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中央教育審議会

 1999/9 議事録 
初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会 (第18回)議事録 

 中央教育審議会

初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会(第18回)

議  事  録


平成11年9月6日(月)  13:00〜15:00
ホテルフロラシオン青山  1階  ふじの間  


1.開  会
2.議  題
    「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」
3.閉  会


出  席  者

委  員
鳥居副会長、木村座長、川口委員、田村委員、永井(多)委員、松井委員、横山委員

専門委員
荒井専門委員、安齋専門委員、岡本専門委員、小川専門委員、工藤専門委員、杉田専門委員、橋口専門委員、久野専門委員、山極専門委員、山口専門委員

事務局
佐藤事務次官、富岡生涯学習局長、御手洗初等中等教育局長、金森高等学校課長、田中審議官(教育助成局担当)、佐々木高等教育局長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官


○木村座長  それでは、時間になりましたので、ただ今から中央教育審議会「初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会」第18回会議、第17期としては第11回になりますが、開催させていただきます。
  本日は、お忙しい中、本会に御出席を賜りましてありがとうございました。
  今日は、御覧いただきますとおり、結婚式場でありますので、華やかに議論をしていただければと思います。よろしくお願いいたします。
  それでは、まず事務局から資料の確認をお願いいたします。

<事務局より説明>

○木村座長  それでは、早速でございますが、本日の審議に入らせていただきます。

○  二つあります。中学校教育は、義務教育の性格と中等教育の前期としての性格という二つの相異なる性格を出発の段階から持っていたわけです。しかし、ある時期までは、義務教育の延長として考えることのほうがむしろ妥当であるということであったわけでありますが、子どもたちの発達加速現象が必ずしもそれを許さなくなってきています。中学校における子どもたちの能力・適性の多様化は、10年前と比べると非常に加速しているわけであります。
  今回の教育課程の改訂は、どちらかといえば今まで義務教育のほうにウエートをかけていた中学校教育を、中等教育の前期のほうにウエートをかけてみてはどうだろうかというものだと思う。もちろん中学校教育は義務教育ですから、義務教育をやめろということではなく、もう少し多様化のほうにウエートをかけてはどうかということです。こういうことが実は今度の改訂の中に既に盛り込まれていると私は理解をしているわけです。選択履修幅の拡大というのはまさにそのことです。ここに盛り込まれた内容には、前期中等教育としての中学校の性格を、今までと同じような形で義務教育の枠の中にとじ込めておくというような印象を非常に強く受けるということが第1点であります。
  もう一つは、それほど大事なことではありませんが、「国語の重要性と外国語の必要性」や「論理的思考力や科学的思考力」についてです。私は論理的な思考力というのは、むしろ日本語の文章を書くことによって培われるのではないかと考えているわけです。「論理的思考力」=「理数」というこの発想は極めて古典的ではないかと考えているわけです。表現をどう盛り込むかということは別にしても、「論理的思考力や科学的思考力」ということは、それを理数科という枠の中にとじ込めておくような発想が非常に強いかなという気がしてならないので、ここは学習指導要領全体の問題として、中央教育審議会だけで話題にはできないかと思いますが、もう1回考え直してもいいのではないかと考えております。

○  一つ加えられないものかなというポイントですが、帰国生徒の教育が我が国の教育に与える影響という問題点です。相当の数の生徒が帰国の形で違った文化を体験して、我が国の教育の対象として参加していく。帰ってきているわけです。そのことが我が国の教育についてプラスになるという意味での指摘を明確にしておく必要があるのではないかという気がするわけです。申し上げたい意味は、外国で違った文化のもとで学んだ体験を、日本に帰ってきて、日本の文化に塗りかえてしまうのではなくて、外国の文化の経験を日本の文化の中にうまく取り入れるという表現をどこかに出していただけないものかなと。そのことが、非常に多様で、先行きの見通しのない社会に生きるこれからの子どもたちにとって、将来、生きる力が強くなっていく要素になるのではないかと考えますので、その辺が何か指摘できないものかということが1点でございます。
  それから、先ほど申し上げようと思ってちょっと遠慮したんですけれども、やはり申し上げたほうがいいと思うのは、学力が低下しているというのは、私は実証的な発言ではないのではないかともともと考えておったわけですけれども、その考え方が裏づけられて、少し安心したんです。ただ、そういうことを言うと、反響が強いというのは、今の時代の変化を見ていると、ちょっときつい言い方になりますが、反教養主義というか、反知性主義というか、そういう一つの流れが明らかに強いうねりとなって出てきている。それがいろんな分野に出てきているものですから、そのことに対する危機意識みたいなものが何となくある。それがこういう意見に対して非常に強い反応が出てくる原因ではないかという気がしているわけです。反知性主義、反教養主義というのは、アメリカでも60年代にかなりあったわけですが、日本もこれからそういう流れが子どもたちの教育の分野で出てくると思うのですけれども、学習のモチベーションという言い方もされますが、教養とか、知性というものは非常に大事なものだという提言というか、考え方みたいなことを、学力についての調査をされると同時に、社会に訴えるというか。調査の結果、学力が維持されているというだけではなくて、もう少し踏み込んで社会に訴えたほうがいいのではないかという気がするものですから、そんなことがこういうときに言えるのかどうかよくわかりませんが、社会の一つの底流みたいなものに対する明確な意思表示という形でのちょうどいい機会ですから、そういうものをお考えになることも必要ではないかと思いまして、申し上げました。以上です。

