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中央教育審議会

1997/10
幼児期からの心の教育に関する小委員会 (第5回)議事録 

       幼児期からの心の教育に関する小委員会(第5回)

     議    事    録

    平成9年10月31日(金)  10:00〜12:30
    霞が関東京會舘  34階    ロイヤルルーム


    1.開    会
    2.議    題
        幼児期からの心の教育の在り方について(ヒアリング及び討議)
    3.閉    会


    出  席  者

委員 専門委員 事務局
木村座長 油井専門委員 長谷川生涯学習局長
有馬会長 安藤専門委員 遠藤審議官(初中教育局担当)
川口委員 猪股専門委員 御手洗教育助成局長
河野委員 佐々木(光)専門委員 北村審議官(体育局担当)
高木委員 佐保田専門委員 富岡総務審議官
俵   委員 末吉専門委員 杉浦政策課長
那須原専門委員 その他関係官
服部専門委員
平山専門委員
牟田専門委員
山折専門委員
和田専門委員
渡邊専門委員
  
  
    説明者
      渡辺警察庁少年課理事官
    意見発表者
      1  小此木  啓  吾  氏(東京国際大学教授・慶應義塾大学教授)
      2  小  田      晋    氏(国際医療福祉大学教授)


○  それでは、時間になりましたので、ただいまから中央教育審議会・幼児期からの心の教育に関する小委員会、第5回を開催させていただきます。
  本日は、お忙しい中、本会合に御出席賜りましてまことにありがとうございました。本日も、3名の方からヒアリングを行う予定にしておりますので、通常の会議時間を30分延長させていただきまして、12時半までとさせていただきますので、よろしくお願いいたします。
  本日は、家庭崩壊や少年犯罪等の問題状況につきましてヒアリング等をいます。本日も意見を発表していただくお三方から資料を提出していただいておりますので、御覧いただきたいと思います。
  それでは、まず最初に小此木啓吾先生を御紹介申し上げます。小此木先生は、東京国際大学及び慶應義塾大学の教授でいらっしゃいまして、家族精神医学の権威あります。本日は、「家庭崩壊等家庭をめぐる問題状況と今後の家庭の在り方」について、20分ほどお話をいただきまして、その後10分ほど質疑応答を行いたいと思います。
  それでは、小此木先生、よろしくお願いいたします。

◎小此木意見発表者    まず最初に、「家庭崩壊」という言葉について明確にしていただきたいんですが、「家庭」と「家族」というのは二つ区別をすべきものだろうと思います。それから、「崩壊」という言葉がちょっとひっかかりまして、そんなに崩壊しているかどうかという認識もちょっと問題があるかなという気がします。
  配付資料の順番は順不同でお話しさせていただきたいんでございますけれども、むしろ2番目のところが重要だと思いますが、今の家庭、家族を取り上げる場合には、どうしても少子化と高齢化という現代社会全体に課せられた二つの要因によって、これからの家庭、家族がいや応なしに規定されてしまうという、その認識からまず出発するということが一つだろうと思います。
  しかも、特に高齢化のほうは、私たちが人為的につくり出したいわば人工的な産物である。つまり、自分たちがつくり出した成果によって、今、自分たちが非常に困っているという自己認識が大変重要であって、この辺、ここは文部省ですから申し上げたいことは、子どもたちの教育の一番根幹にあるのはその問題で、つまり、自分たちが一生懸命よい世界をつくろうとしている結果、逆説的にいろんな副産物、困難を背負い込んでいる。
  この問題を文明論風に言うと、現代人の精神的な課題というのは、私は「generativity crisis 」と言っております。「ジェネラティビティー」というのは、次のジェネレーションをつくって育てていくという、次の世代に関するいろいろな配慮、思いやりが、ジェネラティビティーだと思いますが、現代の一番の危機的な問題は、「ジェネラティビティー・クライシス」と呼んでいるように、そんな将来のことなんぞ考えるゆとりがなくなってしまって、とにかく目の前のことに対処するのがいっぱいになってきているということで起こっている精神的なクライシスが根源的にあって、家族の問題もその一つの側面だという認識が大切ではないかと思います。
  具体的に言えば、例えば地球温暖化の問題もそうでしょうし、よく冗談に言うんですけれども、生命保険はだんだんなくなっちゃって、それはみんな年金にしなければならない。つまり、子どもたちの将来なんか考えるよりも、自分たちが長く生きているために、ボケたり年をとったときにどうするかのほうにみんな気持ちがいってしまうという、これは一つの具体例ですけれども、そういうことがございます。現在のコンピュータにしましても、新しい商品をつくって、どんどん売っていかなければ、景気が悪くなったら大変だというのが至上命令で、一体その商品を売り出すことが子どもたちの心にどう影響するかなどということについては、ほとんど全く研究も検討もされないまま、そういうものがどんどん売り出されている。
  具体的に言いますと、あるゲーム機器の有名な企業は、例えばどうやったら人間の赤ちゃんの表情をロボットが読み取って、適切な応答をするかという機械の開発に何億円もかけてやっておりますけれども、これは世界の乳幼児精神保健学会、つまり赤ん坊の精神医学会では協力を倫理上拒否したといういきさつがありますけれども、恐らく今に働くお母さんが増えていったら、お母さんのかわりにそういうメカニズムを使って、子どもをケアしていくというふうなシステムをどんどんつくるということも考えられるかと思います。そういう場合に、本当の意味での人間の心に対する影響が考えられないで、ただひたすら生産性と景気を上げていくということにしか配慮がなかなか及ばないというような、そういうことがいろんな局面で起こっているのを、私は「ジェネラティビティー・クライシス」と呼んでおります。それがまず第1の問題だと思います。
  それらの現象としていろんなことが起こっていると思いますが、その延長線上で申し上げますと、現代社会の人々の心の問題を考えたときに、我々は「心的な現実」と、それから外界の現実というのを「物的な現実」というふうに区別しておりますが  ―4)のところをしゃべっておりますが  ―この不一致ということが非常に拡大しております。
  例えばどういうことかというと、今まででしたら、一緒に暮らしている親子とか、夫婦とか、先生と生徒とか、そういう物的な現実が同時に親密感とか、信頼感とか、心的な現実と一致するという建前で暮らしておりましたけれども、最近は、例えば目の前にいる担任の先生とトラブルが起こると、すぐ教育委員会に親が訴えて、先生と生徒の関係が飛び越えられてしまうとか、あるいは家庭の中に携帯電話からポケベルからファックスから、今やインターネットが入り込んでおります。テレビ時代から始まったのですが、家庭の中にいろいろな通信、コミュニケーションシステムがどんどん入ってきている結果、むしろ本当の親近感は、そういうシステムでつながっている人との間にあって、目の前の夫婦、親子の親密感が形だけになってきている。こういったような、いわば心的リアリティーと物的リアリティーがどんどん乖離していくという現象が起こっていて、これが子どもの心の発育や教育に、学校教育を含めましてこれからの大きな課題になってきていると思います。
  このことに関しまして、では、教育上、子育て上、そこをどうするかとか、家庭をどうするかという問題を考えたときに、コンピュータの市場最優先というようなことをとめるわけにはいかないわけでして、その辺についても、先ほど言ったと同じようなことがいろいろと起こり始めていると思います。
  御承知のように、今、精神科医のほうから言うと、男は無気力症・引きこもり、女の子は拒食症・過食症というのが一種の定説ですけれども、男の無気力症・引きこもりの圧倒的な人々は、学校に行かないで、大検を通って大学に行く人もいるし、彼らにとってはコンピュータによるコミュニケーションが非常に救いになっていますけれども、人とかかわれないけれども、コンピュータを通してならかかわれるというようなメンタリティーがだんだん広がっていくように見えます。
  それから、具体的な家族の問題で、これからの日本の家族の非常に大きな課題になると思いますのは、女性の地位の向上と経済力の向上だと思います。総理府の方に伺いますと、日本の21世紀の高齢社会を乗り切るためには、母親の75%までの方が仕事をずっと続けることができる社会にならないと、つまり30代、40代の方がみんな働いて生産性を発揮しないと、65歳以上の人口がどんどん増える高齢化社会を養ったり乗り切ることはできないという見通しだとのことです。これも先ほど申し上げた高齢化の問題ですが、高齢化社会に対応するためには、これは理屈ではなくて、そういうふうにやっていかないと、社会はやっていけないということなんだそうです。
  既に御承知のように、フランス、アメリカでは65%から70%のお母さんが働く時代になってきています。ですから、これに対応するように、育児休業法から機会均等法からセクハラ対策から、女性の地位を向上するようないろんなイメージがどんどん広がっていくことは結構なんですけれども、それに伴って、どこの先進国でも起こっている問題は、女性の非婚化、晩婚化、スウェーデンのような未婚の母の増加。御承知のように、スウェーデンでは生まれてくる子どもの半分以上は未婚の母であります。よく我々は冗談に言うんですけれども、未婚の母の数は、その国の女性閣僚の数に比例するなどと言っておりますけれども、恐らくフランスも英国も近くそういうふうになるのではないかと思います。つまり、女性が経済的、社会的に自立すると、結婚する方はどんどん減っていくということのようです。
  ですから、この問題が、これからの家庭を考えるとき、あるいは家族というものを考えるときの基本的な視点になっていく。これは決してフェミニズムなどというカッコのいいイデオロギー論ではなくて、現実的に高齢社会を我々が生きていくための必然的な要求ということのようです。
  さらに、同時に起こってくるのは、米国のような離婚・再婚家族の増加であります。今や米国では、平均的な家族が1回だけの結婚の核家族ではなくて、2回、3回と結婚・離婚を繰り返してでき上がっている複数核家族、あるいは離婚・再婚家族のほうが多数派になっているのが現状です。小学校の生徒が、米国に行って、小学校の討論会を計画しましたが、アメリカの小学校の生徒が出したテーマというのが、「うちの親が離婚したときに、僕はお母さんと一緒がいいかお父さんが一緒がいいか」というテーマを提案して、日本の小学生が面食らってしまったという話があります。そのときも話題になりましたけれども、大体アメリカでは、小学生が卒業するまでに半分ぐらいの親が離婚・再婚するということも言われております。
  この離婚・再婚が増えると同時に、継母、継父による連れ子の虐待、あるいは性的虐待、近親相姦などという問題が、日本では想像を絶するほどに、アメリカでは大きなテーマに精神医学的にはなってきております。こういう動向を我が国でも、これからはどんどん生じていく可能性があります。
  お母さんがそうやって一生懸命働くようになりますと、当然、夫婦観、育児観にも変化が起こります。共同出産、共同育児、共同家事ということが、これからはどんどん広がるだろうと思います。それによりまして、家庭内での父親、母親の性別役割にも変化が起こりますし、場合によると母性的なお父さんが子育てをやって、男性的なお母さんが仕事を続けるというようなことも起こり得るだろうと思いますが、これらの問題に関する価値観が相対化し、多様化し、お互いの家族同士の役割自体が余りにも急速な変化のために、家族間のトラブル、コミュニケーションのいろいろな障害が起こってくることが目に見えて今や次第に大きな問題になってきている。そのことがさらに、女性の非婚化、晩婚化を促進し、男性と女性の物の考え方に余りにも大きな隔たりが生じてきているということが、今、言えるように思います。
  もはやフランスやアメリカでは、生後何ヵ月の子どもを保育施設に預けて、お母さんが仕事に戻るかということについて、いろいろ議論があります。日本では3年間ぐらいというのが一番常識なんですけれども、今やフランスやアメリカでは、私が副会長などをやっておりました世界乳幼児精神保健学会の総括的な意見は、生後4ヵ月で赤ちゃんを保育施設に預けて仕事を続けるというのが一番よいという判断に達しています。日本でこのことをお話しすると、100人のうち2人か3人ぐらいしか賛成の手を挙げる方はいないんですけれども、恐らくこのような形にならないと、本当の女性のキャリアは全うできないし、働く女性の地位は確立できないでしょう。
  今、厚生省では「エンゼルプラン」といって、非常にたくさんの、結構質のいい保育施設をつくって、お母さんが働き続けても子どもを産み、人口を減らさないで、しかも高齢社会も担えるようにしたいという努力をしていらっしゃるのですが、幾らいい保育施設をつくっても、肝心のお母さん、夫、姑、実家のお母さんなどが、「何も生後4ヵ月で子どもを預けて仕事をするなんて、そんなわがままはおやめなさい。やっぱり女はお母さんが一番よ」というような価値観と、これからの人生、社会人としても、女としても、母親としても、ワン・オブ・ゼムの子育てになって、せいぜい1人か2人の子どもをというような女性たちとの間の価値観のいろんな葛藤、トラブルというのが、家庭内ではこれからますます大きなテーマになっていくだろうと思います。
  限られた時間でございますので、全体の幼い子どもの心の養育や教育に直接影響するであろう今後の家庭・家族の動向を占いますと、こんなようなことがテーマになっておりますが、この中には非常にプラスの面もありますし、マイナスの面もありまして、一概にどっちがどうというふうに軽率に結論を下すことは慎重を要すると思います。
  これらの家庭・家族の問題というのは、我が国では背広でげたばきというのが日本の実際には人間関係であり家族でございますので、今申し上げたのは、あくまで一つの流れとして、これからそういう動向がどんどん進んでいくだろうという予測ですが、同時に日本の家族につきましては、伝統的に継承された親子観というものがあります。ですから、日本では離婚も、子どもたちが立派に巣立つまでは我慢していってということで、今や中年の離婚、さらに高齢離婚というのが最近増えております。今、離婚の5%ぐらいは60代になってからの離婚ですが、それはなぜかというと、主として母親が子どものことを考えて、我慢していて、母親としての仕事が終わってから、夫婦に戻って離婚するという形です。
  ということにもあらわれておりますように、日本の社会におけます縁の心とか、契約より縁を重んじるとか、私の言う「川の字文化」とか、そういうものが伝統的にあって、戦後50年たってもあまり変わっておりませんので、今のような動向に対して日本の家族はそう簡単にどんどん同調してしまうわけにはいかないだろうと思います。と同時にまたそれが、高齢社会を乗り切る上でプラスになるかマイナスになるかということも、十分慎重に吟味する必要があるかと思います。
  ちなみに、私が言っております「川の字文化」というのは、先ほど4ヵ月という話がありましたけれども、大体アメリカでは、生後3ヵ月、4ヵ月になりますと寝室を別にいたしまして、1歳になりますと、95%の子どもは親と別な寝室に寝るようになります。それはなぜかというと、アメリカでは親子関係よりも夫婦関係、特に夫婦の性生活を重視いたしますので、そのためには子どもは別の部屋にというのが、いわば常識になっております。そこで既に子どもは親離れをさせられて、別な世界を持つことになるんですけれども、日本では満1歳の赤ちゃんがいる場合に、寝室を別にしているというおうちは非常に少のうございまして、大体95%は御一緒に暮らしています。
  今のことは、戦後50年たって、日本がアメリカ化されているにもかかわらず、一向にこの50年変わっておりません。つまり、夫婦とか、親子というものは、意外に外側のそういう変化はあっても、深層の日本的な親子中心の人間関係感覚は情緒的には変わっておりませんので、前半に申し上げたような大きな変化は、日本そのものの家庭の中では恐らくちょっと違った、両者をうまく折衷したような在り方が、日本的な現実になってくると思います。ですから、それがうまく調和されるのか、それともすごく深刻な葛藤を生むかによって、それぞれの家族・家庭の在り方にはいろいろなあらわれが出てくるのではないかと思っております。
  最後に、そういういろんな状況を踏まえたところでの私の家族論というのは、1番に書いてございますが、従来の家族というのは、先ほど冒頭にこだわりましたように、家庭と家族が一つである。それが家族。例えばこれがインドのように大家族で、一つのおうちにたくさんの何十人という家族が住んでいるところから始まって、日本も次第に農村のようなそういう状況から核家族化してきておりますけれども、大体モデルは、一つ屋根に家族が一家団らん。そういうのをコンテナ家族、コンテナモデル、「入れ物家族」と言っておりますが、この「入れ物家族」の機能がだんだん低下して、私の言う「ホテル家族」化してきております。
  むしろこれからの新しいいろいろな状況に適応する家族の在り方は、「ネットワーク家族」と申しまして、それぞれの家族が点と点で、例えばお父さんは外国にいて、お母さんが日本にいて、息子は大学でどっかに行っているというふうな点と点であっても、ネットワークとして家族として何とか頑張っていいコミュニケーションを持とうとするような気持ち、つまり「我が家族は一体」という幻想から脱却して、家族というものの維持に、それぞれがネットワークの点として意識的な努力をしていくことが日本の家族では必要で、そこはアメリカ的な契約論的な家族観を少し取り入れたほうがいいだろうということと、そのネットワークはオープンなネットワークであって、そこにはベビーシッターから老人介護のボランティアから介護士から福祉士まで、いろんな方々がどんどん家族の中に入ってきて、家族の機能を助けてくださるような  ―今までの日本家族はコンテナで、エゴイズム的・閉鎖的でありますから、まず点と点とを結ぶようなネットワーク家族になって、開かれた家族になっていくことが、これからの新しい時代に即応する意味においてはとても大切だろうと思っております。

