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中央教育審議会

1998/1
今後の地方教育行政に関する小委員会 (第8回)議事録 

       地方教育行政に関する小委員会(第8回)

          議    事    録

    平成10年1月16日(金)  13:00〜15:00
    ホテルフロラシオン青山  3階  孔  雀


      1.開    会
      2.議    題
          今後の地方教育行政の在り方について
      3.閉    会


      出  席  者

委員 専門委員 事務局
河野座長 安藤専門委員 長谷川生涯学習局長
市川委員 石原専門委員 近藤審議官(初等中等教育局担当)
國分委員 岡田専門委員 御手洗教育助成局長
坂元委員 小川専門委員 徳永地方課長
田村委員 小澤専門委員 富岡総務審議官
永井委員 金剛専門委員 杉浦政策課長
横山委員 蓮見専門委員 その他関係官
藤波専門委員
堀内専門委員
鱒渕専門委員
森元専門委員
山極専門委員




○  それでは、地方教育行政に関する小委員会、第8回を開催いたします。
  これからいよいよまとめに向けて精力的な取り組みをしていただかなければなりませんので、どうぞひとつおよろしくお願いいたします。
  討議に入ります前に、まず事務局から資料の説明をお願いしたいと思います。
(事務局から説明)
それでは、討議に入りたいと思います。きょうは、できれば教育行政における国、都道府県及び市町村の役割分担の在り方の問題を主にして、御討議をいただきたいと思いますが、必ずしもこれにこだわらず、御自由に御発言をいただきたいと思います。
  それではお願いいたします

○  これから国と地方との教育行政制度の見直しを図るということですけれども、その際、、基本的に留意すべきことは、国と地方との関係といっても、法制度上の関係と実務執行上の関係、そして、政治的な交渉上の関係というふうに、幾つかの側面があると思われますので、それらの側面で何が問題なのかということをきちんと吟味していく視点が必要なのかなと考えています。
  よく日本の教育行政の特徴ということを言う際に、非常に「集権的」であるという話をされますけれども、私自身は決してそういう見方には立っていなくて、例えば法制度上の原則を見れば、日本の国、地方関係というのはかなり分権的だと考えています。法制度上、分権的であるにもかかわらず、なぜ集権的だという言われ方をするのかというと、実務執行上の関係において、市町村の条件不備というか、例えば事務局の職員不足とか、政策立案にかかわる資源とか能力が不足しているとか、あるいはまた首長部局に対する発言権を確保するために、文部省の補助金や、指導文書を活用するとか、さまざまな理由でもって、実務執行レベルでそうした様相がつくり出されていて、それは法制度の改正とは違った手法で改善していかなければならないという問題を抱えております。そうした法制度上の問題と実務執行上の問題と二つに分けて、法制度上では何が改正される必要があるのかということを吟味していくことが大切と思います。
  法制度上の見直しと言った際、私は基本的には、法制度の原理原則は分権的な仕組みであると考えています。ただ、分権的であるということを前提としながらも、やはり教育の機会均等の保障とか、適正な教育水準の維持向上の必要という点で、ある領域については機関委任事務が装置されて、国の指揮監督権限が認められてきたという仕組みになっています。これまで機関委任事務の在り方ないしは国の基準設定の在り方をめぐって、確かに大きな議論があったことは事実ですけれども、今回、地方分権推進委員会の勧告によって、それらの機関委任事務や行政手法が廃止ないし見直しされますので、基本的にはこれまで以上に教育行政制度の地方分権化はかなりすっきりする形になったのではないかと思っています。
  そういう点で、問題なのは、これまで教育の機会均等保障とか、適正な教育水準の維持向上ということを、国が機関委任事務という行政手法で行ってきたものを、今度そうした行政手法が廃止されるわけですから、それとは違った行政手法でもって、これまで国が果たしてきた役割を、どういう行政手法でもって果たしていくのかということが主要な課題であると考えます。
  そういう点で、国と都道府県と市町村のそれぞれの役割分担は、これまでの原則どおり維持されるべきで、その役割分担に基づいて、それぞれが一層スムーズに仕事を展開できるような法制度上の手直しとか、見直しの必要性があれば、それはやるべきだと考えます。
  そのことを踏まえて、提案された検討項目に若干補足したいと思います。
  一つは、国と地方との関係で、機関委任事務の廃止に伴う関連法令の改正を進めていくということは当然なんですけれども、そのほかに、例えば教育の機会均等保障とか、適正な教育水準の維持向上という国の役割を確認した上で、これまでの教育関係法規の上で、極めて不整合な部分については、整合性あるものに整理しておく必要があるのではないかということで、非常に気になっているのは、例えば学校教育法の第106条の「当分の間……」規定です。この学校教育法第106条の「監督庁は、当分の間、文部大臣とする」という規定については、教育の機会均等保障や、適正な教育水準の維持向上という国の役割を、地方分権という原則を踏まえて確認した上で改正をこの際、やったほうがいいのではないかということが一つです。
  それから、都道府県と市町村との関係については、地方自治法の第2条6項が削除されるという話ですので、こうしたことを考えれば、地教行法の第49条に、都道府県が市町村の事務を統一的に行うということで、基準設定の規定がありますが、これは明らかに今回削除していいのではないかという感じがします。市町村の統一的な事務の処理とかなんかについては、別に第49条がなくても、第48条の指導・助言等でできますので、そうしたことも少し考えていただければと思います。

