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幼児期からの心の教育に関する小委員会 (第1回)議事録 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幼児期からの心の教育に関する小委員会(第1回) 議 事 録 平成9年9月19日(金) 13:00〜15:00 霞が関東京會舘 35階 シルバースタールーム 1.開 会 2.議 題 幼児期からの心の教育の在り方について 3.閉 会 出 席 者
○ ただいまから中央教育審議会・幼児期からの心の教育に関する小委員会第1回会議を開かせていただきます。 きょうは,第1回の会議でございますので,座長が決まるまでの間,私が議事を進めさせていただきます。本日は,大変お忙しいところをお集まりいただきましてありがとうございました。 本日は,町村文部大臣と森田文部政務次官に御出席いただいておりますので,御紹介申し上げます。 それでは,まず大臣,ひとつ御挨拶を賜れれば幸いです。 ○ 一言御挨拶をさせていただきます。このたび,第2次橋本改造内閣のもとで,文部大臣に就任をいたしました町村でございます。どうぞよろしくお願いを申し上げます。 中央教育審議会・幼児期からの心の教育に関する小委員会の大変お忙しい委員の皆様方に御出席をいただきましたので,御礼かたがた一言御挨拶をさせていただきたいと存じます。 私ども橋本内閣は,御承知のように6大改革ということで,経済構造,福祉の関係,財政構造など,いろいろな分野で,今,改革を進めている中でございますが,何といってもその重要な6大改革の一つが教育改革であると,こういう認識で,私も閣僚になる前までもそう思っておりました。改めて文部大臣を拝命いたしまして,その責任の重さ,またやらなければならないことが非常にたくさんあるということを痛感いたしているところでございまして,懸命になって取り組んでいかなければならないと,かように思っているわけであります。 特にいろいろな分野で,これは教育分野ばかりではございませんが,戦後のいろいろな仕組みというものが根強く確立をしてきております。それをどのようにして新しい時代に合ったものに改めていくのかということが,この教育の分野においてもまた求められている改革の基本的なスタンスであろうと思っております。ややもすると,文部省は大変かたいお役所であると。こういう,並んでおられる方々を見ると,そんなにかたいのかなと思ったりもいたしますが,役所の組織というか,伝統的な考え方としてはかなりかたい役所というイメージが強いようであります。その辺から改めていく。しかし,問題は,その具体的な中身をどうしていくのかなということであろうかと思っております。 既に,中教審のほうからは累次の御答申をいただいておりますが,特に6月の第二次答申の中では,中高一貫教育の導入でありますとか,あるいは17歳から大学に,ある分野だけですが入ってもいいですよとか,いろいろな形での具体的な御提言も既にいただいておりまして,今,私どもは省を挙げて,今までいただいた御答申をどうやって実現をしていくのか,法律の面,予算の面,いろいろな面で,これを意欲的に改革していくという皆様方の御提言を率直に受けとめて,これを実現に移していこうと,このように思っているところでございます。 しかし,そうした制度改革とあわせて,今,ある意味では一番求められておりますのは,みんながみんなではないと思いますけれども,一人一人の子どもにいろいろな悩みがある。その子どもの考え方,気持ち,そして,いろいろ言われておりますけれども,他人を思いやる気持ちでありますとか,正義感とか,倫理観とか,豊かな情操がはぐくまれた,そういう子どもをどうやって育てていくのかという問題,これを今,改めて学校の現場ばかりではなくて,ややもすると何でも学校に,学校にと言ってしまいますが,私は正直言って,少し学校に皆さんは求め過ぎではないのかなと思っております。やはり家庭でありますとか,特に子どもの心の教育なんていうと,私は家庭が一番重要なんではないのかなと。よく若いお母さんが学校に来て,「先生,しっかりうちの子どもをしつけてちょうだいよ」というようなことを言う親がいるようでありますが,しつけぐらいは親がしっかりやりなさいと。そういう親御さんもいらっしゃる。だから,私は,学校は学校,そして家庭は家庭,地域社会は地域社会,もちろんそこに相互に有機的な連携を保たせながら,しかし,全体としてどうやったら豊かな心を持つ子どもを育てることができるのかということを,この際,真剣に取り組まなければいけないんだろうと思っております。 後ほど,皆さん方からどういう事項を御議論いただくのか,事務方のほうからもお話があろうかと思いますけれども,やっぱり徳育の見直しでありますとか,あるいは幼稚園とか,保育所とか,あるいは児童相談所,こうしたいろいろな分野で,いわゆるカウンセリング的なことをやっているわけでありますが,それらをどうやって統合した力で,子どもでも,お母さんでも,そういう悩める人たちの相談に受け答えすることができるだろうかとか,そういうことを中心に,皆様方にいろいろ幅広く御検討をいただきたいと思っております。 既に,中教審の総会などでは御議論をいただいているようでありますが,きょう,改めてこの小委員会をおつくりをいただきまして,委員の皆様,あるいは専門委員の皆さん方の活発な,そして率直な御議論をいただいて,そこから何か有効な施策が出てくればありがたいし,また世の中の皆さん方に対して皆さん方の大いなる問題提起をしていただくこともまた大切なんだろうと,このように思っているところでございます。 私自身はまだ新米でございますから,これ以上のことを申し上げますと,一遍に馬脚があらわれてしまいますので,この程度にさせていただきますが,皆様方お忙しい方々で,御協力をいただくのは本当にありがたいことだと思っておりますが,ひとつ率直な御意見,御提言をいただけますよう,心からお願いを申し上げまして,冒頭の御挨拶にいたします。 なお,まだなりたてでありますので,いろいろ勉強することが多々ございまして,御挨拶の方もたくさんいらっしゃるということで,きょうはこの後,直ちに失礼することをお許しをいただきますが,これから機会あるごとに私もできるだけ時間をつくって,皆様方の御議論を承らせていただきたい,かように考えておりますので,御指導のほどをよろしくお願いを申し上げます。どうもありがとうございました。 ○ 町村大臣,大変ありがとうございました。特に家庭教育,地域社会の教育の重要性について御指摘をくださいまして,我々中教審のメンバーとしては大変うれしく存じました。ありがとうございます。 それでは,森田政務次官より御挨拶を賜りたいと思います。よろしくお願いいたします。 ○ 皆様,はじめまして。こんにちは。文部政務次官に就任いたしました森田健作でございます。私,政務次官といたしまして,町村文部大臣を補佐させていただきます。 私は,去年から参議院のいじめ問題調査チームの主査をやらさせていただきまして,それをずうっとやっている中で,その調査結果,成果を通して見ましたところ,やっぱり幼児期の教育というものが,三つ子の魂何ぞやではありませんが,大変に重要であるということを再認識いたしました。人間の基本は,家庭が教えるんだ,そして,学校,社会は,人間の応用を教えるんだと,それが私の持論でございます。