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中央教育審議会

 1999/10 議事録 
初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会 (第22回)議事録 

 中央教育審議会

初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会(第22回)

議事録


平成11年10月18日(月)  13:00〜15:00
フロラシオン青山  1階        ふじの間


1.開  会
2.議  題
    「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」
3.閉  会


出  席  者

委  員
根本会長、鳥居副会長、木村座長、川口委員、田村委員、永井(多)委員、松井委員、横山委員

専門委員
荒井専門委員、安齋専門委員、岡本専門委員、工藤専門委員、黒羽専門委員、永井(順)専門委員、橋口専門委員、久野専門委員、山口専門委員、四ツ柳専門委員

事務局
今村審議官(生涯学習局担当)、佐々木高等教育局長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官


○木村座長  本日は、お忙しい中、本会に御出席を賜りましてありがとうございました。
  それでは、まず事務局から配付資料の確認をお願いいたします。

<事務局から説明>

○木村座長  それでは御議論をいただければと存じます。いかがでございましょうか。

○  「入学者選抜の改善方策を検討するに当たって」についてで、「例えば、入学定員という概念をなくし、大学を『入りやすく出にくく』するという考え方がある」とあって、「これについては、指導教員や施設等の対応からほとんど不可能と考えられる」とお書きなんですが、「入りやすく出にくく」というコンセプトは何を意味しているのかということについて、少し狭義にお考え過ぎじゃないだろうかという気がします。あるいは私のほうが常識がずれているのかもしれませんが、「入りやすく出にくく」というのは、例えば後のほうで、「企業にこのような採用態度を求めるためには、大学においても責任のある授業運営や、成績評価基準の明示と厳格な成績評価を行うことが前提である」、おっしゃっていることはそのとおりだと思うのです。こういうふうに「厳格な成績評価を行う」ことが、まさに「入りやすく出にくく」の意味であると私は理解しています。ということで、「ほとんど不可能である」ということと論理的につながらないのではないかという気がいたします。
  仮に、「入りやすく出にくく」ということの意味を、何でもいいから全部入れちゃって、とにかく教育で非常に厳しくして、落とすということを、現実としてかなり広くやるんだという考え方を意味する、あるいはそういう考え方が常識だということであったとしても、「指導教員や施設等の対応からほとんど不可能と考えられる」ということとのつながりが、なぜそうなかということがよくわからない。
  さらに、「受け皿の問題」もありとお書きでいらっしゃいますけれども、これも文部省で今まさに単位互換制をお進めになられていらっしゃるわけでして、受け皿、学校が変わるということをある程度前提に政策をお考えでいらっしゃると私は理解していますし、それから入学をした後、厳しくやって、その結果、留年が増えたとしても、定員の面でそれは配慮することも踏み切られたと私は理解しています。
  常識的に、「入りやすく出にくく」ということの意味からいえば、「不可能である」とお書きになる必要はなくて、もう少し書き方を変える。それから、「受け皿の問題」は今後ますますやっていくということで、「不可能」であるということの理由にはならないのではないだろうかという気がいたします。定義は何かという問題ですし、それから考え方の問題でもあると思います。

○  もう一つ申し上げようと思って忘れましたけれども、今の「入りやすく出にくく」というのが不可能だということで、入れた人は全部出すということでお考えでいらっしゃるとしたら、事態は今と変わらなくて、企業等が学校の名前で選ぶということを止められなくなってしまう。それは依然として続くということなので、そこにも問題があるのではないかという気がいたします。

○  この「入りやすく出にくく」というキャッチフレーズ自体が非常に誤解を生みやすいという、同様な懸念を感じておりました。また、「不可能と考えられる」と断定的にここで述べてしまうのも少し気がかりであります。