○  高校入試にかかわる件でございますけれども、一つ懸念いたしますのは、新聞の1面に、「高校全入、事実上認める」という大きなタイトルで出ておりまして、関心を持って読んでまいりました。
  今の高校生、特に全日制の課程などを眺めてみましても、学力の問題でありますとか、意欲の問題でありますとか、大変微妙なバランスの中で高等学校も経営がなされていると思います。要するに入学時からほとんど意欲を示さないで、しかし現実には進学をしてくる生徒が何割かあります。その生徒たちについて、各学校では学力がないからといって不合格にしているところは、今、ほとんどないのではないか。むしろ本人たちの面接の中で、この学校には来る気はなかったけれども、親に勧められて来ましたと。そして、合格しましても、入学式の日から来ないとか、そういうものが現実にあります。私たちはそういう子どもたちは来ないでいいというのでは決してなくて、むしろ来たい、行ってみたい、学んでみたいという意欲が芽生えたときに、対応できる高等学校が存在することが大切ではないか。
  例えば、定時制の単位制高校は、大変な人気でございまして、年2回の入学試験もあるわけでありますが、本人たちが希望するその段階で受けにくるということで、生徒たちの受け入れ比から見ますと、単位制高校入学後は退学をしていく者も少ないという実態もございます。そういう意味での環境整備といいますか、教育条件の整備もしていく必要があるのではないかと、体験的にも思うわけであります。

○  到達度評価は入試で行おうとすると、それにどうしても矛盾が生じてくる。やはり高校段階で到達度評価することによって、初めていわば多様な教育課程に対応する評価が可能なのだということを議論してきたと理解しております。したがって、多様であるから、こういうことはできないのだという結論は、私個人としては承服しかねるものがございます。
  それから、到達度評価については「各学校が責任をもって行うべきである」というこの考え方は、当然のことだと思います。ただ、それを積極的にサポートする仕組みが必要なのではないか。従来、必要悪と言われてきましたが、入試であるとか、あるいは選抜メカニズムが教育課程の積み上げを裏から支えてきたという現実があったかと思います。それが次第に機能しなくなってくる。選抜ではなくて、もっと教育的な形でそれを支えるという必要を、我々は考えなくてはならないのだろうと思います。つまり、選抜あるいは入試という学習のための牽引力がなくなっても、学校教育の到達度評価を支えられるような仕組みが新たに必要になるということです。そのために、各段階ごとに客観的な評価基準をつくるという提案がされているのだと思いますが、一体、客観的な評価基準なるものを具体的にどう使おうとしているのか、あるいはどのようにしたら客観的な評価基準によって到達度を支えることが可能なのかということに関して、私はここからは具体的なイメージを広げることがどうもできないのです。これについて御説明をいただければと思います。

○  今の到達度評価については、積極的にサポートするという線でで進んでいたとは、受け取っておりません。二人の方から御意見が出ましたが、それ以上それをサポートするという御意見はなかったと私のメモにも残っております。ただ、「各学校段階ごとの到達度評価」でリジェクトしているのは、全国レベルの共通試験の実施ということであって、各学校が責任をもって行うということについては、大変結構だろうと思います。
 ただ、各学校が責任をもって行うといっても、全くシングルハンデッドでは難しかろうということで、国立研究所のようなところで評価基準みたいなものについて研究して頂いて、それを、おやりになるところが参考にされてはどうかというシナリオをつくったつもりであります。

