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中央教育審議会

1997/10
幼児期からの心の教育に関する小委員会 (第4回)議事録 

       幼児期からの心の教育に関する小委員会(第4回)

    議    事    録

    平成9年10月24日(金)   13:00〜15:30
    東海大学校友会館  33階  阿蘇の間


    1.開    会
    2.議    題
        幼児期からの心の教育の在り方について(ヒアリング及び討議)
    3.閉    会


    出  席  者

委員 専門委員 事務局
木村座長 油井専門委員 長谷川生涯学習局長
沖原委員 猪股専門委員 遠藤審議官(初中教育局担当)
土田委員 衣笠専門委員 御手洗教育助成局長
佐々木(光)専門委員 北村審議官(体育局担当)
佐保田専門委員 土居幼稚園課長
末吉専門委員 富岡総務審議官
平山専門委員 その他関係官
服部専門委員
山折専門委員
和田専門委員
渡邊専門委員


    意見発表者
      1  川  井      尚  氏(日本こども家庭総合研究所愛育相談所長)
      2  千  石      保  氏(日本青少年研究所所長)
      3  小  平  ウ  タ  氏(NHK国際放送キャスター)


○  それでは、ただいまから中央教育審議会・幼児期からの心の教育に関する小委員会、第4回を開催をさせていただきたいと存じます。
  本日は、お忙しい中、本会合に御出席を賜りましてまことにありがとうございました。きょうは、前回御案内申し上げましたとおり、3名の方からヒアリングをお願いいたします。その関係で、通常の会議時間を30分延長し、3時半までを予定しておりますので、よろしくお願いいたします。
  それでは、ヒアリングに入らせていただきます。
  ヒアリングに際しましては、意見発表者の皆様方から御提出いただいております意見の要旨を適宜御参照いただきたいと存じます。
  きょう、初めにヒアリングをお願いいたしますのは、川井尚様でございます。川井様は日本こども家庭総合研究所に置かれております愛育相談所の所長をお務めでございまして、育児相談の現状や課題について、心の面を中心にお話しいただければと思います。20分ほど御意見を伺いまして、その後10分程度質疑応答を行いたいと存じます。
  それでは、川井様、よろしくお願いいたします。

◎川井意見発表者    川井でございます。今の若いお母さんたちが育児をめぐって何を悩み、心配し、子どもについてどのように感じているのか、その実情について意見を求められましたので、御報告いたします。
  添付いたしました資料は、このことを知る上で適当と考えられます母親の育児不安に関するものであります。なお、ここに挙げました項目は、相談の場で、私どもが母親からよく訴えを聞くものを中心に、28項目の中からのものであります。育児不安は、資料を御覧いただきますとおり、「表1」「表2」と分かれておりますが、「不安・抑うつ感」というものと、「育児困難感」の二つのグループに分けられております。このグループ分けは、実は因子分析という統計的処理によって得られたものでありますが、例えば不安・抑うつといった状態のグループ、あるいは育児困難感と名づけていいようなグループ、そういう意味を含んだものであるというふうにお考えいただければと思います。
  資料を御覧いただきながらお聞きいただければと思います。まず、具体的に「不安・抑うつ感」グループの項目ですが、例えば「とても心配性で、あれこれ気に病むことが多い」というのは、3歳未満のお母さんですと30.8%、3〜6歳のお母さんだと36%。
  次に、「不安や恐怖感におそわれることがよくある」、12.7%、12.9%。
  ほかのものは読み上げませんけれども、この種のものが「不安感」というふうに名づけられています。
  次に、「気が滅入ることがよくある」、25.8%、28.0%。
  「何ともいえず淋しい気持ちにおそわれることがよくある」、15.9%、17.3%。これらが一応「抑うつ感」と名づけたものであります。
  この「不安・抑うつ感」のグループは、その項目内容が示しますように、母親自身の心の健康に関するものでありまして、恐らくこのような傾向を本来持つお母さんが乳児期から幼児初期の子どもを育てる過程で、心の健康が脅かされて、このような状態を示すものと考えております。
  ここでは、心のケアを必要とする母親が存在しているのだという認識を私どもは持ちたいと思っております。
  また、乳児期から幼児初期にかけて不安・抑うつ状態のグループが1位にきております。このことは、この時期の母親の心の健康に留意すること、これは今申し上げたとおりであります。
  次に、「表2」になりますと、これは幼児期後半のことになりますが、育児困難感グループが1位になって逆転をします。これから御説明いたしますが、子どもの発達に伴って、育児への困難さ、困惑が前面に出てくるものと考えます。この育児困難感グループの項目を見てみますと、「子どものことがわずらわしくてイライラする」、16.7%、22.4%。前のほうが0〜3歳のお母さんです。
  「子どもを虐待しているのではないかと思う」、22.5%、44.2%。
  「何となく育児に自信がもてないように思う」、22.5%、35.7%。
  項目の中に「R」と書いてあるのは、逆転項目でして、意味が逆になります。例えば「子どもをうまく育てている」というのは、「子どもをうまく育てているとは思えない」ということで、これはパーセントが高くて、54.8%、40%。
  「子どもを育てることが負担に感じられる」、10.3%。これは3歳未満のお母さんです。
  そして、「母親として不適格と感じる」、19.8%、29.0%、等々であります。
  まず、母親としての実感、肯定感を持てないお母さんたちがいるということ。また、3歳から6歳の母親では、「子どものことでどうしたらよいかわからなくなることがある」、お母さんが50.8%もいるということであります。
  この育児困難感グループは、育児への自信のなさ、心配と同時に、子どもへのネガティブな感情、態度も持っている。その結果として、母親本人が母親として自分が不適格だと感じてしまうという状態であります。
  このようなことから、育児相談は、母親の子どもへのこのような思いをくみ取り、あるいは母親の味方になった相談、すなわち、母親らしくないとか、母親失格とか、母親を悪者にするような一方的な指導、説教にならないようにしたいものだと私どもは常々心がけているわけであります。子どもへのネガティブな態度、感情について、現在、虐待の問題もありますけれども、そのリスクも考えなくてはいけませんが、しかし子どもを育てる過程では、いつもいい感情、暖かいお母さんではいられないことも大いなる常識であることを忘れてはならないと思っております。
  現在、育児は楽しいもの、楽しくあるべきもの、母性愛に満ちているべきであるというようなことが強調され過ぎているように思います。このことはかえって母親を追い詰めることになります。母子関係というものは深く濃い関係でありますので、そこにはよい感情も、悪い感情も生じて当然であるというふうに私どもは考えて、相談を行っていきたい。また、リスク要因もあれば、そのリスクを低減する要因もありまして、後にこれら育児不安の背景のところで申し上げたいと思います。
  また、「第3因子」ということで、資料の左の一番下のところですが、3歳から6歳の幼児期になりますと、子どもの行動範囲も広がりまして、その結果、母親の人との関係も広がりを持つことになります。そうしますと、人との関係が苦手な母親は困ることになりますし、「公園デビュー」という言葉もあるぐらいで、母親のグループが既にできておりまして、そこに入ることが難しい母親もいる。その結果、うまく子ども同士も遊べない。そこで人づき合いがあまり好きではないとか、人とつき合うよりも一人で何かしているほうが好きであるといった非社会性とでもいうべきようなグループが見られます。お母さん自身の対人関係にも目を向ける必要がありそうですし、母親相談ということでありますれば、母親と私ども相談者との信頼関係をまずつくっていくことが大切になります。従って母親の対人関係の問題について目を向けたいと思います。
  なお、個々の比率は、後でまたゆっくり御覧いただければと思いますが、比較的高いことが注目されます。その質的な側面は個々違いがあるだろうと思います。特に調査のものですので。けれども、現在の母親の子どもに対する実情の一面は示しているものだろうと考えます。
  ところで、問題は、これらの項目すべてに、あるいは一人のお母さんが多くの項目に該当する場合であり、そのときに相談、援助が必要であろうと思います。次に、このような育児不安にはどのような背景があるのか、調べてみました。主に6点申し上げます。
  このような育児不安が高いお母さんは、第1番目、乳幼児期を通してこのような不安が高い傾向を示します。そこで、困ったとき、いつでも相談できる人が、これは友人であれ、専門家であれ、必要だろうと思いますし、あるいは身近な相談機関に相談に行けることが大事だと思います。
  2番目、子どもへの満足感が低い傾向があります。これは子どもへの全体的な印象、あるいは感じ、評価であるだけに、ふだんの自分の子どもへのかかわりへの影響が考えられます。子どもへの母親の持つ期待、等々を中心に相談に乗り、あるいは話を聞いてあげたいと思います。
  3番目、兄弟がいれば他の兄弟についても心配する傾向がある。このことは、ある子どもに限らず、あるいは子どもの状態とは比較的関係なく、不安を持ちやすい母親もいることに留意したいと思います。
  4番目、夫婦関係や家庭機能あるいは父子関係や父親の役割との関連が考えられます。夫と子どものことで話し合いがない、夫と気持ちが通じ合っていない等々の夫婦関係の問題、あるいは母親自身が家族から離れて一人になりたいとか、家庭内が何となくしっくりいかない、家庭内に何かともめごとが起こる、家庭に母親自身居場所がない、家族としてのまとまりがない等、母親が家庭において機能しにくい状況も考えられるのであります。また、父親と子どもとの関係が希薄でありましたり、父親がその役割を十分取り入れていないことも、育児不安と関連を持っているようであります。例えば、父親の役割として乳児期から父子関係をつくっていくこと。例えば私ども愛育病院では、希望する方には夫の立ち会い分娩を行っております。この立ち会いが、早くから子どもとの関係を作りやすくしています。そこでできるだけ早くからお父さんと子どもとの関係をつくっていくこと。例えば、それが児童期や思春期になって、お父さんの出番ですよと言われても、父親も子どもも互いにどうかかわり、つき合っていいかわからないといったことになります。
  さらに、今の若いお父さんたちはだいぶ家事、育児への参加をしてくれているようですけれども、まだまだ仕事中心といったこともあります。家事、育児への具体的な参加、あるいは妻の精神的な支えや相談相手になること  ―後に母子関係のところで述べますが、母と子を守ることが父親の大事な役割です。あるいは、家庭内の重要な事柄の決定と実行への参加。従来、家庭内のこと、子どものことは、母親が決定して、あるいは決定せざるを得ないということがありました。その上、「男は仕事、女は家庭」という意識からの脱却も必要かと思います。ほとんどの母親は、働くという社会的経験を持っていることも、私たちは忘れてはならないと思います。働いた経験を持っていないお母さんというのは、何らかの事情で働かなかったということであります。母親として、妻として、女性として、人間として、そして社会的な存在としてもありたいというごくあたりまえな母親たちの要求も認識しておくべきだと私は思います。
  5番目、相談できる友人が少ないし、自分の母親にも相談できない人が多い。関係というものは繰り返されやすいという特徴があります。母親自身の母子関係の影響もありましょうし、信頼し安心できる人間関係を、例えば相談という場にお母さんが見えたならば、その中でつくっていくことも大切であろうかと思います。そして、このようなお母さんたちはなかなか相談行動を起こしてくれませんので、少ない相談の機会を生かすことが大事だと思います。
  6番目、母親自身、心身状態に不安を持っていることが多い。具体的に心身状態が不調であることもありますが、さらに気持ちが充実していない、毎日が充実していない、生き生きしていない、幸せな気分で過ごしていない等々、生きがい、張り合いのなさというべき状態もあります。母親の心身状態への配慮、ケアーの必要性と、第4点で述べましたところ等々、援助する場合の重要なポイントだと考えております。
  ところで、母親がこのような不安を抱えながら子どもを育てていく場合、子どもの心の健康は脅かされる可能性があると思われます。その大きな理由は、母子関係の主たる働きが安全性というものにあるからであります。すなわち、乳幼児期ほど心身の危機、危険な時期はなく、日常生活の中でより多く生ずるその危険な状態を安全な状態にすることが母親の役割と言ってよいかと思います。現在、クローズアップされ、発生予防や対応を迫られている、特に母親による虐待は、安全な対象であるべき母親が危険な対象であり、心身の危険な基地になっているところが大問題なのであります。
  本題に戻りまして、この安全性のある母子関係が、将来にわたって心の健康の基盤となります安全感、安心感、信頼感  ―この信頼感には自己信頼と他者信頼があります  ―確実感、こういった「感」を子どもの心に根づくように育てることが大切なのであります。この「感」がいかに大切か。それは絶対安全、絶対確実、絶対信頼というものはあり得ないからであります。あり得ないだけに、「感」というものが大事だと私たちは考えているのです。
  母親が不安を抱えながら育てるとすれば、子どもとの安全な関係を持つことが難しく、子どもの心にこれらの「感」が十分に育ち得ないことが考えられます。実際、私ども相談の現場では、さまざまな心の問題を持つ子どもたちに、安全感など、これらの「感」が十分育っていない、あるいは乏しい、欠如しているということが認められるわけであります。
  そこで、子供の心の健康を考えるその基本は、まず母親の心の健康を考えることにあるといってよいと思います。従って、育児支援は母親支援であり、相談・援助のポイントにおいてお話し申し上げましたように、母親を中心に父親も含め、家族関係や家庭外人間関係をも視野に入れることが重要であると思います。地域において、母親の相談に細やかにこたえられる体制をつくることが必要であると考えております。
  最後に、文部大臣の諮問文を読ませていただきました。その中に、子どもたちの心の問題は、反面、大人たちの心の問題でもあるという指摘がされておりました。私もそのとおりであると思います。なぜならば、特に小さい子どもたちは子どもの国に住み暮らしているのではなく、大人の国に住み暮らしているからであります。その大人の国のありようが子どもに大きな影響を与えることは火を見るより明らかであり、私たち大人の国の再点検を必要としていると思います。子どもたちがおかしいとき、必ず私たち大人がおかしいのだと言ってよいと思います。以上で報告を終わります。