多士済々の諸先生方の熱く,そして幅広い御審議をよろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。 ○ 森田政務次官,大変ありがとうございました。心強い御声援を賜りまして,本当にありがとうございます。幼児教育,家庭における教育というのは,極めて大切だという認識を私たちは持っておりますので,御支援を賜れれば幸いでございます。 ずうっと御出席いただければ幸いなのですが,大臣,政務次官は,公務の御関係でお忙しくしておられますので,ここで御退席になられますが,今後とも御支援を賜るべくお願いをいたしまして,どうぞ御退席賜れれば幸いでございます。 ○ 開会に当たって,まず小委員会を設置した経緯,趣旨等について,若干御説明申し上げます。 本審議会は,8月に文部大臣から「幼児期からの心の教育の在り方について」諮問を受け,これまで既に3回の総会及び懇談会を開催し,20名の委員,17名の専門委員の間で,自由に,活発に意見交換を行ってきたところでございます。去る9月3日に開かれました総会では,今後,地方教育行政の在り方に関する諮問が行われることが想定されていることから,新しい専門委員の方々の御参加を得て,二つの小委員会を設置して具体的な審議に着手することが決定されました。 本小委員会に所属されている委員並びに専門委員の皆様におかれましては,幼児期からの心の教育の在り方について,幅広い観点から十分に御審議いただくようよろしくお願いを申し上げます。 本来ならきょう初めて出席された方々に対して,私たち前々からの委員の自己紹介をしなければいけないと思いますけれども,時間が限られておりますので,お許しいただきたいと思います。 そこで,座長をお選びいただきたいと思います。これは推薦をしていただければ幸いでございますが,どなたか御推薦をお願いできますでしょうか。 ○ 座長には,木村委員を御推薦したいと思います。我々は前からやっておりましたが,第2小委員会の座長を木村委員はしておりまして,それこそ自由・活発に我々は討議したんですが,それを非常にうまくまとめてくださいまして,座長の資格があるということは実証されておるということでございます。そんなわけで,私は今度も,難しい問題でございますが,ぜひ座長になっていただければありがたい。そういうわけで,推薦いたしたいと思います。 ○ ありがとうございました。こういう御推薦がございましたが,いかがでございましょうか。 ○ それでは,大変だと思いますがひとつよろしくお願いいたします。 それでは,私の司会はここで終わりまして,木村座長にお願いをすることにいたします。 ○ 15期,16期に引き続きまして,再び座長をお引き受けすることになりました。よろしくお願いいたします。私どもの審議会に課せられました仕事は,心の問題に関して1年以内をめどに審議を取りまとめることでございます。前々期,前期同様ヒアリングを多く行ってはどうかと思いますが,いかがでしょうか。 ○ 現実に子どもを育ててる親,ちょうど今,20代,30代の親が,どういうふうに自分自身が思いながら育ててるか,自分自身の現在の子どもがどう映ってるかということを,ちょっと意見を聞かしていただければありがたいと思うんですが。 ○ 幼稚園で見ていますと,お母さんたちというのは,子どもたちの際限ない大きなボスなんですね。子どもたちはいつもその一挙手一投足を見て,彼女の指示を仰ぐ。お父さんたちも彼女の指示を仰いでいる場合があるわけです。そうすると,彼女たちが子どもを育てている,彼女たちが人材を育てている。為政者よりも偉いぐらいに,日本国を左右する存在であるわけです。ですから,彼女たちがそのことをどう意識しているのか,そしてその一般の主婦たちが,自分たちはこれでいいのだろうか,あるいはどうしたいのか,という声を聞きたいわけです。そういう一般の主婦の意識,それから問題意識,どうしてほしいと思っているかなどについて,私は幼稚園に来るお母さんたちの様子から私なりには大体つかんでおりますけれども,生の声で聞けるといいのではないかと思います。それが分かると,よりよい家庭教育を広く実践してもらうために,今どんな母親教育が必要か,そのためにどんな女性教育や学校教育が行わなければならないのかなど,政策的課題や補完すべきものが具体的に分かるのではないかと思います。 ○ 現在,学校教育以外の場で子どもたちを育てていく場として,いわゆるスポーツ少年団のようなスポーツ関係の団体があります。そういう分野の方々の御意見もお伺いできればと思っております。 ○ 今のお母様方から意見を聞くというのは,私は大賛成でして。つまらないことなんですけれども,たぶんお一人をお呼びして,ここで「さあ,お話しください」と言うと,なかなか難しいんですけれども,ある学校のPTAで活動していらっしゃるとか,そういう方を数人お呼びして,パネルディスカッション風にやってみるとか,あるいはここへ来てくださるのが難しければ,公園の砂場でも構いませんし,どこでもいいんですけれども,どなたかおいでになられて,ちょっとお話をしてみるとか,いろんなやり方があると思うんです。ですから,ちょっと工夫していただいて,これはぜひお聞きしたいと思います。それから,お母様だけではなくて,何らかの形でお父様の意見もぜひ伺いたいと思います。 ○ それでは,時間がまだ少し残っておりますので,私どもに与えられましたテーマ,すなわち「幼児期からの心の教育の在り方」について,自由討議をお願いしたいと存じます。 今回から,新しい専門委員の方にお加わりいただいております。そこでまずその方々に御発言をいただこうと思います。よろしくお願いいたします。 ○ 今回のテーマで申しますと,学校教育も大事だけれども,やはり地域社会の問題がかなり人間形成に影響をもたらすかなという視点に関心を持っております。 最近,千葉市からの委託研究で,千葉市の小・中・高校生が千葉市をどれだけ愛しているか。御承知のように,潜在都民が多くて,なかなか千葉のロイヤリティーが少ない親御さんが多い。そういう中で,約3,000名の小・中・高校生を対象に,どれだけ千葉が好きかということをやっておりまして,もうすぐ報告書が出ると思います。出ましたら皆さんにお配りしたいんですけれども,結論を簡単に申しますと,千葉が好きな子どもたちは,家庭内の年中行事,お盆とか,お正月とか,節句とか,誕生日パーティーとか,クリスマスパーティー,古いのも新しいのも家族単位でたくさん活動している家庭のお子さんは,千葉が好きで,なぜか学校が好きなんですね。 この辺を詳しく分析していきたいんですけれども,要するに家庭の集団単位で活動していると,お父さんを中心として,学校の学校長と名前を知っている知られているという関係が出てくると,意外と学校が好きだという形で,子どもにとっては自分の家族が小さな社会なんで,その単位の活動をしていると,次に学校とか,千葉が好きになってくる。 例えば,こういう質問をしております。千葉市と川崎市と浦和市の三つを挙げまして,気候がいいとか,寿命が長いとか,流行の先端をいっているとか,住みたいとかいいますと,なぜかわかりませんけれども,千葉市の小学校6年生までは,千葉市が1位なんです。中学校,高校から,川崎市が伸びていっていますけれども。言うならば,地域社会といいましょうか,子どもたちは小学生までは自分の住んでいるところが好きなんだというのが,まだまだあるような感じがいたします。 