○  どうもありがとうございました。私、以前、先生のある論文を読んで非常に感銘したことがございます。夫を自動車事故で失ったアメリカ人の女性の方々と、同じように夫を自動車事故で失った日本人の女性の方々の比較、つまり未亡人の日米比較をなさいまして、その悲しみから回復する上で、そこにどういう差があるのだろうかかという御調査でございました。アメリカ人の場合は、その打撃が非常に深くて、その多くは苦しみ、悩んで、薬に頼る傾向があった、喪の期間を通して、回復していくのに非常に困難を極める状況だったのに対して、日本人の場合は比較的スムーズな回復のプロセスをたどった、そういう調査結果を出しておられた。
  それは死んだ人と自分との間に精神的な、あるいは心のレベルにおけるコミュニケーションの糸がつながっていたからではないかということでした。例えば仏壇を飾っている部屋にいって、位牌に向かって拝む、語りかけるといったような、そういう伝統的な生活慣習、それは宗教的な信仰も十分含むわけですけれども、そういうところに大きな差があるのではないかと言っておられましたね。
  私はあの論文を拝見いたしまして大変感銘したのでありますが、今後、心の教育という事柄を考えていく場合に、先生が御調査になられたそのような問題はどういう意味を持つのか、今後の可能性を含めて御意見を承れればと思います。

◎小此木意見発表者    今おっしゃってくださった研究は、1965年ですから、もう30年前の、私の若いときの研究なんですけれども、今、国際的には評価が高うございます。
  今のお話につながることは、日本の人間関係の場合のほうが、先ほど「契約と縁」というふうに図式化して申し上げましたけれども、我々の人間関係というのは、1回できたものはなるべく縁を切らないで、永久に続けたいという願望がすごく強いように思います。そこがアメリカの場合に離婚・再婚が多いのは、彼らはピューリタニズムで、うまくいかなくなったらむしろ契約を更新して変えていくほうがグッドだと考えておられます。だから、離婚・再婚することは彼らにとっては善なんですよね。ところが、我々は、お父さんがちょっと浮気をしても、過ちを犯しても許し合って、長い人間関係を育てていく。で、共白髪になるのがいいというふうにみんな思っている。この家族感覚というのは、戦後50年たっても、今でも依然として日本の社会の安定になっている。家庭崩壊ということで、日本はそうかなという部分については、私はアメリカなどに比べたら、はるかに日本は家庭の恵まれた、安定した国だと思っております。
  ただ、特に思春期の子どもたち、中学・高校ぐらいの子どもたちにとっては、そのことが逆に大きな重荷になっている。特に親離れをするとき、離れるときが大変なんですね。そこはアメリカ人のように別れるときにはワーッとドラマチックに別れて、悲しみも怒りも……。ところが、日本の場合は、そこがうまく体験しきれない。そこが今の思春期の少年少女には大変大きなテーマになっている。特に少子化が進んでおりまして、一人っ子、二人っ子が多うございますから、思春期になったときに、親離れのところで親も子どもも苦労が大きいというふうに感じております。よろしゅうございますか。

○  先生の『家庭のない家族の時代』という本は最高にすばらしい御本だと思って、いまだに興味深く読ませていただいておりますが、今の御説明で5番まできて、1番にパッとお返りになられたわけですが、結局、「ネットワーク家族論」ということで、「点と点を結ぶ」ということ、「開く」ということ、二つのキーワードかと思うんですが、欧米もやはりこの方向にいっていると思うんです。その際に、先生がおっしゃいます日本的な文化で点と点になるには、個が一人ずつ自立せねばならないという前提があると思うのですが、「川の字」でいく日本の文化でいった果てに点と点になり得るのか、個の持つ孤独に耐えていく力のようなものをもちうるのか、つまり、日本の家族がネットワーク家族になる際、外国と違うのかどうかということをお聞きしたい。
  それから、「開かれた」という点ですが、これがまた、家一つ見ましても、外国は垣根のない家でオープンで、ある意味では小さいときから開かれた生活をしている。それが日本は垣根があり、家庭の中に人を入れない。それだからこそ表と裏というような文化がある。それが一つの非常に高度な文化でもあったわけです。「開く」という点でも、「点と点」という点でも、私は日本が生き残るにはこれしかないと、先生の御本を10年ほど前に読ませていただいたときにも、本当に深く感じたんですが、この方向への行きにくさがあるようにも思えるんです。「点と点」を結ぶ際の個の自立、それから「開く」という点で、いかがでしょうか。

◎小此木意見発表者    これは私もおっしゃるとおりと思っております。しかし、高齢社会を迎えまして、それからどうしても働くお母さんが増えていくという状況では、一度個と個に契約論的な家族観を取り入れて、自己変革をしていくことが、我々がこれから生き延びていく上では非常に重要なことです。しかし、その移行期において、人間関係、その他において、従来の古きよき情緒的なものが失われていくという、それが今、私たちが出合っている精神的な問題です。
  だから、今、若者が家庭・家族に対して、それをのろうと言うと少し言い過ぎですけれども、私の後輩でが「アダルトチルドレン」という概念を普及させたんですけれども、去年、私はことし1年間の社会ストレス用語で、「自称アダルトチルドレン」という言葉を登場させたんですが、80%、90%の子どもが、自分は親に傷つけられたと。親のいろいろないじめとか、虐待の結果、こんなに不幸なんだというふうに思い当たることがあるという子どもが、非常に増えてしまった。それが今、非常に流行しているんですが、その背後にあるのは、今までの古きよき親子の愛情を単純によいものとして感謝をもって受けとめきれないような変化が起こっていて、親のほうは相変わらずその古き人間関係を期待する。子どものほうはそこから離脱しないとやっていけないというような、そこの世代間の葛藤みたいなものは、これからもっと深刻に……。価値観が余りにも違ってきますからね。そこのところをできるだけ教育の面からもよく指導していくことが大変大切かなと思っております。

○  お話にありました一つですが、再婚家庭の問題についてです。質問は二つあります。お父さん、お母さんの再婚が、子どもに非常にストレスになっているケースが見られます。その際に、日本の場合、多くの例では、別れた他方の親とは一切つき合うなと子どもに行っていますが、小学校の高学年ごろや中学生ごろになると、他方の親と隠れても会うというのが結構あるわけです。それを再婚したもう一方の配偶者が叱って、新しい配偶者に遠慮してしまうわけです。そのために子どもが他方の親にどう向き合って、つき合えばよいのかわからず、悩んでいるケースがあるわけです。先生のお立場から、そのような親子に対し、どのような助言をすればよいのかお話しいただければと思います。
  もう1点は、再婚の時の連れ子養子のことです。子どもの心に与える影響についてですが、乳幼児期から思春期にかけて、それぞれの発達段階の視点から、子どもへの影響についてお話しいただければと思います。