○  今の客観的な評価基準をつくり、それを実際にどう使っていくかということについては、まだ私どももさほど具体的に検討はいたしておりません。これからの問題だろうと思います。

○  今の件ですけれども、確かに資格試験的な、例えば大学受験資格とか、高校卒業資格試験的な試験というのは、今の高等学校の状況を考えると、やはり可能性は非常に少ないし、現実的ではないだろうと考えます。先ほど他の委員の方がおっしゃっているのも、そうした大学受験資格とか、高校卒業の資格試験化のための共通試験ではなくて、あくまで自治体レベルの創意工夫を前提としながら高等学校の教育活動や卒業のレベルを適宜チェックしていくような仕組みを、各学校レベルの責任だけではなくて、地方自治体レベルでいろいろ工夫して作りだしていくことがあってしかるべきではないかということを述べていると受け取りました。そうした各地方自治体レベルの多様な試みの可能性が文案では見えてこない、伝わってこないというふうな趣旨を、先ほど他の委員の方はおっしゃられているのだと考えます。
  実際、昨年出された中央教育審議会では、到達度評価ではありませんけれども、地域住民に対する説明責任等々ということで、各学校の自己評価というものを従来の学校内部の管理的な資料にするだけではなくて、地域住民に対するアカウンタビリティーを担保する仕組みとして、学校の自己評価を活用する方策を学校と教育委員会がもっといろいろ工夫すべきだということが書かれています。それは当然、この到達度評価にかかわっても同じようなことだと思うので。
 つまり、各学校の責任をサポートするような地方自治体のそうした多様な工夫・努力というのは、もっとこの分野についても試みられていいのではないかというような趣旨を、もう少しこの文案の中に書き込んでほしいという思いがあります。

○  議論の段階では、全国レベルではやらないけれども、当然、自治体が工夫しておやりになることは結構なことだという議論もございました。

○  今の問題ですけれども、今回の答申の精神として、例えば大学教育でも、大学を出たということに対するアカウンタビリティーというのでしょうか、つまり出口管理というのがこれからの教育の重要なポイントだろうと思います。実は残念ながら日本はそれがあまりされていなかったというのは率直に認めたほうがいいのではないかという気がしているものですから、その意味で、高等学校段階でも学校差とか、何かそういうことで、具合が悪いという面が日本にはあるんですけれども、そういうのを乗り越えても何か適切な対応をすることをむしろ積極的に指摘していただくことが大事なような気がしているものですから、そういう意見だということで申し上げさせていただきました。

○  今の点に関して、たぶん中学校までは義務教育で、高等学校はそうではないということとも関連するのかなという気がしているわけです。しかも、多様な教育ということですから、共通試験というのは無理である。やるとすればミニマムとして、つまり高等学校の3年間で何を付加価値としてつけたのかというようなミニマム的な共通試験というのはあるかなという感じがするんです。それにしても、多様化するにしても、それぞれの特徴ある高等学校で ―これは大学も当然なんですけれども ―何をどのようにこの3年間でイノベーションさせたかというような、それは資格試験になるのかもわかりませんが、そのようなものがやはり必要なのではないか。それがまた大学とのマッチングのときに必要になるのではないかという、これは希望的観測ですけれども、そんなような書き方になればという感じはいたします。
  それから、ちょっと言わせていただきますと、「初等中等教育の役割」で、いろいろ御意見が出ておりましたが、どのような学問でも尊重することは必要ですが、まずこれは「国語により適切に表現する能力と的確に理解する能力」となっているんですが、私は、さっき論理的思考とか、いろんな考え方も出てきておりましたが、理解するほうが先なのかなと。「国語により理解し」、思考してもいいですし、表現し ―外国語のほうだけ出ているんですが ―コミュニケーションのできる能力というふうに。国語によるコミュニケーション能力も日本人は、どうもという感じがするんで。その後、さらに外国語によるコミュニケーション能力を育てるということではないかと思います。
  もう一つ、コンピュータの新しい読み書きのことが全然出ていないわけですが、これはこれでよろしいのか。前の中央教育審議会の答申のときにコンピュータによるものは出たので、割愛したということなのでしょうか。この辺はやはり必要なのだろうと思いまして、この辺をどうするのかなということです。
  それから、「勤労を尊ぶ精神」というのは、いかにも何というか、「勤労」というのは何からきているんでしょうね、儒教あたりからきているんでしょうか、もう少し平易に「仕事を誠実に行う精神」とか何とか、もうちょっと普通にわかるような言葉がありがたいかなという気がしております。その2点でございます。