そういう視点から,この審議会では,地域社会と人間の形成と申しましょうか,人間の心の問題について,コメントしていきたいと思っております。 ○ 保育所の立場から,こちらに参加させていただきました。保育所の施設長です。私共の法人は,今,92歳になる理事長が昭和4年に幼稚園を開設,地域のニーズにより昭和8年には保育所を併設しました。その後,農繁期託児所,戦時託児所として一か所開設,戦後も,その時代の保育ニーズに対応するために一か所ずつ増え,現在は,市内に五つの保育所を運営しています。 平成に入ってから一つの保育所の改築を機に複合施設をつくりました。1階が高齢者のデイサービス,2階,3階が保育所,4階が知的障害者の授産施設です。 生後二,三ヵ月の赤ちゃんから,90何歳のお年寄りまで。また養護学校の高等部を出てきた青年たちに接する中から,乳幼児期の大切さを痛感しています。年をとって痴呆になどなられると,まさに乳幼児期に戻られる。その方の乳幼児期がどんなであったかということと深くかかわると感じさせられます。幸せな老人になるためにも,乳幼児期がを問いたいと思っています。この会議に乳幼児期からのことを挙げていただけたということで,勇気を出して参加させていただきました。 今,私どもの保育現場では,さまざまなタイプの御家族,子どもたちがいて,その保育ニーズは皆様の想像以上に多様化しております。その中で,子どもたちがけなげに頑張っています。このけなげさを,大人たちが当てにし過ぎていいのだろうかと思うことがあります。教育の分野にも乳幼児期の育ちの問題を取り入れていただけて本当によかったと思っております。 ○ 今回,幼児期からの心の教育ということに関しまして,学校現場としてできること,またなさねばならないことについて,私どもの組織の調査等も踏まえて,この場でまたいろいろお話しさせていただき,また教えていただくことができればと思っております。 私どもの校長会ではことし,心の教育の推進をめぐる問題ということで,全国の校長に現在,アンケート調査しているところでございまして,それの結果を今集計中であります。そういうようなものにつきましても,私ども現場の校長たちがどのようなことを求めているかということにつきましても,お話をさせていただければと思っております。 私自身は東京生まれの東京育ちでありますけれども,家庭が宗教家の家庭に育ったというようなことで,子どもたちの心の中に,私自身は,畏敬するものを育てていきたいなという個人的な思いは持っております。以上でございます。 ○ 私はスポーツの世界で育ってきた人間なので,どうしてもふだんかかわり合う子というのは,野球教室とかそういうことで,私自身が見る子どもたちというのは,非常に健全な子どもではないか。結局,そこから考えますと,一人一人の子どが何に対して自己表現できるかというところ,それが非常に難しい時代にきているんじゃないか。 例えば,以前でありますと,子どもが運動会で自分を表現できましたが,今現在,運動会というものはあまり評価がない。そうしますと,すべて勉強で人格そのものが形成されている。そういう意味からしますと,自分という人間を考えるといいますか,自分を表現するという,もう少し世の中広いジャンルで,いろんな世界があるわけですから,一人一人の子どもが自分の ―先日のマザー・テレサの言葉ではありませんけれども,世の中から自分は何を必要とされているんだろう。私の場合,考えてみますと,本当に野球ばかりやってきまして,ある日ふと考えてみますと,〈ああ,私は野球をするために生まれてきたんだな〉と思えた瞬間が,非常に幸せだった。そういうふうに一人一人の子どもというのは,決してむだな子がいないわけですから,その子その子のいいところをつくる手助けが,どのように大人はできるか。また,そういう意味で,それを認めてやれるか。スポーツ少年団そのものもそうですし。 よく中学へ行きまして,やはり髪の毛を染めたり,いろんな子が現在いるわけですけれども,その子たちと話してみますと,いつも言うのは,僕は周りから白い目で見られる,だからますます自分を守るために自分の殻をつくっていくという子が,むしろ非常に多いのではないか。そういう子どもたちにも,やはり持って生まれた才能というものがあるわけですから,その才能を見出すことによって,周りの子とゆっくり話ができる,また自分がそのことによって自信を持って,生きる上で大きな目標をつくれるんじゃないか。そういう角度から,私自身はこの問題にかかわらしていただきたいと,そのように思っております。 ○ 非行があった子どもたち,14歳から19歳の非行少年の調査を担当して,裁判官が行う少年審判の補佐をしています。 非行があった子どもたちの生活史を見ると,いろいろなことを教えてくれます。乳幼児期から学童期にかけて,あるいは思春期の時期に彼らが訴えているものは何なのか,あるいはどんな育ち方,育て方をしたのかという問題は,すぐれて教育の問題を提起しているのではないかと思っております。 最近,東京等では次第に少年非行の様相が変化してまいりまして,従来は確かに親の放置とか,いろんな問題があって,外から問題な子どもだなと見えたり,あるいは学校の中でもいわゆる問題児ということで,勉強がおくれたり,部活もよく怠けたりという形で,子どもの姿が見えていたのですけれども,最近はむしろ,いわゆるいい子の非行という形で,親や家庭,あるいは学校の先生から見ても,どうして突然こういう非行があったのかというような,いきなり型の子どもたちによる非行が非常に増えてまいりました。しかも,それが結果として非常に重大なわけです。徹底的になぐってしまう。後からいろいろなご意見を申し上げたいと思うんですが,学童期のいわゆるギャングエイジ期を失った子どもたちが,非行によって失った自分の子ども時代を取り返すという,何とも痛ましい様相を呈しているところがあるわけです。 もう一つは,非行によって,自分のうっ積していたものや,いい子を演じて抑圧してきた心を癒すというか,従来ではあり得ないような非行行動が見られるようになりました。ほかにもっと生産的で,健康的に心を充実していく場が,子どもたちにはいっぱいあるはずなんですけれども,それが今言ったような形で非行によって自分を表現するというところが,最近の子どもたちの非行の特徴なわけです。 そういう観点から幾つか,私なりにその原因や背景となっているものを提案させてもらいまして,お話し申し上げたいと思っておるわけであります。 ○ 最近のお母さんたちというのは,幼稚園に来ている人たちは元気のいい人が多くて,どの方のお宅も,子どもも御亭主もみんな何をするにも彼女の指示を仰いでやっているような雰囲気があります。考えてみれば,彼女たちというのは,子どもたちから一日じゅう見られる完璧なモデルであって,子どもたちはいつも彼女を見守って,模倣しているという状況があるわけであります。彼女たちの質いかんで,国民というか,人間の道徳観念も,それから人格も変わってくるんじゃないか。したがって,彼女たちの質を向上させることがまず第1だなと,私はいつも幼児教育と同時に母親教育を考えて,父母の会活動等に力を入れているわけであります。 そう考えますと,国の原点は家庭であって,母親が育てた国民が日本国を動かす結果になっている。そうすると,日本国というのは,国家は家庭の上に成り立っているということが,幼稚園の現場でもよくわかるわけであります。