◎小此木意見発表者    前者の離婚・再婚の問題ですけれども、これは確かにモラルというのはおもしろいと思うんですが、アメリカ人は離婚・再婚がどんどんできるようになったかわりに、一部の人は「これは罪の償いだろう」と言うんですけれども、夫婦としては別れても、父親、母親としては、あるいは親子関係は何とか継続したいという人が結構多うございます。またアメリカは、離婚すると、お母さんのほうへ大体行きますよね。お父さんは離れるんですけれども、ウイークエンド・ファーザーとか、それから夏休みに……。
  実は私の親類が離婚・再婚家族なんですけれども、夏休みになりますと、夫の前の奥さんとの間の子どもさんが2人いるんですが、その2人が来るんですよ。前の奥さんの子どもが夏休み中は、お父さんと一緒に暮らすんです。その親類はこれが大変つらくて、「これはアメリカ版おしんの心境だ」と言っていました。だけど、これをちゃんとやらないと、離婚・再婚の意味が認められない。つまり、夫婦としては、あるいは男女としては別れるけれども、親としてはできるだけ責任を取ろうという考えで、この辺は契約社会で、私たちが知っているような少なくとも知識階級の人々は、かなり深刻にまじめに取り組んでいるようです。
  日本の家庭裁判所などにお聞きしますと、日本にも法律的にあるそうですね、訪問面接権とか、いろいろ。だけど、ほとんど利用されないし、日本の離婚は、絶対口もきかない、憎み合うみたいにならないと離婚にならない。そこは離婚文化の一つ大きな違いがあるように思っています。そこはまさに先ほどの国民性の違いもあるのではないかと思っています。
  ただし、アメリカもその次にきている問題が、連れ子に対する継父による虐待、それから性的な虐待が、最近、深刻な問題になってきていて、半ば冗談ですけれども、女の子を持って離婚したお母さんは、自分に再婚しようと言い寄ってきた場合には、本当は自分が目的なのか娘をねらっているのか、よくわきまえたほうがいいという説があるぐらい、この問題は非常に深刻な問題になってきておりまして、よい面、悪い面、非常にあると思います。
  2番目の問題は、離婚・再婚というのは、人間としての親を失うだけではなくて、子どもの生活の心の安定のよりどころでありますところの居場所を失うかどうかということが大変大きなテーマのように思います。私、日本でも離婚・再婚家族を調べたことがあるんですけれども、その調査をするまでは、幼い子はお母さんと一緒のほうがいいと思い込んでいましたが、意外に調査をしますと、お父さんと一緒に残ったほうが、いい場合があることがわかりました。特に中産階級ですと、お父さんと一緒だと、お母さんがいなくなって、もともとのうちに住み、同じ学校に行っていると、お母さんだけ入れかわるだけで済むんです。
  ところが、お母さんと出てしまいますと、長年住み慣れたうちも出る。生活も貧しくなる。そして、お母さんも働く。そうすると、一人だけの寂しい孤独な生活になります。そこへもってきて、ましてやお母さんが再婚しますと、もっと自分のうちがなくなってしまう。そういう意味においての精神的ないろいろなストレスが、お母さんと一緒に行ったときのほうがかえって大きいというケースもありまして、この辺も一概に言えませんが、四、五歳ぐらいまでの離婚・再婚の場合は、大事なことは次の養育者が与えられるかどうかなんです。だから、継母でもいいから、いいお母さんが来てくれれば、とてもいいと思います。ところが、小学校高学年から思春期ぐらいまでの子どもの場合には、自分自身が親というものを男性、女性として受け入れるというテーマに出合っておりますので、離婚・再婚した場合の親を受け入れることについての葛藤が深刻になるように思っております。これはケース、ケースで考えていくべきことかなと思っております。

○  とてもうれしくなりました。というのは、私も、文明の問題を我々が論議しないで、時流のままにという状況がずうっと続いておりますので、ますますその影響が大きくなっていて、私は「文明の過保護」という言い方をしているんですけれども、これに対してどう対処したらいいのかということを我々は考えなければいけないとと思っております。先生はとても遠慮していらして、「ホテル家族」とか、「ネットワーク家族」ということで、先生のお気持ちとしてはビジョンというよりは、風刺をなさっていらっしゃるように感じます。そういう意味で言うと、軸をどこに持っていったらいいんだろうか、どこに近づければ我々はいいんだろうかぐらいのことが、先生のお考えの中におありじゃないかと思いますので、その辺のところをお聞かせいただけませんでしょうか。

◎小此木意見発表者    もしも保育施設なんかにもっと早くから日本の子どもたちも行くようになったと仮定しますと、そこで集団保育という領域が増えます。今、かえって問題になっているのは密室保育でありまして、お母さんと一緒にいればいいといって、お母さんとマンションの中で二人きりでいるだけでは、本当の意味での子育てにならないわけです。そのように限界がきているので、むしろ集団保育のほうが子どもたちにいい。最近はゼロ歳児でも、赤ちゃん同士のグループがあり得るという研究も、アメリカなんかではあるんです。結構、インターラクションがいろいろある。
  お願いしたいと思うのは、これから子どもの数が減りますと、例えば学校の数が減ったり、教員の数も減るとかという問題が起こるんじゃないかと思うんですが、むしろ今まで使っていた予算がありましたら、幼稚園から保育園から小学校の少人数のグループでの教育を  ―今までは小学校というのは、既に家庭教育である程度社会性を持った子どもが集まるところという前提で教育が行われてきていたと思うんですが、今は小学生ぐらいでも、そういう意味での家庭教育にかわる面をまだまだ研究していただきたいと思います。
  冗談でよく中学校の先生が、「最近は、『勉強のほうは私のほうで引き受けますから、学校はしつけをやってください』と言うお母さんがいる」と言うんです。どういう意味かというと、私はパートをやってお金を稼いで、塾に子どもをやります。一番困るのはしつけができないんで、学校はしつけをやってくださいというようなことを言うと。やっぱりそれは冗談でなくて、今、学校がやってくださらないと、そこはなかなかうまくいかない。そういうのを「家庭機能の外注化」と言っておりますが、すべて家庭にあった機能がみんな外にこう、食事もそうだし、しつけまで外注になってしまうというのは、非常に深刻な問題ですけれども、私はそこを初等教育のほうで重要にして取り上げていただけたらと心から思っております。

○  今、後半のところと御議論いただいているところをお聞きして大変興味を持ったんですが、かねがね先生にお聞きしたいと思ったことは、家庭・家族の中での宗教の役割ということなんです。先ほど来、契約的社会という、アメリカのことをおっしゃっていました。そこで、契約的社会は、プロテスタントを中心におっしゃっておられたかと思うんだけれども、カトリックとか、ユダヤ人とか、あるいはイスラム、これらは全部、もとをただせばヘブライズムですから、似たような契約という観念があるわけですが、それ全般に対して言えることなのか、その中で特にプロテスタントに対して言えることなのか。一方、日本は仏教というのがあるわけですが、仏教の影響が先ほどおっしゃられたことの中に大きくにじみ出ているのだろうか、この辺に関して。
  大きく分けますと二つですが、まずアメリカの中で同じ一神教といってもいろいろなものがあるけれども、そこはどうなのか。それから、日本の仏教はどういう影響を与えているか。この辺についてお教えいただければ幸いです。

◎小此木意見発表者    私もこれは専門とも言えない領域の話で慎重を要しますが、まずヨーロッパでいいますと、確かに離婚・再婚率は、イタリアとか、スペインとか、カソリック系のほうがずうっと低うございます。公式の発表だけでいいますと、日本の離婚率とヨーロッパのカソリック国の離婚率が大体同じようだということです。ただし、これは建前でありまして、イタリーでも最近そうなんですが、実態は随分離婚・再婚が増てきている。それから、フランスでもパリとほかの地域では随分違うということがございます。
  それから、日本の仏教に関しましては、私は、「縁」という考え方がどこから出ているのか、これはむしろ専門家の方に教えていただきたいんで。日本の家族は社会学的には、ただ「縁」を大事にするというよりも、「縁約家族」というふうに言われています。「縁」=「キンシップ」と「契約」=「コントラクト」をもじりまして、「キントラクト社会」。これは中国系の社会学者が研究した有名な話です。日本という国はおもしろいことに非常に「縁」を大事にしているんだけれども、江戸時代ぐらいから養子制度を一方では積極的に取り入れた家族関係を持っている。特に商人のうちなんかでは、優秀な番頭さんを入れて婿にするというようなですね。それが日本の資本主義が発展した、ほかのアジア諸国とはすごく違う要因である。つまり、長男でも優秀でなければ跡取りにしない。ただ、逆にお家騒動も起こったんだけれども、そこが日本の家族の持っている開かれた生産性になっているという話も聞いたことがありますが、やっぱり離婚とかそういう問題になりますと、非常に「縁」を大事にする。
  世の中では、家庭裁判所というところが、離婚を助けてくれるところだと思っている若い女性が多いですけれども、最近は家庭裁判所というのは、できるだけ離婚をしないでまとめてあげることが仕事で、つまり、社会の秩序の源は家庭の安定にあって、家庭の安定を図るのが家庭裁判所の国家的機能だと皆さん思っている。だから、調停委員の方なんかがおっしゃることは、「縁」を大事にして、感情的、性的にいろんなことがあっても、安定していきましょうと、これが日本の一つのプリンシプルになっていたと思うんです。その背景は、一体、仏教の影響なのか、儒教の影響なのか、そこは私は一概には申し上げにくいんでございますけれども。

○  先ほど先生が、生後4か月後に乳児を預けてもよいという見解を出しているというお話をされたわけですが、その理由についてもう少し詳しくお伺いしたいと思います。
  もう一つは、日本では昔から「三つ子の魂百まで」という諺がよく語られます。心理学の上でも幼児期決定論説というような考え方があると思います。子育てを行う母親たちの間に、このような見方がかなり根強くあるのではないかと思っています。
  4か月後から保育所に預けて、母親のもとから離してもよいと。これから先を考えた場合には、女性の社会進出がもっともっと多くなってくると思います。子育てを行う母親の在り方、特に乳幼児に接する母親の在り方、また父親の在り方についてもお話をいただければありがたいと思います。

◎小此木意見発表者    生後4ヵ月という見解につきましては、私が自分で日本で研究したというよりは、世界的にも代表的なフランスの剤 笠 という先生がいるんですが、その先生の研究とか、それからアメリカでも代表的な何人かの意見としまして。むしろアメリカは、生後4ヵ月まで自分で育ててくれればいいのに、1ヵ月、2ヵ月で預けちゃうような母親が多くなって困っているわよと。だから、日本とはすごく対照的な現状ですが、最低4ヵ月までは一緒にいなくてはと言っているという面もあるんです。
  4ヵ月ぐらいまでは、「マターナル・プレオキュペーション(母性的没頭)」という言葉がありまして、妊娠中から生後4ヵ月ぐらいまでは、お母さんというのは子どものことばかり考えるような精神状態、身体状態に、健康ならなるんです。これはとても貴重なことで、そこでは母子というものは濃厚なコミュニケーションが必要ですけれども、大体3ヵ月ぐらいからは子どものほうも、お母さんとは個体として分離するという力が出てきておりまして、それ以上になってしまうとアタッチメント(愛着)がかえって離れにくくなって、たぶん1年一緒にいたら、1年半、3年というふうに延びていく。そうすると、離れるときの苦労、あるいはそれが子どもに及ぼすマイナスよりも、物心がつききらないうちに、こういうものだ、として預けるほうが、かえって親にとっても、子どもにとっても、心の痛手は少ないということが一つあります。
  第2に、最近の乳幼児の精神医学では、「環境としての母親」と「対象としての母親」を概念上区別するようになりました。「環境としてのお母さん」というのは、環境を整えたり、身体的なケアをしたり、愛情をもってかわいがったりするようなお母さんを言います。この部分は、非常によい熟練した保母さんのほうが、場合によると全くそれまで赤ちゃんを抱いたこともないというお母さんが増えているために、子育て能力の進んだ保母さんのいる保育園に預けたほうが、保育がうまくいくという面もあります。
  ところが、「対象としてのお母さん」というのは、「この人が私のお父さん」「この人がお母さん」という対象としてのお母さんです。これは本物のお母さんしかかけがえのないもので、昼間は働いて、環境としての保母さんから引き取って、夜の時間はゆっくり「対象としてのお母さん」として、専心お子さんと一緒に暮らして、そしてまた翌日、朝お願いしていく。そうすると、子どものほうは五、六ヵ月になりますと、心の中に「対象としてのお母さん」のイメージは持てるようになっておりますから、夕方になったらまたママが迎えにくる。僕のお母さんはママなんだけれども、それまでは保母さんにお世話になっているという、それがちゃんとわかるようになってくるから、そのくらいがいいだろうというのが一つの根拠になっております。
  それから、2番目のほうは、お母さんのこれからの養育をどうするかということでございますね。母親自身が今のようにやっていくというのには、それなりの物の考え方の修整が必要で、むしろ日本のお母さんの中には、お母さんのほうから子どもに張りついてしまって思春期までくるという方が結構多いので、その辺についてのお母さんの気持ちの変化も大事だろうと思います。
  それから、これからの社会は実はみんなが全部働かなきゃいけないとか、そういうことではなくて、選択肢の幅が広がって、女の人のいろんな在り方が可能になるような社会になるのが一番いい。最近、うちの慶應大学の湘南キャンパスのある助教授の先生が、6月出産というのに2度成功したんですね。これはどういうことかというと、大学の教員ですと、6月に赤ん坊が生まれると、7月は夏休みですよね。7、8、9と夏休みをすると、10月、新学期には何事もなかったような顔をして出勤できる。これを2度成功させたというので話題になっていますが、これからはこういうことも一つの知恵かなという気がしておりますが、いろいろなお母さんの在り方があると思います。
  もう一つ、フランスでは注目されましたので、一ころ話題になりましたけれども、「レンタ・グランメール」という言葉がありまして、「おばあちゃんの賃貸しシステム」というと随分言葉はよくないんですけれども、お母さんが働くようになるために、グランドマザーの養育機能がフランスでは再注目されて、日本でもそろそろその問題が出てくるかと思います。つまり、20代のお母さんは働いていて、50代のまだ元気なおばあちゃんが孫の世話をする。これは東京の武蔵野市なんかでは、「おばあちゃん学級」というのを本当に開いております。つまり、20代のお母さんが赤ちゃんを産んで、そのおばあちゃんが新しい今の育児のいろんな勉強をしたりして、育児をかわりにやる。それはとても評判がいいそうです。つまり、子育て経験があって、いい子育てができるのでとか、これからはいろんなシステムが新しく入ってくるかなという気がしております。