○  今、おっしゃったことは、私も全面的にセコンドさせていただきたいと思います。私、最初に手を挙げましたのは、前半でおっしゃったようなことを申し上げたいと思っていたんです。実は随分勉強させていただいておりまして、何か深い霧の中をヘッドライトをつけて、手探りでゆっくり歩いているような感じを持っていたんでございますが、きょうの座長の整理と、それから御説明をいただいて、随分霧が晴れてきて、私どもが今何を、特に私なんかは、今、どういう方向に向かって物を考えなければいけないかという道筋をお示しいただいたと思います。
  法制的な面と運用実施面を区別して議論を進めないといけない。私、全く前からそういう感じを持っておりまして、いろんなお話を伺い、勉強させていただくときに、運用がうまくいっているところとうまくいっていないところがある、うまくいっていないところをうまくいっているところのようにすればいい、大抵の話が運用の問題ですね、なんていう発言もさせていただいたりしていたので、運用の部分に関してタイムリミットもある場合、これは非常に大事なことですけれども、ここの審議会でそこへ深入りしますと、なかなか大変かなという気がします。そういう運用の部分は、上手にいった部分を、委託研究なり協力者会議なりにお願いして、そこでマニュアルみたいなものをつくり、それを普及する。また、そのデータベースをつくり、コンサルタントを置くというような形の勧告にしてしまう。この審議会の最初の答申では、運用のほうはそっちのほうで適切にやりなさいと。もちろん時間があれば審議すべきなんですけれども。
  問題は、うまくいかない部分とか、うまくいっているところをもっとうまくさせるために、省令だの、法律だの、基準だの、条例ですか、私はその区別が十分把握できませんけれども、そういうものを変えなければいけない部分は一体何なのか。一つ一つの発言の裏に、それをうまくやるためにはどういう決まりを変えなければならないか。変える必要がなくて、運用なら運用で。それから文部省と科技庁が一緒になり、省庁再編成になりますと、あらゆる法律を根本的に見直さなければならないということがかかってくると、それにかかわるような問題からの見直しとか、地方の規制緩和がなるというときに、どういう決まりをどういうふうに変えなければいけないかということですね。それから、研究委員会が出されたことの中で、運用のものでない、やはり決まりをいじらなければならないというところに焦点化して。いろいろ運用にかかわる話は大事で、たくさん出てくると思いますが、出てきたものに対しては、そこで何を実際に変えなければならないかという議論が進められますと、大変ありがたい。
  そういうときには、いろいろ御専門の方々から、実はこのことがうまくいかないのは、ここの決まりがあるから、これをこう変えればうまくいんだというお話をいただければ、

○  教育行政における国、都道府県、市町村の関係について、現場を抱えている者として少しお話し申し上げたいと思います。
  市町村にとりましては、都道府県は非常に強い、絶対的な力を持っています。国の方針や通知が、設置者であり実施主体である小・中学校の義務教育を担っている市町村の教育委員会にきちんと届くような仕組みが必要かと思います。具体的には、国からのものが都道府県教委、地方教育事務所、そして市町村教育委、学校という流れを持っております。その中で、例えば一昨年のいじめ問題に関する総合的な取り組みについての通知は、文部省から県教委を経て届くまでに1ヵ月以上かかります。また、昨年秋の通学区域弾力化の事例等も、2ヵ月以上かかっているわけでございます。実際の現場を抱えて、服務監督をしております市町村教育委員会からすれば、時機を得た指導が非常に重要でございます。そういう意味で、もっと早くきちんと届くようなことが重要であると思っております。
  例えばある地方教育事務所を考えたときに、所管の市が所管内の過半数以上の人口を抱えているにもかかわらず、やはり地方教育事務所管内ということでの指導体制下にあるのが、教育行政の基本的な在り方になっております。
  中核市などを考えますと、地方教育事務所は、本来、出先機関として小さい市町村の指導に当たったほうがより効率的な教育行政ができるのではないか。そのような大きな市は、地方教育事務所から外して、国、都道府県、市町村という流れの中で仕事がきちんとできるような仕組みが必要かと思っております。きちんとした情報や指示が迅速に伝わり、理解され、市町村の教育委員会及び現場が自信を持って国の方針を踏まえて、きちんとした学校運営ができるためにも必要なことではないかと思っております。
  もう一つ、県は全県的な視点からの市町村の格差や、課題について、むしろ助言を重点的になさったほうがよいのではないかという感じがいたします。どうしても県は、一つの基準を設けますと、平等、公平という観点から、画一的になりがちでございます。結果として、全国津々浦々、画一的に展開しております。
  例えば、学校管理規則の準則というのがありますが、この準則に基づいて、どれだけ市町村教委が自分たちで考えてできるかといいますと、実際にはまずほとんどでき得ないということになります。なぜならそういう準則が示されたときに、そのとおりにしていたほうが無難であり、それから独自のものを出したときには、「なぜか」ということになるという煩雑さを避けるために、画一的に結果としてなっております。そういう意味では、学校管理規則の準則による指導は、それぞれの地域に応じた、子どもたちの実態に応じた教育行政ができるよう、指導というより助言体制をむしろ充実していただくという観点が重要かと思います。
  往々にして、どうしても県は全市町村に対して、平等、公平の観点から、画一的な指導が入るわけで、例えば独自に何かしようと思いましても、結果的には独自にすることは極めて厳しいということになっております。にもかかわらず、今、国の教育改革や、地方分権の中で、市町村教委の自立、学校の個性、主体性ということが言われておりますが、そのように現場や末端の教育行政が機能するためには、基準は国がきちんと決め、その方向をきちんと示しながら、県は各市町村の格差や課題についてきちんと助言体制ができ、そして設置者、実施主体が責任を持った形で、きちんとこれに取り組むことができる体制づくりが非常に大事ではないかと、現場を預かっている観点から思っております。
  また、指導ということでございますが、授業すなわち教育内容、そういうものに対しては、国、県、市町村、それぞれそこに特化してしまうという傾向がありましす。『論点整理』にきちんと指摘されておりますように、より専門的な総体的な学校経営という観点からの指導が逆になされていないという点が大きな課題ではないかと思っております。そういう点がなされるような体制づくりが、法的にも必要ではないかと考えております。