ですから,ここをしっかりしなければいけないんですが,今までどういうわけか,社会教育とか,婦人学級とか,いろいろあったんですけれども,母親の役割を徹底的に理解させたり,教育したりする場があまりなかったのではないかという気がします。学校教育の中でも,家庭科とか,生活科というのがございますけれども,どうも英・数・国に比べると日が当たらない。むしろ今まで日が当たらなかった教科ほど日を当てなければならないんじゃないかという実感がいたします。そういうことで,これからお母さんたち,とりわけ女性たち ―男もしっかりしなければいけませんけれども,より若い女性たちにしっかりしてもらうことが大事だなと,つくづく感じております。 それから,田舎にはいつもおばあちゃんがいて,おじいちゃんがいて,おじさんがいて,おばさんがいて,大勢兄貴なんかがいて,それから仏壇や神だながあって,越中富山の薬があって,井戸神様がいて,何ていうか,うちにお寺の機能だとか,薬局の機能だとか,漬物屋の機能も,裁縫屋さんの機能も,全部がそろっていたような気がするんです。でも,今のお母さんたちのうちには,そういうものが全くない。それをみんなカネをかけて,外から教えなければならない。そうすると,幾らお金があっても足らないわけであります。ですから,家庭の原点で,もう少し自己完結性の感じられる人間らしい生活を取り戻せるような世の中に本当はしたほうがいいと思っておりまして,幼稚園でのいろんな自然体験とか,原体験とか,カレーライスをつくったり,漬物講習会,梅干講習会とか,できるだけやれるようにしております。こういうことを幼児教育の現場では,ふだんの教育実践のほかに展開することと考えております。そういった観点から,これから発言させていただきたいと思います。以上でございます。 ○ 私は精神科の医者でございまして,ずっと子どもと思春期を専門として生きてまいりました。私は個人としての成長,特に発達の視点を大変重く考えるものでございまして,私のお客さんといいましょうか,前にくる子は,90%以上,思春期でございます。思春期の若者を30年もみておりますから,思春期そのものが危機であるということを一度も恐れたことはございませんし,思春期の危機を超えていってこそ人間ができると信じています。 ただ,今,目の前に来る思春期の子どもたちが非常に疲れているんです。疲労を訴える子が多い。しんどいと言う。また,抑うつ感情が強い。自分に対する自己卑小感のようなもの。生きている意味がないとか,わからないとか,非常に物悲しい,沈み込んだ気持ちの子どもが多い。もちろん,私の前に来る子たちは,不登校とか,家庭内暴力とか,いじめとかの苦しいさなかでございますが,どうもその子たちだけではない。その子たちもきのうまでは普通の子どもの群れにいたわけでございますし,どうも今の問題は,思春期にくるまでに疲れてしまうこと,そして伸びやかに伸びるべき非常に勢いのある思春期にうつ感情を持つということ。これはやはり乳児期からの育ちが,まず問題ではないか。どうも健康な育ちが危ういのではないかと思いまして,思春期まで待っておれませんで,もっと前に子どもたちに会いたいし,子どもたちの親御さんにも会いたいなという気持ちをずっと抱いてまいりました。 また,「子ども」と言いましても零歳もございます。小学生もあります。中学,高校,そして大学あたりの成人期直前までございます。「子ども」と一括して言ってしまいますと,私は非常に違和感を感ずることが多いんです。思春期までの子ども期に何をすべきか。もっと細かく考える場合,いわゆる発達段階になるわけでございますが,思春期までにまず大づかみに,自分というものの個の内面に,自分というものを見詰めていく力とか,他者を認知する力の基本をつくっておく必要がある。それは決して大人になって必要とされる自立とか,共存力の美しい完成した形じゃなくていいんです。そしてこの完成した形を求めるから,どうも危なくなる。自発心とか,あるいは人と共に生きていく力とか,規律を持てる力とか,そういうものの基礎が必要なのであって,それを目に見える形で完成させ先生に褒められる,あるいは親が喜ぶ形ででき上がってしまうと,むしろこれは危険だと。先ほどの話にもありましたが,よい子の反乱といいましょうか,よい子の問題が,結局,私も同じように感じる点でございます。まだ海のものとも山のもとも知れぬ。形の上では見えない。だけれども,心の内面に非常に重要な母親や家族や周りとつながり,幼稚園や保育園や小学校の,子どもがまだまだ初々しい時代に,非常に親密な社会に囲まれる中でこそできる基盤,これをを必要としているような気がいたします。 これが形の上でのよい子ということになりますと非常に危険で,内面に自己意識とか,自己感情とか,あるいは他者をどう思うかという,まだまだもとになるものが大切なのであって,それをもって一応一人立ちをしていく前の練習期としての思春期を迎えてほしい。子どもの時の火種のようなものを持って,火がしっかり燃え上がっていくには思春期が要りますが,思春期でいよいよ自己に向き合うときの頼りにするもの,思春期に少なくとも自分を支えられるだけの基礎を子ども期につくることが大切というふうに私は思っております。 そして,思春期で悩む,挫折とか,いろいろな危機を迎えていく。危機を迎える中で,私たち大人はその危機に寛容であらねばならないし,同時に,非常に強くしっかりと子どもたちを手放しつつ見守らねばならないという,思春期特有の大人と子どもの関係も考えねばならない。ですから,「子ども」という言葉の中には,いわゆる「子ども期の子ども」と,「思春期の子ども」というのがあり,両者は違うんだというふうな,発達の視点のようなものが大切を申し述べさせていただきたいと思っています。 2番目は,人間が育っていきます一種の生態系のようなものが大切です。まず個があり,その周りを親や家族が囲み,そしてやがて幼稚園,保育園,小学校という囲み方,その外に社会がある。そういう中で,個と他者とが共に生きる力をハーモナイズしていかねばならない。個人を囲む幼稚園,保育園や小学校が,家庭,社会とのある意味の価値観のようなものの共有が必要と思います。かつて日本は「恥の文化」と言われて,ある種の日本文化全部を皆が共有し合っていた強さがあったと思います。つまり,ひと様に見られたら恥ずかしい,あるいは御先祖様に恥ずかしいと。実際に社会の中で,子どもの行動を見ながら,親も社会全体も,マスコミも,それは恥ずかしいことなんだと,ある意味の共通の哲学のようなものを持っていたときに,親はある意味で自然にハーモナイズできたんですが,今は社会そのものが恥知らずに近い形になっている。したがって親が一生懸命自分の哲学や価値観を持っていても,それを囲む外の世界と調和ができなくなる。自分だけ子どもに哲学的なことを教えても,結局,大海の一滴のように,大海原に出ていったときに単なる純粋培養にすぎなかったら,子どもはやっぱり生きられなくなる。 そういう意味で,言い古されているといいましょうか,必ず出てくる家庭・学校・地域の連携という言葉を,私もそういう意味では共感しています。子どもを囲む世界が,良識と真善美というようなある種の文化,あるいは哲学,人生観,価値観というようなものをもう少しハーモナイズさせた形で持っていかないと,親だけが自分の哲学あるいは子ども観,あるいは育児観をとっても,育てにくくなっているなという気がいたします。