○  それでは、引き続きまして小田晋先生を御紹介申し上げます。小田先生は、国際医療福祉大学の教授でいらっしゃいまして、犯罪心理学の権威であります。本日は、「少年犯罪等子どもの問題行動の現状と対策」につきましてお話しいただければと思います。
  小此木先生の場合同様、20分程度御意見を伺いまして、その後10分程度質疑をお願いいたします。
  それでは、小田先生、よろしくお願いいたします。

◎小田意見発表者    現代子どもの問題行動と教育」ということについてお話をということでございます。
  実は、神戸の小学生殺害事件がありまして、あの事件は狭義には教育問題ではないと思いますが、あの事件の犯人が少年の口にくわえさせた犯行声明でも、その後送りつけた犯行声明でも「学校殺死の酒鬼薔薇」「義務教育に対する積年の大怨」という言葉を述べていたために、ジャーナリストが一斉にあの地区に集中しました。少年が在学していました中学校の教師が、当の少年が余りに凶暴なので、もう学校に来るなと叱責したと伝えられたこと、さらにあの学校は、比較的あの地域では対教師暴力が少なかった。それから、受験校であった。この三つを取り上げて、要するに受験教育と管理教育がこの事件の原因であると言い立てました。さらに、「社会学習」などを動員して内申書がこの事件をもたらしたのだというような飛躍した議論も行いまして、それが一時、世論の大勢を占めた。その結果、管理教育論と受験教育論に問題がすり替えられてしまったということがあります。
  もしこのままいきますと、他人のあの少年は本当に「学校殺死」に成功してしまいます。つまり、あの地域の小・中学校の先生にしてみれば、凶暴だったり、あるいは乱暴だったりする少年を強くとがめて、もし何かをしでかされ、「あの先生の言ったことが頭にきたからやったんだ」と言われたら、立場がなくなってしまうのです。
  受験教育でも、確かに公立中学で一応の受験教育をやって、公立高校や受験校に入学できる程度の水準を維持するのがなかなか大変なのに、それをやって、もし事件かなにか起きたら、またあれをやってるからだということになりますので、これもいいかげんにしておこうということになりましたら、あの地区のエコロジーからしましたら、公立から私立への子どもたちの大脱走が起きそうです。そうなれば公立の学校教育は死にます。「学校殺死」に成功してしまうのです。甚だ耳ざわりのよくないことを申し上げているのですが、これが真実だと私は思っています。
  この事件は、本来は快楽殺人であります。つまり、精神鑑定でも認めているとおり、性欲と破壊衝動が結びついた結果生じた犯罪。鑑定書は「快楽殺人」という言葉を使っていませんけれども。つまり、人間は性ホルモンの中枢と攻撃性の中枢と性行動の中枢は視床下部付近の比較的近接した部位にありまして、性衝動と攻撃衝動とはお互いに波及し合う傾向があるのです。これに対する抑制の仕組みが、人間の場合はそもそも初めは、白紙であるところの大脳皮質からの抑制によって、これを抑制するより仕方がないのです。ほかの動物の場合は比較的本能のバランスによって、同じ種の間の攻撃行動、同じ動物の間の攻撃行動は抑制できるのですが、人間はこれができない。ですから、これは文化によって抑制するより仕方がありません。
  一つは、幼児期におけるしつけによって、少年期における教育によって。さらに、思春期後は、刑罰法規による抑制によって。そして、最も洗練された抑制の仕方は、すべての高等宗教の持つ倫理によって、つまり、仏教では殺生戒、偸盗戒、飲酒戒、邪淫戒、妄語戒ということを申しますし、キリスト教、ユダヤ教の十戒では「なんじ殺すなかれ」「姦淫するなかれ」「盗むなかれ」と言いますし、そういうことによって抑制してきたわけです。
  ところが、文化が暴力行為、犯罪を抑制するほうに働かない。文化がそういうものを使嗾するような方向に働いているということが、現在の文化の問題なのです。例えばポルノビデオだとか、あるいぱスプラッタービデオだとか、あるいは何よりもホラービデオだとか、あるいは殺人を肯定するようなロックミュージックだとか、そういう有害な文化環境が存在し、こういうものがひょっとしたら本人の欲求不満を解消するシステムになっているかもしれない。何よりも憲法に定められた言論の自由というものがあるのだから、こういうものを抑制することはよくないという考え方が、最近一部の精神科医などによって唱えられており、こういうものに対する社会的な抑制力が非常に弱まっているのですが、この少年の場合は、そういうものが犯行に至る彼の幻想を培養する培養基になったということはさまざまの状況証拠から推定されます。
  その次に、劇場型犯罪といいまして、自分の犯行について、新聞に挑戦状を出す、あるいは目立つところに少年の遺体の一部を置くという形で、社会の反応を見ているということがあります。社会挑戦型犯罪といいまして、最近の犯罪者は、例えばこのような快楽殺人者であっても、これを復讐であるとか、多くの場合は社会全体に対する復讐として自分の犯罪を美化すれば、それに対する応援団があらわれる。そういう社会的な風潮になっております。
  もう一つは、この少年の持っていた超能力信仰とオカルト的傾向。例のバモイドオキ神に対する信仰というのがありまして、それが鑑定上の問題になって、精神分裂病的な妄想なのか、そこまでいっていないのかということが問題になったわけです。が、いずれにしてもこの少年には、あのときに「直観像所有者」という耳慣れない言葉が使われましたが、要するにイメージを非常に生き生きとして持つことができるという才能があるあるまでで、この才能というのは、場合によってはこれを善用すれば、宗教的な才能としても活用することができますし、芸術家としてももちろんこれは貴重な才能なのですが、彼の場合は犯罪的な、破壊的な、しかも性的な幻想を彼の頭の中で培養するだけのものになってしまった。
  現在では、宗教というものがこういうものに対する抑制の機能にならないばかりではなくて、場合によっては宗教が犯罪の原因になるということは、例のオウム真理教問題を見てもわかるわけでありまして、我々はオウム真理教があれほどの破壊行為を行うことを事前に抑制できず事後にもこれを解散させにることができなかった社会に住んでいるということも考えなければなりません。
  そういうことでございまして、どうしたらこの問題が防げたかということが問題になります。実はこの問題は、実際は確かにたった一つの事件にすぎません。しかしながら、この事件は、文部大臣が心の教育の問題が大事だということを発言される一つのきっかけになったことは確かでありますし、やはりその問題についての議論のきっかけになったことは確かであります。どうしたら防げたかということですが、もちろん私は管理教育がいいと言っているわけでもなければ、体罰がいいと言っているわけでもなければ、受験教育を無制限に行えと言っているわけでもありません。しかし、この事件とはこれらのことは直接関係はない。
  一つ考えられるのは、いじめっ子問題に対する適切な対応です。この少年もいわゆる校内暴力、いじめ行為をやはり繰り返しておりまして、終着駅に少年に対する殺害行為が行われたわけであります。この場合、特に委員諸先生にぜひ申し上げたいことがあるのです。このときに、学校の教師が「おまえはもう学校に来るな」と言った、それがこの事件のきっかけになったんだというふうに、新聞が初期に報道いたしまして、そのことが余りに強く報道されたために、もはやいじめっ子に対して登校停止を行うということに対しては、どこの学校も手が出にくくなっている。むしろいじめられっ子のほうが転校するという。これもノルウェーのオルウェウス教授が日本に来て不思議がりましたけれども、いじめられっ子のほうが転校させられるという日本独特の風儀がますます流行してしまうということになります。適法な手続によって行われる登校停止、その後のアフターケアが、この事件によって休眠されることがあってはならないと考えるのであります。
  もう一つは、適時の危機介入ということです。つまり、この事件の少年は、犯行直前から児童相談所で相談を受けていた。そこでは、今日のカウンセラーの大部分がその教育を受けていらっしゃるのですが、来談者中心(クライアント・オリエンテッド)の、「ロジェリアン」と言われているんですが、待機型のカウンセリングを行いました。少年はお絵描きをやらされたり、夢の話を聞かされたりして、うざったくて仕方がないと言いながらこの犯罪を犯してしまったと報道されています。本来は大抵の精神科医でしたら、特に犯罪精神医学をやっている者でしたら、防げたかもしれない。猫殺しに関する情報と、一連の凶暴な行為についての情報が入っていたら、彼の過剰な幻想癖と衝動性の両方を防ぐ様々な方法がありますので、少なくとも猫でとまっていたなあ仲間うちで語り合っています。
  もう一つは、この少年の場合の全体の流れを見ますと、思春期危機という思春期における性欲の一時的な亢進というのがありまして、そのときに成績の急降下が起きる。そのときに周囲もそれに対する対応を大抵誤る。特に親が誤り、教師が誤る。これが親や教師との間の距離を広げてしまうということは確かにあったようで、これはほかにも、特に金属バット殺人事件というので、親が子どもを殺すケースでも、子どもが親を殺すケースでもこれが見られるのです。だから、思春期における性欲をどういうふうに処理するかということについての性教育はとても重要なんですが、現在の性教育はどちらかというとエイズ予防のための避妊具の使用と性開放の主張に、離婚を肯定するといったことを積極的に打ち出すことが、性教育についての副読本などでも前面に出ていますが、一方、思春期における性欲の処理についての具体的な方法がこれではわからない、ということが問題になります。
  どうすべきであったかということになりますけれども、この場合、まず一応申し上げたいのは、少年法はどうしても変えなければならないということです。たった一例の、特殊な例をとらえて少年法改正がにわかに議論になったというようなことを言われているけれども、これは違います。この事件の前から、このことは常に言われてきていたのです。この事件が、具体的にこれほどの犯罪をやりながら、場合によっては二、三年の少年院収容でこの少年は退院してくる。その後どうするのか、という問題が全く論ぜられないまま過ぎてしまってはなりません。まず、i)少年法の対象年齢の引き下げ。ii)刑事処分年齢の制限の撤廃。iii)少年事件についても、もちろん事実関係を確定するために、少年の権利を守るために、弁護士さんが少年審問に立ち会われることに反対ではないのですけれども、その場合には検察官も立ち会わなければならない。
  iv)それから、臨床的保護観察制度といいまして、例えばこの少年が猫殺し(暴行及び傷害)、器物損壊、友人に対する連続した乱暴、この段階で警察が一たん補導する。確かに児童相談所へ通所を進めたということは、この少年の精神に障害があるんじゃないかという周囲の人たちの疑いがあったからなのですね。この段階でもし精神科医がそれを見て、その治療が必要だということであるならば、通院治療でもいいんです。義務づけて、これを一方的に中断したら少年鑑別所に収容するというような臨床的保護観察制度。
  v)あるいは、この少年の場合に、精神鑑定を行ったのは、15歳以上ですと責任能力は基本的にあるわけです。責任能力が問題になるのですが、その場合、裁判所は通常の刑を科さない、また軽減するかわりに、本人の病気が治り、かつ反社会性が非常に低くなったということが確認されるまでに治療を受けること。そして、そのことを法廷に対して治療者、つまり医療機関または矯正施設が説得し得たら、初めてそこで解放するという制度を導入しなければ、こういう類似の事例は今後も考えられますので、これに対する正当な処分はできないと私は考えます。
  もちろんこういう事件はまれです。学校の中で現在抱えられている最大の問題は、やっぱりいじめ問題です。いじめ問題については、文部省が一昨年から、それまでのいじめの問題を、むしろ加害者のほうの問題であるとおとらえになったのは、文部省の大英断だと思います。いじめについての現在の間違った考え方というのは、子どもというのはみんな白紙である、天使のようなものである。それを現在の管理教育と受験教育がいじめに追いやっているという考え方なのです。
  実は、脊椎動物というものは、もともと狭い空間に囲い込んでおけば、いじめを行います。これについては1922年、シェルデラップ=エッベというノルウェーの生物学者が観察によって発見した「ニワトリのツツキ順位型いじめ」というのがあります。ニワトリを狭い空間に囲い込んで飼うと、一番強い個体・α個体というのが、次にβをつつき、βがγをつつき、だんだんいって、一番弱いΩ個体というのがつつかれて、赤むけになってしまうというんです。脊椎動物にはそういう傾向があるんです。狭い空間に囲い込めば、なおさらそうなります。刑務所、兵営、寄宿舎というようなところは、よくこういうことになります。僧院でさえそうなります。