○  最初に教育行政における地方分権の基本的な認識の問題ですが、かつてこんなことを新聞で見たことがあるんです。
  いわゆる市町村の長の方から見ますと、一般行政以上に教育行政というのは地方分権がないがしろにされているという御意見をお持ちだということを、あるアンケートの結果で見たことがございます。これは我々教育行政なんかを研究している者にとりまして、大変意外なことなんです。というのは、言うまでもなく、戦後の教育改革、行政改革の中で、教育行政は特に地方分権を重んずるという理念のもとに、教育委員会制度が発足してきた。また、これが地教行法を経まして50年たちまして、一般部局の長の方からは、自分の関係しているところよりも、教育委員会のやっているところは地方分権がないがしろにされているという意見を持っている。一体、どこでねじ曲がったんだろうかという認識を持つわけです。
  そうしますと、きょうの問題の中の一つの大きな問題で、先ほど御指摘されたことなんですけれども、「指導・助言」という概念をどう考えたらいいんだろう。要するに、文部省の方も、大変意識し、自分たちの地方に対するかかわりということを処理していた。それは私も十分わかるんです。
  そうしますと、先ほど来問題になった運用と法制の問題を見ますと、文部省の方は法にのっとったことしかやらないというか、それ以上のことは越権行為として決してやっていないと、私はそう思うんです。そうすると、法の規定の中に、やっぱり地方分権の根底にかかわるような問題が含まれているのではないだろうかと考えているわけです。
  今、自分自身の研究ともかかわっているんですけれども、例えば地教行法、文部省設置法ですね。これは分権推進委員会の勧告の中でも既に指摘されているんですけれども、「指導・助言」の書き方がほかの省の設置法と実は随分違っているわけです。極めて包括的で、これは52年の改正以降と理解をしているんですけれども、ほかの省庁の設置法以上に包括的な指導・助言の規定がある。要するに、他の領域では技術的な指導とか、そういう限定がはっきりしていますし、指導の対象が限定されている場合が多いわけです。ところが、設置法の中で見ますと、教育委員会に対して包括的な「指導・助言」という言い方がほとんどになっている。そうしますと、教育委員会の側からしますと、文字どおり「指導」の部分ですね。これは先ほど「指導」ではなくて「助言」と明確におっしゃったわけですけれども、これは日本語のイメージとしましても、「指導」というのは高いところから低いところになされるわけですから、高いことを前提として地方は文部省を見なければいけない、こういうスタンスがはっきり法的に定められていると、私は考えているわけです。
  ですから、結論的に言いますと、地教行法はもとより、設置法の問題もかかわりまして、この「指導」という概念をやっぱり変えるべきではなかろうか。これは以前から実は感じていたところです。「専門的な指導・助言」という言い方を特に『論点整理』ではされているわけです。これはどうだろうか。はなから教育委員会に対して文部省は専門性が高いわけです。それを殊さらに「専門性」と言いますと、より今の方向を強めてしまうのではないか。もともとこれは「指導」という概念そのものに問題があるのではなかろうかと私自身はこう考えているわけです。
  特に、行政組織の問題で考えますと、教育委員会制度ということで、合議制の執行機関が一般部局とは別につくられている。そうしますと、一般行政の場合に、各省庁はすべて独任制の知事であったり市町村長のところに束ねられるわけです。そこから各領域の仕事にまた配分されてくるという仕組みを持ちます。ところが、教育行政だけは文部省から府県の教育委員会、府県の教育委員会から市町村の教育委員会へと、まさにストンと直線的におりてしまうわけです。
  そうしますと、受けとめる側からしますと、単独の専門的な領域  ―教育行政は他の行政領域に比べまして専門的であるという認識のもとに法の仕組みができたんですけれども、それを一般化していくだけのフィルターがなくなってしまっている。かつて教育行政の在り方としまして、有権解釈の問題とか、行政実例の問題とか、いろいろ言われてきたと思うんですけれども、そういった殊に専門化されたものの流れが、府県、市町村というふうにおりていけばいくほど、より大きなものとして作用してしまう。こういった法の仕組みが今あるというふうに我々は認識すべきではなかろうか。決してこれは運用で改善できる問題ではなかろうと思うわけです。
  折しも地方自治法の見直しとか、いろんな形の法改正が必要とされてきているというお話なんですけれども、そうした場合に、地教行法は当然だと思いますし、文部省設置法も今言ったように、殊に「指導・助言」という部分にかかわって、他の省庁との比較の中で、より一般的な形で書き直していく。そうしないと、今の教育行政の地方分権性が法的に十分担保できないのではないかと実は考えています。これが1点です。
  また、文字どおり、教育行政、特に国の教育行政は、教育水準の維持向上ということで、明治5年の「学制」あるいは明治4年の文部省設置から120年間続いてきたと思うんです。ところが、今の日本の社会を考えたときに、本当に国がシャカリキになって教育水準の維持向上を図らなければいけないのかということに私は大変疑問を持っているわけです。日本がよく参考にするときに、英米の地方分権の進んだ国を参考にするわけですけれども、公教育のくくり方を考えていった場合に、日本はよかれあしかれ明治に近代化を図って、教育水準の維持向上を国が抱えなければいけなかった、その歴史の必然性は私は十分理解しているんですが、それから100数十年たった今、同じような国民社会の認識で果たして意味があるかどうか、大変大きな疑問を持っています。
  認識が違う方もいらっしゃると思いますけれども、今の時代、「豊かさと成熟」というのを前にも私は言った記憶がありますけれども、そういった社会状況として我々は21世紀を展望していっていいのではないかと思っています。そうした場合に、国の規制というものは、国全体の水準を維持していくような形、要するに引き上げるという大変大きな作用を伴っていると思います。そういったものが、今、あるいは21世紀に向けて、どれだけ必要性を持っているか、これからは疑っていいのではなかろうかと思っています。ですから、本当に地方に任せてしまって、いろんなでこぼこができていく。だけども、それは日本が近代120年、130年たった今、そこそこの水準は、任せておいても維持できていくのではないか、こういう認識を持つか持たないか。そういった議論がやっぱりあるのではないか、実はこう思っています。

○  先ほどもお話に出ましたけれども、学校教育の場合に、考えてみれば、義務教育というのは答えが決まったものを教えているんだとよく言われます。そういった中で、個性を育てるとか、主体性を持つというようなことは、昔から言われていることではないかと思います。なぜ同じようなことが言われるかといえば、それがまだ実現できないから言われているのではないかという気がします。私は、国のほうである程度のものを決めて、そのほかの部分については、地方とか、学校に任せるとか、そういうことが必要ではないか。それによって、初めて個性のある人間が育っていくのではないか。例えば、午前中は国が決めたことをやる、午後はその学校とか、現場に任せるというぐらいのことをやらなかったら、私は改革というのはできないのではないかと思っております。さっきお話が出た画一的なことでは、個性的な人が育たないと思います。
  それともう一つ、実は昨日、成人式がありましたが、けさの新聞にこういうのが載っていました。「今、大学2年生だが、ことしからは教師を目指し、勉強に力を入れていきたい。熱心な教師が減り、過保護な親が増えていると中学校時代の恩師が話していた。いつまでも生徒と近い関係でいられるような教師を目指したい」。こういう先生が増えてくれればいいと思うんですが、中には、本代も払わずに他の学校へ転勤して行ってしまう先生もいます。こういう先生が子どもに、基本のことをどうのこうの言ったって、私は、言えたもんじゃないと思ったんです。
  ですから、先生のことを考えたときに、採用試験が受かれば、一般社会へ出ないで、すぐ学校という社会へ入ってしまう。そうしますと、保護者にはいろんな職業の人がいるわけですけれども、先生はそういうものがよく理解できないと思うんです。そういった中で、買ったものの代金を払うなんていうのは常識以前の、世の中の本当の基本的なルールであるわけですから、もっと社会を知ることを教員になる前にやってもらいたい。
  例えば、学校教育というのは生涯学習に包括される部分ですから、生涯学習の試験問題を先生方に課すとか、あるいは実際に民間のところへ派遣をして、民間企業の厳しさ等も自分の身をもって体験してもらえるような、何かそういう制度をつくっていただければなと思います。