そのあたりの子どもを囲む我々大人の世界が,子どもに対する眼差しを,少なくともぎりぎりのところで共通のハーモニーを持てるようなものを持つとしたらどうしたらいいかということを考えていきたいと思っております。 そういう二つの視点,個の発達と,それを囲む大人たちの共感といいましょうか,協調といいましょうか,そういうものの在り方を,私なりに診察場でたくさんの子どもたちをみてきた立場も含めまして,ささやかでございますが話させていただこうと思います。 ○ 私は大学に在籍しておりましたころから,母子保健の分野の仕事をずっと,今でも続けさせていただいております。出は小児科の医者でございます。今,病気の子どもの処方の書き方は忘れてしまいましたが,乳幼児の健診とか,育児相談などは今でもやっております。私がお世話になっている研究所の今のテーマは,子どもが減っているという意味の少子化対策とか,虐待防止を含めた心の健康とか,そんなようなことが挙げられているところでございます。 先生方御存じのように,地域保健法と母子保健法の改正で,ことしの4月から保健と福祉のサービスが,原則として全部市町村で行われることになりまして,要するに赤ちゃんからお年寄りまでまとめて市町村が面倒を見ていただく時代になってきております。その場合に,学校保健との連携もよくとりなさいということが,母子保健法の中に明記されておりますので,これらのことをテコにして,地域の育児支援機能を高めるような方向での考え方を何とか進めたい,あるいは具体的にどうすればいいのか考えたいということをやっている立場でございます。 当面,地域を通して家庭・学校への働きかけ,こういうことを考えたいと思っているところでございます。よろしくお願いいたします。 ○ 研究所の近くに小学校があります。その小学校の6年生の生徒たちに授業をしてくれという申し出がございまして,50分間教える体験をいたしました。,宮沢賢治の話をしましたが,いかに小学生を教えることが大変な仕事かということを,この年になりまして初めて体験いたしました。今までは中学校,高等学校,大学の学生たちには教えた経験はあるんですが,小学校で教えるという体験は本当に初めてでした。 今から20年ほど前のことだったと思いますけれども,1970年代の後半に,ある新聞にこんなお母さんの投書が載りました。自分の子どもに,まだ幼稚園ぐらいの子どもだったかと思いますけれども,子守歌を聞かせたら泣き出したというのです。ところが,その投書を読んだほかのお母さん方が「私も同じ経験をした」と言って次々と投書を寄せたというのです。子守歌を子どもに聞かせると,泣き出したり,むずかり始める。精神的に不安定な状態になるのですね。そういう投書が相次ぎまして,ちょっと新聞の上で話題になったことがあります。 その問題をある人が,なぜそうなのかということの原因追求のために分析されたんですが,その結果をしばらく後になって目にいたしまして,おもしろいなと思ったんです。その方の分析というのは,当時,テレビから流されていたコマーシャルソングをたくさん集めて,分析したものなんですね。その結果出てきた問題は,すべてのコマーシャルソングが陽音階の旋律ばかりだったというわけです。短調のメロディーが一つもなかったという。つまり,悲哀のメロディーといいますか,悲しみの旋律が,当時のコマーシャルソングの中から失われていた。それで,悲哀の旋律を漂わせる子守歌のメロディーを,子どもたちに聞かせると,落ち着かない違和感を抱かせる結果になったのではないか,−そういう分析を読みました。 私の狭い体験から申しましても,最近の子どもたちは,エレジーの旋律,悲哀の旋律に反応する感覚が極度に希薄になっていると思いますね。これはものすごく大事なことではないかという気がいたします。悲しみの感覚を共有できるかできないかというのは,人間の理解にとってものすごく重大な問題ではないかとかねてから思っております。道徳の問題はしばしば宗教の問題と深いところでかかわっているということが言われますけれども,宗教の原感情のようなものは,必ずこの悲哀の感覚と結びついている。賛美歌を聞きましても,コーランの朗唱を聞きましても,我が国の宗教音楽を聞きましても,その底に共通するリズムと言いますか旋律に,この悲哀の感覚が流れている。そういうものによって,ちょっと大げさに申しますと,人間は慰められ,癒されてきたと思いますね。 もし我が国の子どもたちが,−これは大人も含めてかもしれませんけれども−,そういう悲哀の感覚にしだいに鈍感になっていたとしたら,これはものすごく重大な問題ではないかということを感じております。 ○ 先ほどから,大臣も家庭教育は非常に大事だとおっしゃいました。これは各委員からも幾つか発言があったかと思いますが,家庭教育は大事,私もそう思います。そのために何をしたらいいかということなんですけれども,ファミリーフレンドリーな社会をどうつくるか。家族にやさしい社会,それを私は考えたいと思っております。例えば,ファミリーフレンドリーなポリシーというのは,労働省あたりは育休とか,時短とか,週休2日とか,そういうものはある意味ではファミリーフレンドリーなポリシーだと思いますが,今度は文部省としてそれに対応させて,ファミリーフレンドリーな政策は何だろうか。それは具体的にそういう制度だけではなくて,ファミリーフレンドリーな価値,文化をどう育てていくか。 一つだけエピソードで,日本ハムにグロスというピッチャーがおりまして,ことしの6月ごろ奥さんの出産があったんですが,先発をしていいピッチングをしていたんです。何の交代する理由もなかったんですが,彼は5回を投げ終えて,出産に立ち会うために病院へ駆けつけたんです。これは全部スポーツニュースや新聞からの情報ですけれども,上田監督の談話は,奥さんの出産を理由にして,ピッチャーを交代したのは初めてだと言っているわけです。これがある種の文化ですね。価値。これは子どもが生まれたときから,家族を大事にする。それがあたりまえのようにその社会に根づくわけです。これが我々ですと,会社の中で,きょうは奥さんの出産で大変だねと哀れがられる,惨めがられる。そういう文化ではなくて,それがうらやましがられる。それがいいことだという文化にどう変えていくことができるか。ですから,マスコミはそういうのをどんどん大きく取り上げていただきたいと思うんですが,一つはそういうファミリーフレンドリーな価値をどうはぐくんでいくか。これは簡単にはいきませんけれども,ゆっくりとしか変わりようがないんだと思いますが,価値の水準も非常に大事だと思います。 それから,今申し上げたポリシーというか,制度の水準。それから,それを囲む社会の全体的な構造がファミリーフレンドリーな ―今までは家族は企業にやさしい家族だったと思うんです。企業中心社会の中で,家族ぐるみで企業に忠誠を要求されていたといいますか。これをもう少し今度は企業も含めて,社会全体が家族にやさしい社会になっていく。その中で,子どもの人間形成の環境が整備されていくのではないだろうかと私自身は思っております。 そういう意味で,政策にしましても,政策はどこをターゲットとするか,どこに働きかけるか。コントロールという言葉はあまりいい言葉ではありませんが,子ども自身に働きかけるのか,コントロールしようとするのか。親に働きかけるのか。それからまた,それを取り囲んでいる地域あるいは生活基盤としての社会に働きかけるのか。