○  今、お話を伺っていて、なるほど大変なことと、私自身も子育てが終わった後を振り返ってみますと、確かにそうかなと思うんです。先生に、これを相談されているときの具体的なケアを随分細かく教えていただいたんですが、この中で成功例といいますか、中には母親としての満足感、子どもを持つことの喜びとか  ―今回はマイナスイメージのほうばかりなんですが、プラスイメージのほうについて先生方が感じられるデータで、具体的な例がありましたら教えていただきたいんですが。

◎川井意見発表者    今申し上げたことについては、少しマイナスのイメージをお持ちかと思います。ただ、多くの親は、この幾つかの項目の中の幾つかについてくるのであって、すべてについてきたときが問題になります。
  恐らく私の相談の経験や乳幼児健診、等々を通して経験的に言いますと、ほんの少し援助を必要とするお母さんたちは、多く見積もって10%、ほとんどは7、8%。それも小児科の先生ですとか、幼稚園・保育園の先生ですとか、あるいは保健婦さんですとか、そういう方たちが相談に乗ってくれて、それで御自分の力で育児をしていける人たちだろうと思います。
  そして、私ども心理の専門家が専門的なケアーをしなくてはいけないといった人たちは、恐らく2%、100人に2人あるいは1人2人といったことのように思います。

○  大変興味深いお話をありがとうございました。私も育児不安のことで同じように感じて、先生がおっしゃってくださいましたことを大変興味深く伺ったんですが、ちょっと聞き漏らしましたが、この母数といいましょうか、親御さんたちは、3歳までがnが766、それから3歳から6歳までの方々ですが、この方々はどういう方でいらっしゃいましたんでしょうか。先生のところにいらっしゃった方ですか。

◎川井意見発表者    これはアンケートの調査でございます。そして幼稚園と保育園と、それからゼロ歳児は保育園でもなかなか難しいので、乳幼児健診あるいは小児科の乳児健診のお母さんたちであります。

○  幼稚園と保育園ということでございますと、私は今、親御さんの不安が割合専業母親のほうに高いような気がいたします。特に閉塞感という点で。  ―先ほど先生がおっしゃいましたように、仕事をしていた人が家庭に入られる実情があります。一方、仕事をしながら保育園に預けておられる方は、体力的には非常に困難がありますが、ある意味で自分を回復する時間帯なり、育児を他者と一緒にできるという意味があります。働くお母さんのしんどさと、家庭に24時間いるお母さんのしんどさとの間には、違いがあるように思うんですが、その辺の先生の御感想でも結構でございますがお聞かせください。

◎川井意見発表者    私もそのとおりだと思います。最前申し上げた「家族から離れてひとりになりたい」等々、専業主婦のお母さんたちは本当に四六時中子どもといて、まいってしまうということになります。特に最近、私たちの周りでも少し心配をしておりますのは、晩婚化ということが言われますけれども、割合仕事をしっかりしてきて、そろそろ結婚しようと。そして、そろそろ赤ちゃんをといって、赤ちゃんを産んで育てていくんです。そのときに、今までの生活様式、適応の仕方と、今度は家庭内にいて育児という、その落差が母親にとって相当こたえていまうということになります。ですから、専業主婦のお母さんたちへの援助が大切だと思います。
  働いているお母さんたちは、単に育児と家事の両立というだけではなくて、働くということもうまく思うようにいかない。育児のほうもうまくいかないといったことで、そこで悩んでしまう。
  それから、それでも働いていないお母さんたちは、子どもが何か心配なときに、相談に来やすいわけです。ところが、働いているお母さんたちは、子どもに何かあったときに、なかなか相談に行けない。そこで、お母さんたちがとても悩んでいるということも事実であります。

○  実態のお話をありがとうございました。先生の資料の3ページの一番最後のところですけれども、母親支援は、地域において母親の相談に細やかにこたえられる体制をつくる必要があるということですけれども、具体的にこれはイメージとして、例えばこんなふうな形があればいいという、具体的なものをお持ちであればお示しいただきたいと思います。

◎川井意見発表者    乳幼児期でありますれば、現在、乳幼児健康診査がございます。それから、乳幼児健康診査のときに、従来、身体のこと、それから特に発達ですが、発達も割合知的な発達に目が向いていますので、もう少しお母さんと子どもの心に目を向けた健診、相談といったことが、これから、従来やってきているその体制の中にあるといいと思います。
  それから、最前研修のお話も出ていましたけれども、今、保健婦も、保母さんも、幼稚園の先生方に心の相談についてお話をすることがありますけれども、相談ということについての  ―カウンセリングマインドという言葉もこの委員会で出ておるようですけれども、そういうことも身につけながら、まずは今ある体制の中で対応していくことが大事だろうと思います。
  それから、母子愛育会では研修部を持っておりまして、地域のいろんな方々が見えていろんなお話をしてくださいます。その中に、母親と子どものグループのようなものをどんどんつくっていこうとしています。母親同士が相談し合う、話し合う場。で、それをまたサポートするようなこと。そんなところが増えてきていますし、そこら辺も支援をしていけたらと思います。幼稚園について私はよくわかりませんけれども、保育園等々では育児相談を中心に力を入れていっているように伺っておりますし、充実をしていっていただければと思います。

○  どうもありがとうございました。先生が御指摘したとおり、育児の不安の問題を考える際に、母親の心の健康の問題が大事だという御指摘は、まさにそのとおりだと思います。
  ついては、非常に細かい質問なんですが、一つは、母親の年齢の違いによって、育児不安の中身が違うかどうかということです。例えば若年で心の準備もないまま結婚し子どもが生まれた母親と、先生がさっきおっしゃったように、かなり社会経験があって家庭に入ったお母さんとの、不安の中身の違いを一つお聞きしたいということです。
  もう一つは、最近のお母さんたちは、私らの現場から見ていますと、子どもの数が少ないこともあってか、非常に平均的な子育てを求めています。子どもには、身長から能力からいろんな違いがあり、言葉の発達も早い子も遅い子もいると思いますが、そのような個性の違いを非常に気にしているように思います。我が子が他の子から遅れているんじゃないかという余計な不安を持っています。そのことが要らぬストレスになっているのではないかと思いますが、そういった不安に対するアドバイス、助言等の実情をお話しいただければと思います。

◎川井意見発表者    母親の年齢による育児不安なり、母親の心の健康の問題は、きちんと調べたというようなことはありませんけれども、ただ一つ、何年前だったか、母親の年齢に関する調査研究を一つだけやったことがありまして、そのデータを思い出しながらお話し申し上げます。
  割合、年齢だけで見ますと、そんなに大きな差はなかったように思います。最前申し上げたのは、キャリアウーマンのような形でバリバリ仕事をしてきてというのはちょっと極端な例でして、割合年齢が高いお母さんたちはそれなりに人格の発達等々があって、若いお母さんたちよりも子どもへの対応がいいというデータでした。ただし、これもごくあたりまえなことですけれども、育児というのは体力が要ります。まさに赤ちゃんほど長い人生の中で、人を右往左往させ支配し得る時期はないだろうと思うんです。そういう意味では、十分に体を使って育児をするということ、そこに困難を感じているということがあろうかと思います。

○  二つ目の問題は、我が子のいいところも悪いところもあるがままに受け入れ認めていくということでなくて、何か平均的なものと比較してしまうような不安の中身の問題を御質問します。

◎川井意見発表者    ほかの子との比較やほかのことが気になるということですね。やはり3歳以降のお母さんたちの調査をしますと、ほかの子と比較してどうかということを気にする率が高くなります。ですから、自分の子どもの変化をよく見られないといった方もなくはありません。特に乳幼児健診で子どもたちの発達、あるいは発達的観点から子どもたちを見ようということで、母子健康手帳もそんなふうな形になっているんですけれども、結局はできる、できない、標準との比較で見てしまう。実は発達的な見方というのは、今がどうであって、その前がどうで、これからがどうかという変化を見ることが、発達を見るということですので、この点をお母さんたちにもうちょっと理解してもらえるといい、あるいは私たち小児の専門家もそういう見方をしていかなくてはいけないと思っております。