○  私は、「指導・助言」というのも、例えば「調査研究の充実と情報提供」というふうにしたほうがいいと考えていたんですけれども、考えてみますと、確かに中央の研究者などに相当の情報がたまる一方、きのうの「青年の主張」というか、NHKの「青春メッセージ」などを見ていても、今、地方ですばらしいいろいろな情報があるかもしれないということを考えますと、双方向の「情報交流」みたいな形に変えていったほうがいいのかなという気がいたしました。そのことと、措置要求とか、改善命令というのは、場合によっては文部省でやらなければならないことかもしれないことを、うまく切り分けていく必要があるのではないかと考えました。

○  法律の書きぶりみたいなものを、今後、当然直していく。その例として、「当分の間」ということがあるとすれば、それをきちっとしていくということは必要なんだろうと思います。
  そのあたり、どんどん国、都道府県、市町村といくに従って、いわゆる「指導」が「命令」みたいな形で受け取られてしまうという部分について、国のほうは一体どういう役割を担うのかということをきちんとというか、例えば、もう少し、「これは技術的な指導」「これは包括的な指導」といったことを議論すること自体は難しいかと思いますが、少なくともこういう部分はこういうふうに改めたほうがいいのではないかということを、若干議論する必要があるのではないかという気が一つします。
  それから、運用面と法制面についてですが、国、都道府県、市町村という面で、問題があるのは運用面だろうと思うんです。それがゆえに、「技術的な」とか、あるいは「限定的な」という言葉をつけた「指導」というようなことを、先生方が御議論されているんだろうと思うんですが、そのあたりも議論していく必要があるのではないかという気がしています。実際、都道府県の教育委員会では、「技術的な」あるいは「限定的な」指導をしたつもりが、学校の現場からいろいろ意見を聞いてみますと、全く「命令的な指導」みたいな受け取られ方をしているという部分がかなりあるわけです。どこまでこの場で議論ができるかは別なんですけれども、少し整理をする必要があるのではないかなと、御意見を伺っていて感じました。

○  ぜひ具体的に、まさに今後の地方教育行政の在り方について一石を投じるようなものがまとめられればと願うものでありますが、一つ気になる大前提がございます。
  それは、冒頭、座長のお話にもありましたように、二つの大きな前提、すなわち、「一人一人の個性を尊重した多様な教育の推進」、そして「地方分権」、この二つをベースにして、この小委員会には三つの具体的な観点からの諮問があると。一つは、「主体的な地方教育行政」、そして「学校運営の自主性」、そして「地域住民の連携」。これは改めて申し上げる必要はないんですが、いずれも「より」とか、「原則として」とか、「どちらかといえば」ということを書いていないわけでございますから、私がかねてから申し上げていますように、地方分権の弊害といいますか、それによる格差の問題でございますとか、さまざまな問題を抱えておりますけれども、まさに主体性を持つこと、自主性を持つことを大前提とした、地方分権というよりも、地域主権ないしは教育でいえば主権在校というか、そういう大前提に立っての、場合によっては一つ一つのことについて、自主性・主体性を前提として、国、県、市町村教育委員会がそのために何をなし得るか。
  したがって、「管理、監督、指導」ということよりも、「支援、応援、お手伝い」ということになりましょうし、より限定的なものとしていく必要があるのかもしれませんが、むしろ内容によっては、国の大いなる応援、支援が必要なものもありましょうし、内容によってはやめてしまうということもあろうかと思います。地方分権というのは、国にあるものを分けて、スリム化して削っていくということがどうも先になりがちなんですが、そうではなくて、これは大前提でございますが、まさに自主性を確保するために何ができ得るか、そんなところからぜひ議論を進めていただきたいと思います。

○  今のお話とちょっと関連があるんですが、いわゆる議会制民主主義の国はいろいろあるわけですが、我が国の議会というのは非常におもしろい傾向がありまして、普通の西欧民主主義国家の議会というのは、役所は余計なことをやるなと。やったことをチェックするという機能が本来あるわけです。ところが、日本の議会というのは、役所に「やれ」と言うわけです。「なぜ監督しないんだ」「不祥事が起きた。何で役所がもっとちゃんと見ないんだ」ということを常に言うわけです。
  分権の話をきちっとするとしますと、議会の姿勢にやはり触れざるを得ないのではないかと思います。本来、議会というのは、役所が公的な行政強権を持っている存在として、一般人民に対していろいろやることをチェックするという機能を中心にすべきだと思うんですけれども、「なぜやらないんだ」ということを議論の中心にする議会の体質はやはり触れないと、どんなに法律を整備しても、どんなに仕組みを考えたとしても、議会に言われればやらざるを得ないということが必ず起きてくるわけですから、方向としては分権という方向にいかなくなる危険がかなりあるという問題は触れる必要があるのではないか。それは前提としては、主体性、地域主権というようなものとのかかわりの問題ではないかと思うわけです。

○  今、チェック機能というお話が出ておりましたが、これから地方分権が進んできますと、国の立場としてはチェック機能ということが大きなお仕事の一つになられるのではないかと思います。当然ながら、地域によっては教育行政が、非常に成功するところと、それほどうまくいかない地域と、どうしても今後バラツキが出てくると思います。
  そういうときに、子どもは自分で教育環境を選ぶことができない立場にありますので、地方によっては独断的といいますか、あまり極端な方向に走らないようにというチェックは、これは最低限のことですけれども必要ではないか。上からの命令ではなくて、そういうチェック機能が大事になってくるのではないかということを個人的に感じております。
  それと先ほど情報提供というお話がありましたが、地方分権がうまくいく地域と、それほどでもない地域ということで、成功例ですとか、こういうことがまずかったというふうな、いろんな情報をお互いに提供し、交換していくことが非常に大事だと思います。それに加えて、日本の地域同士の情報提供にとどまらず、これから地球は一つという時代で、21世紀はますますその時代になっていきますので、それぞれの国の立場の違いはあると思いますが、参考になる教育行政もいろいろあると思いますので、これから教育改革を考えていく上で、国際的視野も入れていただいて、幅広い観点で改革していくことが大切だと考えております。