○  いくつかあるんですけれども、その第1点目は、「全国レベルの共通試験の実施は適切でない」ということですが、高等学校が適切に生徒を教育したかどうかということを評価をする必要があるということとは別な問題でありまして、評価については、評価方法の研究もこれから進められるようですから、それはする必要があるだろうということだと思うのです。
  ただ、その評価が、私は全国レベル共通の試験でなされるとか、あるいはさらに地域あるいは県単位で ―様々な学校があって、様々な教育の仕方をすることに意味があるわけですから、そういうことによって評価をしてしまうことは、せっかく生かそうとしている各高等学校ごとの特色、あるいはそれでやっていこうというところをまた引き戻してしまうようなことになるのではないかという危惧がありまして、評価をするのは必要だけれども、それを共通試験によって行うことは若干懸念を持っております。
  二つ目は、適格者主義について、大学のところで、「教育についての質を保つことが求められるのであり、高校と同一、同列に論ずることはできず」ということでございますが、高等学校においても、インプリシットにある学力が要求されていることは変わらないと思うのです。同じことが大学に言えて、大学が大学として教育をするために必要な人材の入学時のレベルというのは、その大学がそこのところで判定をして、それがまさに広い意味でのというか、新しい意味でのというか、よくわかりませんが、適格者主義なのであって、高校と大学とそういう意味で違うのだという書き方が若干理解しにくいところがあると私は感じております。
  それとの関連で、高等学校のところの「受験機会の提供や条件整備」は非常に結構だと思うのです。これは論点整理なので、たぶんそこまでまだ書き込んでいらっしゃらないということだと思うのですけれども、どういうことが可能なのか。例えば、考えようによっては、すべての人をすべての高等学校に入れるためには、小学校でやっているように地域ごとに割り当ててしまうことだって一つの方法としてはあるわけですから、そういうことをお取りになることは考えていらっしゃらないと思うのですが、どういうやり方でやるかということについて、若干、今の時点でははっきりしないところがあります。条件整備、受験機会の提供は必要なことだと思いますが、これはたぶん後刻書き込まれるのかと思いますので、今の段階ではそこがよく見えないという感じがするということだけ申し上げておきます。
  それと、大学の欠員の話をどう考えるかということですが、追加募集も既にやっているわけですし、それから「入学後の伸長の可能性も視野に入れて入学者の判定を行う」ということも、おそらく今、大学としてはおやりでいらっしゃる。あるいはそれをそのように考えてやる大学もあるということだろうと思いますから、欠員が出てもいいですねということの念押しに書いていらっしゃるんだろうと思うのですけれども、欠員が生ずることは当然やむを得ないことでありまして、むしろ私としてはさらに一歩進めていただいて、定員というのをもう少しルースにする、あるいは定員をなくしてしまう。これは私学の補助金なんかとつながっていますので、制度的にはいろいろ難しいところがあるかと思いますが、もうあと一歩そういう方向に踏み切られてはいかがかなという感じがいたしております。
  過渡期で、いろんな大学が例えば受験科目を増やしたりすると、それはいい方向の変化ですが、短期的にはそのために受ける人が減るということは実際に起こり得ることですし、それから学校の教育の中身を変えて、数年たってその子どもたちが社会に出たときに非常にいいという評価が社会で定着をするというのも数年かかる話ですので、短期的にいいことをやっている大学において欠員が増えてしまうというのは十分に考えられることでありまして、欠員が生ずるというのは、ある場合には非常にいいことかもしれません。欠員が生じたから、ではそれを削りましょうという行動につながることは問題だろうという気がいたします。ですから、欠員は結構であると思いますし、さらにそういうことが問題にならないような枠組みをお考えになることが一歩先として、そこまで踏み込んでもいいのではないかという気がいたしております。