○  私は学校現場の者でございます。将来、母親となる子どもたちを、先ほどのお話のような育児不安を何とか克服していくことができる人間に育てていきたいと思っています。先生から御覧になりまして、現在の学校教育に期待したいことや御要望がございましたら、ぜひお聞かせいただきたいと思います。

◎川井意見発表者    私、学校の現場というものを具体的に存じ上げないもので、私が学校とかかわるときは、不登校の子どもたちとその母親というのがほとんどになってしまうわけなんですね。その不登校  ―私は不登校という言葉は、いろんなものが含まれてしまうので、臨床的に一番問題になるのは、学校恐怖症。もともと学校に行きたいんだけれども、行けない。行くに行けない。学校自体が、何が恐怖かわからないんだけれども、漠然とした恐怖の対象になってしまう、そういう子どもたちがいるわけで、その子どもたちを通しての学校ということしかわからない。ですから、学校の先生方への全体的な要望は難しいです。
  ただ、私は学校恐怖症の子どもたちと親御さんと先生というところで、相談の中で先生方にお願いをすることがある場合は、不登校に限ってのこととお考えいただいていいんですが、学校の先生たちがもしクラス便りなり、お手紙なり、あるいは訪問なりをしていただくならば、ぜひ継続してやっていただきたい。特に子どもたちは、先生方が訪問されても、電話をされても、初めは出なかったり拒否いたしますけれども、継続してきていただくと、学校が、あるいは先生が、自分を受け入れてくれる、信頼感を持っていってくれると子どもは思います。そういう経験を持っておりますので、ぜひそうしていただければと思います。
  それから、最近、保健室の問題が相当クローズアップされて、保健室の先生も  ―私が相談している子どもも図書室だけは行き、図書の先生のお手伝いをしているということもある。そういう先生方にも相談の仕事、あるいはカウンセリング的なところで対応してということを、文部省のほうでもお考えくださっているようでありがたいと思います。ですから保健室登校、図書室を利用することを子どもたちに積極的に認めてやってほしいと思います。保健室にばかり行っていってだめだと言わないでですね。相談室のようなものがもしできればそれは結構ですし、私の臨床の立場から学校にお願いするとすれば、そういうことでございます。

○  ちょっと視点を変えてお話を聞きたいと思うんですけれども、今、お母さんも成長のときにほとんどひとりっ子なり、兄弟少なく育っていますから、結婚して初めて子どもに接するというお話をよく聞くんです。例えば、近所だとか、親戚に幼い子がいてとか、職業的に保母さんであるとか、結婚以前に乳幼児に接してきたという方がお母さんになったときに、こういう不安とか、悩みが少ないのか、やはり同じようにあるのか、その辺は、きょうのお話には隠れているんじゃないかと思うんですけれども、ちょっと教えていただければと思います。

◎川井意見発表者    私も少し調査をしたことがありまして、数値が正確ではないんですけれども、自分の子どもを持つ前に、小さい赤ちゃんをだっこしたりとか、等々したことがない人が40%……これはちょっとパーセントは多少不確かですけれども。それと、だっこしたり遊んであげたことがあるという場合と、実際のケアですね。オッパイをあげたことがあるとか、おむつをかえたことがある。これと、ただ遊んだことがあるというのでは、やはり差があるように思います。差があるようにというのは、具体的にいいか悪いかということまでちょっと申し上げられないわけですけれども、まず遊ぶだけではなくて、オッパイをあげるとか、おむつをかえるとか、そんな経験があるといい。
  ここにおられる平山先生も、乳幼児健診等々に、思春期の子どもちにボランティアのような形で来てもらって、小さい子どもたちとのかかわりを持ってもらおうと、そんな試みをされておられますが、なるべくならば小さい子たちとのかかわりを、これから思春期の子どもたちが持っていってくれたらと思います。

○  それでは、引き続きまして、千石保様を御紹介申し上げます。千石様は、財団法人日本青少年研究所の所長をお務めでありまして、国際比較を含むさまざまな調査を通じて、子どもの心の問題について大変高い御見識をお持ちでございます。本日は、国際比較から見た我が国の子どもの心の問題を中心にお話しいただければと思います。20分程度御意見を伺いまして、10分ほど質疑応答を行いたいと思います。
  それでは、千石様、よろしくお願いいたします。

◎千石意見発表者    お手元に資料がまいっているかと思いますが、調査の中から二つ挙げまして、一つは日本の高校生ですが、規範意識が低くなっているということを御報告申し上げまして、それではアメリカではどういうシステムで規範意識、心の教育をやっているのかということを、その次に御報告申し上げたいと思います。
  まず、規範意識が非常に希薄になっているのではないかということを、表で見ていただきます。「別紙1」のグラフになっているのを御覧になっていただきますと、よくおわかりだろうと思います。「先生に反抗すること」は本人の自由でいいか、それともよくないかという質問の結果であります。その中で、「本人の自由でよい」と答えたものをグラフ化いたしました。白くなっているグラフが日本の高校生の答えであります。御覧になっていただければ、一目瞭然、本人の自由でいいよというのが、日本の高校生はアメリカ、中国に比べて非常に多いということがおわかりになるかと思います。
  例えば、「先生に反抗すること」。日本の高校生の約80%近くが、本人の自由でいいよと答えております。
  心の教育をなすべきもう一つの担い手の親でありますが、「親に反抗すること」というのは、85%ぐらい本人の自由でよいと答えております。
  以下、ずっと見ていって、日本とアメリカとで割と近い数字は、下から三つ目の質問ですが、「自分の役割を果たさないでグループに迷惑を掛けること」については、割に規範意識があるということになると思います。
  それから、アメリカでは「性を売り物にすること」とか、「パソコンで性的画面をみること」という質問はできなかったんです。これはアメリカはいつもそうでして、性に関する質問は、学校を通じてはさせません。そういう学校の規範を持っております。
  要は規範意識が非常に低いというデータになったわけですが、アメリカでは割と規範意識が数字の上では高い。実はこの調査の対象は、ロサンゼルスで暴動があったことがありますが、あれはサウスセントラルというまちでして、ああいうところはちょっと調査ができませんで、ここに出ているのは、普通のアメリカというのは難しいんですが、危険地域を除いた  ―私も命を落とすんじゃないかなと思うようなことに出くわしたこともありますが、そういうところは入っておりませんで、普通のアメリカというふうに考えていただきたいと思います。
  この数字を見ますと、結構アメリカの高校生は、先生に反抗しないとか、親の言うことを聞くといったようなこと、それからスカートを短くしたりズボンをだらしなくはいたりという、日本でいうファッションには、意外にきちんとしているといいますか、そういう意識を持っています。人を脅して金品をとることなども、日本もアメリカもほとんど同じでありますが、一体、人を傷つけてはいけないとか、正しいことをしなさいとか、そういったことをどういうシステムでアメリカという国は子どもに教えているのかという視点で見てみます。
  94年、今から3年くらい前の調査でありますが、私どもは徳性調査と言っておりますが、それを見ますと、アメリカの家庭での心の教育のシステムというのはよくわかるんじゃないかと思って、そのデータを持ってまいりました。それを御報告いたしますと、1番から12番  ―お手元のページでは8ページになるんでしょうか。1番から12番まで項目を挙げて、1番は「人のまねでなく自分自身で考えて行動する」、2番は「他人から迷惑をかけられても、できるだけ許す」、3番は「いやなことがあっても、じっと耐える」、「自分の責任を果たす」「隣人愛の心を持つ」「他人から信頼される人間になる」「自分勝手なことをしない」「物事に対し誠実にあたる」「明るく朗らかに生活する」「一生懸命働く」「自分が損をしても正しいことをする」「正直な人間になる」、12項目であります。
  だれからこういう規範といいますか、心の教育を受けたのかということを数字があらわしております。「父」という欄を御覧になっていただきますと、左側は日本の数字、右側はアメリカの数字で、例えば「人のまねでなく自分自身で考えて行動する」を父から学んだという日本の高校生は19%、アメリカでは父から学んだというのは43.8%というぐあいに読んでいくわけであります。
  こうして見ますと、アメリカの父親は子どもに  ―私どもは「徳性」という言葉を使っているんですが、徳性に関する教育をしているんだなということをうかがわせます。
  特に私どもが注目したのは11番、「自分が損をしても正しいことをする」。日本ではお父さんが子育てに参加しても、こういう発想は出ないんじゃないかと思います。
  こうやって考えていくと、日本は一体なぜこういうことをしないのかという、その「なぜ」が一番大きい問題だなと。なぜお母さんはそういうことを言えないのか、なぜお父さんは、自分が損しても人のためになることはするということを言えないのか、あるいは学校の先生はそういうことをなぜ言えないのかということが一番大きい問題のように考えております。
  お母さんの欄を見ますと、アメリカではお母さんが心の教育をしている主役だなと思わせる数字がズラッと並んでいます。
  それから、日本の高校生について見ますと、アメリカと同じくらいというか、アメリカよりは時には多く、友達づき合いからそういうことを学んだと。我慢するとか、責任を果たすとか、その他、12項目についてでありますが、友達づき合いからそういう徳性を学んだということをうかがわせるに十分な資料になっております。
  次の9ページを御覧になっていただきますと、自分が損しても正しいことをしなさいというのは、どういう機会に教わったのかということを調べております。細かく御覧になれば自然にわかることですが、アメリカでは家庭での日常生活でというのが圧倒的であります。そういう機会に、12項目だけですが、そういう徳性を学んだと。日本では友達づき合いとか、進学試験など勉強に関することで、じっと我慢することを学んだということになる数字でありますが、アメリカでは家庭の日常生活で、その主役はお母さんであり、お父さんでもあるという結果になっております。
  現実はそうですが、日本では明らかにそういう家庭教育がなされていない。なされていないのを、どういうシステムをつくればそれができるようになるかということを考えるべきではないかと思います。家庭生活で親が、自分が損してもということを言い切れないのは、日本の国にそういう理念、こういう人間になるんだよという理念が欠けているからではないか。これは私の勝手な想像でありますが、そういうことを考えているのであります。
  レポートには書いておきませんでしたが、アメリカの学校でも、家庭教育に相当するシステムを持っております。これは学校によって違うんですが、ニューヨーク州の多くの学校では、授業が始まる前に必ず宣誓をやるんです。右手を胸に当てまして、「宣誓」とやるんです。中には、左手を背中に回して、「宣誓」ってやるのもいますが、授業が始まる前に必ずと言っていいほどそれを  ―州によっても違いますが、実は統計を取ったことはございませんで、アメリカの学校の何十%がそうかということはここでは言えませんが、こういう文章になっています。すごく難しい英文で、私には理解しづらいんですが、先生方のほうがよくわかるんじゃないかと思います。
  “I pledge allegiance to the Flag of the United States of America and to the Republic for which it stands, one nation under God, indivisible,nbsp;with liberty and justice for all. ”
  こんな難しい。だから、子どもたちは正確には理解しないで言っているに違いないんです。
  おもしろいことなんですが、日本ではこういうことはあまりされないせいもありますが、あるいは子どもたちの心の中には、やっぱり自分は損をしても正しいことをするというのは、すごくいいことのように響いているんじゃないかと思うんですが、聞いたこともないことを言うもんですから、その「宣誓」のときの現場に立ち会ってみますと、日本の子どものほうが本当に心から喜んでといいますか、輝いた顔をして「宣誓します」ということを言っていて、〈日本にはこれはないよな〉と。学校のシステムが家庭のシステムとかなり似たところがあるわけだと理解したんです。
  難しい英文なんで、私はこういうぐあいに理解しています。「 Flag of the United S-tates of America」ですから、「アメリカの国旗に忠誠を誓います」と。それはどういうことかというと、神様の与えたリパブリック(共和国)  ―人種が多様だからそういうことになるんでしょう。日本はそれは要らないということになるでしょうか。リパブリックのほかに、もう一つ「Indivisible-for  all」という言葉がございまして、各個人それぞれが自由と正義を持っている、そういうアメリカの精神、アメリカの旗に忠誠を誓います、というわけです。子どもたちは、神様がそうしたんだということと  ―これは日本を考えると、ちょっとそういうわけにいかんなと思います。もう一つは、「Liverty  and justice」という言葉は、子どもたちの心にはかなり……。アメリカの学校へ行っている日本の子どもたちにインタビューしてみますと、「Liverty  and Justice」という言葉がかなり胸にこたえているんです。
  というのは、「Liverty」というのは「自由」、「Justice」は「正義」でありますから、「自由」と「正義」というのは、理念としてはしばしば相対立することがあると思うんですが、それを克服してという。日本は「自由」は大いにあるんですが、「ジャスティス」の部分が足りなくて、さっき申し上げたような調査の結果になっているのかなと思います。
  心の教育をめぐって考えてみますと、まず日本では理念が立ち上がっていない。産業社会までは追いつき追い越せ、頑張る、努力するという理念がありました。けど、一応豊かになってからは、せいぜい今の理念というと、「人にやさしく」というようなことなのかもしれません。その深層心理を知るために一度調査をしたことがあります。どういう人間、どういう友達があなたにとって一番大事な友達ですかということを、ずっと因子分析までしたりして調べていってみますと、日本とアメリカで差がございました。日本の子どもは、「やさしいこと」「親切な人」がベストだというんですよ。つまり、皮肉ってみれば、自分にやさしく、親切な人はいい人だ、と考えられるかなと思います。
  しかし、アメリカの子どもの答えを因子分析していってみますと、1番目に挙がってくるのは「正直」です。随分聞いたことのない言葉だったなと思います。「正直」なんて近ごろ日本で  ―お父さんが育児に参加すべきだというお話だったように思いますが、お父さんが育児に参加するというのは、どういう理念を吹き込むということなのか。それは単なる平等  ―とても大事な理念ですから。それにしても、平等という理念は、日本の学校ではもう結構なんじゃないかという思いもいたしたりします。
  アメリカでは、まず1番目は「正直」、その次は「思慮深い人」というので、かなりの固有値を持っております。というのは、「正直で思慮深い」というのは、その人自身が一つの人格として立派に成り立っている。そういう人間こそ本当の友人だし、本当の人間なんだとアメリカの子どもたちは考えている。日本は、自分に親切でやさしい人はいいんだよと考えている。そこに明らかに今申しました家庭教育でのシステム、学校教育でのシステムが影響しているんじゃないか。「心の教育なんて笑止千万だよ」と言う人もありますが、私はそうは思いませんで、やはり理念を立ち上げて、システム化することが必要ではないかと考えます。以上で終わります。