○  今の点に関して言えば、私も結論的にはあまりそういう議論を ―日本の大学は入りにくいけれども、出るのは安易に出られるというのは、一般的に国民にかなり受け入れられる。したがって、逆にせよというような主張はいろんな団体からなされている。これだけの理由でもって、不可能というふうな断定的な言い方をするのはやめたほうがいい。いろいろな問題があって、中央教育審議会として今回の答申の中でそういう考え方をとらないということを言うのであれば、それはそれで一つの考え方だと思いますけれども、まだまだこれは今後、議論を場合によってはまたすることも考えられますし、こういうふうな扱いは、中央教育審議会として言うべきことではないのではないかと思います。
  学校の改革あるいは入試選抜制度も含めて接続の問題等については、これは歴史もあるし、考えるほどあまりドラスチックにはできないということは、私もある意味ではよくわかります。しかし、課題の所在はある程度はっきりさせた上で、改善、改革は積み重ねていかなければならんというので、今回はこういう提言をするという、そういうスタンスに今までも立ってきた。ある程度実現の可能性も中央教育審議会は考えながら、第一次答申、第二次答申、あるいは地方教育行政の問題、心の教育の問題、この3年余りの間に数多くの答申や提言をしてきたわけですけれども、今回、これがこのまま出されるとすると、今までの第一次答申、第二次答申のスタンスから見ると、どうも中央教育審議会が立っている軸足がいま一つ鮮明でないという印象を全体的に持たざるを得ない心境に立たされています。
  それは例えば18歳人口の問題で、「全体としては」という表現があちこちにあるんです。あるいは、相当数の者はほとんど競争がないという形で、大学入学が全入時代に突入するというような前提が一つあるわけですけれども、現場の先生に聞いてみると、確かに入試が緩和されるという面と、今でも平均4校か5校ぐらいは滑りどめを含めて国立や私立を受けている。随分前のヒアリングのときに、過去10年ぐらいとってみれば、浪人して受験するという人は年々、ほとんどコンスタントに16〜17万人あるというお話等もありました。確かにいくつかの地方大学等について入試が緩和されるであろうというのは、数理統計的にはそのように予想されるわけですけれども、果たして全体として入試が緩和されるのかどうかについては、これもそのように断定した上で、したがって、勉強しなくても大学に入れるんだと。そこは削ってありますけれども、1点刻みのものはだめだと前段で言いながら、同じ文節の中の後段では、そういう大学があってもいいというふうに、評論家的にこういう意見もある、こういう意見もあるというように並列して、中央教育審議会として現状どういうふうに認識して、そのための是正改善をどのようにやろうかというところが、あまり定まっていないような感じを受けているんです。まだまだそこのところがいま一つはっきりしていないという印象をぬぐい去ることができません。
  なお、学力問題等については、中央教育審議会として、学力の現状についてこういうことを言うことは、私も全く賛成ですけれども、今後の課題として、例えば分数の計算が大学生でできないのがどの程度いるとかという京都大学のある先生の著書などもあります。小学校とか、中学校でのつまずきが原因になって、算数、数学が嫌いになったというようなことで、たしか第二次答申のときに、数学や物理ができる子を17歳から大学に行ける道を開くと同時に、そのときに逆に進度のおくれがちな子どもとか、遠回りしながらゆっくり学習していく子ども、むしろそういう子どもにもスポットを当てて、それぞれの個に応じた特別のティーム・ティーチングとか、グループ学習とか、いろんな指導方法の改善等をやりながら、進度のおくれがちな子どもについても、条件整備で教職員の配置の改善とか、そういうものをやるべきだということを言っているわけです。
  現状はおおむね学力について良好な関係にあるという、IEAとか、文部省の調査で言っていることはいいんですけれども、国民の間にもそういうあれがありますから、今後、さらにきめ細かい指導方法の改善等をしながら、学習につまずいて進度のおくれがちな子どもの問題についても、今以上に取組を強めていく必要があるということを、ある意味では入れたほうがいいのではないか。
  それから、大学入試については、最終的に大学審議会のほうに一定の枠組みを与えて、検討していただくということになっていますが、全体のトーンが、これまでの大学入試の歴史を翻って考えたときに、共通第一次学力試験、そして大学入試センター試験、もう10数年たつわけですけれども、そういう共通試験をなぜ個別大学の入試に任せないで、一定程度一次の試験としてやるようになったかということ等を考えれば、難問奇問が出たり、非常に偏った難しい試験があるということで、基礎・基本のところ、高校の到達度をある程度見る意味において共通試験が取り入れられてきています。どうも共通試験のウエートが低くなって、個別大学の入試に力点を置いたような全体のスタンスになっているので、その辺のところについては、前回も、共通試験としての大学入試センター試験の役割、地位を高めるようにし、また国公私立のかなりの部分が活用するようなことを政策的にやるべきだと。若干部分的に取り入れられている箇所もありますけれども、もう少しその辺のところが浮かび上がってくるような文章上の工夫ができないかということを、全体の印象として持っております。

○  全体的なトーンとして他の委員の方もおっしゃいましたが、全体のトーンが、個性、マッチングということからすると、これが全然不可能であるという言い方は、論理的にもつながらなくて、たとえある一定の共通一次の何点以上ということで入ったとして、たくさん入ってきますから、大学は大変かと思いますけれども、その中で、1年生の間に自分のマッチングというか、適性を探すやり方とか、その受け皿はいろいろ考えられるのではないかと思います。今まではそれができなくて、浪人という形で、アウトソーシングではないですけれども、自分のマッチングをただ1点刻みのところで、塾とかそういうところで探していたのではないかと思うのです。
  そういう意味では、行きましても、これは例えばの話ですけれども、自分はとてもついていけないなという授業に接する、そちらのほうが学生が自分の適性を発見する、納得する上でも適当なのではないかと思います。ですから、この文章全体をどういう観点で書かれたのか。この間も申し上げましたように、スマートなトーンで、もうちょっと文章も考えていただきたいと思います。
  それから、大学入試センター試験のところでは、「資格試験的な」という1行が入りましたことをとても感謝しております。
  ついでに申し上げさせていただくと、「高等教育の役割」についてですが、芸術というのは、私たちはその時代を見詰めているんですけれども、先見性をとらえるという特殊性があるわけです。芸能のほうはどうやら養成をやってきたんだけれども、芸術表現教育というのは、私はこれからの国際化時代にとても大事な教育の一つだと思うのですが、教員養成も含めて、芸術表現教育ということを書いていただきたい。いくら外国語ばかりしゃべっても、表現する内容がなければ何もならないんですよね。そういう意味で、例えば2001年にはイギリスにおける「ジャパンフェスティバル」もありまして、そこでどのような表現活動を出すのかということもありまして、具体的に人材に非常に困っているという現状があるわけです。その辺のところを、少し考えていただけると幸いでございます。

○  「入りやすく出にくく」する大学は不可能ということについて、他の委員の方々から、いろいろ御批判があるようでございますが、「指導教員や施設」等の問題からいけば、あるいはこういう大学はできるのかもしれない。しかし、指導教員や施設にもちろん問題もあるわけですが、それ以上に、多少大げさに言いますと、文化の問題までさかのぼる問題ではないかと思います。ですから、高等学校でも入りやすく出にくい高等学校はございませんし、勝手に学生が出ていくのはだいぶありますけれども。日本だけではなくて、韓国では一時は卒業率を7割にするというようなことを国の政策で始めたわけです、出にくくする大学。やはり続かなかったようですね。それから、実際、中にいれば、なかなかこれはやりづらいことである。もちろん相当厳しくはやりますけれども、やりづらいことである。
  もう一つは、日本の大学は私立大学が8割ですが、学生負担の問題もあると思うのです。卒業できなくて中退になりますと、それまでのお金がみんなむだになるわけです。いろいろ考えると、実際問題としては ―こういう努力をする必要はあると思って、今、卒業率がちょっと高過ぎるということは十分自覚しておりますけれども、「入りやすく出にくく」というのは、一つの文化の問題でなかなかうまくいかないのではないかと思います。
  それから、アメリカのこともありますけれども、アメリカでもアイビーリーグの大学などは、アンダーグラジュエートの課程でも、入学試験というか入学選抜のところは難しいけれども、卒業率は大体8割、9割となっております。それから、州立大学、その他の大学では、確かに6割ぐらいというところが多いようですが、そこについては、既にいろいろな手だてが行われている。そういうことで、別の学校へ行って、別の学校を出たといっても、その人が生涯恥ずかしいとか、そういうようなことを感ずる国ではありません。こういう要素があるということはわかっていただきたいと思います。