○  法制度上がよくわからない中で伺っていたことと、自分の体験から2点ほど申し上げたいんですが、一つは私どもの大学で文部省からの委託を受けて、環境教育の研修をこれで4年間やっているんですが、一応文部省の主催でやる。しかし、中身については我々がプログラムを組んでいるんですが、研修にいらっしゃる中学、高校の先生が、先ほどの情報がきちんと伝わっていないのか、前の日に命令されて突然来たとか、自分が何のために来るのかわからないとかですね。私どもは、各都道府県で環境教育を熱心にやっている、あるいは環境教育をやりたいという申し入れがあって、受講なさっているのかなという思いで、研修員としてはそういう立場でやっていたのが、懇親会をやると本音が出てくるんですが、それぞれの温度差があります。新しい領域に対して各都道府県から来るわけですから、そこでお互いにいろんな情報交換をやって、それで地域に反映するということで、国の制度としては非常にいいものですが、それを自分たちのものとしていくというところが、どうも欠けている。これは教師側の問題というんでしょうか、そういうものを少し感じます。
  現在の学習指導要領も大綱化されているはずなんですけれども、何か決められたものとしてあって、ねらいに対していろんなプロセスがあるはずなんですけれども、そこへのアプローチが少ない。確かに熱心にやっている先生はいらっしゃるんですけれども、そこのところが、分権化、あるいは法制度を変えたときに、どうなっていくのかということを一つ感じております。
  もう一つは、やはりことし委託を受けて、うちの大学で、環境教育の総合的な推進に対してどのようにやっているのかということで、今、調査をしているんです。それで、各都道府県の教育委員会に電話を差し上げて、「調査に行かせてください」ということをお願いするんですが、非常に温度差を感ずるんです。ものすごい形式論に走って、「文部省からの依頼の手紙がなければだめだ」とかですね。私どもは、まず都道府県の教育委員会へ行って、それから地方あるいは教育センター等々でどういうふうにやっているか、それから熱心にやっている先生等を紹介していただけるのが、都道府県かなと思ってお電話を差し上げるんですが、非常に形式だけで、これではせっかく一生懸命やっている先生の発掘がなかなかできないのではないか。一体この辺のところは、法制度を変え、あるいは分権化をしたところで、変わるのか。
  委員の先生の意見の中に、国民性の問題まで突っ込んで議論したほうがいいというのがありますけれども、何かその辺、明治以来の「よらしむべし、知らしむべからず」の中で、枠を踏み越えてやることに対して恐れているというんでしょうか。教育というのは、あるいは個性化ということを言われているということは、自分なりに子どもと接している中で得るものがあって、それが発露する場ではないかと思っていたんですが、どうもそうじゃないところを少し感じております。こういう見直しがあって、それが変わることができればと願っているんですが、またいろいろと教えていただけたらと思います。

○  今までいろいろお話を聞かせていただきまして、2点ほど感じたままに述べます。
  国の役割分担と地方行政の役割について、単純に割り切れないと思うんですが、予算面についてですけれども、国のほうが2に対して、地方のほうは1ぐらいだと。それに対して仕事量を考えると、実務的ないろんな仕事をしていくのが地方行政で、仕事量が非常に多い。それが2で、国ほうは1だと。いわゆる実務的にやる、やらないというとらえ方かなというところでかかわってくる、国の実務でない部分、先ほど指導・助言、云々というのがあったと思うんですが、そういうものについて、国のほうの法制というかかわりから、実際には手は下さないけれども、何らかの関与が地方に入ってくる。そういう仕事を地方は実際やるんだということで、結局、予算の点と実務的なものとが逆になっているような、そんな内容の文章を読んだことがあります。これは単純にそう言えないと思いますけれども。
  そういう意味で、役割分担を今後どういうふうにしていったらいいのか。結果的に地方を活性化するということが、国の役割になると思いますし、現在やっていないというわけではございませんが、そういう役割も見直すということが、今の簡単な数字の中からも言えるのかなという気がしました。
  法制の見直しということで、例えば学校現場では管理規則において、準教科書などは使用の1ヵ月前に市教委に申請するとか、あるいは副教材なりは20日前までに届出するということがあって、これが現場のほうではなかなか機能化されない。どうしてもそれを守っていると、かなりの時間がかかってくるので、前倒しでかなり前からやらなくちゃならない。子どもたちが4月8日あたりから入るに当たっては、例えば1ヵ月前ということになれば、3月の頭にはそういうものを検討して市教委のほうに出さなくてはならないという部分がある。そうすると、担任はまだ3月中、ましてや上旬には教育課程が編成されていない中で、そういったものを申請するとなると、前年度の係の者が実際にやるという形になってしまうでしょうし、あるいはマンネリ化ということで、例年やっている形を踏襲して、教委のほうに提出するということがある。そんな点から、もうちょっと現場のほうがやりやすい形をとるということで、例えば届出制にしてしまうという形をとったらどうなのか。
  それが現場から見た市教委に対する管理規則の見直しという点ですが、そのほかにも国と県絡みでも類似したようなものがあるのかどうか。とすれば、その辺の機能面を優先するようなことでの話し合いがなされれば、地方にとってもいいのかなということで、その法的なものの絡みと機能面の上でどういうふうにしていくのか、検討していく必要があるのかなということを感じました。