○  以前、先生のところで御調査された日・米・中国の高校生の調査で、「どんなことがあっても親の面倒を見るか」という若者は、これも日本が非常に低く、ショックを受けたわけであります。きょうまた大変インパクトのある御指摘をいただきまして、やはりそのとき持った印象と同じでございます。そのとき、どういうふうに思ったかと思いますと、子どもを育てるのは大変だから、人に面倒を見てもらおうというような風潮が強くなり、ともすると子育てについて間違った部分も最近はかなり見られる。そうすると、自ら子どもを捨てておいて、後で面倒を見てもらおうというのはずうずうし過ぎるから、これは当然だなんていうことを言ったんですが、それはそれとしまして、本日の資料の7ページで、先ほど先生が、日・米・中国の比較で、「自分の役割を果たさないでグループに迷惑を掛けること」、これはそんなに差がなかったと言うんですが、これはいいことではなくて、実に怖いことだと受けとめているわけです。
  つまり、それまでのいろんな部分から読んでまいりますと、例えばこの若い人たちが変なグループに所属してしまったとき、あるいは偏ったグループに所属してしまったとき、それが今、大変多いわけです。仲間が悪いことをしているのに、自分だけしないというのはいけないから、一緒に悪いことをしようというふうなことになってしまう。これは一般社会でも、みんながバランスを欠いているときに、一人で正しいことを言っても通用しないため、いろんな間違ったうねりになってしまう。ですから、この辺は非常に問題なので、これをどうしたらいいかなと考えたところ、先ほど先生は、アメリカは神様がそうしたんだというふうなことをおっしゃる。日本ではどうかというと、そんなことを言うと、今、学校では、宗教とかそういうのはタブーになっている。しかしながら、このタブーに私どもがどういうふうに取り組むかという部分も、これからは必要なんじゃなかろうかと一つ思います。
  さらに、この調査によるとアメリカの家庭の両親の教育力というのは、日本と歴然とした差があります。アメリカでは家庭を大事にすると、よく話を聞きます。日本でも本来なら安心して帰れる、それこそ安全基地が家庭であるわけですから、大事にしなければならないんですけれども、テレビも、冷蔵庫も、携帯電話も、ポケベルも全部子どもたちに行き渡って、その家庭自体が私は私、あなたはあなたみたいになってきている傾向もある。これは社会的傾向です。ですから、これをどのようにして本来の家庭を取り戻すのか。そのために、母親教育とか、父親教育をしっかりとさせる。ところが、そのシステムが、今、あまりはっきりしていない。この辺を考えなければいけないかと思いますが、そのキーワードとして、アメリカのように神様がそうしたんだということを、もし日本でそれに近いような効果を期待できる実践を現場でするとしたら、どういうふうなぐあいにしたらよいと思いますか。

◎千石意見発表者    大変難しいお尋ねで、例えば、この心の教育のチームで、こういうことが理念ですよと、アメリカですと「自由と正義」ですが、私はそれでもいいんじゃないかという気がいたします。特に「正義」の部分が日本では欠けていまして、それはだれかリーダーシップを取って、そういう理念を、前は追いつけ追い越せ、努力してって、発展途上国タイプの理念でしたが、そういう産業社会は一応済んで、高度消費社会、情報社会に入ったわけですので、新しい理念はどうしても必要です。
  今の家庭あるいは学校では、「あなたのためになるんだから、今、勉強しなさいよ」ということしか言えていない。理念がない。だから、まず理念をつくることが必要だろうと思うんです。その理念に従って、「ほら、御覧なさい。お父さんだってこうやらなきゃいけないでしょう」という位置づけになってくるんなら、それは非常にいいことだというふうに思います。例えばの話ですが、心の教育でそういう理念を打ち上げる。それを学校現場や家庭に浸透させて、オピニオンリーダーというものがあって、だんだんになっていくのかなと。そういうシステムをつくっていくことが大切だと思います。

○  どうもありがとうございました。今のお話で、7ページの「自分の役割を果たさないでグループに迷惑を掛けること」が、「自由でよい」という比率が非常に低い。企業の社会的責任が今問われて、いろいろ新聞で出ているわけですね。「グループ」を「自分の会社」というものに言葉を置き換えれば、お父さんが属している大人の世界がそのものズバリなんですよね。そこら辺、予備軍なのかなと私も聞いたんですけれども、その前提となった非常に興味深い調査データを見せていただいたわけですが、サンプル数ですね。それから、地域はどうなっているんでしょうか。全国サンプルなんでしょうか。

◎千石意見発表者    全国サンプルで、1,000サンプルです。全国で、アメリカで1,000、日本で1,000です。

○  ただ、アメリカでは都市部とか、先ほど先生がおっしゃった安全な地域ということですね。

◎千石意見発表者    危険地帯はどうしても入れないものですから、危険地帯は除いてあります。

○  それで、小学校を通して、集合調査で行われた結果ですか。

◎千石意見発表者    そうです。

○  それでは、引き続きまして、小平ウタ様を御紹介申し上げます。小平様はドイツのお生まれでいらっしゃいますが、長く日本で生活されておりまして、東京工業大学で19年間、ドイツ語及びドイツ語圏文化論の教鞭をとっておられました。現在、NHKの国際放送のキャスターでいらっしゃいます。皆様方、御承知かと思いますが、日本で結婚と子育てを経験されておられます。
  本日は、日独両国での子育てに関する御自身の実体験を踏まえていただきまして、国際的な観点から見た日本の子育ての在り方についてお話しいただければと思います。15分ほど御意見を伺いまして、また10分ほど質疑応答を行いたいと存じます。資料も準備していただいております。資料3の一番最後についておりますので、御覧いただきたいと思います。
  それでは、小平先生、よろしくお願いいたします。