○  「入学者選抜の改善で目指すべき方向」というところですが、ここは繰り返し読んでも焦点がはっきりしないところがございます。一つは、第2段落目の、「相互選択」というところにあろうかと思います。
  その次の「高等教育」の段落は、受験生の側の変化ということを述べているんだろうと思います。
  それから、「一方……」のところは、こういうことがあっても、大学のほうはより望ましい学生を選抜することが重要なんだと、大学側の文脈で書かれている感じがします。
 ですから、全体として焦点化した記述にしたらよりわかりやすくなるのではなかろうか。やや同じことを繰り返し言っている側面もありますので、整理することもできるのではないかと思います。以上です。

○  細かいところからいきますと、「大学と学生とのよりよい相互選択を目指して」のところで、これは数字の問題ですので、ちょっと気になったので、確認をいただきたいと思います。「臨時的定員の半数を解消した場合、収容力(入学者数を全志願者数で除したもの)は平成21年度には100%に達し」というところに、「平成21年度」という数字が出てきますが、この「半数を解消した」年度が平成21年度に当たるという意味合いなのかどうか。これは数字の問題ですので、確認をいただきたいと思います。もっと早い時期に臨時的定員が解消されるのではないかと考えていたんです。錯覚を与えないようにという意味でございます。それが1点です。
  それから、「マッチング」のところで、要するに大学がどういう学生を大学の中で育てたいか。ですから、入口でこんな能力、出口はここまで連れていくつもりという、それがおそらくこの中であちこちに分散された形で出てくるキーなんだと思います。マッチングのレベルでここでもう1回言っちゃうと重複になる嫌いもあるんですが、項目が相互選択のマッチングというところですので、ここだけ見たときに、もうちょっと具体的に書かれていたほうがいいのかなという気がいたします。要は、前に申し上げたことがあるかと思いますが、レベルのことが書かれていないという意味です。ですから、学生をうちは富士山の頂上まで連れていくつもりです、うちはその辺の郊外の丘の上まで連れていくつもりですということで、いろんな大学があっていいわけですが、到達目標をにらんで学生が自らの進路を選んでいくようなマッチングという姿がもうちょっと鮮明なほうがいいという感想でございます。

○  過日、高等学校の進路指導の関係者が集まられた研修会がありまして、私もそのシンポジウムに引っ張り出されて参加してきたのですが、そこで高校の進路指導主任の先生方が実際にどういうことで困っていらっしゃるのか、いろいろな議論が出ました。その中で、一つは、高等学校の進路指導体制の中心になっている進路指導主任の先生方がいろいろなことをやっているわけですが、そこにどうしても大学側に協力してもらいたいということがいろいろある。けれども、協力してもらえる仕方に、まず大学間とか学部間の温度差があって、気持ちよく受け入れてもらえるようなこともあるけれども、なかなか実際難しいところがあって、どうしてあんなに大学や学部によって対応の仕方が違うんですかということを聞かれて、私もちょっと答えようがなかった。
  大学側が高等学校の進路指導に協力していくために、具体的に何をしなければいけないのか、組織のどういうところを改善して、どういうふうなことをプログラムに組んで、あるいは予算化してというんでしょうか、大学の行事の中に入れてというのか、そういうところをもう少し具体的に考えていかなければいけないのではないかと思います。ここでは「連携協議会」というふうに具体的な提案が出ていまして、これは非常にいいことだと思いますが、大学入試の在り方が高等学校全体を引っ張ってきてといいますか、ある意味ではそれが本来の高校の姿をゆがめざるを得ないような状況にしてきたということも考えますと、大学関係者が高校教育を正常化した姿に戻していくために、一体何をしなければいけないのかということを考えてみる必要がある。そこのところを中央教育審議会の中で、強いインパクトのある言葉で表現してもいいのではないか。一つはそういうことを感じました。
  それから、アドミッション・オフィス入試について、例を紹介しながら、こういう形で選抜入試の視点を変えていくようなことを考えていかなくちゃいけないだろうという話をしていたわけです。結局のところ、高校の先生方から見れば、そういうのが大学側の青田刈りのいわば手段に使われる。あるいは、ただ自分の大学・学部にとって都合のよいといいいますか、求めているような学生を効率的にうまく採るために使われてしまうのではないかという不安があります。
  つまり、大学側から見れば、それは改革の重要なやり方として意味があると思うのですが、それを実際に機能していく現場の側から見れば、進学者のごく一部のところにかかわってくる問題で、それが高等学校の第1学年の入学の段階から、実は個別的な大学と交渉が始まって、交渉は直接しないでしょうけれども、そういうことで関係が出てくるといいますか、例えばあの大学のあの学部へ行こうということで、そういうことが高校全体に広まっていく、高校生の意識を変えていくようなことになってくると、高校としては困る面が出てくる。我々はそれは当然いいことだろうと思ってやっていることが、結果的に高校教育全体から見れば、そこのところは高校のサイドからもう一度見直さなければならんということもあるわけです。そういうことを研修会でちょっと感じました。
  ですから、高校教育をどうして正常化していったらいいのか。そのために、大学はこういう視点を持たなければいけないということは、インパクトの強い言葉で表現してもいいのではないかという感想であります。