○  「到達度評価」ですけれども、高校段階の共通到達度試験についてのこの考え方は、「全国レベルの共通試験の実施は適切でない」という考え方については、私は当然だと思うのです。なぜなら、到達度評価あるいは評価というのは何に対する評価かというと、目標や内容に対して評価があるわけです。今、日本の学習指導要領の目標、内容を示しているのは、各教科あるいは高等学校の科目なんです。ですから、教科・科目について到達度を調べることは当然あり得るわけです。高等学校といえども、例えば物理についての到達度評価はあり得るわけです。しかし、高等学校の生徒がすべて物理を取っているわけではありませんから、そこには共通的な何かというのはあり得ないわけです。もしあり得るとするならば、これは小学校の必修教科、中学校の必修教科に関してはすべての生徒が共通の教科を履修していますから、そこには当然あり得るわけです。
  高等学校は必修教科があるではないかと言いますけれども、今回の改訂で、必修教科はすべて選択履修になっております。ですから、今回の改訂で、高等学校で共通の教科の到達度を調べようとしたら保健体育だけです。保健体育だけは選択履修になっておりませんから、それだけはすべての生徒に調べることができます。そういう面で、共通のという観点で言えば、高等学校というのはあまりふさわしくない。しかし、高等学校といえども、教科別の到達度評価は当然できるということは言えると考えております。

○  各学校教育段階ごとの教育目標についてですが、中学校については「主体的に進路を選択する能力」という記述がありますが、高等学校段階になると具体的に進路を決定する時期になるわけです。中学校段階と違って、自分の在り方、生き方についての自覚を踏まえ、自分の適性を知った上での進路の選択・決定を行える能力や態度、このような表現を高等学校段階にも付け加える必要があると思います。
  それから、高等学校段階の個性は何かということですが、「自立」という言葉はございませんが、おそらく学習内容をいろいろな形で自分で選んで学習をしてまいります。それから、進路に合わせて学習内容を選択していくわけですので、そういうものと関連した個性が考えられるのではなかろうか。そういうものもここに入ってもよろしいのではないかという感じがいたします。
  最後に、中学校教育段階の「最小限必要な資質・能力の育成を図る」というのは具体的にどういうことなのか、「最小限」という言葉が気になるわけです。この表現でいいのかなという感じを持ちました。

○  先ほど私の言葉が足らなかったかもしれないのですが、「到達度評価」についてでございますが、これは誤解をいただくと困りますので申し上げますけれども、先ほど他の委員の方から補足していただいたように、各学校での到達度評価をどういうふうに支援するか、そのためのシステムが必要だということを申し上げたので、自治体レベルを含め、そういう新しい仕組みを柔軟に考えていくのだということであれば結構でございます。

○  審議会の中で、大学ではどのような能力、資質を持った人たちを入れようとしているのか。また、高等学校はどのような力を持った生徒を卒業させようとしているのか、そういうところでズレがあるという話が出たわけです。例えば、今出てきているような到達度評価という場合に、何を評価するのか。評価することの中身について、中等教育と高等教育との共通な何かが出せないかなという印象であります。
  例えば、大学の教師の側からのアンケートを見ますと、論理的に考える力が足りない、あるいは意欲が非常に低いということが問題になっている。いわば点数化された知識の量ということではなくて、もっと能力の質的な面が求められている。一方、高等学校のほうでも、そういうことは当然、とりわけ総合学習ができたりしてきまして、学力観を変えるというのでしょうか、どういう力を育てていこうとするのかというその中身がこれから変えられていく。どっちもそういう意識を持っていながら、結果的にはそこが接続のところでうまくつながらないというところをどう考えたらいいのかということについて、具体的に私も言えないのですが、「学力の中身」と言うと極端過ぎますし、どう言えばいいんでしょうか。客観的な知識の量とか、スキルだけではなくて、能力を総合的にとらえていくような視点から接続の在り方を考えていくというようなことがどこかに入ったらいいなという感じがいたします。
  日本の子どもたちの学力について、中身として考えていくと、確かに客観的に数量化される部分では高いスコアが出るけれども、例えば総合する力とか、応用する力になると、ちょっと心もとなくなってくる。さらに、もっと教科に関して、そういうものが好きか嫌いかとか、あるいはそういうものをもっと勉強してみたいかというような、いわばレリバンスというんでしょうか、教科と自分との関連性ということを問い詰めていくと、どうも日本の子どもたちは教科学習に対する意欲を持たない、低いということが言われてきて、日本の子どもたちの学力の中に一つのゆがんだ構造があるのではないかということも言われたりもしているわけです。その辺の客観的なデータが十分に備わっているのか私もわかりませんが、そういうことが仮にあるとすれば、その辺をどのように考えていくのか。
  つまり、入試ということをめぐって、高等学校教育と大学教育とをつないでいくところでも、そういう課題にきちっとこたえるような筋書きの表現がどこかにあっていいのではないかという感じがいたします。それを具体的にどこにどう入れたらいいのかというところが、私はわかりませんが、ここでも議論されておりましたように、例えば共通試験であれば、各高等学校が個別的に努力していくのをサポートするようなある程度スタンダードな試験であれ、それが客観的な知識の量だけを問うような形でしか問題が出せないとすると、それはちょっと問題なのであって、そこに新しく求められているような現代の学力をうまく測定できるような問題をどうやって開発できるんだろうか。そういうことがあわせて考えられていかないといけないと思います。