◎小平意見発表者    最初に、個人のことを。日本人と結婚して、日本に住んで、3人の娘が育ちました。私たち夫婦は、この3人の娘たちを尊敬し、誇りに思っています。これからの日本はほかの国から尊敬されて、たくさんの友達をつくるような国にならなくてはなりません。それに向けて子どもたちの心を育てましょう。
  心は形成されるもので、教えるものではない。心は、環境を整えてやると、自分からいろいろなものを吸い取って育つものです。ドイツでは「Herzensbildung(心の形成)」と言って、「Herzenserziehung(心の教育)」という言葉はないんです。その言葉は5世紀の古ドイツ語で、「Bildung  」という単語があり、意味は「あるものに形と魂を入れる」ということです。18世紀に、「Herzensbildung(心の形成)」はミスティシズムの中で出ています。19世紀の哲学者であったイギリスのアンソニー・シャフツベリーによると、「Bildung  」とは「formation of genteel character」であると説明しています。
  「Erziehung (教育)」とは先生という存在が必要で、複数の人間を、決められた一つの目標に向けて外から力を加えて引っ張ることです。
  心は吸い取って育つものですから、初めに間違えると間違った方向に育ちます。生まれてから4〜5歳までがとても大切です。親も社会も首尾一貫して一つの方向性をもってしつけをする。日本では年齢や場面によって甘やかしてしまうことが多いです。ドイツでは、間違っていれば、よその子どもでも注意します。私は今、これは日本でもやっています。子どもだけじゃなくて、大人にもやっています。
  心が吸い取って育つには、信頼、尊敬、愛情が大切です。信頼してこそ、初めて責任感が育ちます。両親の間の関係を子どもに隠さない、いいことも悪いことも。建前でなく本音で子どもに対することです。何歳であっても、独立した一人の人格として尊重することです。
  心が吸い取って育つには時間が要ります。子どもと一緒に過ごす時間を増やし、食事、作業などをお父さんも一緒にすることです。
  テレビの見方を考え直す。ドイツでは日本のようにテレビを見ません。例えば、見たい番組だけ選んでいます。日本では、朝起きるとテレビをつけます。ドイツでは時計を見ますが、日本ではテレビを時計がわりに見ています。
  子どもの持っている可能性を見極めて、個性を伸ばす。ドイツではよい質問をする子を褒めます。日本では正しい答えをする子を褒めます。
  子どもの得意でないものを見極めて、押しつけないようにします。
  自然の中で、親子で遊びます。
  33年間、日本に住んでいますので、たくさんの事例があります。けれども、きょうは時間が限られていますので、自分の家族の生活の例でやります。
  言葉もとても大切なことで、私は外国人でドイツ語をうちで使いましたけれども、主人の母と一緒に住んでいますから、やっぱり日本語も使わなければいけないです。その中で、日本語のタブーの言葉が二つありました。「子どもだから、あなたはしなくてもいい」「子どもだから、あなたはわからない」、まずはその言葉を捨てるようにしました。おばあんちゃんにもそうしました。それから、「女の子だから」という言葉です。うちは娘ばかり3人ですから、それもいけませんでした。これはおばあちゃんにとても苦労させました。「ばか」という言葉もだめでした。
  「だめ」の言葉と、「いけません」という言葉を言う場合は、ちゃんと子どもがわかるように説明するべきです。10回でも、20回でも、30回でも。
  これは二人にも聞きましたし、後で真ん中の子にも電話で聞きましたが、自分が小さかったときの一番大事なこと、一番よく思い出せることは、パッと言って何でしたかと。で、一番思い出したことは時間を守ること。時間を守ることは、お互いに尊敬することです。それは非常に厳しかったと言っていました。なぜなら、主人も仕事がありますし、私もずうっと日本では勤めていますので、家族をうまく動かすには時間はとても大事なことでした。必ず一日の中で、1回は一緒に食事をしました。子どもが小さいとき、私が東工大の教授になるまでは、朝食がそれでした。東工大に行くようになってからは、一番早くうちを出た人は私でしたから、それがちょっと難しくなりました。だけど、できないことはなかった。
  子どもが中学校、高校生になって、こちらも夜、NHKの仕事がありました。子どもが大きくなってからは、必ず夜の10時半に集めて、お茶を飲む時間をつくりました。そのときに必ず顔を合わせる。親が子どもの顔を見るのと逆で、子どもが親の顔を見るといろいろわかります。疲れていることもありますし、悲しいこともわかります。毎日毎日見ると、変化がとてもわかりやすい。たくさんの話をしなくても、30分だけでしたけれども、それは子どもたちもとても大切にしました。とても大事なことでした。
  その後、家から出て独立して、割合近くに3人一緒に住ませていました。ドイツでは、18歳になったら子どもはなるべく独立させます。そのときまでは親は一生懸命、大人の責任を取れるような人間に育てて、18歳になったら一人で頑張ることになりますから、つらくても、家から出したわけです。
  子育ての中で、子どもが自分でできることは、なるべく自分でさせました。それは責任を持つことになりました。約束もそうです。子どもに学校を休ませることまでやりました。仕事をしていますと、何百人もの学生が待っています。例えば、子どもが病気になっても、ベビーシッターがいません。幼稚園へ行かせていました。そうすると、兄弟しかいないんです。お姉ちゃんが病気になったときは、逆に妹に面倒を見させました。そういうときに、子どもに力を持たせて、約束をさせて、「ママは仕事をしなくてはいけない。よろしくお願いします。変なことをしないで、きょうは幼稚園を休んでください」と。それは子どもにとってものすごく自信になっちゃうんです。とても喜びもあります。親は子どもとして扱うんじゃなくて、小さい人間として力を持っているんだから、信頼することを伝えました。それで一度も失敗したことがないです。例えば、子どもは自分自身でお医者さんに電話して、大学には電話がなかった。それはアクシデントがなかったというだけかもしれないんですけれども、自信を持たせると、子どもでもアクシデントにならないんです。体操と同じで、練習させれば骨を折るようなことにはならないんです。練習させないで、「危ない、危ない」とばかり言っていると、事故が起こります。
  いろいろありますが、子どもが小さいときは、私たちはとても貧乏でした。主人の最初の給料は、私のドイツの奨学金の5分の1でした。3万円。私は働きました。とても少なかったです。毎月1万円で過ごしました。それでも、家の中で安いものを使いませんでした。プラスチックのコップは一つもなかった。プラスチックのおはしも、お皿も一つもなかった。だから、物は大切にして、小さいときからきれいなものを大切にする。皿を洗うときも、「これはとても大切なもので、気をつけてください」「これはおばあちゃまのものをあなたに贈ってくれたのよ」と。例えば、隣の子どもがプラスチックのものを持っていて、3歳のヨウコがそこから帰ってきて一度、「ママ、何々ちゃんのコップは全然割れないよ。壁に投げちゃって、壁を汚して、割れなかったよ。どうしてヨウコはそんなの持ってないの」と言ったことがあります。そのことはうちではとても大切なことでした。
  また、お金がなかったから、お金がないということもよく子どもに言いました。物を大切にする。食べ物も、例えば日曜日にいいお皿を使って、一つのお菓子しか買えませんでしたから  ―そのとき、とてもいいお菓子屋さんのお菓子が80円でした。そのお菓子を最初は4人で、5人になったら5人で分けました。また、日本にはイチゴがありましたが、ドイツではベリーです。ラズベリー、ブルーベリーがとても懐かしくて、ある日、キイチゴの植木鉢を買って、キイチゴは粒々がありますから、最初の赤くなったキイチゴを5人で分けました。これは子どもがよく覚えています。
  誕生日パーティーに子どもが行くときは、行かせる前に必ず「ちゃんとお礼を言いなさい」と。帰ってきて、「ただいま。楽しかった」「お礼を言いましたか」「あ、忘れちゃった」「じゃ、戻りなさい」と子どもに言って、私は子どもが行ったうちへ電話をしません。日本のお母さんは電話するんです。「あ、すいません。きょう、うちの子どもがお世話になりました。お邪魔しました」と。「お邪魔しました」という言葉は大嫌いで、邪魔でなくて、楽しかったんですから。「大変ありがとうございました」というのを私は一度もやったことがありません。幼稚園のときに裏話で、この外人は日本のやり方がわからない、お礼をお母さんに言わないというのを聞いたときに、お母さんに説明しました。「すいません。子どもが楽しかったんですから、これは自分で責任を取って、自分でお礼を言わなくてはいけないんです」と言うと「わかりました」と言うんですが、わかってないんです。
  さっきも言いましたが、自然の中で遊ぶことはとても大切なことです。自然の中で、もちろん親と一緒に遊ぶことは、ものすごく勉強になります。ドイツ人は散歩をよくする人間で、山に散歩に行くと、自然はいろいろつながっていて、秋のこと、春のこと、冬は何もないという中で、植物、動物のリレーションシップを生かすことが、子どもがわかるようになる。子どもは森が生きていることがわかると、自然を壊せないと思います。これは環境の問題について大きい問題だと思います。たばこの吸い殻だって、車を運転したときは、灰皿は左のところにあるのね。自動車のメーカーは、ハンドル操作は右手でやらないといけないと思っていますが、右手でたばこを持つ。右の手にたばこがありますから、窓をあけて、もう要らないと思ったら、面倒くさいから、そのまま道路に捨てるんです。自然がわかると、人間はそんなことができないと思います。さっき言いました責任を取るということは、それは自然の中でも同じことです。
  親は子どもに、「子どもだから」って言わないことです。ドイツの自然保護運動、核エネルギーに反対する運動は、子どもと一緒にやっています。デモンストレーションを赤ちゃんを背負ってやっていますが、赤ちゃんはわからないです。3歳、4歳、5歳、7歳までの子どもは連れていくんです。子どもたちは、ここで何があるのか、親の話でちゃんとわかっているんです。子どももフライヤーを配る。何時間でも親と一緒に長いチェーンをつくるようになるんです。それは子どもの中で残っていますから、そういうような心の勉強はとても大事なことです。
  テレビは、日本では番組が多過ぎます。番組を選ばないといけないです。
  さて、どうすればいいかということですが、どうせテレビをたくさん見ますから、テレビで「子どもと一緒に食事をしましょう」などの公共広告を頻繁に流す。
  街の中の公共の自然を増やす。とても少ないです。全部コンクリートになります。子どもたちは水たまりで遊ぶこともできないです。
  住宅などの環境水準を高くする。今言いましたことと同じことです。
  学校でも家庭でも規則を少なくして、個人が選べる道を増やす。
  専門的なファミリーカウンセラーやファミリーセラピストを育成し、教育機関の中ではなく、独立した形で市町村などの公共施設に配置する。さらに、メディアでその必要性と存在をPRする。
  さっき宗教の質問がありましたが、高校卒業後、一定期間の社会奉仕を義務づける。
  違うもの、わからないものを理解し、知りたいと思う気持ちが大切で、それをうまくすれば国際化はうまくいきます。国際化は3歳で始まります。以上です。

○  大変感激してお話を伺いました。どうもありがとうございました。大変に貴重な先生の御指摘に、心から感激をいたしました。日本では御指摘のような問題は家庭で、学校で、社会ですべて行われて来たのです。しかし、最近の日本人は人間の本質に迫る内容を簡単な言葉で表現するのをことさら避ける傾向にあります。残念なことに第2次世界大戦後の日本の社会は非常にゆがんだ形になってしまって、きょう御指摘の問題はその全部が抜け落ちてしまったと思うのです。もっとはっきり理念を主張すべきという御趣旨に大賛成ですし、私も常日ごろ主張しております。しかし、皆さんがお気づきになっていながら、この議論がどうしても軌道に乗らないわけです。この中教審の活動も、そこのところに一番の核心問題があると思います。宗教の問題とか、いろいろな言い方がございますが、要するに、本当の話を率直にお話しいただけたことは非常にありがたい、それを実行する以外に救いの道はない。
  外国人の御指摘で目が覚めるというケースが、従来の歴史にもありません。それは本当は悲しいことなんです。きょうの御提案の中で、特に5番とか、6番は、多くの人が自分の心の中にお持ちになっていながら、口に出せない場合もあると思います。6番の問題は、日本人の記憶の中で徴兵制度につながります。例えばイスラエルでは、18歳で男女ともに兵役に服します。軍事訓練もありますが、多くは社会奉仕が重要な役割となっているのは国際的にもよく知られていることです。日本は平和国家という建前で国外からの侵略はないと想定している、自足も必要としないし、その代わり所属社会に対する責任感、奉公の心が失われております。社会連帯の精神が全部欠けてしまっておるわけです。これは大変重要な問題です。すべてを学校に集中して、家庭の問題まで責任を他へ転嫁拡散させてしまっているところが大きな問題です。そういう意味で、具体的な御指摘に対して改めて心からの尊敬と御礼を申し上げます。