○  2点ほどございますが、「各学校段階ごとの到達度評価」というのは、中学校、高等学校、それぞれにおける調査書とは別に、到達度評価という考え方を各学校が意識的に入れるということでありまして、中学校・高等学校も同じような意味で、これからは学習指導要領の縛りがなくなってきますので、それを各学校がかなり強く意識しないとぐあいが悪いということを強く主張したいわけでございます。そのために、そういう方向に現場が行くといいなと思っております。
  それから、「入りやすく出にくい」という大学の話ですが、現実に既に日本には入りやすく出にくい大学があるわけです。放送大学という大学があるわけですが、実はそれは入試の改善にはほとんど役に立っていないという実態があるわけです。ですので、そういう意味で言うと、「入りやすく出にくく」するということは、入学者選抜の改善策としては万能薬にはなり得ないんだということを指摘することが大事ではないかと思います。
  それでは、全部の大学を「入りやすく出にくく」しろという話は、現実問題としては、ここに書いてありますように不可能と言うと言い過ぎかもしれませんが、実際は無理な話ということはだれもわかっていることなので、そういう考え方がすべてを解決するというようなことを考えないようにしないと、よりよい改善にならないのではないかということは触れておいたほうがいいのではないかと、表現がなかなか難しいと思いますけれども、現実に放送大学をやって20年近くなるんでしょうか、たしかそうですね。あそこは希望者を全員入れて、出るのはかなり厳しいわけです。しかし、入試改善にはほとんど役に立っていないという実態があるわけです。それは日本の社会の経験ですので、そのことを指摘しておくことも大切ではないかという気がしておりました。

○  同じことを3回目申し上げることになるんですけれども、私は今回の中間報告で一番大事なのは、「第1章」の「検討の視点」というところの構造を見るとわかるんですが、ここで戦後半世紀の教育の歴史を振り返って、そこから課題を述べるというところから始まっている。それを受けて、「第2章」以降のいろいろな分析と最終的な提言が出ている、こういう構造になっていると思うのです。そういたしますと、「第1章」の「第2節 検討課題」というところに挙げてあることが、本当に我々の問題意識を全部反映しているかどうかというのが問題になって、そのことをいろいろな形で皆さんおっしゃっているように思えるのです。
  「検討課題」のところを実際に見てみますと、「これまで以上に多様な能力、履修歴等を有する学生が大学に進学してくることが予想される。このような状況を踏まえると、『接続』の課題として、次のようなものが考えられる」。実はまずここに一つ問題がありまして、「能力、履修歴等を有する学生が」とありますが、実は「個人の多様な能力・適性、意欲・関心等」、多様化していくのは能力・適性、意欲・関心であることが前もって述べられています。この四つのキーワードはあちこちに出てくるわけです。実はこの中で、入試をどうするかということにかかわるのは、能力の多様化、それから意欲の多様化も関係あるかもしれません。しかし、入試を改善したり、あるいは今までの接続を今回述べているような形で改善するだけでは解決しないのは、関心の多様化と適性の多様化だと思います。
  それであるがゆえに、私は同じことを繰り返して申し上げるんですが、最終的な解決の一つは、たぶん教育システム全体の複線化ではないかと思います。今回、複線化ということを大々的にうたうことはできないにしても、将来の課題として挙げておくことが必要なのではないかと思います。
  そこで、まず第1の課題は「自ら学び、自ら考える力」と「課題探求能力」を育成する、それを軸にした教育だというわけです。これはこれで大体わかります。
  その次、後期中等教育段階、つまり高等学校段階における多様性と高等教育段階、つまり大学における多様性との接続ということを言っているんです。じゃ何を言っているのか見てみますと、「このような多様な能力・適性、意欲・関心、履修歴」と、今度は全部挙げているわけです。これを「有する学生が大学に進学していることを踏まえ」、つまり能力と適性と意欲と関心と履修歴が多様化しているわけです。それを踏まえるわけです。そして、「高等学校における進路指導や学習指導」、これは非常に重要です。多様化しているからこそ、進路指導はそれに対応しなければいけない。だけど、多様化している進路指導を持っていく先が、今までと同じシステムであればどうにもしょうがないわけです。ところが、持っていく先については何て書いてあるかといいますと、その先に「大学の教育内容、教育方法等もこれまで以上に生徒・学生個人に応じたものとなるとともに」と、大学は大学で受け皿のほうでまた多様化しておいてくれと言っているわけですが、制度として今までと同じ大学で、同じ教授会で、中でほどほどの教育内容の改善をするだけでは、国の仕事のどこを担おうかという関心、自分は人生どこの分野で生きていこうかという関心の多様化、あるいは決意の多様化に対応しきれないのではないかということです。

○  学校制度が戦後、単線型で出発して、高等専門学校ができ、そして第二次答申で言った選択的導入としての6年制中等教育学校、これは一種の細いバイパスみたいなもので、必ずしも複線とは言えないものですから、そういうことを考えると、今後の検討課題として他の委員の方がおっしゃることは、そういう意味でももっともなことですけれども、この小委員会で全体を複線化するということについて、これまで必ずしも十分意見が交わされたというふうにも認識していませんので、今後、中央教育審議会としてこの答申が仮に終わった場合に、次に何を検討していくかという意味での検討課題として、どこかにそういうことを挿入するということについては私は異論はありませんが、ほかの委員の先生方はどうお考えなのか。
  それから、大学は一つのある意味でコミュニティを形成しているわけでなので、アメリカでよく言われますが、ある程度人種とか、男女の性別の問題とか、障害者の問題等を含めて、社会を構成している人が、大学にもある程度反映して入れるようにということで、よく言われるアファーマティブ・アクション。私は男女の問題は日本は解決していると思って、あるところでそういう話をしたら、大学の女の先生から、「いや、それは認識不足だ」と。短期大学を含めて統計を出すからあれだけれども、四年制の大学で見ると、女性はいくつかの学部にはかなり入ってくるようになっているけれども、全体として四年制大学の女性の占める比率は、日本の場合はシェアが低い。障害者の問題とか、男女の性別の問題とか、今後、多国籍の人が日本にも入ってくる、留学生も増えるということになると、大学で地域を配慮して、都道府県の大学等についてはその県の人もかなり入れるように考慮すべきだと思います。