  だけど、皆さん御覧になって、地ドリを飼っている人が、赤むけのトリなんか見たことがないと。そのとおりです。みんな逃げてしまうからです。狭い空間に囲い込むことが問題なのです。
  もう一つ、動物の群れでは、いじめの抑制機能を持っているんです。例えばボスザル、第1順位ザルという役割だそうですが、ボスザルというのはもともと横暴なものです。雌を取り上げたり、えさを取り上げたりするのでありますが、それでも群れの中の若雄が雌や子ザルをいじめていたら、にらみつけたり威嚇の動作を示して制止します。今日の学校では、クラス担任は既にボスザルではない。おりの外から子どもたちを眺めているか、あるいは自分もサルの一匹になって、むしろボスザルであるいじめっ子のグループのリーダーに迎合しているのです。それでいながら空間的な管理は強化されています。
  昔の我々の小学校、中学校、高校のころに比べても、「休み時間には教室には残ってはいけない」「この便所を使ってはいけない」「教員室にやたらに出入りしてはいけない」ということがあるのですけれども、子どもたちに逃げる空間をつくるべきで、図書室と保健室の役割は非常に重要です。図書室と保健室は常に開放されていかなければならない。保健室登校というようなことが今でもありますけれども、そういう意味での子どもの心の健康のための保健室の役割はもっと重要視されなければならない。
  もう一つは、「みにくいアヒルの子型いじめ」というんです。これはハンス・クリスチャン・アンデルセンの「アグリー・ダックリング」という童話にあるように、要するに異質のものがいじめられるのです。この形のいじめというのは、山形県新庄市明倫中学校でのマット殺人事件です。この事件の場合は、被害者の少年は標準語しか話せないためにいじめられていたのです。学校の教師たちも、周りに溶け込めとこの少年を説教するだけだったようです。こういういじめ事件が起きたら、教師は断然ロングホームルームを開いてでも、要するに少数派に対する差別はいけないのだということを教えるべきで、それこそが国際化教育で、国際化教育というのは必ずしも英語を小学校から教えることではないだろうと思います。こういう場合、教師というのは前日にクラスの中の良質の部分を集めて根回しを行って、あしたのロングホームルームは、情報戦争なんだから正義が勝つようにしなきゃならないと根回しをしておかなければなりません。
  もう一つは、非行型いじめです。要するに脊椎動物には順位性というのがありますから、弱いものをつつくこと自体に快感がある上に、それで金がもうかる。つまり、愛知県西尾市立東部中学校での事件のように、100万円以上の恐喝、強盗を行う。これで処罰されないなら、恐らく趣味と実益を兼ねることですから、だれもやめる者はありません。要するに、なぜこれが発見されなかったか。これは校内における犯罪なのです。殺人未遂とか、あるいは強盗とか、恐喝とか、それを止めようとして表ざたにしたら校長のとがになる、あるいは子どもを学校に売ったと言われる。調べたら、子どものプライバシーを侵したと言われる、体罰は絶対禁止だ。学校としては、これを愛によって導こうというのは、「空想から科学へ」という有名な本の題名がありますけれども、「科学から空想へ」です。
  要するに人間は、ある学者の精神分析によりますと、人間は、発見してもどうにもならないけれども、しかし見過ごすこともできないものは見えなくなるのです。これは精神分析の防衛機制(ディフェンス・メカニズム)で言えば、「否定(デナイアル)」という働きです。もし校長先生がいじめを見て  ―いじめが起きることは校長の責任でも教頭の責任でもありませんし、校内の非行もそうですけれども、−それを知っていて見過ごしていたなら、あるいは相応の注意をしていたら発見できることを相応の注意をしないで見過ごしたなら、校長、教頭は責任を問われるという原則を、全国的に確立されたら、非行型のいじめだけは私は数ヵ月でなくなると思います。というのは、現在の少年たちは、大人たち以上に情報人間ですから、こういうことはあっという間に伝わるのです。
  子育てといじめ非行の抑制の問題、要するに暴力行為や非行の抑制には、もう一つの側面があります。それは相手が気の毒だという気持ちでありまして、それは情性というものであります。ドイツ語で「ゲミュート」、英語では「アフェクション」でございます。このゲミュートやアフェクションというのは、乳児期における哺乳によって基本的には形成されるのであります。我々は動物を飼いましても、情が伝わるのは子育てする動物つまり鳥と哺乳動物にほぼ限られます。つまり、子育て中の動物を親の手から奪って、我々が親になりかわるということで、親として我々が相手に刷り込ませる。我々は動物のように子離れを試みませんから、例えば猫は成獣になっても親だと思って懐いてくれる。基本的には乳児期における愛撫と受容がその基礎になります。
  そして、一部には、学童保育の子どものほうが専業主婦の子どもよりもいい、専業主婦撲滅論というのを唱えている人がいるようですけれども、これは違います。確かに生物学的な母親でなくても、子どもにアフェクションを植えつけることはできます。しかしながら、子どもにアフェクションを植えつけるためには、やはり一人の母親がなければいけないんです。特定の依存対象がなければいけない。例えば昔の乳母、例えば徳川家光における春日局がそれです。生物学的な母親を家光は愛していませんでしたし、それによって彼はいろんな問題を起こすのでありますが、しかしそれにしても、彼の情性の発育には乳母が最終的にはその役割を果たしました。
  もし保育所をつくるならば、官僚的な仕事分担じゃなくて、一人の依存の対象ができるような乳児保育でなければだめなのです。乳児期に愛撫し、幼児期にしつけ、少年期には教える、思春期には考えさせる。そして、1年に1メートル、零歳児はゼロメートル、1歳児は1メートル、2歳児は2メートル、3歳児は3メートルと、だんだん子離れを試みる。こういうプログラムが、最近、逆転しているということが一つ問題です。むしろ乳児期、幼児期に放任しておいて、少年期になってからやたら干渉するということをして、親子関係がうまくいくはずがありません。
  もう一つは、学習による抑制です。人間というのはやはり哺乳動物でございますので、学習というものは基本的には賞と罰がその基本です。インセンティブとプレッシャーによる学習なのです。もちろんポジティブなインセンティブを多くして、ネガティブなプレッシャーは少なくする。しかし、ネガティブなプレッシャーを加えるときは、これをはっきり加えるというのがいいことは行動科学の原則でありまして、賞罰も大事なのです。
  逆学習といいまして、現代のような、つまり中学生時代には、どんな非行を起こしても基本的にはとがめられない。おやじ狩りというのは強盗に他なりません。しかし、多くのおやじ狩り事件が保護観察で済んでいるのです。不処分と保護観察で済んでいる事件が非常に多いんです。ゴネ得、しら切り、口裏合わせで、中学時代に何をやっても、少年期の非行に対しては、保護主義であるべきだからというので、とがめられないで出てしまいます。そうしたら、少年時代に犯罪を犯して、ゴネ得、しら切り、口裏合わせで済んでしまったということは、その後ずうっと続くような、道徳観の崩壊を来します。少数の神経質な子どもにとっては、これは罪悪感の根源になります。
  教育、刑法、宗教は、やはり一体となって人間の持っている反社会性を抑制する機能を持たなければならないのですが、みんなそれぞれその機能が少しずつ衰弱しているということが問題で、特に宗教が場合によっては反社会性を強化するような働きを来している。確かに、神秘主義を誘導する方法としてはあの宗教は非常によくできています。しかしながら、社会的な倫理性が全くなかったということが問題なのです。
  以上の所見が狭義の心の教育やカウンセリングにどうつながるか。私としては具体的な提案がありまして、一つは養護教諭の役割重視ということです。今の日本の医療文化の中では、各企業の中でのストレスの問題を解決しようとしてカウンセラーを置いても、企業が雇ったカウンセラーのところには従業員はどうも行きにくいようです。むしろ健康保険組合の診療所の保健婦さんですね、それがとてもいい相談役になっているのです。保健婦さんでも精神保健相談員の資格を持っている保健婦さんが一番いいのです。日本の文化的風土では体の問題をきっかけに心の問題に入っていくとやりやすい、養護教諭の役割を重視し、二人制にして、その教育のカリキュラムを50%は精神医学と心理学、こういうふうに養成の仕方を変えたら、学校の雰囲気が随分違ってきます。
  もう一つは、カウンセラー教育とその功罪ということです。現在、確かにカウンセラーの配置が行われはじめています。カウンセラーが少なくとも子どもの話をじっくり聞くということはもちろん前提です。しかしほかに危機介入のテクニック、非行臨床的な技術、精神医学との協力、この三つはどうしてもたたき込まなければいけません。特に犯罪心理学や精神医学の教育をしないで、カウンセラーとして今日の学校に配置するということは、カウンセラーがいたのにこんなことが起きたという事例を増やすだけのことです。カウンセラーのほうも、子どもの自主性を育て、尊重するのが我々の仕事だということで、クラス担任や生活指導係の先生と対立することが自分の仕事だと思っているようなカウンセラーが赴任し、それが外部の学会や団体とジャーナリズムと手を結んで学校の無政府化を助言したりして、自主性という名の無責任がますます横行するでしょう。
  もう一つ、現代の少年たちの問題の最重要の問題として不登校があります。登校拒否に陥るのは、もちろん不登校児が悪いんではないのでありますが、それにしたって不登校の問題について、これも皆さまに今日しきりに言われていることと逆の意味で申し上げたいことがございます。児童精神医学者の、あるいは心理学者の一部に、不登校というのはだれでもなり得ることであって、むしろ不登校の子どものほうが学校にちゃんと行っている子どもよりも、現在の管理教育に巻き込まれていないだけまだましだということを言う人がいるんです。しかし実際に私たちが不登校児と面接してみますと、「アレッ、そんなことはないんじゃないか」と思われる事例がむしろ大部分です。現代の学齢期におけるすべての精神障害、心の不具合というのは、不登校という形で触発するのです。
  筑波大学の体育学系飯田稔研究室では、野外活動の教育ということで、大学院生や学生の教育のために、ある先生が私費でキャンプ場をつくりまして、そこで中学生のキャンプをやっていたのです。そこにたまたま不登校の子どもが入ったら、この子どもが学校へ行くようになったのです。このプログラムは、沢登りしたり、山登りしたり、極めつけはソロ活動といって、たった1人で野営させたりするのです。そういう困難な課題に自然の中で挑戦して帰ってくると、学校へ行く子どもが結構がいるのです。
  それを調べるために、精神医学専攻の大学院生や心理学の学生をそれにくっつけましてやらせてみたんですが、5人の今学校に行っている子どもの中に、1人の不登校児がいる場合は、学校へ行くようになります。ところが、2人となったら効果は難しい。3人となったら効果はないのです。元気で今学校に行っている少年はどのくらいすばらしいのか。そこでいじめが起きるのが問題なので、1人ずつ大学院生を張りつけているんです。キャンプの初めに行ってみると、学校に行っている子と行っていない子では目の色が違う、動作が違うのです。そういう自然の中でのほかの友達と一緒の学習、そして何か困難な課題を与えて、肉体的に行わせるということが、不登校の問題を解決する上に役に立つんだなという感じを持つのです。

○  先生のお話の中で、いじめ問題への対応ということで、学校関係者が空間を管理し過ぎるという御指摘もございまして、学校関係者として今後考えていかなきゃならないと思います。その中で、図書室、保健室の役割ということでありますけれども、もう少し具体的に言いますと、ここには教員が張りついていたほうがいいのか、それとも子どもたちにある一定の時間といいますか、休憩時間あるいは放課後の時間等を過ごさすことがいいのか。保健室の場合は、養護教諭がカウンセリング的なこと、あるいは世間話をするということもございます。そういう中で、どのように子どもたちに空間を用意したほうがよろしいかということをお伺いしたいと思います。