○  私もお話をいろいろ聞かしていただきまして、率直に思うんでありますが、実は教育制度の中にどっぷりつかって今日までやってまいりました。何が問題で、何が課題で、どういうところをどんなふうにということは、今、すべてのことを申し上げるわけにはまいりませんが、今までやってきたことがすべてまずかったということではなくて、その都度、いろいろな制度の改革や、あるいは国の調査研究、あるいは施策を受けて、それぞれの地方公共団体、あるいは地方教育行政は事を進めてまいったわけでございます。その中で、地方は地方の独自性を発揮しながら、制度の枠の中で創意と工夫を凝らしながら、それぞれやってきたわけであります。
  先ほど、運用ということがありましたが、いわば運用の面ではかなり柔軟性がある。制度の中からでも柔軟性を持ちつつ、地方の教育行政を進めていくことができるというふうになっているという思いがいたします。だから、21世紀という命題はありますが、大きくここで改革をするということが必要なのかどうなのかということを、まず1点思います。
  その中で、きょうの課題からいたしますと、地方分権、あるいは文部大臣から3点の観点で御議論いただきたいということでありますが、過去にもそのことを念頭に置きつつ、地方教育行政は進められていたと思いますし、それぞれの関係においても、そういうことは十分なされていた。さすれば、この中で一番問題になるのは、先ほども議会の関係もございましたし、それから財源の問題がこの裏にひそむんです。
  議会と首長部局との関係の中で、幾ら教育委員会がある一定の方向で踏み出そうとしても、あるいは予算上の裏づけがないと、事柄はなされないんであります。
  21世紀というのはもっと厳しい、右肩上がりの成長は望めない状況がある。一方で地方はそれぞれ行財政改革に取り組んでいる。だから、今の制度の運用について、教育の中身、あるいは金のかかる部分について肥大化していくという方向ではなくて、少しスリム化していく方向の議論を私はしたいと思っているんです。
  そういう観点から、今までやってきたことについて是とすべきことは是としながら、地方教育行政が今まで持っていた、課題がある部分については是正を図っていく。一方で、今、与えられていますことを一つ一つ、こなしていこうとするならば、これは財源が伴わないと物事ができないんですね。それが議会だとか、首長部局だとか、その仕組みが地方自治全体にありますから、教育委員会制度、地教行法はありますが、それと理念的にはわかるんですが、地方自治法との関係、財源の問題、税法上の問題、等々が非常に深くかかわっております。実務上で物事をやろうとするならば、大変な難しさが起こってまいります。しかし今日までもそういう制約をかなり受けながらも、創意工夫をしながら、それぞれの地域、地方に応じた独自性を生かしながらの教育行政を進めてきていた。
  実は「指導・助言」にかかわりましても、予算と絡みましたら、「これは国はどう言っているのか」と、必ず財政当局は聞くんです。ある意味では、「国がこう言っているから」と。それで予算をつけてもらう、あるいは事柄をやらしてもらう。こういうことが実態上あるわけです。それがいいか悪いかということは別です。論理的に説明をすればいいという話でありましょうが。
  しかし、そこが地方分権と言いつつも、国と都道府県あるいは市町村との関係がなかなかうまくいかない。それは国民性の問題だとか、あるいは日本が今までつくり出してきた文化の問題だとか、いろんなことがありましょうが、議会だってそうなんです。むしろ議会の強化は、チェック機能といいますかね。あれやれ、これやれと、むしろ指導よりも管理監督に近い。そういう中で、教育の独自性を保ちつつ、物事を進めていくというのはなかなか難しい。
  だから、成熟した社会をつくるためには、教育を支える皆さん方、地方自治体の長もそうでありますが、そこらを踏まえて、変革する方向へ何らかの示唆を与えていく、そういう提言なり、物の言い方をぜひとも織り込んでいただきたいという思いをいたしております。

○  学校の自主性・自律性の確立についてですが、自主性・自律性と裏腹の関係にあるのは責任性だと思うんです。そういったことをここできちっと打ち出す必要があったと思います。
  それから、学校の教育目標の明確化とか、アカウンタビリティー、自己点検評価といったことについては、教育委員会との関係で考えるということもありましょうけれども、学校の管理運営の在り方の問題として考えたほうがいいのかなという感じを受けました。
  それから、校長の適材確保方策については、民間人の登用というのは非常に大事なことですが、そのほかに、これから学校に自律性・自主性がだんだん高まっていきますと、学校はいろいろな面で事務負担が増加していくと思うのです。そういう面で、例えば研究指定校とか、いろいろな調査統計とか、研究会を精査するなど、そういった全体の学校事務のスリム化も、この学校の管理運営の議論中で明確にしておかないといけないのではないかと感じております。
  次に、国と教育委員会との役割分担等についてでありますけれども、国は基本的な制度とか、大綱的な基準とか、あるいは教育条件整備とか、そういったようなことになるかと思うのですが、例えば指導行政という視点から言えば、教育課程の基準は国でつくっておりますし、こういったものはこれからも基準としてはやはり大事だと思うんです。大綱化もしていますし。あと細かい指導の云々というのは、これからは少しずつ外に出ていくかと思うんですが、国の基準の大綱化とあわせて、国は  この場合の国というのは別に文部省が直接ということに限らない、国の何らかの機関でいいんですけれども、各学校に教育の成果について責任を明確にしてもらう、そのことを何らかの形でチェックする。それが非常に大事だと思うんです。そうやってみると、いわゆるナショナル・アセスメントが大切です。要するに、国は基準を決めます、あと自由というか、学校で創意工夫してくださいと。しかし、その結果について、何らかのチェックをする機関がやはり必要ではないかと思うんです。結果について責任を持ってくれる。それを何らかのチェックをしていくというところさえしっかりしていれば、あとの細かい指導とかなんかというのはどんどん外に移していっていいと思うんです。
  例えば、イギリスではナショナル・カリキュラムをつくっても、7歳、14歳、何歳ということで、ちゃんとナショナル・アセスメントをやっているわけです。しかも、結果を公表までしているわけです。なぜそういうふうになっているのか。アメリカでも州のレベルではそういったものがきちっとしている。要するに、結果について何らかのモニタリングをするということさえしっかりしていればいいんではないかと思っております。
  あと非常に難しいのは、確かに国の権限、指導行政というのは、だんだん縮小しますし、そうなっているんですけれども、国の指導行政が小さくなればなるほど、現場が個性化、多様化、活性化するかというと、逆なんですね。むしろ画一化していく方向になっていくのです。むしろ国のある程度の指導があるために、何とか個性化、多様化が維持されている。国が「個性化、多様化」と言っているんです。普通、国が何か言うときには、大体画一的なことを言うのが普通なんですけれども、国が個性化・多様化と言って、一生懸命、学校が画一にならないようにしているわけです。  