すべてが重要だと思いますが,子どもが乗っかっている家族,家族が乗っかっている社会のあり様をそのままにしておいて,子どもをいじろうとしたら,子どもは一層困るのではないかと私自身は思っております。そういう意味では,社会がいかに変わり得るかということを考えながら発言させていただきたいと思っております。 ○ 一わたり新しくお加わりいただきました専門委員の方々から御意見を伺いました。高い見識をお持ちの専門委員の方がお加わりいただきましたので,やや安心をいたしました。今後ともよろしくお願いいたします。 ただいまの御発言に対して,前からの引き続きの委員,専門委員の方で,御発言もあろうかと思います。いかがでございましょうか,きょうはフリーディスカッションでございますので,何でもよろしいかと思います。 ○ 私も家庭教育というのは非常に大事だと思っているんですが,下手をすると,我々が家庭が大事だから頑張れというので,あるいは説教みたいなことを言うのは間違いであって,家庭教育が進むようなことで,我々が何かお助けできることはどういうことがあるかというふうに考えたほうがいいと思うんです。家庭教育がしやすくなるような制度とか, 方法を我々が考えて,こういうふうに支援しますので,各家庭でそれなりに考えてくださいと。「父よ,母よ,頑張れ」というようなことを我々が言うのではないというか,その辺をこれからみんなで,何かいい方法を考えていきたいと思いました。 ○ 先ほどから家庭教育が大事だ,心の教育のためには大事だと。これは当然なんですけれども,現代日本の家庭というものを見てみますと,家庭というのはエゴイスティックなものだと思います。ですから,自分の子どもはなるたけいい目をみて,学校でもちやほやされて,いい大学に行ってほしいというのが,一般に親の気持ちですから,どうしても自分の子どもはかわいがるけれども,他人の子どもとか,ましてや外国人の子どもなんていうのは,全く視野に置かない場合が多いんですね。もちろん,例外的なすばらしい親の方々もいらっしゃると思いますけれども。ですから,家庭に任せるというようなことは非常に限界があるということが一つあると思います。家庭の問題であるとは一見言いやすいんですけれども,現実的ではない。 先ほど,お母さんたちからお話を聞くという御提案がありましたけれども,むしろお母さんたちにいろいろと,生涯学習なんてありますけれども,そういう心の教育について教えるような学校教育があってもいいと思います。 もう一つは,これからの世界,21世紀においては,グローバルビレッジとか,グローバリゼーションという現象があって,どうしても文化とか,民族を異にする他者との遭遇があるわけですけれども,そういうものは,大きな意味では国際化教育だと思いますが,なかなか家庭ではできません。ですから,やはり幼児教育の段階から,学校がある程度教えなくちゃいけない。それはビデオを使ったりいろんな方法があるんですけれども,私は前にアメリカに行ったときに,私の家庭ではありませんけれども,友人の日本人の家族の子どもが入った小学校で,黒人とか,アジア系とか,いろんな民族や文化を持つ子どもがいるんですけれども,子どもたちの間ではほとんど区別というものがありません。ですから,民族とか,肌の色が違うからおかしいというのは,親が教えるんですね。子どもたちの段階では,うちの子どものケースを見ても,全く偏見なくつき合えるんですけれども,年をとってくると,社会的環境がむしろ偏見を教える。これは常識かもしれませんが,そういうことをあらためて考えるがあります。ですから,学校で心の教育というのは非常に大事だと思います。異文化理解とか,他者に対する心遣いとか,思いやりといったものを育てることが,心を豊かにする部分が非常にたくさんある。 それから,現代日本の家庭というものは,これは専門家がいらっしゃるので,私が特にそういうことを申し上げることもないんですが,一つ言われなかったことは,現代日本は離婚が非常に多い社会です。今や何分間で離婚が生まれていると,この間も新聞に書いてありました。ですから,家庭が分裂的な状態であることが間々あるわけでありまして,そういうものに対する差別が起きないような配慮は,やはり学校が留意する時代に入ってきているんだと思います。学校の先生方にこれを全部任せるということで,過重負担であるとか,いろんな問題点が提唱されるとは思いますが,そういうことは大変かもしれませんけれども,学校の責任というか,学校の教育の重要性もそういう面でまた重くなってきている。やはり時代が変わってきて,学校教育の局面も違ってきているということは,よく認識すべきではないかと思われます。 もう一つだけ申し上げますと,大義という話がこの前のお話の中の御説明に出てきました,大義が日本にはないということで。大義というものがあるかどうかわかりませんけれども,ただ,理想と現実という話が常にあって,自分たちの個人や家族,それから民族,社会,あるいは国を超えた価値といいますか,そういう目先の価値にとらわれない人類共通の普遍的な価値があるということは,今,共産主義という一種の大義もなくなりましたし,ほとんど一般には言わないわけですけれども,実はいまだに重要な問題であることは否めません。アメリカなんかは,人権とか,民主主義とか,すぐそういう普遍的な価値論でくるわけです。人権とか,民主主義という言葉になると,いろいろと注釈が問題ですけれども,個人を超えた価値があるんだということは,ちゃんと教える機会を持つべきではないかと思いました。 ○ テレビである人が言っていたんですけれども,「今,世間様がなくなった」って言うんですね。世間様というのは,恐らくそれは日本の文化をいろいろ受け継いでいて,それが社会にも,家庭にも伝承されてきた部分があって,それが世間様というものをつくっていたんだろうと思うんですけども,その世間様がなくなっちゃった。今,世間様とは言わないと思いますけれど,世間と言われているのはテレビである。テレビに影響されて生きていく部分というのが,今の社会で実に大きくなったという分析をしてましたけど,〈おお,なかなかいい分析だな〉と私は思ったんです。つまり,世間様をどういうふうに再生させていくかということは,容易ではないですけれど,やはりその辺のところをターゲットにしていくことかなと思います。 もう一つ,これから論議を進める上で,「幼児期からの」ということは,私は,本質に帰るという部分があってとてもすばらしいと思います。そこからやらなければだめだなということも感じております。 ただ,「幼児期からの」ということで,教育の在り方を議論する方向と,もう一つ,どうしてもこれはお願いしたいのは,今現在病んでいるいわゆる思春期の子どもたち,思春期以前から病んでいるわけですけれど,その子どもたちに対してどういう対応を我々はしていったらいいんだろうか。この二つの面から委員会が進んでいくことが望ましいのではないかという気がしております。 これだけいろんな分野からお集まりいただいているわけですから,それぞれの得意わざを生かしていただいて,一つの論点に向かって審議していくというか。ですから,幼児期のことは,本当にこれから大いに論じられなければいけませんけれども,同時に,今の子どもたちをどうするんだというあたりの論議が欲しいと思います。 私は文明の過保護ということがあり,今,文明の一番よくない部分を子どもたちがまともに受けているという実感を持つんです。大人はまだ子どもに比べればその影響は薄いかもしれません。