○  「各学校段階ごとの到達度評価」について、よろしいのではないかという御意見がいつくかあったように思いますが、小学校・中学校の立場から到達度評価を考えていきますと、よくわからないというところがあるのではないか。
  まず、「当該学校段階の教育目標」がどうもはっきりしない。例えば、小学校の目標とか、中学校の目標というのは、法律に書かれているわけです。しかも極めて大綱的というか、概括的な書かれ方がされているわけです。これをどう到達目標に置き換えていくかということですが、各学校ごとにそれぞれの学校の実態を踏まえ各学校段階ごとの達成度評価といったとき到達目標を設定することになります。目標は学校の実態とは直接関わらないことになります。しかし、教育は実態に即して行われなければなりません。しかし各学校ごとに異なる目標の達成度評価を行ったとしても、学校間で比較はできなくなります。
  教科については、現在行われている5段階相対評価や観点別の評価がどうも評価としての機能を十分果たしていないように思います。それぞれの子どもの学習のフィードバック情報としての評価が、教育評価の本来の在り方ではないかという議論が盛んに行われています。このことについては、以前に他の委員の方が、選抜のための評価が教育の評価に置き換えられてしまっているところに一つの大きな問題があるという御指摘をされていました。
  最後に、「発達段階に応じた教育目標」についてです。これは私は専門ではありませんのでよくわかりませんが、「発達段階」という言葉を最近は意識的に使われないようになってきているように思います。人間の発達はスパイラルに、しかも行きつ戻りつでいくもので、段階というまるで階段を上るような形で、子どもの発達が進んでいくということは通常はあり得ないんだという一つの考え方なのかなと思っています。特に中学生の段階では、個によって、また個人内において発達の多様性が大きくなってきているわけです。個によって発達が多様化しているとき、発達段階という一つの切り口から一律に評価することが果たしてどうなのかという疑問を持っています。評価をしなくていいとは思いませんが、果たしてどういう評価を「各学校段階ごとの到達度評価」で期待をするのか、もう少し鮮明に出しておかないと、賛否の言いようがないかなと思っているわけであります。イメージがわきにくいなという感じがしております。

○  中間まとめの全般的な流れについてですが、私は最初、現在の高等学校の状況がどうなっているかということを述べました。そしてこの、非常に多様化している高等学校の状況を受けて、高等教育機関への接続についての様々な提言は、高等学校側がお願いした内容が、随所に述べられており、私たちの考え方を受け入れてくださっているということについては、非常に感謝しております。特にそれぞれの学力段階、あるいは興味・適性・関心など複雑な状況に置かれている生徒に対して、それぞれ個性を持った生徒を大学が様々な選抜方法で受け入れる努力をしなければならないということが、アドミッション・オフィス入試を含めていろいろと述べられております。特に新学習指導要領に盛り込まれている「総合的な学習の時間」の成果等も、接続において十分評価しなければならないということを述べておられることに対しましては大変感謝しております。さらに、接続について今後研究を、深めていくことも言及されておりますので、ぜひそのようにしていただきたいと思います。
  また、高等学校の進路担当の先生方の御意見を聞いて、切実に感じたことと一致しますが、高等学校と大学関係者が相互理解を促進させるために「連携協議会」をつくっていくという、一つの文言が述べられていることと関連して、このことを更に補強してもらいたいと思います。現在、高等学校関係者と国立大学協会の関係では、入試改善等も含めて、どのように双方が連携していったらいいかということについて、定期的に協議をしております。また、大学入試センター試験においても、高等学校側の要望等について、毎年話し合う場があり、私たちの意見が反映されております。
  しかし、我が国の大学は8割が私立大学であります。私立大学協会がありますが定期的に話し合う関係は現在できておりません。かつて、私立大学協会へ、ぜひ入試等にかかわる問題について話し合いをしたいということを申し入れたことがありますが、現在、私立大学協会等と高等学校の関係者の、話し合う機会は持てておりません。しかし、それぞれの地域の大学と地域の高等学校の代表が話し合う機会は、ここ2、3年ですけれども、少しずつ進み始めております。ぜひ私立大学も含めて、今後、具体的な文言として、例えば「入試改善検討委員会」のような機関を恒常的に設置するというような内容について言及していただけたら幸いです。私立大学と高等学校の接続も非常に大事だと思っておりますので、ぜひ「連携協議会」以上に踏み込んだ文言で表現していただきたいと思っております。
  さらに到達度評価についてもう一度発言しますが、他の委員の方がおっしゃいましたように、到達度評価の内容がはっきりしていない現段階で、この内容を盛り込むことは問題であるという御指摘がありましたように、私も我が国においては、この研究が十分進んでいない中で、一律的に実施するということについては言及しないで、「今後の課題」であるくらいの表現で止めておくことでよいと思っております。