○  2、3御意見を申し上げたいと思います。
  第1点目は、前回は「適格者主義」という言葉が、他の委員の方から、国民的には具体的に何を意味しているのか誤解を招きやすいということもありまして、今回は「適格者主義」という言葉は文章上からは姿を消していますけれども、いわんとしているところは今回の文章の中で生かされていると受けとめますので、そのことについては、前回、支持する意見を申し上げましたけれども、基本的にそういう考え方だということで、このまとめに賛成をしたいと思います。
  それから、いわゆる知的な、あるいは身体的な障害を持つ人について条件整備をして、できるだけ盲・聾・養護学校も含めて受け入れる、マイノリティーといいますか、いろいろな障害を持つ人に受験機会の提供や条件整備に努める必要があるという趣旨で、おそらく書かれたのではないかと受けとめます。そういうことで間違いがなければ、その分についても結構なことだと思います。
  それから、入学定員、欠員の場合だけを許容されると書いてあるんですけれども、いつか他の委員の方からありましたが、同じ点数で複数いて、定員の関係で、定員を1名オーバーするので2人とも落とされたというような御報告があったような記憶があります。大学も含めて、高校もですけれども、定員に若干弾力化を持たせて、ほぼ同水準の子どもであれば、定員を1名、2名オーバーしても受け入れることがあってもいいというのを書くのならばよいのですけれども、ごく当然のことで、あえて欠員が生ずることを許容されると考えてよいかというようなまとめはいかがかなものかと思います。
  それから、入学者選抜の在り方について、個々具体的には現在の大学入試センター試験をどうするかということについては、この文章を読むだけでは私の理解が不十分なのか、具体的に読み取れないんです。確かに意見がまとまっているというふうには受けとめていませんけれども、現在の大学入試センター試験についても改善すべき点があるという意見は、どちらかというと大学審議会も含めて、今の大学入試センター試験を資格試験的なものに変えたらどうかという意見が複数の委員から出ていたと私は記憶しています。

○事務局  まず大学入試センター試験の関係でございますが、御案内のとおり、大学審議会に入試専門委員会がございまして、そちらのほうで議論も進んでおりますので、大学審議会の議論の推移を見守りながら、よく連携を図りたいと思っております。

○  盲・聾・養護学校にかかわる部分ですが、都立高校の場合も、知的障害のある子どもが普通高校に入学していることがあります。義務教育の普通学級に障害のある子どもが入ってくるということはかなりあります。障害のある子どもが高等学校に入っていったときに、高等学校教育とは一体何ぞやという難しい問題が出てきているわけであります。一方、障害のある子どもが希望するならば、盲・聾・養護学校の高等部ではなくて、他の高等学校に入れるべきであるという考え方があります。しかし、高等学校はなかなかそれに対応できていません。ここが要するにオーケーなんだと言えない、そういったことがあってこのような表現になったのかなと思います。しかし、こうした実態は既に全国的にあります。盲・聾・養護学校関係者からすれば、あるいは特殊教育の関係者からすれば、言わずもがななのになというふうになってしまうので、非常に難しいなと思っています。具体的にどう考えた方がよいというわけではありませんが、こういう実態が既に高等学校にはあることを御承知おきいただいたほうがよろしいかなと思っております。