子どもはまさに悪い面の影響を一番受けているわけですから,文明という問題に対して,否定するんではないけれど,文明というものがこうなったのだから,それではそれに対してどういう教育をするか。文明はあくまでも道具であるということについて,子どもに伝える教育をどうやったらできるのかという視点も必要ではないかという気がしております。 ○ 私はこの問題の素人でもございますし,素人ならば言えることもあるかなという気もしますし,ずうっとこのテーマの初めから疑問に思っていることを口に出させていただきたいと思うわけです。 それは何かといいますと,我々は子どもが病んでいるということから出発をしているわけですけれども,本当にそうなんだろうかということです。幸い,専門家の方に大勢集まっていただいておりますし,ヒアリングもしていただけますので,その過程でいろんな姿が見えてくるという気はしているんですけれども,子どもが病んでいなかった時代というのはいつのことかよくわかりませんが,そういうことと比べてどういうふうに違うんだろうかということを,少し自分で認識してみたいと思うわけです。 いろんな不幸な事件がありまして,確かに現象的にはそういうふうに見えるところもありますし,といって,昔にもそういう事件がなかったわけではないと思いますし,一部の人間の話だけなのか,あるいは平均値としてそういう問題があるのか,あるいは2回ぐらい前の会合でどなたかおっしゃいましたけれども,東京あるいは地方,大都市の話なのか,あるいは日本全体の話なのか,いろんなところで少しきちんと整理をして,問題の所在を考えてみないといけないと思います。 たまたまゆうべ,テレビで夜遅く,定時制のバレーボールチームの全国大会というのをやっていまして,それを見ていて思ったのは,私,たまたま40年近く前に1年間ほどアメリカの高等学校で過ごしたことがありますけれども,〈ああ,あのときの高等学校の雰囲気と同じだ〉というのが,そのときの私の印象でした。イヤリングもいましたし,茶髪もいましたし,そういう自由な雰囲気がそこにはあったという意味で,非常に親近感を感じたところがあったわけです。定時制のバレーボールチームのメンバーには普通高校のおちこぼれが多くいるわけですが,しかし,彼らは他の国,他の高校の普通の高校生と何ら変わらないわけで,見方を変えれば何ら問題のない生徒たちであるわけです。 何をもって問題ととらえるかということを,少しはっきりさせながら問題を議論していく必要があるのではないかと思いましたので,私は素人ですので,その辺を教えていただきたいと思いまして,あえて申し上げたわけです。 ○ 今,子どもが病んでいるところから出発したのは間違いじゃないかというぐらいの御意見だったと思うんですが,私なんかが3歳,4歳,5歳の子どもを見ていると,子どもが病んでいるとはとても思えないんです。ですから,病んでいるのは大人であるという実感があります。子どもは何にも知らないで生まれてきて,天真らんまんに育ってきて,元気に幼稚園に来る。幼稚園の時代はまだいい。小学校へ行く。大きくなるにつれて病んでいく。やはり大人社会が問われているんだなという気がいたします。 例えば,子どもたちが外で遊ばなくなったとか,友達同士のつき合いができなくなったとか,いろんな指摘がございます。それをそういうふうにしてしまったのは,やはり大人社会であります。生活が大変豊かになってありがたい。経済が発達して,便利な生活ができた。これもありがたい。そのかわり子どもたちの,昔だったら味わえた原始体験というか,原体験を奪ってしまった。だから,経済的な発展,文化的な発展と引きかえに子どもから奪ったものがある。その落とし前を今つける必要があるんではないか。ですから,もうけた金の半分ぐらいは子どもの本当の教育のために返すとか,そのぐらいの思い切った考え方がまずなければならんじゃないかという気が個人的にはいたします。 ○ 今の問題にちょっとひっかかるかと思うんですが,つい先日,小学校へ行きまして,小学校の先生とお話ししていますと,今の子どもは,夏になってプールへ入りたがらないと言うんです。それは何かというと,学校の教室の中にクーラーがついている。わざわざ外へ出て,水の中へ入る必要がどこにあるのかと。考えてみますと,我々小さいときというのは,プールの時間というのはほとんどのところでなかったわけですけれども,それがどんどん全国にプールができて,夏になって,実はプールへ入るというのは,子どもにとっては楽しみの時間だったわけですけども,最近は,今おっしゃるように,大人がそういう空間をつくってしまったものですから,現実に子どもはプールへ行かなくなった。特に最近の小学校というのは非常にすばらしくて,屋根までついたプールがありますので,教室の中で快適な空間なんですね。その快適な空間から出ることを,ある意味では拒否する。そういう時代,確かに今おっしゃるように,ある面で問題があるとしたら,そういうところが一つの問題としてあるんじゃないかと思うんです。 ○ 病んでいる子どもがいろいろ問題を起こしているのであって,子ども全般が病んでいるとは私も思ってはおりません。ただ,育児相談なんかをやっていて,以前と今とで一番違っているのは何かというと,昔だったらこんなことを親が心配して,わざわざ医者に質問しないのになあということを心配して,質問なさってくる,そういう親御さんが増えているのは確かです。これは結局,今の親の世代は既にきょうだいが少なくなり,自分で赤ちゃんを産むまでの間に子守の経験もないというようなことから,赤ちゃん,小さい子どもとのつき合い方に不慣れな親が増えているのは確かなんで,こういうあたりはひとつ応援しなきゃいけない。 それから,やはり仕事を持つ親御さんが増えている。そうすると,仕事と育児の両立ということが,今,少子化対策として一番言われてます。そのために保育所にもいろいろお世話になる。ただ,この場合に,保育所がいろいろな親側のニーズ,例えば少し夜遅くまで面倒を見てくれとか,いろいろなニーズがございましょうが,それにできるだけ合わせてサービスをいたしましょうというのが,今の一つの方向かと思いますけれども,基本的にはそれが子どもにとってどうなんだろうか。子どもにとって何かリスクがあることなら,それを埋める方向で,どこかでもとを取らしてやらなければ,やっぱりおかしくなるよという感じはいたしますね。そういう意味で,社会の動きそのもの,あるいは大人の社会のほうに問題があるんで,子ども自体が変わっているという感じは,私は持っておりません。 ○ 私も基本的には子どもが悪いんじゃなくて,親を含めた社会のシステム ―子どもが悪いんでなくて,親が悪いということもあるけれども,親を取り囲む社会のシステム,大きくこれは文明論的な視点が必要かなと思っています。簡単に申しますと,今の社会というのは利便社会。非常に便利で,快適な社会。戦後ずうっとそういう社会をつくってきたんだけれども,ふと思うと大きな落とし穴があって,現象面的に子どもたちのいろんなつまずきが出てきている。 簡単に言いますと,今の小学校2年生が朝起きてから寝るまでに,一言もしゃべらなくても生活できる社会。朝起きて,「御飯」と言わなくても,お母さんが「きょうはパンにしますか,御飯にしますか」と。黙っていて,パンが出たらうなずく。「行ってきます」と言いません。学校に行って,友達が遊んでいるのに,グラウンドの隅で傍観しています。先生が「遊ぼう」と言うと,遊ぶんです。その子どもは授業中も手を挙げません。