○  結局、国と県、市町村、それぞれの役割は何なのかということを、改めて洗い直すのが今回の作業になるんだろうと思うんですが、地方自治法の改正が行われて、県の役割から「統一的な処理を必要とするもの」という項目を削ってしまうと、結局は県の役割というのは、地方自治法のレベルで言うと、「町村の権限を超えるもの」、あるいは「町村の範囲を超える広域的なもの」ということになってくる。ですから、例えば県立高校をつくるということは県の仕事だけれども、市町村の仕事にかかわっては、県には特段の権限がなくなるということになる。
  そういう意味では、先ほど来から、都道府県の市町村に対する指導・助言というお話ですけれども、これまで指導・助言の根拠になってきたものは何なのかというと、結局は県の中で一つの統一的な基準、県としての教育の水準があって、それを維持していかなければならない、あるいはそれを徹底していかなければならないというところが、県の市町村に対する指導・助言の根拠になっていたんだろうと思うんですが、その根拠がなくなってしまう。地教行法にはそういう趣旨が書いてありますから、そちらでは残ることになろうかと思いますけれども、それも法律に違反しない限りということになっていますから、地方自治法とどっちが上位かという話になるでしょう。そうすると、県教委の役割というのは一体何なのかということを、改めて考え直さなければならないのではないだろうかという感じがするわけであります。
  そうすると、県としての統一的な処理という項目を削ってしまうと、市町村に対する指導・助言というのは、結局は国の全体的な基準、あるいは国の事業の推進について、適切にそれが行われるように指導・助言していくという、国の指導ということに結局はなっていくのではないか。それを県を媒介としてやるのがいいのか、それとも国が直接市町村におりていくという形のほうがいいのか、そういう選択肢があり得るのではないか。かつてのように交通・通信が未発達の時代には、40幾つかに分けておく意味もあったかもしれませんが、今のように情報化が非常に発達しているということになると、そこで果たして国が指導・助言していく場合に、県を媒介しなければならないのかどうかということは、改めて今の技術水準のもとで考えられてもいいのではないか。先ほど、県を媒介することによって、非常に時間がかかるんだというお話もございましたけれども、もしそういうことであるのであれば、いささか暴論かもしれませんが、国からストレートに市町村へということも考えられてもいいのではなかろうか。
  翻って、地方自治法で、市町村の範囲のことは市町村の権限でということを強調し、市町村の独自性を重視しよう、地方分権ということで考えるとすると、国と県なり市町村なりとの関係でも、統一的な処理をするという全国的な基準について、どこまでを考えるのかということを洗い直す必要があるだろうという気もするわけであります。もちろん、国の役割として、制度の枠組みをつくる、それから全国的な基準を作ることも必要なわけで、そのリミットをどこまで考えて、各自治体の自主性にゆだねる部分をどこまでにするのかということを少し洗い直さないと、今回のことの答えは出てこないのかなということを、きょうのお話を伺って考えているところです。

○  今まで先生方のお話を伺っていまして、ほんとにもっともだと思っております。学校の責任ということは、私たち、これから真剣に考えていかなければならないと思っております。その分、責任は負いますけれども、またそういう責任を行使できるだけの力も予算も与えていただきたいということは切実に思っております。
  また、今、確かに情報化が進んでいる中で、情報の流れが意外に遅いというような点は、どこかでスッと流れるシステムをつくっていく必要があるのではないかと思っております。
  結局、どこがどう責任を取るかというところがややあいまいなところがあって、先ほど教育委員会にも温度差があるというお話でしたけれども、自分で責任はあまり取りたがらないという、我々の国民性とは言えないと思うんですけれども、そんなところをこれから改めていかなければなりませんし、何かが起きたときに「それ見たことか」と言われるような社会の意識も変わっていただかなければ、責任のある仕事ができないのではないかと思っております。
  最後に、義務教育段階においては、全国的な視点に立った教育水準の維持向上だけはきちっとやっていただきたい。そうすれば、子どもたちがあっちへ行ったりこっちへ行ったりしたときに戸惑わないで済むのかなという考えを持っております。

○  教育委員会の財政の問題については、これはいつかも出されたと思うんですけれども、旧教育委員会法時代における首長部局との事前協議制みたいなものがある意味で制度としてあったんですが、そこまではなかなか難しい今の行財政改革、財政構造改革なわけです。今の意見聴取というのは自治体によっても異なるんでしょうけれども、どうも私が聞いている限りでは聞きっ放しということで、もう少し意見聴取というのを制度的にきちっと位置づけられるようなことが法制的に可能かどうかというのを検討する必要があるというのは、問題意識として持っています。教育委員会制度の在り方の中で、教育委員会の財政の問題について、議論の柱の一つに入れて議論するに値するのではないかというのが一つ。
  それから、国と地方公共団体の関係とか、役割分担の問題は、地方分権推進委員会の第1次勧告、平成8年12月20日に出されている「国の役割」ということで、国が担うべき事務ということで三つほど挙げられているその考え方で基本的にはいいんだと思います。強いて言えば、国際化時代における国の問題として、国際交流なり、国際的な教育の問題というのを、これからの21世紀を見据えれば、もう一つの項目として入れていいのではないかという感じはあります。
  ただ、抽象的、一般的には、実態面としては学校なり一人一人の教職員が、ゆとりの時間一つとってみても、そのゆとりの時間をどうするかということで、市教委に問い合わせる。市教委は県なり文部省に問い合わせて、校長会として一つのまとまりのある横並び意識というもので、それが生かされていないという問題は、確かに指摘されるとおりあります。
  ただ、全体的に見ていると、本来の指導・助言は、文部省設置法が昭和24年に、できたときのいろんな説明などを私もひもといて読んでみたんですけれども、かつての権力的・命令的な行政から、文部省もサービス行政に徹するという観点で指導・助言というふうになったのが、文部省設置法の第5条、第6条が最初は限定的に書かれていたのが、改正のたびごとに項目も増え、やや権力的と私は言いませんが、受け取る側は指導・助言を権力的に受け取っているという実態は、否定しようがない事実です。私なんかもあちこちで、もし地方教育行政の在り方を見直すのであれば、その辺のところについて、特に指導行政、教育課程行政にかかわっての指導・助言の在り方を相当見直す必要があるのではないかという意見を聞きます。
  おっしゃるように、教育条件整備とか、そういったところでの条件整備への支援といいますか、サポートというのは、これはある意味ではむしろ強めるべきかもしれませんけれども、特に指導行政は、これからの個性ある人間、クリエーティブな人間を育成するということも含めて、教育課程行政、カリキュラムの編成、その他について、現場が創意工夫を生かせるような、それに必要な人的・財的なサポートをするという形に、情報提供も含めて徹すべきではないか。
  そういう意味では、文部省設置法を、いずれ科学技術庁と近々一緒になるということですから、全般的に見直すことになると思うんですけれども、特に第5条の所掌事務と第6条の権限というところをずうっと読んでみると、相当見直したほうがいいと思われる箇所があると個人的には思っています。きょう、ここでは申し上げませんけれども。そういう意味で、相当見直しを必要とするのではないかというのが1点です。
  それから、教育委員会の活性化といいますか、主体的、自主的な制度については、きょうは時間の関係からあまり議論されませんでしたけれども、基本的にはこれまでヒアリングの中でもいろいろ出てきていますので、また次の機会にその点については言いたいと思います。基本的に、就学前の幼稚園、保育所と小・中学校、義務教育については、設置者である市町村の主体性、自主性を尊重するというところにかなり徹したような意味で、国と地方の役割分担というところでの指導・助言の在り方や、措置要求や、指揮監督権については、法令上も見直しをする必要があるのではないかというのが、私の意見であります。