○  「初等中等教育の役割」というのと、「教育目標」という形で整理が始まったというふうに私も理解して、これは大変ありがたいことだと思います。
  そう考えますと、「初等中等教育の役割」として何か大切なものが落ちているのではないかという、こういう見方で私たちはこれを検討する必要があると思うのです。そういう観点から考えますと、一番落としてはならないものの一つが、体力と精神力をいかに養うかということ。これは初等中等教育の大切な役割だと思うのですが、それは「他人を思いやる心、自然や美しいものに感動する心、正義感、責任感、公徳心、ボランティア精神など豊かな人間性を育てること」というところあたりに、入っていると言えば一部入っているんだと思いますが、まだ十分ではないように思います。そんなわけで、それをどのように扱うか、考えていただければと思います。
  それから、同じような意味で、体力と精神力を養うということは、その結果として、心と体、心身の成熟を目標にするわけですが、心身の成熟というような目標をどう掲げるかというのも、今度は目標のほうで問題になるだろうと思います。
  次に、「初等中等教育の役割」で、「高等学校段階までの初等中等教育では、国民としての共通に身に付けるべき基礎基本」と書いてあるんですけれども、私は、初等中等教育で教えるべき基本を、もし整理するのであれば、まず第1に一人の人間として身に付けるべき基本、第2に家族の一員として身に付けるべき基本、3番目に社会の一員としての基本、4番目に国民としての基本、私の頭の中では四つ違うことです。今起こっている教育上のいろいろな問題、子どもたちの中で起こっている問題は、人間としての基本、家族としての基本、それから社会の一員としての基本、その辺についての我々の教育に何か足らないところがあって、その結果として起こっているようなことが大変多いように思うのです。それをどう書き込むかを考えなければいけないのではないかと思います。うっかりすると、それが昔の道徳教育の復活だというような批判を受けがちなんですけれども、実は昔の道徳教育の中にも大切なものがたくさんあったのに、その全否定をしてしまってはいけないのではないかと思います。
  次に、どうしてもこれは申し上げたいと思いますのは、やはり私たちは従来の思考方法で教育のやり方を考えていると言わざるを得ないような気がします。例えば、「論理的思考力」とか、「科学的思考力」と書いてあるところは、ヨーロッパの学校やアメリカの学校ではちょっと違うんですね。つまり、事象の理解の仕方というものを教える。例として取り上げれば、動物は何で24時間の何時であるかを大体体で理解するか、いろんな仮説を教えます。教えたその中身の例題を試験問題に出してテストするのが日本だと思うのです。それに対して、考え方のほうをいろいろと提案させるのがヨーロッパ、特にフランスではそうだと思うのです。そういう日本の従来の教育でどこかもう少し工夫すればレベルアップできるところがレベルアップできないできたところを、この際、「役割」ということを書く以上は、触れておいたほうがいいのではないかと思います。
  同様な意味で、決定的に抜けているものの一つが歴史だと思います。歴史についても、ただ「歴史」と書きますと、また歴史の暗記ということになってしまうわけですが、今ごろ歴史を暗記させている国はたぶん日本ぐらいしかなくて、歴史というのは推理だということを教えている国がほとんどだと思うのです。そういうところへ足を踏み込む何か手がかりになるキーワードだけでも置けば、今回の答申でどうこうできなくても、将来において日本の教育の方向を変えていくことができるのではないかと思います。
  もう一つ決定的に欠けているのは、現実を知るということだと思います。現実を知るということは、どこの国でも大切にしているんですけれども、日本の教育では大学の経済学部の学生に、経済学は教えていますが、今年のGDPがいくらであるかと聞いてみると、学生がいくらだかわからない。教えている教授も知らないというのが実態です。それをもっと細かい現実の問題、電車はどうして走っているのか、人はどうやって安全に道を歩けるのかとか、現実の話でいいと思うのですが、そういうことを子どもたちに教えるのをどう仕掛けていったらいいかということだと思います。
  国語のところも、自然言語と情報言語、自然言語の中の母国語と国際言語、それから情報言語、この三つを大切にするという観点に立って考えると、外国語と呼んでいるものは実は国際社会で必要とされる国際語として何を選ぶかという問題が出てくると思います。
  それから、さっきの勤労の話も、確かに儒教的な背景から考えると、勤労という言葉にある種のためらいを感じますけれども、実はクエーカー教徒をはじめとしてキリスト教徒が一番大事にしているのは勤労でして、世界的にはごく当たり前のことですが、戦後50年の日本の教育の中で、何か忌避症状が起きている言葉にすぎないのではないか。改めて使ってもいいのではないか。
  実はおととい、アメリカの高校で学生たちと集会を開きまして、ドレスコードについての学校集会を開きました。ごく一部の父兄が制服反対を言い出しているんです。それで学校集会を開きまして、学生と父兄と話し合いましたが、圧倒的多数でドレスコードの維持に賛成なんです。ところが、ごく一部の反対をしておられる方の制服反対論を聞いてみますと、あんまり大した根拠がないんです。それで結局、アメリカではごく当たり前のことですけれども、ドレスコードは維持する。決められた日には制服を着るということで、ふだんは自由な衣装でいいということにしました。やはり日本でもその辺まで突っ込んで教育の仕組みを考えるべきときがきているのではないかと思います。
  それから、いろんな方から御議論のありました評価の問題は、今申し上げたようなことを評価するのであれば、私は大賛成で、そうでなくて、また特定の、本当のことを言うと例示にすぎないことを覚えたかどうかを評価するのであれば、全く無意味であると思いますので、その辺まで含めた評価論をしたいと思います。
  それから、大学の定員の問題ですが、なぜ定員があるかということに立ち戻って考えてみますと、ある一定数の学生を教えるのには一定数の教員が必要であるということが、そもそもの定員設定の意味なんですね。これから学生の欠員が生じていくという事態のもとで、そのことを柔軟に考えるとすると、学校制度そのものが、これは大学だけではなくて、本当は小学校からですけれども、いろんな形で認められるような制度に向かう必要がありますが、すぐはできないと思います。長期的にそういう方向を模索すべきであるといったようなことを一言入れられるとよろしいのではないかと思います。御存じだと思いますが、アメリカでは4年制の小学校もありますし、5年制の小学校もありますし、中学の2年まで教える学校もありますし、中学の1年まで教える学校もあります。その先にはまた中学の2年から教えてくれる学校もありますし、3年から教育を始めてくれる学校もありますし、いろいろあるわけです。そういう制度にだんだんに日本は長期的には向かうんだろうと思いますので、そろそろその手がかりになる言葉を何かちりばめるときではないかと思います。
  最後に、就職の問題ですけれども、企業のほうが求める人材のクラスターといいますか、また企業が求める一人一人の人が持っているいろんな要素については、企業によってみんな違うわけですから、どうでもいい、自由にしたら一番いいというのが私の考え方なんです。ところが、最後のところで大学の卒業証書を企業がほしがる。それが問題ですね。