おうちに帰って,駄菓子屋さんでなくて,コンビニへ行って,好きなものを自分でかごに入れて出せば,バーコードでお金を払えばいい。玄関を出て,110円入れればジュースが出てくる。バスに乗れば,ボタンを押せばとまってくれる。かつては,「運転手さん,すいません。降ろしてください」と言えば,止まった。駅でも自動券売機。学校社会,家庭社会,地域社会においても,自分から手を挙げなくても生活できる。そういう社会システムの問題も,この委員会でディスカッションしていきたいなという感じはしております。 ○ 私は,多くの子どもたちは健康的で,よく育っていると思います。ところで問題行動と言った場合に,問題の質とレベルを幾つか整理しておく必要があると思います。その段階の中で最も,他人に迷惑をかけ,子ども自身の発達を損なう行動として,我々が扱う非行があるかなと思います。その非行の内容も,さっきも申し上げましたように,よく育ってきたはずの子どもたちが,乳幼児期から学童期にかけて親が一生懸命手間をかけ,あるいは塾やスポーツなどをやらせて,うまく行ってきた子どもたちが,非行という形で思春期に間違った行動をるというところが,最近の子どもたちのおかしさを象徴しているように思うわけです。 もう1つ,子どものつまずきや問題というのは,すべてネガティブ,否定的にとらえるべきではなくて,子どもたちがこれから大人になっていく上での試行錯誤の一つとしてとらえてみたいと思います。 ○ 私の孫が遊びにくるようになりまして,母親にまとわりついてるのを見ますと,先ほど御意見のように,世の中はすべてお母さん中心で回ってることがよくわかります。子どもの成長,その素直なところを見ていますと,忘れていた子育てのころを思いだし実に感激いたします。 私,女性の役割あるいは立場について,非常に強い印象を受けた経験がございます。10年以上昔のことですがイスラエルへ呼ばれた際,珍しい体験をいたしました。滞在の最後の日に,1週間お世話いただいたナショナルカウンシルのベン・シャダイさん(事務長,女性)から,「最後に三つ義務を果たしてもらいたい」と言われ,ちょっと緊張しました。600万人殺されたユダヤ人のお墓ヤド・パシェムをぜひ訪問してほしい,それと新聞記者会見をやれと,もう一つはこれから私の質問に答えていただきたい,とのお話でした。「あなたはイスラエルの歴史を知っているか」との問に対し,ずっと昔ユダヤ人の国がなくなって,世界を放浪したが漸く第二次世界大戦後新しく建国したことははよく理解していると答えました。そうなんだ。それで4,000年という長い期間,ユダヤ人の言葉,文字,社会文化を護り維持する努力をしてきたが,この自分たちの文化や伝統,民族の誇りを護り続けることができたのは,なぜか,とういう質問でした。 私は宗教(ユダヤ教)が一番大きな拠り所になっていると思う旨伝えました。彼女いわく,「そういう意見はどなたもおっしゃるけれが,もう少し考えてくれないか。もっと別の解答はないのか」と,言われ,私はよく分かりませんと返事をした。半分失望したような顔はされましたが,「伝統を護り,子どもに確実な教育教育をするのは,私ども女性の仕事,役割として非常に大切にしてきた。女性がしっかりしていたから,今日まで民族の伝統を持ち続けることができたんだと」と,おっしゃっておられました。そして,「私は日本民族に対し多大な敬意を抱いておりますが,日本人もそうではないのか」,と質問され私は頭を殴られるほど強い印象を受け,今日までずっと心に刻み込んでおります。 日本人の今の生き方を眺めますと,素人だから見えるのか,あるいは素人だから分かってないのか,自分で整理がついておりませんが,フレンドリーな社会や家族,あるいは子どもにどう対応するか,先ほどからたくさん御意見が出ておりました御指摘はいずれも重要ですが,彼女の主張を下敷きにして考えますと,千差万別の人がが生活している私たちの社会には,違った考えの人もはいて捨てるほどいる。にもかかわらず,一つの集団として世界の中で生きていくためには,最小限のある理想,共通の理念が先導する必要があるのではないか。かりにその理念に対して反対の,あるいは批判的な立場をとる人であっても,それを包含して全体として方向を常に議論しながら模索しつつ進めるという,体制的な強靱さも必要だと思うのです。 戦後50年の教育について,いろんな御議論もたくさんあります。何か抜けてしまったことは事実なんですね。それが先ほど申しましたイスラエルの方の御意見に入っているように思います。つまり個々の対策,対症療法はもちろん大切ですが,その前にいわば理想像のいくつかをはっきりさせ,少なくとも十分の議論をして教育の場に反映させていく手順を踏むことで,国民的合意を固まらせていく方法が欠けていないかを指摘したいのです。純真無垢の幼児期から育てなければということは言うまでもないことです。もうちょっと私どもの理想像と申しますか,あるいは理念というか,そういう議論もしながら,人間として普遍的な人格形成を理解しやすくまとめてみて,これからの方向づけを考える必要があると思います。新しい委員の方からこの観点での御意見を教えていただけましたら,誠に幸いと存じます。 ○ 私たち学校現場の者が,十数年前と比べながら現在の学級の中を眺めますと,一つは核家族化,少子化,離婚の増加などの背景によって,大変複雑な家庭環境を抱えている子どもたちが増えてきているということが言えます。 もう一つは,医学の進歩によって,幼少のころに大きな病気をやり,それを抱えて今に至っている子や,現代病と言われていますひどい喘息やアトピーを持っている子など担任が身体的に気を配らなければならない状態に置かれている子どもたちも増加してきております。 それから,今,問題になってきている人間関係をうまくつくっていくことができない子どもたちも非常に増えてきています。友人関係の摩擦を調整できずに不登校ぎみになり,ずるずると登校拒否になっていってしまうことが見られます。 新しく専門委員になられました専門家の先生がおりますので,ぜひ現場の教師が自信を持って指導できるものをここでまとめていただければありがたいと思います。ただ,その中で一番大事なのは,発達段階の特性をきちっと踏まえて,親や周りの大人,教師がどのように子どもたちを支援していったらいいのか,子どもはどうあったらいいのかを提言することができたらと期待しております。 ○ どうもありがとうございました。 次回からは,ヒアリングを適宜入れながら討議を進めていきたいと思います。ヒアリングをお願いする方々の具体的人選につきましては,事務局と相談しなければいけませんので,これも私のほうにお任せいただければと思います。 なお,ヒアリングをお願いする方は,皆様大変お忙しい方でございますので,前もってお願いする必要がございます。委員あるいは専門委員の方で,この方にぜひここへ来てお話しいただきたいというアイデアをお持ちでしたら,なるべく早く事務局にお伝えいただきたいと存じます。また,次回からの審議の途中でお気づきになった場合でも,その場で御発言いただいて結構です。よろしくお願いいたします。 それでは,本日はこれで終わらせていただきます。次回は10月7日,火曜日,13時から,霞が関東京會舘の35階,シルバースタールームで行います。 どうもありがとうございました。 |
(大臣官房政策課)
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