◎小田意見発表者    この場合、教員が張りついていないべきだと思います。つまり、子どもたちというのは自分に対する評価権を持っている教師の前では、身構えてしまいます。養護教諭や図書館司書というのは評価権を持っていませんので、子どもが自由に話せるようです。しかし養護教諭の先生の中で、神経質で、子どもの体の健康管理さえ私はできればいいと思っている先生だと、保健室が不登校児のたまり場になっているということになったら、教頭先生と相談して、先生が保健室にかぎをかけてしまうことがあります。しかし保健室にかぎをかけることによって、自殺事件が起きたこともありました。
  しかし、入り口はオープンにしておいて、保健室の中で起きてくることについて、ここは子どもたちの避難港だ、憩いの港なんだと思っている養護教諭の存在は、学校の雰囲気をうんとよくします。これはこの前の臨教審の答申の中に少し載っています。
  もう一つは、図書室です。図書室に逃げ込んでくる。だから、図書室にも専任の司書がいることが望ましいのです、司書の資格を持っていても持っていなくても。そうして、これは大抵女性の先生になるでありましょうが、女性の先生が入り口に立ちふさがって、いじめっ子でも暴力少年でも追い払う気になったら、不思議に養護教諭や図書館司書に対してはいじめっ子もやっぱり一目置くようです。凛として入り口で、いじめっ子がいじめられっ子を追っかけてきたら追い返すべきだ。そういうことをよく吹き込んだ上で、学校もこれから子どもが減りますから、その分、養護教諭や図書館司書を増やしていく、そういう方向に持っていかれたらどうかと私は思っているんです。

○  先生のおっしゃる抑制力ですが、しつけも、教育も、あるいは刑罰、あるいは宗教によっても、抑制力が非常に落ちてきているということはよくわかります。先生のお話の文脈を随分興味深く伺わせていただいたんです。
  一つは、登校停止とアフターケアと先生はおっしゃいまして、いじめっ子は学校内の犯罪に近いようなものだから、登校停止という方法をとることを恐れてはならずとおっしゃいました。また先生の資料の2枚目の図式も、私もこのとおりだと思うんですが、まず深い愛の体験があって、内側に基本的なものが育った上で罰を受けることが大切です。登校停止も教育的配慮がなくてはならないと思いますので。教育ということが幼少期から続いて行われてきた場合は、アフターケアができると思うんですけれども、先生もおっしゃいますように、この順番が大変危うくなっております。乳児期、幼児期の人間関係が非常に危うくなっている。したがって登校停止、つまり処罰とアフターケアということが、その前提が危うくなった中で果たしてうまくできるのかということが1点。
  それから、私は臨床の精神科医でございまして、決して甘くすることのみで登校拒否をしている子を扱おうと思ったことはないんです。ただ、思春期という時期は、非常に迷いもし、悩みもし、その中では学校へ行かれなくなる子もあります。そのような非常に健康な思春期の挫折もありますし、まさに不健康な挫折と両方あります。現象はよく似ています。あるいは、非行においても仲間体験で、だれかが「行こう」と言ったから行く。ある種の同質親和性のようなもので非行の領域に行ってしまう子と、非常に病んだ子が非行を犯すものとあります。その両方の区別が実際的には一番難しいんです。その判別を、我々は臨床医としてやっているつもりなんですが、その辺がうまくできないと、現象面だけからとらえて処罰という形になりますと、アフターケアあるいはその後の教育的配慮という点、どのくらいうまくいくのかという、その2点を伺いたいと思います。

◎小田意見発表者    最後の質問から答えます。処罰だけで問題が解決するのかというので  ―どの少年の場合もそうですよ―。そういうことを常におっしゃられて、その結果、どういうことになるかといったら、学校でも、地域でも、その少年に対してただ遠巻きになるか、その少年が暴れまくるに任せておいて、その少年の暴力がある程度以上になったら、今度はその少年がとんでもない処罰を食らうということが今までの状態なのです。要するに、「処罰だけで」という言い方は、結局、何にもしないということと同じなのです。
  要するに、人間の行動というものは、「因果応報」という言葉を私は使うんですけれども、「因果応報」ということはあるのですね。いいことがあればいい報いがある。悪いことをすれば悪い報いがあるというこの原則だけは、子どもたちに早い段階でわからせなきゃならない。御意見はわかりますけれども、私はそれは決して本当の愛情ではないと思う。これが第1です。
  第2に、鑑別の問題ですね。これは非常に重要です。だけれども、不登校の場合、先ほどの冒険教育の場合でも、しかしながらやはり観察が必要だというので、キャンプ療法をやるときでも、これは大学でやっているからできるんでありますが、5人のグループに1人ずつ精神科の大学院学生を張りつけておくというぜいたくをやっているわけです。その中で、結局、9月になっても学校へ行かない子どもというのは、その前から実は全員ロールシャッハテストをやってあるというぜいたくなことをやっているんですが、どうもボーダーラインと診断できる者やら、分裂病スレスレというのが結構多くて、それはそれでずうっとそのまま治療を続けます。治療を続けると治療を続けただけのことはあります。
  ただ、登校停止の場合ですけれども、登校停止を教育委員会に上申するなりしてきちっとやれば、登校停止をやっているんですからね。生活指導係の先生とか、あるいは学校カウンセラーというのがいるなら、これが役割でしょう。毎日でもその少年のところに行かなきゃならない。これも本当にケース・バイ・ケースの問題で、例えば猫殺しなんていう動物虐待がありますでしょう。動物虐待が少年期だったらば、動物虐待児にはいろいろ原因がありますけれども、特に小学生年齢の哺乳動物を殺すという形の動物虐待は、非常に深い情緒面の欲求不満があることが多い。クラス担任が肉体的に抱き締めるというやり方をすれば非常に有効なことがありまして、それはそういうふうにしなければならないのです。
  ただ、罰は一切無用だという考え方に立って、できるだけ罰はしないというやり方は、一般的な多くの少年ですね、その中の特に非行の入り口ぐらいの少年を、非行のほうに引っ張り込んでしまうこともあると思います。

○  いじめの類型について資料に三つございますけれども、日本の社会は個が自立していないとか、同質性を強調するとか、それが日本の文化だとか、あるいは教育によるものだとか、いろいろ言われていますけれども、日本の学校にあるいじめをタイプ分けにしたときに、「みにくいアヒルの子型いじめ」、異質性を排除するといういじめが、本当に多いかというのが1点。
  それから、以前に無気力症というか、不登校とか、あるいは就職をしないとか、そういうのが男の子に最初多かった。今ぐらいになると、女の子、男の子、同数ぐらいあるというお話を伺ったんですけれども、それが事実であるとすれば、それはどのようなことで説明ができるのかどうかということと2点伺いたいと思います。

◎小田意見発表者    まず、後者のほうから申します。確かに、医学部の研究室でも、どうも元気があって積極的で、困難な施設でも飛び込んでいって、困難な仕事をしようというのは女子学生で、男性は何となく元気がないという傾向は、20年やってみてありました。一般的にこれは言われているのです。
  これはたぶん50年に及ぶ壮大な社会的実験の結果だったと思います。これは統計がないのでわからないのでありますが、つまり、男の子については「おまえ、勉強しろ。勉強をしなければ、おまえ落ちこぼれるぞ」というネガティブなプレッシャーをかけられて育てられたのです。大学に来るような女の子の場合は、「勉強しなさい。そしたら、これからは女性であってもどんな仕事でもできる」という、どっちかといえばポジティブな意味でのインセンティブを与えられて育ったのです。この壮大な社会的な実験の結果を、今日、我々は、特に20代、30代のエージグループにおいて、女性のほうがアグレッシブで、ポジティブで、男性は何となく元気がないという結果で示されているのです。要するに、ポジティブなインセンティブを与えて育てることが大事だということがわかります。
  しかし、女性にも最近それが出てきたというのは、女性であっても、やはりキャリアでなければならないというゾルレンがあって、「勉強しろ。勉強しろ。勉強しなければ落ちこぼれるぞ」というネガティブなプレッシャーが加わるようになってきたからだと思います。
  最初の御質問については、この分類でもって比較研究がなされたわけではないのでわからないのでありますが、ただ、「アグリー・ダックリング」というのはハンス・クリスチャン・アンデルセン自身の少年期の回想に基づいて書かれたもので、彼は転校生だったからいじめられたんですよね。つまり、日本独特のことではないということがわかります。アメリカの学校に行って、人種差別を感じたという子どもは多いのです。しかし、だれかがそういうときに、「それはいけないじゃないか。仲間に入れてやるぞ」と言う者がいるのです。
  日本の場合、だれかがだれかをいじめ始めると、その少年とつき合っているだけでもいじめられます。問題は一種のアニミズムなんです。日本文化にアニミズムが残っているということは、日本文化の魅力なのですが、「感染呪術(コンテイジャス・マジック)」といいまして、いじめられっ子とつき合っていると、その子もいじめられっ子になってしまうということがあって、初めいじめられっ子になるのはどこか周りの者と違っている者が標的になる。その子とつき合っている者もやはり標的になるということで、だれもここではとめ手がないということが、今の「みにくいアヒルの子型いじめ」を蔓延させている原因になっているようです。
  確かにそういう意味で、日本では子どもの社会だけではなくて、大人の社会でもこういうことが普及している。職場でもありますし、大学の中でさえありますし、学会の中でさえありますから、これはどうも日本の社会のある程度特性ではないかと思います。こういう異質排除というのは愚かしいということを、それこそアンデルセンの童話を用いてでも、子どもたちに早くから教えることが、これから国際化しなければならない日本人にとってとても大事なことだと思います。特にアジア諸国とつき合っていく上で、とても大事なことだと思います。

○  先生の最後の部分にかかわるんですが、私、現場の校長をやっていまして、いわゆるカウンセラーに漠然とした不満を抱いておりました。先生のきょうのお話をお伺いして非常にわかった部分があるんですが、今後について、現職のカウンセラーと養護教諭がおりますが、現職研修としてどんなものを用意する必要があるか。それから、これからカウンセラー養成と養護教諭を養成する場合に、どんなようなものを準備したらいいか、先生のお考えをお聞かせいただければと思います。

◎小田意見発表者    一つは、今のカウンセラーの養成の課程が、あまりにロジャース式の来談者中心のカウンセリングに傾きすぎているようです。これに少し行動主義の、「ビヘービア・モディフィケーション(行動修正)」といいますが、どうやって子どもの行動を変えていくか。あるいは、子どもに自分の行動の結果に直面させて、それに対する責任をどう取らせるかという「ビヘービア・モディフィケーション」の方法を加え、行動科学の考え方を取り入れることが一つです。
  それら、やはり精神障害のケースに対応するために、精神医学的危機介入の教育をすることです。
  もう一つは、グループワークです。グループワークの指導者。どれか一つのグループワークですね。つまり、特に構造的交流分析とか、あるいはゲシュタルト療法とか、あるいはキャンプ療法でもいいのですけれども、グループをどうやって形成していくのかという、そういう技術を全部身につける必要はありません、どれか一つ身につけることが必要です。
  それから、具体的なケース・メソッドを通じて、緊急を要するケース、火事場のケース、修羅場のケースについて、一体どういう対応をするかということについて教えることです。
  それから、学校という組織の中での対人関係の取り方。学校というところはどういうところで、どういう対人関係の取り方をしなければならないのかということを学んでもらわないと、ただ「臨床心理士」の有害をぶら下げてこられても学校としては、さらに待機型のカウンセリングでは、カウンセラーは座っていて、「ふんふん」「それで」「それで」と聞くことになりがちですが、学校の火事場では、自分で現場に飛び出していかなければだめなのです。やはり火事場に強いということをカウンセラーの一つの資格にしたいものです。来談者中心がいけないわけではないのです。子どもの声に耳を傾ける訓練をしなきゃなりませんが、それプラス、行動修正のテクニックを教えることが必要だと思います。

○  それでは、引き続きまして、本日お三人目になりますが、警察庁少年課の渡辺理事官にお願いいたします。本日は、「少年犯罪の現状と対策について」、資料4を準備していただいておりますので、これをお使いいただき、20分ほど御意見を伺いたいと思います。よろしくお願いいたします。