○  事柄としては皆さん既におっしゃった事柄で、私の基本的スタンスは、すでにお話があったことに尽きておるんです。それは制度の問題と運用の問題ということで、制度の問題としては、皆さんおっしゃっておりましたように、教育課程、その他一定の基準をつくるというのが、国の仕事としては最低限あるということ。そして、問題はむしろ運用面にあるのではないかということだったと思います。
  先ほど来、指導・助言とか、措置要求とか、指揮命令とか、そういうことが話題になっておりますけれども、例えば国が一定の基準をつくるということになると、消極的にはそれを担保するために措置要求とか、極端な場合ですが指揮監督とか、その中間段階として指導・助言もあるかもしれません。もっと積極的な意味では、そのつくった基準が十分浸透するように、もちろん浸透というのは強制という意味ではありませんけれども、そこに指導  ―指導・助言と呼ぶかどうかという言葉の問題は別として、そういう機能があってしかるべきではないだろうかと思っております。
  それから、問題は運用の問題ですけれども、先ほど委員がおっしゃったように、受け取り方に一番大きな問題があるのではないかと思うんです。委員は「権力的に受けとめる」という表現を使いましたけれども、むしろ私は責任転嫁的に受けとめているのではないだろうかと思います。国で何か指導的なものがあると、都道府県、あるいは市町村、さらには学校へいく段階で、主体的に自分で判断して責任を負うということでなくて、そこを放棄して、国の指導に従っておれば無難であるという意識がありはせんだろうかという気がするわけです。これが担当の指導主事さんその他だけでなくて、例えば議会あたりで問題になっても、議会の人たち、あるいはその背景にある県民の意識というものが、教育行政、教育というのは、一般行政とは違うんだと。やはり何か国の役割とか、統一的な基準というものがあるという意識のもとに、よその県と違うことをやると問題があるのではないだろうかという意識のもとに、それを支えるというようなことがあるのではないだろうかという気がして仕方がないわけです。
  特に指導行政の場合に、国が文書で指導するということももちろんあると思いますけれども、個別には、例えば個々の教科の文部省の担当官、それを受けとめる各県の指導主事、あるいは市町村の指導主事、あるいは学校現場という段階で、例えば「一般的な在り方としては」とか、あるいは「通常の場合は」とか、「原則として」とか、あるいは「もちろん最後は地域あるいは学校の実情に応じるんですよ」といったようなことが全部吹っ飛ばされて、末端に行けば行くほど法律以上のものになって、確固として動かしがたいものになって動いているという実態があるのではないか。とするならば、出す側ももちろん問題かもしれませんけれども、多くは受けとめる側の意識改革がないと、運用の問題はなかなか解決していかないのではないかと思います。それが1点でございます。
  それから、関連して、先ほど、文部省設置法の話がありましたが、私の理解するところでは、文部省設置法というのは基本的には省庁間の守備範囲を規定している法律であって、権限行使は個々の実体法の規定に基づいて行うわけですから、あくまで守備範囲ということと、個々の実体規定に基づく指導・助言は別個の問題ではないか。これは多少技術的な話ですが、そう思います。
  それから、話題に出なかったことで一つ。指定都市あるいは中核市への権限委譲という問題についてですが、いろんな問題、例えば学校の設置認可とか何とかというのは別としまして、少なくとも私は個人的には人事権、任命権は都道府県に置いておくべきであると思います。現在、政令指定都市に任命権が委任されておりますが、どうも実態を見てみると、そこの政令指定都市に配属された教員は、ほとんど一生涯そこにいる。空きが出てきたときに、周辺の郡部から入ってくるというような、これは極論かもしれませんが実態があるわけです。
  そうしますと、政令指定都市というのは大体利便地にあるわけで、それ以外の僻地・離島ということで考えますと、ある人は利便地だけで生活する、ある人は不便なところだけで教育を担当するというのは、同じ県内にある教員として、便利なことも不便なことも共同して分担するという観点から、人事上  ―団体の意見にも、都道府県連合会でも「広域的な人事交流を確保する上で十分な検討が必要」、日教組のほうでも「人事行政が複雑になることに留意すべき」という表現で言っておりますけれども、個人的には政令都市からさらに引き上げて都道府県に戻すべきだと思うんですが、そこまでやるのはちょっと問題としても、これ以上拡大すべきではないと私は思っております。
  また、市町村教育委員会の事務処理体制の充実について、事務の共同処理というのがあります。これは実行性という点ではなかなか難しいのかもしれませんが、やはり一部事務組合方式にしろ、教育機関の共同設置にしろ、中教審として共同処理を推進する方向はぜひ出していただきたい。幾ら指導主事、あるいは社教主事を配置しろと言っても、現在の財政力では、それは言うだけであって、実際問題としては無理だと思いますので、何らかの工夫をやるとすれば、共同処理方式しかないのではないかと思いますので、1点、つけ加えさせていただきます。

○  ありがとうございました。
  申し上げましたように、例えば年度内をめどにということに出ている、個別的・具体的なテーマについても、我々はこれまで考えてきているし、これからも考えていこうとしている全体的な視点と申しますか、あるいは全体的な関連、あるいはこれは定義しなければ使えない言葉でしょうけれども、全体的な構造の中に、具体的な課題を位置づけて考えていかなければということでは、大体共通理解をいただいたように思います。
  そこで、きょうは差し替えた教育行政における国、都道府県及び市町村の役割分担の在り方について御審議をいただいたわけでございます。
  次回、1月26日、第9回の小委員会におきましては、教育行政における国、都道府県及び市町村の役割分担の在り方について、きょうに引き続いての御審議をいただく。あわせて、「教育委員会制度の在り方」に重点を置いた御討議をお願いしたいと思います。
  そして、次々回、2月9日、第10回小委員会でございますが、ここでは教育委員会制度の在り方について、引き続き御討議をいただくとともに、あわせて学校の自主性・自律性の確立、さらに地域コミュニティーの育成と地域振興に教育委員会の果たすべき役割、そしてできれば学校以外の教育機関の運営の在り方といったところに重点を置いた御討議をお願いしたいと思います。
  それでは、これで本日の会議は終了いたします。
  次回の小委員会は、1月26日、13時から、霞が関東京會舘のゴールドスタールーム、35階で開催いたしますので、よろしくお願いいたします。

(大臣官房政策課)
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