○  一つだけ。高等学校教育の現状を説明する言葉として、「多様な」というのが何ヵ所か使われているわけです。これは今さらという感じもするんですけれども、ひっかかるんですね。例えば、「生徒の多様な能力・適性・興味・関心に応じた多様な教育が求められるため、教育の一環である評価も多様にならざるをえず」という、要するに多様なことはよくないことだといった印象になるのかなという読み方をしてしまう。少なくとも興味・関心が多様になっていることは間違いないですね。能力・適性まであっさり多様、つまり劣っているやつもいるし、できるやつもいるしなんていうふうな意味の多様というふうにしちゃっていいのかなという感じがしているんです。これは次にまた出したいと思いますので、今日は、そんなふうに感じていますということでとめたいと思いますが、よろしくお願いいたします。

○  ありがとうございました。能力が多様だというのは、劣っている人がいるとか、そういうことではありません。今までどちらかというと、偏差値中心の能力ということをアプリシェートしてきたんだけれども、それではだめだということを言っております。

○  要するに、高等学校の生徒にはいろんな興味・関心を持ついろんなタイプの生徒がいて、それに一所懸命対応しようとして高等学校教育の中身もかなり手を広げている現状、それから今後さらに手を広げるだろうということの延長として、大学への接続が開かれていくというイメージでいたいんですね。だけど、こうやって出てきちゃうと、何かその辺がすごく冷たくて、というふうに私には見えるものですから。またこれは次回に続けたいと思います。

○  「入学者選抜の在り方」に関して受験教科・科目数を削減すべき方針はとらないことの理由づけの部分について一言申し上げます。第二次答申では、学力試験偏重とか、受験生の過重負担とか、選抜方法の多様化、評価尺度の多元化、こういう観点から個別試験の科目数を減らすことを提言したわけです。ですから、ここの理由の書き方が、第二次答申と合わせるとすれば、第二次答申以降、実際には選抜方法が多様化している実態があるとか、それから評価尺度が徐に多元化してきているということも含めて、理由づけを書かれたほうがいいのではないかという感じがいたします。平成9年からまだ2年しかたっておりませんので、理由づけはある程度詳しく書いておいたほうがいいのではなかろうかという感じがいたします。以上です。

○木村座長  ありがとうございました。大変いい御指摘をありがとうございました。
  ほかにございませんでしょうか。よろしゅうございますか。
  それでは、御意見もほぼ出尽くしたようでございますので、本日の議論は以上とさせていただきます。本日はありがとうございました。

(大臣官房政策課)

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