◎小平意見発表者    いろんな理由で6番を出しました。高齢社会ということで見ますと、日本はこれから大きい問題を迎えます。だから、ソーシャルサービス  ―ドイツで、今、パシフィストの若者はやっぱりミリタリーサービスに行きたくないと言います。そういう場合は、男性は  ―男性だけというのは非常にアンフェアだと思っていますが、理由もありますから。男性だけは軍に入らない場合は、サブスティテュートサービスという言葉にかわりましたが、調整しなければいけないんです。ちょっとアンフェアなことは、サブスティテュートサービスをやる人は、軍のサービスより3ヵ月長いんです。女性のキャリアにおいても、女性は子どもを産みますから、キャリアのブレーキになりますから、それでミリタリーサービスも同じようになっています。やはり女性もソーシャルサービスをやらないといけないという大きな声がドイツで出ていますが、それは正しいことになります。
  日本で社会奉仕をやらせれば、これからの時代は、大きいソリューションになると思います。これは外国でもみんな問題になりますが、日本は平和な国で、武器を少し減らして、ここにお金を入れて、何かこういうシステムをつくったらどうかと思います。

○  いろいろありがとうございました。「心の教育」というドイツ語がないというお話を、我々もなるほどと思ったんですけれども、例えば「心の健康」とか、「健康な心」という言い方だったら、ドイツ語もありますか。

◎小平意見発表者    あんまりないですね、「健康な心」という言葉は。美しい心……グッドハート。

○  ああ、そういう言葉はありますか。ありがとうございました。

○  先生の御提案の中で、(4) に「規則を少なくし、個人が選べる道」という表現がありますけれども、私、高等学校に勤めておりますが、ことしの夏、職員がドイツへ旅行しまして、野原で高校生らしき学生たちがキャンプかなんかしてたらしいです。それで先生が一声かけたら、ずっと散開していた生徒がサッと寄ってきて、ごみなんかを全部自分たちで片づけて、先生の指示に従って、さっさと行動して列を組んでどこかへ行った。非常にすばらしい印象を受けて帰ってきたようですが、その先生の指導と、この「規則を少なくする」というのとは、私の感覚からすると、そのあたりがどういう関係であれば一番いいのかなという感じを持つんですが、それをお教えいただきたい。
  それから、(3) の「住宅などの環境水準を高くする」ということは、具体的なイメージとしてはどんなことなのか。広さなのか、あるいは設備なのか。そんなこともお聞かせいただければと思います。

◎小平意見発表者    まずはドイツの高等学校のクラスですが、25人にしかならないんです。だから、日本の半分です。そうすると、生徒をよくわかることができます。ドイツでは高等学校は  ―何歳ですか

○  その生徒たちは何歳かわかりません。中学生か高校生くらい。

◎小平意見発表者    ドイツではとてもおもしろいことがあります。私の時代に16歳まで  ―ドイツで「あなた」と「君」みたいな言葉があります、「ドゥ」と「ジー」。だから、16歳まで「君」と言って、16歳から大人になって「ジー」と言いました。そうすると、人間関係もちょっと変わりました。それはだいぶ前から全部「ドゥ」、英語の「ユー」と同じになりました。ドイツの先生たちと子どもとのリレーションシップは、友達のような形で、私の時代よりずっとやわらかくなりましたが、信頼とレスペクトは全く同じです。だから、先生が何か言うときには意味がある。だから、規則ではなくて。残念ですけれども、日本の学校では、クラスが大きくてとても難しいことはわかっていますけれども、意味のない規則が結構あると思います。例えば、私の髪の毛は今は自然ですが、16歳のときはいろんな色をつけていました。学校がまず文句を言わない。親は文句を言うかもしれないです。先生は「あ、先週の色よりずっとよかったです」と。だから、規則はどこに意味があるのかないのか。今までそうあったから続けてやるというのは、やっぱり考え直さないといけないのではないか。もっとフレキシビリティーを持たせて。難しいのはわかっています、考えないといけないですから。やっぱり先生の心がもっと生徒のそばにあるようにならないといけないですね。
  もう一つは、日本の学校で暴力が起こっているところは、体育の先生が多いんです。ドイツでは体育だけの先生はいないんです。ドイツの高校の先生は必ず二つ持っていないといけないんです。だから、体育の先生は体育と数学、体育と物理、体育とラテン語。やっぱりインタレクチュアル・トレーニングもあります。それは子育ての中でも同じことです。
  住宅のことについてですが、家の部屋が狭過ぎたら、疲れたお父さんは夜帰りたくないと思います。やっぱり一人ずつのちょっとしたプレーグラウンド、自分の場所、自分の机、自分の秘密の引き出しを持っていないと、ファミリーライフをやるのはとても難しいと思います。だから、大勢の人が夜、飲みながら話をするわけです。本当はこれはうちでやるべきです。

○  日本の保育園のことなんですが、現在、生後二、三ヵ月から保育をするということになっておりますけれども、この保育園の状態をどう思われるか、また、どうあったらいいと思われるか、お聞かせいただければと思います。

◎小平意見発表者    とても難しい問題です。私、30年前にドイツから来たときは、ドイツの保育園では、ホスピタリズムについてたくさんの話があったんです。そのときは、ドイツの保育園は非常に評判が悪かった。その悪い評判を自分の頭の中で考えて、自分の子どもは保育園に絶対入れないと。私の立場を考えますと、私は外国人で、自分の文化的なバックグラウンドも持っていますし、日本人の夫で、日本の文化も一緒にやらないといけないと思っていて、子どもを保育園で育てるという日本の環境が私の周りで強過ぎると、すごく寂しくなると思っています。そういう時期が、中学校のときもありました。そのときは、〈よし、彼女はイギリスの学校へ行かなくちゃ。パブリックスクールへ行かせましょう〉と。主人はとても心配しました。だけど、今、NHKの友達も子どもを保育園に預けて、非常にうまくやっているけれど、私だったらやっぱり自分の子どもは自分で育てるべきだと思います。
  だから、社会のシステムの中でそれができるようにする。例えば、ジョブ・シェアリングで、主人が週2回研究室へ行けなかったら土曜日、日曜日に行って、私は2日間で全部まとめて17時間ドイツ語を教えて、ほかの日を子どものために使っていました。きのうもNHKでその話をしましたが、子どもを保育園に簡単に預け過ぎるんです。自分で子育てがおもしろくない、仕事のほうがおもしろいということで、国に任せるのはとても大きな間違いだと思います。