○  今回の中間報告の中で、大学の側はアドミッション・ポリシーを明確にしろということが盛られているわけです。これに対応して、例えば高校と大学の接続という観点で考えれば、高等学校のほうにつきましても、到達度評価を明確にするという要請ができないものかと思います。これまで大学の評価というのが、ともすると入学難易度といいますか、入試関連のことの評価でされてしまうという風潮がありました。同様に、高等学校の評価もまた進学実績で見られてしまうことも事実だったと思います。
  高等学校の多様化については、到達度評価のところでも、これは様々な議論を重ねられてきたわけですが、気がかりなのは、高等学校の多様化が、多様化とは言いながら、実際には受験シフトの多様化というところに帰着しているケースがじつに多い。これに対して何らかの歯止めを掛けられないかということ、あるいはそういう表現が必要ではないかということを申し上げたいと思います。
  以前、他の委員の方から到達度評価を考える際に、高等学校教育、あるいはそれぞれの教育段階におけるアカウンタビリティーという観点が大事なのだというお話が出ました。高等学校の多様化を論としてはっきり打ち出すのであれば、それに関してのある種のアカウンタビリティーをそれぞれの教育段階、とりわけ高等学校がそれに対しての説明責任をはっきり負う。そういうことが必要なのではないかと思います。その上において、高等学校における到達度評価、あるいは多様化に対しての説明責任と大学における入学ポリシーをどのように整合させていくかということが、初めてシステムとして現実的な可能性を持ってくるという感じがいたします。
  繰り返しますけれども、高等学校における多様化に関して歯止めをというのは時代に逆行して言葉が適切でないかもしれません。しかし、単に高等学校の責任において到達度を評価する、あるいは卒業を認定するというだけでは事態の改善に不足のように思います。報告の中では卒業に対しての説明責任ということは表現されていたかと思いますが、社会に対して高等学校教育の到達度評価に関する説明責任をどういう形で明らかにするのか、もう少し具体的な内容が加えられることを希望したいと思います。

○  「入りやすく出にくく」というところの文章は二つの側面を持っていまして、一つは、入学者選抜の抜本的な改善策として「入りやすく出にくく」というのがどうかという話と、二つ目はそれが与える意味合いとして出にくい大学 ―入りやすいほうはおいておきまして、出にくい大学が否定されてしまっているように読めるということが問題だという気がします。
  入学者選抜として「入りやすく出にくく」が抜本的な改善策になるかならないかというのは、少なくとも、二つを否定しておいて、三つ目のところがいいという文章の構造をつくっていらっしゃるわけですけれども、不可能であるとか何とかということではなくて、「A」がだめだから「B」がいいということではなくて、「B」のほうは「A」よりもいいという言い方は文章上できるんだろうという気がいたします。いずれにしても、「入りやすく出にくく」という言葉の定義をはっきりさせないで、不可能だと言っているところが問題だというのは、入学選抜の抜本的な改善策としての話であるわけです。
  2番目の点として、大学の教育自体が出にくいということは、大学教育について否定してしまっているというふうに思われるというのが非常に大きな問題だろうと思います。出にくいかどうかというのは、事後的に言えることでありまして、初めに「出にくい」ありきということではないわけだと思います。ここでイシューは、大学が、入った学生を目的とする、富士山なのか愛宕山なのか知りませんが、そこに連れていく。何をやって連れていこうかという考え方を明確にしておくということであって、この中間報告ではそこが全体として明確に出ていないと思います。その部分が、他の委員の御発言の趣旨だと思いますけれども、そこが日本的な文化であり、あるいは敗者を出さないというのがやり方だということでおっしゃってらっしゃるんでしたら、世の中だいぶ変わってきていますし、逆に大学から、こういう生徒を育てるというその到達目標の考え方が明示的に出されない限りは、社会はそれを信用しないし、企業は大学の名前、すなわち入る前の潜在的な能力で就職試験を選ぶということになってしまうということであると思います。
  ですから、結果的に大学が何をして、大学が思っている質を維持しようと考えているのかということがここのイシューであって、中に入った人を落とすことなるのが社会的に問題かどうかということについては、入学試験の段階で既に落とされている敗者が出ているわけですし、企業に入って最初の数年間でやめる人が最近増えていますが、それもそれ自体が問題ではなくて、その結果、もしそれぞれの個人がより自分がやりたいと思う仕事に就くことができれば、この間テレビでもやっていましたけれども、むしろいいわけです。考え方としては、そういう受け皿を整備する、単位の互換制をちゃんとやっておくということで考えるべき問題です。ここのところは、その2つがごちゃまぜにならないようにきちんと書き分けることが必要だと思います。