◎渡辺警察庁少年課理事官    ただいま御紹介あずかりました渡辺でございます。私からは、非行あるいは不良行為、さらには少年の犯罪被害、そういったものを取り扱っている立場といたしまして、まさに御議論の参考として、今の少年犯罪あるいは被害の実態がどのようになっているかということについてお話をさせていただきたいと思います。当然、教育にかかわる部分もございますし、あるいはそれにかかわらない部分もございます。全体として説明したいと思います。
  最近、神戸の事件もございましたし、あるいは、神戸の事件にかかわらない形でも、いろんなところで少年犯罪の問題が報道されておるようでございます。ただ、その報道されている各種の事件が、マスコミ等でセンセーショナルになっているのではないかという一部の御意見もあると聞いております。実はそうではございません。といいますのは、現在、少年法の世界で、少年犯罪の広報というのは、警察から広報する場合も非常に制限された形になっております。ですから、今、新聞等で出ておりますような神戸事件以外のいろんな事件というのは、まさにその一部でございます。ですから、もしも大人と同じような広報が行われたとすれば、これは世の中がひっくり返るぐらいのセンセーショナルな書き方になる、それぐらいの話であろうかと思います。
  さらに、数的な話で申し上げますと、やっと10月になりまして、警察庁あるいは法務省等からも白書がそろったわけですが、この夏の段階ですと、政府刊行物の白書という意味では、平成7年の数字までしか出ておりませんでした。ところが、平成8年、平成9年と、少年非行の劇的な変化というのがございます。そこのところがまだ議論の中に入ってこなかったようなところもあるのではないか、そんなような感じを持っております。
  そこで、今の現状ということで、資料に基づいてお話をさせていただきたいと思います。先ほど申し上げましたとおり、特に少年非行を統計的な面で見ますと、昨年、本年と劇的な変化を遂げております。例えば、刑法犯罪という形で非行を犯した少年は、一次的に警察において検挙、補導という形になってまいるわけでございます。それだけでも昨年中13万4,000人です。したがいまして、1,000人の少年がおりますと、その中で大体14人ぐらいは警察が検挙しております。しかも、今年でございますが、実は1〜9月末までの数字でございますが、そこにありますとおり18.5%増、約2割です。母数が非常に多うございますから、もう既に9月の末の段階で約10万7,000人の補導になっております。
  さらに、凶悪犯罪でございます。凶悪犯罪については、実は昨年、496人ということで、今までの10年間で最悪の数字を記録してしまいました。凶悪犯罪といいますのは、検挙率が大体8割ですから、発生したものがそのまま検挙されていると考えていただいていいかと思います。今年は1月〜9月で昨年1年の数字すら上回ってしまいました。増加率でいいますと、5割強の増加でございます。
  次に覚せい剤でございます。覚せい剤についても、昨年、実は中学生、高校生について、今まで統計を取り始めてから最悪の乱用者を記録いたしました。235人でございます。中学生につきましては、この1月〜9月を見ますと、前年同期で8割の増加、高校生についても2割の増加でございます。
  また、援助交際などと言われる性非行の問題でございます。これについては年間統計しか出ませんので、今年はどうだということは言えないわけですが、資料にもつけておりますが、「遊ぶお金欲しさ」という動機で、性的サービスを提供した少女。それによって、私どもが補導・保護した数は、昨年、2,517人を記録しております。過去最悪でございます。しかも、平成4年以降の伸びというのは非常に大きうございます。
  この10年くらい、子どもの数は減っております。毎年、毎年、3%強の減り方を示しております。その中で、これだけ増えるというのは、まさに異常事態であると考えていただいていいかと思います。そこで、若干の補足をつけさせていただいています。
  18.5%増であるとか、あるいは5割増であるとかいうふうに申し上げましたが、これが戦後の中でどういうような位置づけになるかということでございます。実は刑法犯少年の検挙・補導人員については、今まで前年対比で最も増えた年というのは、16%でございます。昭和54年〜55年。ですから、本年はそれを上回る公算は大でございます。
  また、凶悪犯罪について、5割強というふうに申し上げました。1年トータルしてみないとわかりませんけれども、今まで最も凶悪犯罪が増えた年というのは、昭和33年〜34年、37%増でございます。それも当然上回る公算が大ということで、少なくとも悪化率という意味では、今年は我々日本国が戦後経験したことのない年になる可能性が高いわけでございます。
  さらに、凶悪犯について申し上げましたけれども、実は後で申し上げますが、強盗が非常に増えております。強盗の数字は、昭和45年に1,080人を記録して以来、1,000人を超えるということはございませんでした。高度成長期の中で社会が豊かになる。その中で衣服足りて礼節を知るということであろうかと思います。それが昨年、1,000人を26年ぶりに超えました。1,068人でございます。ことしの1月〜9月は既に1,100人を超えました。
  覚せい剤でございます。警察が補導しておりますのは中・高生で235人というふうに申し上げましたが、氷山の一角だと思います。昨年の10月に国立精神保健センターが5万3,000人、108校の中学校を対象に行った調査でございますが、全中学生の0.3%が覚せい剤の使用経験がありということです。5万3,000人ですから、統計的には非常に有意な数になりますが、中学校1校にならしますと1.7人でございます。高校については、さらに多いだろうと思います。
  援助交際でございます。援助交際について申し上げますと、これは昨年8月の総務庁の全国調査でございますが、女子の高校生について、27%がテレクラ経験がございます。そして、27%の中で4%が相手と一緒にホテルに行っております。全女子高校生の中の1.1%、全国で2万6,000人。高校1校当たり5人、それだけの女子高校生が売春に加担しているということでございます。
  海外の実態を見てみましても、発展途上国も含めて、そのような国というのは非常に珍しい、恥ずかしい形になっているなと思っております。
  ただ、量の問題だけではございません。質的な変化は非常に大きいものがございます。
  まず、主体面ということで申し上げます。資料につけておりますので、後で見ていただきたいと思いますけれども、最近の増勢の主体は高校生でございます。そして、今年は中学生が増えております。過去3年の平均ですと、あらゆる年齢層の中で最も犯罪者率の高い年齢は、凶悪犯については16歳、粗暴犯にあっては15歳でございます。
  そして、私どもが申し上げております「いきなり型」という問題があります。それについても資料をつけさせていただいておりますが、例えば強盗でありますとか、恐喝でありますとか、そういったような犯罪につきまして、非行歴のない少年がこの種の犯罪を犯すという率が年々増えております。強盗については、今まで非行歴があった、すなわち万引をした、あるいは自転車盗をした、そういった者との割合と、昨年は逆転してしまいました。
  覚せい剤についても同様でございます。私ども、サンプルで調査をいたしましたところが、覚せい剤を使用している少年の6割は非行歴はございませんでした。
  ただし、これを暴発であるとか、突発であるというふうにとらえるのは、私は間違いではないかと思います。実は、つぶさに見てみますと、例えば少年鑑別所に収容されました少年、これは相当重大な非行を犯していると考えていただいていいかと思うんですが、それについてサンプル的な追跡調査でございましたが、確かに万引をしておるとか、あるいは自転車盗をしておるといったような犯罪をしている少年は大体半分ぐらいでございます。しかし、それ以外はそういったことはやっておりません。
  ところが、その子たちに聞きますと、「夜の街で何回も遊んだことがある」、ほとんど全員でございます。「何回もお酒を飲んだことがある」、これもほとんど全員でございます。「何回もたばこを吸ったことがある」、やはりほとんど全員でございます。ですから、その子どもたちというのは、「いきなり」という形では見えますけれども、実は問題行動、あるいは不良行為と言っていいかと思いますが、そういった形で、どうも私どもに対してシグナルを送っている子どもたちなのではないか。ただ、それが犯罪、つまり非行歴という形で、実際に警察に検挙されるという段階をとりませんから、「いきなり」と見えるのではないか。あるいは、そういった夜の街でいろいろと遊んでいるといったような行動について、親御さんも知らないし、そして学校の先生方も知らないのではないか、そういったような感じを持っております。
  一例として申し上げますと、これは別にパートタイマーを否定するわけではございません。昭和58年、戦後、第3のピークと言われた当時、1年間で720人の少年を強盗で補導いたしました。昨年は1,068人ですから、58年と昨年と比べますと、350人ほど増えておるわけでございますけれども、実はお母さんが毎日働きに出る家庭の子どもの強盗が、その期間、約300人増えております。これらのお母さんは、ほとんどパートタイマーと思います。パートタイマーが増えているというのは、これはまさに実態でございますし、それは抗せないことではあろうかと思います。ここで、それ自体をどうこう言うわけではございません。ただ、子どもの問題行動を、果たして親が気づいているかという、そちらの問題であろうかと思います。
  動機面でございます。実は、昭和58年当時、戦後、第3のピークと言われました少年非行は、「スリル」「遊び」「好奇心」を求めるというものが28%ございました。非常に多うございました。どんどん減っております。昨年ですと、動機面としてはそれは14%にすぎません。その間に増えてきましたのは、先ほど言いました問題行動のうち、特に深夜の遊興、そういったところでお金をショートさせ「遊ぶお金が欲しい」からというのが増えております。
  強盗について言いますと、昭和58年当時、強盗の中で三割弱が「遊ぶお金が欲しい」から強盗をやっておりました。昨年は5割弱になっております。明らかな質的な転換があろうかと思います。
  「模倣型」というふうに申し上げております。いろんな情報がはんらんしております。非行を誘発する情報もあるかと思います。その中で、「おやじ狩」「援助交際」、あるいは「エス」、そういった言葉が、どんどん言葉としてひとり歩きいたします。
  さらに、最近、集団非行というのが多くなっております。ただ、これもかつての暴走族のように組織されたものということではなくて、まさに先ほどお話がありましたいじめのように、みんなでつるんでという形でございます。友達に引きずられる。自ら計画してというより、いろいろと引きずられてやります。共犯による強盗医jけんは年々増加しておりますし、子どもの覚せい剤も、8割は数人一緒の乱用でございます。これは大人との大きな違いでございます。
  被害につきましては、これもまた増えております。刑法犯罪は、10年間で3割強。特に最近5年間ですと、凶悪犯、粗暴犯の被害に遭う子どもたちがどんどん増えております。昨年、その被害件数は1万5,000を超えました。ことし上半期は、前半に比べ凶悪犯で15.7%の増という形で、これまた異常な増加でございます。特にその中で、小学生、中学生に被害が集中する傾向がございます。平成8年と平成元年を比べますと、実は少年全体の被害というのは、平成元年のほうが刑法犯では多かったんです。ところが、小学生、中学生については、平成8年のほうが平成元年より多うございます。
  そして、子どもに特有の「こころの傷」が残ってこようかと思います。被害に遭った子どもたちは、それからどうなるんだろうか。ここには精神医学の専門家の先生たちもいらっしゃいますが、子どもの中で抑圧移譲という形があらわれますと、それがまた別の非行という形で転化されることもございます。いじめられっ子が転校した途端にいじめっ子になる、そういった例も多々ございます。「こころの傷」の問題は非常に大きいものがあるかと思います。
  背景でございます。このような量的、質的な変化につきましては、たぶんバブル期を通じた国民意識、国民社会の変化といったものも関連しているのではないかと思います。ただ、レジメにも幾つか書いておりますが、社会環境といたしまして、まず非行の芽を成長させる、それを助長するといった意味での深夜遊興、つまり逸脱行動の受け皿といったものが、犯罪という形ではなくて、深夜遊ぶという形で、どんどん増えております。あるいは、非行に走ることを誘惑する情報も増えております。非行そのものを助長するといった意味で、例えば援助交際の温床となりますテレクラは、最近、4年間で2倍の増となりました。急激な増加でございます。さらには子どもの福祉を害するといいますか、まさに子どもを大事にしない犯罪、覚せい剤の密売でありますとか、あるいは「援助交際」の相手方となります大人、これも後を絶ちません。
  さらに、社会の問題といたしまして、例えば児童ポルノといった問題もあろうかと思います。(児童ポルノを回覧)今、お回ししておりますような児童ポルノですが、私が、アダルトショップに行って購入してまいりました。そしてアダルトショップの平積み棚の3分の1は、子どもポルノでございます。国民として子どもを大事にしないということであれば、それで子どもがよくなるはずはありません。
  規範意識と関連した非行防止機能というとで申し上げます。先ほど、「いきなり型」のところで、問題行動ということを申し上げました。問題行動に対する無関心というのは相当広がっているのではないかということでございます。例えば家庭におきましても、夜、子どもが何をやっているかわからない。確か子どもは塾に行っているはずだ。まさに外注教育でございます。学校におきましても、実際、夜の街の実態を果たしてどこまでわかっていらっしゃるんだろうかということがあります。
  現実問題として、たばこですとか、お酒を飲んでいる子どもたちを注意しようとして、なぐられてしまった学校の校長先生も群馬にいらっしゃいました。実際に子どもの不良行為を確実に注意しておりますのは、今は警察でございます。警察官がそれを見たときに注意しないわけにはいきません。その数がどれぐらいになりますかといいますと、昨年、74万人でございます。高校生だけでは全体の8%です。100人に8人は、毎年、警察が注意しております。その後のケアが果たしてどのように行われているのか。そういったところを社会全体として考えていく必要があるのではないかと思います。
  少年に対する情報提供につきましても、子どもの世界というのは情報が非常に早うございます。いろんな口コミがあります。新しいものが好きでございます。そしてテーマもございます。正しい情報、そういった非行に走ると怖いよという情報を、生の形でどういうふうに子どもたちに提供するか。それについて欠けている面がなかったのかどうか、を考えていく必要があるのではないかと思います。
  次に、対策に移らせていただきます。時間の関係もございますので、簡単にと思います。
  私どもは警察でございます。少年問題が大変厳しい状況にありますときに、まず今、重大な非行や被害をなくすために、どうしたらいいのかということを考えます。現在、毎日、約2人の高校生が強盗を犯しております。毎日、約3人の小学生が強制わいせつの被害に遭っています。対応が1日おくれれば1日おくれるだけ、非行が増え、また被害が増えてまいります。そこで、犯罪を犯し、被害に遭ってしまった少年へのケアということで、子どもたちがそういった犯罪を犯したときに、しっかりとした審判をして、しっかりとした保護処分をするためにも、事実をちゃんと解明してあげなければいけません。そうしなければその子の更生は難しくなります。例えば、強盗を10件犯している子どもは、1件しか捜査段階で見つからなければ、あとの9件は許されたというふうに思うでしょう。これでは、しっかりした更生ができるというわけではありません。そういった意味で、少年事件の捜査は、まさに健全育成のためでございます。そして今後更に重要になってまいります。
  そして、より重大な問題は、どのようにして重大な非行に走らせないか。そのために、先ほど申し上げました非行の芽が芽生えました段階、あるいは被害を防止するための対処という問題があるかと思います。その意味では、先ほど言いました不良行為あるいは問題行動を起こしている少年に対して、どのようなケアを家庭なり学校なりがとっていくかということが大きな課題ではないかと思います。私どもも体制が限られております。毎年74万人もおりますので、その74万人の少年を警察がずっと面倒を見ることは不可能でございます。それは社会全体として考えていく必要かあるんだろうと考えております。
  そして、子どもたちにしっかりとした情報を提供する。すなわち、誘惑を与えるような情報がございます。あるいはガセネタもございます。そうじゃなくて、本当に薬というのは怖いんですよ、あるいは援助交際にはまっていくことによって、暴力団にこんなふうに利用されているんですよと、そういうったことをしっかりと提供していく必要があろうかと思います。学校を通じてということも含めて、警察が持っております犯罪の実態等については、どんどんお話をしていきたいと考えているところです。それは今の子どもたちに対してです。
  もちろん、私どもはタイムマシンを持っておりませんので、今の子どもたちを幼児期に戻すわけにはいきません。今の子どもを幼児期から育て直すことはできません。ですから、今やることということで書きましたが、それはそれとして、今の幼児を、将来、他人への思いやりがあって、自律心のある子どもをどのように育てていくかということは、極めて大きな課題であろうと考えております。
  最後に、警察と学校の連携について申し上げます。
  これは、深刻化する現状に対処するために、非常に緊急の課題と考えておりますが、まず一つは、学校教育の現場においても、少年事件の捜査であるとか、司法手続というのは、健全育成のためであるということを十分に御認識いただきたいと思います。文部省統計と警察庁統計の乖離というのを後ろにつけさせていただきました。その中で、例えば校内暴力について、いろんな教育的配慮もあろうかと思います。それでも、これだけ差が広がっております。資料の「11」と「10」でございます。
  それから、やはり問題行動への関心ということでございます。ただ、何分にも最近の少年は怖い少年も多うございます。注意するとなぐられてしまうといったような場合もございます。それであれば、私ども街頭補導をしております。一緒に歩いていただければボディーガードにもなり得ます。やはり学校の先生にも夜の生活実態というのはわかっていただきたいなと。それがまさに指導の前提ではないかという感じを持っております。
  ちなみに申し上げますと、私どもが扱っている事例の中で、校内暴力、特に対教師暴力について言いますと、生徒指導の先生に対する対教師暴力は非常に少ないという印象を持っています。つまり、子どもの生活実態についてガミガミ言っているようだけれども、考えてくれているという教師に対しては校内暴力は非常に少ないということがございます。
  そして、先ほど申し上げました犯罪の捜査あるいは取締りで得られた情報は、まさに私どもとしても積極的に学校に提供していく。場合によっては、今、薬物乱用防止ということで、警察官が生の取締に基づく情報を、生徒に対して直接提供していくということもございます。そういった仕組みをしっかりと確立していく必要があるだろうと思います。
  被害の防止の問題も、私どもには被害という形で被害届が参ります。ただ、その前段としての、例えば声かけ事案であるとか、犯罪に至らないようなものであれば、なかなかきません。そういったものを学校としっかりと突き合わせて、子どもたちがひどい被害に遭わないようにするためにはどうしたらいいのか、それぞれが知恵を出していくことは非常に大事なことではないかと思っております。
  中・長期的な課題でございますが、少年問題の〜のためには、やはり国民意識の高揚という問題がございます。今見ていただきました児童ポルノ、あんなものがはんらんしていますれば、子どもたちがよくなるはずもございません。そのためには、子どもにかかわる関係機関がいろんな立場からマルチのネットワークという形で、寄り集まって知恵を出していく。その中で、子どもを大事にしていくんだという意識をみんなで盛り上げていくことが非常に大事ではないかと私は考えております。
  1点、最後のデータでございますが、これは参考まででございますが、高校生の強盗でございます。強盗は検挙率9割でございます。事件発生から平均3日で解決されます。夏休みと冬休みは少ないです。学校の学期の期間中に増えます。これは別に学校が悪いということではなくて、たぶん学校という場で不良行為グループのコミュニケーションも行われる。休みの間はセグメントとして分かれるということであろうかと思います。ですから、そういった意味でも、問題行動への関心というのは、ぜひとも高めていただきたいと思います。