○  私自身は、家族社会学あるいは教育社会学ですので、養育環境といいますか、あるいは私どものジャーゴンですと「社会化」という言葉を使うんですけれども、「子育て環境」というふうにおとりになっていただいて構わないと思うんですが、そういう環境とか、あるいは構造という観点から見るのが特徴と考えております。そういう構造なり環境なりが、どういう場合があるかということを、今回は類型という形で示させていただいて、それを考えるきっかけにさせていただきたいと思っております。
  まず、「家族における子どもの社会化状況の諸類型」についてです。これは類型がございまして、類型というのは乱暴に成り立っておりますけれども、かつて産業社会以前は、子どもにかかわる大人がいろいろいた。親と子を囲む家族の壁も非常に薄く、親族ネットワークとか、地域の大人たちが子どもにかかわっていた。これは例えば文化人類学のほうでも、マーガレット・ミードの『サモアの思春期』に描かれているような子どもの育ち方である。つまり、マルティプル・ペアレンティングと言いますが、親をするのは実の親に限らず、子どもの保護をする大人たちのことを親と言えば、社会に多くの親がいた。そういう状況の中での子育てというふうに類型1は設定しております。したがいまして、「役割集合」ということで見た場合、子どものニーズへ提供する大人たちが複雑といいますか、複合的に社会の中に存在していた。
  類型2のほうは、産業社会になりまして、親と子を囲む壁が生じたというところになります。これもまたかたい言葉で申しわけありませんが、「コミュニケーション形式」では、類型1では子どもに直接多くの大人たちがかかわっていた。それが類型2や近代になりますと、囲い込みといいますか、我が子意識といいますか、そういう形で親と子どもを囲む、家族という境界が大きくなった。
  特にその場合には、産業社会の職住分離、性別分業ということになりますと、親も母親というふうになります。類型1では、農業社会でありますと、親というのは父親も子どもにかかわっていたわけでございますが、類型2になると、母親のみということになります。したがいまして、もちろん子育ても母親だけではなくて、社会、おばあちゃん、地域の人、あるいは専門家、育児書というのがだんだん登場してくるわけですが、子どもへのかかわり方は親を介していく。「テレビを見ないでおきましょう」というのは、親に呼びかけるわけですね。「ノー・TV・ウイーク」「お母さん、子どもにテレビを見せないでおきましょう」ということですね。つまり、母親というのが、ある意味では2段階の真ん中にきまして、子どもにかかわっていくというのが一つの類型  ―類型というのはモデルですから、現実にはさまざまな多様性がございますが、とりあえずは子どもの子育て環境を単純化し、同時に隔離されたというふうに考えられないか。
  それが近代の中での類型3で、「おばあちゃんの知恵から育児書へ」という言葉がございますが、近代化初期ですと、伝統的な地域、親族、おばあちゃんの知恵に従いながら、母親が子どもの子育てにかかわっていった。それが少し近代化が進みますと、専門家あるいは育児書。メディアを介したものによりながら、テレビもそうですけれども、親が子どもにかかわっていく。
  類型4と類型5というのは、最近、いきなり子どもたちにマスメディア、ファミコンもそうですが、そういうものも入ってきた。あるいは、かつてのような地域コミュニティーではございませんが、保育施設機関がかなり初期からかかわってきた。そういうものが類型5です。
  この類型の説明の仕方は、時代によってこう変わるということですけれども、同じ時代にもこれすべてが、恐らく地域により、社会により存在したかと思いますが、一応乱暴にこういうふうにさせていただきました。
  類型4や類型5は、時代による類型論というよりも、発達段階による類型論と考えていただくことも可能かと思いますが、子どもが少し大きくなると、友達、仲間集団とか、あるいは保育機関に行くという形で、発達段階に応じて類型3から類型5へ変化するというふうに、この類型をとらえていただいてもよかろうかと思います。
  そのように大ざっぱに子育て環境というのを見ますと、今とりあえずは、単純で隔離された、親と子を囲む家族の壁が厚く、その中で子どもが人生のスタートを切るというふうに考えられるのではないかと思っております。
  それを少し見方を変えますと、子どもにかかわるいわゆる養育担当者といいますか、先ほどの小平先生の話ですと、兄弟でも親役割を果たすということで、非常にいいお話でしたけれども、子どもも兄弟も少なくなっている。そうすると、すべて切れていく。母親と子どもを結ぶ線が非常に強い。こういう形で、唯一母親という養育担当者の保護のもとに、あるいは視線のもとに、あるいは関心のもとに、子どもが育ち始めるという図もまた可能かと思います。父親は非常に細い線で辛うじて結ばれている。これが危うくすると点線になりという感じで、実質母子家庭も多いのではないかと思っております。
  それから、産業化の中で性別分業型、職住分離型、仕事は夫、家は妻が守るということになりまして、仕事  ―さまざまな生活基盤といいますか、生活空間の中で、仕事・職場という空間に多くの時間・エネルギーを注いでいる人間の在り方をスペシャリスト。妻の場合には家事・育児。このスペシャリストの夫と妻が一つの夫婦を構成するというのが一つのタイプとしてあり得る。
  2番目には、これもモデルですけれども、妻が仕事をするということが多くなりましたけれども、家事、育児、仕事、あるいは地域、余暇、市民役割ということで、「ジェネラリスト」と名づけましたが、今のところ、そういう妻と、スペシャリストの仕事人間の夫が結びつく「新性別役割分業型夫婦」が現実には多いと言われていますが、とりあえずは類型ということで、夫のほうも「ジェネラリスト」というふうにしますと、こういう類型、スペシャリスト型夫婦関係とジェネラリスト型夫婦関係というのが考えられるということです。
  次に、親子関係の4類型について説明します。これも非常に単純なものですが、我々の分野の議論の中で、親が子どもとどれだけ一緒にいるか、接触しているか、かかわるかという議論がありまして、例えば接触時間等を調べるわけです。しかし、接触時間の多寡がそのまま子どもの環境としていいのかどうか、これは別問題であろう。そういうふうに考えますと、四つの次元が析出できる。これはアメリカのデービット・デモンという人の議論で、「結合的支持」というのは「サポーティブ・アタッチメント」の訳ですが、例えば母親が常に子どもにかかわりながら、よくサポートする。そういう親子関係のことを「サポーティブ・アタッチメント」。
  2番目は、常に一緒にいるけれども、子どもをスポイルするような過干渉とか、過保護とか、そういうものが「結合的不支持(ノン・サポーティブ・アタッチメント)」です。こういうものももちろんあるわけです。
  3番目は、「分離的支持」。これがアメリカの一つのあり得る親子関係だというふうにデービット・デモンが言っているわけですけれども、「分離的支持」とありまして、「サポーティブ・ディタッチメント」です。「サポーティブ・ディタッチメント」というのは、すべて自分一人ではやれないけれども、社会のさまざまな育児資源を活用しながら子どもをサポートしていく。あるいは「クオンティティー・ケア」に対して「クオリティー・ケア」、質的なケアの仕方という議論につながる次元だろうと思います。
  4番目は、「分離的不支持(ノン・サポーティブ・ディタッチメント)」です。例えば、パチンコをしている間に子どもを死なせてしまったというのが、これの極端な例といいますか、一緒にいない、同時にサポートもしていないということです。
  我々が考えなければいけないのは、「結合的支持」と同時に「分離的支持」の可能性を考える必要があるのではないかということを、類型化してみまして、私は考えています。
  「ゆとり」の中で「生きる力」をというのが一つのキーワードになっておりますが、これを子育てとして、「ゆとりある子育てを共に楽しむために」どうしたらいいかということなわけでございます。
  一つは、基本的には、例えば父親論ということを取り上げさせていただきますと、父親はやはりかかわることが大事であろう。そのときに、私自身は、千石先生がおっしゃったような、ある種の父親徳性論といいますか、父親でしかできないものというよりは、とりあえずはマルティプル・ペアレンティングといいますか、子どもにかかわる大人がただ一人というのは非常に危ない、危機に弱いという意味で、複合化していく。複合化するには、一番手っ取り早いのが父親であろう。一番近くにおりますから。それが父親の必要性の持っていき方ではないか。
  もう一つは、「生きる力」といいますと、「自立」ということでもありますが、子どもにかかわる社会化担当者が複数になることによって、つまり、子どもにかかわる養育担当者がただ一人ですと、言うことを聞くか聞かないかしかないんです。適応するかしないかしかないんです。母親がどんなにひどい子育てをしようとも、母親しか子どものニーズの提供者として存在しなければ、これは母親の言うことを聞かざるを得ないわけです。これは経済社会の独占の弊害と同じです。ただ一つの資源提供者の場合には、無理難題を消費者は聞かざるを得ない。そこで、それを分散するという工夫があるわけですけれども、消費者の主体性ということではそういうことになっていると思うんです。そういう意味で、子どもの「生きる力」ということになりますと、母親の育児の代替・補完、あるいは時に対抗あるいは相対化という機能を持つ人間が必要であろう。そういう意味で、一番身近にいる父親が出てくるのは自然ではないだろうかと私自身は考えています。
  もう一つは、「お父さん、出番です」と、今、盛んに言われているわけですけれども、危険性は、父親が出てきて、父親と母親と子どもででき上がった三角形を閉じた形でいいのか。そこがまた問題だろうと思うんです。つまり、先ほどの類型1から5で言いますと、日本型システムの特徴として「タコつぼ型」というのがよく昔から言われているわけですが、タコつぼの中からどんどん出ていって、母親しかいなくなったんです。そうすると、非常によくない。タコつぼを、昔の言葉で言うとささら型といいますか、開放するということで、「家族の子」、つまり我が子意識というよりも、「社会の子」として子どもを位置づけるにはどうしたらいいかというのを考えたいと思っております。したがいまして、父親をするということは、我が子に対して父親をすると同時に、「社会の子」にとっての父親、「社会的オジ」という観点もまた非常に重要ではないか。
  今、地域の中で、子どもたちの顔と名前がわかる大人がどれだけいるか。私は練馬区の団地に住んでおりますけれども、子どもに声をかければ、おかしなおじさんになるわけです。子どもに声をかける大人というのは変質者か、変質者に間違えられるかどちらかです。そういう状態なんです。そこが何とかならないだろうか。子どもが危ないなと思ったときに声をかけられる。声をかけるのは、知っているほうが声をかけやすいです。子どももまた助けを求めに来やすいわけです。私自身は子どものサッカーのコーチをやっていまして、そのコーチをやめましたけれども、今、小学校の高学年の子どもと会ったときに、ただ笑顔を交わすだけですが、そういう大人が地域の中に多くいることがまた大事なのではないかと思っております。
  それから、父親をすることは子どものためというよりも、父親自身のため。父親自身の人生の問い直しという形で考えることが、また父親をやりやすくする。それぞれの子どもを持つ男性に対してやりやすくするのではないだろうかということです。
  また、きょうの3人の先生方のお話によく出てきましたけれども、マニュアル型育児の問題があります。子育て情報はいっぱいあるわけですけれども、それにだけ従う育児の問題点がやっぱりあると思うんです。いわゆる直接的な人間関係の中で育つことの意味を問い直す必要があるのではないか。
  最後に、結局、マニュアル型で、雑誌を見る、専門書を見るというのは、「offJT」だと思うんです。つまり、実際の生活と離れた教育であると思うんですけれども、「OJT(生活の中での教育)」、例えば赤ちゃんにさわったことがないとか、そういうものを含めまして、今、少しバランスが崩れているのではないだろうか。
の間に研修などのoffJTを挟みながら、労働者の熟練を図るのだと思いますが、子どもたちの人間形成においても、基本的には学校というのはoffJTの空間だとは思うんですが、その中でもOJTという仕組みを組み込んでいく工夫が必要ではないかと考えております。

○  現在の児童たち、幼児たちの現状、それと学校の状況、教師の状況、家族、父親、母親、等々の諸問題につきまして、さまざまな心理学的な調査、社会学的な調査のデータをお知らせいただきまして、一つ一つそれを伺っておりまして、もっともだな、もっともだなと思って伺っておりました。伺いながら、しかしそこに、どうしてもどうかなと思う疑問点が一つございました。まず、そこから申し上げてみたいと思います。
  それは社会学的な調査とか、心理学的な調査、その手法、そしてその手法を支えている理念というのは、恐らく近代西洋社会がつくり上げた価値観、理念に支えられていると思うんです。したがいまして、その手法そのもの、あるいはその手法を使って析出されたさまざまなデータには、多かれ少なかれ陰に陽に、近代西洋社会が理想とするあるモデルといいますか、価値観といいますか、パターンが浸出していると思うんです。それ自体はもちろん悪くない。それは一つのモデルとして我々は十分考えていかなければならないと思います。しかし、その結果、そういう手法と理念、価値観に基づいた調査によって調べ上げられたデータは、どうしても近代西洋社会をプラスとする、あるいは原形とする価値観に基づいて、そのデータが整理されたり、析出されたりしていると思います。
  そうしますと、そういう社会とは根本的に異なった伝統を持っている我が国の社会の状況なり、人間集団の在り方を、その尺度で調査いたしますから、当然、近代ヨーロッパ型の社会とは違った、あるいはそれよりもひょっとすると劣った、離れたパターンが出てくることは否めない。
  そういう調査をやっている限り、あるいはそういうデータに基づいて解決策を求めようとしている限り、いつまでたっても日本の近代社会というのはどこか足りないところがあるということになってしまう。そこから西洋近代社会が理想としたモデルに追いつき追い越さなければならないという、一種の強迫観念みたいなものにとらわれることにもなる。そういう受けとめ方で、例えば日本の近代社会というのは、明治以降、百年やってきた。あるいは、第2次世界大戦後、教育基本法の発足と同時に50年やってきた。ところがその結果、どうにもこうにもならないところまできてしまった。そこで、反省をしようと、こう言っているわけですよね、今日の我々は。
  私は、従来やられてきた、近代西洋社会がつくり出した社会学的な手法とか、心理学的な手法に基づく調整というのは、これは尊重しなければならないと思っています。また、十分にそこから多くを学んできたし、今後も学ばなければならないとは思います。しかし、今日の日本人の現状、日本社会の現状を平均的なレベルでその実態をつかもうとするためには、その方法だけではもうだめなのではないかとも思うんです。あるいはその方法にひそむ発想自体を一度疑ってみる必要があるのではないかという思うのです。
  では、どうしたらいいかということが次の問題になるわけでありますが、ややもすると、そういう西洋的な価値観とか、西洋的な正義、理念に関する考え方が、心理学的なそうした調査や社会学的な調査の前提となっている。そのフィルターを通した「日本人論」が浮上してくる場合もある。それが我々の意識に中に相変わらず劣等感を生み出す原因になっている。このわなから何とか自由にならなければならないところにきていると思うんです。そうでないと、「心の教育」なんていうことはとてもできない相談ではないかという気がします。
  そこで、その「心の教育」なんですけれども、この「心」という言葉が英語にならない。ドイツ語になりませんよ。フランス語にならない。例えば、英語で言いますと、「ソウル」「スピリット」「マインド」、どの一つの言葉にも換言できない複雑性というか、深みのある言葉ですね。その上、なぜこんなに日本人は「心」という言葉が好きなのかなと思うことがあります。この「心」好きの日本人の問題点というのは何かということも考えなければならないでしょう。それは恐らく近代ヨーロッパ社会がつくり出した社会学的な方法論とか、心理学的な方法論だけによっては、なかなかつかむことができない世界だろうと思います。それだけではだめだろうと思います。さあ、その辺のところをどう考えるか、ということですよね。
  さまざまなデータを教えていただきまして、本当に感動もいたしましたし、教えられたんでありますけれども、私の実感では、それらの諸データというのは、今日の日本人の平均的な精神現状をあらわしてはいないのではないかという危惧の念を強く持ちます。それは詳しくまた申し上げなければならないことではありますけれども、そういう根本的な問題点を私は感じます。社会学的な還元、心理学的な還元だけではどうもぐあいが悪い。日本の社会の現状、日本人の心の状況を分析し、観察する上では、それだけではどうもぐあいが悪い。それが第1点です。
  それから、先ほどありましたが、日本人はこれから何らかの理念を立ち上げなければいけない。近代西洋社会がつくり出したような、例えばアメリカ人が現在持っているような理念をつくり上げなければいけないという問題でありますが、これも恐らく明治以降の大きな問題だったし、特に戦後の教育の大きな課題だったと思います。しかし、現実には、それができないで来ているわけですね。できないで来ていることを、これからあらためてやろうとしても、いくら上からかけ声をかけても、それだけでは恐らく成功はしないだろうと私は思います。西洋型の理念を立ち上げることが、本当に日本人の心の問題を根本的に見直す契機になるのかというと、そうはならないだろうと思う。それではどうしたらよいのか。別の考え方、別の方法に基づいて、その問題にかわるべきものを考えていくべきなのではないか、この辺もやっぱり今後考えなければならないんだろうと思います。私は、しばしば西洋人が持ち出す「ジャスティス」といったような問題、「理性」といったようなああいう理念を、これからの日本人の社会、日本人に求めようとしても、それは成功することはないだろう、そういう予感を持っております。
  価値観とか、道徳観といったような問題について、近代西洋社会がつくり出したモデルを一つの目標として進んでいくということに、私は大なる疑問を持っております。それが私がここに参加させていただいたことで考えついた感想でございます。