○  今の出口問題は、私は各大学で、大学の多様性と言われている言葉の中に、出口の管理レベルの多様性もあると思うのですが、もう一方で、この席で前に発言申し上げましたが、国際的に通用するエンジニアという問題を、今、工学部関連は抱えております。日本が勝手にあるスタンダードを決めたときに、おたくのは国際水準に達していないですよという判定が下る、そういう外圧もありますので、分野によってまちまちではございますが、そういう意味でこの出口問題は、私も何らかの形で明示する必要があるということを申し上げたいと思います。
  そのほか、いくつか気がついた点について御検討いただければと思います。平成7年に実施された「第3回IEA国際数学・理科教育調査」(国立教育研究所)の結果によりますと、小学校・中学校段階の児童・生徒の学力は、これは依然としてトップクラスにあるというのは御同慶の至りですが、一方、IEAの同調査の算数・数学や理科に対する態度の調査で、国際的に逆にこっちは低いという、これが大変気がかりなデータでして、事実はそれで結構ですが、申し上げたいポイントは、たぶん成績がよかったのは、児童・生徒がよく覚えていたからだと思うのです。ところが、態度がどうもおかしいというのは考えていないからだと思うのです。初等中等教育で大きな柱が、「自ら学び、自ら考える」というところに置いていながら、どうもこの結果は考えるほうのレベルが低いのではないかという懸念を持っておりますのと、その後引き受けた大学側として、大学側の学生のレベルが下がったか上がったかという議論があるわけですが、現場にいる者から見て、非常に大きな弱点は、自ら考えることなんです。そういうところに欠点があります。
  このデータに基づいて、御提言申し上げたいのは、学部段階の教育の話が出てまいります。「学校段階においては、初等中等教育における自ら学び、自ら考える力の育成を基礎に」とありますが、ここまではできていることを前提として、「『課題探求能力の育成』を重視する」と続いておりますが、私はどうもこの考える力の育成が十分ではないのではないか。例えば、大学受験でよく聞く話ですが、数学さえ暗記科目であるという言い方があります。数学は最も考える力の育成に重要な科目であると思うのです、論理的思考が要りますから。ところが、あれさえ暗記科目であるという受験生の対応は、考える力のところが極めて不十分だろうと思います。大学へ来て一所懸命そのリカバリーをしようとするときに、「育成を図る観点から、教養教育を重視するとともに」というので、まさに私は大賛成ですが、ここのところにあえて文言を加えて、今の視点を御検討いただければと思います。例えば、「より高度の考える力の育成を目指した教養教育」など。教養教育全部が考える力ではありませんが、この中に哲学とか、倫理の科目が当然入ってくるわけですが、それを重視する教育がどうしてもここで要るのではないかと思います。
  それから、「課題探求能力」という言い方が「主体的に変化に対応し、自ら将来の課題を探求し、その課題に対して幅広い視野から柔軟かつ総合的な判断を下すことのできる力」と説明されておりますが、世の中でこの「課題探求能力」という表現がどれぐらい簡単に受け入れられるかと考えたときに、私は、これはそんなにわかりのいい言葉ではないなと懸念しているんです。要は説明いただいている言葉は、事に当たって戦略を立てる能力と言い換えてもいいぐらいの内容だと思います。そうしますと、戦略を立てる能力の根幹は、やはり哲学であり、倫理学であり、世界観なわけですので、何かここら辺の表現の工夫をお願いできればというのが、考える力との接点で大学との関連がありますので、御検討をお願いできればと思います。
  「大学や研究所との連携を図りつつ」という書き方が、この文章の主語は、おそらくこれは文部省の審議機関の答申ですので、「文部省は」というのがたぶん主語なんだろうと思います。それでこうなっているのかと思いますが、「大学」はいいんですが、「研究所」を「研究機関」として広くしていただいたほうが、例えばこれは企業の研究所も含むと考えなければなりませんので、「大学や研究機関との連携」というふうにお願いできればと思います。
  さらに、ここも大学との接点で申し上げたいと思いますが、「企業等における採用の改善」のところです。この答申は大学院のことまで全部視野に入れていますので、「採用に当たって学生の属する大学(学部・学科)の教育目標、教育内容、教育方法の特色を考慮することが望まれる」の「学部」の前に「研究科」と入れていただければ大学院まで入りますので、ここを一つ補っていただければと思います。

○  現段階においては、大まかに言ってこれでよろしいのかなという印象を持ちつつ、大変細かいことで申しわけないんですけれども、気になる点が一つございました。「学力検査による一点刻みの選抜を行うところがあってもいいし、それ以外の多様な尺度による選抜を行うところがあってもよく、様々な選抜方法を許容することが必要である。」という表現のところですけれども、実は第二次答申において、ペーパーテストによる学力検査の1点差による合否を決める云々ということを変えていく、つまり、1点刻みの合否判定は好ましくないということを一旦打ち出しているわけですので、受け取りようによっては、意に反した取り方も考えられなくはないので、文言上の整理で済むのではないかとも思われますけれども、変更できるのであれば変更していただきたいと思います。
  それから、今後の検討課題として、例えば最終答申の「おわりに」というところあたりにでも、これからさらに詰めていく課題はあるのだという趣旨のことをやはり述べるべきではなかろうかと思います。例えば、この会議に初めて参加したころは、初等中等教育と高等教育の役割の明確化という言葉がある以上、場合によっては、学校教育法の各学校段階における目的あるいは目標に対しても踏み込んでいくなど、場合によっては、学校教育法の一部改正もあり得るのかなという印象を持っておりましたけれども、どうもそうはいきそうにないような気配なわけです。あるいは、学校教育法には初等もしくは中等教育を「施す」といったような言葉があるわけで、私は個人的には違和感を持ってこの言葉を受けとめています。そういったような意味を含めて、さらにまだまだいろいろな点で検討すべき課題があるということを、最終答申あたりで述べてみるのも一つの方法ではなかろうかと思います。もっと過激なことを申し上げれば、義務教育における子どもの権利、親の就学させる義務、あるいは行政の責務、権能との関係の見直し、洗い直しまでも視野に入れて、さらに検討を加えていくというような姿勢があっても構わないのではないかと私は考えております。いずれにしましても、中間段階では必要ないことでありましょうけれども、最終段階ではそのような趣旨のことがちらりと顔を出していけばよろしいのではないかと考えます。

○  例えば何人かの方がおっしゃっているように、アドミッション・オフィス入試が青田刈りにならないかという心配がされているわけで、その辺のところを具体的に、そういう心配もあるしということを書いていただいたほうがいいのではないかと思います。今後の課題であるとしても、これは大事に育てていかなければいけないがゆえに、青田刈りになるような心配は避けなければいけないといったようなことをお願いしたいと思います。
  もう一つ、アドミッション・オフィス入試が大変大きくなるんでしょうけれども、何とか大学入試センター試験とセットにして考える、これは非常に難しいことですけれども、アドミッション・オフィス入試にすることによって何もかも学力検査的なものがなくなっちゃってという心配をするものですから、アドミッション・オフィス入試の中にできるだけ大学入試センター試験の成績を一つの材料として活用することを進めたいとか、そんな文言がどこかに入らないかと思っているところです。

○  今のアドミッション・オフィス入試の中に大学入試センター試験を取り込むという意見について、私もセカンドしたいと思います。私の聞いた話ですが、ある大学のアドミッション・オフィス入試で大学入試センター試験終了直後に、大学入試センター試験の成績と小論文と面接で行われる、そのように規格化されておりますので、私もそのようにお願いいたしたいと思います。

○木村座長  ありがとうございました。
  一わたり御意見をいただきました。これまで中央教育審議会では、答申をとりまとめる際には、「一日中教審」等を開催して議論を公にしたり、国民や企業などから意見を募集したりして、答申にむけてのとりまとめを行ってまいりました。今回はどのようにするのか、その辺について事務局から説明願います。