○  テレビ放送やなんかにおいて、今、子どもたちに悪影響を与えるものが多くなったことは事実でありましてね。私はこれを何とかして抑えようという運動をしたんですけれども、言論の自由というのがあって、例えばテレビ放送に対してVチップを導入するということを主張したんですけれども、報道界は絶対入れてくれない。これは何か方法はないものですか。

◎渡辺警察庁少年課理事官    行政もそうでございますが、例えば、今、お回ししましたような児童ポルノについては、まず禁止していこうという動きが、議員立法で検討されております。そういった動きに我々としても積極的に協力して、それを一つのテコとして全体の意識を盛り上げていかなきゃいけないと思っています。

○  情報化が進んだ社会でいろいろなことが起こって、情報化が一つの引き金ではあろうかと思うんですが、今伺った統計は日本全体をまとめての数字なわけですけれども、地域間格差ということでは、特に都会に多いとか、あるいは情報化のもとで地域間格差がないとか、どちらでしょうか。

◎渡辺警察庁少年課理事官    実は、地域間格差はあまりございません。こういった統計を出すときに、私どもは、まず東北、それから九州、それから全国というので傾向を比べてみました。変わりません。
  現実問題として申し上げますと、かつては風俗関係の営業については東京、大阪などが多かったわけですけれども、例えばテレクラということであれば、全国どこにでも広がっています。あるいは出版物という形であれば、広く流通します。さらに、非常に大きな問題といたしましては、それぞれの県の少なくとも県都については、かつての東京にあったような有害環境が、広がっております。そして、今、どこの県都に行きましても、ほとんど東京と同じ生活ができます。したがいまして、地域間格差はございません。

○  凶悪化が進んで、しかも集団による非行が増えているということの実態はよくわかりました。ついては、どうしてこの時期に、このような強盗等の非行が急速に上昇していったのかというあたりを、もし警察のほうの分析でわかれば教えてほしいと思います。

◎渡辺警察庁少年課理事官    実を申し上げますと、平成4年から平成8年の間に、凶悪犯は、5年間ですけれども約3割増えておりました。ですから、私どもが今言っていますのは、ボディーブローであったものが、ブレークという形に爆発したんだろう。ただ、その期間のうち、実は平成4年から平成7年の間というのは、人口比でいいますと、少年の刑法犯の検挙人員はどんどん増えていたんですけれども、何分子どもの数が減っているものですから、統計としては全体としては少年非行が落ちついているかのような印象を、国民が、あるいは私ももそうでございましょう、持っておった面もございます。平成4年ごろというのは、まさにバブルが崩壊いたしまして、閉塞感が高まった時代でございます。そういったものも関連しているのかなという感じを持っています。

○  お話をいただいた最後の連携というところで、警察のほうから御提起いただいたことは、学校としても真剣に受けとめたいと思っておりますが、これまでの中で、地元の警察署に、例えば本校の子どもたちに何か問題行動は、ということをお伺いしても、なかなか教えていただけなかったというような。実際あるけれども、子どものことをおもんぱかってということがあったのかもしれませんけれども、そういうような状況が今後は改善されて、お互い情報交換し、もちろん我々が得た情報の管理ということは気をつけますが、そんなところは、今後、警察のほうでも進んでいくんでしょうか。

◎渡辺警察庁少年課理事官    その点については、さらに文部省ともいろいろとお話をしているところがあります。ただ、私どもの立場としても、あるいは学校の先生の立場としても、家庭の問題が非常に多うございます。例えば、私どもが不良行為少年という形で補導いたしますときに、親御さんが必ず言いますのは「学校には絶対通報してくれるな」ということです。ということになりますと、いろんな指導をしていくときに、家庭との関係を悪くしてしまいますと、こちらとしてもなかなかケアができない。そういった隘路があります。その隘路をもし解決するとしたら、それであれば警察官と保護者と先生が一緒に歩いてみたらいいじゃないかと。それであれば、そういった通報の問題は出てまいりません。その中で、警察、保護者、学校との信頼関係が出てくれば、さらに風通しのいい情報提供もお互いできるんじゃないかと思っています。

○  昭和54年〜55年でしたか、急に犯罪件数が増えた時期がありましたね。それともう一点、昭和33年〜34年ですか、同じく件数が急増しています。これは社会的な現象としてはどういうふうに解釈したら良いのでしょう。それと、先ほどお話しのデータを教えていただくとありがたいんですが。

◎渡辺警察庁少年課理事官    わかりました。それであれば、文部省を通じて追加で提供させていただきたいと思いますが、少年非行の波というのは、戦後、今まで大きな三つの山がございました。一つは戦後の混乱期でございます。これは昭和26年を山にいたします。戦後の混乱期、社会情勢を反映いたしまして、大人の犯罪も増え、子どもの犯罪も増えました。そして、昭和39年をピークとする山がございます。これは60年安保、時期と重なります。その中で、太陽族といったものもどんどん増えてまいりました。もう一つは、高度成長が終わりまして、ちょうどオイルショックが始まって、オイルショック不況が終わるまでにジャンプした第3の波というのがございます。そして、今の現状というのは、その中で第4の波に向かいつつある危険性があるのかなと、そんな感じを持っています。

○  ありがとうございました。
  それでは、本日の議論は以上ということにさせていただきます。
  今後の審議の日程については、資料にお示ししてございますので、御覧いただきたいと存じます。
  12月のヒアリング対象者につきましては、今回新たにお示しいたしました。既に御案内のとおり、11月には「子ども・保護者と語り合う会」を開催し、また2回の会議で「道徳教育の現状と課題」「子どもの遊びや情報環境」についてヒアリングを行いますが、その後、第8回、12月5日は、生徒指導・カウンセリングの現状と課題について、学校現場、カウンセラー、電話相談の関係者の方々にお願いすることにしております。さらに第9回、12月9日になりますが、地域におけるさまざまな取り組みの現状について、スポーツ、ボーイスカウト、自然体験活動、野外での遊びなどの関係者からお話を聞く予定です。詳細は資料のとおりでございます。
  それから、12月3日に会議を予定しておりましたが、ヒアリングに来ていただく方々の御都合によりまして、これは取りやめといたします。そのかわり9日に会議を設定しました。第8回が5日で、第9回が9日ということになります。よろしくお願いいたします。
  それでは、本日の会議はこれで終了させていただきます。
  次回は、11月7日、金曜日、13時から霞が関ビル35階でございます。
  本日はどうもありがとうございました。
      

(大臣官房政策課)
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