○  非常に重い問題ですが、社会学が万能でないということは確かでございまして、ぜひまたお話しいただければと思っております。もちろん、まさに社会学というのは近代はいかにして可能かというところから始まっておりますので。ただ、そこからの反省ということがあって、一つの座標軸でありまして、理想ということではなくて、座標軸として存在していく。そういう問い直しも、今、非常に大きい波としてきておりますので、常に西欧近代を理念とするというのは、社会学全体を覆っている状況ではないのではないだろうかと一つは思います。
  もう一つは、先生がおっしゃった「心」という言葉ですが、まさに私はこれは門外漢ですが、「心の教育」というものをあらかじめ設定することはおかしいのではないかと思っているわけです。しかしながら、諮問文をつらつら細かく読ませていただきますと、社会の構造とか、そういうところで子どもの心の教育に非常にかかわっているところがあるということがきちっと指摘されているわけですね。ですから、「心の教育」という言葉がひとり歩きすることの危険性を私は非常に感じておりますので、きょうのような構造とか、環境という視点に特に焦点を合わせて話をさせていただいたということでございます。
  それから、西洋の理念ということは、私自身もそれをア・プリオリに設定すべき理念だというふうには全く思っておりません。特に、理念の設定よりは、構造からジワジワとというのが私のスタンスですので、そういうことで、お答えにならないかと思いますが、私の立場を述べさせていただきます。

○  きょう、大変貴重なお話をいただいたわけですけれども、自分たちが育ってきた時代と、それから戦後の時代を考えてみますと、システムの面にも大きな違いがある。みんなが納得して参加するようなシステムを、ここで具体的に示す必要があるのではないか。今、問題になっておりますのは、いろんな形のボランティア活動を奨励されておりますけれども、福祉だとか、環境だとか、国土といいますか、自然を含めて森林・水資源とか、問題が一番問われていることに、全員がどこかの場面で具体的に参加して活動するということが必要ではないかと私も考えているわけです。
  しかし、それにいきなり持っていくことができるかどうか別にしましても、我々が長い間の団体活動を通じて感じていることは、長期のキャンプというんですかね、野外活動の中でも学ぶべきものが多くあるし、変化が起こってくるわけです。したがって、このことなどは、日本の場合にはどうしても短い期間しか行われていないということもございますので、自然体験のプログラムについて、国内、外国も含めて事例を御提供いただけると参考になるのではないか。そういうことの意味がわかってくると、ある一定の時期には、社会人になる前に体験しておかなければならないということまでつなげることができるかどうか。まずその手前として、幼少期、まあ少年期、青年前期ぐらいに、長期的な体験活動はどんなふうにして、どんな意味があって、しかもそれはどんなふうに一般に情報提供されているのかということも含めて、文部省のほうから何か御提供いただけるものかどうかという発言でございます。

○  今の提案は、私も大変賛成でありまして、先ほどの委員の問題提起はかなり強烈でありましたが、私は統計を見たときに、習性として、すぐサンプルの母数はどうか、統計の手法はどうかなどと考えて、数字そのものはあまり信用いたしません。ですから、いま委員がおっしゃったような形で、そういうもので全部見ようということについては、私個人もそれほど大きな意味はないと思っています。ただ、私自身英国にしばらくいまして、彼らの家庭を守っていく方策で、日本人が取り入れて良いと思う方策はたくさんあると思っています。私自身はそれを多少は実行しております。その結果うまくいったかどうかわかりませんけれども、少なくとも私の家庭には問題はそうなかったと思います。彼らのフィロソフィーなり理念なりを日本にそのまま取り込むことはできないと思います。今の自然体験みたいなように、私は方策として考えていいようなものはかなりあるんじゃないかと思っています。
  そういうことで、今、御提案がございました自然体験活動、これは日本でも随分やってはいるんですよね。例えば、以前にもご紹介したと思いますが、非常にユニークな獣医の先生がいらっしゃいます。この方は破天荒の方ですが、子どもを毎年数十人、自分の山へ入れて自然体験をさせている。もう何年もやっておられるので、彼自身が指導しなくても、育った子どもたちがまた次の子どもたちの面倒を見るという良いサイクルができあがっている。私はそういう活動は非常に貴重なことだと思っております。自然体験活動は、ぜひ国として取り上げていくべきではないかと考えております。
  文部省の方で、そういう国内あるいは海外における自然体験プログラムの概要の資料を、お出しいただければと思います。ぜひよろしくお願いいたします。

○  先ほどから問題になっているように、生徒たちの社会奉仕活動というか、ボランティア活動に関する資料があれば、一緒に見せてやってほしいと思います。

○  いま、御指摘の「心の教育」という言葉は確かに意味不明確です。しかし、随分御苦心の言葉であろうと受けとめていました。恐らくこの言葉を提起されるいきさつは、幼児期、−2〜3歳ぐらいから、小学校へ上がるまで−にどういう教育をするか。ボランティアとか、自然活動とかもありますが、要するに家庭ので面倒見きれなくなっている現状を、どうするかに尽きると思うのです。話を拡大して、どんどん言葉の綾取りに終始しますと、肝心のところはまた抜け落ちてしまう。一番最初にやるべきことは、人殺しをするな、人の物を盗むな、嘘をつくなとかとか、せめてこの三つの一番基本的な教育をどうやるんだということを外して議論したのでは何もならないと思っています。素人だから申しましたが、本当は徹底しているのかもしれませんが、まず何よりもこの分野のこの点をはっきりさせないといけない。
  それから、外国との比較も勉強すべきですが、まず徹底して日本の歴史、それに国語の教育をすべきだと考えます。特に国語教育は非常に大事であるにもかかかわらず、これがなおざりにされているので、何もかもおかしくなっているという言い方もできるのではないか。もう私どもの世代自体が、かつてどうだったかがわからなくなってきている、そういう世代構成に近づいているわけですね。現実にいま子育てをやっているお父さんやお母さんは、もうはっきりした形での倫理観や奉仕精神の価値の教育を受けていた年代です。
  それから、幼児教育、保育所なんていうのはよくない面があるという、小平先生のお話には共感を持ちました。と申しますのは、御存じのように、75年以上にわたって世界に君臨し、ついこの間自滅した大帝国では、この期間に国民の総人口が増えていない。どうしてかですが、かなりの数の国民が私共にも記憶のある「人民の敵」という理由で、自分の国民を抹殺したわけです。子どもの教育をどうしていたかというと、男性と同じように働かせるというやり方で親からできるだけ切り離して。ですから、今、お隣の中国なんかでも、夫婦は日本よりもずっと就労率は多いし、それなりにちゃんとした意識を持ってやっているわけです。当時の実態は、親から引き離した集団の教育中で、ある理念(イメージ)があって、それをしっかりと教育することから始まったわけです。
  私が理念と言っておりますのは、理想像という意味です。やはりこの理想というものがどうあるべきかを、国民合意の下ですりあわせておく必要がある。そのためには集中し議論の中で本質論を絞り込むすべきと考えるのです。もちろん、異論もありましょうが、それにもかかわらず、併記の形でも、ある合意をいま作っておくべきです。こういう合意と理解の下に幼児教育の実施をすべきと考えます。先ほど触れました自滅した国の理想像とは、根底から違うものであることは言うまでもありません。生まれついたときに一番肝心のすり込みをやるということが、幼児教育の根幹ではないか。難しい話ではない、むしろやさしいところで最低限を決めて、これだけはやるという方向へ、話を持っていくべきと思います。あるいは皆様の御意見に逆らうところがあるかもしれませんが、私はそう信じておりますので、一言つけ加えさせていただきました。
  特に、教育の現場を想定して「心の教育」という言葉を出してこられた御苦労はよくわかる。下手に手出しをすると、思想統制につながりかねないとの攻撃も予測されたのでしょう。それで、この結論になったのではないかと想像しております。ちょっと余計なことかもしれませんが。

○  まさに同感であります。前回の小委員会で、幼稚園の教育要領の御説明がありましたけれども、あれをしっかり受けとめますと、非常に哲学的な部分、科学的な部分、宗教的な部分さえ、いろいろあるわけです。だから、ああいうものをいかに現場が理解して深く受けとめ、インパクトのある説明や実践の仕方ができるかということが一番肝心ではないかと思います。
  ほとんどの幼稚園では、朝、子どもたちに挨拶するときに、いろんなことを言う園長がいますけれども、必ず言われているのが、「友達が嫌がることをしちゃいけないよ」とか、「外に出るときは車に気をつけるんだよ」とか、「人の物をとっちゃいけないよ」とか、「人には親切にするんだよ」「ずるしちゃいけないよ」「使った物はもとに片づけるんだよ」と。一生懸命やっておりますので、これにさらに磨きをかけるということが、我々現場の者としては、今、一番大事だと思っております。そういう意味では、今の御意見には大賛成であります。

○  ありがとうございました。
  今後の審議の日程については、資料に出ておりますので、御覧いただきたいと思います。
  それから、11月6日に、「子ども・保護者と語り合う会」というのを予定しております。場所は千葉県の佐倉市の幼稚園と小学校であります。
  これまでは自由討議ということで、ヒアリングを中心に行ってまいりましたが、これから徐々に、前回申し上げましたように問題を絞っていきたいと思います。きょうの問題提起のようなこともございますので、少しずつ問題を絞って具体化していきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
  次回は、10月31日、10時から霞が関ビルの34階です。よろしくお願いいたします。
  どうもありがとうございました。

(大臣官房政策課)
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