわけで、紙芝居1枚だけで、1時間、いろんな議論が充分にできるし、そういう指導もあってよろしいのではないか。それが今の学校に大変に欠けているのではないかと心配しております。
  もちろん、中学、高校になれば、物足りなくなるのは言うまでもないのですが、人間にとって、本質的な内容であって、その時々いの社会変動にも動かない、不変の真理といいますか、倫理といいますか、そういう一番基本のところがスコッと抜け落ちているのが現状だといたしますと、どうでしょう。幾ら指導要領にたくさん書いてあっても、もう一つピンとこない。実はそこに問題あるという気がしてならないのです。これは素人だからそうに思うのかもしれません。一言申し上げて御参考に供します。

○  職員の人格はどこの職場にもつきものですけれども、教師の人格の問題は別に考えていただきたい。過去、教師も聖職ではないと言われた時代があり、私どもの職場にも影響があって、ずうっと考えてきているのですが、教師の場合にはやはり適した方と適さない方があると思います。採用後にもその辺のチェックがこの職場には要るのではないかと感じています。それだけです。

○  確かに学校間の格差だとか、学校の中でも教員の格差があるのかもしれませんが、現在、小学校の実践の場合には、ほとんどが紙芝居、絵、写真などを活用した授業が行われています。そうしないと言葉では授業にならないんです。例えば、タヌキさんやオオカミさんが橋を渡っている絵を見て子どもはイメージをふくらめ、そこにある道徳的な価値を子ども自らがつかんでいくような授業が行われております。
  先ほども出ましたけれども、道徳の時間を豊かなものにしていくためには、すべての教育活動とのかかわりが大切です。現在、各学校が非常に苦心しているのは、道徳の時間で行う指導内容と、学校・学年行事、学級活動、教科などの活動とを関連づけた指導計画をいかに作成し実践していくかというところではないかと思っております。

○  それでは、時間になりましたので、本日の討議は以上としたいと存じます。
  今後の審議の進め方についてお諮りしたいと存じます。前々から、今後、論点を絞って議論を進めていきたいということを申し上げておりましたが、これまでに委員の方々からたくさん御意見をいただきましたし、あるいはヒアリングもかなりの回数を行いました。ヒアリングに応じていただいた先生方からもいろいろ御意見をいただいております。近々そういうものを事項別に箇条書きのような形で整理させていただいて、提出させていただきたいと思っています。15期、それから16期の前半にやったやり方と同じでありますけれども、「論点整理メモ」という形で出す予定です。
  その際、15期、16期前半でもそうでありましたが、ここでいただいた意見をそのまますべて網羅するということではなくて、私の判断で、出していただいた意見を取捨選択したり、あるいは文言を整理したり、あるいは私自身の考え方も多少入れさせていただくということにしたいと存じますが、それで御了解いただけますでしょうか。このままいきますと、議論の対象が絞れないということもありますので、「論点整理メモ」という形でまとめさせていただきたいと存じます。
  1月の会議では、ヒアリングを一たんお休みをしまして、「論点整理メモ」について集中して御討議をいただく予定でございます。
  また、ヒアリングにつきましては、1月以降も、例えば早期教育の現状でありますとか、有害情報をめぐる問題などに関して引き続き行いたいと思っております。
  次回でございますが、11月25日、火曜日、10時から同じ35階でございますのでよろしくお願いいたします。
  本日はどうもありがとうございました。

(大臣官房政策課)
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