○事務局  中間報告が出ましたところで、もちろん社会にそれをお知らせする。それから、従来までの中央教育審議会の時代にはなかった制度としてパブリックコメントという新しい制度が行政機関全体に導入されておりまして、そういう場にもさらしていくということでございます。また、関係団体からは書面、あるいは文部省に対する御意見等をちょうだいして、それを整理して、それをまた総会に御報告していく中で、反映された形で進めてまいりたいと考えております。

○  これは今までやってまいりましたいろいろな答申の集大成という形で出ていくものと理解しておりまして、大学への接続の問題というのは、幼児期から始まりましていろいろなセクターの総合化されたものだというとらえ方であるべきで、そういう点では、今回の中間報告案もそういう方向になっているので、大変結構だと思っております。
  一方、この内容は今後10年、あるいは15年ぐらいのスパンで考えるべきものではないかという視点が必要ではないかと思います。冒頭、臨時教育審議会の動きとか、いろいろずうっと書いてございますが、教育基本法は昭和23年ですか、それが出まして、そのころ我々の先輩が大変熱心な論議を重ねて、日本の教育基本法というのができたわけでございまして、その第1条に教育の目的を「人格の完成」というふうに明記してあるわけです。これがまさに21世紀に向かって、日本の教育において最も大事な、もちろん知的ないしは技術の面で国際競争力を得なければなりませんけれども、一番大事なことはこの「人格の完成」だと私は思っております。最近の東海村事件、あるいは山陽新幹線のトンネル事件等々、これは一種の先進国の衰退的な現象かというような受けとめ方もしておりまして、そういったことを考えますと、基本法の原点である「人格の完成」というものに思いをはせる必要があるのではないかと考えるわけでございます。
  そして、昭和60年代でございますか、臨事教育審議会の答申が4回にわたって出てきた。この答申も、教育基本法の精神を受けて、個性の重視、あるいは国際化、情報化に対する対応、生涯教育というような、今にして思えば、十四、五年前に割合と問題点を列記して対応したんだなという感じはいたします。その線に沿って今までずうっと文部省もやられてきたように書いてございますが、この15年間に社会がどのように変わり、そしてこれからの15年間どう変わっていくのか。そういうものに対する我々の答申であるべきだと私は思います。
  何回もここで申し上げてまいりましたが、これからの問題、あるいは今の問題を考えますと、まさに経済は市場主義がいかにも万能であるかのごとく謳歌されております。しかし、これは欲望は正義なりというような極端なことにもなりかねないので、そこにはおのずから一つの道徳的な規律がなければならない。また、情報通信化が進展するのは明らかでございまして、巨大なインパクトを我々の社会に与えることになると思いますが、既に私が警告しましたように、中学生、高校生がインターネットを使って詐欺事件を起こすとか、あるいはバーチャルリアリティーの世界にのめり込んで飛行機をハイジャックするとか、そういう現象が社会的に起きてきているわけでございます。つまり、プラスの面もあるけれども、21世紀に向かって非常にリスキーな社会に入っている。そういった人間疎外の問題を、教育面においていかに排除していくか。この視点は結局、「人格の完成」ということにまた戻っていくわけでございまして、私はこの点を再度強調していただきたいということでございます。
  高校までのこれらへの対応につきましては、初等中等教育の役割にいろいろ書いてございますが、先ほども他の委員の方が言われましたが、高等教育の役割の大学のところでは、もう少しこういった問題に触れてもよろしいのではないかという感じがしております。別の見方をいたしますと、1968年から1969年が大学紛争で、あのころまでは学生はまじめに本を読んで、そして思想的に、あるいは哲学的な本にものめり込んでおったと思うのですが、大学紛争がああいうようなことで終わりまして、1970年代に入ると、そういったものが何か白けといいますか、反教養主義あるいは反知識主義、そしていずれ漫画を読みふけるというようなことになっていく。1980年代に入りまして、これは世界的に先進国の現象でございますが、教育危機が叫ばれて、臨事教育審議会があのような答申を出した。その後、中央教育審議会をはじめ、各種の文部省の審議会がいろいろな答申を出してまいりました。それが現在の状況だと思うのです。
  そういった過程を考えると、学生諸君に対して何が必要なのかということになるわけでございますが、ここで非常に大事なことは、先ほども申し上げた追求すべき価値の問題と同時に、学生諸君の思考方法ということで言うと、自ら学び自ら考える、あるいは課題探求能力というようなことになるかと思います。先ほども他の委員の方が言われた問題探求能力ということを、私は私なりに戦略的な構想力というふうに理解しているわけでございまして、ドイツ語のアインビルディングスクラフト、あるいは英語のイマジネーション、そして考える力とか思考方法というのは、ウエー・オブ・シンキングというようなことではないかと私なりに理解しておるんです。文部省の事務局の方もそういったような理解でよろしいかどうか。この辺、既にいろいろな答申の過程で使ってきた言葉でございますけれども、最終的に修正するところがあれば修正してもよろしいのではないかと思います。
  そして、最後になりましたけれども、この答申と同時に、学習指導要領が大変大事なものになっているというのを、私がこの審議会の委員になってようやくわかってきたわけでございまして、これらの答申を受けて、これから平成14年ですか、新しい学習指導要領も出てくるわけでございます。今までの各種の答申、委員の方が一所懸命になって出してきたわけでして、それが具体的にどのように学習指導要領に取り上げられたとか、あるいは実際に学校の教育システムの中で取り上げられてきたのかという、そういう一覧表を我々委員にお配り下さい。我々は月に3回ぐらいやっているわけですね。大変なエナジーを皆さん注いでいるわけで、そういったものに対するリザルト・チェッキングを文部省のほうから出していただくと、なるほど、こういうふうにやってくれているんだなということになるので、非常に参考になるのではないかと思います。

○木村座長   本日はどうもありがとうございました。

(大臣官房政策課)

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